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2017.01.26
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カテゴリ: 探訪 [再録]

                               [探訪時期:2015年7月]
観光案内PRの小冊子に簡単な宇治の観光マップが載っていました。何気なく見ていると、槇島城跡の位置が記載されていました。一度その跡地に行ってみたいと思っていたのでこれを機会に出かけてきました。地図の位置をちょっと勘違いして、試行錯誤のロスタイムがありましたが、7月中旬の午後のひとときの自転車探訪です。まとめとして整理し、ご紹介します。

冒頭左の写真は宇治川左岸(西側)の堤防上の道路を宇治橋の方向に進んで行き、 槙島町の南端に近いT字路です。このT字路から対岸に京阪電車・宇治駅の建物が見えます。 槙島城跡がこんなに宇治に近いというイメージがなかったことから、簡便な地図を見誤ったがロスタイムの原因でした。

堤防上の道路から西に向かう道路沿いに進みます。道路から見えるビル側面に「ユニチカ中央研究所」と表示が出ています。

道沿いに西に進むと、しばらくして 道路の南側に「任天堂宇治工場」の表示板、北側には「看板屋」というPR看板 が見えます。 この「看板屋」の東側の通路を北に少し入って行ったところ
「此の附近 槇島城跡」の石標と駒札


駒札の説明文

元亀4年の頃つまり16世紀の莵道・槇島辺りの地形図

遺跡「槇島城跡」と槇島城跡復元案
破線の中の黒丸が、史跡石標と駒札が建てられているところです。

室町時代から安土桃山時代には、 足利将軍家の家臣真木島氏 が、回りを川に囲まれたこの辺りに 槇島城 を築き本拠地としていたそうです。 歴史にその名を刻んだのは、足利将軍義昭と織田信長との間の「槇島合戦」です。

太田牛一が書き残した『信長公記』巻六には、この合戦について次のように記されています。元亀4年(1573)です。
「七月五日、公方様、又、御敵の御色を立てられ、御構へには、日野殿・藤宰相殿・伊勢守殿・三淵大和守を置かれ、真木島に至って御座を移され候の由、注進これあり。則、・・・」という書き出しで、「公方様、真木島に至りて御退座の事」という見出しで記録されています。その後が「真木島にて御降参、公方様御牢人の事」となります。

元亀3年に足利義昭は謀反を計画していたことが明白になり、信長が義昭に17条の意見書を突きつけるということが起こっています。この時の義昭の謀反は元亀4年の4月6日、信長との和議で一旦納まったのです。しかし、7月5日に、足利義昭は信長に再び敵対する行動に出たのです。二条城(御構)には、上記の人々を留めおいて、義昭自身はこの槇島城に移ります。信長は義昭の再度の謀反をたぶん想定していたのではと思いますね。


7月 6日 信長、大船で安土城から坂本に移動し、坂本泊
7月 7日 信長、京に入り、二条の妙覚寺に対陣。二条城を囲む。城内の公家は降参。
7月16日 信長、五ヶ庄の上、柳谷に対陣。二手に分けて槇島攻略を命令。
     川上の平等院の北東からと川下の五ヶ庄前で、西向きに宇治川を渡河
7月18日 午前10時ごろ、先手を争って、中島へ、西へ。真木島をめざす。

     真木島の外壁を破壊し、火攻め。
     将軍義昭に切腹を強いると天命のほどが恐ろしいと、義昭の命は助ける事に。
     義昭を河内の国若江の城まで羽柴秀吉に警護させ送り届けさせる。
7月21日 信長は京に戻り、兵を収める。
信長は、義昭の「怨 (あだ) を恩によって報いる」と言い、後世の人々の判断に委ねるとしたと記されています。  (資料1)

かくして、元亀4年(1573)7月、将軍義昭の追放により、室町幕府は滅亡したのです。
槇島の地が、時代を画する土地となったのです。

遺跡の実線・東側の直線沿いに北に回り込み、槇島公園と記されたところの黒丸に向かいます。

住宅地の中の小さな児童公園から比べるとこちらは数倍の広さがあり、花壇外の施設も整備された公園です。これは公園の入口から北を眺めたところ。





公園の南東隅に「槇島城記念碑」が建てられています。 この写真に見える、田んぼを隔てて建物が建ち並ぶあたりから南側に、槇島城が位置したようです。





こちらも石碑の傍に説明碑があります。上掲の説明文とは若干異なりますので、併せてご一読いただきたいと思います。




槇島城自体のことを少し調べてみますと、築城は承久3年(1221)で、平城です。築城主は長瀬左衛門だそうです。 真木島氏の本拠地となったお城 です。義昭の退去直後は、真木島に細川昭元が残り守備を命じられたことが、『信長公記』に記されています。その後に、塙直政、井戸良弘らが城将となりました。秀吉が伏見城を築城したことにより、槇島城の存在価値がなくなり、文禄3年(1594)頃に廃城となったのです。 (資料2,3)

メインの道路まで同じ道を戻ります。

槇島城跡・実線区域の北東角あたりに、この小祠が建てられています。
阿弥陀仏様の石仏彫刻をした板碑状のものが安置され、供花されています。
よくあるお地蔵様ではないのを興味深く思いました。

この小祠の近く、東方向にお寺が見えます。

門前に立ち寄ってみました。 「誓澄寺」 です。



門前から境内を眺めると、 本堂前に説明板 が建てられています。
(こういう説明板は門前傍に建てられている方がありがたいのですが・・・・と思います。自由に境内に入れるように開扉されていれば別ですが。)

誓澄寺は、正安2年(1300)僧疎石の開創になるという由緒があり、天文11年(1542)に僧徳山が再興したというお寺のようです。誓澄寺の末寺(廃寺)の遺仏が伝えられているとか。木造の観音菩薩立像と阿弥陀如来立像で平安時代の作と説明があり、宇治市指定文化財になっているそうです。
門前の柱には、「子授地蔵尊 毘沙門天」の木札 が掛けられています。
境内は生垣を設えて整備されています。寺歴の由緒からみると本堂は近年に建て替えられたものと見受けました。

天文11年(1542)に再興されこの地にこの寺があったとすると、槇島城外すぐ傍に位置したことになります。元亀4年(1573)の合戦の際にはもろに被災したのではないでしょうか。想像を広げてみたくなります。

任天堂宇治工場の前の道路を西に向かいますと、槇島の交差点に出ます。
そのまま道沿いに北西方向に進み、槇島町石橋にある宇治徳洲会病院の傍から、府道69号線に出ます。この道路を北進し京滋バイパスを超えると国道24号線となります。
府道に出る手前の北側が広場になっていて、そこに記念碑が建立されています。
 それがこの 「巨椋池干拓の碑」 です



                傍には、 「巨椋用水碑」 も建立されています。
槇島合戦が行われた時代には、 このあたりは広々とした湖状の広がりを感じさせる巨椋地だった のです。
そして、豊臣秀吉が文禄年間(1592-95)に伏見城を築城するにあたり、宇治川を付け替えるという大土木工事をします。「宇治橋より豊後橋まで凡そ五十町の堤なり。名を槇堤といふ」 (資料2) という築堤をするのです。これが 「槇島堤」 といわれるものです。 また、豊後橋(現在の観月橋)から小倉を結ぶ「太閤堤」が築かれてます。これが巨椋(小倉)堤とも呼ばれるものです。「大和街道」が伏見に直結されることになります。「新大和街道」の創設です。 その結果、巨椋池の東側が一部分断される形になります。
さらに、巨椋池の北西岸は、伏見-淀間に淀堤が築堤されて、宇治川の水路が確保されることに なります。 (資料4,5)

この巨椋池が干拓されるのは昭和の時代に入ってからです。
干拓が始まる以前の巨椋池の大きさは、「およそ東西4km、南北3km。周囲16km。面積は約800haと、甲子園球場の約200倍もの広さがありました。」 (資料6)

「池の干拓が昭和8年(1933)国営干拓事業として着工、昭和18年に完成した。この事業は全額国費により行われ・昭和恐慌対策として食糧自給および農村経済更正を図ったものである。池面積約800町歩(約800ha)を干陸して630町歩の農地を造成し、沿岸一帯の既耕地の用排水を改良する計画であり、排水は上中下3段に分け大型排水ポンプ場が設置された。」といいます (資料7)
この説明文を引用したページには、「 ハスの名所として知られた巨椋池 (昭和5年ごろ)」の写真が載っています。かつての巨椋池の雰囲気を感じることができる写真です。

地図(Mapion)はこちらをご覧ください。

スポット探訪のご紹介を終わります。
ご一読ありがとうございます。

参照資料
1) 『新訂 信長公記』 太田牛一 桑田忠親校注 新人物往来社 p142-145
2) 『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫  p128
3) 槇島城   :「攻城団」
4) 『新版 京・伏見 歴史の旅』 山本眞嗣著  山川出版社  p95,96
5) 『京の古道を歩く』 増田 潔著  光村推古書院 p196-199
6) 巨椋池(おぐらいけ) 国内初の国営干拓事業  :「地域の礎」
7) 太閤の夢の農地、巨椋池干拓地   :「水土の礎」

補遺
槇島城の戦い   :ウィキペディア
巨椋池   :ウィキペディア
巨椋池干拓田での取り組み  山城広域振興局  :「京都府」
巨椋池の歴史   :YouTube
淀川と分離された巨椋池   :「OGURAIKE 国営巨椋池農地防災事業」

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!



その点、ご寛恕ください。)


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Last updated  2017.01.26 20:51:53
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