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2017.05.17
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カテゴリ: 探訪 [再録]

                                                                                            [探訪時期:2014年5月]
山本家(町家)を拝見した後、旧中山道を北に進みます。ほどなく、 樹下神社境内への案内板 が左側にあります。神社への参道入口の南側に建てられてます。
その傍に石標が2基ありますが、後でご紹介します。

参道右側には樹下神社の石標が建てられていて、参道の両側にはまだ真新しい石灯籠が林立しています。地元の人々の神社への信仰が篤いのでしょう。
石造鳥居をくぐった南側に大きな常夜灯が建てられています。

石積み檀を含めると高さ4mの大きな石造常夜灯です。
笠の部分は唐破風造の屋根を象った屋形形式の石灯籠。四角柱の竿部分には、東面に「太神宮」、南面には「瑜伽大権現」、北面には「金比羅大権現」の太い文字が刻まれています。
参道入口に立つまだ新しい常夜灯の説明文付き石標


竿の西面には「願主 天保二年辛卯九月 伊勢屋佐七」と刻まれています。天保2年は西暦1831年です。

この常夜灯の傍に、説明碑が新しく建てられています。
この常夜灯は平成11年(1999)に市文化財に指定されたそうです。 (資料1)

説明碑によりますと、この常夜灯はもともとは、 樹下神社の北側に西流する吉川の左岸にあった のです。吉川を利用する船便や、吉川に架かる土橋を渡り中山道を往来する人々の安全を祈願して建立されたものです。 河川の氾濫などで常夜灯が崩壊した後に、神社境内に移設されたのです。

願主佐七は、ここ守山宿を拠点にしていた旅商人だったと推定され、今宿町超勝寺の檀家だったことが記録に残っているそうです。
基壇には、南側面に守山宿内で常夜灯の建立に協力した人々の名前が刻されています。また佐七の商人仲間が分散していた地域の旧国名が西側面に刻されています。

武州(東京)、三州(愛知)、濃州(岐阜)など9つの地名が列挙され、「惣身内中」と刻されています。人名の方は堅田屋喜一郎をはじめ14人に及ぶようです。

      一つ下の台石には、明治期に補修を施したことも記録してあります。


樹下神社の社殿 



現在の祭神は稲田姫命。1987年の修理に際に木簡が発見されたそうで、そこには延久3年(1071)創建と記されていたとか。 (資料1)
「十禅師宮」 と称されていたそうです。栗東市にある 大宝神社(祭神:素戔嗚尊、稲田姫命)から分祀された小祠 だとか。明治初期の廃仏毀釈の影響で、仏教色のある名称を「樹下」と改め、 明治15年(1872)に現在地に整備された のです。

社殿に向かって右側斜め奥に祀られている境内社


社殿に向かって左側斜め前に 「安産の石」 があります。平石が安置され、その由来書の駒札がたてられています。
その要点は、
*菅原道真が左遷された時、その息女も連座で配流の途中、守山宿に至った。
*通称どばし河の叢の平石あたりで息女は産気を催す。村人の看護の効なく入滅した。
*息女は死に臨み女人の安産を平石に祈祷した。村人はその地に女天神塚を設けた。
*現今宿町一番地守山小学校運動場に一隅に所在したものをこの境内に安置した。
ということです。
日本の信仰の中には、禍の事実を逆に福の源に転じるという発想が濃厚なようです。怨霊を祀ることから御霊信仰への展開に進展しているのと同じですね。
112
こんな掲示がしてあります。


社殿に向かって左側斜め奥に小祠が並び、朱の鳥居も見えます。
時間が無くて個々の小社を識別している時間がありませんでした。
天満宮、天照皇太神宮、石清水八幡宮、権大夫大神、愛宕大神の五神が祀られているそうです。
拝殿   

境内の一隅に、少し大きめの石仏の周りに整然と石仏が並べられています。
中央の石仏も地蔵尊のようだと思いました。

別の一隅には、この 「停車場道」道標 が移設されて保存されています。
傍の板壁に説明掲示が丁寧にされています。JR守山駅が明治45年(1912)に営業開始した時に、その完成記念として、中山道から駅への入口(現 今宿町交差点信号)の右側に建てられていたそうです。

一つの神社を軸にいくつもの歴史の断章が織りなされています。中山道を軸にと言うべきかもしれません・・・・。

「土橋」 (どばし)

今はこれら画像に見るとおり、川幅4mほどのところに架かるコンクリート製の橋になっています。
川は 吉川 という名称です。 かつては境川であり、本宿守山と加宿今宿を結ぶ橋 、そして 昭和16年(1941)までは栗太郡と野洲郡の境界となる川でした (資料1,2)

樹下神社の参道入口に建つ左の石標にある説明と、土橋の傍に建てられた駒札が、かつての吉川(境川)と土橋の姿を語っています。

古代においてはこの吉川は、野洲川本流の旧河道であり、扇状地烏丸半島をつくったほどの大きな川だったそうです。
『日本書紀』巻28・天武天皇には、元年(672)秋7月13日の条に、男依( おより :村国連男依)らは安河の辺の戦いで大勝した、という記述があります (資料3) 。この戦いの推定地がこの土橋のあるあたりのようです。

江戸時代は幕府公儀の御普請橋の一つで、瀨田唐橋の改修時の古材でこの橋が築かれていたそうです。当時は長さ20間(約36m)、幅2間(約3.6m)という大きな板橋であり、その上に土を盛っていたといいます。それが土橋という名の由来だとか。
この橋の袂に、上掲の常夜灯が建てられていたのです。
広重が「木曾街道六十九次」守山宿として描いたのはこの土橋からの眺めだと言われているようです。 (資料2)

当時、大川だった吉川に架かる土橋は、江戸幕府にとって、戦略的に重要な橋の一つだったのでしょう。公儀御普請橋とする理由があったのです。

橋を渡り、今宿から本宿守山に入ります。

最後に、 広重の描いた守山宿の眺め をウィキペディアから引用させていただきます。 (資料4)


つづく

参照資料
1) 「中山道 守山宿の歴史とガイド」 川端美臣著 
2) 『足のむくまま 近江再発見』 國松巖太郎・北脇八千代共著 新評論  p145
3) 『全現代語訳 日本書紀 下』 宇治谷 孟著  講談社学術文庫 p255
4) 守山宿   :ウィキペディア

【 付記 】 
「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。
ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。
再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。
少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。

補遺
十禅師   :「Kotobank.com」
山王権現  :ウィキペディア
大宝神社  ホームページ
大宝神社    :「滋賀県観光情報」

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!


その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


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Last updated  2017.05.19 14:05:11
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