遊心六中記

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茲愉有人

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2019.03.20
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カテゴリ: 探訪
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二尊院を出て、常寂光寺に向かう途次、最初に目に止まったのがこの 「長神の杜」 と刻された碑です。
この辺りが歴史的風土特別保存地区であり、その地にふさわしい 自然景観の保護と人々が親しめる散策路や植栽の園地 が設けられていると記されています。この辺りが旧字長神であるところからこう名づけられたそうです。現在の地名では嵯峨二尊院門前長神町です。

この辺りの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。

常寂光寺は二尊院の南に位置します。

「小倉山常寂光寺」と刻した石標 の傍に、詳しい 境内案内図
日本語版と英語版が並んでいます。

「常寂光寺」の表門 です。この山門前の左側には、「勅願所」の石標が立ち、右側にはオブジェ風の生花が置かれています。


参道を西に歩むと、この歌碑があります。
    小倉山みね乃の紅葉 (もみじば) こころあらば今ひとたびの御幸またなん
この歌は、「百人一首」に撰ばれた一首、 貞信公(藤原忠平)の詠んだ歌 です。

歌の左に、 「定家山荘跡」 と刻されています。
藤原定家は鎌倉幕府の武将である宇都宮頼綱から別荘のふすまに貼る色紙書きを依頼されました。一人一首の代表的な歌を撰び、色紙に書くという仕事です。これを藤原定家は小倉山山麓にあった山荘で行ったそうです。これが『百人一首』の原形となったと推測されています。宇都宮頼綱は、定家の息子のお嫁さんの父にあたる人です。 (資料1)


「あるひは時雨亭と号 (なづ) くる旧跡。ところどころにあり。かの卿の詠歌 (よみうた) により、または少しき因みになづみて後人これを作ると見えたり。
 『後拾遺』
   偽りのなき世なりせば神無月誰がまことより時雨れ初めけん  定家 」 (資料2)




その先に 「仁王門」 があり、ここから参道は石段になります。
この仁王門は本圀寺客殿の南門を移したものと伝えられ、貞和年間(1345~1349)に建立されたものを元和2年(1616)に移築したものだそうです。 (資料3,4,5)
萱葺屋根です。仁王門としては珍しいと思います。常寂光寺のシンボルでもあります。


仁王像は、 福井県小浜の日蓮宗寺院・長源寺から移されたもので、寺伝では伝運慶作だそうですが、不詳です。 (資料6)
門の両側には、草鞋が吊されています。旅の無事を祈願する類いでしょうか。


仁王門を通り抜けると、右側に北方向への石段の坂道 (末吉坂) が延びています。
庫裡あるいは休憩所に向かう道です。

真っ直ぐ正面の石段を上がります。

       本堂 。伏見城客殿の材を利用して建立されたと言われています。 (資料3)

     正面に掲げられた扁額には「御祈禱處」と記されているようです。
本尊は法華題目で、釈迦如来像と宝生如来像が安置されています。 (資料4)


(にっしん) 上人が本圀寺を出てここ小倉山山麓に隠栖しました
そこには一つの背景があります。
文禄4年(1595)、豊臣秀吉が東山に建立した方広寺大仏殿の千僧供養への出仕・不出仕をめぐり、京都の本山が二派に分裂したそうです。そのとき、日禛上人は不受布施の宗制を守り、千僧供養に出仕に応じなかったのです。その後本圀寺を出て隠栖したという次第です。
日禛上人は角倉了以の従兄である角倉栄可から寺の敷地の寄進を受け、寛永年間(1624~1644)に寺に改めて、角倉栄可・角倉了以・小早川秀秋・小出秀政ら上人に帰依する人々の助力で寺観を整えたそうです。「この地が清浄閑寂たあること常寂光土の如しということから」 (資料3) 常寂光寺と号したと伝えるとか。  (資料2,5)


本堂近くで目にした句碑
  落葉ふんで道新しくひらけたり   義生
少し調べてみますと、義生は俳名で、本名は高桑義孝(1894~1981)。大正・昭和期の小説家で、一方、日活京都撮影所脚本部長となり、昭和の名優長谷川一夫の「鳴門秘帖」や「無法松の一生」などを手がけたとか。京都旧蹟研究の権威にもなり、また俳句会「嵯峨野」を主宰した俳人でした。小説のほか「嵯峨の土」という句集や「新・京都歳時記」などの著作もあるそうです。 (資料7)

本堂を左に回り込むと、 「妙見宮」 が祀られています。

               傍に 「妙見菩薩縁起」 が掲げてあります。
妙見菩薩は北極星または北斗を象徴した菩薩です。妙見尊星王、北辰妙見菩薩などとも称されるとか。京都にある日蓮宗のお寺では境内に祀られているのを見かけます。中世には地方の豪族たちは守護神として帰依し、近世には藩主をはじめ、豪商や大衆の信仰へと広がったそうです。
この寺の妙見菩薩は、慶長年間(1596~1615)の保津川洪水の際、上流から流れてきたのを一船頭が見つけ、角倉町の集会所に祀られていたそうです。それを享和年間(1801~1804)に当地に遷座されたと言います。 (縁起より)

ここは御所の西方向に当り、 「西の妙見菩薩」 として知られてきたそうです。
縁起中には、 御所の紫宸殿より十二支の方角に妙見菩薩が祀られていて 洛陽十二支妙見 が江戸時代中期より信仰されれいたことも記されています。「洛陽十二支妙見」という表現をこの縁起を読み、初めて知りました。
  本堂の南面の庭に立つ 層塔 

南側の庭の南西隅にこの三重石塔が置かれています。塔身の南面には扉の形がレリーフされています。

そして塔身東面には扉が開いていて蓮華座に二尊が並び坐す姿が浮彫にされています。
『妙法蓮華経』の見宝塔品第十一・「塔の出現」に、大宝塔の中から多宝仏(プラブータ=ラトナ如来)が釈迦牟尼仏(シャーキャムニ如来)にこちらにきて坐りなさいと言い、その獅子座の半分を譲るという場面が描かれています。そして、釈迦如来と多宝如来の二人の如来が大宝塔の真中にある獅子座に並んで坐って、空中に浮かんでいるのが見られたと記されています。これは、まさにその場面を表現しているのでしょう。 (資料8)

竹林を眺めつつ、小倉山斜面の石段を登りますと、

「多宝塔」(重文) が見えます。方三間、重層、宝形造りで屋根は檜皮葺き。

江戸時代初期、元和20年(1620)に京都町衆の寄進により建立された上円下方形の塔です。


塔内には、 釈迦如来・多宝如来 の二仏が安置されていて、 「並尊閣」 と称されています。







総高約12m余、下を見ると白く膨らんだ漆喰が見えます。亀腹の上に立ち、下層四方に擬宝珠高欄を設けた縁が廻っています。中央は桟唐戸で、左右に連子窓が設けられ、蟇股の上、軒桁下には蛇腹形の支輪が見られます。斗栱と円柱などは唐様でそこに和様を組み合わせているそうです。内部は非公開。
均斉のとれた美しい姿は、滋賀県大津市にある石山寺の多宝塔と比肩されるものです。 (資料5)


多宝塔の北側に、 「開山堂」 が2004年に建立されています。それ以前は、手許の本の境内図と対比するとここに日禛上人墓があったようです。

今回の探訪では対象外でしたが、「 謌僊祠 (かせんし) (歌仙祠) があるそうです。
この地が藤原定家小倉山荘址という伝承に因んで、定家・家隆の二歌人を祀った祠堂が仁王門の北にあったと言います。それを寺の建立にあたって、山上のこちらに移したと伝えられています。 (資料3)
その祠堂が1994年に改築されて現在に至ります。富岡鉄斎による扁額が掲げられています。定家650年祭の折に富岡鉄斎が「謌僊祠」と命名したとか。 (資料6,9)
その傍に、上記の 「時雨亭跡」 碑が設けられています。そこには、「昭和初期に台風で倒壊するまで建物が存在していた」 (資料5) と言います。その建物の由緒は不詳ですが・・・・。
 開山堂の手前に 「宝塔」 があります。

塔身のこの部分には開いた扉が陽刻されているようですが、判然とはしません。

開山堂の近くに、笠塔婆の一種になるのでしょうか、 「南無高祖大菩薩」と陰刻された石塔 が建立されています。日蓮上人を意味するのでしょう。背後には「高祖日蓮大菩薩第七三七遠忌報恩謝徳」と記されている塔婆が立ててありますので。


同様に、開山堂の近くに、 角倉栄可の供養塔 が建立されています。供養塔自体は撮り忘れましたが、昭和54年10月朔日の日付が入り、 文学博士林屋辰三郎氏の撰文による顕彰碑 が立っています。
「古来歌枕の名所として知られた小倉山のこの地は、今を去る384年前、文禄4年10月朔日に、嵯峨土倉角倉家の当主、吉田栄可が、京都本圀寺日禛上人の需めに応じてその領地を寄進して、常寂光寺の創建に助縁したゆかりの所である」という文から、縷々角倉家と栄可の貢献が、造塔の由来として記されています。


本堂の背後(西側)から庫裡の傍まで、池が造られています。


 石段を下るときに気づいた 三重石塔

最後に余談ですが、この寺が「 軒端寺 (のきばでら) 」とも呼ばれることをご紹介しておきましょう。
  忍ばれんものとはなしに小倉山軒端の松に馴れて久しき
藤原定家が詠んだこの歌に由来するそうです。

常寂光寺の山門を出て、東に進みます。

          「落柿舎」 を北方向に遠望できます。
芭蕉の門弟で、十哲の一人、 向井去来 が隠居所とした閑居を明和7年(1770)になって、ここに再興したものだとか。茅葺、平屋建の小さな建物ですが、風情を感じます。
「落柿舎ははじめ嵐山渡月橋畔、臨川寺の西辺にあったとつたえ」 (資料5) られています。
松尾芭蕉 は元禄4年(1691)4月18日に落柿舎に去来を訪ねています。5月5日まで滞在し、 『嵯峨日記』 という随想を残しています。 (資料4)

通り過ぎるとき、右側(南)に 「MUSEUM 李朝」 という表示のある建物があります。
かなり昔、この辺りを散策したときにはありませんでした。


ちょっと驚いたのはその玄関の東側にこのブロンズ像があったことです。

                              傍に置かれた碑文など。
少し先で右折して南進しますと、公園があります。

京都市嵯峨市営住宅の区域とは道路を挟み西側にある 「嵯峨公園」 です。
何の変哲もない公園になっていますが、この辺りは、かつて広大な寺域を持ち、平安時代後期に廃絶となった 「檀林寺跡」 の一部でした。
今回の探訪の最後の行程での探訪というか立ち寄り地点です。

平安京への遷都後は、桓武、平城、嵯峨と皇位が継承されました。平安時代初期の嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子は、この地に唐の国で当時先端の宗派となっていた禅宗を日本に導入しようとしたそうです。唐の禅僧義空を招聘し開山として尼寺・檀林寺を建立したのです。ここから、橘嘉智子は檀林皇后と称されるようになります。 (資料3)
「檀林」という言葉は、「栴檀林」の略で、「僧侶が集まって学問をする場所。また、寺院」 (『日本語大辞典』講談社) という意味だそうです。先端の禅宗を学ぶ尼寺をスタートさせたのですが、当時の日本では禅宗は普及しなかったようです。義空は数年後に唐に帰国したとのことです。檀林皇后の没後、檀林寺は衰微していきます。

嵯峨公園の先に、野々宮神社があります。野々宮神社に至る前に、道の分岐点に「亀山公園道」の道標が立っています。この道標を実は当日の集合時刻前に早めに来ていてこのあたりを散策していたのです。しかし、その時、気づかなかったのが、道標の下に記された箇所です。 「此附近 檀林寺の旧地」 と刻されています!
かつての檀林寺は、野々宮神社から天龍寺のあたり一帯までの広さを有したといいます。

さて、探訪行程の最後は野々宮神社でした。
つづく

参照資料
1) 『こんなに面白かった「百人一首」』 吉海直人著 PHP文庫
2) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注  角川文庫
3)  龍谷大学REC「京都の古社寺を巡る 35 ~化野の寺社~」 2019.3.7
 (講座レジュメ資料 龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)
4) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂
5) 「常寂光寺」 拝観の時にいただいたリーフレット
6)​ 常寂光寺 ​  :ウィキペディア
7)​ 高桑義生 ​  :「コトバンク」
8) 『法華経 中』 坂本幸男・岩本裕訳注 岩波文庫 p188-189
9)​ 常寂光寺 謌僊祠(歌仙祠) ​ :「いこまいけ高岡」

補遺
常寂光寺 ホームページ
嵯峨野 落柿舎と長神の杜 ​ :「京都を歩くアルバム」
常寂光寺(京都市右京区) ​ :「京都風光」
洛陽十二支とは ​  :「洛陽十二支妙見めぐり」
角倉了以 ​  :「コトバンク」
<了以伝> 商売への関心と従兄・栄可の存在 ​ :「保津川下りの船頭さん」
檀林寺跡(京都市右京区) ​ :「京都風光」
落柿舎 ホームページ
嵯峨日記 トップページ ​ :「芭蕉文集」
特定非営利活動法人MUSEUM李朝

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

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Last updated  2019.03.28 10:09:00コメント(0) | コメントを書く


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