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昨日とは打って変って、当地博多は本日台風一過の日本晴れです。しかも秋風さわやかな最高の気候です。皆さんの所はいかがでしたか?中には大変な被害に遭われた方もいらっしゃるのでしょうね。でも台風が来るたびに思うのですが、これほど科学が進歩したにも関わらず台風一つ、いや天候一つ人類はまだコントロールできないでいる。ってね。自然界からして見れば科学の進歩なんて屁のようなものかも知れませんね。たまには地球を離れて遥か彼方から地球を球として眺めて見るのも悪くないですよ。私は時々遥か上空まで行って地球を眺めるのが好きですね~。何に乗って行くんだって?いやいや、もちろんイメージで出かけるんですよ!さあ、今日も行って見よう!「一つの技を学んだら徹底的に掘り下げて学び取れ!」 技の意味や型の意味が呑み込めないうちに、あらゆる技や型が覚えきれるものではない。たとえ覚えたとしても味わい切れるものではない。もし一つの技に熟練すれば、他の技にも自ら相通ずる。ということを悟るのである。 これは人生にも言えることで、表面ばかりをどれ程かじったところで中心には到達せず、ものの心理も見えはしない。それよりも一つの道を極めた者は、他のことにも相通ずる真理(中心)が見えるのである。http:www.asukajuku.jp/
2004/09/30
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先程、台風が通り過ぎました。当地九州博多をかすめて行った台風が今年はナント!3つもあったんです。今までは何年かに一度、いや、十何年かに一つの確率でしか通らないのにね~!古い家に住んでる私は朝起きたら屋根がないんじゃないかと本気で心配しましたよ。こんな時はつくづく思いますね。マンションがいいな~ってね。それじゃ今日も行って見ようか!チョッと古くって難しい話を・・・・!「理屈を抜きにして黙々と心身ともに修行に打ち込め!」 何事でもそうだが、真剣さの足りない者に限って理屈をこねる。稽古は口先でするのではない。自ら苦しんで練りに練り、鍛えに鍛える。それが本当の稽古というものである。教えてもらったことはすぐに忘れてしまうが、自分の身体で苦しみ会得したものは一生忘れることはない。
2004/09/29
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「徒手空拳我が極致を込めて、我が身を捨てて相い応ずべし」 拳を愛し自分を愛し、そして家族を愛し、仲間や近隣を愛することが、やがて人間を愛し、万物を愛する事になるのである。正拳は常にそういう正しい愛情によってのみ、培われ育まれ成長しなければならない。そして武道空手の修行は真剣でなければならない。真剣という意味はマジメにという位のものではない。立つにも座るにも手を挙げるにも、また足を運ぶにしても常に「相手があるということを念頭に置け!」という意味である。 時間をいくらかけても、年月をいくらかけても、ただ手足を動かして、飛んだり跳ねたりしてみても踊りの稽古と何ら変わることはない。 そして何年やっても、武道空手の真髄を会得することはないであろう。この真剣に成り切る修行は、ただ武道を修める者だけに必要なことではない。この心構えは、世の中のあらゆることに対しても多いに役立つはずである。 言うまでもなく人生というものは全てが真剣勝負のはずだ。少なくとも戯言ではない限り。 「失敗して死んだらまた生き返ればいい!」という訳には行かないのだ。やり直しは出来るが、また、やり直したらいい。というような生ぬるい心構えで、この人生に何が出来るというのだろうか。船越義珍
2004/09/28
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今回は、私の武道そのものの考え方が非常に影響を受けていることから、沖縄から本土(日本)に空手道を初めて紹介し普及させた、船越義珍先生の著書、「空手道一路」に書かれている、「修行の心構え」を引用させて頂きました。これは単に武道家や空手家だけに必要な心構えではなく、生きるということそのものに指針を示す言葉だと思います。 1、 仏教に「即是道場」という言葉がある。近頃、同門の中には空手道の修行は道場のみにあり、師範や指導者の指導を受けて稽古をすれば、それで修行をしている気になっている者もいるようだが、それは空手屋という格闘技術者であっても武道家や空手家とは言わない。武道を修行する者にとっては、自分自身の公私の生活の中に、空手の道場があるということを忘れてはならない。 また、武道の稽古衣は一般の人にとっては単なる練習着やユニフォームにすぎないものだが、我々、武道修行者からすると、道衣は稽古衣である反面、仏門の修行僧が身に付ける僧衣と同じく、道志が身に付ける神聖なる正装でもある。また、道衣の白はその道においていつでも死ねる覚悟が出来た者が着る衣(コロモ)という意味でもある。 船越義珍
2004/09/27
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武道の極意として古来より伝えられてきた「力を抜くこと」によって発揮される力は、筋力を力の発生源にはしていません。「脱力」による力は、常に地球の中心に引かれる重力を感知し、心身に必要のない力みを完全に取り去った、地球上に存在する人間にとって最も合理的で自然な力であり、しかも、その力は筋力による力をはるかに超えています。 人間が自然に適応する自然体とは重力に適応するということであり、人間の身体は自然の法則と適応したときに最大の力を発揮するのです。つまり、「力=筋力」から「力=重力」への発想の転換が最初に必要なのです。重力とは地球上の物体に下向きに働いて重さの原因になる力ということです。 我々の身体は、常に地球の中心に向かって引かれる力が働いています。その力、つまり重力をうまく使うことが出来れば、筋力よりもはるかに大きな力を出すことが可能になるのです。しかも全ての物体に重力は働いている訳ですから、誰もがその力を使える可能性を持っているということです。 しかし、ここで少々厄介な問題を解決しなければならないのです。その問題とは、「重力を力に変えるために障害となるのが筋肉の収縮である」ということ。そもそも筋肉は、その収縮する方向にしか力を発揮させられない。つまり、縮む方向にしか力は発生しない。ということを考えると、このような筋肉の収縮は重力に抵抗するということになります。 重力は自然の力でありますので筋肉を収縮させるということは、自然の力に抵抗しているということです。力を入れること自体が重力に意識的に抵抗しているのです。 実際に重力を力として使えるためには徹底的に筋肉の力を抜き、「脱力した統一体」になって重力を身体で感知する必要があります。
2004/09/26
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(重み)による力を体得していくためには、<力=筋力>という発想を変えなければなりません。通常、身体の動きにおいて力を発生させるためには、骨格筋の働きに委ねますが骨格筋のほとんどは関節をまたいで骨に付着し、力点が中にある<第三のテコの作用>で力を骨に伝達しています。 (第三のテコの作用=筋肉は両端を引き付けて収縮し、その収縮方向にのみ力を発生させる) そのため、筋肉自体が大きな力を発生させても、末端に作用する力は極めて小さくなることが知られています。つまり、他の物体に力を作用させるには末端へと力を効率よく伝達させなければなりません。 しかし、にもかかわらず骨格筋の構造上、いくら筋肉が大きな筋収縮を行なっても末端にかかる力は極めて小さくなってしまうのです。 このことで、<力=筋力>という前提自体が矛盾を作り出している原因であることが解かります。だから、力=筋力という発想を変えない限り現状の力の矛盾を解決することは出来ないのです。
2004/09/25
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イエスは、現象的に言えば病気をしている人に対しても、「その病気を見ず床を取り上げて歩め!」といい、墓の中に横たわるラザロにさえ、「死ぬるに非ず寝ねたりなり!」と言い切った。これを読んだ時、素直にすごい!と思った。別に特定の宗教を信仰している訳ではないけど、ここまで超越できたらすごい!「目をつぶれば真実が見える!」という言葉もあります。要するに我々凡人は、眼に映る世の中の現象に右往左往しながら生きているのです。目に見えるものには偽物が多い、ごまかしが多い。いや、眼が曇って真実が見えないときもあるのです。武道には心眼という心で観る技法があります。命を賭けて相対したとき、相手の一挙手一投足に一々心が動いていたのでは幾つ命があっても足りない。武術、武道とは相手との命懸けの勝負を通して、このような人間の究極の技法を研究しつくした人間の可能性を体現した芸術なのです。
2004/09/24
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中心軸とは、自分の身体の中心を確保することであり、天と地の間に貫かれた一本のラインを自覚することです。 人間は地球上で唯一、直立して歩く生き物ですが、この二足で立つということは非常にバランスが悪い状態なのです。 そのバランスの悪さは、自分の中心点である臍下丹田の位置を自覚できず、重心が崩れやすいことが大きな原因です。 身体が不安定になると、本来必要のない無駄な緊張を身体に作り出してしまうために、その身体の無駄な緊張が心の不安定をも招くといった悪循環を生むのです。 中心軸を自覚し確保するということは、我々人間の心と身体をリラックスさせ安定させるために不可欠なことなのです。 そして中心軸が身体に働く、地球の中心に引かれる重力が作用する<重心>であることから、重力に逆らわない、適応した身体作りは先ず、この中心軸を自覚することから始め、重心の位置を正しく認識することが最初に必要になります。
2004/09/23
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自分に必要な緊張とは、どの程度のものかを知らない多くの人たちは、必要以上の緊張を身体に作りながら立ち、動き、日々の生活を送っています。 そこで人間が健康でベストの状態を保つためには、この不必要な緊張を取る去る必要が出てきます。 古来より、武道の真髄を会得する上で前提になる(脱力・力を抜く)という状態は、我々人間が日々の生活の中で無駄な緊張を取り去るということを意味します。 このような(無駄な力を抜いた)状態こそが真のリラックスです。間違ってはいけないのは、すべての緊張を取り去るということではなくて、不必要な緊張を取り除くということです。
2004/09/22
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別に熱心に何かの宗教をやってる訳ではないし、逆に一宗派にこだわる宗教は好きじゃない。ただ「自然の法則」の言い方をそれぞれの言葉に変えて教えているのが宗教だと私は解釈している。真理は自然の法則一つだと思うよ。我々は自然の法則に生かされているのだ。太陽も空気も水も、そして重力も、数えたら切りがないほどの力によって護られている。だから毎日毎日感謝してもし切れない程の恵みの中で我々は護られ生かされているのでありますよね。偶然はこの世には存在しないと信じています。ほんの小さな出来事でさえ何か意味があって現れるのだと。何かの意思によって守られ生かされていると思っている。人間、私も含めて何と感謝の少ない生き物でしょうか。これじゃあ、もっと感謝をしなさいって叱咤や試練を与えられるはずだよ。いや与えられないと人は感謝に気付かないのかも知れない。人より恵まれていないとか、劣っているとかはマイナスじゃなくて、その人の個性なんだよね。みんな誰だって空気を吸って水飲んで太陽の恩恵を受けて生きているじゃないの!振り向くな!振り向くな!うしろには夢も無いし、そんな時間も俺には無い!
2004/09/21
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夏が終わって秋めいた風が肌に感じると寂しい気分になるのは私だけでしょうか? もう若くもないし、昔のように夏を思いっきりエンジョイした訳でもないのに、いつも夏が終わるころ意味もなく寂しい思いがする。夏の思い出が多すぎるからだろうか?さあ、今年もやるぞ~!っと気合を入れた年頭もついこの前のようだ。年を取るごとに一年が短くなるって言うけど最近もろに実感している。子供の頃も今も一年は同じ365日だよね? 途中で短くなった訳ではないよね~? 短くなったのならニュースで言うはずだし。老い先みじかくなると、きっと心のどっかで急ぎたくないんだよ、先を。光陰矢の如し・・・実感ですね。チョッとセンチな気持ちに気合を入れますかっ!凡人が成功に向かって離陸する際には、今までの人間関係が切れていく時期が訪れる。しかし、凡人であり続ける人は、今まで属していた人間関係に引きずられて生きていく。
2004/09/20
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私が昔、昔、その昔、アメリカ北部のシアトルのすぐ近くにある街、タコマシティーという所に行った時、アメリカ人のお母さんと日本のことなどを話したときのことなんですが。子供の話しになり、私が「アメリカの子供たちは小遣いっていくらぐらい貰っているの?」って質問した時、「何もしないのに小遣いなんて上げないわよ。何でもいいから家の手伝いをさせてから、その報酬として小遣いを上げるのよ。日本の子供って何もしなくても小遣いが貰えるの?」。この言葉に私はショックを受けました。アメリカでは魚の釣り方を子供に教えるけど、日本の子供は魚を何もしないで貰っている。当時私は独身でしたが、将来自分の子供には魚の釣り方を教えようと心に強く思ったことを思い出しました。毎週火曜日と木曜日は、空手を通して子供たちに魚の釣り方を教えにいく日です。当たり前のことですが、自分の生命は24時間人に護って貰う訳にはいきません。自分の健康や生命は自分で守るのが基本じゃないかと思います。所がこんな簡単なことさえ、理解していない人が沢山いることもまた事実なのですよ。 握りしめた拳も開けば怒りも消える。
2004/09/19
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先ず、心を空っぽにしなさい。形を持たない水になりなさい。水をコップに入れれば、水はコップの形に従います。ボトルに入れればボトルになり、ティーポットに入れればティーポットになるのです。水は流れることもできれば、衝突することもできるのです。水は地球上のありとあらゆる生き物に、その恩恵を与えながらも、自分は低きを流れる謙虚さを忘れません。あなたも水のようになることを学びなさい。
2004/09/18
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この世に存在する全てのものは、上下、左右、陰陽、水火のように相対する関係によって生じています。すべての形あるものには必ず相対するものがあります。そのために自分と対立するものを結びつけるためには自己があってはならないということです。自己がある限り対立するものは必ず生じる。自己を無くすには、自己という概念を生み出す心の作用(思い)を無くせばいい訳です。つまり無心であります。無心の状態の時には、自己が無いから対立するものも無い。無心を得るには、心の作用(思い)を消去するしかないのです。(無心を得て自己もなく、自己以外のものもなければ、自己と対立していた自然の力や生命エネルギーが体の中に流れ込む。それは自然の法則を自由に使いこなす技術であり、地球上のすべての形ある物が影響を受けている重力という自然の法則。この重力を、小さな存在でしかない人間が自在にコントロール出来る力。その力は相対二元を超えた人間に秘められた究極至高の力である。)「気の意味」より引用しました。
2004/09/17
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さすがに、お前の気迫といい、技といい、とにかく、天晴れなものだ。術を持って闘えば、あるいは私は適わないかも知れん。しかし、お前はこの勝負に勝とう勝とうと考えていた。私は道を楽しんで死のうと思って闘っていた。私が勝ったのは、ただそれだけの違いじゃよ。「空手道一路」より出来ると思わないから出来ないのだ!勝とうという気持ちが少ないから勝てないのだ!よく耳にする言葉である。でも逆に、勝つと思うな、思えば負けよ!と言う言葉もある。どっちがホントなの? 昔、若い頃、「絶対勝つぞ!」と強い気持ちを持って臨んだ試合には勝てたときが多かった。でもこの目の前の闘いだけに集中して楽しもうと思って臨んだ時も勝った。どっちとも正解なのだ。「勝つぞ!」と思う心が頂点に達すると、この場を「楽しむ」という気持ちと同じ境地になるのだ。勝とう勝とうと思って勝てないのは、「楽しむ」という境地の近くまで至っていない「勝とう!」なのだ。逆に「楽しんで死のう」と思う気持ちは「必ず勝つ!」という強い気持ちを超えた境地とも言える。「勝つぞ!」と言う気持ちで勝った勝ちより、「楽しむ」と言う気持ちで勝った勝ちの方が勝ちの上なのだ。「勝ちに上も下もあるか!」と反論する人もいるだろう。要するに勝てばいい訳だが、勝ちの上、勝ちの中、勝ちの下、と同じ勝ちにも次元がある。真の勝者は勝ち方を選ぶのである。しかし、上で勝とうと下で勝とうと試合というゲームの中では同じことかも知れないが、生死を賭けた真剣勝負では、勝負の前に「勝ちの上」を持てる境地に心が向かってないと勝負は出来ない。なぜならゲームと違って負ければ即、死なのだから。りきむな。ゆるむな。こだわるな。生かさるるままに水の如くに。
2004/09/16
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君よ完全燃焼せよ。一生一度の人生なのだから、くすぶっている時間はないはずだ。活き活きと燃えて周囲を照らせ。赤々と燃えて周囲を暖めよ。高々と燃えて行く先を示せ!最後の一瞬まで燃え続けよ。不完全燃焼で一酸化炭素を出すな。不完全燃焼の醜いむくらの前で悔悟の涙を見せるな!http://www1.bbiq.jp/asukajuku/
2004/09/15
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「産卵のために自分の生まれた清流を力強く昇っていくサケの群れが、上流へ上流へと流れに逆らって、一時の休みもなくヒレを動かし続けている。それは正に生きている活動の場であり「不断の動き」がそこにあった。しばらくして場面は一転し、産卵を終わったサケが力尽きて流れに抵抗できず、プカプカ浮いて流されていく。その後、すべての活動を停止した死の状態が現れ、サケの死骸はまさに流れのままであった。中略それは、清流に抵抗して川を上ろうとする不断の動きこそが「生」そのもの、あるいは生命活動の根幹であり、これと対照的に流れに対して全く抵抗できない姿が「死」または無生物状態を意味しているように思えた。」構造医学 吉田勧持著より重力に逆らって、流れに抵抗して行われる営みが生きるという活動であるならば、逆に無抵抗に流されるままに従って行くことは死。しかし、流れに逆らわず、抵抗せずに生きる。という教えがあり、その境地を求めて修行をする人たちがいる。それは一種の悟りへの境地である。ならば、悟りという境地は「死」を意味するのだろうか。それに極めて近い状態が悟りの境地かも知れない。いや、真の悟りは死なないと得られないのかも知れない
2004/09/14
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9月11日~12日の2日間は心身武道空手飛鳥塾の合宿でした。新潟や沖縄からも私の親愛なる弟子達が合宿に参加しました。新潟大学医学部に勤務する飛鳥塾師範代の田中博士が、合宿の中で父兄や子供たちに話をしたテーマを少し記そうと思います。武道や武術は何千年という長い時を費やし、また時には自分の命を賭けて人間そのものの研究を重ねてきた、究極の運動生理学とも言えます。現在、武道と呼ばれるものは試合や競技のために新たに取り決められたルールやそれに伴った技術に改造されたものがほとんどです。今は武道もスポーツも同じ枠の中で語られることが多いのですが、武道や武術とスポーツは明確に身体の使い方を始め、力そのものの考え方も異なるのです。先ず、最初にスポーツは身体を固体として使いますが、武術は身体を液体として使います。人間の身体は約70%が液体です。固体として使うということは体(筋肉)を固めて使うという意味で、液体として使うということは体を脱力して使うということです。これは訓練によって可能になります。真の武道家や超一流のアスリートは、この「力を抜いて力を出す。」という離れ技を普通に行っているのです。シアトルマリナーズのイチロー選手は、その代表的なアスリートでしょうね。http:www.asukajuku.jp/
2004/09/13
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始めまして、飛鳥senseiと申します。少しばかり自己紹介しますね。何歳までバック転とバック宙ができるかと密かに自分の小さな記録に挑戦中の中年オヤジです。飛鳥塾整体院という治療院を経営するかたわら、身体の使い方を主体とした空手と武術を教えています。只今、心身武道空手の六段です。家族は、奥さんが一人と、娘が三人と、犬が一匹の5人+1匹です。私以外はみんな女性です。警○庁警察官の長女と某客室乗務員の学校に在学中の次女と某公立高校一年生の三女です。長女と三女は空手の有段者です。愛犬の名前はラッピ。6才、ミックス犬ですが人間の言葉が理解できる?非常に頭のいい雌犬です。みんなそれなりに頑張って生きていますので結構楽しい家庭です。人は失敗することよりも、成功することを恐れる。神田昌典語録より
2004/09/09
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「来て頂くのは有り難いのですが、やる気と覚悟の出来ない方に無理に来て頂きたいとは思っていません。」と言われるのと、どうですか? ほとんどの方は、「客に向かって何たる言いぐさだ!」と怒るでしょうね。でも今はこのように店や会社がお客を選ぶ時代になりつつあるそうですね。今までの商売は、お客様は神様!商売が当たり前でした。でも売る側のこんな態度が、我がままで言いたい放題の金さえ払えば何をしてもいい客を作ってしまったんですね。しかし、こんな客を相手にしてると後々問題やクレーム対応に追われ、普通の優良なお客さんまでも失う結果になります。今はめったにこんな傲慢な客はいませんけれどね。基本的には自分の生命も財産も健康も自分で守るのが当たり前です。でも、いつの間にか与えられ過ぎると全てを人に依存するようになるのです。今、本当の意味で自立していない大人が多いと思いませんか?それは多分、魚の釣り方を教えずに、安易に魚を与える人の存在があったからだと思います。以前、このようなことを話したら、「冷たい考え方をしていますね。」とマジな顔で言われたことがありました。ショックでしたね。しばらく考え込みました。でも今はハッキリと言えます。表面は厳しい態度でも、その人の将来を思って接することの方がホントのやさしさなんだと。私は自分の子供にも、空手の教え子にも、「やる気が無いならやめてしまえ!」と言っている。それをどう思うかは人の勝手だが、今一度考えて見たいですね。優しさとは一体何なのだろうか?と。
2004/09/08
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