2004年04月19日
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慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において

アッサラーム アライクム

今日は第29章(スーラト=ル=’アンカブートゥ)です。

「マサッル=ッ=ラディーナ=ッ=タハズー ミンー ドゥーニ=ッ=ラーヒ アウリヤー・ア カ=マサリ=ル=’アンカブーティ=ッ=タハザトゥ バイター
アッラーを差し置いて外の主人を取る者を譬えれば、(自分で自分の)家を造る蜘蛛のようなものである。」

と多神教徒(ムシュリクーン)を蜘蛛に譬える第41節が章名になりました。マッカ時代の中期の終わりごろの啓示とされています。「アリフ・ラーム・ミーム」の神秘文字がこの章から3つ続きます。「マ’アード」(帰り行くところ・・アッラーの許へ還るという教義)で結ばれています。

その第45節です。

イトル マー ウーヒヤ イライカ ミナ=ル=キタービ ワ アキミ=ッ=サラー(タ)
(あなたに啓示された啓典を読誦し、礼拝の務めを守れ。)


「マー ウーヒヤ(啓示されたこと)」は「マー(こと)」と「ワハー(啓示する)」の第4型「アウハー」の受身形です。
「イライカ」は 「イラー(~へ)」に2人称男性単数非分離形代名詞「カ」がくっついたものです。「あなたへ」はアッラーがムハンマド様(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)に向かって仰っています。
「ミナ=ル=キタービ」は「ミン(~から)」と「アル=キターブ(the book・・・つまり啓典)」から成ります。前置詞の後ろなので「アル=キターブ」の語尾の母音が「イ」になり「アル=キタービ」となっています。
「ワ(そして)」は接続詞です。
「アキミ=ッ=サラー(タ)(礼拝を確立しなさい)」
「カーマ(立つ)」の第4型「アカーマ(行う)」の命令形「アキム」の最後の「ミーム」は本来は子音で終わります。次の「ア=ッ=サラータ(礼拝を)」の「ア」は前に言葉が来ると発音されない「ハムザト=ル=ワスル」と呼ばれるもので、その次に来るのは「サード(S)」の子音です。アラビア語の場合は「子音」の次に「子音」が来る場合は母音を入れて音を調整します。ですから「アキム」が「アキミ」となります。
「サラー(タ)(礼拝を)」という目的格(与格)なので、語尾の母音は「ア」になりますが、ここで休止する場合は「タ」は読まずに「サラー」と読んで最後に「ハー」と溜息のような息だけ出します。

今までは信仰箇条(’アキーダ)というものを紹介してきましたが、これからはムスリム(イスラーム信者)以外でも知られている崇拝行為(’イバーダ)を紹介していきます。

生まれつきムスリムの人は違いますが、途中でムスリムになる場合は「シャハーダ」という表明をします。それを言うときに二人のムスリムがその「シャハーダ」に立ち会えばいいだけです。女性(ムスリマ)が立ち会う場合は男性一人の代わりには女性二人が必要です。全部女性がいいというのであれば、4人ということですね。

「アッラー以外に神はいません。ムハンマド様はアッラーの使徒です。」
と表明し、そして

と言います。

これでもうムスリムです。簡単でしょう?
実際はアラビア語で言わなければならないのですが、たいていの場合はアラビア語を知っている方が区切ってまず言って、それをリピートします。できれば、臨む前に体を所定のやり方で浄めてくるといいですね。表明した後に浄める場合もあります。

さて、こうしてムスリムになりました。

「信仰は行為である」



日本の仏教は、浄土真宗あたりから、「心で信じていればいい」といった内面を大切にし、行為を軽んずる傾向になりました。「般若湯」といって酒も嗜み、妻帯もします。あまり形式行為だけに囚われていったことに対する反動だとは思いますが。

しかし、ムスリムは「信じること」も大切ですが、日々の「行い」も大切だと考えています。人間はとかく忘れやすい被造物です。
足を骨折してしばらく歩かないと筋肉が衰えてしまうように、「アッラーを思い出す行為」を怠ると、醜行や悪行に対する警戒心や嫌悪感が薄れてしまいます。

「崇拝行為」の中で最重要項目は「礼拝」です。

この45節は続けてこうあります。

「インナ=ッ=サラータ タンハー ’アニ=ル=ファフシャー・イ ワ=ル=ムンカル
(本当に礼拝は、《人を》醜行と悪事から遠ざける。)」

タバーリーのハディースにこうあります。

アブドッラー・ビン・カルトによると
アッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。

「審判の日、最初に評価されるのは礼拝である。もし礼拝が正しいものなら、彼のすべての行為も正しく取られよう。もしその礼拝が欠けているなら、彼のすべての行為は腐敗する」

イマーム・アハマドのハディースにはこうあります。

ブライダによると
アッラーのみ使い(サッララーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。

「我らと彼らの契約は礼拝である。よって、これを放棄する者は不信心者(クフル)である。」

聖クル’アーン第74章で楽園の中にいる人たちが
「何が、あなたがたを烈火の中に導いたのですか。」
と罪を犯した人に問うと、彼らは4つの理由を挙げます。
「礼拝をしませんでした」
「貧しい人を養いませんでした(食べ物をあげませんでした)」
「空論を好む輩(やから)と無駄話に耽りました」
「審判の日は来ないと否定していました」

いろいろなBBSで「空論」を仕掛けてくる人々がいます。彼らは何かを知りたい・求めたいのではなくただ論争が好きなだけなので、それにむきになって答えることは「無駄話に耽ること」になるかもしれません。

私も一日の時間の使い方を振り返ると、無駄なことに浪費しているような気がします。アスタグフィルッラー

ムスリムのハディースにこうあります。

アブー・フライラによると
アッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)こう言われました。

「あなたの身体の汚れは、自分の家の前に流れる清流で一日5回洗っても残ると考えるだろうか。」
「いいえ、身体に汚れは残りません。」
とサハーバ(教友)が答えると、アッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)は言われました。
「1日5回の礼拝の効用もまったくこのようなものである。アッラーの御慈悲により、すべての罪が清められるであろう」

「1日に5回もするのって大変だよなあ。よくやるよ。」

と考えていらした方々、このような徳が礼拝にあることを知ったら、ムスリムが礼拝する理由が少しは理解いただけたでしょうか。

よくムスリムの人が一人だけじゃなくまとまって礼拝するのをテレビなどで見たことがあると思います。

アル=ブハーリーのハディースにこうあります。

アブドッラー・ビン・’ウマルによると
アッラーのみ使い(サッラッラーフ アライヒ ワ サッラム)はこう言われました。

「集団礼拝は個人礼拝より27倍の徳がある。」

集団礼拝の奨励により、ムスリム間の結合力・相互理解・団結意識・民族的親善・深い同胞意識を高める効果があります。
また、教育の差・皮膚の色の違い・社会的地位の上下の区別なく一線上に立ち並んで平身低頭します。
アッラーの前では人間は等価だという意味です。
これは「平等だから皆同じようにしなければならない。他の人と違ったことしてはいけない。目立ってはいけない。」
という機械のひとつの部品のような意味ではなく、アッラーはそれぞれ一人一人に違う才能・力・身分・環境などを与えられました。それは同じ種類の花がひとつひとつ微妙に違うように。アッラーからみれば「人間は人間」です。等価なのです。

アッラーがお創りになったひとつひとつの作品。
誰もこの世に必要じゃない者はいないし、アッラーから見れば誰も彼も意味があり、価値があるのです。太陽の光がこの地上に降り注ぐようにアッラーのご慈悲(ラフマーン)は全ての生きとし生きるものに降り注いでいます。

アッラーのご加護と祝福がありますように
ワッサラーム





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最終更新日  2004年05月09日 00時37分34秒


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