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こんにちは。 12月10日から12月11日まで、一泊二日で滋賀県に行ってきましたぁぁぁぁぁ~!!! ブログをはじめて4年半になりますが、これまでお散歩ネタといえば、東京周辺ばかりでした。 行ってもせいぜい、伊豆半島や群馬、栃木県くらいまでだったような。 それがいきなり、中部地方を飛び越えて近畿までジャンプできたのは、ネットの懸賞企画に当選したからなのですね~。 それは、「滋賀の旅をモニターしよう!旅行ブロガー大募集」というキャンペーン。 キャッチフレーズは、「元気やで!おいで~な滋賀」おもてなしキャンペーン・みんなで作る新しい滋賀の旅」です。 1泊2日、旅行ライターになりきって旅をし、自分のブログに旅行記を書くというもの。宿泊施設を紹介してくれるということと、何より自分で自由に旅行ブランを立てていいという条件に惹かれて応募したのでした。 …ということで、これから3回にわたって、「ビジベン滋賀へゆく」と銘打って滋賀県のお散歩シリーズをお送りしようか、と…。 さて、滋賀県といえば何といっても最初に思い浮かぶのが琵琶湖の存在。 ご存知、日本最大の湖で、淡路島より大きいのだとか。 淡路島といえば、かつて淡路国と言ったように、日本の地方行政区分だった国の一つ。琵琶湖は、昔の国より大きい湖なのですな。 ちなみに、滋賀県はかつて近江の国と言われていましたが、近江は「都に近い湖」が語源だそうですね。 京都の隣の県としても有名ですが、実は滋賀県にも都があったのですよ。それは、白村江の戦いの後、のちに天智天皇になる中大兄皇子が、667年3月に都を飛鳥から近江の大津京へと遷都した時期です。 都があったのは5年間くらいだったそうですが、その間は今の京都が「都の隣の県」だったのですな。 それはともかく、12月10日の朝、東京・品川駅から新幹線に乗ったオイラは、昼前に比叡山坂本駅に降り立ちました。 のぞみで京都まで行き、JRの湖西線に乗り換えれば東京から3時間足らずで着いてしまうのですね。 十何年ぶりに訪れた関西は、生憎の曇り空でした。駅で街歩きのマップをゲッツし、期待に胸を膨らませながら坂本の町へと繰り出します。 マップを見ながら、駅から比叡山の方向へ続く道をひたすら登ると石造りの鳥居が…。 町の中心を貫くこの道は、比叡山の麓に広大な境内を持つ日吉大社の参道でもあるみたい。 やがて左手に、京阪電車の京阪坂本駅のモダンな駅舎が見え、そのはす向かいに立派な山門が目に入ります。 ガイドマップを見ると、このお寺は生源寺といって、伝教大師最澄の生誕地と言われているらしい。境内に入ると、右手に最澄の産湯に使った井戸の石碑が立っていました。 最澄といえば、今回の旅のハイライト、比叡山延暦寺を開祖した偉いお坊様です。 司馬遼太郎の「空海の風景」という本を読んだことがありますが、最澄は、官費留学生として唐に渡るすごいエリートだったそうですね。またとても真面目な性格のお坊様として描かれていた記憶があります。 歴史の授業で勉強するのは、最澄、天台宗、比叡山延暦寺のキーワード解説くらいですが、やはり現地へ赴くと1200年もの年月を経て、町の中に彼の足跡が残っているのですな。 余談ですが、坂本竜馬の苗字も、ここ坂本の地名に由来していると司馬遼太郎の「竜馬がゆく」に書かれていた記憶があります。 来年の大河ドラマ「竜馬伝」の主役は、女性に人気の福山雅治。もしかしたら、この土地も、坂本竜馬のルーツとして注目を集めるかもしれませぬ。 福山のルーツではありませんので、念のため。 オイラも、こんなに立派じゃなくてもいいから、何か生きた証を残したい物じゃと考えつつ、再び坂道を登ります。 するとまた日吉大社の大きな鳥居が見えてきました。ここから先は日吉馬場という参道になり、車道の横の紅葉が美しいっす。道の両側は石垣が続いていて、まさに石積みの町・坂本が実感できる景色ですね。 ここが城下町なら、重臣たちのお屋敷が並ぶ大手門の前の道という風情ですが、石垣に囲まれたお屋敷は、この土地では里坊と呼ばれているそうな。 この町でいう里坊とは、比叡山延暦寺の僧侶の隠居所。延暦寺は山の上にありますから、そこで生活するのはかなり大変なことだったらしい。年をとって現役を退いた老僧が里に降りてきて、余生をおくった宿坊なのですね。 石垣というと、城のようなアクティブな施設をイメージしてしまいますが、こちらの石垣は老僧が静かに暮らしているような静謐さを感じました。 さらに坂を上ったところにある旧竹林院も、そうした里坊のひとつ。見学できるそうなので、入ってみることにします。 まず庭へまわると、八王子山を借景にして、滝や築山の配置が見事。ここでも石垣が景観のアクセントになっておりまする。手入れされた苔と茶室のコラボもなかなかでした。 長い間山上で辛い修行をされてきたお坊様にとって、老後の生活がこの美しい景観とともにイメージできていたのかも。 癒しの庭園に囲まれたお屋敷は、究極の老後の生活だと感じます。この安らぎの空間を手に入れるには、やはり、若い頃は苦労しないといけないのでしょうか。 旧竹林院を出て、20分ほど歩いて向かったのは西教寺。 このお寺は、安土桃山時代の遺構や美術作品が残っているということで旅行前からチェックしていたのです。 途中に眺望が開けている場所があり、眼下に琵琶湖をのぞむことができます。東京に住んでいる人間にとって海は珍しくありませんが、これだけの広さがあって、なおかつおだやかな水面というのは驚きというより不思議な感じがしますね。 しかも、湖がぐるっと山に囲まれている。これは、ここでしか味わえない景観かもしれませぬ。 …と考えつつ、西教寺に到着。この総門はお寺としてはそれほど珍しくない形をしていますが、解説板を読むと、なんと明智光秀の坂本城から移築したそうなのですよ。 そういえば明智光秀は、近江国坂本城主でした。残念ながら、坂本城の痕跡はほとんど残っていないそうですが、安土城の次に立派な天守閣があったのだと聞きます。 聖徳太子が創建したと伝えられるほど歴史のある寺ですが、1571年に織田信長が比叡山を焼き討ちにしたとき、このお寺も災禍を被ったらしい。 神仏に信仰心の篤かったといわれる光秀は、焼き討ちに加担せざるをえなかったときは辛かったでしょうね。 戦が終わったあとに、西教寺の復興に尽し、さまざまな寄進を行ったものが現在も残っているのですな。 本堂は重要文化財ですが、江戸時代の建築。安土桃山時代の客殿が境内に残っているのは興味をそそられます。 しかも、それはもともと豊臣秀吉の伏見城にあった旧殿なのだとか。行った日は工事中で薄暗かったのですが、当時の雰囲気は伝わってきました。 派手好みだった秀吉の御殿としては質素でしたが、狩野永徳筆と伝えられる襖絵もあり、秀吉から家康時代にかけて活躍した大名のスーパースターがここで話をしたかと想像するとゾクゾクしますね。 小堀遠州の庭園や明智光秀の墓なども見学し、山の辺の道といわれる変化に富んだ道を通って日吉大社へ向かいます。 途中に、日吉古墳群といわれる横穴式石室を持つ多数の古墳がありましたけど、これらは渡来系の特徴があるらしい。これから行く日吉大社もこれらの古墳と関係があるのではないかと妄想が広がりました。 さきほども書きましたが、JRの駅から町の中心を貫く大通りは、この神社の参道とコラボになっておりまする。それだけ歴史は古く、創祀はなんと崇神天皇7年というからおよそ2100年前なのですか。 ご由緒によれば、地主神である大山咋神(おおやまくいのかみ)とその妻、鴨玉依姫神(かもたまよりひめのかみ)を祀ったのが始まりで、古事記に記されるほどだそうな。 邪馬台国はおろか、神話の世界から続いているのですね。 全国に約3800ほどある、日吉、日枝、山王神社と言われる神社の総本宮なのですか。 それを知り、若干緊張しつつ、東本宮の入り口から参拝することにしました。ちなみに、こちらの神社は、東本宮と西本宮に分かれていて、どちらの本殿も国宝に指定されているとのこと。 国宝とはすごいですが、こちらの神社も織田信長の比叡山焼き討ちによって、それ以前の建物がすべて燃えてしまったのですな。 二つの国宝が建てられた時期が、1586年と1595年。新たに作られた本殿でも国宝なのだから、それ以前の本殿が現在も残っていたら世界遺産クラスだったのではないか、と…。 現在の本殿は、豊臣秀吉が復興に尽力したときのものでしょうか。秀吉は、幼名を日吉丸といいましたから、こちらの神社を特別な存在と考えていたのかもしれませぬ。 そんな歴史絵巻を考えながら、二つの国宝の本殿にお参りしました。 神社の本殿としては少し変わった建築様式だと思いましたが、これは日吉造といわれ、こちらの神社だけに見られる形式だそうですね。 屋根の庇が前面と両側面の三面にだけで、背面の屋根は切れたような形になっているのが特徴らしいですが、素人にはよくわかりませんでした。 ほかにも、境内を流れる川にかかる石橋や神仏習合の信仰を表す独特の形をした山王鳥居など、神社仏閣ファンにはたまらないアイテムが満載。 ところで時刻は午後3時を過ぎるあたり。日が落ちるのが早い時期なので、昼食をとらずに歩きまわっていたのです。 そろそろ空腹で限界っす。このままでは行き倒れる。でも、あまりガツガツ食べるとホテルの夕食に悪影響を及ぼしそうですし…。 日吉大社を出て、ガイドブックで確認すると近くにおいしいお蕎麦屋さんがあるというではないですか。 早速、向かうことにしたのですが、それはまた次回。
2009年12月14日
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こんにちは。 最近、オイラはネット上のいろんなところに出没していたりして。 たとえば、このホームページ。 オイラがどこにいるかわかりますかね~。昔、ナンチャンを探せっていうバラエティーがありましたけど…。 おそらく、土日が過ぎたら更新されると思いますが…。 モニターをしていると、面白い食べ物や面白い場所にめぐり合ったりしていろいろ楽しめます。 来週も、ブログがらみで楽しい経験ができるかな、と期待しているんですよ。それはまた、ブログの記事でご報告させていただきます。 さて、今回行ったのは、千葉市街。 千葉は、ほろ苦い青春の思い出の地であるとともに、オイラの関東周辺ぶらり旅の発祥の地でもあるのですね~。 それは確か、中学校の夏休みの中の一日だったと記憶しています。 当時、電車に乗って学習塾に通っていたオイラは、代々木の駅でいつも見る黄色い電車にあこがれていました。 山手線はぐるぐる都心を回っていますが、総武線には終着駅があります。しかも、電車の先頭に書かれているのは「千葉」の文字。 まだ行ったことのない県庁所在地ですよ。 中学生のオイラからしたら、とんでもなく遠い町に思えたのです。 その思いが溢れかえるようになって、とうとう一人で総武線に乗って千葉へ行くことにしたのでした。 でも、当時はお散歩のガイドブックがあることも知らず、家にあった関東地方の道路マップの中の「千葉市街図」一ページだけが頼り。 たった1ページの地図のために、重たい本をカバンに入れ、炎天下、とぼとぼと市内を歩き回ったのを覚えています。 地図の見方もよくわからず、当然のように迷子になって、交番のおまわりさんに道を尋ねたり…。 でも、その思ったように歩けないもどかしい気持ちのトラウマが、その後のウォーキング発展の原点になったのかもしれませぬ。 中学生のときは、思ったとおり歩けなかった街ですが、その後二回ほど訪れ、かなり千葉の街には詳しくなりました。 前回行ったのは、十年ほど前。千葉港のそばのポートパークやポートタワーを時間かけて見たために、行けなかった場所もいくつかあったのです。 今回こそ、千葉市街の完全制覇を図りたい。 …ということでリベンジを図るため、ある休日の早朝、京成千葉駅へやってきました。 都営地下鉄で本八幡を経由し、京成線で千葉へ入ると、千円とちょっとでオイラの家と千葉市内を往復できるのですね~。 もちろん、一日500円で都営地下鉄乗り降り自由のお得なバスを利用するという裏技が必要ですが…。 未来都市のようなモノレールが行き交う駅前を抜け、まず向かったのが千葉公園。 実はこの近くへ来ると、思い出す味があるのですよ。 それは、にんにくラーメン。 10年前にここに来たとき、ふらっと入ったラーメン屋さんで、名物だと言うので何気に食べたラーメンの味が今でも忘れられないのです。 新陳代謝の激しいラーメン業界にあって、まだ店があるのかなと思ったのですが、ちゃんとありましたぁぁぁ~ それが、これ。 店の雰囲気は前と違っているような感じだし、器も昔と違っていると思ったので、オーナーが代わったのかなと思いました。 でも、一口食べてみて、10年間も記憶に残った味を思い出すことができました。 おろしにんにくや細切りにしたにくにくがたっぷり。 にんにくだから、もっとこってりしていたイメージがあるのですが、醤油味で意外とあっさり味だったのですね。 麺も細い縮れ麺で、こってりにくにくとあっさりスープによくマッチしていました。 あっさり系で、後味がさっぱりしていたからいつまでも記憶に残ったのかも。 今度はいつ行くかわかりませんが、きっと千葉に来たときはまた訪れることになるのだろうと思いました。 にんにくをたっぷり食べ、オイラが吸血鬼ではないことを証明した後、千葉公園へ足を踏み入れます。 この公園は、戦後、陸軍の鉄道第一連隊跡地を整備して作られたらしい。 公園の中心にある綿打池とまわりを取り囲む緑、そしてモノレールの白い高架が印象的でした。 そして千葉公園で忘れてならないのが、大賀ハス。 一見、普通のハスのようですが、なんと2000年の眠りから覚めたハスなのだとか。 解説板を読むと、昭和26年に、大賀一郎博士が市内の検見川でハスの種を発掘。それを発芽させて育てたものらしい。ちなみに、このハスは昭和28年に分根されたものなのですね。 2000年ぶりに目覚めたというと、どうしても昔見た「ウルトラQ」のミイラ男をイメージしてしまいますが、植物の生命力はケタ違いなのだと思いました。 公園を出てモノレールの高架の下をくぐり、国道126号の大通りをひたすら南下します。 総武線の東千葉駅を超えて、ずんずん進むと、30年前、オイラが中学生の頃に見たのと同じ景色が…。 そういえば、当時はこの辺りで方角がわからなくなって迷ったのでした。 まわりをキョロキョロ見渡すと、高い建物はないし、なんとなく昭和を感じさせる街並み。 何だかタイムスリップしたみたい。 当時、迷って途方に暮れている中学生のオイラを探しましたが、もちろん見当たりませんでしたが…。 あの頃よりは、体力もついたし、地図の読み方も年季が入っているし、年をとった分だけ成長はしているのかも。 近くには当時お参りした千葉神社があります。 この神社は、昔この地域を治めていた千葉氏の守護神である妙見菩薩を本尊とするお寺として建立されたそうです。 源頼朝や徳川家からも手厚く保護されたようですが、明治初年の神仏分離によって神社となり、本尊も祭神に改められたらしい。 もともと仏教の妙見菩薩と神道の天之御中主大神は長年神仏習合によって同一とみなされてきた経緯があったそうですね。 神社であっても、日本有数の「妙見信仰」の中心となっているとのことでした。 妙見菩薩は、北極星あるいは北斗七星を神格化した菩薩。 千葉氏、北斗七星、というキーワードが並ぶと閃くのが、司馬遼太郎の傑作「北斗の人」ですね。 千葉周作がなぜ北斗七星と関係あるのか、という謎が解明できました。もちろん本には書いてあると思いますが、中学生のときに読んだので…。 北辰一刀流の北辰も、北極星のことだそうですな。 中学生のときに読んだ本の謎も、オヤジになってから解明できたと喜びつつ、千葉神社へお参りします。 お賽銭を10円入れましたが、そういえば中学生のときは50円入れたと思い出しました。 こちらのほうは、中学生時代より退歩してしまったようで…。 神社を出て、再び国道を南下すると、右手に千葉市中央区役所が見えてきます。 その下の部分に、旧川崎銀行千葉支店の建物がビルに包みこまれるように保存されていました。 さや堂ホールというから、どういうネーミングかと思ったのですが、これはまさに平泉中尊寺のさや堂と同じ発想ですか。 昭和2年に建てられ、8本の円柱が並ぶネオ・ルネサンス様式の空間は、現在、コンサートなども利用されているらしい。 そして、次に向かったのが千葉城。 千葉城は、都川という川の近くの丘陵上にありました。 別名、亥鼻城と呼ばれるのは、下総台地から亥の方角に突き出した舌状の台地にあるからなのだとか。 丘陵といっても、それほど高いわけではなく、急峻なわけでもないですから、中世の要害堅固な城というイメージよりは、防備の能力を持った館くらいの位置付けだったのかも。 現在は、城の二の丸だったと言われる場所に、昭和42年に作られたという立派な天守閣が建っておりました。 この天守はもちろん、歴史上何のかかわりもないもので、中は郷土資料館になっています。 忍城へ行ったときも思ったのですが、こちらの千葉城も小田原城の天守閣によく似ていますな。 小田原の北条氏が関東を支配していた頃は、千葉も北条氏の領地だったのですが…。 支店が本店を真似るのは不自然ではないですが、やはり千葉常重の銅像を正面に建てるのなら、千葉ならではのアイデンティティを前面に出してほしかった。 …と思いつつも、城ヲタクしては立派な天守閣を目の前にして、何かに憑かれたように写真をバシバシ撮ってしまうのは、市の観光担当者たちの作戦に見事に引っ掛かっていたのでした。 中は、千葉にまつわるさまざまな歴史資料が展示してありました。 千葉は戦国時代の攻防の舞台になった土地で、歴史年表を見ても、ぐちゃぐちゃしていてよくわかりませぬ。 天主の最上階は展望台になっていて、千葉の市内を360度見渡すことができました。 千葉城から最後の目的地、青葉の森公園へ向かう道は千葉大の医学部の敷地沿いにあります。 その道の横にあるのが、「七天王塚」。 これと同じような塚が、千葉大学医学部の構内と近くの住宅街の、直径150mほどの範囲に点在しているらしい。 七つといえば、千葉神社の妙見信仰にまつわる北斗七星が思い浮かびます。 ちょうど、北斗七星の形に塚が並んでいるそうで、昔読んだ「アルセーヌ・ルパン全集」の中の「魔女とルパン」を思い出してしまいました。 当時はすごいトリックだと思いましたけど、今だったら、何でそんな簡単な謎が解けないの?と突っ込みを入れたくなりますが。 ただ、七天王塚が、いつごろ、何のために作られたのかが、よくわかっていないそうなんですよ。 平将門の七人の影武者の墓であるという伝説もあるそうで、いろいろ妄想が膨らみそう。 そして最後の目的地、青葉の森公園に到着。 ここは、前回来た時見られなかった中央博物館があるのでした。 でも、閉館時間を聞いたら4時半ですと…。 あと、一時間弱しかありませぬ。 広い館内でしたが、かなり端折って見学し、あとは広い公園内を歩くことにしました。 千葉城を見てきた後だから、この細長い池は城の堀に見えるのですが、もちろん違うでしょうね。
2009年12月05日
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こんにちは、ご無沙汰です。 今日は、久々のベスト5ネタっす。 オイラは自他共に認める歴史好きですが、最近は「歴女」という言葉が新語として国語辞典に載るほど若い女性の間で歴史がブームなのだとか。 ある調査によると、彼女たちが歴史に興味を持ったきっかけは、テレビの時代劇や小説、ゲームの影響が強いそうですね。 最近の大河ドラマに、イケメン俳優が多いのも、わかるような気が…。 私事で恐縮ですが、オイラも小学生の頃に見た時代劇の影響で歴史好きになったみたい。 その作品とは、山口崇が木下藤吉郎を演じた「亭主の好きな柿八年 女房太閤記」。 若き秀吉が、いろいろなアイデアを発揮しながら出世していく様が痛快でした。ちょうど、高度成長の絶頂期で、視聴者も自分たちの姿にオーバーラップしたのか、と…。 それまでも大河ドラマは見たりしていましたが、この作品から豊臣秀吉に興味を持って戦国武将の子供向きの偉人伝を読み始めたのです。 当時は、時代劇のテレビドラマが大流行。 一日に最低一本は、大作の時代劇が放映されていたのでした。 ドラマの内容はもちろん、その主題歌のまた秀逸な作品が多いのですよ。今でも、その音楽を聴くと、元気だった日本の姿が蘇ってくるようで。 そこで、本日は、ビジベンが昔見ていた時代劇の主題歌ベスト5をお送りしようか、と…。 …ということで、早速発表に移りましょう。 オイラが完璧に自己チューで選んだ、時代劇の主題歌ベスト5は以下のように決定しましたぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~第五位 大忠臣蔵 → それはこちら 三船敏郎主演による当時のオールスターキャストの時代劇。昭和46年ですからオイラが中学生だった頃の作品です。 日本が誇る大映画スターだった三船敏郎が、一年間この作品にかける!というので、当時かなり話題になったのを記憶しています。 その一回目がすごく印象的だったのですよ。浅野内匠頭が当時、尾上菊之助だった現在の尾上菊五郎。吉良上野介が同じく歌舞伎役者の市川中車。 凛々しいイケメンの内匠頭とこれ以上憎たらしい人間はないのではないかと思わせる上野介のコントラストが絶妙でした。 市川中車の演技は今思い出しても鳥肌モノ。でも、ドラマの放映途中で亡くなってしまい、討ち入りのときは別の役者が上野介を演じたのでした。浅野内匠頭をいじめる演技で、額に青筋が立ってピクピク震える迫真の演技でしたからね。 これが寿命を縮めてしまったのではないかと当時は考えたのですが…。 大オーケストラの勇壮な主題歌ですが、やはり作曲は富田勲ですか。 一年間のドラマなので、途中はちょっとだれてしまった感じもあったのですが、この感動的な音楽とともに討ち入りシーンの迫力は今でもよく覚えています。第五位 水戸黄門 → それはこちら 同じく五位は、今でも時代劇の定番として人気のある水戸黄門っす。 里見浩太郎の黄門様もいいけれど、人気投票をやったら恐らく東野英次郎がナンバーワンかも。 この主題歌は、時代劇のなかでもっとも有名でしょうね。助さん格さん役のいろいろな役者さんが歌っていますが、オイラ的には、長く格さんを演じた横内正の歌声が一番好きです。 声に張りがあって、格さんの律儀で真面目な性格がよく現れていて。ちなみに、動画のバージョンでは、里見浩太郎も助さんとして歌っていますよ。 実はオイラ、東野英次郎に会ったことがあるのですよ。銀行に勤めていた頃、オイラの担当地区に黄門さまが住んでおられたのですね~。 残念ながらお取引はなかったので、ご自宅へ得意の飛び込み訪問を。 意を決して、インターホンを押したのです。 当時は芸能界を引退されていたのですが、もちろん大俳優ですから、お手伝いさんが出てくるのだとばかり思っていました。 そしたら、ガラッと縁側のサッシを開けて本人がいきなりお出ましなられたのですよ。 目の前にご老公が現れたので、ははぁ~と思わずその場にかがみこんでお辞儀をしたのです。 さすがに、土下座はしませんでしたが…。 体は小さかったですけど、声は大きくて迫力がありましたね。 銀行のパンフレットを渡して、ご挨拶させてもらったのですけど、ご老公モードではなく、黒澤作品の飲み屋のオヤジモードでした。 機嫌が悪いときの…。 もっとも、誰でも、銀行員がいきなり営業に来ればいい顔はしないと思います。 でも、パンフレットは受け取ってももらえたし、ご老公様とお話ができただけで空を飛んでいるような気分。 ルンルン気分で支店に戻り、みんなに報告したのを覚えています。第四位 国盗り物語 → それはこちら この番組も、オイラが中学校のときに熱心に見ていた作品です。 このドラマによって、司馬遼太郎の大ファンになったのでした。前半が斎藤道三編で主役は平幹二郎。後半は織田信長編で主役は高橋英樹でしたね~。 当時の大河ドラマは、今より時代考証もしっかりしていて、何より主役に迫力がありました。 高橋英樹演ずる信長が、近藤正臣演じる明智光秀を怒鳴るシーンなんか、鳥肌が立ちましたもんね。 二人の戦国の英雄にあこがれ、この当時は大きくなったら京都にのぼり、室町幕府を倒して天下を統一するのじゃ~なんて、友人たちと話していたのを思い出します。 関白になるか、将軍になるか悩んだり…。 今考えると、身の程を知らないと言うか、若かったですな。 天下を統一するどころか、いまだに自分の頭の中も統一できないくせに…。 オイラに、そんな大それた野望を抱かせたのは、この勇壮なテーマ音楽でした。 ♪人は誰も人生につまづいて~ 人は誰も夢破れ、振り返る~♪ 北山修作詞のはしだのりひことシューベルツが唄った「風」の一節が身にしみる今日この頃です。 第三位 木枯らし紋次郎 → それはこちら リアルで見てはいなかったのですが、高校時代、午後4時から再放送がされていて学校から帰るとよく見ていましたね~。 主演の中村敦夫は、この作品が出るまではあまり有名ではありませんでした。俳優に先入観がないからか、それだけに渡世人の演技がリアルに伝わってきましたね。 小学校時代は関白や征夷大将軍にあこがれたのですが、高校時代はすでに自分の限界を嫌というほど感じていたので、木枯らし紋次郎のような渡世人にあこがれました。 今でもお散歩と称して、いろいろな場所をほっつき歩いているのは、潜在意識の中に木枯らし紋次郎がいるのかもしれませぬ。 「あっしにはかかわりあいのねえこって」 という台詞が流行しましたけど、この台詞は誰かがかかわってくれないと話せないんですよね。 オイラがほっつき歩いていても、いつも放置されるからこのキメ台詞が使えないのが残念っす。 それはともかく、この番組の裏番組に「必殺仕掛け人」を放映していた時期もありました。 今年亡くなった、緒形拳さんの藤枝梅安は、「必殺仕事人」の藤田まこと・中村主水に並ぶ名キャラクターとして記憶に残っています。 よく、シャープペンの芯を口にくわえ、音もなくクラスメートの背後に忍び寄り、頚椎にブスッと刺す遊びをやりました。 逆に、やられることもありましたが…。 今考えると、かなりやばい遊びだったような。良い子は真似してはいけませんね。第二位 柳生十兵衛 山口崇 → それはこちら この主題歌の作曲も富田勲なのですな。 豪快なオーケストラの演奏とチャリンという刀が触れ合う効果音が印象的でした。 柳生十兵衛の役者といえば、千葉真一をイメージする人は多いでしょうね。型にはまらない人生を歩んだ剣豪らしく、体育会系の豪快なキャラクターはぴったりかも。 オイラも千葉真一の柳生十兵衛は好きですが、さらに魅力を感じるのは山口崇の柳生十兵衛。 こちらは、見た目はそれほど強そうではない。むしろインテリでスマートなイメージ。 その彼がいざ剣を振るうと、いかにも豪傑そうな剣豪を軽くあしらってしまうのですね~。 いわば文武両道の達人といいますか。 そして柳生十兵衛も剣を携えて諸国を巡るのです。ここにもオイラのお散歩の原点があるような。 それにしても、当時の山口崇はすごい人気でしたね。彼の主演作には、緒形拳や田村正和も脇役で出ていましたし…。 その後、大河ドラマで忠臣蔵の大野九郎兵衛など悪役を演じる機会が増えましたけど、若い頃の颯爽とした演技は今でも心に残っています。 あと、柳生十兵衛?役としては児島みゆきも有名でした!? …ということで、 いよいよ第一位の発表っす。 ビジベンが昔見ていた時代劇の中で、もっとも心を躍らせた主題歌ナンバーワンは ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダ… (← ドラムの音?)第一位 仮面の忍者 赤影 → それはこちら テンポのいい音楽と、オープニングのナレーションが超かっこよす。 怪獣が出てきたり、戦国時代の設定なのに空飛ぶ円盤や核兵器を連想させるようなシーンもあったりして時代劇とは言えないかもしれませぬ。 何でもありの力技も、この心躍るようなテーマ音楽を聴くと、これくらい荒唐無稽な設定でないと沸き起こるパワーを持て余してしまうような気がしました。 ドラマは四つの部に分かれていて、それぞれ、金目教篇、卍党篇、根来篇、魔風篇に分かれているのですな。 今回紹介したのは、第二部の卍党篇です。 当時は、ナレーションをあまり気にかけませんでしたけど、今聞くと、子供番組とは思えないほど練られていますね。 それは…「織田信長の活躍した頃、海を渡ってきた奇怪な妖術者の群れがギヤマンの鐘を求めて各地を襲撃した。世界制覇を狙う卍党の仕業である。強烈なエネルギーの製法を秘めたギヤマンの鐘三つ。日本の平和を願う信長は、卍党の野望を粉砕すべく飛騨の国から仮面の忍者を呼んだ。その名は…赤影参上!!」 オイラも、「仮面の便利屋」を目指そうかと考える今日この頃です。
2009年11月28日
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こんばんは。 名優・森繁久弥さんがお亡くなりになりました。96歳の大往生ですね。 日本人に、これほど好かれた俳優は少ないかもしれませぬ。 とくにイケメンというわけではなかったですが、味のある俳優さんという言葉がぴったりでした。 オイラが物心のついたときは、すでに大俳優になっていて、重役や社長、駅前シリーズの人気はリアルでは知りません。 子供の頃知ったのは、確か、向田邦子原作のテレビドラマ「だいこんの花」だったような。 竹脇無我演じる主人公の父親役で、元海軍大佐。よく覚えていませんが、戦争中は艦長として活躍したものの、今は隠居の身で妻に先立たれて息子と二人で暮らしている設定だったと思います。 この元海軍大佐が、二言目には戦時中の自慢話をするんですよ。 近所に、同じ艦に乗っていた元部下が住んでいて、今も「艦長」と呼ばれて悦に行っている。 今もはっきり覚えているシーンがあります。 ある女性が家に訪ねてきて、たまたま彼女の父親が戦争中は海軍にいたことを元海軍大佐が知る。 そのとき、「私は、戦時中は大佐で、艦長をしていたのだが、君の父親は、一兵卒かね、二兵卒かね」なんてことを言ったのですよ。 女性が、「いえ、確か少将だと…」 それを聞いたとたん、真っ青になってその場で昏倒してしまうというシーンなのでした。 本来なら、その元海軍大佐はすごく嫌味のある人物なのですが、森繁さんが演じると実に愛嬌があって魅力的な人物なのですよ。 話している内容や仕草は、魅力のないオヤジの典型なのに、どうしてあんなにほほえましく見えるのか、と…。 やはり、森繁久弥氏本人の人間的魅力でしょうか。 オイラも、あんなオヤジになりたいと感じる今日この頃です。 さて、今日もお散歩ネタ。 前回、千葉県の東金へ行き、今回は同じ千葉県の小金です。 お金のご利益がありそうな場所ですが、前回書きましたとおり、実はお金とは縁もゆかりもないネーミングなのでした。 それでは、今回行った小金は? …と調べてみたのですが、地名の由来はわかりませぬ。 あまり詳しく調べたわけではありませんけど…。 でも、戦国時代は小金城が築かれ、江戸時代は、小金牧と言って幕府直轄の軍馬を養成する牧となった歴史もあるらしい。 かなり古い地名なのは間違いなさそうですね。 さて、ウォーキングのスタートは、JR常磐線の北小金駅。 駅前のロータリーがある出口と反対側の北口に出て、商店街から住宅街へテクテク歩いて行きます。 信号のある大通りにぶつかると、いきなり目の前に、道の左右に松並木が続く参道が見えました。 この松並木は、なんと水戸光圀公が寄進されたのだとか。 行った日は日差しが強くて、暑かったので、黄門様から思わぬ日陰のプレゼントをいただいた気分で、涼しい木陰の参道を歩きます。 やがて、朱塗りの重厚な山門が見えてきました。 ここは、本土寺(ほんどじ)。 京都や鎌倉の本山となっている寺院に勝るとも劣らないほど立派だと思ったら、こちらも日蓮宗本山の寺院だそうですね。 なんと、池上本門寺(長栄山)、鎌倉妙本寺(長興山)とともに「朗門の三長三山」と呼ばれているらしい。 入り口へ向かうと、「拝観料500円」の文字が目に突き刺さります。 仕方なく、財布を出して払おうとすると、受付の女性から「今は無料ですから、どうぞご自由にお入りください」と言われました。 おお~、ラッキーと一瞬思ったのですが、実はこのお寺は「あじさい寺」と言われ、6月には境内や庭園にあじさいの花が咲き乱れるそうな。 あじさい寺として全国的にも有名な鎌倉の明月院に対し、このお寺は「北の鎌倉」とも呼ばれるのですな。 また、庭園には菖蒲田があり、ハナショウブとアジサイがコラボで楽しめるとか。 あじさいの季節ではないから、無料で入れるのですね~。 現在の本土寺のある場所は、源氏の名門、平賀左近将監忠晴の屋敷だったらしい。 その後、鎌倉時代の1277年に、当時この地方の領主だった曽谷教信が開基。 お寺の名前は、日蓮上人より授かったということからもわかる通り、日蓮宗屈指の名刹なのですね。 境内でまず目が行くのは、やはり五重塔。 最近、作られたみたいですが、やはり五重塔があるとお寺はビジュアル的にも、高ポイントかも。 塔の横に建つ鐘撞堂には、県下で二番目に古いといわれる国指定重要文化財の梵鐘がありました。 そして、本堂へ行ってしっかりお参りをします。 お寺は、今までかなり訪れているという自負はありましたけど、本堂正面にこれだけ大量の卒塔婆があるお寺はあまり記憶にありませぬ。 卒塔婆は、故人の供養追善のためにお墓のうしろに立てられますが、これはどういう意味なのでしょうね。 お墓を拝むということなのかしらんと考えつつ、あじさいは咲いていないけれども、あじさいをイメージしながら境内を歩いてみることにしました。 本堂から程近い場所に古いお墓があります。 解説板を読んでみると、なんと徳川家康の側室で、武田信吉を産んだ秋山夫人のお墓なのですか。 秋山夫人とは、甲斐武田氏家臣・秋山虎泰の娘とされる人物。武田信吉は、家康の五男ですが、21歳の若さで早世してしまったそうです。 でも、すでに水戸25万石の大名だったそうですから、彼が早死にしなければ、徳川光圀も水戸のご老公ではいられなかったかもしれませぬ。 そのまま境内を歩いてゆくと、菖蒲田の緑が陽光に輝いてとてもきれいでした。 藤棚や日本庭園のコラボもあったりして、やっぱりあじさいの季節に来ればよかったと悔やむことに…。 本土寺をすっかり堪能したあと、かつて広大な田んぼを切り開いて作られた住宅街を歩き、幸田貝塚へと向かいます。 貝塚といっても、現在は何の変哲もない児童公園に解説板があるだけでした。 でも、今からおよそ6000年前の縄文時代前期に形成された貝塚で、その分布範囲は南北約250m、東西が約180mにも及ぶ広大なものらしい。 度重なる発掘調査の結果、縄文時代前期をはじめとする竪穴式住居跡が160軒以上も確認されたとか。 全国でも指折りの大規模集落の跡なのですな。 貝塚があるくらいですから、こんな内陸まで海が入り込んでいたのでしょうね。 地球温暖化で海面が上昇すると騒がれていますが、地球の長い歴史から見れば過去に何度もあったことなのだと実感できました。 小金は歴史のある街だけあって、古刹が多くあります。 廣徳寺もそのひとつ。 このお寺は、室町時代、小金城を築いた高城胤吉によって開基されたそうで、その後も高城氏の菩提寺として栄えたらしい。 広い境内には、江戸時代に建立されたという高城氏の墓碑がありました。 さて、次はいよいよ本日のメインイベント、小金城じゃ~ 東金城を見損なった分を取り戻すぞ~と、勇んで向かう道すがら、松本清記念会館なる古びた建物が…。 そういえば、ここ松戸はマツキヨ発祥の地なのでした。 マツキヨは商品券が使えるので、ネットアンケートでゲッツしたギフトカードでよく買い物します。 松本清は、その名の通り、マツモトキヨシ創業者にして、千葉県議会議員や松戸市長などを歴任した人物。 オイラが子供の頃は、松戸市役所の「すぐやる課」がマスコミで取り上げられていましたが、そのアイデアを出した市長としても知られていますね。 もしかして、マツキヨ創業の建物?と思ったのですが、ネットで調べてみると直接の関係はないみたいでした。 でも、建物の裏には、松本清氏が昭和40年代にこの辺りの土地改良に尽力したという巨大な記念碑が。 ちなみに、松本清記念館で検索すると、「松本清張記念館」の検索結果がダダダダ~と出てしまうのですな。 それはともかく、小金城っす。 調べてみると、城の大きさは東西800m、南北700mにおよび、12もの郭を備えて、当時の下総国北西部においては最大規模を誇った平山城だったとか。 それはすごい、と大谷口歴史公園の小高い丘をのぼると、土塁や畝堀、障子堀などの遺構を見ることができます。 障子堀はあまり確認できませんでしたが、畝堀は底のほうにしっかりと畝が残っていて、待ってました~後北条氏のお城じゃ~と、なんだかうれしくなって眺めました。 さて、他には何が? …と思ったのですが、これでお仕舞い。 えっ、こんなに狭くないよね、と当時の縄張り図を確認すると、公園になっている部分は、小金城の末端なのですな。 入り口部分がかろうじて残っている…みたいな。 どうして小金城址というネーミングで紹介しないのだろうと思ったのですが、ここは城跡といっても端っこだからでしょうか。 城の中心部分は市街地の中にすっぽり埋もれているみたい。 しかし、小金城の遺構はほかにも、近くに達磨口跡として残っていました。 普通の崖のように見えているものが巨大な土塁だったりして。 当時はかなりの規模の城だったのがわかります。 その後、小金城は、豊臣秀吉の小田原攻めの際、後北条氏方として戦ったものの、豊臣氏方の浅野長政らに攻められ開城。 徳川家康の五男、武田信吉が居城としたが、1593年に廃城となったとの由。 武田信吉の母上のお墓がどうして小金の本土寺にあるのだろうという疑問がこれで解けました。 今回は時間がなかったので、当時、城の中心部だった「本城」や「中城」などへは行きませんでしたが、きっと地形に何らかの痕跡が残ってはいるのでしょうね。 またいつか、訪れてみたいと思いました。 そして、最後に向かったのが、JR常磐線の線路を越えたところにある東漸寺。 このお寺は、今から約500有余年前の1481年に創建。江戸時代には徳川幕府の手厚い保護を受け、関東十八檀林の一つとされた名刹だそうです。 至るところに、徳川家の紋所である三つ葉葵があしらわれていて、水戸黄門好きのオイラとしては、思わず、ははぁ~とひれ伏したくなるお寺でした。
2009年11月14日
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こんにちは。 今回行ったのは、千葉県の東金市。 実は夏休みに行った場所なのですが。 以前、成東もとい山武市や茂原市へ行ったとき、いつか訪れてみたいとチェックしておいた場所です。 オイラが行ってみたい場所といえば、当然、城跡があるのですね~。 しかも、「金」がつく地名なんて、行けばなんか、おカネのご利益がありそうで…。 埋蔵金の伝説なぞ、あったりして。 …が、しかし。 東金の地名は、「金」には関係ないみたいです。 この場所は昔、鴇(とき)が舞い飛ぶ丘陵地だったそうな。 街の西方に「鴇ヶ峰」と呼ばれる丘があり、そこに「鴇嶺城(ときがねじょう)」という城が築かれたとか。 この「ときがね」が、後に「東金」になったと言われているのですな。 うぬぬ、「ときがね」から「とうがね」は文字にしてしまうとかけ離れていますが、話し言葉では「とー」と伸ばしたほうが言いやすいのかも。 文字の意味よりも、話しやすさを優先させる昔の人の思考方法が興味深いっす。 当時は、文字による伝達より、伝言ゲームみたいな形で知識が広がって行ったのかニャーと思いました。 伝言ゲームで村人の誰かが言い間違えた言葉を、現代の人たちは何の疑問もなく使っているのかもしれませんね。 どこにも、東の金なんて、意味はないですし…。 …ということで、ウォーキングのスタートは、JR東金線の東金駅。 昭和を感じさせる駅前商店街をゆっくり10分ほど歩くと、まぶしい緑に囲まれた美しい池に着きました。 ここが最初の目的地、八鶴湖(はっかくこ)。 池と言いましたが、名前的には「みずうみ」なのですな。 でも、面積は3.4ヘクタールで、周囲は約800メートルほどだと言うから、どうみても「池」としか見えませぬ。 それにしても、日本の原風景を見るような美しい景色。 池の三方を取り巻く丘は、東金の地名の由来にもなった「鴇ヶ峰(ときがみね)」ですか。 確かに、今でも鴇が舞い飛んでいても納得できそう。 でも、この「池」は元からこの大きさではなかったそうですね。 池のすぐそばに、千葉県立東金高等学校があるのですが、この場所は江戸時代初期には、東金御殿があったそうな。 東金御殿は、なんと徳川家康が鷹狩りの際宿泊した御殿とのこと。 御殿建設の際、もとは小さな池だったものを多く広げられ、現在の「湖」の姿になったとか。 確かに、背景の丘を借景にした美しい佇まいは、かなり吟味して作られた日本庭園の趣がありますな。 その八鶴湖の東岸にあるのが最福寺。 これは一見して由緒ある寺院だと思ったら、なんと807年に伝教大師最澄によって創設されたらしい。 「湖」に面する高台に位置するローケーションは最高です。 しかも、この元禄時代に建立されたという本堂は、一部、江戸浅草、浅草寺の古材を譲りうけて作られたそうなんですよ。 ほかにも、広い境内には興味深いアイテムがたくさんありました。 たとえば、このお墓。 歌舞伎「お富・与三郎」の切られ与三郎のモデルになったという4代目、芳村伊三郎のお墓なのだそうですね。 この話のあらすじは知りませんでしたが、解説板を読むと、実際にもすごいストーリーだとわかります。 8代目団十郎が、このフィクションに目をつけ、善玉、悪玉を誇張しておもしろく書きあげたのも頷けました。 西洋の「モンテクリスト伯」や「オペラ座の怪人」にも匹敵するのではないか、と…。 江戸の町民たちは、現代人が上記の芝居を見るような感覚で、ワクワクドキドキしながら観劇していたのかもしれないと思いました。 境内には、鐘撞堂も。 鐘撞堂があるのはお寺として全然珍しくないのですが、「鐘の音の余韻まで心で受け止めてお撞きください」という表示があったのですよ。 えっ!? 撞いてもいいの? 実はオイラ、20年以上前に、長崎で平和の鐘なるものを撞かせてもらってから、一度も撞いていないのです。 鐘を見れば撞きたくなるのだけれど、どこのお寺も、勝手に鐘を撞かないでくださいと張り紙があり…。 それじゃ、お言葉に甘えて…。 …と大きく振りかぶり、心をこめて撞き棒を鐘にガツゥゥゥゥゥゥ~ンと。 ごぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ~ん。 おおお~、心に染み入るような美しい鐘の音じゃ~。 鐘の余韻がいつまでも周囲に響き渡り、煩悩にまみれたオイラの心に涼風が吹き渡るのがわかりました。 すっきりした気分になり、「湖」のほとりを歩いて今度は西岸にある本漸寺へ向かいます。 このお寺は、鎌倉時代に禅宗の寺として創建されたものの、戦国時代に、この地を支配していた酒井定隆によって顕本法華宗に改宗したそうですね。 その酒井氏の菩提寺で、裏山には鬱蒼とした杉林。 とても、花粉症の時期には来れないと思いました。 でも、この険しい崖の上に、目指す東金城があるのですね~。 いざ、城攻め。 …と勇み立ち、本漸寺の裏山へ立ち入ろうとすれど、どこにも登り口がな~い。 本堂の近くにあるお墓では、東金城主だった酒井氏のお墓を見つけることはできたのですが…。 東金城は、立ち入り禁止なのかも。 城跡に入れないのは残念だけど、遺構を守るためでしたら止むを得ませぬ。 そう自分を言い聞かせて、無念の撤退を余儀なくされたのです。 でも、自宅に帰ってネットで検索してみたら、東金城の本丸や土塁、空堀、郭の写真がたくさん載っているじゃあ~りませんか。 どうやら、入り口は東金高校の隣付近にあったみたい。 本漸寺の境内からは行けないのでした。 しかも、東金高校は、小倉優子、別名ゆうこりんの母校でもあるそうですね。 やっぱり、ウォーキングの前には、ネットでしっかり情報収集をしてから行けばよかった。 知っていれば、東金高校にも、ゆうこりんのこりん星の痕跡を探したのに、と後悔する今日この頃です。 高校周辺を不審なオヤジが歩き回っていると通報されていた可能性も皆無ではないので、塞翁が馬なのかもしれませんが…。 それにしても、東金城、見たかったっす。 下から見上げた感じでは、かなり土塁は急峻ですし、丘の上の縄張りも巧みなのがわかります。 酒井氏は戦国時代の70年間もこの城を居城としていたそうですから、かなり実戦的な仕掛けがいろいろ凝らされていたの思うのですけどねえ。 あとで悔やむことになるとは夢にも思わなかったオイラが次に向かったのは日吉神社。 ここの神社も由緒あるらしいのですが、1615年に徳川家康がここに御成りしたそうな。 そのとき、神社の復興を命じられ、200メートルにわたる参道に杉並木を植樹されたらしい。 杉並木といえば日光を思い出しますが、ここの杉並木も巨木が建ち並んで壮観でした。 花粉症の時期に来なくてよかったっす。 たぶん来ていたら、杉並木の植樹に一役買った徳川家康に文句を言っていたかも。 神社の近くにある丸山公園は芝生の緑が最高に綺麗でした。 青い空と緑の木々、花粉の飛ばない爽やかな空気。 暑くなければ、夏は最高なのだけれど…。 そこから、炎天下、汗をドバドバかいて、舗装道路をトボトボ歩きながら考えました。 ああ、水をガバガバ飲みたいっす。 …と思う頃、最後の目的地、雄蛇ヶ池(おじゃがいけ)に到着。 池というより、こっちのほうが「湖」ではないですかねぇ。「池」と「湖」の定義にこれだけ頭をひねる場所も少ないかも。 しかも、こちらは人口池なのだとか。元々は江戸時代の干害対策として周辺の村を救う為に作られたものだそうな。 この広大さは、こちらのほうが、モノホンの湖に見えるのだけれど。 ウォーキングガイドブックでは、この池を見るだけで終わっていたのですが、せっかくだから一周してみることにしました。 池のまわりは約4キロもあるらしい。 さきほどの八鶴湖は、確か800メートルでしたけどね。 池のまわりは遊歩道になっていて、アップダウンもそこそこあって、池の景観の変化が楽しめました。 この池は、近年はバスフィッシングの名所としても有名だそうで、ボートを浮かべて釣りを楽しむ人たちを大勢見かけました。 ネットで調べてみると、雄蛇ヶ池は心霊スポットとしても有名だそうですね。 女性のすすり泣く声がどこからともなく聞こえてきたり、笑い声が聞こえてきたり…。 ワハハハハハハハハハハハハ~!!! ブロロロロロロロロロロ~ ドォ~ルゲェェェェ~!!! オイラが、一人で遊歩道を歩きながら、誰もいないとよくやる癖は、黄金バットの真似とか、超人バロムワンの悪役ドルゲの真似。 実は、ここでもやってしまいました。 心霊スポットだと知っていれば、こんな恐れ多いことはやらなかったのですが。 知らない人がたまたま聴いて、都市伝説のひとつに組み込まれてしまったかも。 ちなみに、あの押尾学氏もここを肝試しで訪れ、女性の霊を見たと告白しているそうです。
2009年11月07日
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こんにちは。 最近は三浦半島を中心に歩いていますが、今回行ったのは金沢文庫。 確か、日本史の教科書にも登場する有名な場所で、当然、オイラも若い頃から何度も行ったことがあります。 でも、よく考えてみれば、「文庫」ですよ。 広辞苑で調べてみると、一般に、図書館が公衆の閲読を目的とするのに対し、文庫は書籍の蒐集を目的とするもの…なのだとか。 なんか、オイラ的には「学級文庫」をイメージしてしまいます。 口の両端に指を突っ込み、横に口を開いた状態で、「がっきゅうぶんこ」って言ってごらん。…というフレーズを、小学校時代何度口にしたことか。 当然、「がっきゅうぷんこ」とは言えず、「がっきゅううん○」になってしまうのでした。 それはともかく、個人的な蔵書、コレクション、手文庫など、わりとプライベートな意味の言葉が、街の名前や駅名になってしまうなんてすごいですよね。 今回はそのあたりの謎の解明も含め、久しぶりに訪れてみることにしたのです。 ウォーキングのスタートは、京急線の「金沢文庫」駅から。 個人的な蔵書が、特急停車駅の駅名になってしまうなんて、何度考えてもすごいっす。 オイラは、貧乏なわりに本は多少持っていると思いますが、間違ってもブックオフや図書カードを使って買った本からなる蔵書によって、「ビジベン文庫」という駅はできないでしょうね。 行った日は真夏の猛暑でしたが、汗を拭きつつ、駅前から長く続く坂道を登っていきます。 やがて左手に赤い門が見えてきました。これが称名寺の惣門なのですね。 称名寺は、鎌倉幕府の執権として有名な北条氏の一族である金沢(かねさわ)北条氏の祖、北条実時が開基した寺院。 解説板によると、1258年に、実時が六浦荘金沢の居館内に建てた持仏堂がその起源とされているそうですね。 金沢北条氏の菩提寺として鎌倉時代を通じて発展し、2代顕時、3代貞顕の代に伽藍や庭園が整備されたとのこと。 しかし、鎌倉幕府の滅亡とともに金沢の北条氏も滅んで、その後衰退してしまったのですか。 解説板を読みつつ、3代金沢貞顕という名前を目にして、なぜか児玉清の顔がフラッシュバックしたのですよ。 そういえば、いつかドラマで見たような。 …と考え、それはNHKの大河ドラマの「太平記」だったことを思い出しました。 確か、真田広之が足利尊氏、武田鉄矢が楠木正成、片岡鶴太郎が北条高時という配役だった記憶があります。 オイラの好きな楠木正成が武田鉄矢というのは若干異論があったのですが、主役が足利尊氏ですからね。 金沢貞顕の児玉清がなぜ、これほど覚えているかというと、北条高時役の片岡鶴太郎の怪演との対比といいますか。 北条高時があまりの変人として描かれているため、そのあとを継いで執権になった金沢貞顕がすごく良識のある素晴らしい人物に見えてくるのです。 金沢貞顕は、金沢文庫の蔵書の充実に力を尽くしたらしい。読書家として有名な児玉清が演じたのはまさにぴったりの配役なのだと思いました。 それにしても、昔の大河ドラマは、日本史の勉強にもなりましたけど、最近の大河は突っ込みを入れたくなるシーンが多すぎて…。 「天地人」をまともに見て、歴史のテストを受けたらかなりやばいことになりそう。 真田幸村を「幸村!」なんて言ってるし…。 当時は、真田幸村という名前では呼ばれなかったはず。 同じNHKのドラマ「真田太平記」で、丹波哲郎演じる父の真田昌幸が息子の幸村を「左衛門佐(さえもんのすけ)」と読んでいました。 上杉120万石の御殿のセットは、どうみても、2~3万石の小大名クラスの御殿にしか見えないのですが…。 もっとも、昔とは予算のかけ方も違うのでしょうけど。 それはともかく、金沢文庫の話。 称名寺の仁王門は、さすがに鎌倉時代のものではなく、江戸時代後期に再建されたものだとか。でも、金剛力士像はかなり古いものだぞ、と思ったら1323年に製作されたらしい。 鎌倉幕府の滅亡が1333年ですから、その10年前に作られたのですね。 この金剛力士は、鎌倉幕府の滅亡を見ていたのか~と感慨深く見上げました。 仁王門の横を通ると、見事な庭園が…。 この庭園の形は、どこかで見たことがあると思ったら、浄土式庭園なのですね。 まだ行ったことはないけれど、金沢貞顕が平泉の毛越寺をモデルに作ったらしい。 毛越寺の庭園は、何度もテレビで紹介されましたからね。 特徴は、境内の真ん中に橋が架かる大きな池がある点でしょうか。 浄土式庭園というだけあって、荒々しい部分がなく、いたって穏やかな眺め。いつまでもベンチに腰掛け、浄土の世界をゆっくり堪能しました。 でも、蚊に刺されてすぐ現世に戻されてしまったのですが。 でも、昭和の中ごろまではこんな美しい庭園ではなかったそうです。昭和47年からの大がかりな調査を経て、昭和56年に整備されたそうな。 鎌倉時代末期に描かれた「称名寺絵図並結界記」など、当時の景観を伝える文書があったから再現できたのですね。 鮮やかな赤の太鼓橋を渡り、金堂と釈迦堂にお参りします。 金堂は江戸時代はじめ頃、釈迦堂は江戸時代後期に建立されたらしい。 広々とした池に赤い太鼓橋、古色蒼然とした建築物も素晴らしいですが、称名寺の景観を卓抜したものにしているのは、背景に広がる緑豊かな山々でしょうね。 実はこの山は、ハイキングコースになっていて登れるのですね~。 今から10年以上前に来たときも登ったことがあり、今回もチャレンジすることにしました。 仁王門を出て、民家の近くの小道へ入り、称名寺市民の森の看板を見ながら山道を登っていきます。 称名寺の裏手にまわると、北条実時の墓がありました。実時は、金沢北条氏の祖といわれる人物。 そのわりに素朴なのは、質素倹約を旨とする鎌倉武士の深い精神性によるものでしょうか。 尾根道を歩き、一番高所にあるという八角堂広場へやってきました。 ここからは、緑豊かな称名寺の境内や八景島、これから向かう海の公園や野島などがよく見えました。 急な階段を下り、再び称名寺の境内にもどっていよいよ金沢文庫を目指します。 金沢文庫は、ひと言で言えば北条実時が自分の邸宅内に造った武家の文庫。政治や文学、歴史など多岐に渡り、実時の後も顕時・貞顕・貞将の三代にわたって収集は受け継がれて蔵書の充実がはかられたらしい。 ところが、その場所が詳しく特定できないみたいなのです。 さきほど述べた称名寺の絵図に、「當寺檀那」と記された金沢顕時と、その子貞顕の墓所左手にトンネルの入り口らしき絵が描かれているとか。 そのトンネルとは、これではないかと…。 トンネルは崩落の危険があるとかで封鎖されていました。 金沢北条家の侍がこのトンネルを通って、文庫へ通っていたかと思うとロマンが膨らみますね。 トンネルの向こう側には、文庫があったことを思わせる地名も残っていたそうです。 現在、その左に作られた新しいトンネルを抜けると、「神奈川県立金沢文庫」の近代的なビルが建っていました。 オイラはこのビルよりも昭和初期に作られた重厚な建築物が印象に残っているのです。現在のビルは平成2年に作られたそうなので、そんなに新しいものではないのですが。 中に入ると、称名寺の創建当時の仏像や建物内部の絵を再現した展示がありました。 仏像というと、黒っぽかったり、金箔がまだらに残っていたりと歴史を感じさせる色合いがイメージされますが、作られた当時はピカピカ光輝いていたのですものね。 もちろん、文庫というくらいですから古文書もたくさん展示してありました。 歴史は好きだけど、古文書の文字はまったくわかりませぬ。 大学の歴史学科にでも入学していたら絶対挫折したでしょうね。 ところで、金沢文庫の古文書はかなり持ち出されたのだとか。 足利学校へ寄贈されたのはいいとして、武田、上杉、徳川家まで貴重な文書を外へ運び出したと解説文にありました。 とくに、家康は江戸城の富士見文庫に多くの資料を移したらしい。運び出された古文書で散逸してしまったのはかなりあるのでしょうね。 当時、ブックオフはなかったでしょうから、重要な書籍を多く持つことは文化人としてのステイタスでもあったのではないか、と。 金沢文庫からテクテク歩き、次に向かったのは「海の公園」。 ここは横浜市内で唯一、海水浴場のある公園だそうですね。 行った日は、1キロにも及ぶ白い浜辺でビーチバレーをしたり、日向ぼっこをしたりしている人を多く見かけました。 ちなみに、この砂浜は人工のもので、砂は千葉から運んだそうですね。 そして最後に向かったのは、野島。 野島はかつて独立した孤島であったらしい。海抜57メートルの頂上には立派な展望台が。 そこからは八景島シーパラダイスが手に取るように眺めることができました。
2009年10月31日
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こんにちは、ご無沙汰です。 最近、結構忙しかったりして。 不況だし、とくに営業したわけでもないのに仕事が増えているのです。10年以上音沙汰のなかった会社から仕事を依頼されたり…。 どうして? と担当者に聞いてみたら、なんと、ライバル会社の人たちが皆、新型インフルエンザで倒れてしまったのだとか。 新型インフルエンザが怖いとは思いつつも、まだ、テレビや新聞のなかの世界だと思っていました。 しかし、その魔の手は、すぐそばまで迫っているのですね~。 いずれオイラも、新型インフルにかかることは間違いないのですが、何とかこのまま追いつかれず、予防注射を打つまで逃げ切りたい。 でもオヤジは予防注射の優先順位からいったら、もっとも後回しらしいのですが…。 社会から疎外され、虐げられているオヤジとしては、何とかこの手で生き延びるすべを模索しなければなりませぬ。 仕方なく、オイラなりにインフルエンザ予防法とか、インフルエンザ克服法について考えてみようか、と考える今日この頃です。 ところで、インフルエンザになりやすい人、なりにくい人というのはありますね。 その違いは、拙著「よくわかる『最新』病のしくみ」の中でも触れましたけど、免疫力の違いでしょうか。 免疫力は、もちろん体力の違いもありますが、インフルの場合は過去にかかったかどうかが重要。 ですが、新型インフルは、過去にかかった人がほとんどいない。必然的に重病化しやすいのですな。 ここ数年、オイラはインフルエンザが流行している時期でもわりと平気でいられました。 多少インフルエンザに強くなったと感じたのは、今から十年くらい前にはじめてクリニックで仕事をしたからかも。 医療機関で仕事をしてわずか二ヶ月目に、重いインフルエンザにかかってしまったのですよ。 そのときは、院長はじめ医療スタッフは平気なのに、オイラだけが高熱や咳に悩まされてしまいました。 その差は、今まで医療に携っていなかったということで、ウィルスの免疫ができていなかったからでしょうね。 医師や医療スタッフは長年医療に携っていて、ウィルスに晒される機会も多く、一般の人たちより免疫を持っているみたい。 それでも皆、小まめに手を洗うし、オイラの勤めていたクリニックの院長は、診察机の上にいつも日本茶を用意していました。そして、一人の患者さんの診察が終わるたびに、一口お茶を飲むのですね~。 当時は、よくのどが渇く人だな~と思っていましたが、今考えるとお茶の殺菌作用を利用して、ウィルスからのどの粘膜を守っていたのかもしれませぬ。 そういえば、新型インフルエンザウイルスの増殖を緑茶成分のカテキンが抑えるというニュースがありました。 ただ、カテキンは腸で分解され、緑茶を飲むだけでは抗ウイルス効果は弱いらしいのですが。 それでも、その院長先生みたいに水代わりに飲んでいたら、効果があったのでしょうね。 しかも、緑茶にはビタミンCも豊富だと言いますし…。 オイラが滅多に風邪をひかないのは、ペットボトルのお茶をカバンに入れて、ちょびちょび飲んでいるからかも。 …ということで、今日は「インフルエンザ、戦略的?撃退法」のネタ。 以前ブログに書いた、「風邪を一日で治す法」の記事のリサイクルですが…。 さて、そもそも風邪やインフルエンザになると、どうして熱がでるのでしょう。 ご存知の方も大勢いらっしゃると思いますが、インフルエンザのウィルスが悪さをして、熱を上げるわけではないのです。 インフルエンザのウィルスは、熱と湿度に弱い。だから、自分の体がそういう状態を自ら作って、風邪を退治しようとするのですね~。 いわば、体の防衛反応。 オイラのインフルエンザ克服法は、その防衛反応を徹底的に促進して、治す方法です。 この防衛反応については、以前、NHKの「ためしてガッテン」でもやっていたし、クリニックの事務長をしていた頃、医師に、この方法はどうですか?と聞いたことがあるのです。 専門外の整形外科の先生でしたが。 その先生は、確かに効果があるのは間違いないと、言ってくれました。だけど、相当体力を消耗するから、やめといたほうがいいよとのこと。 …ということで、たぶん試してみる方はいらっしゃらないと思いますが、もし真似されるのでしたら、体力のある人だけにしておいてください。 医師も言ってましたし、相当体力を消耗するのは事実ですので。とくに高齢者や心臓の悪い人には、絶対勧められません。 タミフルもありますし…。 このインフルエンザ克服法をためして、病気が悪化しても責任を負いかねますので念のため。 ただ、やり方は極端ですが、考え方は間違っていないと思いますので、自分なりにマイルドな方法を考えていただければ幸いです。 さて、さきほど体の防衛反応と書きましたが、これは、侵入したインフルエンザと体の免疫との間で壮絶な戦いが行われている状態です。 いわば、体の中で、川中島の戦いが起きているようなものですな。 戦いに勝つためには、なんといっても、気合が大切。 戦国最強と言われた上杉謙信や武田信玄の軍隊は、気力の充実が他の軍隊に比べて抜きん出ていましたからね。 毎日、外へ出るときは、「えいえいお~!!!」とかけ声をかけて出かけましょう。 また、金曜日になって気がゆるむとインフルにかかりやすくなるので注意。 さらに、戦に勝つためには、有利な場所に陣を敷き、武器弾薬などの兵站を確保しなければなりませぬ。 私たちがインフルエンザを撃退しようと思ったら、より味方に有利な場所で戦い、かつ免疫力に援軍を送る必要がありまする。 まず、免疫力が勝利を得やすい場所で戦ってもらうにはどうするか。 そのためには、部屋の湿度を徹底的にあげるのです。今は加湿器という便利な器械がありますが、なければ部屋の中でお湯を沸かすなどして、窓から水滴がたれるぐらい徹底的にやる。 この場合気をつけなければならないことは、自分の体より、部屋にある家電製品や電子機器ですね~。 とくにテレビやパソコンは、湿度が異常に高い状態にさらされると一発で壊れます。 かつてこの方法をやり、オイラの部屋のテレビが一発で故障しました。 必ずこれらの機器を部屋の外に持っていってから、湿度を上げてください。 でも、加湿器を使わなくても、それに近い効果が上げられる方法があるのですよ。 それは、ご存知、マスクをすること。 ガラスに向かって、ハァ~ッとすると、白く曇るくらい息は水分を含んでいますよね。だからマスクをしたまま寝ると、ちょうどいい湿度が長時間保たれるのですね~。 さらに湿度を上げようと、マスクを水で濡らしてかけてみたことがあるのです。 お、これはなかなか冷たくて気持ちいいじゃんと思ったら…ぐるじぃぃぃぃぃぃ~、息ができない、死ぬぅぅぅぅ~ 窒息する恐れがありますから、くれぐれも真似をしないでくださいね。 さらに、免疫力が勝利を得やすい場所で戦ってもらうにはどうするか。 それは、ウィルスは熱に弱いという弱点を徹底的につくのです。 もともと風邪をひいて体温が上昇しているわけですから、それを利用しない手はない。汗を吸い取りやすい下着を重ね着し、その上からパジャマを着る。そして首に手ぬぐいを巻き、仕上げとしてウィンドブレーカーを着る。 その格好のまま、ベッドや布団に横たわるんですよ。掛け布団もしっかりかけて寝る。 その格好は、発汗によるダイエット法と同じです。 しかし、本当に熱が高いときは、そこまで着こんでも寒いぐらい。それだけ着こんで寝ていても、丸くなってガタガタ震えているんですから。 おっと、大事なことを忘れていました。寝る前に水分はしっかり取ってくださいね。 最初のうち、尿となって全部出てしまうので、枕元にペットボトルを置いて、頻繁に水分補給をする。 そのとき、最前線でウイルスと戦う免疫力に、武器兵糧を供給するとさらに効果的です。 その武器兵糧とは何か? それはご存知、ビタミン。 宇宙戦艦ヤマトの波動砲とまではいかないけれど、主砲くらいの威力でインフルを攻撃するのが、ビタミンCですな。 ビタミンCには、ウイルスに対する抵抗力を高めたり、免疫力を強化したりする働きがあるそうなんですよ。 また、ウイルスが増殖する工場であるリボゾームにウイルスが入らないよう防御する作用もあるらしい。 水分とビタミンCを一緒に取れる飲料なら一石二鳥なのですね~。 ほかにも、ビタミンAには粘膜を強化し、ウイルスの進入を防ぐ作用もあるそうですよ。 これだけの対インフルエンザ攻撃作戦をしかけて眠ったとしても、熱が高く、悪寒もひどいので、悪夢にうなされることになります。 しかし、この苦しみは、ウィルスが熱と湿度によって、断末魔の苦しみをあげているのを実感するでしょう。 そして、深夜、目が覚める。さっきまでの悪寒がなくなり、すごい汗をかいているのに気づきます。 気持ち悪いので、下着を換え、再び水分を補給して、またウィンドブレーカーを着て横になる。部屋の湿度が高いので、風呂場にいるような気分になるはずです。 翌朝、目が覚めると、昨日と違った自分を発見するんじゃないでしょうか。悪寒が消え、頭痛もない。けだるい疲れは残っているものの、生まれ変わったような爽快感。 風邪のウィルスが、徹底した熱と湿度の攻撃で死滅してしまったんですね~。 以上が、私の風邪克服法です。加湿器を使った場合のデメリットは、気をつけないと部屋にカビが生えるってことです。全快したら、部屋をすぐ乾燥させることが肝要です。 新型インフルエンザからの生還を祈ります。
2009年10月24日
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こんばんは。 せっかくの連休なのに、ブルーになる出来事が…。 またしても、魚の骨がのどに刺さってしまったのですよ。 以前、サバの骨がのどに刺さって酷い目にあったことがあるので、魚の骨には気をつけていたのです。 しかし、まさか、うなぎの蒲焼きで骨がのどに刺さるなんて、想定の範囲外でしたね~。 かなり冷えていて、固くはなっていたのですけど。 連休で耳鼻科は休診ですので、病気の本の著者として可能な限り自分で対処しようと思ったのです。 鏡で見ると、太い骨が見事に扁桃腺の中心を貫いているのがわかりました。 ピンセットがあればベストなのですが、ないのでまずは綿棒でチャレンジしたもののあと一歩届かず…。 うがいをしてもダメ。 定番の対処法であるごはんの丸飲みも効果なし。 発想の転換で、骨を抜くのではなく、柔らかくして、いわば「骨抜きの状態」にしてみてはどうかと閃きました。 そこで、酢の一気飲み~。 オェェェェェェェェェ~!!! 酢の物を食べる気分でやったのですが、強烈な刺激臭で、思わず吐き気がこみ上げてきました。 嘔吐しなかった自分を褒めてあげたい。 痰を取る要領で、電気掃除機で吸い取る作戦も考えたのですが、脳味噌まで吸い取られる心配があったので断念しました。 仕方なく、対処法をネットで検索することに。すると、足のツボを刺激して、魚の骨を取る方法があるのを見つけました。 一応、その通り試してみて、やっぱりダメじゃんとあきらめ、コンビニでピンセットを買ってこようと思ったのです。 そしたら、急にのどが楽になったと気づきました。 鏡で見たら、魚の骨が取れているじゃあ~りませんか。 まさか、足のツボを刺激して、魚の骨が取れたのでしょうかね。 そうだとしたら、恐るべし、東洋医学。 東洋医学の勉強もしようと考える今日この頃です。 …ということで、先週の鎌倉お散歩ネタの続きです。 インターナショナルな観光地、高徳院を出て、ふたたび喧騒の街へ。 大仏様へ通じる大仏通りは観光客でごった返していたのですが、そこから一本通りを入ると、閑静な鎌倉の雰囲気が味わえました。 混沌と静寂のコントラストが鎌倉の魅力かもしれませぬ。 住宅街をテクテク歩き、次に向かったのはそこからほど近い場所にある光則寺。 このお寺は、緑あふれる丘に囲まれたような場所にあるのですな。 入り口には誰もいなかったのですが、拝観料100円という札があったので料金箱に入れて門をくぐります。 実はこの土地。もともとは鎌倉幕府5代執権であり、元寇で名高い北条時宗の父として名高い時頼の家臣だった人の屋敷だったらしい。 その人物とは、宿谷光則。 だから光則寺なのですか。 と言っても、オイラははじめて聞いた名前なのですが、彼は日蓮上人が書いた『立正安国論』を北条時頼に渡した人物だったそうなんですよ。 これが原因で日蓮は流罪になったとか。 彼は、日朗を屋敷の裏山の土牢に幽閉したそうな。 今でもその土牢が残っているというので、行ってみることにしました。 寺の本堂から少し登り、裏山へ続く石畳の小道を歩きます。ひっそりとしてなかなか風情のある道ですが、向かっているは土牢ですからね。 土牢といえば、有岡城に長く幽閉され、足が不自由になってしまった黒田如水。そして日朗と同じく鎌倉に幽閉され殺されてしまった南北朝時代の護良親王が思い浮かびます。 鎌倉には、ほかでも土牢を見たような。 山に囲まれているので、崖を掘ればすぐ牢が作れるからでしょうか。 土牢なんかに幽閉されたら、夏は暑いし、冬は寒いし、閉所恐怖症になりそうだし、たまりませんね。 …と考えつつ、土牢の前に到着しました。 でも、ここの土牢は思ったより天井が高くて、都心のワンルームマンションより広そう。他の土牢に比べたらグレードが高いような感じがしました。 といっても、もちろん、ここに住む気にはなりませんが…。 薄暗くて、ジメジメしていますし。 この中に、お坊様が幽閉されていたのだと思うと、感慨がこみあげてきます。 でも、ここに日朗を幽閉した宿谷光則は、やがて彼に感化され、自らの不運を嘆くことなく、弟子の日朗を案ずる日蓮に心打たれたそうです。 そして後に、日蓮が赦免されたあと、彼自身が日蓮宗に帰依し、自宅を寺にしたのですね。 境内は、カイドウの銘木や四季の花々で埋め尽くされ、当時の人たちの真摯な心を称えるように光り輝いておりました。 そしていよいよウォーキング後半戦のハイライト、長谷寺へと向かいます。 お寺なのですが、迫力ある仏像、絶景ポイント、洞窟探検、グルメスポット、しっとりした日本庭園、そしてかわいらしい石像と見所満載なのですね~。 楽しむのはいいけれど、お参りは忘れないようにしようと肝に銘じつつ、拝観料300円を支払い、境内に入ります。 石段を上り、まず観音堂へと向かいました。やはりこちらのお寺も外人さんが多いですね~。 こちらのご本尊は、十一面観世音菩薩像でございまする。 もちろん前にもお参りに来たことがあるのですが、20年前と比べてさらに崇高な雰囲気が増しているように感じました。 薄暗い中、ライトに照らされて浮かび上がっているかのよう。 しかも、9.18メートルの巨像で、木造の仏像としては日本有数のものらしい。 思わず、引き込まれてしまうのか、いつも陽気な外人さんたちも厳粛な顔で手を合わせておりました。 いつ頃作られたか定かではないそうですが、室町時代頃の作と推定されているそうですな。 お参りして心が洗われたオイラが次に向かったのは、境内の端にある見晴台。 ここにはたくさんベンチが並べられていて、鎌倉の市街地や由比ガ浜を見下ろすことができます。 起伏のある境内なのは、もともと観音山の裾野に広がる土地に作られたからなのですね。 さらに高いところから由比ガ浜を見渡すことができる「眺望散策路」があるということで、足に自信のあるオイラは行ってみることにしました。 整備された石段を上ると、山に囲まれ、一方だけ海に面している鎌倉の地形がよくわかります。城塞都市としての機能も頷けますな。 遠くに見える海水浴場から、若者たちの嬌声が風に乗って聞こえてくるのがわかりました。 オイラの耳には、稲村ガ崎から鎌倉を攻める新田義貞の軍勢の馬の嘶きの声に聞こえるのですが…。 再び境内へ降りて、経堂、大黒堂、阿弥陀堂などの建物を見学します。 長谷寺の境内は、今眺めてきた観音山の中腹に切り開かれた上境内と裾野に広がる下境内の二つに分かれているそうですね。 石段を降り、下境内の日本庭園を見学します。妙智池と放生池の2つの池が配され、その周囲を散策できるのですな。 四季折々の花木に彩られた庭園は、「鎌倉の極楽西方浄土」とも呼ばれているそうな。 の片隅に、なんともかわいらしいお地蔵様が立っておりました。 若い女性に人気があるのか、皆集まってケータイのカメラでさかんに写真を撮っています。 女性に人気があってうらやましいとジェラシーにかられながら、オイラも写真を撮らせてもらいました。 そしてオイラが注目したスポットは、弁天窟。 崖を掘って洞窟みたいにし、中の壁面に、弁財天や十六童子が刻出されているのですね。 中は思ったより広いけれど、薄暗い。お化け屋敷みたいと入り口で尻込みする子供たちも見かけました。 わりと真っ暗な洞窟は好きなので、わくわくしながら入ります。 ろうそくの光にぽうっと仏像が浮き出る光景は神秘的で、テレビで見た中国の寺院をイメージしてしまいました。 天井が低い場所も何箇所かあり、頭をぶつけてしまいましたが…。 長谷寺を堪能したあと、向かったのは御霊神社。 ネーミングからも、雰囲気からも由緒ありそうな神社ですね。 それもそのはずで、この社は、鎌倉始祖の鎌倉権五郎景政を祀った神社だそうな。 解説板によると、鎌倉権五郎景政公は、剛勇で知られた武将で、後三年の役には16歳で出陣し、源義家に従って活躍したらしい。 なんか、霊気を感じる佇まいで、この場所にいたら、タイムスリップしても不思議ではなさそう。 御霊神社の境内のすぐ近くに、江ノ電の踏切がありましたが、平安時代と昭和を思わせる江ノ電がなんの違和感もなく溶け込んでいるのが印象的でした。 踏み切りを越え、突き当りの通りを右折して成就院へと歩きます。 小高い丘の上にある成就院は、弘法大師修行の地に執権北条泰時が開基したお寺。 この下を通る道は、極楽寺坂切通しと言い、1333年、鎌倉攻めの新田義貞の侵入をふせぐため、幕府方の軍勢が集結して激しい戦いが行われたらしい。 そのとき、このお寺も焼失し、江戸時代になってから再建されたのだそうな。 お寺の前からは、由比ガ浜を一望することができました。 両側が山に囲まれた切り通しの道に、かつて数万の軍勢が満ち、激しい戦闘が行われたなんて信じられませぬ。 そんなことを考えながら歩きつつ、最後の目的地・極楽寺へ。 かつてここでも合戦が行われ、多くの伽藍が失われたそうですね。境内は入場無料なのですが、写真撮影は駄目だとかで残念。 その代わり、極楽寺駅のそばに鎌倉時代の武将の墓があるというので行ってみることにしました。 アパートに入っていくような感じのわかりにくい場所にありましたが…。 苔むして、いかにも歴史を感じさせるこの墓の主は、関東管領で、山内上杉氏の始祖である上杉憲方と伝承されているそうな。 関東管領は、上杉謙信で有名ですが、上杉憲方という武将は知りませんでした。 質実で無骨さを感じさせる墓石は、やはり鎌倉武士を連想しますね。 帰りは、江ノ電を使って再び鎌倉に戻ります。 ホームでは何人も江ノ電の車両を写真におさめている人を見かけました。 やはり江ノ電は鉄道ファンにとって格別の魅力があるのでしょうね。
2009年10月11日
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こんにちは。 東京のオリンピック招致は残念でしたね。 人生で二回も自分の住む町でオリンピックが開かれたら、すごく幸せだと思っていたのだけれど…。 …といっても、前回、東京で開催されたとき、オイラは幼稚園児だったのでほとんど記憶にありませぬ。 東洋の魔女も、円谷の銅メダルも、オランダの赤鬼と呼ばれたヘーシンクも、リアルでの記憶にないのでした。 覚えていることといったら、幼稚園で先生から白い紙を渡され、真ん中にクレヨンで赤い丸を描くように言われたことくらい。 その紙を棒につけて、みんなで向かったのが原宿です。 駅前に出ると、すごい人ごみで全然前が見えませんでした。先生が、日の丸を振って、という掛け声にあわせて、自分が何をしているのかよくわからないまま手を動かしていると、大人の肩越しにスーッと煙が右から左へ流れました。 そのとき、どっと歓声があがったのはよく覚えています。 大人の背中と煙を見ただけで帰ったのですが、当時は、一体何しに来たのじゃ~と…。 大人になってから考えると、あれは聖火リレーの応援に行ったのだとわかりました。 あれからおそらく百回以上は原宿へ行ったと思いますが、あんなに盛り上がった原宿は見たことがありませぬ。 やっぱり、オリンピックだけは別物ですよ。 今度こそ、聖火リレーをこの目で見たかったのに。 オイラの目が黒いうちには、東京でオリンピックが開かれれば最高っす。 是非またチャレンジして欲しいですね~。 さて、お散歩ネタ。 今回行ったのは、古都・鎌倉です。 鎌倉といえば、日本史の聖地のひとつですね。 しかし、歴史好きのくせに、鎌倉へはそれほど行ったことがないのです。 関東屈指の観光地ということで、いつ行っても結構混んでいるし、小町通りの原宿とみまがうようなお洒落なショップは、オヤジの琴線をあまり刺激しなかったりで…。 でも、鎌倉は文士の街でもあるのだとか。オイラの好きな作家の川端康成も住んでいたらしい。 加賀百万石の旧前田侯爵の別邸を利用した鎌倉文学館へはまだ行ったことがなかったので、久しぶりに訪れてみようと思ったのです。 およそ20年ぶりに、鎌倉の大仏や長谷寺の十一面観世音菩薩にもお会いしてみたくなりましたし…。 おそらく、大仏様と長谷寺以外は、休日でも比較的すいているのではないか。 …ということで、ある土曜日の早朝、鎌倉駅におりたちました。 オイラの家から横浜まで、東急を使えば260円。横浜から鎌倉まで横須賀線で330円とリーズナブル。 時間も1時間たらずで行けるのですね~。 今回は、鎌倉のメインストリート若宮大路方面ではないので、いつもと反対側の西口の改札から外へ出ます。 こちらは江ノ電のターミナルでもあるのですね。 江ノ電の線路を左手に見ながら、商店街をテクテク歩きます。 大通りに出て、しばらく歩くと車が行き交う交差点にお地蔵様が並んで立っておりました。 六体のお地蔵様は六地蔵と呼ばれ、今でも地元の人たちから敬われているらしい。 なんでも、鎌倉時代、この近くに刑場があったそうな。その後刑場が竜口に移されたあとも、このあたりは荒地だったとか。やがて六地蔵を立てて使者の霊を弔ったのですね。 そういえば、東京にも六地蔵があった記憶がありますが、人間の持つ六つの苦しみから救ってくれるそうなのです。 今は当時の寂しい面影はまったくありませんが、近所の人たちのお参りする心は今も引き継がれているのだと感じました。 大通りから入ったところに、吉屋信子記念館があります。 吉屋信子は、大正・昭和の時代に活躍した作家。この人の作品はひとつも読んでいないのですが、名前はいろいろなところで見て知っていました。復刻版も出版されているそうなので、根強いファンは多いのでしょう。 この立派な塀の中にある家に当時住み、その後、土地・建物などが鎌倉市に寄贈されたそうな。 記念館というからいつでも入れるかと思ったのですが、常設展示はしていないみたい。 古い日本家屋が好きなので、入ってみたかったっす。 そこから程近い場所にあるのが鎌倉文学館。 鎌倉文学館というくらいだから、鎌倉ゆかりの文学、特に鎌倉文士をテーマにした資料館なのですな。 たんなる資料館というだけでなく、ここの魅力はなんと言ってもその建物。 もともとは、1890年頃に侯爵 前田利嗣の鎌倉別邸として作られたとのこと。ところが、明治の終わりに火事により失われ、現在の建物は昭和11年に洋風に全面改築されたのですね。 3階建てですが、3階は木造で非公開なのだそうな。 ゆるい坂道を登ると、やがて石組みの立派なトンネルが。 三島由紀夫の作品にも登場する有名なトンネルだそうですね。 トンネルをくぐると左手にモダンなたたずまいの洋館が現れます。この洋館は、戦後の一時期、デンマーク公使や内閣総理大臣 佐藤栄作の別荘として使用されたのだとか。 このゴージャスな佇まいは、政界の団十郎と呼ばれた佐藤栄作のイメージにぴったりかも。 その後、前田家から鎌倉市に寄贈され、外観をそのままに内部の補修・収蔵庫の新築を行い、鎌倉文学館として蘇ったのですね~。 中に入り、夏目漱石や川端康成の自筆原稿の展示などを眺めていると、作家の息遣いが感じられそう。 洋館の豪華な内装と窓からの広々とした芝生も眺められて得した気分になりました。 行った日は、木村裕一著作の人気絵本シリーズ『あらしのよるに』の特別展が開かれておりました。 絵本のタイトルは知っていましたが、子供たちの情操教育にもなる内容なのですな。 文学館の前の芝生広場からは、由比ガ浜とその先に広がる相模湾を見下ろすことができました。 次に向かったのは、甘縄神明神社。 この神社が創建されたのは、710年というから、なんと奈良の平城京が作られたのと同じ年なのですか。 鎌倉最古の神社といわれ、鬱蒼とした森に抱かれた境内はさすがに歴史を感じさせます。 この神社は代表作のひとつ、「山の音」のなかで主人公・信吾の家の裏山の神社として描かれているそうですね。 ウィキペディアには、鎌倉の長谷に住む、62歳になり老いを自覚するようになった尾形信吾が息子・修一の嫁・菊子に対して抱く情愛を、鎌倉の美しい風物とともに描いた作品だとありました。 確か、主人公が夏の寝苦しい夜に、山のほうから、恐ろしい音を耳にするシーンからはじまったような。この地の底から響いてくるような音に、主人公は死の予告を受けたように感じた…? もう随分前に読んだので、詳しい内容は忘れてしまいましたけど。神社の参道の近くには、川端康成が暮らしていた邸宅があるらしい。 すると、主人公・尾形信吾は川端康成の分身なのかも。 オイラも、「山の音」を聴こうと耳をそばだてましたが、聴こえるのは蝉の鳴き声ばかり。 ノーベル賞作家とは感性が違うのだから、これは仕方ないっす。 そして、いよいよ鎌倉の大仏さまへ。 大仏さまのおわす高徳院へ向かう道は、まさに観光ストリート。 さまざまな土産物店やお洒落な飲食店が建ち並んでおります。 拝観料の200円を支払い、高徳院の境内に入って、20年以上ぶりに大仏さまに再会しましたぁぁぁぁぁ~!! オイラは結構年をとっちゃったけれど、大仏さまは昔と全然変わりませんな。 むしろ若返ったみたいで…。 それもそのはず、完成してから750年以上もこの地に座り続けておられるのだから、20年という月日はないも同じなのでしょうね。 土曜日だったので、境内はすごい人ごみでした。 でもよく見ると、日本人より外人さんのほうが多いみたい。 人口比率からすると、6;4で外人観光客のほうが多いのではないか。いろんなところで外国語が飛び交い、一瞬、日本にいることを忘れるような雰囲気でした。 そういえば、奈良の東大寺の開眼のときも、世界の国々から大勢の人たちが集まったそうですな。大仏さまは、外国人をも魅了するのでしょうね。 ところで、奈良の大仏さまとの大きな違いは、建物の中にいらっしゃるのではなく、露座の大仏となっている点。 もともとは、東大寺の大仏と同じように、立派な大仏殿があったそうなんですよ。 しかし、何度か建て直されたものの、台風で倒壊したり、津波で押し流されたりして、結局、露座という現在形になってしまったのですね。 建物の中もいいけれど、緑の木々をバックにした大仏さまも、最初から計画して作られたようにピッタリ景観にはまっています。 よく見ると、結構イケメンだったりして。 ちなみに、この大仏は阿弥陀如来で、高さは12.38m、総重量は121トンもあるとのこと。 20円支払えば、大仏の体内も見学できるのですが、外国人が長蛇の列を作っていたのでまたの機会にしました。 今度訪れるのはいつになるかわからないですが…。 後ろにまわると、背中には窓があります。 なんか、天使の羽みたいでかわいく感じるのはオイラだけでしょうか。 それにしても、外国の人たちからカメラを渡され、シャッターを押してくれとさかんに頼まれます。 お安い御用じゃと、何度も応じたのですが、当然の顔をして英語で話しかけられるのにはさすがに閉口しました。 まさか、オイラは、外人には見えないと思うのですけどね。 一見すると、外国語を話しそうに見えるけれど、オイラはまったくしゃべれないのじゃ~。 昔は、英単語も多少は知っていたし、翻訳のバイトもしたことがあったのです。 読めるけれど、書けない、話せない、という戦後の英語教育の問題点を実証している自分に改めて気づくのでした。 このままここにいると、また英語教育の失敗例として落ち込みそうになったので、逃げるように大仏さまをあとにしました。 ここから長谷寺や極楽寺へ向かうのですが、それはまた次回。
2009年10月03日
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こんばんは。 前回のブログで、お花茶屋から白鳥、青戸周辺を「葛飾区の葛西と呼ばれる辺り」と書いてしまったのですが、葛西という地名は江戸川区にありますね。 調べてみますと、葛西は、広義では「武蔵国葛飾郡」を指す言葉でもあるそうなんですよ。現在の行政区分では、東京都墨田区、江東区、葛飾区、江戸川区にあたるらしい。 狭義ではもちろん、江戸川区葛西。 ですから、前回の「葛飾区の葛西と呼ばれる辺り」という表現は間違いで、正確には、「かつて武蔵国で葛西と呼ばれた地域の中心地。現在の葛飾区青戸周辺」と書かなければいけないのでした。 ご指摘、大変参考になり、ありがとうございました。お詫びして訂正させていただきます。 さて、今日は前回の続きの上千葉砂原公園からですね。 この公園は住宅街の中にあって、それほど広くはありませんが、子供が喜びそうなアイテムがてんこ盛りの公園でした。 まず、オイラが目についたのは交通公園。 実際のハイウェイみたいなガードレールや高低差もあるから、この道を自転車で駆け抜けたら気持ち良さそう。 浅いプールもあって、親子連れの歓声が公園の中を満たしておりました。 小高い展望広場や芝生広場もありましたが、なんと言っても、うさぎやモルモット、ワラビー、ヤギなどと子供たちが自由にふれあえるスペースがあるのはうれしい。 しかも、ポニーも飼われていて、無料で乗馬体験もできるのですね~。 大人は乗れませんので念のため。 それから実物のSLが展示されていて、こちらも自由にふれあえるのを忘れてはなりませぬ。 子供の頃、うちの近所にもこんな公園があったら楽しかったでしょうね。 オイラの子供の頃は、ホントに遊び場がなかったんですよ。 現在は、近くに日比谷公園クラスの広さを持つ都立公園ができましたけど、当時は狭い道路が子供たちの遊び場でした。 それも、騒がしいと近所のおっさんによく怒鳴られ…。 仕方なく、空き地みたいになっていた近所の大学のグランドに友達と忍び込んでは、野球をしていたのです。 そこの警備員のおっさんがまた怖くて、子供たちが遊んでいると大きな犬を放つのです。 犬に追いかけられて、金網に引っかかり、体中血だらけになったこともありました。 今だったら、子供に怪我を負わせたということで新聞に載っていたかも。 もっとも、当時は子供の数が多かったですからね。 こんなところにも、経済の需要と供給の関係が作用しているのだろうかと考えつつ、ふたたび曳舟川親水公園へと戻ります。 そこには、当時の船着場を再現した小屋があり、地元のお年寄りが集まって茶飲み話に花が咲いておりました。 江戸時代の駅やバス停みたいなものですな。 親水公園をさかのぼって歩きます。 暑い日は、水辺を歩くのが最高の贅沢。ここでも、子供たちが水と戯れている光景を目にしました。 信号のところで親水公園を後にし、よく手入れされた庭が美しい蓮光寺にお参りしたあと、亀有さくら通りに出ました。 読んで字のごとく、風情のある道沿いには桜並木が続き、春には素晴らしい桜のトンネルが堪能できそうだと感じます。 地図を眺めながら住宅街をテクテク歩き、環七通りの近くにある宝待院に到着しました。 ここには、この近くの領主であった松浦河内守信正の墓碑がありました。江戸時代の旗本だと思うのですが、長崎奉行を務めたそうなので、おそらく仕事のできる人だったのでしょうね。 ということで、いよいよ環状七号線に出て、葛西城址へと向かいます。 本丸が、環七によって真っ二つに分断されたのですが、どちらも現在は小さな公園になっているそうな。 写真の手前が御殿山公園で、道路の向こう側の木がたくさんある場所が葛西城址公園っす。 まずは近くの御殿山公園へと向かいます。 御殿山というくらいだから、葛西城の本丸御殿のあったところですか。しかし、後北条氏が滅びたあと、ここは徳川氏の「青戸御殿」として修理再興されたそうですな。そして、将軍の鷹狩りの折などに休憩所として使用されたらしい。 そちらの御殿が由来なのかと思いました。 その青砥御殿も、江戸時代のわりと早い時期に取り壊されたのですね。 幕府としても、一国一城令など、謀反の拠点となるような城が各地にあったのでは不安だったのでしょうし、なんといっても、ここは将軍のお膝元。 青砥御殿の存在していた頃は、おそらく土塁や堀も多少残っていたのでしょうけど、御殿の取り壊しにあわせて、徹底的に痕跡すらなくされてしまったのではないか。 城があったことを思わせる地名は最近まで残っていたそうですが、土地を見る限り、城跡とおぼしき痕跡は見つけられませんでした。 もっとも、「青砥藤綱城跡」と書かれた石碑や最近できた石碑はありました。 でも、城好きとしては後世の石碑が大量にあるより、土塁を思わせる土の盛り上がりや堀を思わせる窪みがあったほうが何百倍もうれしい。 狭い公園なので、ものの3~4分で一周できてしまいます。近くの住宅街を歩き回ったのですが、城跡を思わせる何の痕跡も見つけられませんでした。 もともと葛西城は、室町時代の初期に関東管領上杉氏がこの地に築いたのがはじまりだそうな。 当初は、大石石見守という武将が城を守っていたらしい。 その後、戦国時代に小田原の後北条氏が攻め落とし、家臣の遠山氏が城主として在城。秀吉の小田原征伐まで、この地域の拠点として栄えたのですな。 この城が重視されたのは、武蔵と下総との国境に近い場所にあり、今の千葉県北部に当たる下総国に対する重要拠点でもあったから。 北条方の前線基地として、国府大合戦では安房の里見軍からさかんに攻撃をうけたのだそうな。 当時はかなり防御能力が高い城だったのでしょうね。 さきほど見学した郷土と天文の博物館では、近くにある中川を天然の要害として外堀に見立て、反対側は湿地帯となっていたと解説がありました。 水量の豊富な中川から水を引いて内堀を作り、その幅は20メートルほどもあったとか。 うぬぬ、イメージできませぬ。 標高1メートルほどの低地にあって地下水位が高いので、埋もれた木製品などがいい状態で保存されるというメリットもあるそうなのですよ。 そういえば博物館では、ほかの城跡ではあまりお目にかかれない木製のお椀の出土品が目につきました。 環七を渡り、葛西城址公園へと向かいます。ここは、本丸の端っこの部分ですな。 城址公園とは言うけれど、こちらは児童公園といったいどこが違うのじゃ~という感じでした。 でも、さきほど博物館で眺めた縄張り図と公園の外側の輪郭線のカーブが微妙にマッチングするような。 公園の外側を低い石垣で囲むのも何となく意味深だったりして。 土地の区画は、もしかして、現在までその影響が残っているのかもしれない。 と思って、公園のまわりの道路を、バシバシ写真に撮りました。 家に帰り、ネットで葛西城の縄張りと現在の道路の位置を重ね合わせると、かなり一致しているような。 埋めた堀を道路として利用していたのかも。 しかし、それにしては現在の道路の幅が狭い感じもするのですが…。 公園のそばにある青砥神社にお参りし、中川の土手に出てみました。今もゆったり流れる中川は、当時の葛西城の難攻不落を証明するかのようでした。 水戸街道をわたり延命寺、川をわたった中川大橋のたもとにある日枝神社と、次々とお参りしてまわります。 このあたりは古い神社仏閣が多いと思ったら、江戸時代、このあたりは宿場町として大いに栄えたそうですね。 再び中川を渡ると、そこは亀有駅のすぐそば。 駅のすぐそばのスーパーで、88円の生茶と「がりがりくん」をゲッツし、駅へ入ろうとすると、面白い形をした像がありました。 おお、両さんじゃないっすか。 そういえば、亀有は、「こち亀」の舞台なのでした。 オイラより横幅はかなりあるものの、意外と背が低いのは原作を忠実に再現したためでしょうか。 あとで、ネットで調べてみると、両津勘吉巡査長の身長は、161センチ、体重71キロだそうな。頭が大きいから、90キロくらいありそうに見えるのですが…。 それはともかく、「こち亀」はすごいですね。 今年、連載1600回を突破したのはすごいですが、30年以上にわたる連載で一度も休載したことがないのだそうな。 少年誌の最長連載記録として、ギネスブックに載り、コミックスは累計1億5000万部以上の売り上げなのですか。 最初にジャンプに登場したのは、確か、オイラが高校生だったと記憶しています。その頃から、一度も休まず、今まで続いているのですね。 よくネタが尽きないな、と思いますが、これだけ長く連載していて、作者があきないで書き続けられるという点がもっとすごいと思いました。 そういえば、初めの頃は、「秋本治」という名前ではなく、「山止たつひこ」というペンネームで連載していましたね。 当時は、山上たつひこの「がきデカ」が一世を風靡していた時期。 がきデカファンとしては、また二番煎じの作品が登場したな、というくらいのイメージしかなかったのですけど、まさか、こんなに長く日本人から支持される作品になろうとは思いませんでした。 その後、本家の山上たつひこからクレームがついて、秋本治に変更したと聞きました。 がきデカがオイラのアイデンティティ、あるいは人格形成に与えた影響ははかりしれない。 成人後のこまわり君の大ブレイクで、捲土重来を期してほしい山上たつひこですが、ここはひとつ、「夏本治」とかのペンネームに変更して、昔の敵をとるのも一興かと…。
2009年09月21日
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こんにちは。 いよいよ明日、「火天の城」が全国ロードショーっすか。 オイラは、あまりロードショーへは行かない人なのですが、なんと言っても城が主役の映画。 しかも、安土城築城にまつわる話ですからね。原作も、もちろん読んで面白かったし…。 城好きとしては、スルーできないなと感じる今日この頃です。 福田沙紀ちゃんも出ているらしいし…。 実はオイラの高校時代の日本史の研究テーマは「安土城」なのでした。 発表の30分間、黒板にチョークで安土城の外観と内部の図面を描きながら解説したのです。 外観と内部構造は頭に入っていたので、何も見ずに、黒板一杯のワイド画面に「安土城」を描いたのですよ。 日本史の教師やクラスメートは驚きましたけど、城ヲタクですからね~。別に驚くほどのこともないのではないか、と…。 でも、当時は安土城の内部は「吹き抜け構造説」が主流でした。「火天の城」では、吹き抜け構造説には否定的な見解なのですか。 確かに、当時の人たちが吹き抜け構造を明言している文献がないのはおかしいですよね。 吹き抜け構造のメリットも、それほどないような気もしました。何しろ、その前後の城を見ても、同じ構造を持っている城が皆無なのはおかしい。 …が、しかし。そうは思っても、安土城へ実際行ってみると、他の城とは一目で違いがわかります。 「日本初の本格的天守閣を持った城」という点を除いても。 現地を見ると、織田信長という人物の独創性にはホント、驚かされます。 城には、築城主の個性が完璧に表れますな。 その話を書くと長くなりそうなので、それはまた次回に書くことに致しまする。 さて、お散歩ネタ。 今回行ったのは、葛飾区の葛西と呼ばれる辺り。 なんでも、戦国時代に、葛西にかなり立派な城があったそうなんですよ。 安土城ほどではありませんが…。 もちろん城好きとして年季が入っているオイラですから、当然訪れたことはあります。 でも、そのときは、城跡とおぼしき痕跡はまったく発見できなかった記憶があります。 あれから十年近く経っているし、その後、ブログの記事とともに、かなりの城跡を見てきたオイラ。 もしかして、当時より城を見る目が進化しているのではないか。 新たな城跡の痕跡を発見できるのではないか、という自らの成長を確かめるためにも、再度訪れることにしました。 成長度をテストするためにも、ウォーキングコースは前回と同じでなければなりませぬ。 …ということで、ある土曜日の朝、京成線のお花茶屋駅へやってきました。 お花茶屋とは、なんとも、心浮き立つネーミングですな。 思わず、御茶屋が一軒、季節の花々に囲まれているのどかな風景をイメージしてしまいます。 ところが、駅前は、商店が建ち並ぶ何の変哲もない景色。 清潔感はあるけれど、あまり花に囲まれた御茶屋という雰囲気ではないような。 …と思って、ガイドブックを読んでみると、お花茶屋のお花は、植物ではなく、「お花さん」という茶屋の娘の名前が由来らしい。 駅名になるくらいだから、よっぽど美人で、日本全国からファンがサインをもらうために集まったのかと思いますよね。 実は、八大将軍吉宗が、この近くで鷹狩りを行った際、急に腹痛を起こしたそうなんですよ。 そのとき、御茶屋の娘、お花の献身的な看病で治ったため、吉宗は、茶屋の名前に「お花茶屋」を与えたのだとか。 最近、歳のせいか疑り深くなっているオイラは、天下の将軍様が、いくら急に腹痛を起こしたからといって、茶屋の娘に看病させるかニャーと思ってしまいます。 江戸城からそう遠くないし、平地だし、お供の人たちは大勢いたのではないか。 しかも、もともと茶屋の娘だから、お花茶屋なんてネーミングは、自然発生的に生まれたような気もするのですが…。 自分の名前の一字をとって、「お宗茶屋」とか「よっし~茶屋」とか、名づけたら多少信用しますけど。 それはともかく、いつ「お花茶屋」のネーミングが生まれたかわかりませんが、吉宗の「暴れん坊将軍」的なエピソードが当時からあったとしたら興味深いですね。 松平健を介抱するお花さん役は、どんな女優さんがいいかなと考えながら、最初の目的地、お花茶屋公園に着きました。 この公園は、お花さんとは直接関係ないのでしょうけど、どうしても御茶屋をイメージしてしまう。 茶屋はありませんでしたが、地元のおじさんたちが缶ビールを飲みながら談笑していたので、「やるき茶屋」のイメージはしましたが…。 お花茶屋商店街をテクテク歩き、私立高校の掲示板にあった大学進学実績などを眺めながら、次の目的地、普賢寺を目指します。 住宅街の中にある普賢寺は、鎌倉幕府設立に貢献した葛西清重が創建したお寺。 境内に宝篋印塔は、葛西氏の墓と推定され、鎌倉後期の様式のものだそうですね。 なんと、都内最古のものだそうで、都の文化財なのだとか。 もと来た道を戻り、上千葉公園の中を通り、左手に都営アパートを見ながら進むと、親水公園に出ました。 ここが曳舟川親水公園なのですな。 行った日は暑かったので、子供たちが涼しそうに水遊びをしています。オイラも、飛び込みたかったけれど、ここは理性を働かせて、親水公園のそばにある博物館へと向かいました。 暑いときは水遊びもいいけれど、やっぱしクーラーの効いた屋内が最高~。 この博物館は、葛飾区郷土と天文の博物館。 ちなみに入館料は大人100円で、プラネタリウムをトッピングすると、プラス350円なのですな。 2階の『郷土史のフロア』をたっぷり見学したかったので、100円だけ支払い、中に入ります。 展示物を眺めると、船や洪水のときの映像など、葛飾区がいい意味でも悪い意味でも、水とのかかわりが深かったのだなと実感できました。 江戸時代は、糞尿が肥料として貴重だったそうですが、それを運ぶ船の模型もありました。 昭和の水洗トイレのない頃にも、バキュームカーという車が都内を走っていて、すごい臭いだったのを覚えています。 船の模型を見ながら、視覚と嗅覚でイメージできる人は、これから少なくなっていくのだろうなと考えたり…。 古墳時代から、室町、戦国、江戸時代の葛飾の歴史に興味津々で展示物を眺めました。 しかし、なんと言っても、その展示物から一歩も動けなくなったのが、葛西城にまつわる出土品でした。 前回来たときは、こんなに充実してなかった記憶があるので、最近の戦国ブームの中でパワーアップしたのでしょうか。 葛西城の本丸のあった場所は、昭和40年代に環状七号線が開通したとき、分断されてしまったらしい。 そのとき、発掘調査が行われ、そのあとも引き続き調査が続けられたのですね。 発掘や紹介ビデオを全部見ましたが、思っていたよりずっと大規模な城郭だと感じました。 もしかして、当時は館程度と言われた江戸城より大きかったのではないか。 古河公方も、一時期、在城していたらしいですし…。 当時は、戦国時代の真っ只中。後北条氏や上杉氏、千葉氏、里見氏など関東の看板役者たちが大活劇を演じていたのです。 ビデオを見ていたら、葛西城の堀の跡から発見された、若い女性の頭蓋骨の映像に目が留まりました。 頭蓋骨には、刀で斬られた傷があります。 打ち首のあと、堀へ投げ落とされたのでしょうか。 歴史小説では、首をいくつ取ったとか、取られたとかいう表現をあまり意識しないで読み飛ばしてしまいますが、やはりホントにスパッと切られた頭蓋骨を見ると鳥肌が立ちます。 しかも若い女性の惨殺死体の衝撃映像。 大学時代は、法医学の授業を選択し、一年間みっちり変死体のスライドを見続けましたから、普通の人よりは大丈夫なのですが…。 どんな女性が、どんなシチュエーションで首をはねられたのか、いろいろ考えてしまいました。 博物館には、そのほかにも、昭和30年代の民家の暮らしが再現されていました。 ちゃぶ台に白黒テレビ、どれもよく覚えているなと思ったら、オイラの暮らしは多少の電化製品が新しいほかは、当時とあまり変わっていないのでした。 いや、むしろ、昭和30年代の暮らしのほうが裕福だったりして…。 それにしても、ミゼットが懐かしい。 30歳代の人たちは、サザンの桑田さんの映画「稲村ジェーン」でご存知かもしれませんね。 ただ、オイラの子供の頃、家にこのミゼットがあったんですよ。 家の人に乗せてもらったのをおぼろげに覚えています。 2階の『郷土史のフロア』から3階の『天文展示室』も覗いてみました。 歴史には多少詳しいくせに、天文学など理科系の部屋に一歩足を踏み入れただけで、急にそわそわ落ち着かなくなります。 うぬぬ、わかりませぬ。 月の満ち欠けのしくみくらいはわかるけれど、少し数式が出てきただけで鳥肌がぞわ~と立つオイラ。 熱心に展示を眺める小学生を尊敬の目で眺めつつ、早めに退散することにしました。 博物館を出ると、紫外線満載の直射日光の攻撃を受け、目の前がくらくらするのがわかります。 なるべく日陰を探して歩こうと思ったのですが、曳舟川親水公園はほとんど日陰がないっす。 それでも子供たちが元気に水と遊ぶ姿に元気をもらいつつ、前に進みます。 ちなみに、この川はもともと飲料水用の水路として作られたらしい。江戸時代後期になると縄をかけた小舟を曳いたことで「曳舟川」と呼ばれるようになったのだとか。 思ったより、子供と一緒になって水遊びをしたり、ザリガニを釣ったりしている大人が多いのですね。 まさに、都会の中を流れるオアシスですな。 うちの近所にも川はありますが、ほとんど暗渠になっているし、親水公園にしてもらうとありがたいのですが…。 毎日、海パンはいて水と戯れていたりして。 そんなシーンを想像して、笑いながら到着したのが、上千葉砂原公園。 ここは小さいながら、見所のいろいろある公園でした。 これから、当日のメインデッィシュ、葛西城址へ行くのですが、果たしてビジベンは、葛西城の痕跡を発見できるのか。 それは次回。
2009年09月11日
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こんにちは。 三浦半島・追浜シリーズ、第二回目の今日は、鷹取山ハイキング。 垂直に切り立った断崖絶壁の岩肌で、「湘南妙義」とも言われておるそうな。 何十年も、東京周辺をほっつき歩き続けているのに、なぜ今まで行ったことがなかったのだろうと不思議になるくらい面白い場所でした。 …ということで、追浜駅から京急線の線路をわたり、今度は半島の内陸部を目指して歩きます。 まず向かったのは、首斬観音。 なんとも、恐ろしげなネーミングの観音様ですなと思ったのですが、お地蔵様も観音様もなく、ただ石碑があるだけでした。 解説板には、江戸時代、追浜を領地とした各大名家の陣屋があり、このあたりはその処刑場であったと書かれています。 昭和初期、近くを走る国道建設の際、骨が出てきてここに祭られたとか。 いわくありげな場所ですので、しっかりお参りしてウォーキングの安全を祈願します。 そこから住宅街の中をひたすら歩くのですが、この辺りの道は、ホントに山に向かっているの? というくらい普通の住宅地。 それでも、少しずつ上り坂になっているので、迷っているという気はしないのですが。 突然、きつい上り坂になり、そこを越えると、緑豊かな公園が広がっていました。 ここが、「湘南鷹取2丁目第3公園」っすか。 それにしても、長いネーミング。 この辺りに住んでいる子供たちは遊びに行くとき、絶対、「湘南鷹取2丁目第3公園へ遊びに行こう~♪」とは言わないでしょうね。 さあ、いよいよ山か、と思ったら、また住宅街。かなり大きな豪邸が並んでいます。 あれっ、ホントに鷹取山はここでよかったのかしらん。マップの写真を見ると、断崖絶壁の岩山があるはずなのに。 それでも、急坂が続いているので、とりあえず上ってみようと尾根まで行き着くと、なんと広いバス通りが…。 しかも、小学校やショッピングセンターまであり、さっきより都会に来てしまった感じがしました。 迷ったのかニャー、と犬のおまわりさんと迷子の子猫ちゃんのメロディーが頭をかけめぐります。 すると、鷹取山への表示板を発見。 近くに、コンクリートでできた細い階段、上には水道局の貯水池が見え隠れしています。 階段を上りながら後ろを振り返ると、瀟洒な住宅の屋根がどこまでも続いている。 見晴らしはいいけれど、岩山はいったいどこなのじゃ~と叫びながら、丘の頂上を歩いていくと、おおお~、突然巨大な岩が視界をさえぎりました。 その場面転換の鮮やかなこと。 まるで「オペラ座の怪人」で、ファントムに連れられたクリスティーヌが地下の大迷宮に迷い込んだみたい。 さっきまで、頭の中で鳴り響いていた「犬のおまわりさん」の旋律が「オペラ座の怪人」のテーマ音楽に切り替わるのがわかりました。 あの衝撃的なパイプオルガンの音色が大脳を駆け巡ります。 つい5分前には、都会にいたのに。 周囲360度岩の回廊の中に紛れ込むと、昼尚暗い別世界。 上を見ると、夏の日差しが緑一杯の樹木を包んでいる。その数メートル下の岩の迷宮に佇むオイラは、仮面で顔をかくしたファントムなのじゃ~。 ワハハハハハハ~ …と笑いながら、岩に反響する自分の声を楽しんでいたら、恐怖の顔をうかべながら、オイラを見ているおばさんグループと目が合ってしまいました。 また、やってしまった…。 そそくさと逃げるように立ち去るオイラ。 おばさんたちが、今日の晩、悪夢にうなされないように祈りつつ、尾根道を走って逃げました。 もう大丈夫かも、とまわりを見渡すと、ここも巨大な岩壁がそびえている。 岩肌にポツポツ開いたこの穴は何なのでしょうね。 マップを取り出して調べてみると、この無数の穴は、人間が開けたみたい。 ロッククライミングをするとき、打ち込まれるハーケンの跡なのですか。 それにしてもすごい高さ、と上を見上げたら、一人の老人が10メートルはあろうかという崖の上に腰をおろして居眠りをしているのが目に入りました。 あんなやばいとこに腰掛けたら落ちるじゃん!! 声をかけて脅かしたら落ちそうだし、とりあえずオイラも上に上って助けねば。 あわてて、巨大な岩の周りを歩き回ったのですが、どこにも登る場所がない。 いったいどこからあんなところに上ったのだろう。 もう一度さっきの場所に戻ったら、老人の姿は消えていたのです。 何分かそこにいたのですが、人の気配がないので、先に進むことにしました。 あの老人は、いったい誰なのだろうと思うのですが、いまだに謎が解明できません。 さらに歩くと、岩山に巨大な弥勒菩薩像が彫られている場所がありました。 岩に彫られた仏像はいくつか見ましたが、こちらはそれほど古くはなく昭和35年から約1年かけて製作されたらしい。 仏像の高さは8メートル、幅4メートルもあるのだとか。 自然と仏像が見事にマッチして、思わず手を合わせてしまいました。 そこから岩に囲まれたハイキングコースを歩きます。 どこの岩も例外なく穴が開いている。こんな垂直の壁を登ったのですね。 登るところを見てみたいと思ったら、その先の岩山にチャレンジしている人たちが大勢いました。 みなさん、命綱はつけていますが、手と足だけでこの垂直の壁を上まで登るのですね。 下から眺めているだけでも、スリル満点。 ロッククライミングは、体のバランスが大事なのだとわかります。 こちらのグループは若い人たちばかりでしたが、50~60歳くらいと思える中高年のグループも同じように岩山にチャレンジしていました。 中高年ばかりではなく、なんと、わんこも。 わんこは、途中でグロッキーみたいでしたが…。 近くに360度、見渡せる絶景ポイントがあるというので行ってみることにしました。 再び岩山の階段をのぼると展望台が。 そこからの眺めは最高でした。 東京湾が見渡せ、内陸部は横浜横須賀道路がミニチュア模型のように見渡せます。 ここが、鷹取山の頂上で、標高139メートルなのですか。 もっと高いと思ったのですが、東京タワーよりかなり低いのですね。 高さ600メートルの東京スカイツリーができたら、その高さは別次元かも。今から、完成が楽しみです。 鷹取山公園を後にし、最後の目的地、神武寺へ向かって歩きます。 途中、鎖場など、わりと難所っぽいところもありました。 しかも、反対側からくるのが外国人。 オイラが鎖を伝って歩きながら、「こんにちは」と言うと、いきなり、「ちかれたびー」と返され、思わず鎖から手を離して転落しそうになりました。 「ちかれたびー」なんて、いつ流行った言葉じゃ。 きっと、彼に日本語を教えたのは、オイラの世代の人間でしょうね。 死亡事故が発生したら、どう責任を追及したらいいのか、と…。 それでも、どうにか生きて神武寺へたどりつくことができました。 神武寺は、聖武天皇の夢のお告げから、724年に行基によって創建されたお寺らしい。 聖武天皇といえば、奈良東大寺や全国に国分寺を建立したことで知られる有名な天皇。奈良時代から続いている古刹なのですか。 鎌倉時代にも、源氏から信仰され、「吾妻鏡」にも記されているそうな。 この本堂である薬師堂は、江戸時代の初め頃の再建らしい。ちょっと室町時代っぽい雰囲気も醸し出していると感じました。 古いお寺だけあって、境内には由緒がありそうなアイテムが満載です。 たとえば、これは樹齢400年といわれる「なんじゃもんじゃの木」。 そして、神武寺の晩鐘として名高い鐘楼。 ちょっと屋根が不釣合いなほど大きくて、思わず目を見張ってしまいました。 神武寺の境内から京急線の神武寺駅へと続く道も、古道の雰囲気が十二分に味わえます。 ぬかるんだ道に何度も足をとられて転びましたが…。
2009年08月30日
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こんにちは。 前回、ご紹介しました最新作「図解入門 よくわかる最新『病』の基本としくみ」、多くの方からリクエストしていただき、どうもありがとうございます。図解入門よくわかる最新「病」の基本としくみ おかげさまで、オイラが書店で買い漁った分はほぼ、お贈りすることができました。 まだ、出版社さんから献本としていただいたり、ネットで購入したりした分が若干残っておりますので、前回のリクエスト要件に当てはまる方はご遠慮なくお申し込みください。 恐縮ですが、申し込み期限は今月末とさせていただきます。 八月がオイラの会社の決算月ですので…。(← :決算対策かよ!!) …ということで、お散歩ネタ。 さて、今回行ったのは、ましたても三浦半島。 最近、三浦半島のマイブームが起きているようで…。 もっとも、自然にあふれた海と山が手っ取り早く堪能できる場所は、東京近辺にはそうないはず。 東京から1時間もかからずに、海と山のコラボが味わえるのですからね~。 でも、三浦半島のマイブームは、昔もあったのでした。 自然にふれあい、ストレスを解消しようと、オイラは二十代の頃からよくこの半島を訪れました。 十分日帰りできるのに、横須賀のホテルに泊まって、地元の人たちしか行かないような場所を歩き回ったこともあります。 何十年にもわたって行き続けてきた三浦半島ですが、今回行ったのはまだ行ったことのないエリア。 しかも、何で今までこんな素晴らしいところ知らなかったの?というくらいお得感のある場所でした。 それは、横須賀市の追浜。 「おいはま」ではなく、「おっぱま」と呼ぶのですな。でも、その由来はわかりませぬ。「浜」というくらいだから、海がそばにあるというのはわかるのですが…。 追浜は、有名な観光スポット、金沢文庫と横須賀に挟まれたところ。 当然、金沢文庫や横須賀は何度も訪れているのですが、この追浜駅周辺は、これまで素通りするだけでした。 行ってみようと思ったのは、以前、このブログでもご紹介した無料の「お散歩マップ」を駅で手に入れたからなのですね~。 何気に、そこに載っている風景写真を眺めていたら、断崖絶壁の岩山と風光明媚な岩山のコラボが…。 三浦半島に、こんな雄大な景色の場所があったのですか。 マップには、追浜の歴史スポットを巡る海のそばのAコース、そして「湘南妙義」と呼ばれた鷹取山のハイキングがメインのBコースがありました。 それぞれ、6キロと7キロの決して短くないコースですが、二日に分けて行くのも交通費がもったいないからと一日で踏破することにしたのです。 交通費といっても、私鉄だし、それほど高いわけではないのですが…。 それはさておき、スタートは追浜駅から。 急行の停車駅ではないのですが、駅前の国道は交通量が激しいし、わりと垢抜けた商店が多く、さすが湘南だと思いました。 マップを見ながら、最初の目的地、傍示堂(ぼうじどう)を目指します。 コンクリートで作られたお堂の中には、庚申塔やお地蔵様。 解説板を読むと、江戸時代まではこの辺りが武蔵国と相模国の国境だったそうですね。また江戸から浦賀へ通じる浦賀道の相模国の起点でもあったらしい。 そういう重要な場所に、このようなお地蔵さんをおまつりして、国境の監視をお願いしたのでしょうか。 悪い病気が入ってみないよう、宗教的な意味合いもあったのかもしれませぬ。 そんなことを考えつつ、次のスポット、雷神社にお参りします。 かみなり神社?と読むのかと思ったら、いかづち神社なのでした。 名は体を表すと言いますが、雷にちなんだ縁起があるそうですね。 この近くに、築島と呼ばれる場所があって、12人の乙女たちがおこもりを続けていたそうな。 そこへ突然、鷹取山の方角からものすごい稲妻と雷鳴が起こり、ビャクシンの木に雷が落ちて木は黒焦げになったとのこと。 でも、近くにいた彼女たちはかすり傷ひとつなかったらしい。 それで、築島に雷神社が祭られ、そして豊臣秀吉の時代に、現在の場所に移されたのですか。 神社の由来には、荒唐無稽な伝説が少なくないですが、これはリアルな話で、現実にあったのだろうと思いました。 本殿の前にある丸い輪。これは、茅の輪といって、これをくぐることによって、身を祓い清めるのだそうな。 本殿の赤と茅の輪の緑が鮮やかですね。 再び駅前に戻り、さきほど聞いた築島と呼ばれる場所へ行ってみることにしました。 すると、ありましたよ、例の木が…。 なんとなく、黒ずんでいるし、落雷にあったと思われるような節も。でも、もちろん当時の木ではないでしょう。 それでは、12人の乙女は? と、まわりを探したのですが、残念ながら出会うことはできませんでした。 そこから駅前の大通りに出て右折し、ひなびた商店街をテクテク歩きます。 急な細い坂道を登り、住宅が建ち並ぶ小道をさらに行くと、観音寺。 このお寺は、地元の人でなければ知らないような丘の上の奥まった場所にありました。 丘の名は、見漁台というらしい。一発で、昔ここでどんなことが行われていたのかわかるネーミングですな。 ここからの眺めは、江戸時代は「浦郷八景」と呼ばれるほど美しかったそうですね。 住宅の屋根が建ち並ぶ風景でしたけど、お寺の境内は山寺の鄙びた感じがあって癒されました。 あとで調べたら、この台地は、かつてこの辺りの領主だった朝倉氏の城があったらしい。 それならもう少し、城跡ウォッチングをすればよかった、と…。 しかも、この台地には埋蔵金伝説もあるそうなですよ。 噂によると、なんと、漆千杯、銭十億万両の宝物っすか。 それだけのお金があったら、仕事しないで毎日、お散歩できるのに、と思いました。 お金があってもなくても、あまりライフスタイルは変わらないようで。 それはともかく、台地の反対側へ降り、バス通りをしばらく行くと、能永寺。 時宗のお寺だそうで、なんと開祖一遍上人自身が開基されたのですか。歴史の感じられる古い山門がいい味を出しています。 そして能永寺の隣にあるのが、正観寺。 こちらも、小高い丘の上にあって、深浦湾を見下ろす、境内からの眺めが素晴らしい。 それもそのはず、この場所は戦国時代の後北条氏の頃、船の見張り所があったと伝えられるそうですね。 穏やかな港の風景で、ここなら当時の船も安全に航行できそう。 丘を降り、深浦湾のヨットハーバーへ向かいます。 かつては、榎戸湊と呼ばれ、鎌倉時代には、金沢、浦賀と並ぶ鎌倉の外港だったとか。 当時は、能永寺の門前のあたりまで海だったそうですね。 海岸沿いにウッドデッキの遊歩道が延び、湊の風景が堪能できました。 それにしても、海水がきれいで透き通っています。オイラの子供の頃は、東京近郊の海はどこも汚かったので、海の底が見えるというだけでも感動です。 快適な遊歩道を歩いてゆくと、漁船もたくさんつながれていました。 ふたたびバス通りに戻り、追浜トンネルの手前の階段を上ります。緑あふれる小道をしばらく行くと、古い墓地がありました。 ここが、官修墓地。 なんでも、明治10年の西南戦争の政府軍兵士の墓だそうですね。 でも、西南戦争は、九州が舞台。 どうして三浦半島に、こんなにたくさんのお墓があるの?と思ったら、戦争が終わって東京へ戻る途中、船の中でコレラが発生したらしい。 それで、多くの病死者が出てしまったのですね。 戦争で生き残ったものの、帰りの船の中で、しかも病気で死んだのでは、さぞ無念だったろうと思いました。 ただ、これだけ立派な史跡になっていると、多くの人たちが訪れて冥福を祈るのでしょう。もしかして、今現在では、普通に亡くなった人たちよりも、天国では幸せなのかも、と思ったりしました。 官修墓地から続く小道は尾根道に続き、やがて視界に、金沢八景方面が見渡せます。 遠くには、八景島シーパラダイス、近くに見える小山のような丘は野島でしょうか。 晴れた日には、富士山がよく見えるそうですね。 晴れていたので富士山を探したのですが、靄がかかっていてよく見えませんでした。 正面の公園の中にあるスタジアムからは、大きな歓声が…。 耳をすませてみると、プロ野球の二軍の試合が行われているようでした。そういえば、横須賀スタジアムがフランチャイズの湘南シーレックスってチームがありましたね。 わりと立派なスタジアムで、大洋ホエールズ時代の川崎球場より広いかも。 そこから大通りを歩き、追浜駅に戻ります。 これでようやく、ひとつめのAコースが終了。 時間はまだ午後1時。 これから、ウォーキングダブルヘッダーの第二戦、Bコースの鷹取山ハイキングへ向かいます。 東京の近場で、こんな絶景が…と、驚くのですが、それはまた次回。
2009年08月22日
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こんにちは。 いよいよ、オイラの書いた本が出版されましたぁぁぁぁぁぁ~!! タイトルは、『よくわかる最新「病」の基本としくみ 病気のメカニズムを図解で学ぶ! 病気の不思議』。図解入門よくわかる最新「病」の基本としくみ 本のキャッチフレーズをそのまま引用させてもらいますと…「病気のメカニズムを豊富なイラストと表で解説した入門書。ポピュラーな疾病を身体の部位ごとにまとめ、その疾患がどのようにして罹患し、発症し、どんな症状が出るかというメカニズムと治療法をやさしく解説」…なのですね~。 図解入門シリーズの中の一冊ですので、他のシリーズ同様、表紙には監修の先生の名前だけですが、一応、文章部分はオイラが書かせていただきました。 実は、発売されたのが先月の中旬。 なかなか忙しくて、プログの紹介記事を書いている時間がなく、今までずれこんでしまったのですね~。 ホントは、今回のお買い物ツアーが書きたかっただけなのですが…。 それはともかく、発売早々、大変好評をいただておりまして、お買い求めいただいた方たちにあらためてお礼申し上げる次第です。 …ということで、ここのところずっとお散歩ネタでしたが、今日は番外編。 「よくわかる最新「病」の基本としくみ。 お買い物ツアー~♪ in日本橋、池袋、新宿、五反田編」のネタで、お茶を濁そうか、と…。 いろいろな書店をまわり、新しいコンセプトの大規模書店と昔ながらの書店をいろいろ比べてみるのも楽しかったですよ。 今度の本は、探してみると結構、街の比較的小規模の書店でも見つけられますし。 さて、まずオイラが向かったのは、東京・日本橋。 とすれば、かつて? 書店として日本最大の床面積を誇ったという八重洲ブックセンターに足が向きます。 地下一階の家庭医学書売り場へ行くと、おお、一番目立つ場所に平積みで置かれているじゃありませんか。 さっそく、一冊目、ゲットン!!! 今日はかなり忙しく歩き回らねばなりませんから、その感動の余韻に浸っているまもなく、本をユニクロの大型バックに収めると次の目的地へ向かいます。 日本橋といえば、最近ビルが建て直されてきれいになった丸善を忘れてはなりませぬ。 丸善と言えば、梶井基次郎の名作「檸檬」に登場する書店としても有名でしたね。 舞台は確か、京都の書店でしたが、店頭の積み上げられた画集の上に、時限爆弾に見立てたレモンを置いて立ち去るラストシーンが印象的でした。 うう、平積みで置かれた「病」の基本としくみの本の上に、レモンを置いて立ち去るという魅惑的な悪魔のささやきが…。 でも、そんなことしたら、迷惑条例に違反して捕まるかも。 その葛藤に悩みながら売り場へ向かうと、平積みではありませんでしたぁぁぁぁぁ~ 家庭医学の売り場はそれほど広くないので、結果的に平積みのスペースも限られるのですな。 ゆえに、レモンを置くことはできませぬ。 軽犯罪に手を染めになくてよかったとほっとしつつ、丸善で二冊目、ゲットン!!! ちょっと歩くけれど、人形町まで行き、よく立ち読みさせていただいているPISMOという本屋さんにも寄ってみました。 こちらは売り場面積がそれほどないから、おそらくないだろうなと思ったのですが、あ~るじゃありませんか。 …ということで、三冊目もゲットン!!! よし、次は池袋へ行くぞ~ 前回のお買い物ツアーでも紹介しましたが、池袋には都内屈指の書店があるんですよ。 それは、西武南口そばのジュンク堂池袋本店。 かなりの規模のビル全体が本の売り場になっていて、木製の温かみのある本棚とゆったりとしたフロアの雰囲気がいい味を出しています。 二階の家庭医学書のコーナーには、当然のごとく一番目立つ場所に、本の表紙を見せる形で十冊ほど並べられていました。 この書店は、入り口の広い空間を除けば、売り場に平積みをしない方針みたい。 っていうか、平積みをする台自体ありませんでしたが。 最近の書店の傾向として、ゆっくり座って本を選べるように、売り場に椅子が置いてあります。 せっかくだから読んでいこうかと思いましたが、時間がないので本を一冊手に取ると一階のレジに。 四冊目、ゲットン!!! ビル全部が売り場だから、レジを一か所に集中できるのですな。レジがたくさんあるから、それほど並ばずに本を購入できるのでした。 駅のそばの西武百貨店の中にある書店、リブロで、五冊目をゲットン。 そして、いよいよ書店の激戦区と呼ばれる新宿へ上陸。 ジュンク堂新宿店は、池袋本店で買いましたからバスして、地下道を通って紀伊国屋の本店に向かいます。 一階で在庫の検索をすると、おお、四階の医学書コーナーと六階の家庭医学書コーナーの二箇所にそれぞれ置かれているらしい。 うぉぉぉぉぉぉぉ~、一番槍の功名を立てるまでじゃぁぁぁぁ~と四階まで階段を駆け上がったのでした。 若い頃から、新宿の紀伊国屋書店へ行くと、無性に階段を駆け上がりたくなるオイラ。 どちらの売り場でも、目立つように表紙を正面に向けて置かれていました。 ここで、六冊目ゲットン!! いつもは渋谷へ行くのですが、渋谷にも紀伊国屋はありますし、これから行く五反田にもいくつか書店がありますので、今回はスルーさせていただこうか、と…。 五反田の駅ビルは最近新しくなって、お洒落な書店、ブックファーストが入っておりました。 なんとなく、女性が多いような。 さっそくここで、七冊目をゲットンしましたが、ここへ来て疲労がピークに。 うう、まだあと一冊ゲットンするのじゃ~。 五反田の駅前からビジネス街をテクテク歩き、ここから近くの書店をローラー作戦で攻略してゆきます。 駅前の書店を二つほど回ったのですが、売り切れたのか、最初からなかったのか見当たらなくて、大崎広小路の駅のそばにあるあおい書店まで足を伸ばしました。 以前、何冊か買ったことのある書店でしたが、売っていましたぁぁぁぁぁ~ こちらのレジのおばさんが、大量の本を抱えてフラフラになっていたオイラのために、本をひとつの大きなビニール袋にまとめてくれたので助かりました。 感謝をこめて、八冊目、ゲットン!!! やったぁぁぁぁ~、ノルマ達成!! …ということで、本日の戦利品。 今回は、これまで「ビジベンの私の仕事に役に立ったビジネス書」をご愛顧いただいた方に、とくに感謝の意をこめて、オイラが自腹で買い漁った本をプレゼントしちゃいます。 下記の二つの要件のどちらかに該当する方は、ブログのメッセージ欄に、該当する要件とお送りする住所、郵便番号、氏名をカキコください。 送料当方負担にて、お送りさせていただきます。● 二年前の「世界一やさしい脳卒中にならないための本」発売のとき、楽天市場でアフィリをしていただいた方● 今年も含め、これまで20件以上ブログにコメントをしていただいた方 カキコいただいた個人情報は、今回のプレゼント送付のためだけに使わせていただきます。 数に限りがありますので、お早めにお申し込みください。 今回要件に該当されない方は、別の機会にまたプレゼント企画を考えておりますので、ご容赦いただければ幸いです。
2009年08月07日
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こんばんは。 街を歩くと、マイケル・ジャクソンのポスターや在りし日のプロモーションビデオをよく目にしますね~。 同い年ということもあって、オイラの青春時代はすごく気になる存在でした。 …というか、当時、オイラの唯一の自慢は、全盛時代のマイケル・ジャクソンと同じ身長と体重ということでしたから。 そういえば、トシちゃん(田原俊彦氏ですので、念のため)も、「日本のマイケル・ジャクソン」を目指すといつも言っていたのを覚えています。 スリラーやBADのビデオを見てしまったら、誰でもその類まれなダンスに心が浮き立つはず。 オイラも、身長・体重が同じというだけでは満足できず、マイケルの動きまで真似してみたいと思ったのです。 当時はビデオなんてなかったから、テレビを見ながら頑張って真似して踊ってみるのですが、常人では、とてもあの素早い動きに対応できない。 トシちゃんの「哀愁でいと」や「原宿キッス」は、バク転も含め、かなり忠実にコピーできたと自他ともに認めているのに…。 マイケルの兆速のダンスには、一歩たりとも近づけなかったですね~。 ムーンウォークなんて、いくら普通の人間が努力しても、絶対あの水準には到達できないのではないか。 でも今、マイケル・ジャクソンの当時のプロモーションビデオを見て気づいたことがあるのですよ。 身長・体重は同じでも、足の長さが倍ほども違っていた…。 そんな簡単なことに気づかず、マイケル・ジャクソンにあこがれていたなんて…。 天国のマイケルに謝りたい。 やっぱり、若いのは怖い、と感じる今日この頃です。 …ということで、またしてもお散歩ネタ。 今回行ったのは、埼玉県の東北部にある加須。 かつて、奥州街道の脇往還沿いの宿場町として栄えたらしい。 ここへ行ったのは、まだ行ったことのない町ということもあるのですが、当日は天気予報で、午後3時頃から雨が降ると言われていたから。 朝早くに家を出て、3時頃までに観光スポットをまわれるウォーキングコースだと踏んだからなのですね~。 雨が降るとわかっていて、山歩きはかなりハードですし…。 それはともかく、加須という地名は珍しいですよね。 地元の人でないと、読めないかも。 加須は、「かぞ」と読むそうな。 地名の由来をネットで調べてみると、いろいろな説があるそうですね。 たとえば、この地方の古刹を創建した人の名前に由来するとか、有力なお寺の別名に由来するとか、あるいは江戸時代の新田開発に由来するとか。 新田を開発すれば、石高が加増しますから、加増がなまって加須…。 どれもありそうな理由ですが、立派なお寺があって、広い田んぼが広がる土地だったのは想像できます。 それから加須は、「鯉のぼりのまち」としても有名らしい。 なんと、鯉のぼりの生産量日本一を誇るそうな。 それは知りませんでしたね~。 行った日は、五月の初旬でしたが、やけにたくさん街中に鯉のぼりを見かけると思ったらそういうわけだったのですな。 …ということで、ウォーキングのスタートは、東武伊勢崎線の加須駅。 どんよりと曇った空で、今にも雨が降り出しそう。 天気予報どおり、午後3時までは雨が降らないでくりぃ~と祈りつつ、歩きはじめました。 まず向かったのは、駅から程近い場所にある千方神社。 「せんぽう神社」や「せんかた神社」ではなく、「ちかた神社」と呼ぶらしい。 「千方」という社名は、平将門を討伐したことで有名な藤原秀郷の六男藤原千方が由来らしい。 ということは、かなりの歴史がある神社ということですな。 お祭などイベントがあるときは、露店なども出て賑やからしいのですが、静かな雰囲気が漂っていました。 千方神社から古い家が建ち並ぶ道を通って向かったのが光明寺。 このお寺は、戦国時代の1571年に開山されたとのこと。本堂前には浄土宗の宗祖法然上人の銅像があります。 清潔感漂う境内に足を踏み入れると、背筋がピーンと伸びますね。 光明寺の裏手にあるのが、会の川。 この川の風景は、家の近所にあって今は暗渠になっている昭和時代の立会川の景観によく似ているんですよ。 もちろん、こんなに川幅や道幅は広くなかったですが。 川沿いを歩いてゆくと、やはりこの川も暗渠になっている部分があって、会の川親水公園となっていました。 この公園は、平成6年に完成したのですか。 水遊びのできるせせらぎや花壇、ベンチなどが設けられています。 噴水の水だまりでは、かなりの大きさの鯉が気持ちよさそうに泳いでいました。 さすが、鯉のぼりの街だけあって、鯉のぼりのモニュメントもありましたね~。 しばらく親水公園を歩くと、再び川の流れが顔を覗かせます。 やっぱりオイラは、こっちの景観のほうがノスタルジックな気分に浸れるような。 昭和の時代には、うちの近所にもこんなレトロな石の橋もまだ残っていましたね。 しかも、まわりの商店を含めた景観が当時にタイムスリップしたかのよう。 そんな懐かしい街並みを歩き、次の目的地の龍蔵寺に到着しました。 寺の門前で、絵を描いている人がいましたが、絵に残したくなるくらい見事な朱色の門です。 この寺は、南北朝時代の1355年に開山されたとのこと。 解説板には、この寺にちなんだ伝説が書かれていました。 なんでも、このあたりは昔、鬼島といわれ、邪悪な白龍が棲んでおったそうな。 教蔵上人という偉いお坊様が、これを退治し、この龍蔵寺を創建したのですね。 白龍の飲料水であったという龍水井戸や退治した白龍の亡骸の頭のところに植えたという大イチョウが境内にあります。 その大イチョウは、樹齢約650年、幹回りが4.3メートルもありました。 オイラが持っているガイドブックでは高さ50メートルとあったので、こりゃまさにスカイツリーを連想したのですが、どうやらミスプリで、実際は高さ約20メートルみたい。 江戸時代には、徳川幕府から寺領を保護され、3代将軍家光から14代家茂にかけての9通の朱印状が当寺に保存されているのですな。 1835年から9年間の歳月をかけて完成した本堂は荘厳で、将軍家からも厚く保護された風格が伝わってきました。 ゆっくりしたいところですが、いよいよ厚く雲がたちこめ、いつ雨が降ってもおかしくない天候。 先を急ごうと、大通りを渡り、住宅地をテクテク歩き、加須パイパスを越えて前進します。 そして着いたのが、市民運動公園。 ここはその名の通り、野球場やテニスコート、陸上競技場、プール、体育館を備えた加須市民のための運動公園なのですね~。 行った日は、少年野球大会が開催されていたようで、多くの子供や保護者が野球場に集まっていました。 これから雨が降るというのに、その熱意に脱帽です。 この程度のコンディションで中止していたら、将来のハンカチ王子やマー君は現れないのかも。 市民公園の中央広場に、平和の鐘と呼ばれる時計塔があります。 高台からは、公園が一望できました。 藤棚もあったりして、一休みするには最適かも。 しかし、雨雲に追われているオイラは、休憩もそこそこに次の目的地へ向かいます。 田んぼの中の車道沿いにあるのが首なし地蔵。 首なし地蔵というからには、ミステリアスな伝説があるのかと思いきや、解説板には、「地元では、願い事がかなう地蔵尊として信仰され、願いが叶うと前掛けを奉納する習わしがある」と記載されていました。 首があるように見えるのですが、どうやら普通の石を乗せているみたい。 この地蔵は、江戸時代まで、付近にあった喜福寺という寺院の境内にあったもののようで、喜福寺が明治の廃仏毀釈によって廃寺になったため現在地にうつされたそうですね。 願いをかけようと思ったのですが、願いが叶うと前掛けを奉納しに来なければならないので…。 そして最後に向かったのが、関東三大不動尊の一つとして江戸時代から信仰を集める總願寺。 このお寺は、江戸時代の初期に總願上人によって開山されたそうですから、いままで参拝した神社仏閣より歴史は新しいのですね。 急速に発展したのは、館林城主の庇護を受けたところが大きかったそうな。 ちなみに、関東三大不動尊とは、このお寺のほかに成田山新勝寺と高幡不動なのだとか。 どちらも、地元の人たちばかりではなく、多くの地域から信仰を集める大寺院です。 オイラのブログでも、ご紹介しましたね~。 …ということは、このお寺をお参りすれば、関東三大不動尊を全部お参りしたことになるのですか。 これは、ご利益が期待できそう。 境内の広さや門前町の大きさは一番小さいものの、趣のある建物が並び、さすが由緒あるお寺の風格を感じました。 まずは、金色の山門。 百年ぶりの大改修の一環として、山門の改修が行われたみたい。以前朱色から金色に生まれ変わったのですか。 金色とは珍しいかも。 本堂は、幕末近くの1844年に建立されたらしい。解説板を読むと、本尊の不動尊像は、1039年に古利根川の大洪水でこの付近に漂着したという伝説があるそうですね。 本堂の脇には、鎌倉時代末期に作られたという散蓮華模様青石塔婆という板碑がありました。 珍しい模様なのだそうですが、素人にはよくわかりませぬ。 そして注目すべは、境内の西側にあるこの黒門。 なんと、1842年に作られた忍城の城門だったとか。 それを明治6年に移築したそうですね。 お寺に来て、城の遺構を見られるなんて得した気分。 …と思ったら、ポツポツとお約束の雨が頭上から降ってきました。 時計を見ると、午後2時半。 雨に追われたウォーキングも、どうやら逃げ切ったようですね。 でも、加須駅まで土砂降りの中をトボトボ歩く時間は計算に入れてなかったのでした。
2009年07月11日
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こんにちは。 今日は、川越シリーズの2回目。 前回は、大雨の中、喜多院を見学したのでした。 これからいよいよ、川越のメインストリートを歩くぞ、と意気込んで、蔵の町エリアへやってきました。 でも、喜多院をじっくり見学したので、昼時をかなり過ぎている。 腹が減ってはウォーキングができぬと、少し遅めの昼食にすることにしました。 洗練された観光地のいいところは、飲食店の情報が充実していることですよね。 朝、バスに乗る前にもらったパンフに書いてある飲食店を探します。 オイラが選んだのは、札の辻という蔵の町の中心地から程近いところにある和食レストラン。 芋釜めし、とはちょっと珍しいかも。 そういえば、川越はイモを使ったお菓子や料理が名物なのでした。 千円とちょっとなので、さっそくそれを注文です。 これが芋釜めし。 若干、食いかけですが…。 オイラが、お散歩先でグルメ写真をアップするのは極めて珍しいですな。 いつも、ファストフードばっかりだし。 どこへ行っても、名物店は混んでいて、とても並んで入る気が起きないのですが、雨の日はどこへ行ってもすいているのがいいですね~。 芋釜めしを食べ、外へ出ると相変わらずの雨。 しかも、完璧にさっきより雨脚が強くなったのがわかります。 でも、驚いたことに、決して少なくない観光客が傘をさして歩いているんですよ。 この悪天候の中ですから、晴天だったらすごい人ごみになっていたかも。 ポジティブに考えるようにして、まず川越のランドマークタワー「時の鐘」へ。 高いものを見ると昇りたくなるオイラの琴線に触れる塔ですな。 高さ、16メートルというからそれほど高くはありませんが、まわりに高い建物がないのと、何と言っても木造板張りのタワーって珍しい。 そんじょそこらのビルとインパクトが違います。 地上600メートルを誇る東京スカイツリーも、ツリーと言うだけあって、ホントに木造で作ったらすごいでしょうね。 怖くて誰も昇らないでしょうけど…。 それはともかく、この「時の鐘」。 初代は、江戸時代初期に川越城主の酒井忠勝が、こことは別の場所に建てたものが最初らしい。 現在の鐘は四代目だそうで、明治半ばの再建だとか。 中は3層になっているそうですね。 時の鐘というくらいだから、江戸時代から約350年間も、川越の町に「時」を告げてきたのですな。 現在は、毎日、午前6時・正午・午後3時・午後6時の4回、鐘の音が鳴り響くのだとか。 誰が一日4回もここに昇って鐘を撞くのだろうと思ったら、今は機械仕掛けなのですか。 でも昔は、ここに昇って鐘を撞く人がいたのでしょうね。 高いところと、鐘を撞くのが好きなオイラは、物欲しそうに見上げます。 時の鐘の周辺は、ご存知、蔵造りの店が並んでいます。 重厚な黒い壁、そして堅牢な瓦屋根。今でも地方の古い町へ行くと、たびたび土蔵造りの店蔵を見ることができますけど、これだけ一そろい蔵が並ぶ景観は珍しい。 さすが「小江戸・川越」と思ったのですが、これらの蔵のすべてが江戸時代からのものではないそうですね。 なんでも、明治26年の川越大火があったとき、江戸時代から続く蔵造り建物が無事だったそうなんですよ。 それで火事に強い建物ということで、これだけ多くの蔵造りの建物が作られたとのこと。 現在、この周辺は、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、つい最近には「美しい日本の歴史的風土100選」にも選定されたらしい。 きっと、江戸時代の日本橋とか、当時の繁華街はこんな感じだったのかもしれませんね。 昔に思いをはせ、ボーッと美しい街並みを眺めていたかったのですが、どんどん雨が強くなってきて、このままではやばい状況に立たされそうだったので、雨宿りすることにしました。 おかげさまで川越には、雨宿りする場所には事欠かないのですね~。 まず向かったのは、すぐ近くにある川越市蔵造り資料館。 入館料100円なのもうれしい。 ここは、かつて川越大火の直後に、当時、タバコの卸商を営んでいた小山文造氏が建てたものだとか。 つまり、明治時代の中頃に建てられたのですな。 でも、江戸時代の雰囲気もよく残しているのではないかと思いました。 通りに面していて、間口はそれほどないものの、奥行きがすごくあるところ、とか。 通りに面している部分は、店蔵や住居部分、そして奥に行くに従って、文庫蔵や煙草蔵、そして文庫蔵の順に並んでいます。 小さな庭もあって、通りの喧騒とは別に静かな雰囲気が漂っていました。 この庭からも「時の鐘」が見えます。 当時ここに住んでいた人は、東京人が東京タワーを眺めるイメージだったのかも。 店の二階から、広い通りを覗けるのですが、鉄格子越しに外を眺めるのは不思議な気分。 二階へ上がる階段は狭くて急だし、しかも出入り口は一つだけ? 窓には鉄格子がはまっているし、火事のときはどこから逃げようかと避難路を考えてしまいました。 防火性が高いから、窓を閉めて篭城してしまえば大丈夫なのでしょうか。 店蔵には、レンガ造りの地下貯蔵庫も設けられていて、城好きとしては抜け穴などいろいろイメージが膨らみます。 もうひとつ別の蔵も見学しようと、次に向かったのは大沢家住宅。 なんと、この建物は重要文化財なのですね~。 作られたのは、江戸時代中期の寛政年間とのこと。 当時は、呉服太物を商っていた店蔵らしい。呉服はわかるけど、太物って何?と思い、この前買った電子辞書で調べてみました。 何でも、絹織物を呉服というのに対し、綿織物・麻織物を総称した語らしい。 載っていたのはさすが広辞苑ですが、説明が難しくてよくわかりませぬ。 要するに、着物関係を扱っていたお店なのですな。 この建物は、明治の川越大火の際も焼け残り、川越商人に蔵造りを建てさせるきっかけとなった建物の一つなのだとか。 蔵の町・川越のルーツともなった建物なのですね。 一階は、今でも川越観光のおみやげ物を売っていましたが、二階は見学できるそうなので入館料を払って入ります。 話好きなおじさんが一生懸命解説してくれて、独特の建築様式がよくわかりました。 太い大黒柱が二本もあり、二階は、16畳の広間のほかにも四部屋もあるのですね。 お城や古民家を見慣れているオイラでも驚いたのは、箱階段の幅が狭くて急なところ。 ここを日常、平気で上り下りしていたのだから、当時の人たちのバランス感覚はすごいと思いました。 「いや、あんなものじゃないよ、こっちを見てご覧よ」とおじさんに言われて、今は使われていない裏の階段を見せてもらいました。 おおおお~、すごい!! ほぼ垂直の階段。 上から覗き込むと、階段と言うより、切り立った崖を上から見下ろすような感じです。 しかも、手すりがない。 現代人の会社や住宅にこんな急な階段があったら、日に何人かは転げ落ちる人が出るのは間違いない。 打ち所が悪ければ、天国へ行く人も出るのではないか。 でも、当時の人は平気で荷物を持って上り下りしていたのだとか。 おじさんに聞いてみると、爪先立ちで上ったり下りたりしていたそうですね。 かかとは使わなかったそうな。 もっとも、かかとを置くほど階段の奥行きがありませんが。 江戸時代や明治時代の人たちが小さくてやせているのはわかりますが、軽業師のような身のこなしができていたのは意外でした。 大沢家住宅を出て、最後に向かったのは菓子屋横丁。 観光のために作られたのなら、昭和ブームのいいところに目をつけたなと考えていました。でも、ここはもともと、明治の初めから菓子を製造していました地域なのですね。 なんでも、関東大震災で被害を受けた東京に代わって駄菓子を製造供給するようになったとか。 現在も十数軒の店舗が集まっているのですね~。 昭和の街並みと昔食べた駄菓子を楽しみにしていたのに、大雨で閑散とした雰囲気。 前回来たときは、すごい混雑していて、駄菓子をゆっくり買う気がおきなかったのですが、すいていると逆に店に入りづらかったりして…。 イモのアイスクリームを食べたいと思っていたのですが、行った日は寒いくらいだったのでパスせざるをえませんでした。 もっとも、昭和の下町も大雨の日はこんな感じだったなとノスタルジックな気分に浸りながらバスに乗り込んで駅へ向かったのです。 …が、しかし。 川越の駅についたとき、またも大失態を演じたことに気づきました。 ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~また、七福神めぐりの最後のお寺をお参りするの、忘れたぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~ また、いつか川越へ行かねばなりませぬ。
2009年07月03日
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こんにちは。 去年の年末から粛々と続けてまいりました出版作業。 ようやく、オイラの仕事は完了し、あとは印刷所での入稿、校了、印刷作業を待つばかりという段階に到達しました。 ブログが滞りがちだったのに、温かく見守っていただきまして、どうもありがとうございました。 村上春樹氏の「1Q84」を真似して、出版まで何の情報も…。 …というほど、オイラは大物ではありませんので、さらっと紹介させていただきますと、今回も病気の本です。 頭や胸、おなかなど病気が起きる場所ごとに章が分かれておりまして、見開きの左側にカラーの図版や解説、用語解説などがありまする。 図解入門シリーズで有名な出版社さんだけあって、イラストは、いい仕事していますね~。 そして右側には病気の解説文やポイントなどがコンパクトにまとめられておりまする。 本も、A5版で前回の本より若干大きいっす。 校正原稿を見せてもらいましたが、読みやすいし、見やすいし、これってホント、オイラが書いたの? というくらいの出来栄えに仕上がっていました。 コラムも、トリビア感がなかなか。 …と、自己満足、ポジティブ思考にどっぷり浸かっている今日この頃なのでした。 いろいろお世話になっているので、なんか、ご恩返しなぞしたいと考えてはいるのですが…。 出版までもう少し時間があるので、それは宿題ということで。 さて、お散歩ネタ。 今回行ったのは、埼玉県の川越です。 以前、オイラのブログでもお散歩ネタとして取り上げた場所ですね。 前回は、川越七福神めぐりにチャレンジして、最後のお寺のお参りを忘れるという大失態を演じたのでした。 あれから、最後に残ったお寺のお参りをしなければと思いつつも、かなりの時間が過ぎてしまったのですね~。 それはともかく、川越は現在、NHKの朝の連続テレビ小説の舞台として脚光を浴びているらしい。 今回は、前回スルー気味だった、蔵造りの街並みや喜多院、菓子屋横丁という観光スポットに絞って行ってみることにしました。 それからもちろん、七福神めぐりの成就も。 かなりのタイムラグで、ご利益は期待できるのだろうかと若干不安なのですが…。 しかし、行こうと思っていた日は、なんと朝から雨…。 しかも、大雨ばかりではなく、風や雷にもご注意と天気予報のおねーたんが話しているのでした。 うぬぬ、どうしよう…。 しかし、こんな雨の中、観光に行く人は少ないだろうとポジティブに考え、決行することにしたのです。 天気のいい土曜日だったら、テレビ小説の効果でとてもゆっくり観光できないでしょうからね。 防水のウインドブレーカーに防水シューズで固めたオイラは、東武東上線の川越駅に降り立ちました。 駅ではやはり、『つばさ』のポスターやパンフが並んでいます。パンフを手に取ると、裏にはこれもお約束の「受信料のお支払い」のお願いが…。 うちは口座振替にしているのですが、衛星契約にすると結構な金額になるのですね。 元を取るくらいNHKを見なければ、と思いつつ、何気に駅の広いコンコースを見回すと、市内のバスが乗り放題で300円というポスターが目に留まりました。 これは、安いと早速チケットを買い求め、バスの乗り場に向かいます。 まず向かうのは、川越大師喜多院。 前回も来たのですが、観光の目玉でもある三大将軍「徳川家光誕生の間」や「春日局化粧の間」は、スルーしてしまったのでした。 昔、入ったことがあると言っても、20年前ですからね。今日は、じっくり見学してみようと思いました。 バス停を降り、雨の中、小走りに喜多院の山門へ向かいます。 この山門は、寛永9年(1632)に天海僧正により建立されたそうですね。 その後起こった川越の大火からも焼失を免れ、喜多院では現存する最古の建物なのだとか。 広い境内は、桜の名所としても有名で、テレビで見たときはものすごい混雑振りでした。 ところが今日は、静かな雰囲気が漂っている。ゆったりした風情を感じるのは、雨の日ならではの醍醐味かも。 雨に煙る多宝塔がいい味を出しています。 この塔は、バランスがよくて美しいと評判らしいですね。 今日はすいているから、ゆっくり中を鑑賞できるだろうと喜多院の客殿と書院に向かいました。 入り口で拝観料を払おうとすると、OH!NO~、今日は千円ですか。 いつもは400円なのに…。 特別展をやっているから、別料金みたい。常設展と特別展と分ければいいのに、と思いつつ、庫裏から中に入ります。 着物や絵画、鎧兜に刀剣類など貴重な寺宝の数々が、客殿や書院に所狭しと展示してあります。 千円の元を取ろうと、目を皿のようにして眺めましたが、頭のハードディスクの容量が最近落ちているので、あまり記憶に残りませぬ。 写真は撮ってはいけないそうだし…。 でも、警備員のおじさんに聞いたら、庭は好きなだけ撮ってもいいそうなので、お言葉に甘えてパチパチ撮影しました。 雨に濡れているためか、新緑がとても鮮やか。 土砂降りの中、傘を差して日本庭園を歩くのは大変ですが、広い縁側から眺めると、雨のまた庭園の美しさを際立たせる演出にも思えてきますな。 そして、いよいよ「家光誕生の間」へ。 どうして、川越に家光の生まれた場所があるの?という疑問も湧きますが、もちろん家光が川越で生まれたわけではないのですね~。 家光が生まれたと言われる御殿が、川越に運ばれたらしい。 現在、喜多院の客殿や書院、庫裏となっている建物は、江戸城紅葉山にあった別殿を移築したものなのですな。 何でも、寛永15年の大火によって、当時の喜多院の建物のほとんどが焼失してしまったとき、三代将軍家光が移築を命じたとのこと。 結果的に、江戸城唯一の遺構として残されたのですね~。 さて、「家光誕生の間」の広さは、12畳半だというのですが、部屋中に特別展ということで鎧兜が並んでいるので、むしろ狭い印象でした。写真に撮りたいところですが、年季が入っているから当時の豪華絢爛という風情はないような。 「オイラは生まれながらの将軍なのじゃ~」と外様大名に大見得を切った三大将軍がここで生まれたとは不思議な感じです。 興味深かったのは、近くに湯殿と厠、つまりバスとトイレが設けられている点。 いわゆる当時の住居だから、トイレとバスがあるのは当然ですが、将来の将軍が生まれた建物なのに、思っていたよりずっと質素なのには驚きました。 トイレとバスが隣同士にあるのは、ユニットバスみたいだし…。 徳川の初期だし、家光が生まれた頃って、まだ大奥はできてなかったと記憶しています。 まだ、戦国時代の気風が残っていたのかも、と考えたのですが、こればっかりはオイラはよくわかりませんので念のため。 次に向かったのは、「春日局化粧の間」。 ここも思ったより質素な造りですが、二階にあがることもできるそうなので、急な階段を上って見学します。 それにしても、手すりのない急な階段。当時、着物を着た女性たちがホントに、上がり降りしたのですよね。 かなりのバランス感覚と運動神経が必要だと思うのですが…。 中二階といわれる部屋は、天井の高い屋根裏部屋という雰囲気。 当時は倉庫のような役割があったらしいのですが、ここで、折檻なんかも行われていたかもしれませんと、音声解説がありました。 確かに、見上げてみると縄をかけて吊るすのにお手ごろな梁もあったりして。 昔見た、大奥を舞台にした映画のワンシーンがフラッシュバックします。 昇るときは大変でしたが、さらに降りるときはもっと大変で、上り下りだけでも折檻になったのではないか、と…。 特別展の展示も見ながら客殿を後にし、喜多院の本堂になっている慈眼堂に向かいます。 雨の中、外へ出なくても渡り廊下でつながっているのがうれしい。 それにしても風情のある廊下で、自分がお坊さんになったみたいですね。 しかも、廊下の途中に休憩できるスペースがあって、そこからの庭の眺めも素晴らしかったです。 本堂の畳の上に座り、しっかりお参りをしました。 建物を出て、境内からも本堂にお参りしたあと、最後に向かったのが五百羅漢。 こちらも境内にあって、日本三大羅漢の一つに数えられるそうですね。 傘を差しながら写真を撮ったら、ブレブレに…。 手振れ防止のケータイカメラが欲しいっす。 それはともかく、これらの羅漢さまは、江戸時代の後期に、約50年間にわたって建立されたそうな。 よく見ると、笑ったり、泣いたり、怒ったり、表情を一つひとつ眺めているだけでも楽しいのですが、雨が強くなってきて…。 これはたまらんと、次の目的地へ向かうことにしました。 さすがにこの大雨の中、観光客が少なくてゆっくり眺められるのはいいのだけれど、ゆっくり眺めているとびしょ濡れになってしまう。 テクテク歩き、ようやく川越観光のメインストリート、蔵の町エリアへ。 さて、これから雨の川越のメインストリートを歩くのですが、それは次回。
2009年06月25日
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こんばんは、ご無沙汰いたしておりまする。 ちょー、忙しくて、なかなか更新できませぬ。 お散歩ネタに写真を貼ろうと思ったら、前の写真をたっぷり削除しないと容量がオーバーしてしまうし…。 100円払うのなんて、嫌だし…。 でも、ここで途切れたら、一生更新ができなさそうなので、頑張ります。 忙しいのは、懸案となっております、出版の件。それと、お役所から依頼された委員会の議案、その他モロモロ。 出版もようやく、本文の原稿を書き上げたと思ったら、そこからがまた長かった。 今回の本は、見開き半ページがイラスト満載の図版になるのですよ。 イラストの解説文、重要用語の解説文、各章ごとの扉の文章まで書き上げてようやくほっとしたら、文字数を間違えて、全部文字を削らなければならなくなってしまいましたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~ それでも、なんとか目処が立ったと思ったら、各章の終わりにコラムを9本も書かないといけなくて…。 でも、ようやくゴールが見えてきたので、ロス五輪のマラソンで感動のゴールを果たしたアンデルセン選手を見習って頑張ろうと思いました。 …ということで、お散歩ネタ。 なぜ、忙しいのにこんなに長く書けるのかと疑われそうですが、以前、書いてあった文章があったのですね~。 何気に図書館の本を物色していて、また面白い本を見つけました。 それは…。城巡礼 諸行無常東京48カ所めぐり出版社:東京地図出版 (株) 面白いといっても、城好きでなかったらたぶん、手に取る人はいないだろうと思いますが…。 最近の本は、書店で目立つように、赤とか、黄色とか、ピンクとか、けばい色が多いような気がします。 なのに、この本の表紙は黒が基調。 本の内容のわりに薄い本なので、図書館の「お散歩の本」コーナーに埋没してほとんど目立たなかったのです。 しかも、「城巡礼 諸行無常東京48カ所めぐり」のいうタイトルが、なんとも鄙びた地味なイメージがしました。 内容は素晴らしいのだから、たとえば…。「女子高生の聖地・渋谷に城があったってホント?」とか、「女子大生混浴露天プロ連続城跡殺人事件」みたいなネーミングにすれば、もっと注目を集めるのではないか。 もっとも、内容が城跡ですから、やっぱり城好きだけが手に取ればいいわけで…。 タイトルはともかく、東京の城跡にしぼって、専門的な解説を加えているところがグー。 見る人が見れば、東京にもかなり城があったのですね~。 たとえば、港区虎ノ門は起伏のある土地ですが、やはり城があったらしい。 世田谷城や渋谷城は知っていましたが、この本で読んではじめてその存在に気づいた城も少なからずありました。 この本を読んでいて、青梅のあたりに、まだ訪れていない城がいくつかあることに気づいたんですよ。 しかも、写真で見る限り、かなり遺構がしっかり残っているみたい。 青梅といえば、何度か訪れた場所。地図で見る限り、その100メートル近くまで接近していながらスルーしてしまった城跡があったのでした。 これはリベンジを果たさなければならない、と、花粉が飛び交っていた2月末、まだ見ぬ東京の古城探検に出かけたのです。(← 古いネタですいません…) スタートは八高線の金子駅ですな。 立川から八高線に乗って駅で降りたら、なんと小宮駅でしたぁぁぁぁ~ 一度も来たことがない駅なのに、なんか前に来たことがある駅だと思ったら なんと、立川で逆方向へ向かってしまったのでした。しかも、降りて駅前を歩き出すまで気がつかないとは…トホホ せっかく、立川まで最安ルートで入ったのに。 花粉症で頭の中が相当いかれていたのですな。 再度、金子駅に向かい、今度は地図にそって霞川沿いの道を歩きます。 「城巡礼 諸行無常東京48カ所めぐり」を見ると、行き方についての詳しい記述があるので、今度は迷わず、最初の目的地「今井城」へと到着しました。 住宅地の中に、忽然と土塁が現れるのはおお~と思いますね。 もっとも、今井城からしたら、勝手に周りに住宅が建ち並んだ、ということなのでしょうけど。 城跡の広さは、約8,500平方メートルというからそれほど広くはない。城というより館のイメージでしょうか。 今井城は鎌倉時代の武将、今井四郎左衛門経家の子孫が代々居城としていたそうな。 発掘調査の結果からも、室町から戦国時代の中世城郭のあとだと解説板には書かれていました。 館と書きましたが、その縄張りや高くて広い幅を持つ空堀は、十分城ファンをうならせる規模です。 土塁の一番高い部分に上ると、当時の城の様子がイメージできます。どこにどんな建物があって、どんな人たちが住んでいたのだろうと考えるのが城跡ウォッチングの醍醐味のひとつ。 郭と郭をつなぐ土橋の跡なんかもあったりして、住宅地のなかにこれだけの城跡が残っているのは驚きでした。 しかも、草刈りが頻繁に行われているようで、くまなく歩き回ることができるのもグッドですな。 ただ、入口がわかりづらいことや解説板も古いものしかなかったので、そちらも整備してほしいと思いました。 近くの民家の犬にワンワン吠えられて、逃げるように今井城を後にし、次の目的地藤橋城へ向かいます。 台地をくだって、ふたたび霞川のほとりを歩きます。 このあたりは田んぼが広がり、奥多摩の稜線がかすんで見えました。 その田園風景の中に、島のように樹木の茂る高台が藤橋城。 今井城から20分くらい歩いただけで、別の城にたどりつけるのだから驚きです。 青梅は、城銀座とも呼べるのではないか。 もっとも、興味のない人だったら、藤橋城址は何の変哲もない普通の公園ですが…。 公園化されていて、樹木や遊具などもありますが、よく見ると植え込みの下に立派な土塁も確認できました。 藤橋城は、築城の時期や作った人が誰だかわからないらしい。ただ、平山重吉という武将が城主だったそうですね。 そういえば八王子のほうには、京王線の駅に平山城址公園という駅もありました。 平山重吉の藤橋城も、滝山城主であった北条氏照の攻撃を受けて落城したそうです。 当時の城がどの程度の規模だったのかわかりませんが、滝山城址の壮大な規模に比べたら、この城の規模はあまりにも小さい。 攻められたらひとたまりもなかったのでしょうね。 田んぼの中の道を通って、次の目的地へ向かったのですが、後ろを振り返ると、土塁がいい感じで周囲の景色にマッチしています。 何度も後ろを振り返りながら、歩きました。 次はいよいよ、本日のメインディッシュの勝沼城へ向かうのですが、その前に以前訪れたことのある塩船観音寺にふたたびお参りすることにします。 このお寺は、なんと大化の改新で有名な大化年間にはじまるのだとか。 仁王門は、寿永三年(1187)の建立で重要文化財なのですね~。 茅葺の本堂も重要文化財。こちらは室町時代に作られたのですか。 屋根の曲線が美しい。 ところで、塩船観音寺といえば有名なのは、つつじ。 行った日は二月の終りだったのでつつじの時期ではなかったですが、本堂から祈願堂へ向かうと、境内の周囲がぐるりとすり鉢状の斜面に囲まれているのがわかります。 なんと、この広大な斜面につつじが植えられているのですね~。現在、境内には約1万7千株のつつじが植えられているのだとか。 ちなみに、新東京百景にも選定されているそうですね。 塩船というネーミングは、周囲の地形が小丘に囲まれ、あたかも小船のような形状であることから名づけられたらしい。 天平年間に僧、行基が『塩舟』と名づけたそうな。 つつじは咲いていませんでしたが、緑の斜面だけでも絶景です。 丘の上に上ると、広い境内を見渡すことができました。 ここにつつじが咲き乱れたらすごいでしょうね。 塩船観音寺を後にし、勝沼城を目指します。 数年前に青梅を訪れたとき、この近くにも来ているのですが、この近くにこんなにたくさん城があるとは気づきませんでした。 そういえば、前回青梅の塩船観音寺へ来たときはこの城の真下を通ったのでした。 ガイドブックに載っていなかったのですが、当時はこんな見ごたえのある城を見落としていたのですからね。 こんな優れものの城跡があったのに、天下の有名出版社のガイドブックがスルーするなんて…信じられない…。 それはともかく勝沼城も、築城の時期やだれが作ったか不明らしい。しかし、鎌倉時代の末期以降は幕府の御家人だった三田氏が城主を務めていたそうな。 今井城同様、ここも入口がよくわかりませぬ。 今は、妙光院と光明寺というお寺の裏山にあると言うことを聞いていたので、妙光院の左手の小道から登ります。 今は広い墓地になっている土地は、形状から見ると当時の郭の跡みたい。 死んだあと、城跡に葬られたら城ヲタクとしては本望だと思いながら、道を歩きます。 土塁や空堀もしっかり残っているし、本丸とおぼしき場所からの眺めもまずまず。 それにしても、これだけの城跡がそっくり残っていながら、あまり整備されていないのは仕方ないとしても、解説板もほとんどないのはいただけませぬ。 城は、当時の人たちのアイデンティティーを象徴するものであったはずですし、今も地域の財産として、心の拠り所であってもしかるべきだと思うのですが…。 その理由を知るためには、やはり城跡の登記簿謄本をとってもみないとわからなかったりして…。
2009年06月05日
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こんにちは。 ニュースによると、とうとう新型インフルエンザの国内感染が確認されたようですね。 国際空港や国際港では、これまでも厳重な検疫が行われているのですが、初の国内感染者は、海外渡航歴がない高校生だそうな。どこから感染したのか、今後の感染ルートの解明が待たれまする。 しかし、専門家からは、水際対策もそろそろ限界に来ており、「近い将来、ウイルスが国内に侵入するのはほとんど不可避」という意見が出ておりました。 オイラは、新型インフルエンザの専門家ではないのでよくわかりませんが、江戸時代の鎖国でもしない限り、感染は避けられなかったのでしょう。 病気についての本を書いていますが、歴史のほうにも興味があるので、インフルエンザの歴史を少し調べてみたんですよ。 鎖国政策がとられた江戸時代にも、インフルエンザの流行があったのかどうか、と…。 酒井シヅ著 「病が語る日本史」(講談社学術文庫)によると、江戸時代初期の1614年にインフルエンザの大流行があったらしい。 ところが、それから百年間、インフルエンザの大流行の記録は残っていないそうです。 明以外の船の入港を長崎・平戸に限定したのが1616年。鎖国は、一気に行われたのではなく、少しずつ体制が強化され、寛永の家光の時代に完成したそうですね。 鎖国政策がとられてからパッタリ百年間も、インフルエンザの大流行がなかったなんて、やっぱり…という感じがしました。 ところが、その後も鎖国下の日本でしたが、八代将軍吉宗の享保年間に、インフルエンザの大流行が起きてしまった。 江戸の町では、夏の一ヶ月で死者がなんと八万人。 棺おけが間に合わず、酒樽に亡骸を入れてお寺に運んだそうな。 百年間もインフルエンザの流行がなかったそうですから、おそらく当時の日本人は免疫を持っていなかったのでしょう。 ちょうどその頃、アメリカやヨーロッパ諸国でもインフルエンザが大流行していた記録が残っているそうです。 島国であり、鎖国をしていた日本なのに、いったいどこからインフルエンザがもたらされたかというと、当時でもたった一箇所世界に開いていた場所があったのでした。 それはご存知、長崎の出島。 興味深いのは、長崎で流行してから江戸で流行するまで、3年のタイムラグがあったということ。 当時の交通事情もあったのでしょうけど、現代では考えられませぬ。 それにしても、今から300年も前の鎖国下の日本でも、インフルエンザが猛威を振るったというのは驚きです。 300年前の長崎と今回の神戸、どちらも日本屈指の国際都市という共通点はありますな。 いずれ、まわりでも感染する人が増えると思いますが、被害はまさか300年前とは違うでしょう。でも、弱毒だからと油断することなく、しっかり予防や感染防止の知識を持たねば、と思いました。 免疫力を高めるにはまず体力…ということで、お散歩ネタ。 インフルエンザの「イ」の字もなかった頃に出かけたので、写真の季節感に若干違和感がありますがご容赦ください。 今回、都営地下鉄全線が500円で乗り放題のワンデーパスを使って行ったのは、江戸川区。 都営地下鉄新宿線の瑞江から船堀をめぐるコースです。 近くに、旧江戸川や新中川がとうとうと流れ、趣向をこらした親水公園もあって、なかなか変化に富んだウォーキングが楽しめそう。 しかも、神社仏閣や江戸時代の長屋門もあるとか。 もちろん、何度か訪れたことのある場所ばかりですが、初めて見るところもいくつかありそうなので行ってみることにしました。 ウォーキングのスタートは瑞江駅。 駅前はスーパーや商店が並ぶ、どこにでもある景色ですが、とびきり古い建物はないみたい。 新宿線が開通したのは昭和61年で、そこから商業・住宅地として急速に発展したのですな。 そう古くない時代は、水田や金魚の養殖池が広がるのどかな農村風景が広がっていたそうですね。 瑞江駅前の雑踏を抜け、まず向かったのは豊田神社。 それほど大きな神社ではありませんが、境内には大正時代に作られた富士塚がありました。 あまりモノホンの富士山には似ていませんけど、モノホンの溶岩を積み上げ、裏側には富士山の大沢崩れの跡を模すなど手が込んだ作りになっています。 このコースには、ほかにも富士塚のある神社がいくつかあって、当時の富士講の流行が偲ばれました。 豊田神社から住宅街の中をテクテク歩き、向かったのは明福寺。 ここはオイラの家の宗派である浄土真宗の開祖、親鸞聖人ゆかりのお寺らしい。 親鸞聖人は関東から上洛の途中、この地で請われて雨乞いをしてその後ここに草庵を作り3年間も住まわれたとのこと。 本堂裏の墓所の前にある鏡が池は、親鸞聖人が自身の姿を水面に映して像を彫ったという伝説が残されています。 そして、境内には太子堂と親鸞堂などが建ち、太子堂には聖徳太子の自作と伝えられる聖徳太子立像、親鸞堂には親鸞の自作とされる親鸞聖人坐像が安置されているとのことでした。 一見すると普通の小さな池ですけど、そんなに古くからここにあるのですね。 明福寺の裏手はすぐ旧江戸川になっていて、川沿いの遊歩道からの眺めはなかなか。 ヨットハーバーみたいな施設もあって、湘南気分も味わえそう。 旧江戸川と新中川の合流地点の近くにあるのが、今井児童交通公園。 ここは、レンタルのゴーカートや自転車に乗り、楽しみながら交通道徳を身につけられるのですね~。 信号を備えた車道と歩道が作られてあって、子供たちが交通ルールを守りながら自転車をこいでいます。 料金表示がどこにもないから無料かも。 二人乗りで、ペダルをこぎながらモノレールのように場内を一周できるサイクルモノレールは楽しそう。 行った日は新年だったので、ボランティアの係員の人たちのほうが子供たちより多い状態。 並ばないで、しかも無料で、遊園地にあるような施設を楽しめるのだから、これはこの近くに住む人の特権かも。 巨大な今井水門を眺めながら瑞穂大橋を渡り、住宅街をしばらく行くと宇田川家長屋門がありました。 この長屋門は、江戸時代後期に作られたらしい。 宇田川家は、旧二之江村の村役人を代々勤めた旧家だそうですね。ご先祖は、後北条氏の家臣で、この地域の開拓者でもあるのだとか。 少し、右側の屋根が高くなっているのが気になりましたけど、茅葺のまま現在まで残っているのは珍しい。 元武士の豪農であり、この地域のパイオニアとしての威厳が感じられました。 長屋門のすぐそばから延びているのが、古川親水公園。 旧古川の流れをそのまま公園にしたもので、国内の親水公園の第1号にもなった由緒ある公園なのですね~。 今は全国に親水公園というネーミングのついた公園がありますけど、それらのお手本になったのですか。 お手本だけあって、たんなる水の流れだけにとどまらない趣向を凝らした仕掛けが面白かったです。 ちなみに、全長は1.2キロ。 古川は、江戸川を下る水路として古くから使われていたようで、江戸時代は行徳の塩を江戸へ運ぶ重要な水路だったらしい。 川のせせらぎ沿いの遊歩道をテクテク歩いて向かったのは、妙勝寺。 区内でもっとも古い寺院だそうですね。 解説板には、鎌倉時代に近くの葛西沖に難船が漂着し、残されていた童子を二之江村の漁師五郎という者が救いあげたという話が書かれていました。時に、1248年。 その童子は平家の出身で、後に僧になってこの近くに草庵を結んだらしい。これが妙勝寺の始まりだそうですね。 鎌倉幕府が作られて50年以上もたってから、どうして平家の少年が船に乗って、どこへ行こうとしていたのだろうと考えると夜も眠れなくなりそう。 鎌倉幕府も安定して、平家の出身といっても、大手を振るって生きてゆける世の中になっていたのでしょうかね。 妙勝寺の前には、巨大な岩のオブジェから怒涛の如く水があふれています。 このあたりの親水公園は見どころが満載。 昔、長崎で見たメガネ橋のような橋がありました。 しばらく行くと、ミニ吊橋にミニトンネル。 こちらは親水と藤棚のコラボっすか。 水辺のプチ景観を楽しみながら歩き、着いたのが妙光寺。 境内の七面殿には、葛西沖で漁師の網にかかって行き上げられた「海中出現七面大明神」が祭られているらしい。 このあたりを歩いて海をイメージするものはあまりないですが、江戸時代はもっと海が近くにあって、近隣の人たちは海のそばの暮らしをしていたのでしょうか。 古川親水公園に別れをつげ、商店が立ち並ぶ陣屋橋通りをテクテク歩いて今度は一之江境川親水公園へと入ります。 こちらは平成7年に完成したまだ新しい親水公園。 何度か来たことがあったと思いましたが、よく覚えていないっす。3.2キロもあるのですね。 少しあるいて日枝神社に。 ここにも富士塚がありました。それほど高くなく、登りやすそうですけど入口にローブが張ってありました。 そして最後に向かったのが、タワーホール船堀。 ここは江戸川区の複合文化施設で、ホールや映画館、レストランなどがあります。 …といっても、オイラが注目するのは、高さ115メートルの展望台。 今やタワーとしてはそれほど高くありませんが、まわりに高い建物がほとんどありませんからね。 都心の115メートルとはわけが違いまする。 前に一度来たことがあり、その360度の大パノラマは一見の価値ありでした。 しかも、確か無料だったような。 …と喜び勇んで行こうとしたら、休館日でした。
2009年05月16日
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こんにちは。 またまたご無沙汰いたしてしまいました。連休はいかがお過ごしですか? 前回のネタはお花見かと思ったら、もう初夏のような日差しが降り注ぐ今日この頃になってしまったのですね~。 日本桜の名所100選に選ばれた茂原公園の桜は素晴らしかったです。 でもよく考えてみたら、オイラの家の近所にもなかなかの桜の名所があるんですよ。 小学生の頃は、川が流れていた場所ですが、今は暗渠になって普通の道路になっているのです。 今では、ここが昔、川だったということを知らない人のほうが多いかも。 その通り沿いに、桜が数百メートルにわたって植えられているのですね~。 家から事務所までは30分くらい歩くのですが、毎年、桜のシーズンは、必ずこの道を歩いて通勤しておりまする。 若干、遠回りになりますけど、桜の魅力には抗えない。 お気に入りの100円の自販機でコーヒーを飲みながら、公園のベンチに座って桜を眺めるのは至福のひとときです。 桜の名所は世の中に数えきれないほどありますが、やはり場所より開花の時期のほうが重要かもしれませんね。 そのあと、花粉の禁断症状が現れて大変なことになるのですが…。 それはともかく、この通り沿いに前から気になっている家があったんですよ。 過去形なのは、最近取り壊されてしまったから。 いずれその家の秘密について、誰かに聴いてみたいと思っていたのですが、永遠の謎?になってしまいました。 それは、この家…。 どこにでもある普通の家なのですが、なぜ二階に扉だけあるの? ま、普通は、昔、二階へ通じる階段があって、その階段だけ撤去され、扉だけ残ったと考えるでしょうね。 オイラもそう考えたのですが、階段があったという痕跡がない。 あるいは、前はもっと大きい家だったのだけれども、半分取り壊すなど改築したとき、二階の扉だけ何らかの理由で残ったとか。 でも、改築した痕跡もない。 写真で見てもわかると思いますが、隣の家はもっと古いですし、ふたつの家の間はほとんどスペースがないんですよ。 もしかして、非常口? 普段から、扉がもし簡単に開いたら、寝ぼけて落ちる人とかいないのだろうか。 謎の扉の理由をいろいろ考えると、眠れなくなりそう。 不思議といえば、オイラが子供の頃に見た写真が、数十年前からずっと、心の片隅に引っかかって取れないのです。 当時のことはあまりよく覚えていないのですが、その写真だけは今でも鮮明に記憶に残っている。 不思議というより、怪奇といったほうがいいかもしれませんが…。 それはオイラが小学校の4年生か5年生の頃。 当時は、学校が終わると、狭い道路で友達と三角ベースの野球をするのが日課でした。 三角ベースの野球も一区切りつき、オイラは行きつけの駄菓子やで、合成甘味料と合成着色料満載のすももを頬張っていたのです。 そのとき、クラスメートのT君と隣のクラスのH君が駄菓子やの前を通りかかりました。 いつもは明るく元気な二人ですが、今日はいつもと様子が違う…。 二人とも目の焦点があっていないと言いますか、足取りもふらふらしている。 どうしたのかな、と思っていたら、二人がオイラに気づいて近寄ってきました。「ビジベン。これ見ろよ」 二人は一枚の写真をオイラに見せました。「えっ?何?」 それは、日光の「華厳の滝」のスナップ写真。 以前、オイラが家族旅行で日光へ行ったとき買った絵葉書の構図とほとんど同じです。 おそらく、彼らも家族旅行で日光へ行ったとき、撮った写真の一枚なのでしょう。 綺麗に撮れていましたが、よくある構図ですし、別に騒ぐほどのこともないのではないか。 そう思って、オイラが首をひねりながら眺めていると、H君が「ここを見ろよ」と写真の一点を指差しました。 それは、華厳の滝の滝つぼから少し上の辺り。 轟音を響かせながら、圧倒的な水量が滝つぼの水面を打ち、水しぶきが霧のように立ちこめている部分です。 オイラが、そこを見たとたん、一瞬で凍りつき…。そして、背筋に鳥肌がゾワワワワ~と立つのがわかりました。 小さいのでよく見ないと見逃してしまうような部分でしたが、そこにはくっきりと女性のシルエットが…。 髪の長い若い女性だというのがわかります。見えているのは、女性の上半身だけで、下半身は水しぶきの中に溶け込んでいるよう。 オイラが一瞬で鳥肌が立ったのは、そのポーズでした。髪を振り乱し、のけぞる姿勢で、救いを求めるように片手を上に伸ばしている。 断末魔の叫びをあげながら苦しんでいるのがわかります。 水しぶきのシルエットだけで、そんな細かな部分までわかるか、と突っ込みを入れたくなるのはごもっともですし、これが逆の立場だったら、眉につばをつけたくなるでしょうね。 でも、ホント、おそらく等身大の大きさでありながら、ありえないくらい鮮明に、滝つぼの上空に浮かんでいるのです。 オイラは、この写真を見て、次の言葉が出てきませんでした。 二人は、呆然と立ち尽くすオイラを残し、またふらふらとした足取りで別のクラスメートに写真を見せています。 得意になって見せているというより、この恐怖を共有したいと思っているかのように…。 その後、H君に、あの写真もう一回見せて、という友人はいたようですが、二度と見せることはなかったようです。 何でも、勝手に写真を持ち出したということで、家の人からこっぴどく怒られたみたい。その後、彼の父親がどこかへ写真を持っていってしまったとH君が話していたのを覚えています。 あれから何十年も立ちますが、今でもあの写真を思い出すと背筋が寒くなりますね。 皆様の中にはきっと、たまたま水煙が女性の形になったと思われる人が少なくないでしょう。 でも、絶対、あれは水煙ではないと、今でもオイラは断言できます。 ネス湖のネッシーの写真みたいにぼやけていないし、若い女性の完璧なシルエット。振り乱す髪の毛、指の形まで鮮明でした。 ただ、トリック写真に関しては、可能性がまったくないとは言えないかも。 でも、デジタル写真全盛の現代ならともかく、昭和40年代前半のアナログ時代に、あれほど見事なトリック写真が作れたかどうか。 水煙の粒子と女性のシルエットが完璧に一体化しているんですよ。ひとかけらの不自然さもなく…。 もし、トリック写真だったとして、子供たちしか見ていない写真のために、何のメリットがあって作ったのかという疑問も残ります。 それ以降、完全に闇の中に消えてしまったのですから。 お金と時間を費やして作ったのなら、多くの人に見せたいと思うのは人情だと思うし…。 今、ネットで「華厳の滝 心霊写真」のキーワードで検索すると、すごい数のページがヒットしますね。 やはり、あの不思議な写真は心霊写真だったのでしょうか。 当時、あの写真を見た瞬間、この女性は華厳の滝で自殺した女性だという気がしました。 とくに理由はなく、頭の中で閃いたと言いますか。 あの苦しんでいるポーズを見ると、やはり自殺はやめたほうがいいのかも。 それ以降、オイラは霊感がないのか、同じような経験は一度もありません。 でもああいう写真を見てしまうと、死後の世界がまったくないとは言い切れないですな。 やっぱり、何もないよりは死後の世界はあったほうがいいと思います。 真っ暗で静寂な「無」の世界だったら寂しいし…。 でも、舌を抜かれたり、釜茹でになったりするのも嫌ですが。 さて、皆さんは、死後の世界やオイラの写真の話を信じますか?
2009年05月02日
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こんばんは。 前回は、本の出版のお祝いに、たくさんのコメントをいただきどうもありがとうございました。 今度の本は、カラーの図解イラストが入るようで、その作成にもうしばらく時間がかかりそうです。 出版の時期については、またご報告させていただきます。 さて、いよいよ春たけなわということで、今回行ったのは千葉県の茂原市。 太平洋に近く、温暖で自然がいっぱいのところなのだとか。 茂原へ行こうと思ったのは、まだ一度も訪れていない町だからというのが一番の理由です。 でも、行くんだったら春がいいみたいですよ。 …というのは、日本桜の名所100選にも選ばれた茂原公園があるからなのですね~。 ネットで調べたら、ちょうど、「桜まつり」も開催されているそうなので一か月ぶりにお散歩に行くことにしました。 ついでに桜の名所100選について、ネットで調べてみたんですよ。 さすがに、弘前公園や吉野の桜など、日本が世界に誇る桜の名所がランクインしていました。 ちなみに、東京都内の桜の名所は、以下の五つ。東京上野公園新宿御苑隅田公園小金井公園井の頭公園 わりと人生を長く生きているから、これらの公園全部、桜が満開の時期に行ったことがあります。いずれ劣らぬ、ゴージャスな桜の名所であることは間違いありませぬ。 これらと同じ土俵に選出された、茂原公園とはどんなところか、期待が膨らみます。 JR茂原駅の南口を出て、地図に従って茂原公園を目指して歩きます。駅から徒歩で30分ほどかかるのですね。 歩きながら、そういえば茂原って、オイラの学生時代の知り合いに関係している場所だったと思いだしました。 大学生になったとき、一年間ほどアパートを借りて住んだことがあったのですよ。 隣の部屋に入ったのが、同じ大学の同級生。 だけど、三浪の人だったので、みんなは「先輩」と呼んでいました。 その人がすごいプレイボーイ(今や死語?)で、毎月、彼女を変えているのです。毎晩遊び歩いているのだから、夜も遅くならないと帰ってこない。 アパートの部屋の前で、いつも「先輩」の帰りを毎晩待っている女性がいました。冷たい板敷の廊下に座り込んで、文庫本を読んでいるのです。 「先輩」は、彼女とは別れたと言っていたのに、彼女のほうでは別れたという認識はないみたい。 一週間も毎日通ってくるので、気の毒になったオイラは、やっぱり同じアパートに住んでいた別の同級生と一緒に、廊下に座り込んで身の上話をいろいろ聞きました。 聞いてみたら、100パーセント「先輩」が悪いので、同級生と二人で腹を立てたのです。実はその女性が住んでいたのが茂原でした。 こんな遠いところから、毎日通っていたのですな。 当時の彼女の苦労を思い出し、少し重たい気分で商店街を歩きます。 ある商店の店頭を何気に見ると、おお、これはクワっすか。 まわりに畑がないのに、クワや竹かごを売っている店があるのですね。 通り沿いには、古い家もところどころにあってうれしくなります。 しばらく歩くと川にぶつかりました。市内の中央を流れる豊田川らしい。 水辺の緑と近代的な建物がいい味を出していますな。 東京は、ビルには不自由していませんが、こういう緑あふれる川は意外と少ないかも。 ただ一つ目立つ高層ビルは、市役所の庁舎でした。市内のどこからでも見られるのはいい目印ではあるのですが、いつもお役人に見下ろされているのもどうか、と…。 市役所の近くにあるのが、藻原寺。 藻原寺は、そうげんじと読み、「茂原市」の市名の由来にもなったお寺らしい。さすがに、「そうげんし」とはならなかったのですな。 日蓮聖人が、お題目初唱をした霊場として知られる日蓮宗の名刹なのですね。 このお寺のシンボルとなっているのが、山門。 竜宮城を思わせる多宝塔式の山門で、高さが24メートルもあるのだとか。 境内にも桜が植えられて、思わず足を止めて見とれてしまいます。 古い木造建築と桜のコラボは、日本人のDNAを刺激して郷愁をそそられますな。 藻原寺の境内では骨董市が開かれ、古い彫刻やら、古い時計やら、着物や洋服やら、ゆっくり眺めました。 歴史好きだけど、骨董にはそれほど興味がないオイラが注目したのは、古い雑誌。 おお、30年くらい前のプロレス雑誌じゃ~!!! ドリーファンク・ジュニア、バーン・ガニア、ジン・キニスキー、ペドロ・モラレスなどそうそうたるプロレスラーが表紙を飾っている。 今日訪れた人たちで、これらのレスラーの名前を全部言えるのはオイラだけかも。 よっぽど買おうかと思ったのですが、うちの押入れを探せばあるかも、と思って眺めるだけにしました。 目指す茂原公園は、藻原寺の裏に広がっているみたい。楽しみはあとでと、先に鷲山寺にお参りします。 藻原寺と違って、こちらのお寺は訪れる人もなく静かな佇まいでした。 境内で目に付いたのは、「元禄津波供養塔」。 徳川綱吉の元禄時代に、地震による大津波によって太平洋に面する九十九里や白子の人たちが津波によって大勢亡くなったらしい。その供養塔なのですな。 現代も、首都直下型の地震は来るのでしょうね。 そのときは、家に押しつぶされて危ういだろうと思いつつ、それなら、今のうちに桜を眺めておこうと足を速め、茂原公園へ向かいました。 茂原公園は、昭和初期に開設され、さくらはソメイヨシノなど約2,850本が植えられているとか。 行った日は、六分から七分咲き程度でしょうか。 満開の一歩手前で、園内が桜であふれかえっているという雰囲気ではなかったです。でも休日だったので、桜を見に大勢の人たちが集まっていました。 この公園の特徴的な風景は、池と赤い弁財天の建物と橋、そして桜のコラボでしょうか。 この池は、弁天池といって、もともとは用水池として作られたらしい。約16万平方メートルの敷地内には、桜のほか、ツツジやシダ等も植えられているそうですね。 池と赤い歴史のある建物、そして桜のピンクは色彩的にも相性は抜群。 それほど桜の本数は多くないようですが、その見事なコラボが桜の名所100選の理由なのではないか、と…。 ホントは、もう少し満開の桜が見たかったのだけれど…。 それでも芝生の広がる野外ステージでは、バンドや太鼓演奏、踊りなどのイベントが開催され盛り上がっていました。 そして、茂原公園の奥にあるのが、茂原市立美術館・郷土資料館 平成6年10月に開館したそうですが、ここは「美術館」と「郷土資料館」がコラボで見られるのがうれしい。公園で桜を眺めながら、気軽に芸術と文化の両方に親しめるのですね。 まさに、一粒で二度おいしい状態。 しかも、無料っす。 行った日は、美術館では、郷土ゆかりの作家を中心とした作品。郷土資料館では、茂原市のおもに稲作における歴史資料が展示されていました。 もう少し、茂原市の歴史背景が知りたいと思いましたが、無料ですから注文はあまりつけられませぬ。 美術館と郷土資料館を堪能したあとは、茂原公園内を、桜を眺めながらそぞろ歩きします。 茂原公園の展望台に上ると、公園内はおろか市内も一望できました。 この見晴らしと丘の急斜面、そして広い池、城好きとしては、ここに城を築きたくなりますな。 …と思って帰ってからネットで検索してみたんですよ。 そしたらなんと、ここは藻原城の城跡でもあるらしい。公園内には何も表示がなかったのですけどね。 戦国時代の城ではなく、鎌倉時代の居館みたいですが、現在、藻原寺の建つところに建物があったそうな。 オイラが土塁かと思った部分も、その可能性があるとのこと。現在の弁天池も水掘の名残かも、と…。 今も昔も、城好きにとって、城を築きたくなる土地は同じなのかも。 時間があったので、桜がきれいだという豊田川のほとりを歩き、船着神社というところへ行ってみることにしました。 日差しが強く、紫外線の攻撃をモロに受けつつ、川沿いの遊歩道をひたすら歩きます。 地図を見ながら歩いたのですが、行けども行けども、目的地に到着しない。 もう限界っす、とあきらめて撤退を余儀なくされる羽目になったのです。 オイラが、ウォーキングマップのコースを予定通り歩けないなんて…。 気づかないうちに、足腰が弱くなっているのだろうか。 とうとう、老いがオイラにも訪れたのかな、とブルーな気分になってトボトボ国道沿いの帰り道を歩きました。 かなり歩いたと思ったとき、行く予定だった船着神社が目の前に。 ものすごいスピードで歩いていたから、気づかないで通り過ぎてしまったのですね。 こんな小さな社だとは思わず…。 あとで調べたら、正規のコースより4キロも余分に歩いていたのでした。 足腰が弱っていたわけではなかったのですね~。 それにしても、注意力が散漫なのは花粉症のせい? 足腰より、脳みそのほうが心配な、今日この頃でした。
2009年04月11日
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こんばんは。 大変ご無沙汰致してしまいました。 一ヶ月以上も更新しなかったのは、ブログ始まって以来の最長無更新記録。 3月は、ちょっと半端じゃないくらい忙しかったのです。 いつもは昼間に仕事をして、その合間や夜にネットアンケートなどの副業をしていたのですが、先月は、これに出版の原稿執筆作業が加わってしまったのですね~ 原稿の締め切りがあったので、3月は一日も休めずに、土日はずっと仕事状態。毎日原稿を書きまくっていて、さすがにブログを書く精神的なゆとりがなかったといいますか。 でも、おかげさまで4月になってようやく、執筆作業に一区切りをつけることができました。 これから、リハビリをかねて、少しずつプログも復活していきたいのだけれど…さて、どうなりますか。 今度出版される本に関しては、またブログの中で少しずつご報告させていただければ、と思います。 …ということで、約二ヶ月ぶりのお散歩ネタ。 突然ですが、昭和天皇のお墓がどこにあるか、ご存知でしょうか。 この質問を渋谷か新宿の路上でしたら、どういう答えが返ってくるでしょうね。 ちゃんと答えられる人はそれほど多くはないかも。 …というのは、オイラの周りの人たちに聞いてみたら、答えられる人が半分もいなかったのですよ。 京都ではないかという人がいたり、皇居だという人がいたり、明治神宮の中にあるという人もいたり…。 もっとも、オイラも、以前お参りに行ったことがあるから知っているだけで、テレビや新聞、雑誌で見た記憶はないのですが。 答えは、東京八王子。正式には武蔵陵墓地というらしい。 父の葬儀や納骨をしているうちに、なぜか昭和天皇の墓にもお参りをしたくなったので、八王子近くのお散歩をかねて伺うことにしたのです。 最寄の駅は、高尾駅。 JRと京王電鉄が乗り入れているのですが、料金が安いので例によって京王線を利用します。 高尾駅を出て、まず向かったのは、多摩森林学園。 ネーミングを見ると、林業科の学校というイメージですが、いわゆる学校ではないみたい。独立行政法人森林研究所の研究施設なのですね。 明治時代は宮内省の林業試験場だったそうですな。近くに、大正天皇の陵墓が築かれたのはその関連もあったのかもしれません。 ここの目玉は、園内の桜保存林だとか。 なんでも、日本全国各地からさまざまな桜が集められ、その遺伝子を保存するための「クローン」を植えているのだとか。 行った日は、冬でしたから当然桜の花は見られません。でも、整備された園内をめぐり、桜の咲いている頃をイメージしようか、と…。 ところが入口近くまで行ってみると、以下の張り紙が…。 『 2008年8月末の豪雨により園内各所に土砂崩れが発生したため、ただいま休園しております。 皆様には大変ご迷惑をおかけし、お詫び申し上げます。 2009年3月24日(火)には再開することを目指して復旧工事に取り組んでいるところです。』 がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~ん、休園っすか。 ガックリきたと同時に、これで入園料300円が浮いたというせこいことを考えるオイラがいたのでした。 実際行ったのは去年だったので、現在はもう開園していると思いますよ。 でも、近くの杉林からの花粉の密度を考えると、とても、今また改めて出かける気になりませぬ。 ところでこの辺りは、400年以上前に、武田信玄の武将・小山田信茂と滝山城主・北條氏照の重臣・横地監物らとが一大血戦を行なったところだそうですね。 近くに、廿里古戦場(とどりこせんじょう)の解説板がありました。 廿里山に陣を張って待ち伏せた小山田勢とそこへ押し寄せた北條氏照の重臣・横地監物らが現在の長房町付近の平地で激闘を演じたとか。 確かに、丘陵を背負った平地はいかにも戦場になりそうな場所。 この戦いで北条方は散々に敗れ散ったらしい。 この敗戦を契機に、滝山城からより奥深い山の中の八王子城が築かれることになったそうですね。 今まで行った場所が頭の中でフラッシュバックし、ストーリーを伴ってつながる瞬間がお散歩の醍醐味っす。 南浅川まで戻り、下流に向かって歩くと陵南公園に着きました。 ここは、東京オリンピックのときに自転車競技場として使用された場所だそうな。 今は野球場や日本庭園、林の広場になっていますが、オリンピック当時はどうなっていたのでしょうね。 ちょっと想像ができませぬ。 公園のエントランス部分は、甲州街道から南浅川橋を渡って伸びる武蔵野陵墓地の参道に接しているのですな。 オイラはその参道を歩いて、武蔵野陵墓地へ参拝します。 ケヤキ並木の広い通りですが、車の通行もほとんどなく深閑とした雰囲気。 やがて、広い広場が現れ、北山杉の並木が続く参道を望むことができました。 オイラはおごそかな気分で、玉砂利を踏みながら進みます。 参道はよく整備されていて、塵一つ落ちていない。 歩いているうちに、だんだん背筋が伸びてゆくような感じですね。 周囲は、昔、伊勢神宮をお参りしたときの風景によく似ています。 武蔵野陵墓地には、大正天皇と皇后さま、そして昭和天皇と皇后さまの4人のお墓があるのですね。 まず向かったのは、大正天皇の多摩陵。 大きな鳥居があって、その向こうには石段。石段の上には、石で葺かれたドームが垣間見えます。まわりの木々の緑とよく溶け合っていますね。 ドームの下は石垣の段がありました。 上円は直径15メートルで高さは10.5メートルあり、一番下部の段は一辺27メートルの正方形なのだとか。 これは上円下方墳という形態なのですね。 この形式は、明治天皇の伏見桃山陵が参考にされたらしい。明治天皇の御陵が京都にあるとは、今回の記事を書くまで知りませんでした。 明治神宮に明治天皇のお墓があるものとばかり思っていまして…。 それにしても、上円下方墳のお墓を下から仰ぎ見ながら拝んでいると、古代の人たちの感覚を共有しているような感覚になりました。 隣にある大正天皇のお后であった貞明皇后の多摩東陵にお参りしたあと、昭和天皇の武蔵野陵にお参りします。 陵の形式は、大正天皇のお墓と同じなのですね。 ただ少し、イメージ的にやさしい感じがしたんですよ。 家に帰ってネットで調べてみたら、その理由がわかりました。 大正天皇のお墓より上円部の丸みがなだらかになり、石段の高さが低くなっていて、威圧感を減らす試みがなされているのですね。 昭和天皇のお后であった香淳皇后の武藏野東陵も同じで、あのやさしそうだった皇后さまの顔が目に浮かびました。 それにしても、上円下方墳とは古墳の歴史から言っても珍しい形式だと思うのですが、その経緯について知りたいと思いました。 まさか、仁徳天皇陵みたいな巨大な前方後円墳は作れないと思いますが。 武蔵陵墓地を出て、住宅街をテクテク歩き、次に向かったのは東照寺と長泉寺。 この二つのお寺は、もともとは今訪れた武蔵陵墓地の敷地内にあったのを墓地建設にともなって現在地に移転したらしい。 どちらも室町時代に創建された古刹なのですね。 長泉寺には、徳川家康の兵として関ケ原や大坂で戦功をあげた後、出家して諸国を回り、やがてこの地に庵を結んだ石平道人の墓がありました。 この人の名前は知りませんでしたが、一流の官公庁や企業を中途退職して、自分のやりたいことをやろうとした人は当時もいたのだと驚きます。 再び南浅川の河原沿いの道を下流に向かって歩きます。 東横山橋で川を離れ、住宅街を歩くと左手の丘陵の上に吉祥院がありました。 丘陵の上にはたくさんのお墓が建ち並び、そこからは市内や高尾山をはじめとした山の稜線を眺めることもできます。 お墓参りをするのは大変だけれど、眺めのいい景色を望めるお墓っていいですね。 吉祥院から次に向かったのは、龍泉寺。 ここは八王子城の城主だった北条氏照を開基として創建されたらしい。 北条氏照といえば、去年小田原へ行ったときお墓参りをしたばかり。一人の武将の足跡に、いろんな場所を旅するたびに出会えるのは楽しいっす。 そして最後に向かったのは、西八王子駅からほど近い場所にある宗格院。 この人もオイラは知らなかったのですが、幕末の開国論者、松本斗機蔵の墓がありました。松本斗機蔵は、千人同心頭の長男で寛政5年(1795年)の生まれだそうですね。 江戸の昌平坂学問所で天文 地理 兵制を学び江川太郎左衛門や渡辺崋山らとも交流があったとか。 海外事情に精通して、日本開港を主張したということからも先見性がうかがえますね。やはり激動の時代は、バイタリティのある人が生まれます。 今も、激動の時代と言っていいと思うのですが…。
2009年04月04日
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こんばんは。 またまた、更新が滞ってしまいました。 いろいろ近況を書きたいところですけど、長くなりそうなので、それはまたいずれ。 今日は、去年お送りした「私が仕事中聴いている名曲ベスト5 フォークソング編」の続編です。 昨日、テレビで懐かしい歌をたくさん聴いたので、またやってみようかと…。 前回、フォークソングを聴くのは、ひたすら忍耐力が必要な単純作業をしているときが多いって書きました。何度も聴いて耳になじんでいるから、気軽に聞き流せるといいますか。 雨が降っているときや寒いとき、傘やオーバーを貸してくれるのが、フォークソング。カジュアルな気分で、心が温かくなるといいますか。 さて今回は、平成の女性ボーカル編。 そのジャンルで、オイラが去年よく聴いた曲のベスト5です。 中には、この曲が平成?と疑われるものもありますが、ギリギリ平成なのですね~。 ほかにも、アイドル歌手編や演歌編、昭和の歌謡曲編、ニューミュージック編、ジャニーズ編、映画音楽編、最近のヒット曲編、サザン編、聖子ちゃん編、森高編といろいろあるのですが、それはまたいずれ。 ところで、これから紹介する曲は休憩時間に缶コーヒーなんぞを飲みながら聴くことが多いです。 だから、わりと癒し系のバラード曲が多いかも。 どんなに疲れていても、2~3曲も聴いていると、さあやるぞと、いつの間にか仕事に戻っているんですよ。 知らず知らずのうちに、元気を充電してくれる曲といってもいいかもしれません。 そういえば、最近のスポーツ選手は皆、試合が始まる前に音楽を聴いている人が多いみたい。 マラソンの高橋尚子選手が、シドニーで金メダルを取る前にノリのいい音楽を聴いていたのは有名な話。 フィギュアスケートの浅田真央ちゃんも、試合の前にいつも聴いていますよね。 テレビでその様子を見ていて、何を聴いているのかなと、そっちのほうがレースより気になったりして。 ほかの人が読んでいる本がよく気になるのですが、ほかの人が聴いている音楽も気になる今日この頃。 それはともかく、ビジベンが仕事に疲れたとき、砂漠でオアシスを求める如く聴いている平成の女性ボーカルの曲ベスト5は、次のように決定いたしましたぁぁぁぁぁぁぁぁ~ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダ… (← ドラムの音?)第五位 PRIDE 今井美樹 それはこちら この曲は、平成8年に発売以来、翌年にかけてオリコンカラオケリクエストチャートでは長期間上位にランクインしていたらしい。 この曲を聴いたら、カラオケでロマンチックなムードに浸りながら歌いたいと思う女性は多いはず。 オイラは一度も見たことがないですが、フジテレビのドラマ『ドク』の主題歌だったと聞きました。ドラマの人気もあって、最終的には160万枚の大ヒットになったとか。 今井美樹の透き通るようなピュアな歌声に、曲のイメージが見事にあっていますな。 それにしても、この美しい歌を作ったのは布袋寅泰なのですか。 身長187センチの強面の印象で、最近も芥川賞作家をボコボコにした傷害事件が記憶に新しいですけど、やっぱり心の中にこういうロマクチックな部分がないとこの言う曲は作れないでしょうね。 この曲がヒットしたあと、今井美樹が結婚したのも、その部分に惹かれたのかもしれませぬ。 ホントに人の見かけと才能の神秘さには驚かされます。 作詞・作曲の才能がまったくないオイラは、あこがれますね。 一生涯のうち1曲だけでもいいからこんな曲が作れれば、その後の人生はずっと幸せかも。 第四位 Secret of my heart 倉木麻衣 それはこちら 倉木麻衣は、デビューしてからもう10年になるのですか。最近はあまり見かけなくなりましたけど、当時は現役の女子高生がヒット曲を連発して、宇多田ヒカルとヒットチャートを争っていたのを覚えています。 もっとも、テレビはあまり出なかったので、オイラが知ったのはラジオのベスト10番組でしたが…。 デビュー曲の「Love, Day After Tomorrow」と次の「Stay by my side」も好きでしたが、ラジオでこの曲を聴きながら、埼玉県の吉見百穴という場所をウォーキングしたことがあるのです。 古代の墳墓が眼前に広がる神秘さとこの歌の穏やかな奥行きの広さが見事にマッチングして、イメージのシナジー効果を生み出しました。 英語のタイトルでありながら、オイラでもなんとなく意味がわかるのもうれしい。 この歌は、『名探偵コナン』エンディングのテーマでもあったとか。 古代の墓やアニメなど、世代を超えた幅広いジャンルに合うのは、曲自身の根源的な魅力によるものではないか、と考えるのでした。第三位 涙そうそう 夏川りみ それはこちら でも、この曲こそ、世代を超えて支持された代表曲と言えるでしょうね。 オイラのまわりには、曲の好き嫌いが激しい人もいるのですが、この歌が嫌いだという人にお目にかかったことはありませぬ。 カラオケでマイクを持ったら離さない、うざいと言われたオヤジが歌っても、この曲のときだけは皆、黙って聴いているような。 イントロで沖縄の三線とか入っていて、青い海とどこまでも広がる白い砂浜がイメージできる。 夏川りみは、演歌歌手の星美里と言った時代からテレビで知っていましたけど、うまいけれど素直すぎる歌い方に演歌では難しいかな、と思っていました。 でもこの歌は、まさに夏川りみの声質と素直な歌唱法だからこそ、魅力が最大限に引き出せたのでしょうね。 作詞した森山良子と作曲したBEGINも、この歌できっと永遠に名前が残るでしょう。 タイトルの「涙そうそう」は、沖縄の言葉で「涙がぽろぽろこぼれ落ちる」という意味だというのはあまりにも有名ですけど、「そうそう」を「ぽろぽろこぼれ落ちる」とイメージには捉えにくい。 あっさりしすぎている感じがするのですけど、悲しみをあっさり表現すると奥行きが逆に広くなって、強く心に残ると思いました。 それにしても、夏川りみさんは結婚したのですね。「一緒にいて楽しいし、お酒が強いところが好き」という理由が、沖縄の人らしい。第二位 100回のKISS 松浦亜弥 それはこちら オイラがよく聴く第三位はあややっす。 あややと言えば、「桃色片想い」や「Yeah! めっちゃホリディ」のような元気な曲をあげる人が多いと思いますが、この曲はつんくの作った曲の中で1、2位を争う名曲だと思うのです。 この曲は、歌手デビューする前からモーニング娘。のコンサートで歌っていたそうですね。 当時は「100回のKISS」の2番の歌詞が未完成だったらしい。 …ということは、一番に作られた? それが、発売が何曲かあとになったのは、つんくとしてもかなり吟味して作ったということでしょうか。 レコーディングのときも、かなり気合が入って、つんくから怒られたとあややが話していた記憶があります。 それにしても、どうしてオイラの記憶があるのかわかりませぬ。 つんくも、よくこんな少女の気持ちに共感できた歌を作れると思いました。第一位 secret base ~君がくれたもの~ ZONE それはこちら この曲は、どちらかというと昭和の香りを感じさせるような気が…。 この歌がヒットしたとき、メンバーの4人は中学生と高校生だったらしいですけど、しっかりした演奏と歌のうまさに驚きましたね。 しかも、全員がボーカルで、皆レベルが高い。 ガールズバンドというと、プリプリのように派手な衣装と茶髪みたいなイメージがありました。 彼女たちは、中学や高校生としてのラインを守りつつ、バンド活動をしていた印象でしたね。 …といっても、はじめてオイラがテレビで見たのは初出場した紅白のとき。 それまではラジオで聴いて知っているだけなのでした。 この歌がヒットしていた頃は、あるクリニックで仕事しているときで、院長先生が亡くなって閉院を余儀なくされたときでした。 歌詞の中に「突然の転校で、どうしようもなく~」という部分があるのですが、「突然の閉院で、どうしようもなく~」とつぶやいていたのを思い出します。
2009年02月28日
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こんにちは、ご無沙汰です。 この時期、突然、更新がストップすると、夜逃げしたのではないかと憶測を呼ぶ今日この頃。 今までの仕事に加え、某官庁の委員やら、某医療系大学の授業のお手伝いやら、知り合いの夜逃げ引越しのお手伝いやらで多忙な日々が続いておりまする。 しかも、今までブログを更新していた土日に集中して仕事が入っているんですよ。 しばらくブログの更新が停滞気味になりますが、当分夜逃げする予定はありませんので念のため。 さて、今日は約一年ぶりの山歩きネタ。 なんと、一ヶ月以上前の正月の話題なのですね~。 前にも書きましたが、正月は、博物館や美術館の休館が多いので山へハイキングに行くことが多いのです。 山が正月休みで休業しているのはあまり聞きませんからね。 お正月といえば初詣。 だけど混んでいるので、毎年すいてからお参りすることにしています。 だから、毎年ご利益のおこぼれにあずかれないのか、と…。 神社仏閣のご利益は、先着何名様と定員が決まっているからあんなにいつも混んでいるのかなと考えたりして。 それはさておき、一月二日の朝、オイラはJR青梅線軍畑駅に降り立ちました。 新宿から特別快速の電車が出でいるので、オイラの自宅から2時間かからないで行けるのですね~。 それにしても、軍畑駅というネーミング。 戦国時代好きのオイラはそそられまする。 …と思って調べてみたら、やっぱりここで大きな戦があったそうですね。 永禄6年(1563)、多摩川上流域を支配する三田綱秀と、八王子付近一帯を支配する滝山城主北条氏照が、この近くで激戦を展開したとか。 結局、戦いは北条軍の圧勝に終わったのですが、その合戦での両軍の戦死者や具足を集めて葬った鎧塚があるとのこと。 ハイキングコースには入っていませんでしたが、せっかくなので行ってみることにしました。 青梅線のガードの下にある欝蒼とした森で、結構大きい。 高さが約8.8mで、直径が約30mもあるのですか。 これは、古墳時代の円墳といわれても納得してしまいそう。 これだけ巨大な塚が今も残っているのですから、その激闘のほどがしのばれました。 ハイキングコースに戻り、平溝川を右手に見ながら広い車道を登って行きます。 さすがに正月なので、車はもちろんハイカーもほとんど見かけませぬ。 このハイキングコースは、奥多摩の入門コースと言われるくらい人気があるらしいのですけどね。 いつも騒然とした都会に暮らしていると静かすぎるのも落ち着かないっす。 …と、ラジオのスイッチを入れると箱根駅伝の実況中継が。 聴きながら歩いていると、自分も駅伝に参加しているような気分になります。 ラジオ中継の沿道の歓声に励まされつつ、大きなストライドで第1中継所の高源寺へ到着しました。 初詣の人たちが一人もいない深閑としたたたずまいは、まさに山里のお寺というイメージ。 競争率が低そうなので、ご利益の当選確率が高まるかも。 しっかりお参りしたあと、左手の坂道を登ります。 空気がピーンと張り詰めて肌寒いのですが、直射日光がすごいっす。 例によって、ユニクロのエアテックコートを着ていたので、10分も歩くと汗びっしょりに。 コートを脱ぎ、シャツを腕まくりして真冬とは思えない姿で山を登りました。 やがてコンクリートのダムが目の前に現れます。 脇の急な階段を、息を切らして登り、いよいよここからが欝蒼とした木々に囲まれた本格的な登山道。 大きな石がゴロゴロ転がっていたり、古木の根っこが蛇のようにうねっていて、行く手をさえぎります。 くくく、きつい。汗が目に入って前が見えないっす。 ここで、耳にさしたイヤホンから、アナウンサーの「さあ、ここからが箱根駅伝2区の難所、権太坂にさしかかります」との声が。 う~、オイラも頑張って登らねば…。 足場が悪く、昼なお薄暗い沢沿いの道を転びそうになりながらも前進。 花の2区を走る各大学のエースランナーに負けじと、急な斜面に作られたジグザグな登山道を登ります。 立ち止まって休みたいけれど、母校のタスキを必死でつなぐ後輩たちに、先輩が負けるわけにはいかないっす。 悪戦苦闘を続けるうちに、周囲が明るくなり尾根が近づくのがわかりました。 ようやく尾根道に出て、勾配がややゆるやかに。 でもまだ、六合目ですか。 箱根駅伝の中継は、日大がダニエル君の快走で順位をグングン上げているらしい。 …と、前を見ると、先行するハイカーを発見! 休まず、ぐんぐん登って来たから追いついたのですね。 距離は、約100メートル。 ラジオでは、ダニエル君が20人をゴボウ抜きと言っています。 よし!オイラも先行するハイカーを追い抜くのじゃ~! 近くにあったベンチを横目に、追撃態勢に入るオイラ。 差が50メートルほどに詰まってくると、先行するハイカーは、頭の登山帽から足の登山靴までびっしりブランド物で固めたオヤジだというのがわかりました。 トップをゆくオヤジ学院大学をビジベン大学が急追。しかし、急な斜面に足を取られ、思ったように前に進まない。 先行するオヤジがオイラの存在に気づき、ピッチを上げます。 高い杉が見下ろす九合目で、ようやくオヤジ学院大学をとらえ、後方にピタリとつきました。 そのまま両校は並走状態に。 急な上り坂が終わり、頂上に続く尾根道に出たところでビジベン大学がラストスパート。 ぐんぐんその差を引き離し、トップで第2中継所の常福院にゴールすることができました。 ハイペースで飛ばし過ぎたので、さすがにゴールしたあとは石段にすわりこんでしまいましたが…。 高水山常福院は、いかにも山奥の古刹といった風格が感じられるお寺。 ここは何でも、鎌倉時代の有名な御家人であった畠山重忠にもちなんでいるらしい。焼失する何代か前の不動堂は、重忠が再建したそうですね。 境内で小休止をしたあと、高水山向けて歩き、ようやく山頂へ。 この山の標高は、759メートルですか。 軍畑駅からの標高差は約500メートル。自分の足で、東京タワーの1.5倍の高さを登ってきたのですね。 さすがに山頂だけあって、雪はないものの地面が凍結している。 3つの山のうち、一つの山をクリアし、次の岩茸石山を目指します。 木の根が露出した急な斜面を下ります。気をつけないと滑り落ちそう。 それにしても、山の頂上付近は風が強いのですね。生木が裂けて転がっているのを何度か目にしました。 こんな強風に見舞われたら、人間はひとたまりもないかも。 ゆるやかな尾根道をしばらく行くと、また急な坂が。 岩の角や木の根っこにつかまりながら登ります。 そして、第3中継所の岩茸石山山頂へ到着。 この山の標高は、高水三山で一番高い793メートル。 そのせいか、360度の眺望が素晴らしい。 見渡す限り、山、山、山…。 正月で空気が澄んでいるためか、奥多摩の大パノラマを満喫することができました。 再び、急な岩場を降り、第4中継所の惣岳山を目指します。 下界に、すすきの原が広がる風景やどこまでも続く杉林の尾根道は、一見の価値がありましたね。 快適なウォーキングを続け、最後の難所・惣岳山の岩場登りにチャレンジです。 久しぶりにロープを使って岩場を登ることができて楽しかったっす。 惣岳山の山頂は、杉の大木が囲まれて眺望はよくないですが、古い社殿があって荘厳な雰囲気。 これは青渭神社の奥宮なのですね。 惣岳山からの下りは、また木の根や岩が行く手をはばむ難所でした。 登りは息が苦しいけれど、下りは息が楽な分膝や腰に負担がかかりますな。 これだけの急坂を延々と下ったのは、筑波山を下ったとき以来ではないか。 …と思って、後ろを振り返ると、ハイカーがオイラを急追している。 今度は、茶髪スポーツ刈りのおにーさんじゃ。大学のウインドブレーカーを着ている体育会系っすね。 う~、ものすごいスピードでオイラを猛追しているっす。 別にオイラを追っているわけじゃないけれど…。 ああ、このままではトップが奪われてしまう。 足を速めるオイラ。 いくら日頃からウォーキングをしていても、体育会系のおにーさんにオヤジがかなうはずはない。 すんなり追い抜かれてしまったのです。 でも、ここからが勝負じゃ~とスピードを上げようとしたとき…。 グキッと足をひねって転倒。 骨は折れなかったものの、ゴール寸前で涙の途中棄権となってしまったのでした。 来年は予選会からの出場っすか。
2009年02月08日
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こんにちは。 うう、昨日から涙が止まりませぬ。 とくに悲しいことはないのに、オイラも年のせいで涙腺がゆるんだのかなと思ったら… 今年も、花粉症がキタァァァァァァァァァァァァ~ 不況と花粉症のツープラトンの攻撃にもだえ苦しむ今日この頃です。 ということで、今日は前回の続きのビジネスネタ。 前回は、大企業と下請けの中小企業の関係をカードゲームの大富豪と大貧民との関係になぞらえました。 実際は、中小企業でありながら大富豪となっている会社は多々ありますけど、話を単純化するために、あえてこのようなシチュエーションにしましたので念のため。 さて、この大貧民たる中小企業がどう大企業に対抗していくのか、という点。 それは「大富豪」のどう大貧民の状況から抜け出すか、というテーマと、似ているのではないかと考えたのでした。 だから、「大富豪」の敗因を分析することは、その状況から脱却できるヒントが隠されているのではないか、と…。 そのように考えてくると、「大富豪」で負け続ける人は、結構同じパターンを踏むことが多いというのが前回までのお話です。 それは、どういうプレイヤーか。 それはまず、大富豪とまともに張り合おうとする人ですな。 大富豪が「13」を出せば、「A」を出し、「A」を出せば、たった一枚しかない虎の子の「2」を序盤で使い切ってしまう。 結局、「3」が一枚だけ残って、次々と他のプレイヤーに先に上がられて「大貧民」になってしまうパターン。 負けず嫌いなのでしょうけど、もともと大したカードを持っていないのだから、すぐ底をついてしまう。 いわゆる「カネ」で、中小企業が大企業と張り合おうとするのと同じ。 創業したての中小企業って、意外とこのパターンで潰れることが多い。 15年くらい前、同じ時期に創業した会社同士の親睦会があったんですよ。 10社近くがそれに参加して、オイラも名刺交換させてもらったのですが、信じられない話、今残っている会社は一つもないのです。 オイラの会社は、残っていると自慢できる規模ではないので自主的に省きましたが…。 当時何度か、親睦会に参加した会社へお伺いさせてもらったことがあるのですけど、どこも羽振りがよかった …印象でした。 ブランドの高い場所に事務所を借り、従業員を多数かかえていた会社もいくつかありました。 中には、事務所の面積の半分近くを豪華な内装の社長室が占めていた会社も。 当時は随分うらやんだものですが、その5年後くらいにどこも倒産や廃業してしまったのです。 銀行や取引先に対する見栄もあって、それを維持するために借金を繰り返していたのでしょうか。 創業間もない中小企業にとって、一番の敵は社長さんの見栄だと骨の髄まで思い知らされました。 最初から、自分より数段上を望んでしまうと、「カネ」の面で必ず資金ショートします。 「大富豪」でいったら、よほど自分のカードに自信がない限り、最初から大富豪とまともに張り合ったら駄目ですね。 地道に「バス」を繰り返し、チャンスがあったら3~5などの小さい数字のカードを着実に減らしてゆく。 大富豪や富豪とまともに戦わず、まずは平民を目指して一歩ずつ階級をあげてゆくことが肝要だと思いました。 でも、残念ながらそれだけでは大富豪には太刀打ちできませぬ。 「人」と「モノ」、そして「情報」を駆使してかからないと、「カネ」の面で圧倒的に不利な大貧民の中小企業は這いあがれない。 企業における「モノ」は商品やサービスと言えます。 大企業には、大資本を背景にした商品力、ブランド力がありますね。また大量生産によって、価格を下げても利益を維持できるので中小企業ほど苦しくはならない。 「大富豪」で言ったら、悪いカードを大貧民に押し付け、自らダブルやトリプル、階段のカードをコーディネートできる状態でしょうか。 ちなみに、階段のカードとは、「3」「4」「5」みたいに数字の一番違いのカードを3枚以上出せる状態っす。 もともと「2」や「エース」「ジョーカー」などいいカードを豊富に持っているのに、それにプラスしてダブルやトリプル、階段のカードを作れるわけですから、ゲームを始める前にかなり有利な状況ですな。 大企業も同じ。 商品やサービスを市場に供給する前に、中小企業に比べかなり有利な状態なのは間違いない。 それから「人」の問題も、最初からクリアできている。 大企業は労働条件がいいから、当然優秀な人材が集まります。 「大富豪」も、最初から同じ条件ではじめるわけですから、その中から勝ち抜いて大富豪になったということはある程度のスキルがあるということですからね。 「カネ」はもちろん、「人」「モノ」でも劣る大貧民はどう大富豪に対抗してゆくのか。 いつも悪いカードを大富豪から押し付けられる大貧民ですが、我慢しながらゲームを続けていると、悪いカードなりに特徴を持ったカードが集まることがあるのですよ。 たとえば、最悪の「3」でも、それが3枚集まればトリプルだし、4枚集まればフォーカード。 革命ルールがなくても、これを出せば他のプレイヤーは誰も対抗できないでしょう。 それから、「3」「4」「5」のカードだって、階段の状態で出せば、切れる可能性はかなり高い。 これを中小企業にあてはめると、商品特徴で勝負ということになるのでしょうか。 単品では大企業と勝負にならなくても、それを加工したり、うまく組み合わせたりすることによって、大企業がすぐには真似のできない商品やサービスを創造することができる。 身軽ですし、失うものが少ない分、大企業よりはダイナミックな勝負をすることもできると思います。 ただここで大きな問題がありますな。 「大富豪」で言うと、大貧民は、苦労して作ったそのカードをなかなか出すことができない。 中小企業で言ったら、自信のある商品・サービスを持っていても、広告宣伝費にかけるお金がないということになるのでしょうか。 「2」や「ジョーカー」など決定力のあるカードを多数持っている大富豪は、自分の出したいカードを自由に出すことができますからね。これは広告宣伝費に湯水の如くお金を使える大企業の状態に似ている。 しかし大貧民は、カード出してもすぐ上のカードを他のプレイヤーに出されてしまう。 しかも、オイラがやっていた「大富豪」のルールでは、最初に大富豪から出す決まりになっていたんですよ。 普通は、大貧民から出すことが多いようですが…。 大富豪に絶対的な権力が集中していたんですね。 だから自分より上位のプレイヤーがハイレベルのカードでゲームをしている間、大貧民はじっと足の痛みに耐えて待っている。 こんなとき、自分の虎の子のカードを使ってしまったら、数少ないチャンスを掴むことができないですからね。 ここで待てるかどうかが、大貧民から這い上がる人とそうでない人との別れ道だと感じました。 待っている間でも、今までどういうカードが出たかを記憶し、他のプレイヤーはどんなカードを持っているかを洞察することが大事ですね。 中小企業としては、市場動向を調査しながら、いつ勝負に打って出るか、その時期を検討することが大切なのだと感じました。 オイラが大貧民の場合、最初から勝てないと思ったら、大富豪や富豪に先に上がらせてしまうことが多かったです。 下手に勝負に出て、虎の子のカードを使うよりは、戦力を温存して着実にひとつ階級を上げるといいますか。 景気が悪くなって一気に業績が落ち込んだとき、一発逆転を狙って大勝負に出る経営者の人は意外と多いです。 大勝負に勝って、一気に形勢を逆転できるならいいのですけど、不況でどこも必死で頑張っているときは思い通りに行くことはあまりないかも。 オイラが上がるときは、大抵同じパターンが多かったです。 ほかのプレイヤーがあと、1~2枚残っているとき、こちらはまだ4分の3のカードが残っている。 でも、カードを出すチャンスがめぐってきたら、すべてトリプルや階段のカードを使って一気に上がってしまう、みたいな。 そうやって着実に階級を上げて行き、大富豪や富豪になったら負けないゲームをする。 大富豪になって、当然のように大貧民に一番悪いカードを渡すと、立場が逆転したとき仇をとられますからね。 隣のプレイヤーが次のカードを出しやすいように、きれいな終わり方をしたり、大貧民が上がりやすいようなカードを渡す。 オイラの「大富豪」の経験からいって、大富豪のときに恨みを買ってしまったら必ずあとでしっぺ返しにあいました。 同じように、現在、大企業が下請けの中小企業に不況のつけを背負わすと、いつの日か必ずしっぺ返しにあうような気がするんですけどね。
2009年01月24日
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こんばんは。 新年ということで、久々のビジネスネタなぞやってみようか、と…。 調べてみたら、ビジネスネタは3年以上も書いていないっす。 オイラのブログのタイトルは「私の仕事に役立ったビジネス書」ですけど、延々と関係のないネタを書き続けているのでした。 元はと言えば、今までオイラが読んだ一千冊のビジネス書の中で、実際の仕事に役立った事柄をお送りしようと思ったのが、ブログを始めたきっかけ。 最初はその方針通り真面目に書いていたのですが…。 でも、最近よく考えてみると、今まで読んだビジネス書より現在の自分の仕事に役立っているものがあるような気がしているんですよ。 どぶの中を這いずりまわって、しぶとく生きてゆくコツといいますか。 好況のときはあまり、気にしていなかったのですけど、不況になるとあきらかにそこから得た教訓が生きているな、と思えるのです。 それは、高校から大学時代にかけて盛んにやった「大富豪」。 ずっと前にも、「大富豪」をテーマにした記事を書いたこともありましたね。 ちなみに「大富豪」とは、トランプのゲームのひとつ。 カードをプレイヤーにすべて配り、手持ちのカードを順番に場に出して早く手札を無くすことを競うゲームです。 その特徴はなんといっても、大富豪や富豪、平民、貧民、大貧民に分かれるところですな。 「大貧民」になったら、「大富豪」へ一番いいカードを2~3枚渡し、代わりに悪いカードを受け取らなければならない。 従って、一度、ドツボにはまったら、なかなか這い上がれないのです。 前にも書いたと思いますが、オイラがやっていた当時は、大貧民は大富豪にカードを渡すだけではなく、さまざまなペナルティーを科していたのでした。 たとえば、大富豪が牢名主のごとく座布団を3~4枚重ねて座るのに対し、大貧民になった人は、ゲームの間中ずっと正座していなければならない。 最初はその程度だったのが、ゲームを続けるうちだんだんエスカレートしていったのですね~。 大貧民は正座中ずっとほうきの柄を膝に挟んでいるとか、部屋に入れてもらえず、玄関で正座したままやるとか。 時間が経つと足がしびれて、ゲームに集中できる状態ではなくなってくる。 オイラがやった中で一番きつかったのは、大貧民はゲームの間中、4の字固めを食らい続けるというのがありました。 カードを出そうとすると、かける相手が足に力を入れる。 ぎぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~と激痛に耐えているうちに、「はい、パスね」とゲームを続けられてしまう。 だから、一度、大貧民へ落ちてしまうとなかなか這いあがれない。 しかも、オイラがやっていた当時のルールは、「革命」がなかったんですよ。 ちなみに「革命は」は同じ数字のカードを4枚出すと、カードの強さが逆になるルールです。 友達の家でやるときは、時間も限られているのですが、クラブの合宿で夜通しゲームをやるときは大変でした。 延々と2~3時間も、足に棒を挟んだまま土間に正座。ひどいときは4の字固めを食らいながらだから、ゲームというより拷問と同じ。 冷たい土間に正座しながら、温かい座布団にふんぞり返って見下す大富豪に一矢報いてやりたい。 ネバーギブアップの精神は、そのとき鍛えられたのかも。 でも、あせって無理な勝負をすればするほどドツボにはまる。 これはもう、プチ格差社会ですよね。 一度、大富豪になると、よほど変な出し方をしない限りずっと勝ち続ける。 しかし、一度落ちると、ニートから抜け出すのは大変、みたいな。 今、当時のメンバーが集まって「大富豪」をすることになったら、土間に正座ではすまないかも。 ゲームからリストラされるばかりか、大貧民になったら新聞紙を一束渡されて、合宿所から追い出されるかもしれませぬ。 近くの公園で、体に新聞紙をまきつけて野宿も、現実味を帯びてきますな。 当時の連中だったら、そんなことを平気でやりかねない。 ま、オイラもその中の一人ですが…。 それはともかく、オイラは、大富豪を覚えるのが仲間内で一番遅かったので、ルールやテクニックを理解するまでは大変でした。 大貧民として虐げられる日がひたすら続き、社会へ出てからも同じ目に合うのだろうかと随分悩みましたね。 それでも、大富豪が強い友人たちのテクニックをいろいろ研究したり、敗因を分析したりするうちに、それほど負けなくなっていったのです。 あれから30年近くたった今も、パソコンやケータイのゲームとして大富豪をやり続けていますよ。 初心を忘れないためか、当時、虐げられる気分が病みつきになったのか、わかりませんが…。 オイラの会社は、超零細企業という点では他の追随を許さないところがありますが、意外と不況に対するリスクは軽減できているような気がします。 借金はないですし、取引先もさまざまな業界にわたって小口分散している。 景気がいいときは、こんな会社いつまでやっててもいいのかなと疑心暗鬼になりますが、不況のときはわりとテンションが高くなるのです。 ただ、元気よく、ニコニコしていると、逆に周りの人たちの機嫌を損ねてしまう。 不景気の時は、不景気な顔をするものだ、と。 でも、オイラにとっては、いつも遥か上空から見下ろされている会社が、不況のときはオイラのすぐ真上まで降りてきてくれるのが内心うれしかったりして。 たとえば、景気のいいときは吉野家で絶対見かけないであろうエグゼクティブが、オイラの隣で牛丼をかっこんでいる。 でも、オイラが牛丼の並、卵、味噌汁なのに対して、エグゼクティブはそれにごぼうサラダをトッピングしていますが…。 その程度だったら、オイラでも清水の舞台から飛び降りた気分で、生野菜を追加することも可能ですからね。 ジェットコースターみたいに上昇下降を繰り返す会社より、ずっとゆったりゆっくり走り続けるお猿の電車のほうが、安定感があるなと考える今日この頃。 不況のときはオイラの会社、なかなか足腰が強いところがあるっす。 前振りが長くなりましたが、今日は、そのあたりを考察してみようか、と…。 よく考えてみると、大富豪というゲームは企業経営のノウハウがいろいろ含まれていると思うのですよ。 企業経営で必要なのはまず経営資源。 経営学の授業では、経営資源とは「人・モノ・カネ」であると習います。これにプラスして、「情報」も、多くの有識者が申しますな。 これを「大富豪」に当てはめてみると、「人」はプレイヤー。 「モノ」はカードの組み合わせ方。 「カネ」は「2」や「A」、「ジョーカー」など強いカードを持っていることになるのではないか。 最初は、同じ条件ではじめるのですが、プレイヤーの技量をのぞけば運の要素が大きい。 「ソニー」や「松下」だって最初から大きかったわけではないですよね。でも、創業経営者の経営手法や市場の成長度、そして時流に乗る、あるいは時の運などによって差が出てしまう。 しかし、一度、大企業と小企業に分かれてしまうとその差は歴然。 大企業を大富豪とすれば、大貧民は赤字続きの零細企業といえるでしょうか。 下請け企業は、自分の持っているいいカードを大企業に渡し、大企業のお荷物になっているカードをもらわねばならない。 こんな厳しい状況が今の世の中、いろいろなところで起きていますな。 テレビでも、大企業の経営不振のつけを中小零細企業に押し付けている事例をよくニュースで見ます。 中小企業としては、こういう不合理な立場から脱却しないと倒産してしまう。 この中小企業がどう大企業に対抗していくのか、というテーマは、「大富豪」のどう大貧民の状況から抜け出すか、というテーマと、似ているのではないかと考えるのです。 だから、「大富豪ゲーム」の敗因を分析することは、その状況から脱却できるヒントが隠されているのではないか。 そのように考えてくると、「大富豪」で負け続ける人は、結構同じパターンを踏むことが多いんですよ。 それは、どういうプレイヤーか。 それはまた次回。
2009年01月17日
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こんばんは。 亡くなった父が生前書いた文章を、最近読んだのですよ。 それは、「ビジベン家の史記」。 父が昔、うちのルーツといわれる愛知県まで出かけて調査した報告書ですな。 うちのご先祖様でわかっているのは、江戸時代の後期から明治にかけて愛知県のお寺の住職をしていたお坊様まで。 それほど由緒ある家柄だとは思えないので、鎌倉や室町時代までは遡れないだろうとあきらめていました。 でも、読み進めるうちに驚愕の事実が…。 オイラが子供の頃かわいがってくれた祖母が、実は血がつながっていなかったみたい。 「ビジベン家の史記」にはあからさまには書かれていないのですが、本当の祖母は戦前に亡くなっていると思える節が。 血のつながった孫よりも可愛がってくれたので、親戚一同が話さなかったのも、わかる気がしました。 ほかにも、先祖といわれるお坊様と現在のうちの家系も直接血のつながりはないみたいなんですよ。 では、うちの血のつながったご先祖様はどこに? 祖父が尋常小学校を卒業した12歳のとき、一人で台湾へわたり仏教の修行したのも驚きでした。そのあと、日本に戻って還俗し、事業をはじめるのですが、相当の苦労談があったとか。 祖父とは子供時代、いろいろ話をしたことがありますが、自分の苦労したことを一切言わない人でした。 また、オイラのひいおばあさんにあたる人は生まれながら目が不自由だったというのも初耳です。周りの人たちから慕われたというエピソードもたくさん書かれていました。 それにしても、オイラの知らないことが多すぎ。 今まで聞いたことのない話ばかりだったので驚きました。 父の文章にも、わからない部分が多々あると書かれています。 これらの謎を解明することは、邪馬台国の場所より、オイラにとって重要かも。 この謎に包まれた「ビジベン家の史記」を完成させることがオイラの役目ではないかと考える今日この頃です。 さて今日は、前回の続きです。 新勝寺の表参道を歩いてきたオイラは、豪壮な総門と歴史のある仁王門をくぐり、大本堂へ向かいます。 急な階段を上りきると、いきなり視界がパッと開けました。 青空にむかって毅然と建つ大本堂が目にまぶしい。 本尊の不動明王像を安置しているのですね。 これは最近できたものかな、と思ったら、1968年建立の鉄筋コンクリート造とか。 間口は、95.4m、奥行が59.9m、棟高は32.6mもあるのですね。 前回、子供の頃に来たときと建立の時期が一致するから、きっと『新本堂ができあがったよツアー』にオイラは参加したのかもしれませぬ。 大本堂の御本尊不動明王像は、平安時代に、瑳峨天皇の勅願により、弘法大師が祈りを込めて敬刻開眼されたらしい。 ところで、新勝寺開山には、やはりあの平将門の乱が影響しているそうですね。 開山された寛朝大僧正は、宇多天皇の皇孫だったそうですが、朱雀天皇より、平将門の乱平定の密勅を受け、不動明王像を持って海路から房総半島に上陸。 そこから陸路をとって成田の地まで来られたそうな。 そして、平将門の乱平定祈願のため、下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行う。 ときに、西暦でいうと940年。 将門の乱が鎮圧されたあと、不動明王像とともに都へ帰ろうとしたところ、なぜか像はビクとも動かなくなってしまった。 この地にとどまって、多くの人たちにご利益をもたらそうとされているのではないか。 これを聞いた天皇は深く感動し、国司に命じてお堂を建立。 「新勝寺」と名づけ、ここに東国鎮護の霊場としての「成田山」が開山されたとのこと。 新勝寺の名前の由来は、「また新たに勝つ」という語句に因んでいるらしい。 将門の乱は今から1000年以上も前の事件ですが、今なお関東にさまざまな形で根を下ろしているのは驚きです。 鎌倉や戦国時代にもそれに匹敵するような大きな戦が行われていると思いますけど、歴史におけるインパクトという点では計り知れない影響力があったのですね。 そんなことを考えつつ、大本堂の右手を見るとゴージャスな外観の三重塔。 ピカピカでサイケデリックな装飾から、再建されたのだろうかと思いました。 しかし、1712年建立の重要文化財だと知ってびっくり。 普通、重要文化財って言ったら、黒ずんだ古木によるシックな外観、というのがオイラの中のイメージでしたから。 でも、できた当時はどの塔も、こんな極彩色で彩られていたのですね。 こんな色鮮やかな建物があちこち境内にあったのでしょうか。 ディズニーランドみたいなファンタジックな空間を作ろうとしたのかな、と…。 江戸庶民が泊りがけで成田詣でをしたのはもちろん宗教的な意味合いが大きかったのでしょうけど、泊りがけでディズニーランドへ遊びに行くといった雰囲気もあったのではないかと感じました。 三重塔は、小さいなという印象でしたが、それでも高さは25メートルもあるのだとか。 大本堂が巨大だからそう見えるのかもしれませんが、以前の本堂はもっと小振りだったそうですから、本堂と三重塔のバランスが取れていたのでしょうね。 数十年ぶりに、新勝寺の本堂にお参りします。 これで成田山に対するトラウマも解消~。どういうトラウマなのかは、前回の記事をご覧ください。 さすがに関東屈指の寺院だけあって、参拝客がひきも切らないですな。 本堂の中では、多くのお坊様たちがお経を唱えています。 それが一段落すると、後ろでお参りしていた人たちが前へゾロゾロと集まっていきます。 そして自分のバッグを若いお坊さんに手渡す。するとお坊さんたちは、ご本尊の前で燃えている火に預かったバッグをかざすのですよ。 もちろん火にくべたりせず、かざすだけなのですが…。 どういうご利益があるのでしょうね。 大本堂の左手の広場に建つのが釈迦堂。 これも重要文化財なのですな。安政5年(1858年)の建立で、こちらも旧本堂。 堂の周囲に施された二十四孝と五百羅漢の彫刻が見事っす。 釈迦堂の奥の階段を上ると額堂がありました。 これは、他の寺にもよくある絵馬を掲げるための建物ですが、規模や歴史が一味違いますね。 これも重要文化財ですが、いちいち書くのが面倒なので、以後割愛させていただきます。 額堂の脇をどんどん歩いてゆくと、奥の院へ向かう道がありました。 途中にあるのが、光明堂。 元禄14年(1701年)建立で、釈迦堂が本堂になる前の旧本堂なのですか。 新勝寺の境内の広さは半端じゃないですから、旧本堂を移築してどんどん大きな新しい本堂を建てることができるみたい。 いずれ、今の大本堂を新築するときは、高層建築になるのだろうかとイメージしてしまいました。 さらに、新勝寺の境内の一番奥へと向かいます。 境内でひときわ高く、そしてひときわ大きな建物が、平和大塔。 鉄筋コンクリート造で高さ58.1mの仏塔ですな。 1984年の建立だから、今回はじめてお目にかかる建物なのでした。 二重の塔に見えますが、内部は5階建て。 中に入れるそうなので、喜び勇んで見学させてもらうことにします。 さすがにエレベータはないみたいですけど、中はカーペットが敷き詰められていて快適な空間。 1階には写経道場や絵馬などの文化財が展示していてありました。 2階は、巨大な不動明王像を中心とする五大明王の巨像が安置。 3階と4階には、信徒が奉納した不動明王の小像が多数置かれていました。 財界や政界の有名人、一般信徒の人たちの寄付でこれだけの巨大な塔が建ったのですね。 最上階にも、5体の仏像が安置されていました。 塔の中を巡るだけでも結構時間がかりますね。 時計を見るともう3時半。 10時前に成田駅へやってきたから、昼食の時間を除いてもかれこれ5時間近く新勝寺とその周りで過ごしたことになる。 一つのお寺の周辺だけで、こんなに長い時間過ごすことは滅多にないですから、その規模がわかります。 門前町も個性的で、時間をかけてまわりたい店がたくさんありました。 江戸時代の庶民が何日かかけても、足を運ぶだけの魅力の理由がわかったような気がしましたね。 平和大塔の下には、広大な成田山公園が広がっています。 昭和3年の完成で、面積は16万5000平方メートルもあるのだとか。 丘陵地の起伏を利用して、中央部の谷に三つの池が縦に並ぶらしい。 急な階段を下り、まず池を目指します。池の周囲には梅、桜、モミジ、藤などの樹木が植えられ、季節ごとに変化に富んだ景観が楽しめるのですな。 池のほとりに、書道博物館の建物が景色に溶け込んでありました。 江戸後期以降の書道の名作が多数展示、収蔵されているそうですが、去年の今頃、ぐるっとパスでさんざ絵画や書、彫刻を見て回ったので今回はパス。 芸術を見る楽しさに目覚めたのですが、同時に、ただか、リーズナブルな入場料でなければ見る気力を無くしてしまったのはマイナスだったかも。 それはともかく、絶景スポットがいくつかあったので、写真をパチパチ撮りました。 行った日は、紅葉はまだ先でしたけど、木々の葉が赤く色づくとなおその魅力が増したでしょうね。
2009年01月10日
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こんにちは。 昨年は大変お世話になり、どうもありがとうございました。 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。 それにしても体中、筋肉痛で痛いっす。 …というのも昨日、1年ぶりに山登りをしたんですよ。 年末年始にかけては、神社仏閣はどこも混んでいるし、博物館や美術館も開いていないし、で、ここ数年は山へ行くことが多いのです。 ガイドブックには初級者コースと書いてあったのですが、岩場をロープでよじ登ったり、凍結した路面で足を滑らしたり、かなりの難コースでした。 でも、後になって考えるとラジオを聞き、ワンセグを見ながら登ったからかも。 登りの5区から山下りの6区にかけて、他の登山者との激しいデードヒートの模様は、またいずれ。 さて、新年ということで、今回最初のお散歩ネタは成田山新勝寺です。 新年にお参りしたのではなく、行ったのは去年の10月ですので念のため。 従って、ゆっくりお寺の中外を観光することができました。 成田山といえば、正月三が日の初詣人出ランキングでは堂々、全国第二位のお寺ですね。 ちなみにトップは明治神宮。 三位は、川崎大師。 毎年、こちらも川崎大師と激しい二位争いを演じているのですな。 でも、交通の便からいったら、首都圏にある川崎大師に軍配があがります。 それでも、例年二位を保ち続けているのですから、根強い人気があるのですな。 ご利益はもちろん、お寺としての魅力的な要素を備えているのでしょうか。 これだけ有名なお寺なのに、実はあまり訪れたことがないのですよ。 よく考えてみると小学校低学年のときに一度行ったきりなのでした。体感的には、毎年参拝しているような気分でしたが…。 おそらく、年末年始のNHK番組、「行く年、来る年」を見て、お参りしているような気分になっていたのかもしれませんね。 交通安全・家内安全の守り神としては、日本有数の寺院。これは久しぶりに訪れるしかない。と…。 それにしても、お寺好き、神社好き、のオイラがなぜ、ここまでご無沙汰してしまったのでしょうか。 それはおそらく、年少時代に訪れた成田山参拝で、大変な目にあったからかも。 悲劇が起ったのは、町内会の日帰り旅行でした。 近所の人たちがバスを1台借り切って、東京から一路成田を目指したのですよ。 ところが、小学校当時のオイラは虚弱で、バスに酔っ払ってしまった。 近所の人たちの目の前で、ゲ●ゲ●ゲ●ゲ●ゲロ…。 それからと言うもの、近所を歩くと、ゲ○を吐いた少年としてみんなから後ろ指をさされ、辛く哀しい少年時代を送らざるを得なくなったのでした。 それから、成田がオイラのトラウマになったのかも。 でも、体力と精神力を鍛え、その後、オイラは一度も乗り物に酔って吐いたことはありませぬ。 そのトラウマを払拭するためにも、成田山を訪れる必要があるのでした。 …ということで、肉体的にも、精神的にも成長したオイラは、リベンジのために京成線京成成田駅へやって来ました。 リベンジだったらバスを使うべきだったと、あとで後悔しましたが。 成田山新勝寺へ向かう表参道は、JR成田駅と京成成田駅からほぼ同じ距離にあるのですな。 参道をテクテク歩くと、道の左右には、古いみやげ物店、飲食店、旅館が軒を連ね、歴史のある門前町の風情が感じられます。 ようかん一筋で創業110年を誇る米屋という和菓子屋さんの裏に「成田羊羹資料館」なるものがあると聞いたので、行ってみることにしました。 中には、大正時代の番頭台や創業者のプロフィール、羊羹の歴史、昔の羊羹作りの道具が展示してありまする。 昔の羊羹のパッケージなど興味深い展示品がありましたが、なんと言っても目を引いたのが岩下志麻の若い頃のポスター。 当時の米屋のようかんのイメージキャラクターは岩下志麻だったのですか。 現在は、極道の妻とか、北条政子みたいな強面のキャラですけど、清純路線の写真が目を引きました。 米屋から程近いところにある建物が、薬師堂。 それほど大きくないし、よくあるお寺の本堂だと思ったら、なんとこの建物は、前の前の成田山新勝寺の旧本堂だったらしい。 新勝寺建物としては、現存する中で最も古いのだとか。 1655年に建立され、1855年に現在地に移転したのですね。 新勝寺がすごいのは、現在の本堂はもちろん、前の本堂も境内に残っていること。 お寺の発展とともに本堂も大きく立派に成長してゆくのですな。 ビルのワンルームから高層ビルのテナント、そして自社ビルの建設へと成長するベンチャー企業を想像してしまいました。 創業以来、全然成長しないオイラの会社をイメージして少し暗くもなりましたが…。 なおも表参道を歩き続けると、道は徐々に下り坂に。 晴れた青空の向こうに、巨大な伽藍と三重塔が望めます。この辺りは、京都の古刹といった雰囲気が漂っています。 道の左手に見える巨大な木造建築に思わず足が止まりました。 これが、あの大野屋旅館なのですか。 木造四階建てで、最上階は望楼になっている。昭和12年の建築というから、築70年になるのですね。 三階の大広間には能舞台もあると聞きました。城とか、巨大な木造建築には目がないので、長い時間見とれていました。 望楼に登れば、城の天守閣気分が味わえるかも。 うう、泊まりたいっす。 大勢の観光客がこの建物を見上げていましたが、道の先のほうでも人だかりができている。 なんじゃ~とオイラも向かいます。 多くの観光客が眺めて、写真を撮っている先は、店頭でうなぎをさばいている風景でした。 うなぎが熟練の職人さんの手に掛かると、あっという間にさばかれて蒲焼の状態に…。 よく見ていると、目打ちをする直前に、首筋を包丁で少し切るとか、骨を身からはがすときの独特の包丁の動かし方とか、長年培った工夫があるのでしょうね。見ていて興味はつきませんでした。 外国の観光客は珍しいのか、瞬きするのも忘れて見入っていたのが印象的でしたね。 すぐ近くにあるのが、成田観光情報館。 例によって「無料」という二文字に吸い寄せられるように入っていきます。 ここは、パンフレットが置いてあるだけの観光情報コーナーかと思ったら、博物館のような展示もあってなかなかでしたよ。 江戸時代から成田参詣は盛んだったようですね。 それというのも江戸時代、江戸でたびたび成田不動の「出開帳」が行われたのだとか。 今で言えば、「法隆寺展」や「東大寺展」が東京で行われるみたいなものだったのでしょうか。 当時、それが大きな評判を呼んだのは、歌舞伎役者の市川團十郎が成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗ったということからもわかります。 展示コーナーには、庶民が成田参詣をするために街道や川を使って移動している様子が絵や人形で表されていました。 ほかにも、成田祇園祭で実際に引き回される山車も展示されていて、お得感抜群。 多くの観光客が素通りしてしまうのはもったいないっす。 さて、いよいよ新勝寺へお参りと思いましたが、その前に、行ってみたい場所があるのでした。 それは、小野忠明、忠常の墓。 どちらかというとあまり有名ではない歴史上の人物かもしれませんけど、知る人ぞ知る小野派一刀流の開祖の墓がこの近くにあるとのこと。 新勝寺の門前を過ぎ、成田高校の横の坂を上って行くと、小高い丘に二人の墓はひっそりと佇んでいました。 二人は親子で、徳川家の「剣術指南役」として活躍したのですな。 柳生但馬守宗矩や柳生十兵衛みたいに、あまり時代劇には登場しないようですが、昔読んだ剣道の本には、かなりのページを割いて「小野派一刀流」が紹介されていたのを覚えています。 しっかりお参りして剣豪のパワーをもらったあと、いよいよ成田山新勝寺へ。 まず、出迎えてくれるのは巨大な総門。 やけに新しいなと思ったら、これは開基1070年記念事業として2006年に竣工したのだとか。総欅造りで、高さは15mもあるのですか。 総門をくぐり、急な階段を上ると、次に出迎えてくれたのは、仁王門。 重要文化財っすか。江戸時代末期の建築なのですな。 仁王門の奥に池があり、橋が架けられています。 参拝客が皆、橋から池を覗いている。 何々、と見ると、亀が何匹も泳いでいました。池の真ん中に岩でできた島があり、それも上から見ると亀の形をしています。 池の周りは崖になっていて、古い石碑がたくさん取り囲んでいる風景は、歴史を感じましたね。 ここから本堂にお参りして、成田山公園へ向かうのですが、興味深い建築物がたくさんあって楽しかったです。 続きは、また次回。
2009年01月03日
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こんばんは。 突然ですが、実は先月、父が亡くなりまして。 ネットに書くのもどうかと思って黙っていたのですが、新年のご挨拶があることを思い出しました。 このまま新年を迎え、「明けおめ~」とは、心情的にも、日本古来の風習からも言いづらい。 知り合いに喪中ハガキは出したのですが、ネットでも新年のご挨拶は失礼させていただきますのでよろしくご配慮のほどお願い申し上げます。 皆様にはどうぞよい年をお迎えください。寒さに向かう折から、ご自愛のほどをお祈り申し上げます。 父は肝硬変から肺炎を併発しまして、八十歳で永眠しました。 昔から肝臓が悪く、検査のたびに指摘されていたようです。 ところが、お酒はほとんど飲まず、タバコも吸わない。肝臓が悪いと言われてからは、しじみ汁もよく飲んでいたんですよ。 それでも良くならず、どんどん悪くなって、最後は肝硬変の末期的症状をすべて併発して亡くなったのでした。 偏差値70を超える大学医学部の病院へ長く通院していたにもかかわらず、原因がわからなかったそうな。 最近、少し医学の門前で小僧をやっていますので、今になって考えてみると、その原因は「食べ過ぎ」だったのではないかと考えるのです。 まさか病院の先生も、その食べっぷりのすさまじさは想定外だったのではないか。 たとえば、厚さ5ミリのバターを塗ったトーストをメインにした朝食をしっかり食べた後、デザートにクリームパンを1個食べる。 昼食の前に、お腹がすいたと食パンをそのまま食べ、昼食はしっかり1人前食べたあと、おやつにせんべいやケーキなど家にあるものをすべて…。 これ以上は書けませぬ。故人を鞭打つようなことは。 でも、どんなに少なく見積もっても一日4000Kcalは超えていたでしょうね。 当時は、年をとってもその健啖ぶりはすごい、健康だから食欲があるのだという認識があったのは事実です。 幼年時代を戦争で過ごし、好きなものを十分食べられなかった反動もあったのかと…。 本来なら、肥満体や血糖値が上がって糖尿病になるはずですが、それほど太らず、血糖値もあまり上がらなかった。 結果的に、それで危険信号が見過ごされてしまったのでしょうね。 オイラの血液検査の結果から見て感じるのですが、うちの家系は遺伝的にインスリンの分泌は盛んみたい。 日本人は一般的に、西洋人と比べるとインスリンの分泌が良くなく、糖尿病になりやすい民族だと言われます。 農耕型で、比較的少ないカロリーの食生活で生き続けてきたからでしょうか。 ところが西洋の狩猟民族は、高カロリーの肉をよく食べるため、血糖値を下げるためのインスリンが分泌しやすい体質になったのだとか。 …とすると、オイラの家系は西洋狩猟民族? アジアやアフリカにも狩猟民族はいると思いますが…。 それはともかく、インスリンの分泌が悪くなると、血液中の糖分が細胞に取り込まれず、高血糖が続いて糖尿病になります。 ただ、インスリンの分泌が盛んだと、血液中ではなく細胞の中に糖分や脂肪が取り込まれる。脂肪はちょっと記憶が定かではありませんが、内臓脂肪として蓄えられるのは間違いないみたい。 内臓脂肪は脂肪肝と直結しますからね。 長年、肝臓が悪かったのは、肝臓そのものから来るのではなく、高カロリー食をし続けたために、肝臓が悲鳴をあげていたサインだったのはないか。 本来の死因は、メタボリックシンドロームだと感じました。 だから、病院から長年肝臓の薬をもらって飲み続ける前に、ダイエットに励むべきだったのでしょう。 病院の先生は、ダイエットは勧めてはいたものの、肝臓の病気とコラボで考えてはいなかったみたい。 多少太めでしたが、肥満体ではなかったですからね。メタボが騒がれるようになったのは、そんなに古くはない話ですし、騒がれたときはもうどうしようもないくらい病状が進んだ後でした。 もっとも、これは検査結果を見たオイラの推理ですし、専門家から見たら、全然見当外れなのかもしれませんが…。 でも、そう考えると驚くべきは父の体力。 40歳代のオイラよりもはるかに大量のカロリーを数十年にわたって摂取しつつも、80歳まで生きたのだから。 健康に気をつけて、日々節制していても70歳前に亡くなってしまう人は少なくないはず。 オイラも一時期、真似してガンガン食べたことがありましたが、3年ほどで体が悲鳴をあげてしまいました。 父は終戦の年に国家公務員になって、平成9年に財団法人を退職するまで、勤続52年。 70歳まで仕事ができて、定年後は思う存分食べたい物を食べ、趣味に没頭できた人生はうらやましいと言うほかありません。 お葬式も、遺族みんな泣くこともなく、淡々と進められたのはそういう思いがあったのかもしれませぬ。 …ということで、おかげさまで父の葬式は無事すんだのですが、お葬式というと、いつも思い出す出来事があるのですよ。 オイラにとっては、人生最大の修羅場だったと言いますか。 父の葬儀の話題の後に書くネタではないかもしれませんけど…。 でも、父は日頃はカタブツのイメージでしたが、オイラの子供の頃は、いつも家族が寝静まってから起きだし、深夜テレビを見ていました。 ふと、目を覚ますと、テレビのコメディを見ながら、ククククククと押し殺したような声で笑っていたのを覚えています。 きっと、父もこの話題は嫌いではないはず。 もう20年近く前、銀行に勤めていた頃の話ですが、職場の先輩の父君が亡くなったということで、支店のみんなとお通夜にお伺いすることになったのです。 お通夜の会場は先輩の自宅。 夜8時を過ぎていたので、遺族や親族、関係者のお焼香が大方終わった頃です。 そこへ支店の行員がゾロゾロ並んで、一人ずつお焼香をします。 古い日本家屋の縁側を挟んだ座敷に祭壇が作られていて、その前に喪主の未亡人と息子の先輩が正座し、参列者のお焼香が終わるたびに会釈しました。 故人はまだ60歳代だったと記憶しています。未亡人もまだ若く、涙に濡れてうつむく姿が痛々しい。 いつもはニコニコ笑っている先輩も、さすがに今日は沈鬱な表情でうなだれている。 オイラはまだ若かったので、お焼香の仕方がわからず、お焼香をする人たちを後ろから眺めておりました。 冠婚葬祭のマナーは、しっかり守らないといけませんからね。 お焼香が進み、いよいよ次の次がオイラの番。 すぐ前に立っていたのが、副支店長でした。後ろから副支店長の所作に注目するオイラ。 さすが副支店長。数珠を用意しているっすか。 数珠を右手から左手に持ち替えた。 そして、お香に向かって右手が伸びる。 そのとたん、キャというくぐもった声がお通夜の会場に響きました。 皆がお焼香をしている副支店長に注目します。 副支店長の右手が体の横でひらひら揺れている。 なんと、お香を取ろうとして、間違って香炉に手を突っ込んじゃったみたい。 大勢の人たちのお焼香が終わったあとなので、香炉の中は真っ赤かに燃えている。 そこへ思いっきり手を突っ込んだら、激痛が脳天を直撃したはず。 本来なら、思いっきり、ギャァァァァァァァ~とか、アチャャャャャャャ~と悲鳴をあげるところでしょうけど、キャッという必要最小限の悲鳴で留めるあたりは、さすが副支店長だと思いました。 ただ、そのあとの所作は若干問題かも。 本来なら、数珠を両手のひらにかけ、合掌礼拝しなければならない。 ところが、激痛で大脳皮質がマヒしたためか、パンパンと柏手を2回も打ってしまった。 真正面からこんな滑稽なライブを見せられてはたまらない。 それまで泣き濡れていた未亡人が、思わずプッと吹き出したのです。 神社にお参りしているわけじゃないから、それはまずいっすよ。 副支店長はお焼香が終わると、左手で右手を抑えながら、そそくさとその場を離れます。 そして一目散に出口に走ってゆくのでした。 きっと火傷した指を冷やそうと、水を探しに行ったのでしょう。 もちろん、その時のオイラはその一部始終を冷静に眺めていたわけではなく、信じられない光景にただ呆然と立ち尽くしているだけでした。 気がつくと、お焼香はオイラの番。 前を見ると、今まで涙に濡れていた未亡人が必死で笑いをこらえている。先輩は下を向いて目をギュッと閉じ、両手で膝がしらをつかんでいる。 他人から笑っていると思われないためには、これがベストな方法かも。 肩が小刻みに震えているのは、どこから見ても、父親の悲しみに耐えている姿にしか見えませぬ。 本来なら、こういう面白すぎる光景を見てしまうと、ギャハハハハハハハハハハと人目をはばからず大声で笑うのですが、さすがに非常識と言われるオイラでもそんなことできるわけありませぬ。 父の位牌にお香を投げつけたと言われる織田信長でも、さすがに笑ってはいなかったでしょうし…。 笑いながらお焼香をするなんて、人として一番やってはいけないことですからね。 人生最大の汚点だけは残したくない。 とっさに思ったオイラは、思いっきり尻の肉をつまみあげて、込み上げてくる笑いを必死で抑えました。 目の前では喪主と先輩が笑いをこらえているのがわかりますけど、こっちは笑いをこらえている様子すらわかってはまずい。 目を見開き、歯を喰いしばって、必死に耐えてお焼香をすませました。 脂汗は出てくるし、もう大変でしたね。 後日、先輩から、そのときのオイラは鬼気迫る表情をしていたと聞きました。 石川さゆりの「天城越え」のときの表情みたいだったと…。 でも、そんな色っぽくはなかったはず。 大相撲の優勝決定戦で、足の痛みに耐え、貴乃花が武蔵丸を破って優勝したときの「鬼の表情」と言って欲しかったっす。
2008年12月20日
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こんにちは。 今日は、久々のベスト5ネタっす。 オイラは最近、事務所でシコシコ文章を書いていることが多いのですが、そのためには資料集めが必要。 これが結構、大変なのですね~。でも昔と比べて、ネットで検索できるようになってからはすごく楽になりました。 以前は、図書館へ行って、本棚からごっそり参考文献を両手に抱えて持ち出し、閲覧室の机に積み重ねて、片っ端から読みまくる。 使えそうな本は左へ積み重ね、そうではない本は右へ。 そうやって粗読みをして、一次選考を突破した本に対しては、少しじっくり腰をすえて読む。 2~3行だけ使える文章を見つけたら、ノートにメモするのですが、とても書ききれない量の文章を引用しようと思ったらコピーを取りまくり。 そして、コピーを直接ハサミで切ったり、メモも文章ごとに細かく切ったりして文章を細切れにし、あとはその順序をあ~でもない、こ~でもないと試行錯誤しつつ並べ替え、なんとか辻褄のあう文章をこしらえる。 文章の表現の仕方を整え、最後に秘伝の隠し味の調味料をパラパラとふりかけて、はい、できあがり~♪ …というふうに書いていたのですが、最近は図書館へ一日がかりで行って参考文献を収集する手間がかなり低減しましたね。 でも、ネットで必要な情報が簡単に手に入るようになったのと反比例して、読解力が落ちてきたなと思う今日この頃です。 その話題はまた今度にして、ネットで大量に情報を収集する作業はそれほど頭を使わない代わり、単純作業の忍耐力が必要だとわかりました。 それを行う推進力になっているのが、オイラの場合、音楽なのですね~。 学生時代、深夜放送のラジオを聴きながら受験勉強していた気分に浸られるといいますか。 効果があがっているかどうかは疑わしいのですが、ずっと机に座っていられるのだけは間違いないみたい。 どんな音楽が効果あるか試してみたのですが、オイラの場合、ひたすら忍耐力が必要とする作業に関しては、昔のフォークがいいのではないかという結論に達しました。 そこで、本日は、ビジベンが仕事するとき聴いているフォークソングベスト5をお送りしようか、と…。 ほかにも、アイドル歌手編や演歌編、昭和の歌謡曲編、ニューミュージック編、ジャニーズ編、映画音楽編、最近のヒット曲編、サザン編、聖子ちゃん編といろいろあるのですが、それはまたいずれ。 こうして考えてみると、オイラは果たしてちゃんと仕事しているのだろうかと考えてしまうのですが…。 それはともかく、ビジベンが頭を空っぽにして仕事に励んでいるときに聴いているフォークソングのベスト5は次のように決定いたしましたぁぁぁぁぁぁぁぁ~駄々駄々駄々駄々駄々駄々駄々駄々駄々駄々… (← ドラムの音?)第五位 「風」 はしだのりひことシューベルツ それはこちら この曲は1960年代ですから、オイラもヒットしていた当時の記憶はほとんど残っていないっす。 次の出だしの歌詞の意味もよくわからなかったような。北山修作詞 「風」 人は誰もただ一人旅に出て 人は誰もふるさとを振り返る ちょっぴりさみしくて振り返っても そこにはただ風が吹いているだけ 寂しくなって振り返っても、風なんかいつも吹いていなかったし…。 でも年を経るに従って、その歌詞がずんと胸に響いてくるようになりました。それに、はしだのりひこの美しいメロディーラインと歌声が重なります。同志社大学神学部卒らしいから、賛美歌のように心の奥の一番敏感な部分に届くのでしょうか。この歌は以前、教科書にも載っていたらしいですね。今の若い人たちは知っているのだろうか、と思いました。第四位 「学生街の喫茶店」 ガロ それはこちら 「風」の品行方正な雰囲気とは違って、ちょい悪っぽい若者3人が、授業をさぼってタバコをプカプカふかしながら喫茶店で、人生とは何か、なんてだべっている当時の世相を反映している歌でした。 もっとも当時のオイラは中学生くらいだからよくわかりませんでしたけど。 ガロっていうネーミングは斬新だと思いました。当時流行っていた漫画雑誌の名前からつけられたのだと思っていましたが、ホントは三人の世話役だった人が、自分の子供に「我朗」とつけようと思っていたところからのネーミングだったそうな。 この歌を聴いたためか、オイラの学生時代は喫茶店へ友人たちと入り浸っていた記憶ばかりが残っています。 当時はインベーダーゲームが全盛で、あのピコピコ鳴る音と喫茶店でいつも食べた大盛りのナポリタンのイメージが強烈でした。 授業中の記憶が空白なのはなぜ?第三位 「心の旅」 チューリップ それはこちら これもオイラが中学生のときのヒット曲。 ラジオのベスト10番組が好きで、当時はいつも聴いていましたが、一位を長く維持していた記憶があります。 チューリップはつい最近まで活躍していましたね。 この歌を作ったのは、財津和夫。 ほかにも、『青春の影』や『サボテンの花』、『虹とスニーカーの頃』などの名曲をてがけていますな。 オイラ的には、松田聖子の『チェリーブラッサム』や『白いパラソル』のほうが印象強いっす。 とくに『白いパラソル』は聖子ちゃんの曲の中ではベスト3に入るほど好きな曲。 そういえば、「心の旅」は、かつて吉田栄作がカバーしていましたね。 当時の映像を見ていて、財津和夫も今と全然雰囲気が違うな~と思っていたんですよ。 この記事を書くので調べてみたら、当時のボーカルは財津和夫ではなくて、メンバーで一番若かった姫野達也だったと知りました。 なんでも、デビューからシングル2枚、アルバム2枚を出したがヒットせず、当初リーダーの財津和夫が歌うはずだったが、レコーディングの直前になって、関係者の間で「財津より、甘い声が魅力の姫野に歌わせよう」ということになったとか。 「心の旅」は30年以上、財津和夫が唄っているとばかり思っていたのでした。 財津和夫が唄っていたら、どんな雰囲気の曲になっていたのでしょうね。第二位 岬めぐり 山本コウタローとウィークエンド それはこちら コミックソングの『走れコウタロー』でブレイクした山本コウタローが、長い時間をおいてまったく違うイメージで大ヒットした名曲。 中学から高校時代にかけてよく通学のときに口ずさんでいた記憶があります。 『走れコウタロー』のときは小学生でしたけど、曲の途中で当時の美濃部都知事の物まねが入ったりして、当時としては斬新な構成でした。 あのまま終わっていたら、コミックバンドのリーダーとしての記憶だけが残ったと思いますが、この曲で見事にイメージを一掃しましたね。 吉幾三や殿様キングスのさきがけと言いますか。 郷愁を感じるメロディーラインと縦笛(リコーダーというらしい)がいい雰囲気を醸し出し、バスは走る~♪という歌詞にぴったりのリズム感。 オイラはそれほど歌がうまくないのですが、カラオケで歌うとすごく歌いやすい。 一時期、岬めぐりが趣味だったのは、この歌の影響かも。 さて、 いよいよ第一位の発表っす。 ビジベンが頭を空っぽにして仕事に励んでいるときに聴いているフォークソングの第一位は… 駄々駄々駄々駄々駄々駄々駄々駄々駄々駄々… (← ドラムの音?)第一位 或る日突然 トワ・エ・モワ それはこちら この歌がヒットしていたのは小学生の頃だったのと思いますが、当時ももちろんいい歌だと感じていました。 でも、ホントに好きになったのは、改めて聴きなおした最近ですね。 イントロや全体の雰囲気がなんともハイカラ。 まだ日本家屋全盛で、水洗式のトイレもそうなかったであろう当時の雰囲気から生まれた歌だとはとても思えませぬ。 日本よりヨーロッパ、とくにフランスのイメージがすると思ったのはオイラだけでしょうか。 もっとも、フランスへ行ったことは一度もなく、カトリーヌ・ドヌーブやイブ・モンタンが全盛の頃のフランス映画のイメージなのですが…。 そういえば、トワ・エ・モワというネーミングは、フランス語で「あなたと私」という意味だそうですね。 ネットで調べてみると、メンバーの芥川澄夫と山室英美子それぞれソロ志向だったそうな。 事務所の方針でコンビを組んでデビューしたのですか。 そういえば、当時から唄っているときの二人の距離感が、チェリッシュとは違う素人っぽい雰囲気がありましたね。 その後、山室英美子は白鳥英美子としてソロで活躍していましたが、最近はたまにトワ・エ・モワとしてテレビに出演する機会も増えたと感じます。 最近のヒット曲は、それほど詳しくありませんけど、こういうメロディーラインの美しい曲ってあるのですかね。 それを期待して、今年も紅白を見ようと思いまする。
2008年12月13日
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こんにちは。 前回は写真がなくて失礼しました。 やっぱり、お散歩ネタはビジュアルが大事だと、その重要性を再認識した次第です。 実はもうフォトデータが一杯になっていて、前の画像を削除しないと新しい画像をアップできないんですけどね。 100円払うと、フォト容量をアップできるとどこかで聞いたのですが…。 でも、100円あれば100円ショップでペットボトルのお茶が買えるし、松屋で野菜サラダをオーダーできますからね。 しばらく、古い画像を削除しながら、継続するしかないっす。 さて、今回行ったのは、多摩ニュータウンのそばに今も残る鎌倉街道。 今も鎌倉街道と呼ばれる道は残っていますが、古道としての鎌倉街道は、鎌倉時代、幕府の御家人が、何か一大事が起きたとき、「いざ鎌倉」と鎌倉へ馳せ参じた道ですね。 歴史関係の雑誌に、現在の鎌倉古道の写真が載っていたんですよ。 鎌倉へと向かう道は当時、何本もあったそうなのですが、今回オイラが行ったのは、鎌倉から武蔵国西部を抜けて、上州すなわち群馬県に向かう道。 その中の多摩市から町田市の小野路・野津田・七国山周辺です。 東京都なのに、鎌倉時代の武士が歩いてもおかしくないような雰囲気の箇所が残っていて、一気に興味を魅かれたのでした。 森閑とした古道を歩いていると、タイムトラベルしてきた鎌倉武士に出会えるのではないか、と…。 …ということで、まず向かったのが、京王線、小田急の二つの私鉄の駅がある永山駅。 そこからテクテク歩いて、現在の鎌倉街道、都道18号線を越えると前方に見える貝取山緑地の小高い丘を登ります。 貝取山というくらいだから、縄文時代の貝塚でもあるのかしらんと思いましたが、詳しいことはわかりませぬ。 頂上にマンションがあったりして少し期待外れでしたが、そのまま尾根を南下します。 そういえばここには以前来たことがあり、面白い形をした石があったことを思い出しました。 すると、その巨石が遊歩道の傍らに存在感を持って現れます。 確か、象に見えるから象石とも呼ばれていた記憶がありますが、確かに色といい、つやと言い、小象が寝ころんでいるように見えなくもないですな。 遊歩道を抜けると巨大団地多摩ニュータウンの真っただ中。 ところどころ広い公園があって芝生の広場も完備しておりまする。 団地の建物といくつもある広い公園のコラボを満喫しながら歩いているうちに、迷ってしまいました。 まわりを見回しても、360度、巨大な四角い建物がどこまでも続き、方向感覚を狂わせます。 わぁ~、またラビリンスへ迷い込んでしまっただ、とあせって歩き回るうち、都立高校の建物が目に留まりました。 そこを目印に地図で調べてみると、なんと目的地から2キロもずれている。 ウォーキングで、オイラがこんなに間違った方向へ歩いたのは初めてかも。 もっとも、仙台へ行ったとき、松島行きの電車に乗ったと思ったら、山形へ行ってしまったことはありましたが…。 それはともかく、ルート修正のため余計な距離を歩く羽目に。 そのおかげで、金メダリストのビッグマウス、石井慧選手の母校、国士舘大学の体育学部の前を通ることができました。 石井選手のビッグマウスは、アメリカプロレスのショーマンシップを見るようで、個人的には好きなのですが。 ようやく、次の目的地一本杉公園へたどり着くことができました。 ここは、池や芝生が広がる落ち着いた公園。となりにある女子大の緑あふれるキャンパスも眺めることができます。 ここには、多摩市内から移築された古民家が二つ、屋外展示されていました。 こちらの旧有山家住宅は市の指定有形文化財なのだとか。 座敷の床は竹を編んで並べてあるのですね。 歩くたびに竹踏みができて健康には良さそう。 だけど、縁の下が透けて見えて、冬はかなり寒いだろうなと思いました。 一本杉公園を出て、いよいよ古道の雰囲気が漂う旧鎌倉街道へ。 思わず下の舗装道路を行きそうになりましたが、引き返して左の小道へと入ります。 最初は、ハイキングコースと変わりないじゃんと思っていましたが、歩くにつれ、いかにも鎌倉時代の古道と思われる場所もありました。 掘割みたいに凹状に見られる道は、鎌倉街道なのでしょうね。 …と思って、家に帰ってからネットで検索してみたんですよ。 鎌倉街道の道幅の規格は6メートルなのだとか。 これはどう見ても、3メートルもないような気が…。 鎌倉街道ではなく、後世に作られた道ではないかという疑念もわいたりして。 それはともかく、そのときは鎌倉街道と信じて疑わなかったので、鎌倉武士がタイムトラベルしてきたら、どう対応しようと考えつつ歩きました。 ところどころ、視界が開ける場所があり、都内とは思えない山里の景観が望めます。 馬頭観音、子育て地蔵など、道の歴史を感じさせるアイテムを眺めつつ、小野路へ。 小野路は、古くから鎌倉街道の宿として知られるそうですね。近世に入っても大山道の宿場として賑わったらしい。 通り沿いに、幕末、新選組の近藤勇や土方歳三、沖田総司さんたちが剣術の出稽古に通ったという小島家には、小野資料館がありました。 何でも当時の当主は、近藤勇と義兄弟の間柄だったそうな。 資料館は、毎月第一・第三日曜日の公開だそうで、行った日は休館日でしたが、古い門に歴史を感じました。 小野資料館からすぐ近くにあるのが、小野神社。 平安時代の学者で、遣唐使の小野妹子の子孫であった小野篁(おののたかむら)を祭る神社なのですね。 なんでも、平安時代に小野篁の子孫が武蔵国の国司として赴任した時、先祖を祭ったのだとか。 国司も注目するくらいだから、この辺りは当時、交通の要衝として栄えていたのだろうと思いました。 次は、小野路一里塚へ向かったのですが、またまた道を間違えて1キロ以上も余計に歩くことに…。 実は、地図を図書館でコピーしたものを持って行ったのですよ。 図書館のコピーが薄くて、道路がよくわかりませぬ。 仕方なく、あとは感だけで歩いたのですけど、運よく一発で一里塚にたどり着くことができました。 ここは、徳川家康の遺骨を静岡の久能山から日光東照宮へ移すときに道が整備されたのですね。 そのとき、家康の遺骨を乗せた輿が壊れて、鍛冶屋を呼んで直すなど大騒ぎになったらしい。 それにしても、道だけではなく、一里塚まで作っていったわけですから、当時の大イベントだったのでしょうね。 そのすぐ近くに広がるのが野津田公園。 起伏を利用した広大な公園で、陸上競技場や湿生植物園、上の原広場など見どころが満載でした。 まずオイラが向かったのは、バラ園。 さまざまな種類のバラの花が咲き乱れておりました。もう少し前に来れば、満開だったのでしょうけど。 行った日は秋たけなわの頃でしたので、上の原広場には、すすきの穂が風に揺られていました。 これだけ大量のすすきを見る機会は、東京では滅多にないので久しぶりに秋の景観を堪能できましたね。 園内から、再び鎌倉古道を歩き、七国山を目指して歩きます。 鶴見川まではよかったのですが、迷路のような住宅街に阻まれ、再び道がわからなくなってしまいました。 そういえば、15年前に七国山という絶景が望めそうなネーミングに惹かれてやってきたのに迷ってしまい、結局目的地へ到着できず、すごすご引き返したことがあったのを思い出しました。 今回も方向感覚までわからなくなって、再び鎌倉街道へ出るまで住宅街をぐるぐる歩き回りました。 鎌倉井戸には行ってみたかったのですが…。 そこからまた町田駅まで、延々と歩くのでした。 うちに戻って迷っていた距離を計算すると、通常のルートより5キロは余分に歩いたような。
2008年12月06日
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こんばんは。 巷では3連休ですか。 昔から風邪をひくときは休日と決まっているオイラ。 急に寒くなったので、仕舞ってあったストーブを出すまでのタイムラグが、ダイエットして免疫力が低下した身体を直撃します。 ちょっと参った外部要因もあって、連休明けに風邪をひくかどうか微妙なところ。 体の防衛軍とエイリアン風邪ウイルスとどっちが勝つか、興味深いところですな。 それはともかく、今日は、前回の小田原散歩の続きです。 北条時代の小田原城を見たあとは、江戸時代の小田原城へGO! …ということで居神神社を出て、道路を挟んだ反対側の大久寺へ向かいます。 こちらは、寺の名前から江戸時代の藩主大久保氏の関係があるんだろうなと思ったら、やはり大久保氏の菩提寺なのでした。 一族の墓が境内にあったのですね~。 大久保神社に大久寺ですか。そのものズバリのネーミングですな。 東海道本線の線路を越え、しばらく行くと北条氏当時の小田原城の遺構である「早川口遺跡」。 ここも豊臣秀吉の小田原征伐に備えて作られた大外郭の一部なのですね。土塁もかなり磨耗して低くなっていましたが、住宅街のど真ん中に北条氏の遺跡が残っているのはすごい。 現在の小田原城址公園からもかなりの距離があり、当時の城の巨大さが改めて実感できました。 御幸の浜といわれる海岸を眺めた後に向かったのが、小田原文学館。 趣のある古い洋館だったので有名な人の家だったのかなと思ったんですよ。 やっぱし、佐藩の藩士で明治維新後は宮内大臣などを歴任した田中光顕の別荘として建てられたのだとか。 司馬遼太郎の幕末ものにもたまに登場する人物ですな。 昭和12年に建てられたスペイン風建築だそうで、今住んでも違和感のないモダンな建物。 館内では、小田原出身やゆかりの文学者の作品や手紙、写真などが紹介されていました。 北村透谷、北原白秋、尾崎一雄、谷崎潤一郎、三好達治、坂口安吾はオイラも知っているっす。 中には知らない作家も大勢いましたが、当時の肖像写真が飾られているんですよ。 井上康文という詩人は、今も時代でもジャニーズに入ったら人気が出そう。「嵐」のメンバーに似ているし。 田原俊彦に似ている作家もいましたよ。 かつてはジャニーズにあらざるものはアイドルにあらず…なんて言われた時代もありましたが、明治・大正の文壇にもジャニーズブームはあったのでしょうか。 ちなみに樋口一葉も、そのネーミングや五千円札の雰囲気から、古風でおとなしい女性のイメージです。 でも樋口一葉記念館に残された写真や手紙を拝見すると、結構キャピキャピギャルの一面もあったみたいなんですよ。 古いセピア色の写真から、セピア色の性格をイメージしてしまいがちですが…。 それにしても、オイラはどういう基準で人を見ているんでしょうね。 庭園を挟んで、尾崎一雄の移築された書斎や田中光顕の別荘の別館として建てられた純和風の建物では、北原白秋の童謡にまつわる展示もありました。 古い日本家屋とマザーグースのミスマッチがまたグーです。 文学館を出て、小田原城址公園へ向かうときにはもう午後4時近くに…。 公園の南側の入り口から城内へ入ります。北条時代の小田原城をゆっくり見たから、天守閣に入る時間がなくなってしまいました。 ま、以前入ったことあるし、と思いましたが、それはなんと20年くらい前なのでした。 展示物はそれほど大したものはなかったと記憶していますけど、なんと言っても標高60メートルからの眺望は見事でしょうね。 かつて小田原第2尋常小学校の講堂だった建物の小田原城歴史見聞館にも入ったことないし、今度またゆっくり小田原城へ来ようと思いました。 昔から比べれば小田原城の城内も整備され、今でも関東の城の中では横綱クラスの見所が満載です。 まず、近年復元された銅門を通って二の丸へ。 今はだだっ広い広場になっていますが、かつてここには壮麗な二の丸御殿があったのですね~。 赤い常盤木橋を渡ります。今は田んぼになっていますが、かつてここには幅20メートル近くある堀になっていて、本丸を守っていたらしい。 橋を渡り、石段を上ると昭和45年に復元された常盤木門。 さすが江戸幕府の関東前線基地としての威容が感じられました。 巨大な門をくぐっていよいよ本丸へ。 本丸に上がると、巨大な天守閣が圧倒的な迫力で目に飛び込んできます。江戸時代もこれと同じ大きさだったのでしょうか。 当時の人たちは、東京タワーや六本木ヒルズを見上げるような感覚で眺めたのだろうと思いました。 江戸時代初期には、三大将軍家光がこの天守閣に登り、眺望を楽しんだという記録が残っているらしい。 いきなり天守閣の内部へ入るのではなく、石垣の急階段を登って入り口に到達するのが特徴的かも。登るとき、視界が広がって、ワクワクするような高揚感を当時の人たちも感じたのでしょうね。 それをオイラも味わいたくて、是非また近いうちに来たいっす。 天守閣の建っている丘を反対側に下ると小さな遊園地になっていて、そこからまた下って、報徳二宮神社へ向かいます。 向かう途中のこの池。 神社によくある心字池かと思いきや、北条時代の堀の跡なのだとか。 石垣を用いない戦国時代の堀の原型をよく留めているらしい。 堀の幅は、20メートル以上、深さは5メートル以上もあるのですか。 澱んだ水で、意外と浅いのではないかと思いましたが、底には北条氏の堀特有の障子堀の一部を残していますと解説板には書かれていました。 報徳二宮神社の境内は、北条氏によって作られた古い曲輪の跡だそうです。雷曲輪を呼ばれる二つの堀に両側から囲まれた細長い平垣地で、江戸時代は、小田原城の火薬庫があったそうな。 報徳二宮神社は、かつて学校の校庭でよくお目にかかった二宮金次郎を祭った神社。 そういえば、二宮金次郎は小田原藩領の出身でしたね。小田原藩の家老や小田原藩の分家、その後天領の財政再建に腕を振るったと聞いたことがあります。 それにしても、こちらも二宮神社というストレートなネーミング。 隣にある郷土文化館が無料で入れるというので、行ってみることにしました。そういえば、前回来たときも「無料」という言葉に吸い寄せられたような。 発掘資料や民俗資料など、よくある展示物が所蔵されていましたが、オイラが興味を持ったのはやはり小田原城の資料。 とくに、北条時代の小田原城の縄張りは興味深かったっす。 朝からずっとオイラがたどってきた道を見ながら、当時の小田原城をイメージしてしたら、おじいさんに声をかけられました。 係の人ではないみたいですが、説明してくださるみたい。 まず、小田原城の総構えの巨大さを指摘されます。「総構え」ってわかる? …と聞かれましたが、ええ、何となく聞いたことがあります、と何気に聞き上手になってしまう自分が哀しい。 城の説明の中で間違っている箇所に、必死で突っ込みを入れたくなるのを押さえ、しっかりお礼を言って外に出ます。 再び城内を通って、水堀を渡り、幸田門跡へ。 戦国時代に上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めた時に激闘がここで繰り広げられたそうな。 確かに平地で、居館があったといわれる場所までもうあと少し…。 謙信も、信玄も、あと一歩まで攻めたものの落とせなかったというのが実感できました。 幸田門跡から続くスペースに、土塁が残っている。 ここは、江戸時代の小田原城の三の丸の土塁跡だそうですね。 さきほどの早川口遺構の土塁は、住宅街の中にありましたが、こちらの土塁は完璧に市内中心部。 土塁の上を歩くと、ビルで働いている人たちを窓ガラス越しに眺めることもできます。 やはり小田原は城と町とが見事に共存しているのですな。 そして最後に向かったのは、北条氏政・氏照の墓。 北条氏政は、北条氏第4代の当主。氏照は、氏政の弟で八王子をはじめ5つの城主だった存在。 当然、由緒正しい寺院の墓地の奥にひっそりと、というイメージでしたが、小田原駅から程近い歓楽街の一画にあったのは少々驚きました。 二人は、小田原落城の後、城主氏直は高野山に追放され、父氏政、その弟氏照の両人は責任を負って自刃したのですね。 遺骸は北条氏の氏寺であった伝心庵に埋葬されたらしい。 江戸時代になって伝心庵は移され、その跡に別の寺が建立。この墓所は長く放置されてあったのを、後の小田原城主が北条氏追悼のため作り直したのだとか。 それも関東大震災のとき埋没し、行方不明になっていたのを地元の有志の人たちが復興したのですね。 北条氏のとっては悲劇的な結末でしたが、新しい花が供えられ、今でも小田原の人たちから慕われているのがわかりました。
2008年11月23日
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こんにちは。 オイラが最近はまっているのが、筋トレ。 この前、何気にテレビを見ていたら、中高年でも安全に、短時間でも効果のあがる筋トレの仕方をやっていたのですよ。 その方法は、腹筋、スクワット、腕立て伏せの3種類のみ。 しかも、やるのはそれぞれ、たったの10回だけ。テレビではそれを一日2セットやるとさらに効果的と言っていました。 えっ?たったそれだけで効果あるの? 若いころは筋肉ヲタクで、ブルワーカーはもちろん6キロのダンベル、エキスパンダーなどエクササイズ用具は今でも家にあるオイラ。 それを全部やったら1時間はかかるし、疲れるし、面倒くさいし、でここ何年間かはご無沙汰でした。 でもテレビで見た、この方法を実践している人たちは、高齢者でも信じられないくらい身体レベルの高い人が多い。 ホントかどうか疑心暗鬼でしたが、続けてみることにしたのです。 ただ、やり方にちょっとしたコツがあるみたい。 それは、腹筋にしても、スクワットにしても、腕立てにしても、通常よりゆっくりやること。 腹筋や腕立ては、腰に負担がかからない配慮はしてありましたが、基本的にはスローにやるということさえクリアすればいろいろ応用できそうですね。 オイラはとりあえずその3種類だけやってみました。トータルでも一日10分くらいでできます。 それを実践して10日くらい経った頃、なんとなく効果が実感できるようになったのですよ。 ダイエットして体が軽くなったところに筋トレを行ったので、車で言うと車体を軽量化してエンジンのパワーを増した感覚と言いますか。 街を普通に歩いていても、体に余力があるから、何の脈絡もなく駈けだしたり、階段を3段抜かしで駆けあがりたいという衝動にかられる。 何をするにしても体を動かすことに関しては、余裕をもってできるというメリットはありますね。 ダイエットして少々困ったのは、満員電車の中。 なぜか、気がつくといつもオイラの隣に、身長180センチで体重が120キロは超えていると思われるメタボおやじが立っているんですよ。 太っていた頃は、電車が揺れてそのおやじが倒れ掛かってきても、怒涛のがぶり寄りで押し返すこともできた。 ところがダイエットしてからは軽量の哀しさから、一気に土俵際まで持って行かれることが増えましたね。 ただ、最近はおかげさまで筋トレの成果からスピードとパワーがつきました。 体勢を低くしてメタボおやじの前みつをとり、一気に寄り切ろうという作戦をたてております。 今度、ホームで千代の富士みたいな足を高く上げる四股を踏んでから、満員電車に乗りこもうか、と…。 そのメタボおやじも、曙みたいにのっそり電車に乗り込んできたりして。 それはともかく、今回もお散歩ネタです。 江戸時代の城の東正横綱といえば、江戸城だと思いますが、戦国時代の城の横綱もまた関東にあるのですね~。 それは小田原城。 ご存知、後北条氏の本城として、当時関東の中心であった大城郭です。 名将武田信玄や上杉謙信も落とすことができず、豊臣秀吉が全国から集めた20万の兵力に包囲されながらも100日間持ちこたえたのですよ。 子供の頃から城ヲタクだったオイラ。当然、小田原城は何度も行っているのですが、いつも見ていたのは江戸時代の小田原城なのでした。 新幹線に乗っていて車窓から見える天守閣は、昭和35年に鉄筋コンクリートで外観復元されたもの。宝永3年(1706)に作られた天守閣の設計図や模型を参考に再建されたのですな。 天守閣は立派ですが、豊臣秀吉の大軍を迎え撃ったにしては、正直言って小さな城だなという印象でした。江戸時代は10万石クラスの譜代大名が城主だったのですね。 ところがその後、いろいろ本を読んでいて、現在の本丸には北条氏の居館はあったものの、戦国時代の本丸は別な場所にあったことを知りました。 それは、東海道線と新幹線の線路を越えたもっと標高の高い場所。現在城山公園や県立小田原高校になっている辺りが、北条氏時代の本丸だとか。 そう聞くと、行かないわけにはまいりませぬ。 江戸時代の小田原も、東海道の要衝として繁栄していましたが、史上小田原がもっとも脚光を浴びていたのは北条氏の時代だったのではないか。 小田原征伐の当時、もし新聞があったら全国紙でも連日一面トップで掲載されたでしょうからね。 北条氏の時代の本丸を知らなくては、城ヲタクのもぐりと言われても仕方ないっす。 … ということで、名誉挽回のために小田原へやってきました。 いつもは繁華街の東口へ出て、城址公園へ向かうのですが、今回は西口からスタートです。 駅前には、北条早雲の銅像が…。 望遠で撮ったので不鮮明ですけど、馬に乗った早雲と走る鹿のコラボレーションですか。 馬と鹿…とだからどうというのではなく、これは早雲が小田原城を攻略した故事によるものでしょうね。 当時の小田原城主は大森藤頼。 伊豆にいた早雲は、「伊豆で鹿狩りをしていたら鹿が箱根の山に逃げてしまった。そこで鹿を追い返すために勢子を小田原領内に入れ、伊豆へ鹿を追いやりたい」という手紙を藤頼の元に届ける。 藤頼はこれを許して、早雲は勢子を入れた。が、しかし、これは勢子に扮した早雲の兵で、裏山から一気に小田原城を攻め落とし、相模の国攻略の第一歩としたのでした。 現在の小田原城を眺めていると、東海道新幹線などで分断されて単独の丘の上に建っている城のように見える。でも、それより高く、鹿が逃げ込むのには絶好の裏山があるのですね。 それはともかく、北条早雲の像が小田原駅の西口にあるのが興味深い。 東口が江戸時代の小田原、西口は北条氏時代の小田原と、棲み分けができているのだろうかと思ったりして。 北条早雲は司馬遼太郎の「箱根の坂」を読んで共感を覚えた武将です。中年になってから一念発起して京都から駿河の国へ。 今だったら、東京から地方へIターンして新たな働き口を見つけて働くといった印象でしょうか。 京都にいた頃は、鞍を作っていた職人のような描かれ方をしていたのが記憶に残っています。 確か、50代半ばで興国寺城の主となり、60歳過ぎてから伊豆の国を取り、88歳まで長生きしたのでしたね。彼の生涯を眺めると、中高年も夢さえ捨てなければまたまだやれるのではないかと希望がわいてきます。 そんなことを考えつつ、お寺が左右に並ぶ舗装道路を通って城山公園へ向かいました。 道路は広くて立派なのですが、さすが城山というだけあって勾配がきつい。 やがて右手に、陸上競技場のグランドが見えてきました。行った日は、中学生の競技会が開かれていて、場内アナウンスがひっきりなしに聞こえます。 このグランドの広大なスペースが御前曲輪の跡なんですと。 小さな城だったら城全体がすっぽり入るスペースが、数ある曲輪の一部ですから城の規模がわかりますね。 眺望がよくて土地の起伏はわかるのですが、城の規模が大きすぎて縄張りが推理できませぬ。 いつもは、ガイドブックのコースを無視して城跡を縦横無尽に歩き回るのですが、迷子になりそうなのでコースに従うことにしました。 公園の林の中を歩いてゆくと、巨大な空堀が目の前に現れます。 これが、小峰の大堀切。 小田原城の西の守りを固めるために、豊臣秀吉の小田原征伐に備えるために作られたらしい。 堀の幅は、約20から30メートル。深さは土塁の頂上から12メートルあまりもあって、斜面は50度という急勾配なのだとか。 空堀としては全国的にも最大規模のものですか。 正直言って、これくらいの大きさの空堀は何度か目にしたことがありますけど、驚くべきはその総延長。なんと9キロメートルにも及ぶそうなんですよ。 小田原城が戦国時代末期、その威容を天下に響かせたもっとも大きな理由が、総構の巨大さでした。 城下町を包囲する外郭の周囲は五里と言うから、約二十キロにも及んだらしい。戦国時代のドラマを見ていて、北条氏が登場するシーンには必ずと言っていいほどこのフレーズが飛び出します。 それにしても、これだけの空堀がよく現代まで残りましたな。 中途半端な規模ではないから、城跡にそれほど関心がなかった時代の人も手を付けられなかったのかも。 当時の北条方の人たちは、日本全国を敵にまわして戦うことを想定して巨大な空堀を作ったのですね。死ぬか生きるか、必死の思いだったのでしょう。 彼らの心中をイメージしていたら、腕にでっかい蚊が数匹も止まっていました。ちなみに行った日は初秋でしたので念のため。 血を吸われるか、吸われないか、必死の思いで腕をバチバチ叩きながら空堀をあとにします。 しばらく歩くと、大久保神社。 ここは江戸時代の小田原藩主大久保氏を祭った神社ですな。城下町より、北条氏の本丸のすぐそばにあるというのは何か意味でもあるだろうかと考えました。 それにしても、このあたりからの眺望は素晴らしい。小田原の市内はもちろん、伊豆や真鶴半島。そして小田原征伐で、豊臣秀吉が陣を張った石垣山城まで見通すことができまする。 このあたりから、一夜にして城ができたと北条方は大騒ぎしたのですな。 急な坂道をくだり、小田原の市街地へと向かいます。 その途中にあるのが、伝肇寺(でんじょうじ)。 ここは詩人の北原白秋が34歳のとき、小笠原からこちらの境内に居を構えて移り住んだそうななんですよ。 その家が屋根も壁も茅葺の南方的な庵室だったらしい。 その姿が木菟(みみずく)に似ていたので、白秋自ら「木菟の家」と呼んだとのこと。 小田原はともかく、北原白秋が小笠原の父島に一時住んでいたというのは驚きましたね。 なんでも奥さんが肺結核になったから空気のいいところで静養したそうなのですが。 境内には、白秋にちなんだみみずく幼稚園がありました。 国道1号まで降り、次に向かったのは、鎌倉時代末期の石碑のある居神神社。 解説板には、小田原の後北条氏に討たれた三浦荒次郎平義意(よしおき)の霊もお祭りしてあると書かれていました。 これからいよいよ、江戸時代の小田原の城下町を歩くのですが、それはまた次回。
2008年11月16日
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こんばんは。 今日の昼間、渋谷を歩いていて、またアンケート勧誘のおばさんに声をかけられました。 年齢を聞かれ、オイラの年を言うと、「あ~残念、対象外なんですよ。ごめんなさい」と言われてしまったのです。 どうやら、20~30歳代の人たちが対象のアンケートみたい。 ウヒョー、オイラは30歳代に見えるっすか。 かなり逡巡しながら声をかけられましたから、あまり手放しでは喜べないのですが…。 でも、これほどうれしい間違いはないかも。 スリムのジーンズにヨットパーカーという若造りな格好もあったと思うのですが、ダイエットと筋トレの効果が少しずつ表れてきているような気もしました。 4年前は、同じ渋谷の路上で、アンケート勧誘のおばさんから50歳代に間違われましたからね。 そのときは、一瞬目の前が真っ暗になって、その場に崩れ落ちてしまいそうになったのを覚えています。 やはり体型によって、年齢を判断する人が多いのかも。 渡辺監督より原監督のほうが若く見えるのは、オイラだけではないと思いますし…。 改めて現在の体重の死守を決意した次第です。 さて、前回の続きの3ヶ月で15キロやせたという社長のダイエット法。 社長の話を聞く限りでは、これは一種のレコーディングダイエットかな、と思いました。 レコーディングダイエットとはご存知、ベストセラー「いつまでもデブと思うなよ」の中で著者の岡田斗司夫が紹介したダイエット法。 これは、日々摂取する食物とそのカロリーを記録することで、自分が摂取しているカロリーや食事の内容、間食などを自覚して、食生活の改善につなげるらしい。 岡田斗司夫は、このダイエット法で、117キロもあった体重を一年間で50キロ減らし、67キロにすることに成功したのですか。 体脂肪も42%から17%へと、25%も減らしたのですね~。 その本は、一年前に自分が穿いていたズボンを着て、そのウエストの激減ぶりをアピールする岡田斗司夫の衝撃的な表紙が印象的でした。 オイラはこれほど痩せたら死んでしまうから読みませんでしたけど…。 でも、ダイエットの1ヶ月当たりの減少率から言ったら、社長さんの5キロに対して岡田斗司夫は4.166キロと、社長さんのほうがすごい。 3ヶ月で15キロダイエットした社長に、「いつまでもデブと思うなよ」を読んだんですか?と聞いてみたんですよ。「何、それ? デブとは失敬な」と機嫌が悪くなりそうだったので、あわてて本の説明をしました。 どうやら本を読まないで、いつのまにか同じようなダイエット法を実践していたらしい。 オイラも、その本を読んでいないからあまり偉そうなことは言えませんが、自分が食べた食物を記録するという点では、両者はクリソツなのではないか。 その社長さんの方法は、いつも使っている手帳に、一日分の食事や間食のメニューとカロリーを書き込んでゆくもの。 普通のビジネス用の小さな手帳に書き込んでいるから、すごく字が細かい。 見せてもらうと、虫眼鏡がないと読めないくらい小さい端正な字で、ごはんの分量、おかずの食材、飲み物の量、カロリーなどがぎっしり書き込まれておりました。 最後に、一食ごとのカロリーと間食を含めた一日分のカロリーの総量が計算されている。 そして手帳に挟んであるのが、方眼紙に書かれた折れ線グラフ。 さすがに3ヶ月で15キロも痩せただけあって、体重は急降下を示しているのでした。 そして当時の一日のカロリー目標、1600kcalが端っこに太く書かれています。 一日のカロリーを制限してやせるのは、ダイエットの王道ですからね。その辺の知識は、医師が書いた真面目なダイエットの本で仕入れたと話してくれました。 ダイエットのために読んだ本を自分のデスクから引っ張り出してきてオイラに見せてくれます。 自分のダイエットを自慢しようと思って訪問したのに、いつしか社長さんのダイエットの自慢話を逆に延々と聞く羽目に…。 それにしても、ダイエットの本を見せてもらうと、4冊全部の本の裏表紙にブックオフの値札が…。 なんと、全部105円コーナーから仕入れたのですか。 聞くと、不動産会社の情報網を駆使して、都内のブックオフなどディスカウントのお店はすべて頭に入っているとのこと。 仕事で近くへ行ったとき、店を覗いてみるのだとか。 ひぃぃぃぃぃぃぃ~年収2000万円を超えていて、100万円のロレックスと30万円のべっ甲のメガネをしている社長さんが、ブックオフの105円コーナーの常連だったなんて。 ダイエットで負け、本来なら圧倒的勝利を収めねばならない節約勝負にも負けて、目の前がクラクラしてくるオイラ。 それはともかく、短期間でダイエットに成功するなら、一日のカロリーを抑える、この方法がベストでしょうね。 …というより、これしかないような気が。 以前のブログにも書いたかもしれませんけど、どんだけ運動しても、どんだけ世の中にあまたあるダイエット法を行っても、自分が一日で消費するカロリー以上に食事でカロリーを摂取していたら、やせるわけがない。 いわば、プラスとマイナスの関係。 大食い選手権に出るような人たちは、皆やせている人が多いですが、彼らは特別な体質を持っているのでしょう。 摂取したカロリーが体に蓄積しないか、あるいは基礎代謝量が跳びぬけて多いか、その辺は専門家ではないからわかりませぬ。 ただ彼らと同じように食べていたら、太る人が絶対的に多いということ。 その社長さんがとった方法は、もっともオーソドックスで、実行しさえすれば確実に結果が出る方法なのですね。 それは…。 まず、それぞれの人にとって必要な一日のカロリー量を算出する。 たとえば、標準体重1キログラム当たりのエネルギー量を次の3つに分ける。 軽労働 25~30kcal 中労働 30~35kcal 重労働 35kcal 標準体重というのは、BMIという数値でよく表されます。 それは、身長(m)×身長(m)×22 社長さんの場合は身長168センチ。 すると、身長1.68m ×1.68m×22で、62.0928キロが標準体重。 その数字に、自分の一日のライフスタイルを考え、上記の軽労働から重労働に必要な標準体重1キログラム当たりのエネルギー量をかければいいわけですな。 社長さんはデスクワークの軽労働が主体で、なおかつ早く痩せたかったから、標準体重1キログラム当たりのエネルギー量25kcalを選択したらしい。 つまり計算式は次のようになりまする。 身長(m)×身長(m)×22×標準体重1キログラム当たりのエネルギー量 上記の式を社長さんに当てはめてみると 身長1.68m ×1.68m×22×25kcal = 1552.32kcal …ということで、社長さんが一日に必要なエネルギー量は、1552.32kcalと出ました~♪ 多少下駄を履かせて、一日のカロリー目標を1600kcalとしたのですな。 ところでこれを実行するためには、自分が食べる食材のカロリーがわからないといけない。 そこで社長さんは、それぞれの食材のカロリー表もまたブックオフでゲッツしたのだとか。 カロリー表を参考にしながら、自分が食べる食事や間食のカロリーを計算して、一日1600kcal以内に収める。 最初はものすごく大変だったそうですけど、慣れてくれば食材の大体のカロリーがわかって来るから、計算しなくてもどれくらいあと食べても大丈夫かというのがわかったとのこと。 うぬぬ、話を聞くと簡単だけれど、それを実行するのはよほどの根性が必要かも。 実際は、飢餓との壮絶な戦いがあったのではないか、と感じました。 成果が出てくれば、頑張ろうという気にはなると思いますが。 でも、そこまで頑張らなくても、それなりにダイエットに成功する方法があると以前、聞きました。 それは、以前見たNHKの「ためしてガッテン」。 番組の中で紹介されていたのは、単に毎日体重計に乗って体重を量って記録すること。 これもまたレコーディングダイエットなのでしょうけど、番組の中ではただ量って、折れ線グラフを作ることくらいしか言っていませんでした。 体重を量るだけで果たして痩せるのかニャー。 …と見ていると、番組でモニターになった人たちは皆痩せている。 とくに、一日何カロリーに抑えるなんてカロリー計算はしていなかったみたい。 体重を量って、グラフを作るだけなら簡単ですよね。 これは人間の向上心に訴えかけるやり方なのではないか、と思いました。 日頃から痩せようと思っているのに、自分の体重が折れ線グラフで右肩上がりに上がっていたら、何とかしようという気持ちになるはず。 また、少しでも減少傾向にあったら、さらに痩せようと思うのではないか。 せっかく、頑張って減らした分、元に戻ったらがっくり来ますし…。 私事で恐縮ですが、オイラは、カロリー計算はおろか折れ線グラフを作ることもしませんでした。 ただ、体脂肪計を購入したことがもっとも大きな成功要因だったと思うのです。 それまでは、あまり体重計に乗ったことはなかったし、たまにヘルスメーターに乗ることはあっても、どうせ壊れていると出た数字を信じなかったのでした。 最初に乗ったとき、思ったより体重があったのにびっくり。 それから、2~3日に一度、体重と体脂肪、内臓脂肪のランクを量っては、手帳にその3つだけを記入していったのですね~。 たったそれだけでしたけど、定期的に量ってゆくとどうしても前の数字が気になる。 最初のうちは、それほど熱心にダイエットに励んだわけではないですが、前回より少し減っていればうれしい。 体重70キロ前後で、2~3ヶ月も一進一退を繰り返してのですが、12月の半ばごろ、なんとしても今年中に60キロ台に戻すぞ、と頑張った記憶があります。 でも、70キロを切ってからは、それほど努力もしないのに量るたびに体重が少しずつ落ちていって、いつの間にか65キロになったという感じです。 オイラの場合、いまだに太っていた頃と同じように間食を続けているし、ダイエット最大の敵と言われる「寝る前の間食」もやっている。 トータルで食べる量はそれほど変わっていないかも。 それでも痩せて体重を維持できているのは、いろいろ本を読んだり自分で実験したりして、痩せるコツを身につけたからなんですね~。 ビジベンダイエットの極意は、またいずれ。
2008年11月08日
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こんばんは。 う~、忙しいっす。 世の中は不況なのに、昨日と今日、仕事で一日つぶれたし、考えてみるとここ一ヶ月間、土日で完全に休んだ日はなかったような。 日頃からあまのじゃくを自認しているオイラですけど、仕事まであまのじゃくなのかも。 景気が良くなるとたぶん休む暇ができると思うので、早く景気が回復してほしいと願う今日この頃です。 それはともかく、このままだと、さらに痩せそう。 オイラがここ2~3年ダイエットしているのは何度か記事に書きましたが、とうとう65キロになっちゃいましたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~♪ 身長が176センチで体重が65キロ。 一番太っていた頃から比べると、9キロ以上もやせたのですな。 オイラが町を歩いていて、たまにウインドウに映る姿を見ると、やっぱり痩せたよな~と実感できます。 痩せると確かに若く見えるような気がしますけど、何となく貫禄がなくなったような気も…。 気の弱そうな森本レオのキャラで歩いている中年男といいますか。 75キロ近くあったときのウエストは確か82センチくらいで、胸囲は96~97センチでした。 傍目にはそれほど腹が出ていないし、胸板は結構厚め。 おお、小型の力道山みたいじゃ~と、鏡の前で空手チョップのポーズをとって割りと悦にいっていた記憶があります。 当時、誰が見ても、オイラをメタボと疑う人がいなかっただろうと断言できる。 が、しかし…。 何でたいして運動していないのに、体がビルドアップされてきたのかという疑問もありました。 一見逞しく見えた体が、内臓脂肪の張りぼてだったと気づいたのは健康診断で血液検査を受けたとき。 完璧に病気というほどではないにしても、血糖値や肝機能、中性脂肪などの数字はかなり悪い状態だったのです。 とくに肝機能の数値は青くなりましたね。 それほどお酒を飲まないのに、なんで肝臓が悪くなるのだろう、と…。 知り合いの病院の先生に、飲み会のとき数値を話したら、ええ~?と大きな声を出して、おいらが手に持っていたビールのグラスを取り上げられてしまいました。 当分、一切アルコールを飲んではならぬ、といつも気さくな先生が顔をしかめていたのを覚えています。 それだけ血液検査の数字が悪いのに、当時はまったく自覚症状がなかったんですよ。 それどころか、体重が増えたことすら気がつかない状態。 そのときは何年ぶりかで体重計に載って、エエエエ~!!!と絶句したのでした。 中学、高校時代、どんなに食べても体重60キロどころか55キロを超えなかったオイラが、70キロを超えるなんて夢にも思わなかったのです。 ただ、体重が標準体重以下に戻って当時を振り返ってみると、やっぱり体調が悪かったんだと思える部分はいくつかありますね。 たとえば、当時も今と同じようにウォーキングで近場を歩き回っていたのですが、平坦な道はさほど苦しくなくても、いざ上り坂にさしかかると途端に息切れがしてくる。 高尾山に行ったとき、とても麓から登るという気が起きず、ケーブルカーで山頂近くまで行ったのですが、そこからのハイキングコースがものすごく辛く感じました。 20分歩いては10分休む状態と言いますか。 そのときも、自分の体調が悪いとは思えず、標高が高くて酸素が少ないからだろうと思ったりして…。 高尾山の標高は確か600メートルぐらいなのですけど。 それから、多少歩くと足がすごく疲れました。 足が痺れたようになって眠れず、太ももにピップエレキバンを常時貼っていたのですね~。 それでも、一日3万歩以上歩いたら誰でもこうなるだろうと、大して気にも留めなかった…。 それから当時と今の違う点は、バファリンなどの鎮痛薬にここ一年くらいお世話になっていないこと。 体重があった頃は、よく口内炎になりました。薬を塗ってもなかなか治らず、痛くて食べられないから、鎮痛薬を飲んで食事をしたこともよくありました。 最近も口内炎はたまに起きますが、それほど重くならない。また起きる確率も当時の3分の1くらい。 太っていると口の中にも脂肪がついて、口内が狭くなると聞きました。すると、必然的に、噛むとき口の中のお肉も一緒に噛んで食べようとしてしまう。 傷ができると、そこから口内炎になるのですな。 そういえば、体重70キロを切るくらいのときから、一切口の中の肉を歯で噛むことはなくなったのでした。 それから、緊張型の偏頭痛も、最近なくなりましたね~。 これはどういうことなのでしょうね。 3ヶ月に一度くらい、ズッキィィィィィィィィィ~ン!!!と飛び上がるような痛さの偏頭痛が襲ったのですよ。 それが、まったくなくなってしまった。 偏頭痛にはいくつか原因があるのですが、オイラの場合はおそらく緊張型。 読んで字のごとく、頭を包む筋肉や首の筋肉の緊張によって起こるのだとか。 後頭部から首筋のあたりが重く、凝った感じになって鈍痛がし、ひどくなると頭全体が締め付けられるように痛み、吐き気を伴うこともあるらしい。鈍く重い感じの痛みが特徴で、頸部の筋肉の痛み、肩こり、めまいなどの症状がある。 いつかブログにも書いたかもしれませんけど、2~3分に一度、ズッキィィィィィィィィィ~ン!!!と頭に五寸釘を打たれるような強烈な痛みが襲う。 眠っているときにそれが起き、飛び起きて鎮痛薬を這うようにして探しに行ったこともありましたね。 それもまた、体重70キロを切るあたりから一度も起きていない。 緊張型の偏頭痛の原因となる筋肉の緊張は、悪い姿勢や運動不足による筋肉のこり、精神的なストレスが影響しているらしい。 なぜ精神的なストレスが影響するかというと、ストレスが加わると、頭から首にかけての筋肉が緊張して首を締め付けようとする働きが生じるためだそうなんですよ。 オイラの場合、太ったときはワイシャツの首周りが異常にキツク感じました。たぶん頭も、脳みそ以外の部分に肉がついて重くなったのではないか、と。 太ると体中の筋肉にも過度の負担がかかりますからね。 それが原因で偏頭痛を引き起こしたのかも、と感じました。 多少小太りのほうが長生きするとか、免疫力が高いとか、世間では言われていますけど、オイラの場合は限っては標準体重くらいが一番体調いいみたい。 だから、現在話題になっているメタボ健診は、健康に近づくためにはいい試みだと思います。 体重管理が健康になるためのもっとも近道ではないか。 …ということで健康的にやせたから、いろんなところで自慢しようと思っているのに、誰も話題にしてくれませぬ。 誰も、オイラを見て、痩せたね~って言ってくれないのです。 もっとも、約3年がかりでゆっくり痩せていったから、誰も気づかないのは無理ないかもしれませんが…。 うう、それでもせっかく痩せたのだから、誰かに自慢したい。 そこで向かったのは、渋谷の駅前からほど近い不動産管理会社。 そこの社長さんは、オイラが銀行時代からいろいろとお世話になった方なのですね~。 最近、忙しくてなかなかお伺いできなかったので、久しぶりにご挨拶に訪問してみようか、と…。 ご挨拶は建前で、心の中ではオイラが痩せたのを自慢しようと思っていたのは事実です。 アポの時間を約束して、社長さんはオイラが痩せた姿を見て、どんなリアクションをするだろうかとワクワクしながら会社のオフィスに入りました。 ところが、応接室に入ってきた社長さんを一目見て、「おお~、すごい痩せましたね~」と驚きの声を発したのは逆に、オイラのほう。 オイラが以前から知っている社長さんは、身長が168センチの体重85キロ。年齢は60歳を少し超えたくらいで、歳相応以上の貫禄が体から感じられました。「思わず、何キロ痩せたのですか?」と思わず、自分のことは忘れて質問します。 すると、3ヶ月で15キロも痩せたと仰るじゃないですか。 この激やせに、もしかしてガン?と耳の奥でつぶやく声が聞こえました。 「ほかの人からよく言われるのだけど、ガンじゃないよ」とのこと。 何でも、ご自分でダイエットの作戦を立て、それを実践してこの快挙に結びついたらしい。 それにしても、3ヶ月で15キロのダイエットっすか。 3年で9キロのダイエットくらいで、自慢しようと考えていた自分が恥ずかしい。 ダイエットしようと思ったきっかけは、やはり健康診断の結果が思わしくなかったからだそうな。 聞いてみると、血糖値が少し高いと医師から指摘されたそうですね。 それとメタボ健診の結果によっては、企業に何らかのペナルティが科される恐れがあると聞かれたからだそうな。 悪かったときの健康診断の血糖値とヘモグロビンA1cの値は、ほっとくと糖尿病へ一直線だったのが、やせたおかげで急速に危機的状況から脱出できたのですか。 とくに驚いたのが、ヘモグロビンA1cの値。 6.5パーセントから3ヶ月で4.3パーセントなんて、その検査数値の性格上ちょっとありえない数字。 主治医の先生は驚いて、どうやって下げてのか、逆に根掘り葉掘り質問されたらしい。 それにしてもオイラが社長を知ったのは、今から20年近く前。 当時から一貫して、体重85キロを維持し続けてきた人がたった3ヶ月で15キロもダイエットできるのでしょうか。 聞いてみると、中年になってから太ったのではなく、20歳代から身長168センチ、体重85キロの体型だったらしい。 太っていた当時、95センチ以上あったウエストは現在83センチ。見事に3ヶ月で、メタボから生還したのですか。 自分のダイエット自慢のことはすっかり忘れ、話題は社長さんのダイエット法に…。 話を聞いてみると、なるほどすごく利にかなっていますね。 その方法は…。 と思ったら、今日は自分のダイエットのことで長く書きすぎました。 続きは次回。
2008年11月02日
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こんにちは。 新選組・日野シリーズの最終回は、いよいよ真打ち、土方歳三さまの登場っす。 生家跡への訪問ですね。 土砂降りの雨から天気が回復して、快適なウォーキングをすることができました。 右手に見えてきた、こんもりと緑に包まれた丘。あれはどうみても、城跡でしょうとあたりをつけたら、案の定、高幡城址なのでした。 川と丘がコラボであると、城跡を疑ってみたくなります。 丘の麓には高幡不動があるので、あとで行ってみようと足を速めました。 万願寺歩道橋を越え、左手に神社が見えたところを左折、住宅街を道なりに歩いてゆくと、庭に「誠」の旗が立っているお屋敷がありました。 ここが土方歳三資料館であるとともに、歳さんの生家あと。 歳さんが青春時代を過ごした実家だったのですが、オイラが20年以上前に来たときとは、まわりの景色はもちろん家も様変わりしていました。 20年でこんなに変わるんですね~。 うろ覚えですが、田んぼや畑があって、当時は近郊の農村といった感じでした。今はお洒落な住宅街。 すぐそばを多摩モノレールの高架が走っていて、スーパーやファストフードのお店も建ち並ぶ。 昔のこの辺りを知っているオイラとしては、より歳さんが暮らした石田村に近い景観を見たことがあるぞ~、ひひひ、うらやましいだろ~と自慢したい気分になりました。 立派ではあったものの、トタン屋根の崩れそうな家屋だった歳さんの実家も、ハイカラなお屋敷に変貌を遂げている。 もっとも、以前の崩れかけたような家屋よりは今のお屋敷のほうが、あの写真に写っている歳さんのイメージに結びつくというのが変な感じですが…。 こちらも、子孫の人たちが経営しているようで、月一回、第三日曜日だけの開館なので行った日は休館なのでした。 歳さんの愛刀、和泉守兼定や書簡、池田屋事件で使用したと伝わる鎖帷子、鉢金、榎本武揚の書、歳さんも行商をした土方家家伝薬である石田散薬にまつわる資料などを保管しているらしい。 それにしても、歳さんの肖像写真を見ると、江戸時代を生きた人とは思えないくらい現代的な顔立ちの美男子と思えます。 当時の人たちも、「眉目清秀ニシテ頗ル美男子タリ」と言われていたそうな。 五尺五寸で、身長は当時としては長身の168センチ。すらりとして、色も白く、一見商人風で鬼の副長と恐れられていたとは思えない。 そのギャップが人気の一つなのでしょうね。 うぬぬ、写真をよく見ると、ウッチャンナンチャンのウッチャンにも似ているぞ、とかいや、狩人の弟のほうにクリソツじゃとか、嫉妬心が湧き上がる今日この頃。 個人的には、栗塚旭の土方歳三の、口下手で無骨だけど、ちょっとやさしくてかっこいいイメージが好きなのです。 司馬遼太郎の「燃えよ剣」のイメージにぴったりで…。燃えよ剣(上巻)改版 ただ、歳さんは昔、薬の行商をやったりして一見商人風の愛想のよさもあったのではないか。営業をやると、人格に劇的な変化が現れますからね。 オイラも営業をやっていたから経験があるのですが、栗塚旭版土方歳三のキャラクター設定では行商はできなかったかも。ノルマ達成できなかっただろうといいますか。 その点では、山本耕史版土方歳三のほうが、より実際の土方歳三に近かったのかな、という気はしています。 それはともかく、この辺りの家は土方さんと書かれた表札が目につきますね。 歳さんの実家あとの隣にある立派な長屋門のお宅も、土方さんという表札が掛かっていました。 土方家は、この土地の大百姓だったというのも頷けますね。 そんなことを考えつつ、資料館から道なりに歩いてゆくと、住宅街の中に小さな社を取り囲むように大木が数本ある場所に出ました。 ここは、「とうかんの森」と言って、土方家の氏神として祀られた稲荷神社の跡なのだとか。この近くにはかつて歳さんの生家、土方家があったのですね。 浅川と多摩川の合流地点に近く、この場所はたびたび大雨の被害に見舞われ、天保十一年の洪水で歳さんの生家は流されてしまったらしい。 それで、先ほどの場所に引っ越したのですな。 大雨に悩まされたという点だけはオイラと共通点があったと喜びながら歩き、石田寺に到着。 ここは古くからこの土地に暮らしていた土方家の墓所であり、土方歳三顕彰碑がありました。 確かに墓地に並んでいるお墓は、「土方家」のものばかり。 境内にそびえる樹齢400年と言われるカヤの大木は高さ20メートルもあるらしい。当然、歳さんもこの木を眺めて少年時代を過ごしたのでしょうね。 石田寺から高幡不動へは浅川のほとりを歩きました。この河原に生えていた「牛革草」という野草を、土用の丑の日に石田村の村民が総出で採り、散薬にしたものが歳さんの生家に伝わる打ち身薬「石田散薬」なのですね。 この河原で、若い日の歳さんが村人たちをまとめて、草を総出で刈っている姿が目に見えるようでした。 そして最後に向かったのが高幡不動。 土方歳三の菩提寺で、関東三不動の一つにも挙げられる古刹ですね。 不動堂や仁王門は重要文化財にも指定され、新しく作られた五重塔とともに、とても美しい境内だと思いました。 そして境内には、土方歳三の銅像。 こちらはまたすこぶるイケメンですな。若い頃の栗塚旭と山本耕史を足して2で割ったような。 佐藤彦五郎たちが建てた殉節両雄の碑もありましたよ。 夕方でしたが、丘の急斜面を登って高幡城跡にも行ってみました。 城の縄張りの地図もなく、本丸跡の標識があるだけでしたね。 なんでも、城についての記録は少なく、金剛寺の裏山に城址があったという伝承があるだけなのだとか。 土塁や空堀のあとも推定するしかなかったですが、新選組とお城がコラボで見られたのは一粒で二度おいしいウォーキングコースでした。
2008年10月25日
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こんにちは。 今日は前回の続きです。 日野宿本陣を出ると、なんと土砂降りの雨。 曇っていて、今にも雨が降り出しそうでしたが、やっぱり降りましたか。ネットで調べてから出かけたのですが、降水確率は40パーセントでした。 前のブログでも書きましたが、豪雨でかなりヤバイ状況に陥ったことがありますから備えは万全。 あの事件以来、どんなに晴れた日でも折りたたみ傘はカバンの中に入れて出かけます。そして今日のように雨が降りそうな日にウォーキングに行くときは防水仕様のシューズ。 5センチ防水とか書いてあるスニーカーを買ったのですね~。 雨の中でも長靴で遊んだ子供時代を思い出して、次の目的地井上源三郎資料館へと向かいます。 ただ、この資料館は個人経営で、第一・第三日曜日だけが開館日だそうですので念のため。 行った日は休館日だとわかっていたのですが、外から眺めさせてもらおうと思ったのです。 それにしてもすごい雨。風も強くて歩きづらい。 でも完全防水の買ったばかりのスニーカーは万全…。 …と思ったら、ジワジワと靴下に水が染み込む嫌な感じ。その2分後には完璧に靴の中に水が入って、歩くたびに靴の中でビチョ、ビチョと気持ち悪い音を立てるのでした。 何が完全防水じゃ~とメーカーに腹を立てても後の祭り。 こんなことなら、普通のウォーキングシューズのほうが楽なのでした。 でも、5年前の相模川の悪夢と比べたら天国といってもいい状況だと思い直し、目指す目的地に到着。 ここに資料館があるということは、当時井上源三郎はここに住んでいたのでしょうかね。 家に帰ってネットで調べてみると、やはり実家のあった場所だとわかりました。 大河ドラマでは、兄弟子なのに後輩たちの細々とした世話をしてあげたり、庭を率先して掃除したり、とてもきさくでやさしい人柄に描かれていましたね。 リアルでも「源さん」と呼ばれていたように、無口で人の良い人だったようです。真面目で誠実な人柄で、若い隊士から慕われていたらしい。 一方で頑固なところもあって、一度言い出したらきかない面もあったそうな。 ドラマの最後のシーンも、まわりが止めるのも聞かないで官軍の鉄砲隊の前に仁王立ちになって戦死しましたね。 享年40歳というから、近藤勇や土方歳三よりも年長なのですか。決して長いとは言えない人生でしたが、こうして資料館までできるとは本人も思っていなかったのではないかと思いました。 新選組の名前がある限り、永遠に語りつくされていくのでしょう。 びしょ濡れになりながら、そんなことを考えつつ歩き、八坂神社に着く頃にはシューズから水があふれ出るような状態に。 気持ち悪いっす。 雨がすごかったし、八坂神社の本殿は最近できたみたいだと思ってよく見なかったのですが、あとでこれは覆屋だとわかりました。 この中に、1800年に建造された本殿があったのですね。精巧な彫刻が施された江戸後期を代表する神社建築で、日野市の指定重要文化財だそうな。 ほかにも、後に新選組に参加することになる近藤勇や井上源三郎らが奉納した天然理心流の剣術額もあったそうですね。 見学しないで、もったいないことをしたと後悔しました。 だから雨は嫌いなのじゃ そこから3分ほど歩くと、宝泉寺があります。 ここは井上源三郎の菩提寺だそうで、彼の顕彰碑がありました。 次に向かったのは、大昌寺。 少し雨が小降りになってきて、青々と濡れた芝生がとても鮮やかでした。 ここには、前回の記事でご紹介した日野宿の名主で本陣も経営し、さらに新選組の育ての親でもあった佐藤彦五郎のお墓と彼の妻で歳さんのお姉さんのお墓があるのですね。 由緒あるお寺らしく、ほかにも日野の町ゆかりの人たちが大勢眠っておりました。 ここから住宅街をテクテク歩き、中央ハイウェイの下をくぐりぬけて向かったのは、その名もズバリ「新選組のふるさと歴史館」。 ここは新選組の調査・研究・展示活動を行うために日野市が設けたのですか。 昔はなかったと思ったら、平成17年開館というからつい最近できたのですね。 新選組は、隊士の写真が残っているくらい古い組織ではないですからね。どんなものが残っているのだろうと興味津々で行ったら、休館でしたぁぁぁぁぁぁ~ 休館日といっても、その日だけ休みだったわけではなく現在展示替えが行われているらしい。 次回展示は、9月27日(土)~12月14日(日)までの予定で、日野市郷土資料館特別展『ほどくぼ小僧・勝五郎生まれ変わり物語』を開催するのだとか。 しかも、新選組とは関係ありませんので念のため、という注釈までついているのでした。 せっかく新選組で町おこしをしようと頑張っているのに、日野宿の本陣は最近観光客が減っているみたいだし、こちらも新選組から別の展示ですか。 本当に好きなファンは当然すでに来られているでしょうし、リピーターになるのはよほど知恵を絞らないと難しいのかもしれませんね。 せっかく楽しみにしていたのに残念と、すぐそばの日野市役所で休憩。 レンガ色の立派な建物ですな。 すぐ横には、日野中央公園の緑が目にまぶしいっす。どうやら雨も止んだようで、太陽が顔を覗かせました。 ここから土方歳三資料館までは約3キロの道のり。 日野バイパスを越え、浅川の河原沿いの遊歩道を下流に向けひたすら歩きます。 ここから歳さんの実家あとへ向かうのですが、それはまた次回。
2008年10月18日
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こんにちは。 今回行ったのは、新選組の故郷といわれる日野です。 新選組といえば、最近、NHKの大河ドラマでも話題になりましたね。 オイラ的には、子供の頃見たテレビドラマ「燃えよ剣」のイメージのほうが強烈。 栗塚旭の演じた鬼の副長土方歳三の鬼気迫る生き方に、すっかりファンになってしまいました。函館五稜郭の最後のシーンは、今でもくっきり脳裏に焼きついておりまする。 テーマミュージックも、勇ましく一途に生きた歳さんのイメージそのままでかっこいい。 それはこちら。 司馬遼太郎の原作を読んだのは確か高校生のときだったと思います。もしかしたら、司馬作品の中で初めて読んだのがこの本だったかも。 司馬作品の面白さを、オイラのDNAの中に組み込んでくれたという点では記念碑的な作品ですね。 土方歳三の生家が日野に残っていると知ったのは、社会人になってからです。今から20年以上も前だったと思いますが、ガイドブック片手に訪ねたのですね~。 田のあぜ道や畑が広がるのどかな田園風景の中に、黒塗りのトタン屋根の生家がありました。土方家は、多摩地方に広がる豪農の家系で「お大尽」とよばれる大百姓だったらしい。 子孫の人たちが暮らしているようで中には入れませんでしたが、今にも崩れそうな外観に歴史を感じました。 当時から歳さんの例の軍服を着たお洒落で、さっそうとした写真は知っていましたから、何の変哲もないまわりの景色は少し意外だったのを覚えています。 でもよく考えてみると、すぐそばには甲州街道の日野宿がある。歳さんの姉のご主人は、日野本郷の名主兼日野宿問屋をつとめ、脇本陣も経営していたとか。 歳さんはそこへよく出入りしていたそうですし、実家も秘伝の石田散薬を作り、行商の経験もあったらしい。 司馬遼太郎の本を読むと、石田散薬を作るとき、子供の頃から村の人たちを動員してシステマチックに動かした経験が新選組の組織作りに役立ったという記述があります。 現在の上野松坂屋で奉公したという伝説もあるそうですが、武士の魂を持ちつつも、商売人としての合理的な思考方法があれだけの活躍を生んだのだろうと思いました。 …ということで、新選組の故郷を20年ぶりに訪れようと、9月のどんより曇ったある日、オイラは日野にやってきました。 日野駅を出ると目の前の通りは、旧甲州街道。 まず目についたのはこの建物なのですが、これがなんと日野駅の駅舎なのですか。 れっきとした東京近郊のJRの駅なのに、峠の茶屋のような面影が…。今はトタン屋根ですが、昔はわら葺だったのでしょうかね。 駅の構内にいると気づかないのですが、外へ出て後ろを振り返るとおお~と思いました。 さすが元宿場町。 甲州街道を府中方面にテクテク歩くと、右手に旧日野宿の本陣があります。 ここは都内に現存する唯一の本陣だとか。 江戸時代の本陣とは、街道の宿駅で、大名・公家・幕府役人などが宿泊した公的な宿。 今はひとつだけですが、当時は大きな本陣と脇本陣が長屋門を構えて並び立っていたそうな。ちなみに今残っている建物は脇本陣だったらしい。 そして幕末、この脇本陣を経営していたのが、土方歳三の姉が嫁いだ佐藤彦五郎なのですね。 さすがに高貴な人たちを迎えるために作られた建物だけあって、玄関の立派さに圧倒されました。 でも昔来たときは、ゆっくり見た記憶がないのです。 どうしてかな、と思いつつ、建物の横へまわりました。入り口があって、入場料200円で中が見学できるらしい。 入るとボランティアで解説をしてくれるおじさんから声をかけられました。 オイラが今日はじめてのお客さんなのですか。 どんより曇った日でしたけど、午前11時をまわった頃。この建物は、新選組のファンにとってはかけがえのないものですからね。 平日でしたが、新選組の土方・沖田ファンの女性が訪れているのではないか、と…。 大河ドラマが放映していたときは、平日でも大賑わいだったそうですが。 でも、見学者にとっては、すいているほうがゆっくり思う存分、スペースを独占できるのがうれしい。 ボランティアのおじさんとマンツーマンで本陣の中を見学することにしました。 まず、古い民家にはつきものの土間。そして現在残っている主だった部屋は9部屋。それも今のマンションのような狭い部屋ではなく、一番広い部屋は18畳もあるのですか。それに4畳の間や広い廊下がプラスされる。 もちろん全部プライベートな空間ではなく、庄屋さんと本陣の公的なスペースとしてこれだけの広さが必要だったのですね。 この建物が面白いと思ったのは、庄屋さんと本陣の機能がコラボで一つの建物の中に存在すること。 土間からあがる18畳の広いスペースが庄屋さんとしてのオフィスや会議室として利用されたのですね。 昭和になってからですが、このスペースで日野館というお蕎麦屋さんを営業していたらしい。 前回来たとき、お蕎麦屋さんだったので、中に入れなかったことを思い出しました。 昼ご飯を駅の近くでたらふく食べてから来たので、スルーしてしまったのですね。 18畳の部屋と格式のある玄関から続く10畳間との間を大きな板戸で締め切って、庄屋と本陣の機能を分離しているということでした。 使われ方がまったく違うから、本来は壁にして完全に分離したほうがいいのでしょうけど、家の中が迷路みたいになって使い勝手が悪くなりますからね。 そして玄関から続く10畳間で、土方歳三が昼寝をしていたと言われているそうなんですよ。 その部屋に入ってみると、昼間なのに薄暗い。当時の行灯を模した照明が、足元をぽんやり照らし出すだけ。 彦五郎さん一家のプライベートスペースは4畳間を隔てた奥のほうにあり、格式の高い本陣のスペースは当時、普段は使われていなかったのでしょう。 広々として薄暗くて静かで、昼寝をするにはもってこいの部屋だと、歳さんの心境がわかるような気がしました。 その隣は、6畳間が二部屋続く。 奥の6畳間は、新選組の少年隊士で土方歳三の小姓をしていた市村鉄之助が匿われていた部屋なのだとか。 そういえば、大河ドラマの「新選組!」の続編のドラマで、それにまつわるシーンがありましたね。 市村鉄之助はほかの隊士と一緒に戦死する覚悟だったが、歳さんは彼の若さと将来を思いやって箱館からの脱出を命じる。 歳さんの遺品を託されて函館を脱出した市村は、官軍の包囲を掻い潜って土方の故郷日野の佐藤彦五郎家にやってくる。なんと3ヶ月もかかったとか。 あの有名な歳さんの肖像写真も、市村鉄之助の難行苦行の旅がなかったら、今日の我々は拝めなかったのでしょうね。 鉄之助はそのあと2年ほど、佐藤彦五郎家に匿われていたらしい。 NHKのドラマが放映されたあと、市村鉄之助役のイケメン俳優の人気で、随分若い女性がこの部屋を訪れて写真を撮ったとか。 中廊下をはさんだ座敷は、本陣をしていたときは中の間、下の間として利用されたらしい。 当時は、そこから上段の間と御前の間が続いていたそうですが、明治になってから彦五郎の息子が養子に行った家が火事で焼けてしまったとき、移築されたそうです。 今でもその移築された座敷はこの近くに残っているそうで、その内部の写真が展示してありました。 ボランティアのおじさんによると、この家は材木を吟味して、10年という準備期間を費やして作られたとのこと。 重厚な大黒柱や太い梁など強固な造りが実感できました。関東大震災でもびくともしなかったそうですね。 確かに、いろんな古民家を見慣れているオイラとしても、城郭なみの大黒柱だと思いました。 この館の主、佐藤彦五郎氏の肖像写真も展示してあります。 あれ~? どことなく「新選組!」で佐藤彦五郎を演じた小日向文世に似ている。 スリムな体型。額が広いこと。面差し。全体の雰囲気が。 ドラマのようなひょうきんな性格だったかどうかはわかりませんけど、新選組の誕生からその後にいたるまで大きな影響を及ぼした人だったみたいですね。 近藤勇の養父であった近藤周助に入門し、天然理心流の免許の奥義を許されたのだとか。 武芸を習った動機は、当時の治安の悪化によるもので、この屋敷の中に道場を開いて、近藤勇たちを応援したらしい。 そういえばドラマでもそんなシーンがありましたね。 佐藤彦五郎は日記も残していて、近藤勇や土方歳三、沖田総司の当時の活動の様子を伺うことができるとか。 もらったパンフレットを眺めると、近藤勇がこの地方へ出稽古に来て、この地区の人たちと交流を持った様子がわかりました。 それしても、土方歳三の記載の仕方が、安政の頃、俊蔵だったり、歳蔵だったり一定しないのはなぜ?と思ったりしました。 義理の弟だし、名前を間違えるはずはないのだけれど…。 戊辰戦争の頃は、日野の人たちも、新選組とともに甲陽鎮撫隊に加わって激動の中に飲み込まれてゆく。 鉄砲など武器を集めて、官軍と戦うことになるのですな。 佐藤彦五郎氏も官軍から追われる身となって、お寺へ隠れていたとボランティアのおじさんが話してくれました。 明治維新ののちも生き長らえのことができ、明治35年76歳でこの世を去る。 明治になってから、当然、新選組は「悪の巣窟」と言われた時代が長く続いたと思いますが、一貫して新選組隊士の復権と顕彰に尽力した生き方は立派だと思いました。 最後に、新選組にまつわるビデオを見たんですよ。 新選組6番隊長井上源三郎の子孫の人がテレビに出たのですが、大河ドラマで井上源三郎を演じた小林隆によく似ている。 ドラマの中でも源さんと言われて、温厚な人柄が画面からにじみでていましたね。 子孫の人と目のあたりが似ていて、朴訥とした感じが小林隆演じる源さんそっくり。 子孫の人たちからキャスティングを考えることはないと思いますから、やはり当時の写真や証言から、似ている俳優さんを選んだのでしょうか。 そういえば、土方歳三役の山本耕史も写真によく似ているし…。 栗塚旭より、本物に似ているかも。 でも、近藤勇は似てないっすね~。 やっぱり、ジャニーズ事務所の実力がキャスティングに影響を与えたのかも。 日野宿本陣を出ると、なんと土砂降りの雨。 大雨の中、土方歳三の実家を目指すのですが…。 日野のネタは次回も続きます。
2008年10月11日
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こんにちは。 ここに来て、かなり涼しくなってきましたね。 夏に行った場所のお散歩ネタでは、季節感がおかしくなりそうだと感じる今日この頃。 日々の活動にブログの更新頻度が追いつきませぬ。 でも、ノスタルジックな気分で、過ぎ去った夏を思い出すのもいいかも。 サザンの桑田さんの映画「稲村ジェーン」の中で、清水美砂が「暑かったけど、短かったね・・・夏」と言った台詞が似合う季節になりましたし…。 …ということで、秋真っ盛りに、真夏の記事を書く場所は、湘南江の島です。 行った日は、8月の中頃。 海水浴で行く人は多いけれど、江の島だけを見に行く人は少ないだろうなと思ったら、すごい人でびっくり。 やっぱり夏の湘南は、古くは石原慎太郎の「太陽の季節」、加山雄三、ワイルドワンズの湘南サウンド、最近ではサザンと、いつの時代も魅力があるのですな。 が、しかし…。江の島はなんと鎌倉時代から参詣者を集めていたそうなんですよ。 しかも、江戸時代は三泊四日の江の島弁才天ツアーが大人気だったとか。 当時は、今みたいに江の島弁天橋もなく、渡し舟で島へ渡ったそうですね。 そこでオイラも、当時の旅人になった気分で東海道藤沢宿から、彼らが往来した古道江の島道を歩いてみることにしました。 藤沢駅までは小田急で。オイラの家からだと、交通費が節約できるのですね~。南口から国道467号線に沿って歩きます。 お洒落な店が左右に建ち並び、そぞろにウインドウショッピング。 おお、ユニクロもあるっす。ユニクロを見ると、条件反射で中へ入って新商品が出ていないか、それとともにバーゲンの値札を確認してしまう自分が哀しい。 市民会館の先に、モダンな建物がありました。 これは旧近藤邸。 大正14年に、別荘として辻堂東海岸の松林の中に建てられたのだとか。老朽化のため取り壊されそうになったところ、市民運動によって移築保存されたのですね。 この建物はどこかで見たようなイメージでしたが、帝国ホテルの設計で知られたアメリカ人の建築家ライトの弟子であった遠藤新の設計なのだとか。 遠藤新といえば、去年行った池袋の自由学園の講堂や校舎で有名な建築家。 いろいろほっつき歩いていると、どこかで点がつながって、知識が広がってゆくのが楽しいっす。 上山本橋で境川を渡り、川沿いをテクテク歩きました。 また例によって日陰はなく、ギンギンギラギラと太陽が容赦なくオイラを直撃します。 でも、海が近いのか、さわやかな川風が吹いていて、意外と楽。 しばらく行くと、何の変哲もない道路上に解説板がありました。 ここは、馬喰橋(うまくらばし)というのですか。道路かと思ったら、下に細い川が流れています。 解説板には、「源頼朝が片瀬川に馬の鞍を架けて橋の替りにしたことから馬鞍橋、また昔馬がこの橋にさしかかるといななき突然死んでしまうことから馬殺橋と呼ばれたが、あるときに行者聖が橋の石を取り替えてから災難はなくなった」と書かれていました。 当時はもっと野趣あふれる景観だったのでしょうけど、今はイメージするのが難しいかも。 新屋敷橋のところで住宅街に入り、しばらく歩くと片瀬小学校の脇に、江の島弁財天の道標がありました。 これは江戸時代のトップ鍼灸師、杉山検校が江の島神社に参拝する人たちの道標に寄進したものの一つだとか。 参詣の道を歩いていて、いくつか同じ道標を目にしました。現在でも10余基ほども残っているらしい。 そこには「ゑのしま道」と刻まれておりました。 緑あふれる住宅街の細い道をどんどん歩いてゆくと、左手あるのが諏訪神社上社。 急な石段を上ればきっといい景色が見られるはず、と汗をふきながら本殿に向かいます。 なぜか境内は扉が閉まっていて入れなかったのですが、丘の上からは相模湾と江の島がちょこっと見ることができました。 それにしても、雲ひとつない快晴。 再び元の道に戻り、密蔵寺、本蓮寺、常立寺という古いお寺を巡って歩きます。 湘南モノレールの湘南江の島駅を左手に見つつ、国道467号線をゆくと龍口寺がありました。 ここは鎌倉時代、龍の口刑場があったそうですね。 この地に送られた者はすべて斬首になったのですか。日蓮宗の開祖、日蓮上人も鎌倉幕府の反感を買って捕えられ、この地に連行されたそうなんですよ。 そして斬首されそうになったとき、江の島から満月のような光が飛んできて斬首役人の目をくらませられたり、処刑に使われた刀に光がかかり三つに折れたり、とかという伝説があるそうな。 それで処刑は中止になったとか。 何でも、龍の口刑場で処刑を免れた者は歴史上、日蓮聖人だけだそうですね。 境内には、刑場へ向かう前の日に日蓮聖人が一晩を過ごした土牢が今も残ってしました。 奥行きがなくて、じめじめしていて、一晩でもここで過ごすのは苦しかったと思います。 江戸時代に建てられたという本堂は立派で、豪壮な彫刻が見事。木造の五重塔は神奈川では最古と言われているそうですが、境内でオイラがビビビときたのは、この大書院。 なぜか、この建物が気に入って、時間を忘れてずっと見入っていました。 家に帰ってネットで検索したら、それもそのはず、昭和初年に信濃国松代藩の藩邸を移築したものだとわかりました。 松代藩といえば、真田10万石。城の遺構だったのですね。 オイラが魅せられて当然なのでした。 龍口寺門前は、江ノ電の撮影スポットなのだとか。オイラも写真を撮ろうと粘ったのですが、いつまでたっても電車が来ない。 直射日光を避け、街路樹にもたれて待つこと10分近く。 昔東京の中心部を走っていた都電とも違う存在感のある電車がいきなり一般道を走ってくるのはインパクトがありました。 一応注意を促す信号が点滅しますが、踏み切りがない歩道をいきなり横切ってくるのは迫力満点。 江ノ電は鎌倉辺りではかわいい印象ですが、江の島辺りに来ると、道路交通の王様のような威厳が感じられました。 江ノ電江の島駅の踏切を渡り、商店の建ち並ぶ洲鼻通りを歩いていよいよ江の島へ向かいます。 江の島弁天橋から江の島を望む。 ところで、ケータイのカメラの設定がおかしくなって、画像が小さくなってしまいました。 どうやら、ケータイの壁紙の設定になってしまったみたい。 買ったぱかりで元に戻し方がわからず、これからはこの写真で失礼します。 家に戻って説明書を読んで、直し方がわかりましたけど…。 せっかく来たのだからと、片瀬東浜海水浴場に寄ってみました。 うう、砂浜は特に暑いっす。 家に戻ったら、顔や手が日に焼けて真っ赤でした。別に砂浜で甲羅干ししたわけではないのですが、夏の海の紫外線のすごさを感じましたね。 弁天橋を渡り、いよいよ江の島に上陸。 江の島に来たのは何年ぶりでしょうか。子供時代以来思い出せませぬ。 NHKのニュースでは毎日のように、夏の江の島の映像が出るので、久しぶりという気はしないのですが…。 江の島の入り口に立つ、青銅製の鳥居をくぐるとみやげ物店や飲食店がにぎやかに並ぶ江の島神社の参道が続いていました。 江の島の名物、しらす丼をメニューに掲げる店がたくさん。お昼はかなり過ぎていたのですが、どこの店もお客さんで一杯です。 エスカーというエスカレーターで江の島の頂上まで昇れるそうなのですが、有料ということで当然足に頼ることにしました。 江の島神社のご祭神は、三人姉妹で、奥津宮、中津宮、辺津宮それぞれの社殿にお祭りされているのだとか。 階段を上り、最初にお参りした辺津宮の境内の奉安殿には、八臂(はっぴ)弁財天と、 日本三大弁財天のひとつとして有名な裸弁財天・妙音(みょうおん)弁財天が安置されておりました。 中津宮へ行く途中の階段からは、江の島のヨットハーバーが見渡せます。 中津宮から奥津宮へ行くとき、右手に見えたタワー。前から気になっていたのですが、これは江の島展望塔と言って、江ノ島電鉄(株)の開業100周年記念事業として建て替えられたものらしい。 これは灯台としての機能もあるわけですか。 時間も遅かったし、サムエル・コッキング苑という庭園に入場料を払って入らないと昇れないので今回はパス。 食堂やみやげ物店が並ぶ起伏のある細い道を歩き、奥津宮に到着。 門の天井には、酒井抱一の「八方睨みの亀」がありました。この写真はレプリカですが、どこから見ても、亀さんと目が合うのだとか。 面白い構図の絵ですな。 そして急な崖の階段を降り、江の島の岩戸へ。 それは一言でいえば、長い歳月をかけ、波が岩を削り取ってできた洞窟。 第一岩屋と第二岩屋に分かれていて、それぞれ152mと112mもあるらしい。 何とここは、江ノ島信仰発祥の地といわれていて、弘法大師や日蓮上人などがここで修行を積んだそうな。 入り口で500円を払い、中で蝋燭をもらって入ります。 所々明かりがあって、ろうそくがなくても大丈夫そう。古い石造物があり、龍神のオブジェなども展示されていました。 今は明るいけれど、昔の人は、真っ暗闇の中をろうそくの火だけを頼りにお参りしたのでしょうね。 涼しくて、ところどころ水がヒタヒタと落ちていて、快適な地底探検でした。
2008年10月04日
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こんにちは。 今日は先日の結城ウォッチングの続きです。 さて、前回から変わった点。 それは、写真なのですね~。 ケータイ電話を機種変更したとき、よりカメラ機能の充実したケータイに買い換えたのです。 少しは違いがわかりますでしょうか。 前回の機種は、324万画素で、今回は515万画素。 パッと見はあまり変わらないかもしれませんが、撮影はこちらのほうが断然楽。 前はズームにするとぼやけるからかなり前進したり、大きすぎてカメラの枠に収まらないときは思いっきり後退したり、写真一枚撮影するのにも体力勝負でした。 今度の機種は、ズーム機能が充実しているからその場で、画像を大きくしたり小さくしたりできるのですね~。 より本式のデジカメに近づいたといいますか。 それから前のケータイのカメラは、暗い場所だったらまったく写らなかったけれど、今度のは、ナイトモードにすればそこそこ暗くても大丈夫。 もしかしたら、一日で五千歩くらいは減らすことができるかも。 カメラで太ったということにならないようにと願う今日この頃です。 それはともかく、お散歩ネタ。 前回は、親鸞聖人の奥様の墓をお参りしたところまででしたね。 玉日姫の墓から市内中心部に向かって歩き、結城小学校の手前を右折して細い道に入ってしばらく行くと、再び古いお墓がありました。 こちらは、源翁和尚の墓。 源翁和尚と聞いてもすぐにはピンと来ないかもしれませんが、大工さんが使う鉄製の大きな槌を俗に「ゲンノウ」と呼びますよね。 その呼び名は、源翁和尚の名に由来しているらしい。 それは殺生石の伝説によるのだそうですね。 何でも平安時代、鳥羽法皇の寵姫「玉藻の前」は、陰陽師の安部泰成によって白面金毛九尾の狐だと正体を見破られる。 この狐は、中国と日本の名だたる人物のもとにだけ出没する妖狐だったとか。 妖狐は、那須野に逃れてゆくが、そこで射殺されてしまう。しかし、その霊が石と化して大勢の人や動物を殺してしまい、死骸が山のようにできてしまったとのこと。 そこで朝廷では源翁和尚をつかわし、祈祷を行う。そのあと源翁和尚は手にした金槌で殺生石を砕き、九尾の狐もその妖力を失ったそうな。 そういえば、殺生石や九尾の狐を退治したお坊様のお話はどこかで聞いたことがありましたね。 アニメの「日本昔ばなし」だったかどうか忘れましたけど。 ゲンノウは、九尾の狐を退治した強力アイテムだったのですか。 そう言われてみると、このお墓もパワーというか、どこか力強さを感じます。 ところで、そんな偉いお坊様のお墓がどうして那須ではなく結城に?と思いました。 史実としての源翁和尚は、室町幕府が成立する直前に越後の国で生まれたらしい。 ネットで調べてみたら、生年月日がみんな違っているんですよ。 出家して北関東を中心に行脚。1371年、結城家8代城主直光が和尚を招いて、結城の安穏寺を禅宗(曹洞宗)の寺に改宗して、中興開山の人となったそうな。 九尾の狐の化身であった殺生石を退治したのが、1385年の8月で、翌年に後小松天皇より能昭禅師の号と結城山の勅額を賜ったのですね。 時期が特定できるということと、天皇から号もいただいているわけですから、殺生石にまつわる何らかのイベントはあったのだろうと思いました。 そのイベントの中身を考えるといろいろイメージが膨らみます。 その源翁和尚が中興開山したという安穏寺はお墓から歩いてすぐの場所にありました。 結城駅前通りを南下すると、結城の町の魅力のひとつである見世蔵が随所に見受けられます。 見世蔵は、江戸時代からの商店建築様式のひとつ。読んで字のごとく蔵であっても、倉庫ではなく店として利用されたとのこと。 観光案内所にもらったマップには、30軒くらいの見世蔵が紹介されていました。明治初期から大正期にかけて、結城ではこれらの蔵造りの建物が数多く建築されたらしい。 これらのほとんどは、今も店舗や住宅として利用されているのですか。 関東で蔵の町というと、まず川越、栃木、佐原などが浮かびます。関東ではないですが、喜多方も有名ですね。 それらの町の蔵は、観光資源として、別の用途に使われているケースが多いのですが、結城の蔵はほとんどが現役選手。 内部の見学ができない蔵がほとんどですが、今でも使われている蔵は、しっかり街並みの中に溶け込んでいました。 与謝蕪村の詩碑がある妙国寺、戊辰戦争の兵士が眠る光福寺などをめぐり、弘経寺へと向かいます。 さすがに歴史のある城下町だけあって、由緒ある寺院が多数並んでおりますな。 弘経寺は、1595年、結城秀康の長女松姫の菩提を弔うために創建された寺院だそうです。 当時は関が原の戦いの前で、徳川家康は256万石の関東の覇者の時代。次男の秀康は、結城10万石の城主だったのですね。 創建当時から一度も焼失していないということから、この本堂は当時のものでしょうか。 安土桃山時代の豪壮な建築様式は感じられるのですが。 このお寺には、当地に滞在した与謝蕪村の襖絵も残っているそうですね。 さすがに炎天下歩き回ったので疲れました。趣のあるしっとりとした境内で一休み。歴史のある寺院は、心にも涼風を送ってくれます。 弘経寺の境内から、レンガ造りの古い煙突が見えたので、疲れも忘れて正面にまわってみたのです。 おお、造り酒屋ですか。しかも安政蔵といって、江戸時代に造られた蔵が今も現役で活躍しているのがすごいっす。 観光施設ではないから中には入れないのですが、逆に蔵としてのリアリティを感じましたね。 蔵の中からちょんまげ姿の職人さんが現れても、全然違和感がない。 しばらく歩くと、また別の造り酒屋の建物が…。 こちらも江戸時代に建てられた蔵を店舗や醸造蔵として利用しているのですね。 お酒はあまり飲めないのですが、好きな人にはたまらないかも。 酒蔵から歩いてすぐのところにあるのが、考顕寺。 このお寺は、結城家15代政朝が開基し、結城秀康が再建。江戸時代末期の結城水野家の菩提所でもあったそうな。 結城秀康は、江戸幕府が成立後、越前に移り、越前松平家の祖となる人ですが、結城の町にこれだけ大きな足跡を残しているとは知りませんでした。 二代将軍秀忠のアニキですが、豊臣秀吉の養子になったりして、家康からは粗略に扱われたイメージなのですが。 考顕寺から道路を挟んだところにあるのが、称名寺。 このお寺は、結城家初代の朝光が親鸞の教えに帰依して、彼の高弟を招いて開基したそうですね。 境内には、結城朝光の墓がありました。 横にある解説板を読むと、この人はなんと、87歳まで生きたのですね。 鎌倉幕府の草創期から北条氏の台頭の時期、幕府の中枢にありながら天寿を全うできたのはすごいかも。 木曽義仲の追討から、平家とのファイナルマッチであった壇ノ浦の戦いにも参加。その後、戦勝報告のため東下した源義経を頼朝の使者として、「鎌倉入り不可」の口上を伝える。 奥州藤原氏との戦いにも参加し、その功により奥州白河三郡を与えられ、頼朝が死んだあとは、畠山重忠や梶原景時など多くの御家人が失脚したのですが、そのときも家を守りぬいたのはさすがです。 梶原景時は、以前大河ドラマで中尾彬が演じたように、濃いキャラクターというイメージ。 結城家初代の朝光は鎌倉幕府の御家人の中でも礼節を守る紳士として、人望を集めたそうですね。 親鸞に帰依したことからも解るとおり、信仰心も厚かったのでしょう。 北条政子に代表されるような北条氏の「出る釘は必ず打つ」鎌倉幕府の内紛の時代でも、引き続き厚遇されていたのは、その清廉な性格によるところも多かったのでしょうか。 気骨のあふれるエピソードも残っているそうですね。 パッと花火が咲くように一瞬輝いて、そのあとすぐ消えていく会社や経営者は少なくないですが、400年もこの地方に家を繁栄させ、今なお語り継がれる人物はあらためてすごいと思いました。 結城駅へと向かう大通り沿いに、市民から「金仏さん」と呼ばれる常光寺の阿弥陀如来像がありました。 確かに親近感のあふれるやさしい顔をした仏像ですね。 ここまで来れば、結城駅はすぐそこ。 再び、結城攻略の作戦本部である駅前の図書館に行き、疲れた体を休めるのでした。 暑い中、ほとんど休まず歩いたので、時刻はまだ午後3時。 立ち止まると汗が噴き出すので、海を回遊するマグロのごとくずっと歩き詰めだったのです。 「古寺めぐりコース」が終わったので、今度は「見世蔵めぐりコース」にチャレンジしようか、と…。 再び、炎天下図書館から出たオイラは、市内中心部を目指すのでした。 蔵造りの美しい街並みは、無理してでも行ってよかったと思います。 行った日は休みでしたが、つむぎの館は着物の好きな人にはたまらない魅力でしょうね。 また、結城の小学校は、堀や石垣に囲まれてお城のよう。 これなら不審者も、侵入が難しいかもしれませぬ。
2008年09月27日
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こんにちは。 いつもとイレギュラーの飛び石連休中日の更新です。 ここのところ、平日より休日が忙しい状況が続いているような。座談会やモニター、病気の講演会、いろいろな大学での有償ボランティア、治験などに参加したり…。 いろんな経験ができるから面白いし、副業で収入があるのもうれしい。 銀行で融資担当者だったとき痛感したのですが、収入は分散しているほうがリスクは低減できる。取引先がどんなに大きくて信用があっても、数社ではこのご時勢、何が起こるかわからないですからね。 できれば、収入が多業界にわたって分散していればベストかも。 いくら不況といっても、全業種、低空飛行を続けることはあまりないですから。 …と、さまざまな会社からアンケートのお礼に送られてくる500円の図書カードや1000円の商品券の枚数を、毎晩数えて喜んでおりまする。 銀行員当時習った扇のようにひらく数え方で…。 ただ、リスク分散を追及するあまり、時給いくらという発想がなおざりになっているのでした。空いた時間にやっているといっても、時給に換算すると500円をはるかに下回っているのではないか、と。 安定は維持しながら、もう少し効率よく稼いで、関東地方の名所旧跡だけじゃなく世界遺産を歩きたい。 ネット事業は確かに経費面などリスクが少ないので、何か自分ではじめたいなと考えている今日この頃です。 さて今回も、マンネリな近場のお散歩ネタ。 昔から歴史のある城下町をほっつき歩くのが好きなのですが、不幸なことに関東地方は行ったことのない場所がだんだん少なくなってきました。 ガイドブックを眺めても、比較的東京からの交通が便利なところはほとんど出かけたことがある。 しかし、歴史好き、城好きには、見逃してはならない町が抜け落ちていたのですね~。 それは、茨城県の結城市。 結城は立派な城下町なのですが、紬の生産地というイメージが強すぎて、オイラの中ではあまり目立たない存在だったのです。 でも結城といえば、戦国時代初頭?の結城合戦や豊臣秀吉の養子になっていた徳川家康の二男、秀康が跡を継いだ結城家で脚光を浴びた土地。 もちろん城跡もあるというし…。 …ということで、8月半ばの猛烈に暑い日、オイラはJR結城駅にやってきました。 駅はモダンな近代建築で、これまた駅前に東京ミッドタウンのファサードみたいなお洒落な建物がありました。 よく見ると、ガラス張りの図書館みたい。 図書館を見ると入りたくなるので、結城攻めの作戦会議にと一休み。広々としたロビーのテーブルでは、中学生や高校生が熱心に勉強しておりました。 こんな涼しい、広々として眺めのいい場所で勉強したら能率上がるかも。 彼らにエールを贈りつつ、熱風吹きすさぶ外へと再び突撃。 モワァァァァ~ うう、あ、暑い。死にそう。 あまりの暑さに、立ちくらみを起こしそうになり、近くの観光案内所へ緊急避難。 そこには、無料の市内観光マップがたくさん取り揃えてありました。これはラッキーと、何種類かもらい、再び図書館へと退却します。 こんなくそ暑い日に何時間も歩き回ったら、脱水症状を起してしまうっす。 市内の地図を見ながら、再度作戦を立て直しました。 冷房のある施設を拠点にして、面ではなく線で移動したらどうか。 まず目指すは、北東のショッピングセンターじゃ~! 突撃~!!!! 進軍ラッパとともに、203高地を目指す兵士のごとく目的地に向かって駆け出します。 駅前の大通りを走り交差点を渡り、右手に信用金庫の本店を見ながら走って、ショッピングセンターへ。 着くころには、体中の毛穴から汗が噴き出し、見るも無残な姿に。 気温36度、湿度80パーセントの中を5分以上全力で走ったのだから当然ですよね。 何で歩かず、走ったんだろうと考えても後の祭り。別に急ぐ旅ではないのでした。 頭がフリーズしていたとしか思えないっす。 ショッピングセンターでは、ペットボトル飲料をしこたま買い込んだのは言うまでもありませぬ。 ここまでは何とか来たけれど、ここから先は冷房が効いている施設はなさそう。 走って汗をかいたら体が軽くなったので、ここから先は水分補給しながらゆっくり歩いてゆくことにしました。 昔懐かしい麦わら帽子と、100円ショップで買った扇子がオイラの生命線です。 マップを見つつ住宅街を歩いてゆくと、最初の目的地、大輪寺がありました。 ここは、結城家代々の祈願所だったお寺だそうな。 結城家は、今の栃木県にあたる下野国南部の豪族小山政光の三男、結城朝光に始まるそうな。朝光の母は源頼朝の乳母だったため、鎌倉幕府との絆も強かったらしい。 それ以降、結城氏は約400年に渡ってこの地方を治めるのですね。 一口に400年と言っても、徳川家康が江戸幕府を開いて、平成の現代に至るまでの年数。 それだけ長い時代、この地方に君臨した家だけに、今なお市内に結城氏のいろんな遺跡やアイテムが残っていてもおかしくないわけですな。 結城家8代の直光が創建したという華蔵寺にお参りし、そのまま道なりに進むと、武家屋敷のような外観の中学校が…。 いいな~、歴史好きとしては、こんな素敵な中学校で学びたかったっす。どうせなら、水戸の弘道館や萩の明倫館みたいな藩校をイメージできるようにすればいいのに。 松下村塾だと個人経営の塾みたいになってしまいますが…。 直射日光をまともに受け、青々とどこまでも続く田んぼを見ながら歩きます。 日陰が恋しくなった頃、ようやく次の目的地、結城家御廟に到着。 ここは、結城家初代朝光から十六代政勝までの16基と、名前がわからない4基を合わせて、合計20基の五輪塔が並んでおりました。 解説板を読むと、この御廟が作られた経緯は、いくつかの説があるそうですね。 当然、十六代以降に作られたものでしょうけど、徳川家康の次男であった結城秀康とも関係があるみたい。 これを作った人は、どういう気持ちで作ったのだろうといろいろ想像すると、ロマンが膨らみます。 解説板によると、御廟の周囲は堀を構え、塚上に土を盛り、土塁をめぐらしてあるのですか。そして床面には大谷石を敷き詰め、塚全体に玉石を並べるなど、排水に細心の注意が払われているとのこと。 確かに、今でもその痕跡が随所に残っていましたね。当時、この御廟を作った人たちの息遣いが感じられるようでした。 そんなことを考えているうちにも、ギンギンギラギラの太陽は容赦なくオイラの体力を侵攻してゆきます。 汗をふきつつ、蝉しぐれの中、歩きだしました。 次はいよいよ、結城城址。 あまり大した城跡は残ってないとのことですが、隠された痕跡を探り出すのも城ウォッチングの醍醐味のひとつですからね。 …と、どこまでも広がる田んぼの遥か先、あれは土塁でしょうか。 広大な田んぼが当時、堀だとしたら、なかなかの要塞だったかも、と思いました。 城跡へ行く途中のこの起伏。 どう見ても、土塁のように見えるのですが、あとで調べてみると城内ではないとある…。 出城かな、それとも現代の宅地造成によるものかな、と暑さを忘れて考えながら歩きました。 最近、造成されたものだとしたら、よっぽど城好きな土木技術者ではないかな、と…。 結城城は城跡公園として、完璧に整備されすぎていました。 公園へ来るまで、明らかに空堀や土塁とわかる部分はありましたけど、ここまで整備しちゃうと当時の面影をイメージすることはできませぬ。 どこの城でも見かける当時の縄張り図も、結城城の場合、かなりアバウトですね。 実際は、南西面660メートル、北西面が300メートル。巨大な4つの曲輪は空堀で仕切られ、背後は高い崖に守られていたらしい。そして、城の周囲を川が巡る。 うぬぬ、イメージできませぬ。 戦国時代の山城ならともかく、1700年に水野勝長が、一万八千石で入部して再建され、明治に至るまで水野家の居城だった城なんですけどね。 実はこの城、1440年に足利幕府の大軍に囲まれながら、1年余りも篭城し続けた難攻不落の城でもあるらしい。 世に言う結城合戦で、関東公方足利持氏が将軍義教と争って滅ぶと結城家11代氏朝は持氏の遺児春王丸と案王丸を奉じて兵を挙げ、落城まで一年余りの歳月を費やしたそうな。 幕府の大軍を囲まれつつも、少ない兵力で篭城するあたり、楠木正成の千早城、赤坂城をイメージしてしまいました。 その辺りの面影が若干残っているのは、城跡公園近くの広い空堀ですかね。 篭城当時の空堀かどうかわかりませんけど…。 今回は行きませんでしたが、城跡公園の近くには、「紬の里」という藍染や機織りを短時間で体験できるスポットがあるそうですよ。 そこから5分ほど歩くと、玉日姫の墓がありました。 玉日姫は、関白・九條兼実の七女として誕生し、浄土真宗の開祖・親鸞聖人の妻だった人物。 親鸞聖人が流罪となったあと、結城で暮らし、聖人が京都へ戻った後も、この地で草庵を結び布教をして生涯を送られたそうな。 うちは一応浄土真宗ですし、祖父が子供の頃、お寺で修行したと聞いたことがあります。 先祖も浄土真宗のお寺の住職らしいのですけど、親鸞聖人の伝記については一度も読んだことがありませんでした。 その経緯はわかりませんが、流罪になったり、奥さんと別居されたり、波乱万丈の生涯を送られたのですね。 一度、伝記や弟子の唯円が書いたという有名な「歎異抄」についても読んでみたいと思いました。 詳しく勉強したことはないですけど、「悪人正機説」は、今の時代にあっても古くはないのではないか、と…。 ここから結城市街へ向かい、引き続き古寺や「見世蔵」と言われる蔵造りの街並みに出会うのですが、長くなりそうなのでそれはまた次回。 ところで、今日の記事から前回までとは変わった点があるのですが、それは気がつきましたか?
2008年09月22日
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こんにちは。 書店でウォーキングガイドブックを物色していて、優れものの本を見つけました。 それは、「東京の1万年を歩く」(東京古里会編著・学習研究社)という本。東京の1万年を歩く 東京が舞台になった事件や遺跡に焦点を絞った歴史探訪書というコンセプトなのだとか。 名所旧跡のコースマップや解説で埋められた本は数多ありますけど、当時の城の再現イラストや航空写真まであるのは珍しいっす。 表紙のイラストが、戦国時代に赤羽にあった稲付城の鳥瞰図ですからね。 稲付城ばかりではなく、戦国期の江戸城や八王子城の再現イラストもありました。 これは、もしかしてオイラのために書かれた本なのではないか、と…。 さっそく購入して、この本に載っているルートを歩いてみることにしたのです。 熟読してみて、切り口は斬新だと思いましたが、如何せん何十年も関東周辺を歩き回っているオイラ。 ほとんど行ったことがある場所ばかり。 それでも、点ではなく面で歩けばまだまだ面白そうな地域がありそう。 …ということで、今回は多摩川周辺にあるという城跡をめぐってみることにしました。 ガイドブックには小田急の向ヶ丘遊園駅スタートとなっていましたが、交通費をケチるため南武線の登戸から歩きます。 オイラが健脚になったのは、昔から交通費を浮かせようと思って歩いていたからかも。 行った日は、35度を超える猛暑日。 余計に歩いて汗が出た分、自販機でお茶のペットボトルや缶コーヒーを買ってしまったから、かえって損しているのでした。 コンビニやスーパーで涼んだり、買い物をしたり寄り道して、ようやく最初の目的地・長者穴古墓群に到着。 ここは、飯室山という小高い丘の麓に築かれた横穴墓群なのですな。7世紀中頃から後半にかけて築造されたらしい。 崖に横穴を掘っただけのシンプルな墓ですが、当時は奥行が5メートル、幅3メートルほどの規模があったのだとか。 そういえば以前ブログにも書きましたが、田園調布周辺には全長100メートルを超える前方後円墳もあるのでした。 このシンプルな墓のほうが、時代が新しいのですね。当時からエコの考え方があったのだろうかと考えたりして。 両側にポコポコ空いた小さな穴を見ながら、飯室山の頂上へ向かう階段を上ります。 標高はさほどないのですが、湿度がすごい。汗で前が見えないっす。 頂上に上り、尾根伝いに歩いてゆくと、冠木門が見えました。 ようやく枡形城の本丸ですか。 枡形山の山頂部は、東西130メートル、南北80メートルの平坦地となっているのでした。 一応、山城なのでしょうけど、戦国時代の城跡の本丸がこれだけの広さを持った平坦地というのは珍しいかも。 しかも、まわりは断崖絶壁。 当時は木が切り払われていたでしょうから、下から見上げると巨大な枡が屹立しているように見えたのでしょう。 戦国時代の枡形城を是非この目で見たかったっす。 山頂には立派な展望台が…。 この和風とも洋風ともつかぬ、微妙な外観が戸惑いを覚えます。 ちょっと寝殿造りっぽい部分もありますね。 ここまで立派な展望台を作るのだったら、いっそのこと天守閣に似せた外観にしたほうがインパクトあるのに…。 小田原城や江戸城の櫓形式に似せた外観に抵抗があるのなら、戦国時代の物見櫓風でもよかったですね。 以前もここに来たことがあるのですが、いつも誰も登っていないのが寂しい。 それはともかく、上るのはいいけど、せっかく収まったのにまた汗が噴き出しそう。 と思ったら、エレベーター完備なのでした。しかも、冷房つき。 極楽気分で展望台にあがると、多摩川方面の絶景を拝むことができました。 この枡形城は、鎌倉時代、源頼朝の妻北条政子の妹を妻に迎えた稲毛三郎重成によって築かれたらしい。 戦国時代の1504年には、北条早雲がここを本陣として今川氏親と共に上杉顕定と戦った記録が残っているそうですね。 北条早雲といえば、40歳過ぎてから一念発起し、関東の覇者となった後北条氏の創業者。 中高年の期待の星とも言える存在です。 北条早雲もこの景色を眺めたのでしょうかね。 枡形城の本丸から降りる急な階段に、「枡形」の名残を感じることができました。 しばらく行くと、広福寺の山門が現れます。 ここは、枡形城を築いた稲毛三郎重成の館跡とも言われているそうな。 行った日は、ちょうどお葬式の後片付けをしているところでした。 ここから子之神社までの約3.3キロは、さすがに堪えました。 炎天下、ほとんど日陰がない。二ヶ領用水の新川のほとりをトボトボ歩き、次に山下川の近くの住宅街では太陽が真上からオイラを直撃します。 地球温暖化によって、人類はホントに絶滅するのではないか、と心底思いましたね。 仕方なく、伝家の宝刀、雨用の折りたたみ傘をメリーポピンズのようにかざして歩き続けます。 ようやく、子之神社にたどり着くと、近くのお寺ではまたお葬式が行われているのでした。 参列する人たちは、黒い服を着て汗まみれで苦しそう。 こう暑いと、体力が弱っている人はつらいかも。亡くなられた方は、この猛暑が影響されたのでしょうか。 真夏の炎天下にウォーキングをするのは控えようかと思いました。 急な石段を上り、子之神社にお参りをします。 本殿は幕末に作られたそうですが、立派な装飾にしばし暑さを忘れて見とれました。 そこから境内に相撲の土俵がある薬師堂まで歩き、いよいよ後半の注目スポットである小沢城へと向かいます。 小沢城は、川崎市と東京稲城市との境にある丘陵上にあるのですね。 新旧三沢川の合流地点のそばにある登り口から城攻めを開始します。 炎天下、山道を登るのは辛いけれど、10年ほど前に行った八王子城に比べればさほどでもない。 八王子城へ行った日は、確か38度を超えていたような。あまりの難攻不落ぶりに死にそうになりましたっけ。 前回の豪雨と同じくらい辛かったことを思い出しつつ、小沢城の曲輪と思われる場所に到達。 物見台や空堀、古井戸の跡なども残っていて、なかなか見所多い城でした。 この城も、枡形城を築いたと言われる稲毛三郎重成と関係があるらしい。 そして戦国時代には、北条早雲の孫、北条氏康がこの城に入って戦った記録があるのだとか。 武田信玄や上杉謙信は戦国のスーパースターとして有名ですが、戦闘力だけではなく治世など総合力ではむしろ北条氏康のほうが上だという意見があるほどの名将。 当時はどんな城だったのかなと縄張りを考えていると、城跡に野球のアナウンスが響き渡りました。 すぐ隣は、よみうりランド、ジャイアンツ球場なのですね。どうやら、巨人の2軍の試合が行われているみたい。 次に向かったのは小沢城主が毎日お参りに通ったといわれる穴澤天神社。 穴というくらいですから、やっぱり穴が神社名の由来になっているらしい。 神社の北側の丘陵斜面に横穴があって、内部に石仏が安置されていたとのこと。 家に帰って調べてみたら、この穴の中に入れるみたい。 洞窟の長さは10メートルほどらしいのですが、この穴も横穴墓と関係あるのでしょうか。 入ればよかった~と悔やんだのですが、実はオイラはこのあと、もっとすごい穴に入ったのでした。 それは、ここから1.2キロほど歩いたところにある弁天洞窟。威光寺というお寺の境内の奥にある崖にあけられた穴なのですね。 ここには全長65メートル、広さにして200坪もある大洞窟があるのでした。 中は、電気がなくて、まさに暗黒の世界。 入るときは蝋燭を持って、そろりそろりと足元に気をつけながら進まねばなりませぬ。 もとは横穴式の古墳だったそうですが、明治時代に現在の形に掘り広げられたそうですね。 新東京百景に選ばれるくらい有名な場所らしいのですが、いつ来ても誰もいないような。 実は、ここへはもう4~5回も来ているのでした。 最初に行ったのは15年ほど前だったのですが、真っ暗だし、迷路みたいだし、中にヘビはいるし、で相当ビビッたのを覚えています。 これだけ怖い思いをしたのだから、もしかしてご利益があるかも、と洞窟の中にいる白い大蛇に願い事をしたのです。 もちろんモノホンの大蛇ではなく、石に彫られ着色されたものですが…。 明るいところで見たら、普通のオブジェでしょうけど、真っ暗闇の中で蝋燭の光にボォ~と照らし出されたヘビと目が合うとさすがに怖い。 神秘さも感じました。 そしたら、その後願いが叶ったのですね~。 それに味をしめて、何度か願い事があるときは訪れて一人で洞窟に入って願い事をするのでした。 願い事といっても、プロレスの世界チャンピオンになりたいとか、森高のサインが欲しいとかいう実現不可能な願いではなく、努力すればできるレベルですが…。 5年ぶりに洞窟に入ったのですが、慣れててもやっぱし怖いっす。 白い大蛇が動いたらどうしよう、とか。 蝋燭の光だけで、一人でこの中に10分間以上入っていたらどんな気分になるか。 どなたか、この暗黒の空間を体験された方がいらっしゃれば、是非感想を聞きたいと思いました。
2008年09月13日
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こんにちは。 平成15年8月のある日、神奈川県の相模川の河原にいたとき、集中豪雨の増水で危機的状況に陥ったオイラ。 前回はそこまで書いたのでしたね。 あのあと、もう少し記憶を呼び覚まそうと、当時持ち歩いていた手帳を出してみたんですよ。 ページを開くまでもなく、当時の惨状が手帳本体に現れていたのでした。 集中豪雨の水をたっぷり含んで、ゴワゴワになっている。今でもページを一枚ずつめくるのに苦労する状態。 水性インクで書かれた箇所はロールシャッハテストみたいな模様に。 革の財布も使い物にならなくなったし、ケータイも故障。カバンの中に入れてあった本も水を吸いまくって、見るも無残な姿になったのでした。 それ以後、ユニクロのバーゲンで買った100円のジップパースを、いまだに使わざるを得ない状況に追い込まれたのです。 ファストフードの割引券やポイントカードがたっぶり入るから気に入ってはいるのですが…。 手帳には、『神奈川相模川サンポ。超豪雨、全身ずぶ濡れ。一時間以上も木の下で酷い目にあった』というフレーズが書いてありました。 結局、一時間以上も、暴風雨の中にいたのですね~。 オイラがいた場所が中州みたいになって、川の水がどんどん増水してくる。 雨が防げる場所へ行くには、広い河原を延々と歩き、堤防を越えて、そこからまた住宅地まで土手の上を歩かないといけないのです。 来たときは、20分くらいかかったような。 豪雨の中を行こうかどうか迷っていると、上流からドドドドトドッと水が押し寄せてくる音が聞こえました。 ヤバ!!! そのときはさすがにあせって、土砂降りの中を強行突破することにしたのです。 しかし、川が増水して流れている箇所を通らねばなりませぬ。 深さがわからないから、杖になる太い枝を拾い、水深を測りながら前進しました。 これが正解だったみたい。 膝ぐらいの深さの濁流でしたが、急に深くなっている箇所が何箇所かあったのです。 そこで転倒していたら、最悪、流されていたかも。 転ばずに、何とか対岸まで到達。あとは泥田のようになった河原をひたすら堤防に向かって歩きました。 川の中では一度も転ばなかったのに、そこでは足をとられ、ヘッドスライディングみたいな豪快さで何度も転倒。 「七人の侍」の野武士との戦闘シーンみたいじゃ~と思いましたね。 派手な水しぶきをあげて転倒する迫力は、七人の侍のエキストラが務まるのではないか、と…。 泥まみれになりながらも何とか相模川の堤防をこえると、遊歩道沿いに大きな東屋を発見しました。 一時間以上も土砂降りの雨の中にいたから、屋根のある場所というだけで天国のように感じたのです。 うう、助かった~。 捕虜になって拷問をうけたあとのランボーみたいな姿で東屋に入ると、先客が7~8人もいる。 オイラと同じく、雨宿りっすか。 暗いし、雨が目に入って霞がかかったように見えるのですが、色の黒い屈強な若者たちの姿が…。 そこへ、ドッカァァァァァァァァァ~ンと稲光。 怖そうなお兄さんたちが眉をひそめて、オイラを見つめているのがわかりました。 横目で見ながら、囁きあっている。その言葉は、日本語じゃないし、どうやら英語でもなさそう。イランとか、中近東の人たちみたい。 外が土砂降りの東屋の狭い空間。何やら不穏な雰囲気。 逃げ場はどこにもない。 一難去ってまた一難か? そのとき、一人の若者が立ち上がってオイラに近づいてきました。手には傘がしっかりと握られている。 臨戦態勢で、身構えるオイラ。 すると彼は、傘を差し出しながら、「これ、あげる」と言ったのです。 え~? 傘をくれるの? 悪いからいいっすよ、と固辞するオイラに、「友達がたくさんいるから大丈夫」と傘を握らせてくれたのです。 他の若者たちも、笑顔で「どうぞ使ってください」と言っている。 わぉ、いい人たちじゃん!!! どこから見ても、それほどお金を持っていそうもない彼らだし、もらうのは申し訳ない。 それじゃ買いますよ、と言って千円札を取り出し、手渡そうとするオイラ。 びしょ濡れの千円札でしたが、いくら渡そうとしても、「いいですから」と受け取ってくれないのでした。 もしかして、日本人より親切なのではないか、と思いましたね。 困っている人、悲惨な人、ドツボにはまっている人を見て、手を差し伸べるのはできそうでなかなかできないこと。 子供時代からプロレスを見て、外人というと悪役レスラーの印象しかなかった自分が恥ずかしかったです。 それだけオイラの姿が哀れな状態だったのでしょう。 30分ほどして雨が上がり、今までの雷雨が信じられないほどの晴天に。泥まみれになったのですが、暴風雨の中を歩いて、洗濯機の中で攪拌されたような状態だったのか、思ったよりきれいになっていたのは驚きました。 今でも、その傘はうちの傘立てにあって、それを見るたびにやさしかった彼らのことを思い出します。 さて、ここからはお散歩ネタ。 こちらも、前回の続きなのでした。 法務省の法務史料展示室を見たあと、国会議事堂方面に向かいます。 福田首相は電撃退陣してしまいましたね。 安倍さんのときもそうでしたが、今回もあまりに唐突。 行った日は夏真っ盛りの頃でしたけど、こんなことになるとは思ってもみませんでした。 国民はもう慣れっこになったのか、安倍さんのときほど非難の声が聴かれないのも哀しい。 裁判所合同庁舎を左手に見ながら歩き、外務省と財務省を隔てる潮見坂を上ると国会前庭の和式庭園。 ここまで来ると、国会議事堂が正面に見えます。 現在の建物は、昭和11年に帝国議会議事堂として建設されたらしい。正面に向かって左側が衆議院、右側が参議院なのですか。 中央塔の高さは、65.45mで、昔はかなり高いというイメージでしたけど、東京にビルがどんどん建つご時勢ではその高さに触れる人はいなくなってしまったような。 国会議員の後援会の人たちを乗せたバスが何台も道に止まっていました。 国会の前を過ぎ、洋式庭園の先にあるのが、憲政記念館。 ここは、昭和45年に、我が国の議会開設80周年を記念して建てられたらしい。 江戸時代、この場所は彦根藩井伊家の上屋敷があったそうで、大老・井伊直弼もここに住んでいたそうですね。 中には、国会の組織や運営などの資料が多数展示してありました。 固いイメージですが、映像資料やシアター、立体ビジョンコーナーもあって、飽きずに眺めることができました。 オイラが興味深かったのが、議場体験コーナー。 テレビの国会中継でよく見る議員の机と椅子が並んでいて、プチ議員体験が味わえるのですね~。 ここにある議員の椅子は、原寸大ですかね。 だとしたら、あまりにも狭いっす。リクライニングじゃないし、結構硬い。 長時間座ったら、腰が痛くなりそう。 ちょっとした映画館の椅子のほうが遥かに快適ですな。 こんな椅子に座りたくて、皆必死に選挙を戦うのだろうかと思いました。 憲政記念館を出て、国会図書館の前を通り、赤坂へと向かいます。 赤坂見附の近くにあるのが弁慶堀。 桜の時期にはよくテレビで紹介されていますが、都心のボート乗り場としても有名ですね。 行った日は、さすがに暑くてボートに乗っているのはおっさんが一人だけ。 ここは釣堀でもあるらしくて、上から見ていたら大きな魚を釣り上げていました。 上を見ると、赤坂プリンスホテルとホテルニューオータニ。 日本一贅沢な釣堀かも。 外堀通りを少し行くと、左手の丘は日枝神社。 赤い鳥居のトンネルを歩いて本殿に参拝します。 ここは江戸城の鎮守として歴代の将軍から崇拝されていたらしい。 宝物殿には、将軍から奉納された国宝、重要文化財の太刀が展示されていました。ちなみにここも無料ですよ。 赤坂通りを歩き、今注目のスポット「赤坂サカス」へ。 それにしても、「赤坂サカス」なんて珍しいネーミング。 ここに来るまで少し迷ったので、「赤坂探す」がその由来かと思いましたが、やっぱし違ったのでした。 調べてみると、赤坂サカスの『サカス』は、桜を咲かすという意味であると同時に、赤坂にたくさんある坂=坂s=『サカス』の意味もあるのだとか。 ふーん、なるへそ、セレブの人たちの考えることは違うニャ。 TBSテレビの本社ビルとリニューアルオープンした赤坂BLITZタワーと赤坂ACTシアターで作った「街」なのですな。 高層ビルとお洒落なテナントのコラボは、六本木ヒルズや東京ミッドタウンで免疫ができていたので、度肝を抜かれるという事態は避けることができました。 テレビやマスコミの加熱ぶりが先行しているという感じはありましたね。 …と、そこにあるコンビニしか利用しなかったオイラが向かったのは、乃木神社。 ここはかつて、乃木大将の屋敷があった場所てすな。 今も残っている建物はログハウス風で、乃木大将がドイツ留学中見たフランスの連帯本部兵舎を自ら模して設計したらしい。 地下、地上2階建てで、それほど大きくなく、質素といっていいかも。 ここは、大正元年、明治天皇に殉じて乃木将軍夫妻が自刃した場所でもあるのですね。 窓越しに自刃した部屋が見えるのですが、夕方になってしまったので乃木邸の敷地に入ることはできませんでした。 何度も訪れたことがあるので、乃木神社に参拝してから、青山墓地へ向かいます。 久しぶりにオイラの家の墓にお参りしたあと、六本木ヒルズへ行ってみることにしました。 一流IT企業の代名詞ともなっていた六本木ヒルズですが、江戸時代は長府毛利家の上屋敷だったらしい。 赤穂浪士の武林唯七ら7人が切腹した場所でもあったのですね。 なんと、先ほど旧宅へ行った乃木希典もここで生まれているのだとか。 六本木ヒルズの庭はかつて大名庭園だったのですね。 六本木ヒルズの森タワーも、威厳を持ってオイラを見下ろすのでした。
2008年09月06日
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こんにちは。 昨日とおとといの豪雨はすごかったですね。今日も、再び雷雨の恐れがあるのだとか。 オイラの家の近所は、今のところ大丈夫みたいですが、テレビでは凍りつくような映像をいくつも目にしました。被害に遭われた方には、心よりお見舞い申し上げます。 豪雨というと、忘れられない思い出があるんですよ。 忘れもしない平成15年8月のある日、オイラは例によってウォーキングをしていたのです。 歩いたのは神奈川県の相模川の河原。日差しの強い、蒸し蒸しする日でしたね。 あまりの暑さに、休もうと腰をおろしたとき、俄かに空が暗くなってきました。 ?? と、上を見上げたとたん、突然、ザーッとものすごい量の雨が…。 ぎゃぁぁぁぁぁ~と、近くの木陰に逃げ込みます。 通り雨かニャー。 ま、こんなことはよくあることだし、朝の天気予報では一日中晴れだと言っていました。少し雨宿りすれば、すぐ止むだろうと思ったのですね~。 でも、10分たっても、20分たっても、全然止まない。 ますます空が暗くなってきて、止む気配すらない。 木陰といっても、河原にあるひょろりとした木で、葉っぱもあまりない。 一日晴れだと聞いていたので、雨傘を持ってない。 当然の結果として、ずぶ濡れになってしまいました。 ちょっと雨に濡れたというレベルではなく、服を着たまま泳いだあと、プールサイドに上がったというレベルまで…。 そこにヘッドライトをつけた大型の四駆車が通りかかります。 ひぃぃぃぃぃ~助けちくりぃぃぃぃぃ~ 木陰から飛び出そうとするオイラが見えたのか、見えなかったのか、急にスピードをあげて走り去ってしまいました。 それだけならまだしも、派手に跳ね上げた泥のシャワーがまともにオイラの頭上から降り注ぎます。 泥だらけとなって、二目とは見られぬ姿に。 車の中にいたのは若いカップルでしたが、濡れネズミの哀れな中年を見捨てるなんて、ひどい…。 もっとも、逆の立場で、オイラが濡れネズミのこ汚い中年男を乗せたかといえば、首を縦に振る自信はありませんが…。 それより、あの二人の恐怖の表情は、オイラが豪雨の中からさまよい現れたゾンビに見えたのかもしれないと思いました。 その後も引き続き、木陰で豪雨の中、ガタガタ震えながら立ちすくむ現状に変化はなし。 びしょ濡れの状態から、泥まみれのびしょ濡れの状態に悪化しただけ。 豪雨は、30分たっても、40分たっても、全然止まない。 暗いし、豪雨で周囲にかすみがかかって、視野がきかない。 雨が目に入ってよく見えないのですが、目を凝らすと周囲の景色が一変しているのです。 水溜りではなく、周りが沼地と化しているといいますか。 いや、沼地ではなく、泥水が流れている。 …ということは、川が広がっている? 川からかなり離れていると思っていたのですが、集中豪雨で急に水かさが増えたのでしょうね。 川の中州に取り残された人がヘリコプターで救助されるシーンをよく見ますが、まさか自分がニュース映像に登場するのだろうかと嫌な予感。 ホントに川の増水は怖いですね。 常識でははかれない部分があって、慎重に早めの対応をすべきだと見に染みてわかった次第です。 オイラは迫りくる危機からどう脱出したのか、感動のラストは次回に。 ということで、ここからはいつものお散歩ネタ。 今回行ったのは、東京のド真ん中、霞ヶ関の官庁街から赤坂、六本木へと巡るコースです。 もちろん、東京に長く暮らしているオイラですから何度も来たことがありますが、個人的には抵抗感のある場所。 財務省や外務省の厳しい建物が、一般庶民を見下ろしている。 道でお役人様と目が合うと、ひぃぃぃぃぃぃ~、今年は不作で年貢の取立ては勘弁してくだせぇ~と涙目で訴えたくなる。 別に刑法に触れることはやっていませんけど、法務省や警視庁の近くへ行くと血圧が20くらい上がりそう。 でも、TBSテレビではさかんに赤坂サカスを宣伝しているし、青山墓地へお墓参りもしておきたいし、せっかく行くのなら…ということで、食わず嫌いの場所、霞ヶ関へ足を踏み入れることにしました。 行ってみてわかったのですが、優れものの無料スポットも結構ありましたよ。 …ということで、新橋駅で降りて、まず霞ヶ関への玄関口、日比谷公園へ向かいます。 日比谷公園は、日本初の「洋風近代式公園」と言われる場所。 元は松平肥前守などの武家屋敷地で、明治時代に陸軍練兵場となり、そのあと都市公園になったのですね。 新橋方面から行くと、まず見えるのが古い煉瓦の建物。 これは、日比谷公会堂。 1929年に市政会館およびそれに併設する公会堂として建てられたらしい。 歴史の教科書にも登場する旧社会党の浅沼稲次郎暗殺事件は、ここで1960年に起こったのですか。 そんな大事件があったとは思えないほど、緑に囲まれてゆったりと佇んでいるのでした。 日比谷公園のもう一つの有名な建築物は、俗に「野音」と呼ばれる野外音楽堂。 客席数は椅子席2,664で、立見席も450あるのだとか。 そういえば昔、デビューしたばかりの荻○目洋子ちゃんのコンサートに行ったのでした。 当時、仕事の関係で、彼女のご家族と知り合ってコンサートのチケットをもらったのです。 当日は、生憎の雨でしたが、多くのファンが集まって、ずぶ濡れで熱唱する洋子ちゃんの姿が印象的でした。 絶対有名になるなと思ったら、やっぱりそのあと大ブレイクしましたね。 お姉さんの慶○さんは今でも実力派俳優で、頑張っているし…。 それにしても、当時実家へお伺いすると、必ず頭に猫を載せてお母様が出てこられたのが今でも不思議な光景として記憶に残っています。 でも、庶民的なやさしい人でしたよ。 そんな懐かしい思い出にひたって園内を歩きます。 都会の中心の公園なのに、トトロの森みたいな巨木が至るところにある。 日比谷公園といえば、やはりこの噴水は見逃すわけにはまいりませぬ。 この日本庭園のあった場所は、江戸時代は堀だったとか。 日比谷公園の隣は道路一本隔てて、江戸城もとい皇居ですからね。 日比谷公園を出ると、いよいよ禁断の官庁街。 この赤レンガの建物は、法務省。 さすが日本の司法の殿堂としての威厳が感じられました。 この建物は司法省の庁舎として、明治28年に竣工。関東大震災に耐えたものの、昭和20年の戦災により、レンガの壁と床を残して焼失してしまったとか。 その後改修して法務省の庁舎として利用し、平成6年に創建当時の姿に復元されたのですな。 そういえば東京駅も、現在、創建当時の姿に復元する工事が行われているみたい。 それにしても近くで改めて見ると、明治の人たちの法律に対する意気込みが伝わってきます。国の重要文化財っすか。 外から眺めるだけの予定でしたが、「法務史料展示室 メッセージギャラリー」の看板があって、一般の人も見学できるみたい。 威厳のある外観に押しつぶされそうになりましたけど、中を見たいという好奇心に抗えず、行ってみることにしました。 門で警備の人に見学希望と伝えると、意外と丁寧に案内してくれました。 手荷物検査はもちろん、氏名・住所・電話番号・なぜ見学したいのか、その動機くらいは聞かれるかと身構えたのですが、どうぞ、どうぞと愛想よく…。 さすがに、見学コースは制限されていましたが、高い天井や重厚な雰囲気を肌で感じることができました。 法務史料展示室は、旧司法大臣官舎大食堂を復元した豪華な部屋。 明治時代に法典の編纂事業にまつわる史料や当時の有名な事件史料などが展示してありました。 メッセージギャラリーでは、まもなく始まる裁判員制度についてのパネル展示やビデオなども見ることができるのですね。 オイラも裁判員として、法廷に参加する機会もあるのでしょうか。 現代の刑法より江戸時代の刑法に詳しいオイラとしては、「百叩き」や「遠島」、「江戸ところ払い」を強行に主張しそう。 この前のような通り魔事件だったら、誠に恐れ入りますが、「さらし首」を主張して、逆に裁判を冒涜していると小伝馬町の牢屋敷に入れられてしまうかもしれませぬ。 いろいろ想像していたら背筋が寒くなってきたので、早々に退散することにしました。 これから国会議事堂や憲政記念館を見て、赤坂へ向かうのですが、こちらもまた長くなりそうなので次回に。
2008年08月30日
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こんにちは。 今日は前回の続きです。平成の品川を味わった後、江戸時代を髣髴とさせる宿場町・品川を歩きました。 その前に、平成の品川をもう少し引きずります。 天王洲アイルのそばにある公園が美しく生まれ変わっておりました。 前回来たときは、古いグランドがあっただけと記憶しているのですが、野球場がリニューアルされ、新設して広い公園が整備されている。 おお、変わったじゃ~ん、とフラフラと無意識に足が向かいます。 綺麗なアーチ型の橋は最近完成したのでしょうか。歩行者専用の橋としては、かなりゴージャスで、水辺の景色と見事にマッチしていますね。 当初のウォーキングコースから外れるのですが、オプショナルツアーで橋を渡り対岸の公園へ渡りました。 それほど広くはないけれど、緑に囲まれた運河を見渡すことができて、なかなかの眺め。 公園の一画に、窓のない巨大なビルがあって、「屋上庭園」というプレートが目につきました。 そういえば先日、NHKの朝のニュースで、屋上を緑化したビルがあるというレポートを見た記憶がありましたっけ。 確か、天王洲アイルの近くって言っていたような。 屋上に上ってみると、美しい花が咲き乱れる庭園がありました。 近くに高層ビル、遠くにはレインボーブリッジがかすんで見えます。 世界七不思議のひとつ、バビロンの「空中庭園」はこんな感じだったのだろうかとイメージは膨らみます。 屋上からの眺めも素晴らしい。 平成の品川の景観を堪能したあと、いよいよ江戸時代の品川宿へと向かいます。 高浜運河を渡り、旧海岸通りを都心方面に少し戻って左折すると、台場小学校。 台場小学校というくらいだからお台場と関係があるのかと思ったら、小学校の敷地は、江戸時代末期に作られた台場の跡らしい。 正式には、御殿山下砲台跡という解説板と、当時の石垣が残されていました。 そのあとに作られた灯台の模型もあって、当時は海岸線がこの近くまで来ていたことがわかります。 近くの利田神社には、江戸時代にこの近くに迷い込んだ鯨を供養した鯨塚がありました。 八ツ山通りに出て、山手通りの交差点を右折すると、聖蹟公園。 明治天皇が東海道を行幸のとき、行在所になった場所ということで「聖蹟」の名がついたのですな。 普通のどこにでもある児童公園みたいでいが、江戸時代ここは品川宿の本陣の跡らしい。 別の出口から公園を出ると、目の前は旧東海道。 今は北品川商店街になっていますが、通り沿いにそれほど高いビルはないので、江戸時代の宿場町の風景がなんとなくイメージできました。 旧東海道を歩く前に、オイラが向かったのは、荏原神社。 古木にいだかれ、目黒川のほとりにある赤い鎮守橋とあいまって、歴史を感じさせますね。 社殿の彫刻が見事で、さすが品川の総鎮守だと思いました。 荏原神社にしっかりお参りしたあと、旧東海道を日本橋方面に向けて歩きます。 「東海道品川宿」の幟が道の両側にないと、普通の商店街と見た目は変わらないのですが、道の奥には古いお寺が並んでいるのは道の歴史を感じました。 一心寺、養願寺、法禅寺、養福寺…。 それぞれ個性があって、由緒正しそう。 東海道をテクテク歩き、京浜急行の北品川駅近くの京急線の踏切を渡ると、車がびゅんびゅん行きかう第一京浜国道。 国道の向かい側に、茶色のシックな外壁のビルがありました。 ここは、あの広末様の母校、品川女子学院なのですね~。 一時期、テレビや写真週刊誌に登場した、広末様が着る高校の制服が有名になりましたっけ。 オイラの年代だったら、桜田淳子様やスケート選手の八木沼純子様のほうが、印象が強いですが…。 それはともかく、国道を川崎方面に歩くと、右手に巨大な鳥居と丘が見えてきました。 ここは、品川神社。 目黒川を挟んで北品川と南品川に分かけられるそうなんですよ。 そして、北の天王社が品川神社、南の天王社が先ほど行った荏原神社になるのだとか。 もっとも今、荏原神社は目黒川の北にあるのですけど、昔は目黒川が北側を流れていたらしい。 この神社の見所は、立派な鳥居や包丁塚などの石碑、板垣退助の墓、荘厳な境内などいろいろありますが、なんと言っても正面左手の巨大な丘ですね。 この巨大な丘は、富士塚という人工物。 江戸時代、江戸庶民の間に富士山信仰が爆発的に広がったそうなんですよ。だけど、モノホンの富士山に登るのは、当時は大変だった。 今も、でしょうけど…。 そこで、身近な場所にミニ富士山を築造して、誰でも富士参拝が出来るようにしたのですね。 関東の富士塚をいろいろ眺めているオイラですが、こちらの富士塚はトップクラスの規模を誇りますな。 品川富士とも呼ばれ、小学生時代社会科見学でここを訪れたときは、品川でもっとも高い場所と聞いたことがあります。 さっそく小学校以来の品川富士登山をしてみることにしました。 モノホンの富士山に登ったことはないけれど、岩場があって道が細くて急で、なかなか険しい。テレビや本で見た富士登山もこんな感じでしょうか。 なんとか遭難せず頂上に到着。 隣にビルはあるし、目の前には京浜急行の高架、それに国道の車の騒音もあるけれど、まあまあの眺めでした。 作られたときは、目の前に海が広がって雄大な景色だったのでしょうね。 急な岩場を再び降り、山手通りを進みます。 沢庵和尚で有名な東海寺を左手に見ながら進むと、恐竜の遊具のある子供の森公園がありました。 肉食恐竜が、前傾姿勢をとらないで、ゴジラ歩きをしているので、遊具が作られた時期がわかりますね。 山手線や京浜東北、東海道線などが走るJRのガードをくぐり、線路際を進むと東海寺の墓地がありました。 そこにあるのは、沢庵和尚の墓。 大きな漬物石のような自然石が置かれているのは、さすが沢庵漬け考案したと伝えられている人ならではのパフォーマンスでしょうか。 オイラだったら、自分が漬けられているような気分になるかも。 近くには、歴史の教科書で有名な賀茂真淵の墓もありました。 それにしてもこの墓地。 右も左もJRの線路に挟まれているんですよ。ひっきりなしに電車が走って、お墓の中の方たちは安らかに眠れるのだろうかと少し心配になりました。 もっとも鉄道ヲタクだったら、こんな一等地のお墓はないのでしょうけど。 …と思ったら、鉄道の父といわれた井上勝の墓があるのは納得。 日本の鉄道の父にとって、鉄道の行く末を見守るには最高のロケーションでしょうね。 そこから再び旧東海道に向かう道すがら、清光院というお寺がありました。 ちょっと立ち寄ってみたのですが、奥に立派な大名墓地があって驚きました。 江戸幕府の譜代大名奥平家の墓なのですか。 10万石規模の大名家の墓はさすがにすごい迫力っす。 第一京浜国道を渡り、今度は川崎方面に向かって旧東海道を歩きます。 朝から歩き続けているので、すでに3万歩を突破し、少し疲れが…。 江戸時代の旅人だったら、当時の歩いた距離から換算して、この程度は楽勝で歩いていたのでしょうね。 しかも毎日歩き続けるのだからすごいっす。 オイラも負けじと、ひたすら東海道を南下しました。 道に左手には、やはりいくつも由緒のありそうな寺が並んでいます。 京浜急行の青物横丁駅のそばまで来て、新しくできたマンションの前に解説板があって、何気に眺めたんですよ。 「幕府御用宿 釜屋跡?」 それはともかく、あの新選組副長土方歳三様のお写真が…。 解説板をよく読むと、慶応3年には幕末動乱の世相を反映して、連日のように幕府関係者が休んだり宿泊したりした記録が残っているそうですね。 それで、歳さんも新選組の隊士を連れて釜屋を利用したのですか。 しかも、慶応3年10月21日という日付までわかっているのだからすごい。 翌年には、鳥羽伏見の戦いに敗れた新選組隊士たちは、1月15日に品川に上陸し、しばらくここに滞在したらしい。 今は瀟洒なマンションに変わっていますが、当時はどんな気持ちで歳さんがここを訪れたのだろうと思いました。 釜屋跡の目の前にあるのが、品川寺。 品川でもっとも古い寺で、開創がなんと大同年間(806年~810年)とか。 入り口近くにある巨大な地蔵菩薩の座像が目を引きます。 これは江戸六地蔵のひとつで、座高が2メートル75センチもあるらしい。 東海道を歩いてきた土方歳三様もきっとこの地蔵菩薩に目を留めたのでしょうね。 境内にある樹齢600年のイチョウの古木も目にしたかも。 風雲急を告げる世相でしたから、歳さんは、きっとイケメンの顔をきりっと引き締めて日本の将来を憂いつつ、見上げたのでしょう。 大きいっすね~とただアホ面で見上げるオイラとの差を歴然と感じる今日この頃でした。
2008年08月23日
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こんにちは。 お盆休み、皆さまはいかがお過ごしですか? オイラはこの炎天下、相も変わらず、体力の限界まで歩き続けております。おとといなんか、家に戻ると黒のポロシャツが汗の塩で白くまだら模様に…。 北島康介選手の活躍に影響されて、ロンドン五輪を目指しているわけではないですよ。 毎年、一番過酷な環境になると、外を3万歩以上歩きたくなるといいますか…。 自虐趣味と言われれば返す言葉はありませんが、これを乗り越えると後が楽。 少々暑くてもクーラーなしで眠れるし、炎天下歩いても、それほどダメージは受けない。 でも、こんな夏の過ごし方をしていら、将来行き倒れになってやばいかも、と考える今日この頃です。 それはともかく、今日のお散歩ネタは、オイラの家から近くて遠い場所、品川っす。 お盆休みより、かなり前に行った場所ですので念のため。 地図上の直線距離はわりと近めなのですが、電車に乗ると乗換えなどで、ぐるっと大回りして20分くらいかかる。 20分なんて近いじゃん、と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、品川から東海道線や京浜急行の快特に乗れば横浜まで17分ですよ。 同じ城南地区なのに、時間的には神奈川県のほうが近いのですな。 品川に住んでいるといっても、渋谷や新宿へ行くほうが多かったりして…。 でも、新幹線の駅もできてから急速に発展しつつあるという噂を耳にしました。そこで久しぶりに、品川駅周辺を訪ねてみようか、と…。 新幹線品川駅開業は2003年10月で、5年近く前なのですが。 ところで品川というと、オイラの中では二つの顔がありまする。 まずは、品川インターシティや天王洲アイルの高層建築に代表される未来都市のような景観。 そしてご存知、旧東海道最初の宿場町品川宿の歴史的な景観。 平成と江戸時代の景観の違いがこんなに感じられる場所はあまりないかも。一日で時代を遡れるのが品川ウォーキングの魅力ではないかと感じました。 …ということで、まずは平成の品川から歩いてみることに。 品川駅には、高輪口と港南口という二つの出口があります。高輪口にはプリンスホテルやパシフィックホテル、京急ウィングなどがあって昔から活況を呈しておりますな。 それに対して港南口は、駅前に商店はあったものの、かつては倉庫街への入り口みたいな印象でした。 それが最近では変貌を遂げて未来都市のような景観に変わりつつあるとか。 その中心となるのが、品川インターシティ。 レストランや専門店、コンビニエンスストアはもちろん、クリニック、郵便局、多目的ホールやギャラリーなどの幅広い施設で構成されているらしい。 駅から屋根付の連絡橋、レインボーロードで緑豊かなオープンスペースを眺めながら行けるのも魅力ですね。 インターシティへ来たのは確か三度目ですけど、まわりの景観が様変わりしておりました。 インターシティに隣接して、品川グランドコモンズという高層ビルが建ち、その間に広々とした緑の空間が…。 テラスから眺めると、深い森から高層ビルがにょっきり建っているみたい。 下へ降りてみると、木々の間にベンチが置かれていて、仕事に疲れた頭をクールダウンするにはもってこいの雰囲気。 オープンテラスの喫茶店で、ゆっくり休んで行きたいところですが、今日は見所満載で強行軍となりそうなので、そのまま前進します。 旧海岸通りを越え、御楯橋をわたると、橋のたもとにあるのが港南公園。川に見えますが、運河なのですか。 川岸には高浜運河遊歩道が続いておりました。遊歩道をどこまでも歩いてゆきたい衝動にかられましたが、その前に行くべき場所があったのでした。 それは東京海洋大学のキャンパス。 旧東京水産大学で、恐れ賢くも国立大学っすよ。 最近は、国立大学法人というらしいですが、その違いがわかりませぬ。 江東区にキャンバスのある東京商船大学と合併して、東京海洋大学に生まれ変わったのですね~。 実は、10年ほど前、東京水産大学時代に訪れて印象に残っている場所があるのでした。 それは、キャンパスの中にある「水産資料館」。 あるガイドブックに、無料で見学できると書いてあったのですが、行ったら誰も受付にいない。 受付のノートに名前を書いて2階に上がったのですが、電気が消えていて真っ暗。 仕方ないので、自分でスイッチを探して電気をつけたとたん、 ひぃぃぃぃぃぃぃぃ~と叫びそうになりました。 目の前に、イグアナや鮫の剥製がいきなり現れたのです。 シーンと静まり返った、だだっ広い展示室にオイラ一人。 海鳥や巨大なカニが今にも動きそうで、背筋が寒くなりましたね。 真夜中に学校の理科室を訪れて、懐中電灯で人体標本を照らしたような感覚でしょうか。 お化け屋敷感覚をもう一度体験してみようと訪れることにしたのです。 水産資料館の前にあるのが、「鯨ギャラリー」。 セミクジラの全身骨格が展示してあるのですね。 前回来たときもありましたが、倉庫の中に保管してあるといった感じでした。 それが「ギャラリー」に改修されてからは、博物館みたいに上からも眺められるテラスが設置してあります。 それにしてもさすがに鯨は大きいですな。同じ地球上に暮らす生き物だとは思えませぬ。 写真を撮っても、全身が収まらないっす。 体長は約17メートル。完全な骨格標本としては、世界最大級らしい。 この大きさなら、ピノキオを作ったおじいさんでも腹の中で暮らせるかも。 面白い頭蓋骨の形だと思いましたけど、興味深かったのはちゃんと骨盤があること。 もちろん退化して骨盤骨の痕跡になっているのですが、それでもカバンくらいの大きさがある。 やっぱし、オイラと同じ哺乳類なのですな、鯨は。 鯨の骨の大きさを堪能したあとはいよいよ水産資料館へ。 今回は、ちゃんと受付に係の人がいました。そしたらなんと、マンツーマンで館内を解説していただけるのだとか。 さすが国立大学法人だと感動しましたね。 一階は、水産講習所から東京水産大学、そして現在の東京海洋大学の実習で使っている練習船の模型が展示してありました。 そして2階へ。 前回来たときよりかなり整備されていて、お化け屋敷的な魅力は薄れた反面、博物学的な見所はいろいろありました。 ガラパゴスの生き物の標本は、現在では作れない貴重なもの。 昭和30年代の調査だから可能だったみたい。 それから、鯨の胎児の標本も当時だからできたのでしょうね。胎児はやはり哺乳類だと実感できました。 世界中の貝の標本は、好きな人なら一日いても飽きないくらいの量。 オイラは、アワビの真珠のミステリアスな輝きに魅了されました。 昔、捕鯨の実習で利用した銛も展示してありましたが、かなり重そう。 これを鯨めがけて投げたのですか。 かなりの体力が必要みたいで、当時は理系というより体育会系の学校だったのかなと思いました。 あと定置網やさまざまな漁具など漁業部門の展示も興味深かったです。知らないことばかりでまさに目からウロコ状態っす。 30分の予定が、1時間も解説を聞くことができ、しかも無料。 知る人ぞ知る博物館ですが、お得感満載ですよ。 興味ある方はこちらをご覧ください。 一生懸命開設してくれた係員の人にお礼を言って資料館を出ました。そして広いキャンパスをぶらぶら。 するとキャンバスの一角に、古い船を見つけました。 おお、これはさきほど説明のあった「雲鷹丸」っすか。 明治から昭和の初期にかけて、水産講習所の研究練習船として活躍したのですな。 長さ約41メートル、幅の約8.5メートル。444トンなのですか。 主にカムチャッカ漁場の開拓と蟹工船事業の開発に活躍したそうな。 蟹工船と聞いて、ベストセラーになっている小林多喜二の「蟹工船」をイメージしました。 さきほどの解説で、この船の中でカニの缶詰作業も行っていたという話を思い出しました。 これが蟹工船なのですか。 真っ白いペンキが塗られているので、労働作業の過酷さよりもお洒落なクルーズ航海というイメージですが。 もっとも練習船なので、過酷な労働環境ではなかったのでした。 キャンパスを歩いていると、水産大学時代より女子学生が多くなっていることに気づきました。 なんでも、東京海洋大学へネーミングが変わってから、女子学生が増えたらしい。 やはり「水産」より「海洋」のほうがお洒落で明るいイメージはありますね。 また今度訪れるときは、どんなふうに変わっているのだろうと思いつつ、東京海洋大学をあとにしました。 再び港南公園に戻り、運河沿いの遊歩道を歩きます。 倉庫を改造したオープンテラスのレストラン、レトロな鉄橋も高層ビルに囲まれると逆にハイカラに見えたりします。 そして次の目的に、天王洲アイルに到着。 東京海洋大学で長居したので、空腹感が絶頂に。 多目的スペースの「シーフォートスクウェア」の文字が、目がかすんで「シーフードスクウェア」に見えました。 パンとコーヒーで簡単に昼食をすませ、ほっと一息。 天王洲アイルの京浜運河沿いには、ボードウォークが作られ、水辺の景観が楽しめます。 ここから江戸時代の品川宿を目指すのですが、長くなりましたのでまた次回。
2008年08月16日
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こんにちは。 ずっと発表を引っ張り続けていたら、とうとう北京オリンピックが開幕してしまいました。 ゆっくりテレビ観戦をするためにも、「私が、読んで面白かった小説大賞」のグランプリを発表しなければと考える今日この頃。 私が2007年下半期~2008年上半期の間に読んだノミネート作品は全部で50冊。 それはこちら。 その中で、ベスト5のうち、3~5位は以下のように決定したのでした。第五位 菜の花の沖 司馬遼太郎第四位 信長の棺 加藤廣第三位 容疑者Xの献身 東野圭吾 さて今日は、第二位からの発表です。 それでは…。第二位 天下城 佐々木譲天下城(上巻) 図書館ではじめて目にした本。オイラの場合、「城」の名がついていると条件反射で目が行ってしまいます。 この作品の第二位は、さすが自己チューランキングと言われても仕方ないでしょうね。 おそらく、ほかの人が選んだらベスト5には入らないかも。 でも佐々木譲は、「エトロフ発緊急電」や「ベルリン飛行指令」などで知られる冒険小説作家。両方とも長い作品でしたけど、重厚で壮大なテーマと細部にわたる臨場感で一気に読むことができました。 どちらも戦時中の日本を舞台にした作品だったので、戦国時代の歴史小説はちょっと意外でした。 城をテーマにした作品は、城ヲタクとして評価がどうしても辛くなるのです。 が、しかし、さすが第一級のエンタテイメント作家の作品だけあって楽しく読むことができました。オイラの知っている限り、それほど話題にならなかったのは、主人公が名もない石積み職人だからでしょうか。 でも、実際城を作るのは武士ではなく、これら名もない職人衆ですからね。視点が変わって、オイラには新鮮に映りました。そういえば、以前読んだ「火天の城」も安土城を作った大工の棟梁が主人公だったような。「火天の城」を書いた作者も相当築城技法について勉強したそうで、その蘊蓄がまた面白かったのですが、この「天下城」も当時の石積みの技法が語られています。 佐々木譲は「技術系の人にも読んで欲しい」と言っているくらいだから相当自信を持って書いたのだと思いました。 主人公は武士を捨て、近江の石積職人集団として日本一だった穴太衆(あのうしゅう)に身を投じる戸波市郎太。 武田の金山で奴隷にされたり、朝倉氏の館や堺へ行ったり、若き日の信長に出会ったり、城にまつわる場所にこう都合よく行けるのかなと読みながら思いました。 戸波市郎太って、作者が創作した架空の人物なのですね。 戦国大名といったスーパースターならともかく、一般庶民を主人公にする場合は、劇的な出会いを創作しなければ小説として読者を最後までつなぎとめるのは難しいのでしょう。 天下城として登場する安土城は、まさに独創の城。自分の経験から行っても変わった城にうつります。 この城こそ再建して、信長の天才性をあらためて感じたいと思いました。 …ということで、いよいよ一位の発表っす。 並み居る強豪を抑えて、グランプリに輝いたのは… ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダ… ( ← ドラムの音?) ハッスル!「老健」- 介護老人保健施設のすべてがわかる本 - ビジベン著ハッスル!「老健」 あれっ? おかしいぞ。どっかで見たような本がいきなり出てしまい…。 ウィルスに感染したのかしらん。 ずっこけて、またパソコンの角に頭をぶつけた方もいらっしゃるかもしませんね。 申し訳ございません。 実は前回味をしめ、これがやりたくて今回も引っ張ったのでした。 でも、この本。福祉施設の方たちからはドキュメンタリータッチでなかなか面白いともお褒めの言葉を頂戴しているのです。オイラのエピソードもいろいろ書いてありますし…。 そんなことより、今度こそグランプリ作品を発表しないといけないのでした。 一流作家の書いた有名な作品にオイラが優劣をつけるなんて、そんなことして果たしていいのだろうかと思いつつ、どーせオイラは素人だし、法律に違反するわけでもないから、そんなの関係ねぇ、そんなの関係ねぇ、はーい、おっぱっぴーと言っていた小島よしおみたいに一発屋で終わることを覚悟しつつ、清水の舞台から飛び降りた気分になって、ビジベンが選ぶ「私が、面白かった小説大賞 2007年下半期~2008年上半期」は… ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダ…( ← 再びドラムの音?) 犯人に告ぐ 雫井修介氏に決定いたしましたぁぁぁぁぁぁ~第一位 犯人に告ぐ 雫井修介 犯人に告ぐ 今回はあまり、意外な一位ではなかったかも。 第7回大藪春彦賞を受賞し、「週刊文春ミステリーベストテン」第1位、「このミステリーがすごい!」第8位…。 映画にもなったりして、十分読者からの支持を集めている作品ですからね。 皆様の予想に反する結果となって、とても心苦しいのですが…。今回はちょっとまとも過ぎたのではないか、と反省しています。 でも、単純に面白いというだけの基準なら、この一年で読んだ本の中で一番楽しめました。 最初の30分で、一気に引き込まれましたね。これはもう、グランプリ間違いなし、と…。 最近は、ミステリーを読んでも、ワクワク興奮する機会が激減してしまったような。 子供の頃読んだ、ポプラ社のルパン全集。ジュール・ベルヌのSF。偕成社から出ていた子供向きの歴史小説。十代から二十代の初めにかけて読んだ横溝正史の推理小説。 読む本、読む本、みんな面白かったけれど、最近、没頭して読めるような面白いミステリーに出会えるのは、年に一冊あるかどうかでしょうか。 耳年増というか、本年増になったのかも。 昔は、内田康夫の浅見光彦シリーズが好きで、かなり面白く読めたのですが、最近は物足りなくなってしまいましたし…。 そんなオイラでも、この作品は一味違うと思いました。 連続誘拐殺人事件に際して、現職の刑事がテレビに出演して公開捜査をするという設定が秀逸。 視聴率をとりたいテレビ局とのやりとりも臨場感たっぷり。 犯人を追い詰めて取り逃がすシーンなど、自分のよく知っている場所が事件現場なだけに結構手に汗握るシーンの連続でした。 前半の緊迫感に比べて、後半がややストーリーのテンポが早くなって、臨場感が薄れるという批判もあるみたいですが、全体としてはよくまとまっている。 警察小説というと、第一人者の横山秀夫の職人のような精密な作品が目に浮かびます。 この作品も臨場感と緊迫感あふれるシーンが満載ですが、結構ユーモアのある個所もあって好感が持てました。 チョンボなんとか、というリアルでいたら困るような刑事も、実際にはいるのかも。 エリートや変人の刑事、サラリーマン化した刑事などバラエティに富んだ登場人物を眺めるだけでも楽しめますよ。 …ということで、今回はわりと無難な結果になってしまったと思われる「私が面白かった小説大賞」。 子供時代から好きだった本格ミステリーが入らなかったのは寂しい限り。 個人的には、本格ミステリーで、独創的なトリックと意外な犯人で驚かされたいのだけれど…。 今回ノミネートされた中にも、本格ミステリーは少なからずありました。 完璧なアリバイや破綻のないトリックに力点を置きすぎると面白くなくなるのがミステリー作品のつらいところ。 トリックから作品を作ると、一般社会ではありえない設定になってしまうし。 バランスがいいのは、古い作品ですが、島田荘司の「Yの構図」が楽しめました。 「切り裂きジャック百年の孤独」もそうでしたけど、しっかりとたトリックでありながらなおかつ読んで面白いのは簡単そうでなかなかできないですね。 あと、三浦しをんの直木賞受賞作、「まほろ駅前多田便利軒」もなぜか記憶に残っています。 とりたててたいしたテーマではないのですが、便利屋の実態についてよく勉強しているな、と…。 この人は大学卒業してからすぐ作家になったらしいから、あまり実社会の経験はないんですよね。 それでこんな社会の重箱の隅をつつくような小説を書けるのだからすごいと思いました。 本を読むと、自分の体験できないことを味わえるわけですから、人生を何倍も楽しむことができるのかも。 いや~、やっぱり本って楽しいもんですよね。
2008年08月09日
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こんにちは。 ベスト5の予想やそれぞれの方たちの作品に対する思い入れのあるコメントをいただきまして、どうもありがとうございました。 他の人が読んだ本の感想を聞くのって面白いですね。 自分では気づかなかった点を再発見できて、目からウロコが落ちる思いでした。 …ということで、今日はいよいよ「私が、読んで面白かった小説大賞」の発表です。 前ふりが長くなるとまた終わらなくなるので、今回はいきなり行きまっす。 ブックレビューも書かないといけないし…。 オイラが2007年7月から2008年6月にかけて読んだ本をもう一度書きますと、以下の通りです。 7月 神の子供たちはみな踊る 村上春樹 生首に聞いてみろ 法月倫太郎 ミロクの掌 安孫子武丸8月 セリヌンティウスの舟 石持浅海 カンガルー日和 村上春樹 野ブタ。をプロデュース 白岩玄 隠し剣孤影抄 藤沢周平 スイス時計の謎 有栖川有栖9月 黒祠の島 小野不由美 時の密室 芦辺拓 ブルータワー 石田衣良 信長の棺 加藤廣 容疑者Xの献身 東野圭吾10月 半島を出よ(上) 村上龍 半島を出よ(下) 村上龍11月 俄(にわか) (上) 司馬遼太郎 俄(にわか) (下) 司馬遼太郎 19歳の肖像 島田荘司 日本殺人事件 山口雅也 菜の花の沖 (1) 司馬遼太郎12月 菜の花の沖 (2) 司馬遼太郎 菜の花の沖 (3) 司馬遼太郎 菜の花の沖 (4) 司馬遼太郎 菜の花の沖 (5) 司馬遼太郎2008年上半期1月 菜の花の沖(6) 司馬遼太郎 乱鴉の島 有栖川有栖 顔のない敵 石持浅海 犯人に告ぐ 雫井修介2月 妖怪(上) 司馬遼太郎 妖怪(下) 司馬遼太郎 生協の白石さん3月 司馬遼太郎と寺社を歩く 風に舞い上がるビニールシート 森絵都 殺人方程式 綾辻行人 切り裂きジャック百年の孤独 島田荘司4月 スラッシャー 廃園の殺人 三津田信三 まほろ駅前多田便利軒 三浦しをん 平将門 吉川英治 龍臥亭幻想(上) 島田荘司5月 龍臥亭幻想(下) 島田荘司 Yの構図 島田荘司 秋汎狩り 佐伯泰英 消えた直木賞 吉原手引草 松井今朝子 6月 山魔の如き嗤うもの 三津田信三 天下城 (上) 佐々木譲 天下城 (下) 佐々木譲 贄門島 (上) 内田康夫 贄門島 (下) 内田康夫 このノミネート作品の中から、ベスト5が決まるのですね~ 皆さんが支持されている本が、オイラのベスト5にはあまり入っていないようなので、改めて自分が変人であるということを実感して落ち込む今日この頃。 決して、コメントの予想からはずしてベスト5を選んだわけではありませんので念のため。 いつも、読んだ本のノミネート作品をパソコンで打っているときに、ベスト5を先に決めてしまうのです。 と言っても、それぞれ評判になった本ばかりでいろいろ悩みました。しかも今回は一年分ですからさらに難しいっす。 しかし、清水の舞台から飛び降りる気持ちになって、ビジベンが完全自己チューで選ぶ「私が、去年読んで面白かった小説大賞 2007年下半期~2008年上半期」は以下のように決定しましたぁぁぁぁぁぁぁ~。 ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダ… ( ← ドラムの音?)第五位 菜の花の沖 司馬遼太郎菜の花の沖(1)新装版 江戸時代の廻船商人で、のちに蝦夷地の開発にも尽力した高田屋嘉兵衛を主人公にした歴史小説。見なかったですが、竹中直人主演でドラマ化もされましたね。 ホントは戦国時代や幕末に生きた武士の波乱万丈の生涯を描いた作品が好きなのですけど、波乱の生涯という点では勝るとも劣らないと思いました。子供時代の淡路島の風習なんかも面白かったです。 江戸時代の船や航海術の薀蓄など、一級のエンタテイメントでありながら、歴史や民俗学の知識も増えると言う一粒で二度おいしい司馬作品の魅力がとくに現れている作品だと思いました。 ただ、日本とロシアとの接触の歴史は、「余談だが…」の枠を大きく越えて、途中から小説というより延々と論文を読んでいるような気分になったかも。 小説としての流れや完成度を度外視しても、北方領土に対する強い思いを司馬さんは伝えたかったんでしょうね。 高田屋嘉兵衛は幕府の役人ではないし、強い権限を持っているわけではないけれど、お国のため、函館の発展のためと結果的に多くの功績を残しました。 今の時代に、こんなグローバルな視点で企業を運営し、自分の損を承知で国のために尽くす商人は果たしているのだろうかと考えます。 嘉兵衛が心血を注いだ高田屋はその後なくなってしまいますが、司馬作品の中で自己チューの大企業より、はるかに長く生き続けるのだろうと思いました。第四位 信長の棺 加藤廣信長の棺 信長や秀吉、家康にまつわる本は、星の数ほどあります。3人の新しいエピソードはもうお目にかかれないのではないか、というくらいいろんな本を読みました。 でも、こういうちょっと変わった切り口だとついつい引き込まれてしまいますね。「信長公記」の著者・太田牛一を主人公とした点も興味深い。 小泉純一郎元内閣総理大臣が愛読書にもあげて話題になりましたっけ。 この本の魅力は、本能寺の変で信長の遺体が発見されなかったというわりと有名な事実がベースになっています。 光秀の娘婿で、これまた有名人の明智左馬助光春が数日の間現場に留まって、信長の遺体を徹底的に探し続けたけれど発見されなかったそうなんですよ。 現代でも火災現場からは焼死体が発見されますし、確かに歴史好き、ミステリー好きのオイラでは身を乗り出すテーマ。明智光秀にとって、信長の遺体発見は最重要課題の一つだったと言うこともわかります。 ネタバレになるから書きませんけど、本ではちゃんとミステリー的な解決がなされている。一応トリックもあるのですね。 ただ、多少こじつけだという批判もあるようで、その点はオイラも否定はしませんけど…。 それはともかく、オイラがすごいと思ったのは著者の加藤廣さんの年齢。 1930年生まれですか。 そしてこの作品によって作家デビューを飾ったときは75歳なのですね。 歴史ミステリーは、歴史の信憑性とミステリーのプロットなどいろんな制約があって、普通の小説を書くより骨が折れるような気がします。 オイラも努力すれば、まだまだ四半世紀以上、いろんなことで頑張れるんだと希望が湧いてきました。 これからも頑張って作品を世に出して、多くの中高年に希望を与えてほしいと思いましたね。第三位 容疑者Xの献身 東野圭吾容疑者Xの献身 ご存知、ベストセラー作家東野圭吾の本格ミステリ大賞と第134回直木賞受賞作。 何度も候補となりながら涙を呑んできた作家ですが、世情評価の高い「白夜行」でも「秘密」でもなく、この作品で受賞というのは、読んでみてなるほどと思いました。 宮部みゆきも「火車」「模倣犯」といった代表作ではなく、従来とは少し文体・作風を変えた「理由」で受賞しましたからね。本人も書き出しは、松本清張の「真似っこ」だとどっかでコメントしていたような。 また浅田次郎も「蒼穹の昴」ではなく、受賞作が「鉄道員」というのも、その延長線上にあるのかもしれませぬ。 この作品は、福山雅治がドラマで演じた天才物理学者、湯川が登場しますが、なんといってもタイトルにもある「容疑者X」の存在感がすごい。 まさに、「容疑者X」の献身。 他人に対して、ここまで奉仕する人間がいるのかなぁという余韻のインパクトは独特でした。 容疑者Xの心情の変化をあえて書かず、読者にゆだねる形にした点が成功したのでしょう。 その余韻が、直木賞の選考委員にとってこの作品を選ばせたのではと感じます。 東野圭吾のこの作品、宮部みゆきの「理由」、浅田次郎の「鉄道員」などの受賞作の共通点がこの辺りにあるような。 作者による感動の押し付けが感じられにくい作品といいますか。 直木賞選考委員も同業の作家。 作家の技法によって感動させられてしまうと、作家の掌に乗せられたという抵抗感が起きるのではないか、と穿った見方もしてみたくなります。 それはともかく、こういう面白い読後感の作品は滅多にないと思いますので、お勧めです。 ブックレビューが長くなったので、一万字以内では1位と2位の発表ができそうにありませぬ。 ベスト3なら恰好がつくのですけどね。 決して引っ張るつもりはないのですが、ベスト2の発表は次回ということで…。
2008年08月02日
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こんにちは。 ホント、暑いっすね。 ところで先日、押入れをひっくり返して、70年代の地層から五分袖のトレーナーの発掘に成功したって書きました。 同時にとんでもない遺物が出てきたんですよ。 それは、オイラの高校時代の学生証。 モノクロ写真が時代を感じさせます。 当時は体重50キロちょっとでしたから、かなり頬がこけているような。 それはともかく、学生証って普通、卒業証書と引き換えに学校に返却するんですよね。 もしかして、オイラは高校を卒業していなかったのではと不安になり、卒業証書を探してしまいました。 おかげさまで高校を卒業していたのは間違いなかったですけど…。 返却し忘れたオイラに瑕疵があるのはもちろんですが、当時の高校の先生もゆるい人が多かったのを思い出しました。 修学旅行の引率はだるいから中止しようとか、担任の先生が言ってたのを覚えています。 学生が修学旅行に行きたいと言い張って、アンケートをすることになったのです。 結局希望者多数で修学旅行へ行ったのですが、先生方はみんなしぶしぶついて行くという感じでしたね。 そのゆるい教育が、現在のオイラのルーツになっているのかも。 やっぱり、教育は大事ですな。 さて、今日は毎年恒例となりました、私が、読んで面白かった小説大賞 2008年上半期の発表です。 いつも芥川賞と直木賞の発表の後に行っているのですが、マスコミからはまったく何の反応もありませぬ。 毎回、自分だけが勝手に盛り上がっている小説大賞。ちなみに昨年度(2007年下半期)のベスト5は以下の作品でした。第五位 アキハバラ@DEEP 石田衣良 扉は閉ざされたまま 石持浅海第四位 上高地の切り裂きジャック 島田荘司第三位 花まんま 朱川湊人第二位 新史太閤記 司馬遼太郎第一位 電車男 中野独人 前回は、国民的大作家や直木賞受賞のベストセラー作家の作品を差し置き、「電車男」がグランプリに輝いたのでした。 上記を見ていただくとお分かりの通り、たんに私が読んで面白かったかどうかだけで選ばれるランキング。 素人だけが許される特権を最大限に生かして、今年はどの作品が選ばれるのか、自分だけが注目しております。 さて、能書きはこのくらいにして、本日は「ビジベンは、こんな本を読んできた。2008年上半期 輝く!私が読んで面白かった小説大賞」ノミネート作品発表。 上半期があるなら、当然、下半期もあるはずですが、それはまた、いずれ。 まずは、オイラが今年の1~6月までに読んだ本。 読んだ小説は、以下のとおり、しめて25冊。 ちなみに、去年は、29冊。おととしは22冊。その前は34冊でした。 去年より忙しかったのかな、と考えたのですが、ひとつの作品を上下2冊にカウントしている分が4作品もありますからね。 冊数で仕事の繁忙を決めるのは難しいのでした。 このほかにもビジネス書や家庭医学書を結構読んでいるので、相変わらず、かなりの活字中毒ですな。 でも、昔は月に10冊くらい小説を読んでいる時期もありましたからね。 最近は、まとまった時間がとれないので、電車の中や食事のときなど細切れの時間を利用して読むことが多いです。 読みなれているからスピードは早いと思いますが、歳を経るに従って読解力が落ちているのがわかります。 ミステリーでも、昔は犯人を当てるためにいろいろ考えながら読みましたが、最近は登場人物の名前を覚えるのがやっと…。 最後に真犯人がわかっても、そんな人いたっけ? …とか。 それはともかく、今年の上半期に読んだ本は以下のとおりです。発売された時期ではありませんので、念のため。2008年上半期1月 菜の花の沖(6) 司馬遼太郎 乱鴉の島 有栖川有栖 顔のない敵 石持浅海 犯人に告ぐ 雫井修介2月 妖怪(上) 司馬遼太郎 妖怪(下) 司馬遼太郎 生協の白石さん3月 司馬遼太郎と寺社を歩く 風に舞い上がるビニールシート 森絵都 殺人方程式 綾辻行人 切り裂きジャック百年の孤独 島田荘司4月 スラッシャー 廃園の殺人 三津田信三 まほろ駅前多田便利軒 三浦しをん 平将門 吉川英治 龍臥亭幻想(上) 島田荘司5月 龍臥亭幻想(下) 島田荘司 Yの構図 島田荘司 秋汎狩り 佐伯泰英 消えた直木賞 吉原手引草 松井今朝子 6月 山魔の如き嗤うもの 三津田信三 天下城 (上) 佐々木譲 天下城 (下) 佐々木譲 贄門島 (上) 内田康夫 贄門島 (下) 内田康夫 うぬぬ、この中からベスト5を選ぶのですか。 ざっと眺めてみて、完全自己チューでオイラが面白かった本を5冊選ぶのはちょっと難しいかも。 文句なしに第一位に輝く作品はあるのですけどね。あと、他の人はいざ知らず、オイラが読んで面白いというヲタク的なジャンルの本が一作品。 それだけ書くとどの作品かわかってしまいそうですが…。 ほかは文学的な価値はあっても、たんに面白かった本という基準では推しにくいかも。 やっぱり、オイラが読んで面白かった小説大賞の価値を維持できる作品のレベルを維持する必要はある。 …なんて、直木賞を「該当なし」と決めるような選考委員の気分を味わってみたいのでした。 困ったニャー。 …と思ったら、去年の下半期の面白かった小説大賞の発表をし忘れていたのでした。 ちょうど良かったと、今回は去年の下半期と今年の上半期、トータル1年分から大賞作品を選ぶことにしたのでした。 うう、すごいハイレベルな戦いになりそうじゃ。 でも、完全自己チューですから、例によって万人に受ける作品と言うより、えっ?何これ?という作品になりそうですが…。 去年のグランプリは「電車男」だし…。 それはともかく、去年の下半期にオイラが読んだ作品は以下の通りっす。2007年下半期7月 神の子供たちはみな踊る 村上春樹 生首に聞いてみろ 法月倫太郎 ミロクの掌 安孫子武丸8月 セリヌンティウスの舟 石持浅海 カンガルー日和 村上春樹 野ブタ。をプロデュース 白岩玄 隠し剣孤影抄 藤沢周平 スイス時計の謎 有栖川有栖9月 黒祠の島 小野不由美 時の密室 芦辺拓 ブルータワー 石田衣良 信長の棺 加藤廣 容疑者Xの献身 東野圭吾10月 半島を出よ(上) 村上龍 半島を出よ(下) 村上龍11月 俄(にわか) (上) 司馬遼太郎 俄(にわか) (下) 司馬遼太郎 19歳の肖像 島田荘司 日本殺人事件 山口雅也 菜の花の沖 (1) 司馬遼太郎12月 菜の花の沖 (2) 司馬遼太郎 菜の花の沖 (3) 司馬遼太郎 菜の花の沖 (4) 司馬遼太郎 菜の花の沖 (5) 司馬遼太郎 去年の下半期は、25冊ですか。 相変わらず、司馬遼太郎の本が多いですな。 例年通り、歴史物、おもに司馬遼太郎の作品とミステリーを交互に読み、箸休めとしてジャンルを問わずベストセラーや話題になった作品を濫読する傾向にあるみたい。 「菜の花の沖」を読んでしまったので、残る大作は、「翔ぶが如く」くらいになってしまったのは寂しい限りです。 オイラの人生に大きな影響を与えた大作家ですからね。とくに「項羽と劉邦」「坂の上の雲」には、生きるヒントが凝縮して含まれているような気がしました。 成功して栄華を極めてから、生き方を誤って新聞紙上を賑わしている有名人が多々いますけど、その転落の理由が司馬作品の中の登場人物にすべて入っているような。 歴史は繰り返すといいますか、人間の本質だけは発展しないのだなとつくづく思います。 それはともかく、この50冊の中から、ベスト5を選ぶんすか。 ベストセラーや評判になった本ばかりの珠玉の50冊。 自分で言っておきながら、難しいっすよ。 じっくり一人になって考えてみます。発表は次回。 ところで皆さんは、どの小説を選びますか?
2008年07月26日
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こんにちは。 やせてズボンのウエストがゆるゆるになったので、20代のときに買ったエドウィンのブルージーンズを穿いてみたんですよ。 おお、入る、入る。 ちょっときついけれど、ウエスト76センチをクリア。 これが穿けたのは十年ぶりでしょうか。 …となると、あれも穿けるかも。 押入れをひっくり返し、取り出しましたるは10代のときに買った、ベルボトムのジーンズ。 ククク…、これはきつい。 まるで、今話題のスピード社の水着、レーザーレーサーを着るみたい。(← もちろん着たことないけど) 悪戦苦闘の末、ようやく穿けたのです。ベルボトムを穿いたら、当時流行していた五分袖のトレーナーを着てみたくなりました。 またしても押入れをひっくり返して、ようやく70年代の地層から、目指す遺物の発掘に成功しましたぁぁぁぁぁぁ~♪ ベルボトムのジーンズに、五分袖のトレーナー。 …レトロっす。 自分の姿を鏡に映して当時を懐かしんだのですが、なんかまだ足りないような。 そうそう、あれを忘れてはなりませぬ。 今でも箪笥に入っているはず…。 取り出したのは、チューリップハット。 高校時代、風吹ジュンにあこがれて買ったのですね~。 ここまで完璧に70年代を再現できたら、外を歩いてみたくなるのが人情。 靴ではなく、フォークシンガーみたいに雪駄を履いて歩くというこだわりもありました。 外へ出て、完璧な「ナウい格好」で歩くオイラ。 炎天下でしたが、なんか背筋が寒いと思ってまわりを見渡すと、道行く人々の冷たい視線を感じるのでした。 結果的には、地球温暖化が人間の脳に与える影響について、問題を提議したことになるのかも。 さて、とうとう3回目に突入した久留里への旅。 今日で最終回にしなければ、どこまでも続きそう。 …ということで、またしてもお城の話題から。 以前から、久留里城を写真で見るとき、天守閣の横に芝生の土檀があって何だろうと思っていたのですよ。 今回の旅行で、やっとその理由がわかりました。 天守台の跡なのですな。 復元された天守閣は、その横に改めて作ったわけですか。 久留里城固有の城の形式かと思いましたが、疑問は氷解しました。 やっぱり現地に来ないとわかりませんね。 天守閣に入ると、やっぱし鉄コン筋クリート。 最近は、木造で忠実に史料考証された天守閣が再建されていますが、昭和に復元されたお城は、外見だけ似せて、町のシンボルとする試みが多かったみたい。 城ファンとしては、当時を忠実に再現してほしいですが、こうしてオイラがここに来たというのも、外側だけでも天守閣が見られるから。 鉄コン筋クリートでも、なければここには来なかったでしょうね。 一階には、日本全国の城の天守閣の写真が展示されていました。 天守閣に登り、望楼からまわりの景色を眺めます。 ふふふ、久留里3万石の城主になった気分。 下を眺めると、オイラと同じ城ヲタクが一眼レフのカメラでバシバシ写真を撮っているのが確認できます。 久留里城は、「雨城」という別名もあるそうなんですよ。 これは築城する際、3日に1度、21回も雨が降ったという伝説からつけられたらしい。 姫路城を「白鷺城」、松本城を「烏城」、会津若松城を「鶴ヶ城」と呼ぶように、鳥の名前をつけた城が多いですが、「雨」とは珍しい。 今に残るくらいだから、よっぽど城を作るときは困ったのでしょうね。 そのとき雨がたくさん降ったから、今も町の至る所で水が噴き出しているのだろうかと思ったりしました。 今日みたいにギンギラギンに晴れていると「雨城」というイメージはわきませんね。 ちなみに天守閣と本丸を見たあと、元来た山道を戻ったのですが、家に帰ってネットで検索してみたのです。 すると、本丸を別ルートで降りたところにド迫力の巨大堀切があると言うじゃないですか。 しまった、見逃したぁぁぁぁ~ と地団太を踏んで悔しがっても後の祭り。 そんな見所があるんだったら、解説板に書いといてよ!! もっとも、城の興味がない人が見たら、行く手を阻む迷惑な崖があるだけですが…。 あとで悔しがるとは思わないオイラは、さきほど薬師曲輪の見晴台から眺めた三の丸のあとへ行ってみることにしました。 当時は三の丸御殿があったそうですが、今は広い田んぼが広がるのみ。 何も残ってないなと、何気にケータイを取り出して写真を撮ろうとしたら、手が滑って舗装道路に落としてしまいました。 ケータイは何度か落としたことがありますけど、今回はぶつかった場所が悪かったのか、蝶番の部分にひびが入ってしまったのです。 2年前の機種なので買い換えればいいんですけど、324万画素のカメラ付きなので惜しいっす。 …と、今もセロテープをケータイに貼って使っている自分が情けない。 調子こいて歩き回っていましたが、これも13日の金曜日のたたり? めざましテレビの星座占いで、大切なものを壊すかもしれないから気をつけて、とお天気おねーたんの愛ちゃんが言っていたのを思い出しました。 気を取り直して、後半の旅を続けます。 久留里城の駐車場まで戻り、森林体験交流センターの横を通って道なりに進むと、県道大多喜君津線。 ほとんど車の通らない県道も珍しい。 日陰がなく、久留里の名水とミネラルウォーターを満載した体から水分がどんどん蒸発してゆくのがわかりました。 炎天下の田園をしばし歩き、久留里に来て始めて見たスーパーマーケットの横を右に入ってしばらく歩くと、お寺の山門が見えてきました。 このお寺は円覚寺。 鎌倉にも円覚寺というお寺があって、国宝に指定されているお堂もあったと記憶しています。 こちらの円覚寺は、江戸時代初期の久留里の城主であった土屋家の菩提寺だそうな。 土屋家の先祖は、武田信玄に仕えた武将で、信玄愛用の数珠が所蔵されているらしい。 このお寺の見所は、裏の墓所にある五輪塔。 五輪塔とは、現代でいえば墓石でしょうか。 県内最大の五輪塔という表示があったので行ってみることにしました。 おお、高さは約4メートルもあるのですね。 そういえば、吉良上野介の五輪塔が都内にありましたが、こちらのほうがずっと大きい。 2万石でも大名と高家筆頭との差はこんなところにあるのですかね。 そういえば、二つ前の記事に書いた久留里藩最後の藩主黒田直養のお墓は元大名のお墓としては小さかったような。 江戸時代初期と幕末から明治にかけてのお墓の変遷が面白かったです。 隣の円如寺は、「花の寺」とも言われ、一年中花が咲いているシーンを見られるそうな。 オイラが行った日も、境内に花が咲いていました。 花の知識に疎いので、何の花かわからないのですが…。 ここから再び田園地帯を歩いて久留里駅前に出れば今回のウォーキングコースは終わりなのですが、まだ帰りのバスの時間には余裕がある。 そこで地元でもらったガイドマップを再チェック。 見所を完全に制覇しようという野望を企てたのでした。 まず、朝、行き忘れた正源寺へ。 ここには加勢観音像があり、戦国時代の久留里城主だった里見義堯が、夢のお告げに従って観音像を背負って小田原北条氏との合戦に臨んだらしい。 それで合戦に勝ったのですか。 オイラの住んでいるところは、江戸時代はともかく戦国時代の逸話なぞ聞いたことがありませぬ。 地方都市には、昔の出来事がタイムカプセルみたいによく残っているのですね。 それにしても、町内には井戸がホントにたくさんあります。 どうしてこんなに井戸がたくさんあるのかと考え、たくさん掘ったからという答えを導き出しました。 それもそのはず、久留里は有名な「上総掘り」発祥の地だそうですね。 それは、江戸時代後期に考案された井戸掘りの技法。 櫓を組み、竹ひごの先に鉄管を取り付け、地下400メートルも掘り進むのだとか。 前の記事で書いた久留里城址資料館の裏に、上総掘りの巨大な模型が展示されていました。 この技法を使って、今も発展途上国で井戸掘りが行われているというから驚きます。 現代人でも、素人だったら地中400メートルも掘り下げる方法なんて思いつかないでしょう。 どの時代にも、頭のいい人はいるのですな。 …と思いつつ、またも町中の井戸から水をしこたま飲むのでした。 そして最後に向かったのが、日本史の教科書でおなじみの新井白石の居宅跡。 小学校の近くの公園に、新井白石居住の地の立派な碑が建っていました。 徳川六代将軍家宣と七代将軍家継の政治顧問として、さまざまな改革を行った人物であるというくらいの知識ですが、そんな有名人がここに住んでいたというのは驚きでした。 江戸初期の藩主だった土屋家の藩士の子として生まれ、青年期の3年間をこの土地で過ごしたのだとか。 その後、お家騒動で追放になったものの、勉強して儒学者・木下順庵の門下生となり、出世の糸口を掴んだのですね。 追放にならなければ、教科書に載るような大人物にはなれなかったのかもしれないし、人の一生は、塞翁が馬だとつくづく思いました。 そして帰りは、行きと同じく高速バスで。 東京湾アクアラインから見た東京湾が、夕日にキラキラと光り輝いてとてもきれいでした。
2008年07月19日
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