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あの日から12年が経過しました。2011年3月11日東日本大震災。当時は、何とか借金を返済しつつ生活をギリギリ維持ながら受験にも備える日々を送っていました。1995年の阪神淡路大震災の時も受験こそ控えてはいませんでしたが基本的には、「借金を返済しつつギリギリの生活を維持」というスタイルは変わっていません。阪神淡路の時は、大阪にいたので、宿泊中の宿の壁にヒビが入る瞬間を目の当たりにし、「一寸先は闇!」と肝に銘じたことを覚えています。1995年当時は35歳、東日本大震災の時は、51歳、翻って、高校を卒業して2年立て続けに受験失敗した時、当時20歳の時にさえも人様より遅れて生きている、差を付けられて生きているという観念に縛られて、何をやるにも「ここから逆転!」という意識で常に、オーバーヒート気味の予定やら作戦やらを立て結局、それがままならぬ故に更なるハードなプランを立案・・・こんな繰り返しで、生活も不規則になり、精神的には焦りが充満して、不安定な状況が続き、根拠のない自信があった「健康体」すらも今では、夢のまた夢・・・になってしまいました。思えば、20歳の時も、35歳の時も、51歳の時も・・・その時は、「もうこんな年齢になってしまった。」「後が無い!」と感じていたのですが、今では、・20歳で2回受験に失敗? ええねぇ~、まだまだ先が有るし、健康なんでしょ?・35歳で、莫大な借金? ええねぇ~、まだまだ体力あるでしょ?・51歳でいまだに借金返済継続し、受験も失敗? めちゃめちゃええねぇ~、その時はまだまだ 心臓も腎臓も「正常範囲」で動いてたでしょ?そう、その時その時は、「お先真っ暗!」と感じていても、数年後、数十年後の自分から見れば「そんなん序の口やん」と断言できる程度(とは言え、その時は本当に「お先真っ暗」)だったんだと思うと、あん時、泣き言言うてる暇が有ったらもうちっと、踏ん張るべきやったな・・・と感じてます。その時その時の出来事や起きた事実は変えられませんが、その時とその直後、その後の長い時間・・・をどうするのか、で起きた事実の「意味づけ」は変わります。刻一刻と過ぎ去る「今」を自分の中にどう刻んで、どう捉えて、自分の中の「どの棚」にしまうか?それで、「今の自分」とそれが積み重なった「過去の自分」の色付けが決まってきます。「人工透析」を受ける身体になるのにカウントダウンの時期になりました。どれだけ説明を聞いても頭で理解しても、不安は拭いきれません。それでも、おそらく数年後の自分は「人工透析?ええねぇ~、まだまだ自力で動けるやん なんと言っても、まだまだ生きていられるやん!」と今の自分に言うのだろうと思います。その数年後の自分を信じて、「生きていられるだけで儲けもん!」気づかず心筋梗塞を起こしていた時も周りに押されて検査に行かなかったら数日後には心臓止まってたかもしれないし、昨年の入院も、高を括ってもう1日我慢してたら生存率「50:50」と言われた手術を受ける羽目になってたかも・・・20代の頃にバイクで死にそうになったことも数回・・・自動車運転中に対向車線の車に正面衝突されたことも・・・いつどこで死んでてもおかしくなかった今までですが何とか今こうして生きてます。健康寿命は「あと10年は・・・」と思っていますが、運よく生き延びることもあればその逆もまた然り・・・今を嘆かず過去を卑下せず来るべき次の瞬間を噛みしめて今、出来ることを精一杯やっていこうと意を新たにする一日です。広報の町内マイクから「黙祷」のアナウンスが聞こえてきました。東日本大震災、阪神淡路大震災で被害に遭った方へのお見舞いとお亡くなりになった方のご冥福をお祈りいたします。
2023年03月11日
いつも、ご訪問・応援ありがとうございます。 私が(1回目の)大学生の時親父が48際の若さで急逝しました。あれから、もう丸30年経ちました。 オヤジの記事は この辺に記してあります。 こちら 文中のリンク先にも数件・・・さて、一般的に仏教では1周年忌 3周年忌 7周年忌 13周年忌 17周年忌 23周年忌 27周年忌 33周年忌 37周年忌 43周年忌 47周年忌 50周年忌100周年忌・・・という区切りで故人の法要を行いますが、神道では、一年祭 二年祭 三年祭 五年祭 十年祭二十年祭 三十年祭 四十年祭 五十年祭という区切りのようです。仏教が「○○周年忌」というのに対して神道では「○○年祭」というのがあまり馴染みがありません。その「神道」に従うと、今年は、オヤジの「三十年祭」にあたります。自分自身が、よほど長生きするかはたまた、親が若くして他界するかそれ以外では、なかなか「三十年祭」にはお目に(?)かかれません。「1周年忌」:「一年祭」「3周年忌」:「三年祭」の次に「仏教」:「神道」共通なのは「50周年忌」:「五十年祭」です。・・・20年後かぁ。。。(-。-; ☆★☆ 初めて訪れて頂いた方、最近読み始めた方・・・へ ★☆★ 「はじめにお読み下さい~Read Me」のページを作成しました。 是非、ご一読下さい。⇒【はじめにお読み下さい・・・Read Me】 【はじめにお読み下さい・・・Read Me (2)】 【はじめにお読み下さい・・・Read Me (3)】 ※携帯電話画面からは閲覧できないようです。(TへT) またのお越しをお待ちしております。
2013年01月31日
いつも、ご訪問・応援ありがとうございます。 大正13年生まれ。父は、満州医科大学(現:中国医科大学)の医師。昭和18年、戦時下の為繰上卒業し、東京帝国大学(東大)医学部入学。「次は理科系が徴兵される番だ」と感じた事と「敗戦が近い」という噂を耳にして大学に届けも出さず満州に戻る。実家の開業医を手伝いをしている時に終戦を迎える。同年冬、発疹チフスが大流行して、診療にあたっていた父が感染して死亡。敗戦で、家を追われながらも、サイダーなどを密造して糊口をしのぐ。昭和23年、友人の代返のおかげで、東大医学部を卒業するが、医師国家試験は受験しなかった。 (長谷川敏雄教授による卒業口答試験では 人間の妊娠月数を二年です、と答えるなど ひどいものだったが、結局医者にならないことを 条件に卒業単位を与えられた。)という遍歴を持つ作家が安部公房です。最初にこの作家の作品に出会ったのは、高校1年の時に、友人から借りた 新潮文庫:安部公房「壁」です。「壁-S・カルマ氏の犯罪」は第25回(昭和26年度上半期) 芥川賞を受賞この作品は、「芥川賞歴代ベストセラー」のNo.1 ここ参照!との事です。何だかよくわからない作品・・・という読後感を抱きながらも次々と安部作品を読み漁るうち、すっかり虜になっておりました。図書館や、古本屋などを回りながら既刊の主な作品をすべて読み終えた頃、私が安部ファンになって初めての書き下ろし作品が1977年(昭和52年)暮れに新潮社から発売されました。タイトルは・・・「密会」です。当時高校3年生の私にとってこれ以上無いほどの、" 怪しげ " かつ " 淫靡 "な響きでした。本の値段は、 1100円 手が出ませんでした。時は流れて、昭和53年7月。3月に高校を卒業したものの高望みした大学受験に失敗し宅浪生活を送っていた私に新潮社から【新潮現代文学 全80巻】発刊という素敵なお知らせが舞い込みました。しかも、その第一回配本が、「安部公房:砂の女/密会」というナイスな組み合わせ。「砂の女」も図書館で読んだだけでしたので、このビッグな組み合わせ(税込1240円)は、お買得!今から思えば、この頃から我が家の家計は「火の車にターボエンジン搭載」したほどの危機的状況にありました。記憶に有るだけでも、昭和40年(当時小学校にあがる前)昭和45年(大阪万博の頃)の「我が家の2大恐慌」が有り、そういう時期には怖そうな黒づくめのお兄さん方が土足で家に上がり込みテレビなどの金目のもの一切合財を持って行くのは「年中行事」のような日々でした。 この日記参照そして、この昭和53年から翌年にかけて、「我が家の最後の大恐慌」に突入していきます。結局、親父は家を追われるようにその後数年間、音信不通になってしまいます。そんな時に発売された「新潮現代文学:全80巻」は、到底、" 全巻買い揃える! "などという野望を抱くまでも無く、購入をあきらめる事になります。数日後、机の上に置いてあった「新潮現代文学」のチラシを見たのでしょうか・・・オカンが、なけなしの500円札を3枚私にくれました。家計の事よりも、己の欲求が優先した私は本屋さんで、念願の「密会」を手に入れました。最近、発掘した本の山の中からその時の「新潮現代文学 安部公房 砂の女/密会」をみつけました。その本を入手した時の事が蘇り、感慨深いものがありました。あの時の「500円札3枚」に報いる為にも、道を見失わず、まだまだ奮闘せねばなりません。 “ 硫酸紙 ” もまばゆい「砂の女/密会」そして、後に古本屋さんで入手した「密会(初版)」が、これです。 安部公房は、私が33歳の誕生日を迎えた平成5年1月22日に他界しました。 (文中敬称略) ☆★☆ 初めて訪れて頂いた方、最近読み始めた方・・・へ ★☆★ 「はじめにお読み下さい~Read Me」のページを作成しました。 是非、ご一読下さい。⇒【はじめにお読み下さい・・・Read Me】 【はじめにお読み下さい・・・Read Me (2)】 【はじめにお読み下さい・・・Read Me (3)】 ※携帯電話画面からは閲覧できないようです。(TへT) またのお越しをお待ちしております。
2012年09月30日
いつも、ご訪問・応援ありがとうございます。 1912年の7月30日から「大正時代」が始まりました。明治45年(1912年)7月30日に元号が変わったようです。(ん?じゃあ、7月30日は、 明治でも有り、大正でも有り・・・?)でもって、本日、2012年7月30日で大正元年から、「丸っと100年」経ったわけです。計算上は「丸100年」ですが、「大正元年」の丸1年後が「大正2年」ですので、いわゆる、「大正百年」は、昨年(2011年)だったわけです。 元号は、「数え年」で、 丸っと何年、というのが 「満年齢」ってな感じですな。そ~言えば、小学生の頃、「明治百年記念」という切手を所有していました。 あれ?でも、「明治元年」は1868年だから、「明治百年」は、1967年では・・・?と思いきや「明治百年式典」は、「満百年を記念」した行事だったそうです。従って、本当の「明治百年」は(明治がそのまま続いてたとしたら・・・)1967年なのです。※明治6年に「太陰暦」から「グレゴリオ暦」に変わった事による、暦のズレも有るので、カウントの方法が良くわかりませんが、あくまでも「 “ 満 ” 百年を記念して」との事なので・・・とか何とか、細かい事を言うてるのは、「おお!今日は、大正 “ 満 ” 百年やんけ~!」と、一人で勝手に興奮してたのに、「明治百年」のような世間の盛り上がりも無いし、記念切手が出てるようでも無いのでちょっくら調べてみたら・・・昨年(ホンマの「大正百年」)、とっくにあちこちで式典が敢行されたたみたいで、ちょっぴり悔しかった訳です。(-。-)ま、「大正が始まった時から、“ 丸っと ” 百年」の日が、今日で有る事は間違いありません。(もっともっと正確に言えば、 昨日から今日に変わる瞬間?)「明治百年」の時は、どこの誰が配ったのか、「小旗」とか郵便局で、並んで買った「記念切手」とか独特の盛り上がりが有ったような・・・(-_-)内閣政府広報室の「明治百年記念行事に関する世論調査」なんてのも有ります。 ここ※最後から3つ目の「F6:〔生活程度〕〔調査員判断〕」 ってのが、気になります。 「調査員判断」で、勝手に「生活程度」を 判断すんなや! と言いたい。 しかも、見事に「正規分布」に近い!(-。-)・・・そして、本日このブログ開設以来1900日となりました。う~~~む。(-_-)そんなに経過してしもうたか。 ☆★☆ 初めて訪れて頂いた方、最近読み始めた方・・・へ ★☆★ 「はじめにお読み下さい~Read Me」のページを作成しました。 是非、ご一読下さい。⇒【はじめにお読み下さい・・・Read Me】 【はじめにお読み下さい・・・Read Me (2)】 【はじめにお読み下さい・・・Read Me (3)】 ※携帯電話画面からは閲覧できないようです。(TへT) またのお越しをお待ちしております。
2012年07月30日
1960年(昭和35年)夏:ローマ 冬:スコーバレー1964年(昭和39年)夏:東京 冬:インスブルック1968年(昭和43年)夏:メキシコ 冬:グルノーブル1972年(昭和47年)夏:ミュンヘン 冬:札幌1976年(昭和51年)夏:モントリオール 冬:インスブルック 1980年(昭和55年)夏:モスクワ 冬:レークプラシッド1984年(昭和59年)夏:ロサンゼルス 冬:サラエボ1988年(昭和63年)夏:ソウル 冬:カルガリー1992年(平成04年)夏:バルセロナ 冬:アルベールビル この後は2年ずらして1994年:リレハンメル 以降、夏冬2年毎に交互に開催。1996年(平成08年)夏:アトランタ2000年(平成12年)夏:メルボルン 2004年(平成16年)夏:アテネ2008年(平成20年)夏:北京2012年(平成24年)夏:ロンドンサッカーのワールドカップは、オリンピックの2年後に開催。つまり2年毎に「五輪」「W杯」が交互に開催されます。一方、オリンピックの開催は以前は夏冬の五輪が同じ年でしたが1992年以降は、2年毎に「夏の五輪」「冬の五輪」となりました。従って、今では「W杯」と「冬の五輪」が同じ年に開催されてます。1960年閏年生まれの私は、今年、14回めの4年に1度の「閏年2月29日」を経験します。 (注)生まれた直後:生後1ヶ月が1回め。従って、オリンピックも14回めです。流石に「ローマ大会」「東京大会」は全く記憶に有りませんが、「メキシコ大会」は小学校の授業中にテレビ観戦をした記憶があります。この時の「男子走り幅跳び」でボブ・ビーモンが叩き出した「8m90cm」は1991年東京での「世界陸上」でマイク・パウエルが更新するまで実に23年間破られなかった大記録です。(この東京大会の男子走り幅跳びでは、 かのカール・ルイスとパウエルの一騎打ちとなり ハイレベルな闘いが繰り広げられました。 しかも、この時の記録は更に21年間・・・ いまだに破られていません。ぐれいと! ここ参照 )「閏年」は、オリンピックの年です。こうして振り返ると4年毎の節目節目にいろんな事があったのを思い出します。今年のオリンピックは、どんなドラマが待っているでしょうか?また、今年の「我が人生のドラマ」の行方や如何に・・・ どど~ん にほんブログ村 ↑↑↑叱咤激励のクリックをお願いいたします。 過去の“最高順位”は、【1位/1016サイト中】です。(^。^)v
2012年02月29日
最近は、コンビニなんかに置いてある「軽い感じで読める本」やちょいとした「人生のヒント」的ないかにも「ある程度は売れそうな」本を乱発している感がありますが、 加藤諦三という人が学生時代に書いた本に私はその後の人生観を決定づける程の大きな感銘を受けています。 中学生の時に友人から借りて読んだ本です。よくもまぁ、こんな本が当時の田舎の本屋に有ったもんだ!これを買ったヤツもたいしたもんだ。・・・と、つくづく感じます。とり付かれたように読み耽った事を今でもはっきりと覚えています。 ※当時のは、文庫本ではなく 「ハードカバー」の高価なやつです。以前、借金返済の為だけに365日生きていた頃、トラックで回っていた行商先・・・埼玉だったか、千葉だったかの小汚い古本屋さんの店頭で文庫化されたこの本を見つけて「4冊で500円」で買い、宿代節約の為トラックの荷台で寝起きしながら懐中電灯の灯りでこの4冊を夜な夜な読み返しました。 『俺は一体、何してんのやろ!?』と、中学生時代を思い出し虚空を見上げたものです。タイトル 「俺には俺の生き方がある」 「生きる」 「俺はいま何かしなければ」 「やりぬくために俺がいる」だけを見てもかなり鼻息の荒い、周りから浮いてしまいそうな気配がぷんぷんと漂います。初版が、70年代(昭和40年代後半)ですからまだ学生運動の末裔も存在し私自身も「アジビラ」もどきを身近に見た事がある最後の世代です。 ※「いちご白書をもう一度」あたりが ピンポイントの世相でしょうか。。。そんな世代の学生が書いた本ですので今ならとても受け入れられないような「ストレートすぎ」で「ややもすれば暑苦しい」内容で埋め尽くされています。斜に構えたり、物事の本質から少し目をそむける・・・ぐらいが「かっこいい」という風潮が後に蔓延する事を思えば当時の「まっすぐすぎる」学園ドラマや「スポ根漫画」がギャグの対象になってしまうのも仕方のない事だったと思います。この本を読んだ頃は、昭和49年に堀江謙一さんが、「単独無寄港で世界一周航海」を成し遂げ、(詳細は ここ)鈴木紀夫さんが、ルバング島で小野田少尉発見 (詳細は ここ)したり、何だか「冒険」に駆り立てる事件が連続してあった年です。 その後、「人生自体が冒険」となる などとは、まだ知る由も無い。(TへT) この本も、鋭意発掘中!ま、そんな時代の考察は置いといて・・・さ~っと本を追ってみるとまだ中学生だった頃のあの頃の自分の事が断片的に想い起こされます。大きく大きく逸れちゃってとてもあの時の自分に顔向け出来るような生き方をして来れなかったけれど、まだまだ「決着」は付いてないから、これから「帳尻」合わせに頑張って生きてあの時の自分に恥ずかしくないようなひとつの「結末」を残さねば。。。あの時、意味もわからず、ただ単に「人と違えば、かっこいい」と思ってた自分がタイトルだけに惚れ込んで「俺には俺の生き方がある」と嘯いていた事を今では、恥ずかしく感じながらも本質的な部分では「俺には俺の生き方がある」を、あんまり良くない方向にず~っと引きずっています。今更後戻りも出来ませんし、軌道修正も困難な年齢になっちゃいました。だから、かっこよくは無いけれどせめてその生き方を貫いて今度は胸を張って(肩の力は抜いて)「俺には俺の生き方がある」と言いきれるように!「あの時」が有って後の「曲がりくねった道」が有ってそして、「今」が有ります。この先は、「俺の道がある!」 ↑↑↑叱咤激励のクリックをお願いいたします。 過去の“最高順位”は、【1位/1016サイト中】です。(^。^)v
2011年11月25日
いつも、ご訪問・応援ありがとうございます。 ↑「勝ちっ!」とひと押し↑7月6日に、流星号を綺麗に洗った後に「流星号の雄姿と記録」のタイトルで投稿しようと、写真まで撮ったのですが入手したての「すま~とふおん」で画像アップする術がわからず、そのままになってました。改めて・・・ 「流星号」です。 2年と9カ月当初は、月に18日ほど、最近では、月に10日~15日ほど流星号で外回りに行きました。 総走行距離:9762km 総給油量 :220.62リットル 平均燃費 :44.25km/リットル若かりし頃に、愛車「SUZUKI GSX250L」にて日本一周をした頃には250ccバイクなのに最高燃費「44km/リットル」を叩きだした「安全運転TNP(低燃費)ライダー」としては、営業外回りとは言え50ccバイク(Honda Today)での燃費44は不満ですが、常にフルスロットルで、限界の時速45kmで走ってきたので、いたしかたありません。もう少し、まめにオイル交換してやればよかった。限界いっぱいの時速「45km」(下り坂では、「50km」も記録!)で走りながらも、納得の燃費・・・相棒としては、これ以上望めないヤツでした。まるで、我が身の生き様を写すかのような・・・(T_T)あらためて、ありがとう!流星号!これからは、俺様一人でも立派に生きて行くぜ!!! ☆★☆初めて訪れて頂いた方、最近読み始めた方・・・へ★☆★ 「はじめにお読み下さい~Read Me」のページを作成しました。 是非、ご一読下さい。⇒【はじめにお読み下さい・・・Read Me】 【はじめにお読み下さい・・・Read Me (2)】 【はじめにお読み下さい・・・Read Me (3)】 ※携帯電話画面からは閲覧できないようです。(TへT) 現在、工夫しております。暫くお待ち下さい。 ←Which do you like? → 【センター試験:目標900点満点!】 1日1クリック!応援に、一口のって下さいませ! 勝ち癖を付ける為に、自ら「かちっ(勝ち!)」とクリックしてます。 ここまで来たら【かむ太郎劇場】の行く末を とことんお付き合い下さいませませ。 今までの最高順位は、「1位/1016サイト中」です。 ヽ(゚◇゚ )ノ
2011年07月09日
西暦671年、6月10日天智天皇の時代に日本で初めて『時計が時を告げた日』に因んで本日は『時の記念日』です。当時は『漏剋』と呼ばれる水時計だったようです。小学生の頃、図画工作で『時の記念日』のポスターを作りました。イメージを絵にする事が苦手だった私は前月(5月)の『愛鳥週間』のポスターも未完成のまま二つの課題を抱え、途方に暮れていました。写生大会や通常の図画の授業でも私だけ、時間内に完成させる事が出来ないのです。窮すれば通ず!書きかけの愛鳥週間のポスターは、時間をかけて着々とメインキャラが出来上がっていました。インターネットなどない時代、図書館に通い模写し、アニメ風にデフォルメした『朱鷺(とき)くん』です。もう少しで完成ですが、その後更にもう一枚書き上げるパワーは残っていません。『愛鳥週間』と大きく書かれたポスターですが、急遽、朱鷺くんにプラカードを持たせて『6月10日は、 “ トキ ”の記念日!』としました。これで二つの課題はクリアーぢゃ!(^^)ぐっどあいであ…も先生には理解されませんでした。(-_-)数日、『居残り』になったのは言うまでもない。(TへT) ↑↑↑叱咤激励のクリックをお願いいたします。 過去の“最高順位”は、【1位/1016サイト中】です。(^。^)v
2011年06月10日
多額の借金を背負い、ドサ回りのような生活をしていた頃『競馬で借金完済するぜ!』と決意し、それまでの『素人買い』を一切止めて『確率理論』『ゲーム理論』『ゆらぎ理論』などを独学で学び、独自の『馬券理論』を構築…かなり精度を上げ、実戦でも成果を上げ始めた頃茨城県日立市の古本屋さんで買った本に『コーシーシュワルツの不等式』を見つけました。突き詰めて、確率理論にまで展開させるととてもじゃないが、手に負える代物ではありませんでした。宿代を浮かす為、トラックの荷台で乾電池のランタンを燈しながら難解な本を読み、眠くなれば枕とし、親しんでおりました。結局、『コーシーシュワルツ』は名前だけが記憶に残っただけでしたが、『馬券理論』はかなり良い出来になりました。ところが、いざ、大金を賭ける段階でビビってしまい、『理論』とは違う固い馬券を買って、結局一瞬にして『おけら』になり、頭ん中真っ白になったのも、今となっては懐かしい記憶です。数学の参考書を読んでかれこれ20年ぶりに懐かしい名称を見つけた次第です。これでまた脳細胞が若かりし頃を思い出してパワーアップいたします。良い思い出も、悪い思い出も、全て燃料となります。(^^)v ↑↑↑叱咤激励のクリックをお願いいたします。 過去の“最高順位”は、【1位/1016サイト中】です。(^。^)v
2011年05月12日
本日は、爺様の命日です。昭和57年没…ですので、あれから29年も経ちました。『一発当てる!』事を人生最大のミッションとして信州の山奥に生まれ、若い頃に北海道(帯広の南あたり)に渡りいろんな事をしていたようです。半端な土地を耕して、近接する田畑を巻き込みまとまった大きな農場にして、二束三文の土地をそれなりの『商品』にして売って儲けたり、小規模に蜂を飼っている農家から、巣箱単位で買い取って一大コロニーにして『養蜂場』に仕立てて販路を含めて売っ払う。若かりし頃の親父と共に、そんな『数年単位の博打』を繰り返し、そこそこ財を成したようです。今で言うなら、『地上げ』『M&A』ですな。私と違って、爺様も親父も直情的で過剰な博愛主義で、行き過ぎた江戸っ子気質…要するに、『お金と女性にだらしが無い』故に、そこそこの財は、簡単に消滅し、結局は、爺様が他界した翌年に親父が他界した時点でかなりの『負債』として私の代に回って来ました。(-.-)昭和40年代…板垣退助の百円札か、岩倉具視の五百円札が相場だったお年玉も常に自分中心の爺様は、『自分ならこれぐらい欲しい』を基準としていたので、岩倉さんでも十分舞い上がる小学生の私にも『聖徳太子の壱萬円札』でした。(^O^)晩年、現金を持ち合わせていない時は、どこかに電話をすると、すぐに見知らぬ人が飛んで来て裏庭の盆栽を二~三鉢見繕って『聖徳太子様』をかなり大勢、爺様に手渡すとニコニコして帰っていきます。そうして、爺様はその中の一枚を私にくれます。みかんは、皮を剥いて渡さないと、皮ごとかじるし、バナナや梨は言うに及ばず、ぶどうに至っては、皮ごと…どころか房の枝ごとバリバリ食べるので爺様が何も言わずとも、周りにいる奴がちゃんと皮を剥いたりしなけりゃいけません。爺様や親父は、決して周りの人に要求などしない『控えめ』な人達なのです。(-.-)聖徳太子が何人も腹巻から溢れ板垣退助そっくりな顔立ちで(実際似てた)(売ったら高いらしい)盆栽に囲まれ、ぶどうを房ごと、バリバリ食べている…今でも、これが爺様のイメージです。お年玉やお小遣を貰う時以外は、あまり近寄った記憶がありません。(-。-)かむ太郎家は『漢字二文字』の、ありふれた苗字ですが、それに連なる爺様の『漢字四文字(合計六文字)』の名前(ふぁ~すとね~む)は有りそうで無い(今まで同じ名前は見た事が無い)存在感とインパクトの在るウィットに富んだものです。しかも、十人中九人は『この名前がついた理由』を言い当てる事が出来るでしょう。 ↑↑↑叱咤激励のクリックをお願いいたします。 過去の“最高順位”は、【1位/1016サイト中】です。(^。^)v
2011年04月30日
中学2年生の時に、 『ある日突然!』…という感じで今の「人格・考え方・生き様」の礎となる『自分』が現れて、それまでの自分と入れ代わったようにがらりと【己(おのれ)】が変貌しました。いまだに何故かわかりませんが…。それと同時に、それまでの記憶が“瞬間冷凍”されて心と脳の片隅に封印されました。一瞬…と思えるような感覚でしたので完全に冷凍しきれなかった記憶は断片的に残りました。『良い記憶は残して悪い記憶だけ封印』…という選別作業も出来なかった為封印された記憶も残ってしまった記憶も統一性も脈絡もありません。偶然何かのきっかけで呼び起こされた『良い記憶』を、調子に乗ってズルズルと引っ張り出すとそこには、少しばかりの、撒き餌のような『良い記憶』に繋がった『思い出したくなかった記憶』がしっかりとしがみついています。しかも、撒き餌の『良い記憶』の何倍もの重さで・・・(-.-) ※もちろん、「封印された」というのも 後々、それらが解凍されて現れたから 「封印されてた」とわかっただけで、 当初はそんな事はわからず ただ、『な~んか記憶が途切れ途切れやなぁ』 ぐらいにしか感じていませんでした。最近までは、『中学2年生』が境い目でそれより過去の事の記憶が突然蘇る事だけ警戒していれば何とか平静を維持出来ていましたが、『楽しい作業』となりつつある【物理の問題を解く】【数学の問題を解く】という行為にも、しっかり絡み付いた『思い出したくなかった記憶』が絡み付いていたようで時折何かの拍子に蘇って現れるようになりました。 「ケーレー・ハミルトン」とか 「漸化式」とか 「ケプラーの法則」とか そんなのに絡み付いているようです。幸い、今の私の『心と脳』は、大概の事には動じない程に図太い神経が張り巡らされあちこち補強された状態で成り立っていますので特に動揺する事もありません。地震で言うなら、「震度8~9」ぐらいまでは耐えられます。 『幼少期~中学2年生以前』と 『高校卒業後の2年間』…が、『記憶を封印したい期間』のようです。従って、働きながら受験勉強していた18歳~20歳の頃の『第2期の封印したい時期』の記憶は、当然【物理】【数学】とも、緊密に連動するわけです。それでも私自身は、何とかそんな危うい自分を曲がりなりにもコントロール出来るようになり張り子のような人格ながらも破れたり壊れたりする事無く過ごせています。医学部受験を決めた時から参考書や問題集を集め始めましたがその中で、特に【旺文社】【数研出版】の本はろくに吟味もせず使うのを避けていました。最近になって、結局、肌に合う(脳に合う?)事がわかり好んで使うようになりましたが、この二つの出版社の本は高校生の頃学校で使っていたのをそのまま18歳~20歳の時期に使っていたのでどうやら、そのあたりで本能的に避けていたようです。使い出すと、『良い記憶』と『当時の知識』が断片的に蘇るのですが、繰り返し読むうちに、結局、撒き餌におびき寄せられたように『思い出したくない記憶』にもぶち当たってしまいます。それでも、今の私はそれらを踏み越えてでも【物理】や【数学】の学習を深めねばなりません。幸い、私の「将来への意志」は「過去の呪縛」よりも強いものになっているようで少し時間をかけながらでも『過去の記憶』ときっちりと対峙して正面から突破できるようになりました。次から次へと現れる「封印を解かれた記憶」は粉々に打ち砕いても、少しずつ沈殿物が残りますが、ある程度溜まって、どうしようもなくなったらマドンナ(愛車セルボ)をぶっ飛ばして海でも見に行きますかね・・・(^^)ま、そんな感じで今の私は野望を実現する事しか考えていないので過ぎ去った「過去」に囚われて涙を流すような暇はありません。昨夜嫁様が、「そう言えば…昔はよく夜中にドライブしたねぇ…」と唐突に言いました。そうか・・・ 『幼少期~中学2年生』 『18歳~20歳』だけでなく、嫁様と一緒になってからの20数年も断片的に記憶を封印している時期が実はたくさん有るのです。借金返済に追われ30代~40代 (・・・今に至る)借金返済の為だけに生活していた日々・・・風呂も無くて、3日に1度銭湯に行き、夏は台所で濡れタオルで身体を拭いてました。嫁様は、実家(当時も今もすぐ近く)で風呂に入ってましたが「大事な娘に苦労させている」立場の私は、のこのこと嫁様の実家になど行けません。夏場の寝苦しい夜はよく車に乗ってふらふらと宛もなく夜の街を彷徨っていました。足を延ばして海へ行く事もしばしばでした。(ガソリンは、嫁様の親のガソリンカード使用)車には何本かのカセットテープが有って繰り返し繰り返しそれをかけて運転しながら熱唱しておりました。私も、嫁様も「借金を返す為だけに日夜働き ただ寝るだけの為の箱のような部屋」に居る事が耐えられずおんぼろ車で夜の街を彷徨う事に儚い安らぎを感じていたようです。最近は、「宛もなくどこかに行く」という事は、全くなくなりました。ぼろ家ながらも、家に居る事にお互い安らぎを見出せるようになり、以前は考えられなかった「家でのんびり・・・」という、世間並みの事もできるようになりました。「そう言えば…昔はよく夜中にドライブしたねぇ…」と、嫁様が口にするのは、今まで聞いた事がりません。「夜中のドライブ・・・」=「辛い記憶」なので、嫁様の中でもおそらく封印されていた事だと思います。今の土地に引っ越して来てから十年以上になりますが、引っ越してきた当初は、嫁様はまだ以前の暮らしの記憶を引きずっていてよく「過呼吸」をおこしたり、ヒステリックに泣き叫んだりしていました。決して裕福では無いが、「普通の家」で育った嫁様と違い私は、幼少の頃より「自己防衛機能の修練」が日々の無意識下の日課でしたので苦境を何とか乗り切る術は持ち合わせているのですが「普通の子」だった嫁様が自己防衛の機能も術もなく私と同じ暮らしを何十年も続けるのはなかなか大変な事だったはずです。ですから、当然のように私の感じる「苦労」に比べて嫁様の感じる「苦労」は何倍・何十倍も大きく重いものだったと思います。そうして、嫁様も、私以上に「時」を封印し、「記憶」を封印して何とか自分が壊れるのを防いで来たわけです。そんな嫁様が「そう言えば…昔はよく夜中にドライブしたねぇ…」と口にして当時を懐かしむ発言をした事は私にとって、驚きであると同時に罪をひとつ許されたような何とも言えぬ安堵感をもたらしました。あの頃の記憶は決して拭いきれないけれどようやく、最近になって「過去」を振り返っても「過去」に引きずり込まれる事無く前を向ける暮らし(・・・と言っても表面上の“暮らし”は 以前も今もたいして変わらないのですが・・・)を噛み締める事が出来るようになった感じです。根雪のように頑なに「心」を凍らせていた「過去の記憶」ですが、今の私が「将来の設計」をひとつひとつ確立するにつれて嫁様の心の根雪もだんだんと溶けて春に近づくようです。相変わらず、お金も無く時間も無く嫁様の両親からも「いつでも帰って来い」と言われ続けて何十年・・・の嫁様ですが、かつては、「実家に戻れば(離婚でもすれば)楽になる!」と思った事も何度もある事でしょうがここまで来た今となっては、もはやこの先の人生、行く末をきっちりと見届けて今までの「先行投資分」を回収せねば勿体無さすぎます。とっくに、「過去」の呪縛から抜け出し、それを上回る重さの「将来」を見据えて正面突破出来るようになった私より数年遅れではありますが、ようやく嫁様も、「過去」よりも「将来」に重心を置けるようになりいよいよ、後は「野望」をひとつひとつ実現していくだけです。お金さえ有れば「幸せは99%手にしたも同然」お金さえ有れば「嫁様は幸せ・・・なはず!」と思いながら、生きてきた半生です。結局、お金は追えば追うほど遠ざかり「お金が有れば幸せ」を実証することは出来ませんでした。反対に「お金が無いと不幸!」という事を痛感してきました。それでも、ようやく最近になって少なくとも、嫁様にとっての「幸不幸」は、お金以外のところにも存在するという事がわかってきました。現に、今の生活はこの十数年あまり変わっていません。ひとつだけ違うのは、私の心が「前を向いている」ことぐらいです。・・・こんな事を思いながら「男は、背中で生き様を語る!」と、したり顔で嫁様に語ると「あんたはいつも背中が曲がっとる!」と言われました。・・・ぎゃふん! ←今どき、こんな事言わんか? と言うより漫画以外で日常聞いた事がねぇぞ! 私の「究極の野望」は 現役医師で有りながら 「K-1」と「M-1」の両タイトルを保持! ・・・というものでしたが、 「M-1」が昨年末で終了した今となっては それは実現不能となってしまいました。 「K-1」も腰痛が芳しくないため “当分”出場は困難です。 かくなる上は、「医師免許」だけは 早く取得して、 「K-1」「M-1」に変わるビッグタイトルを 模索していこうと思います。 「M-1」のようなタイトルが再び出来た時のために 「求む!相方!」 ↑↑↑叱咤激励のクリックをお願いいたします。 過去の“最高順位”は、【1位/1016サイト中】です。(^。^)v
2011年02月07日
遂に…と言うかやはり…と言うか大相撲中継自粛が決定したようです。思い起こせば、私が大相撲に熱中し始めたのは昭和45年からです。当時は、横綱:大鵬・玉の海・北の富士大関:琴桜・清国・大麒麟・前乃山三役あたりには、長谷川、貴ノ花、輪島、高見山、魁傑他にも、二子岳、若浪、陸奥嵐、三重ノ海、藤ノ川などの業師黒姫山、富士桜、大受などの突進野郎多種多彩な力士が多く、今でも記憶に残る名勝負や迷勝負、珍しい決まり手などが目白押しでした。大相撲が始まると、自作の星取り表片手にテレビ中継の初め(十両の最後~幕内土俵入りあたり)から毎日観戦しておりました。当時(小学校5年生)の「将来なりたい職業」の選定基準の最優先事項は、ずばり!『夕方4時5分から、“家で”相撲を見る事ができる!』です。家以外で見る…なんて考えもしませんでしたし、ましてや、携帯できるテレビなんぞは手塚ワールド!その後は、力士が大型化し、多彩な技も減り次第に興味をなくし、世に言う『若貴ブーム』の頃からほとんど見なくなりました。大相撲中継を見る為だけに、幼い頃既に『自分の意志で夕方4時5分までに帰れない仕事』を選択肢からはずしてしまい、かなり偏った生き様を辿るようななった原点…その大相撲中継がなくなるとは!現状では、どっちみち見る事はできないのですが妙に淋しいものがあります。…そうせざるを得なくなるような原因を作った当事者は深く受け止めて頂きたいものです。(-.-) ↑↑↑叱咤激励のクリックをお願いいたします。 “瞬間最高順位”は、【1位/1016サイト中】です。(^。^)v
2010年07月06日
試験も全部終了し、後は「天命を待つ!」のみです。本日は、仕事も休みで、1日の~んびりと・・と行きたいところですが、元来怠け者の私は、エンジンのかかりが遅い上に一度休憩すると、いつまでたっても休みっぱなしになってしまうのです。(-.-)従って、試験が終わっても、決して手綱を緩める訳には参りません。試験全般を通じて、「英語力」の無さを痛感し、この先、医師となってもこのままではアカン!50歳を過ぎた今、改めて英語を習得しよう!と決意しておる次第です。・・と、如何にも最近決意したように言うてますが、実は、私が英語習得を目指すには涙無くして語れぬ過去があるのです。(TへT)遡ること21年、当時、いっぱしに事業展開をしていた私は、店舗拡充にあたり、一般顧客名簿「10000人」にダイレクトメールを送る事にしました。当時の郵便代は、確か封書が「62円」でした。 62円×10000人=62万円郵便局から「普通に」出したんではアカン・・大量に出すと割引も有りましたが、せいぜい15%引きぐらい・・・ 62万円×(100-15)%=527,000円そこで、思い立ったのが、「国際郵便」です。 ・・この話、以前にも書いたっけ?ま、いいか・・調べてみると、当時の香港(ホンコン)では、 ●「香港」⇒「日本」の国際郵便(封書)は、何と「1HK$(1香港ドル)」でした。当時のレートで、「1HK$=約16円」つまり、「10000通」のDMを香港まで“持参”して香港から日本へ出せば、約16万円で済むのです。従って、日本国内で「正当に」出すより36万円以上安上がりなのです。すぐさま「香港グルメツァー」に申し込み既に印刷済みだった封書や、案内書など10000セットを数個のスーツケースに詰め込み「国際郵便DM」を思い立って、10日後には私は機上の人となっておりました。香港に着くと、ツァーの手配ミスで部屋が無く、結局豪華な「ダブル」の部屋になりました。おかげで、部屋に入ってから荷物を広げ、「観光ツァー」「グルメツァー」を全てキャンセルし、徹夜で10000通のDM封書詰めをしました。翌朝、郵便局へ・・受付では、日本語も英語も通じない職員がただただ首を横に振るだけで、困惑しました。ようやく日本語が少しわかる人が現れ、事情を聞くと・・ 昨今、同じような“手口”で大量DMを送る日本人が増えてきた。 我々としては、売り上げになるから歓迎だが、 厳密には、違法行為にあたる可能性があり、 将来的には、日本側が受け入れを許可しなくなる。との事。何とか、交渉の末、 ●裏面の「会社名」「会社住所」が日本のものである。という難点を解消すればOK。となりました。大量のDMをホテルに持ち帰るような元気はありません。近くの露店で作成した「○○公司 香港 ○○Co.Ltd Hongkong Branch」というゴム印を全ての封筒に押し、さらに裏面の日本の住所をマジックで全部消しました。大きな郵便局のガラス越しの一角で変な日本人が、大量の郵便にスタンプを押し、マジックで、線を引いている光景・・1000通、2000通を超えると、手つきも次第にマシンの如く鮮やかになっております。道行く観光客が数人、訳もわからぬままに写真撮影なんかしちゃっております。郵便局開店から閉店までず~っと、ロビーの一角で、実演販売の如く、パフォーマンスをしておりました。結局、その日は、半分しか出来ずに、DMを郵便局に預かってもらい、夕方、ホテルに戻ってすぐに寝入ってしまいました。翌朝、前日とは別のガイドさんが、起こしに来ました。ガイドさんは、観光客をしっかりとコース内の店舗に連れて行って買い物をして貰わないと実入りが減ります。従って、前日の事情を知らない彼女は、私が一人だけ高級な部屋に居る事情も知らず、「上客」と勝手に思い込んでいたのでしょう。私が、この日もツァーを断ると、烈火のように怒っていましたっけ・・前日に引き続き、開店時間に私が現れると、「へ~い!おまえの席を用意しておいたぜ!ベイビィ」ってな感じで、局長さんが私の席を指差します。昨日と同じロビーの席には、 ●ポットに入ったコーヒー ●近くの食堂のメニュー ●前日より明らかに“高級”な椅子が揃えてありました。「将来的には違法・・かも」とは言え、目の前の10000通の「国際郵便」は、明らかに「売り上げ」に繋がる美味しい材料なのです。急遽VIP扱いとなった私は、その日も黙々と「DM作成実演」をこなし、ようやく閉店間際にすべてのDMを「国際郵便規格」に改訂しました。そして、局員達の拍手と意味不明の歓声の中、10000通(正確には10000と、500通ほど)のDMを“正式に”受理してもらいました。お会計は・・ 「1HK$×8000通」=8000HK$となっておりました。これだけの量になると、いちいち全部数えないようで、こちらからの「申告」でそのまま通ってしまうようでした。10500通ほど有ったのを、「あわよくば・・」で、「10000通」と申告した小心者の悪党である私をせせら笑うかのように一気に2割もディスカウントしてしまい、「え?」と驚く私にウィンクしながら、「よく頑張った頑張った・・8000通だ!」8000×16HK$=128,000円おお~!v(^。^) 更に32000円も得したぜ!結局、2泊3日の「香港グルメツァー(しかも豪華部屋)」も、何も満喫出来ぬまま、全日程が終了。後は、明朝最後の「おみやげ屋さん」に連れられて一路飛行場へ行き、ツァーは終わります。このままでは勿体ないな・・せっかく、合計で、 「527,000ー(160,000-32,000)」そこから、ツァー代69800円を引いても、約33万円も節約出来たのですから、ちょっとぐらい贅沢してもバチは当たらんだろ・・と、そのまま夜の街へ繰り出したのです。もともと、観光の予定はなかったので、ガイドブックなどは持っていません。片言の英語を駆使しながら、気が付くと、夜の香港の怪しい街並みへ・・屋台を2~3軒はしごする頃には、すっかり香港通気取りです。このあたりでは、クレジットカードなどは使わず、すべて、小銭でたらふく食べる事が出来ました。途中で、小銭がなくなったので、歩きながらホテルに戻り、少し現金を持ってホテルで「オススメ」の店でもリサーチして、もう一度繰り出そう・・と考えてると、「Welcome American Express」の看板が・・当時は、まだクレジットカードも沢山持っていました。表通りの小洒落た感じのバーに恐る恐る入ると、中には、いろんな人種のお姉さんが・・「しまった!」と思いましたが、既に「一番奥」の席に案内されてしまってます。「ビール1杯だけ飲んですぐに出るべし!」そう思い、ビールを頼むと、突然、「インド人」「中国人」「スペイン人」と思しき、美しきお姉さん3人が、私の隣に擦り寄ってきました。 「Can you speak English ?」と問われて 「Yeah」と中途半端に答えると、それぞれ、英語だか各人の母国語だかわからない言葉でさかんに何かを訴えかけてきます。困惑していると、店のママらしき女将さんが出てきて流暢な英語で、「連れ出しOK!」みたいな説明をしております。細かい説明は、よくわかりません。適当な返事をしていると、何故か「インド人」と思しきお姉さんが他の2人を奥の席に戻して私の隣に来ました。「Thank You」だけはわかりますが、後は意味不明・・ようやくビールが来たので、一気に飲んで、私は「Account Please」と言いながら席を立つと、女将さんは、「Short time ? or All night ?」 『ゲッ!こりゃアカン!』と思って 「NO! Thank you」とはっきり言うと「Hmmm・・ Cancel?」と聞いて来たので「Cancel !」・・通じたようです。インド美人は、「さのばびっち」みたいなことを言い、女将さんは不機嫌そうに勘定書きを出してきました。 「3000HK$」 3000×16=48000 『げ~っ! ビール1杯 48000円!』それでも、無事に戻れるだけラッキーと思わねば・・と言い聞かせながら、勘定を済ませました。・・・それでも、インド美人は、まだ「連れ出してくれよ!ケチ!」みたいな感じで叫んでおりました。4万8千円は、痛かったが、まぁ授業料だと思って・・無事帰国し、本来の目的であるDMもその後、順調にお客さんの下へ届き、「国際郵便」であった事も目を引き、費用は、格安!効果は予想以上・・という、上場の結果になりました。v(^。^)被害は最小限・・と思われたのも束の間、1ヵ月後に、アメリカンエキスプレス様から来た請求書には 3000$ と記載されていたのです。 ※「3000HK$(4万8千円)」ではなく、 「3000$」です。 (当時1$=約130円、従って、約39万円) 英語習得するぜ! ・・と言うより、変な店入るな!って・・ 表向きは、「小洒落た店」だったんですぜ。試験は終わって、発表まで悶々とした日が続きますが、この21年前の悔しい過去を思い出し、気を抜かずに英語の勉強をします。 ↑ ↑ ↑ 勝ち癖を付ける為に、自ら「かちっ(勝ち!)」とクリックしてます。 皆さんの、「勝ち!」のお裾分けを頂ければ百人力! 今までの瞬間最高順位は、「3位/929サイト中」です。 ヽ(゚◇゚ )ノ
2010年03月13日
季節が移り行くのは速いものです。季節の積み重ねである年月も、矢の如く過ぎます。8年前の本日、当時は、一日中家に篭り、昼夜逆転の生活をしていました。WindowsMeパソコンを相方に生活費を稼いでいました。その日も、夕方嫁様に起こされ食事を摂り、テレビを付けながらパソコンに向かっていました。ぼんやりと目に写るテレビ画面は映画の大掛かりな特撮シーン…にしか見えませんでした。とんでもない事が起こった!と、認識するまでに相当時間がかかりました。数十年前に、米国内で「火星人がやって来た」というラジオドラマが放送された時、あまりの出来栄えに多数の人々が「すわ!火星人襲来!」と、大パニックになったそうです。8年前の貿易センタービルもこの流れで、「アメリカ人ってのは、ジョークも桁違いやなぁ(-.-)」と思っていました。年月は経っても、記憶からは消えない日です。2009年9月11日 13時39分4秒
2009年09月11日
アポロ11号が月面着陸してから、40年の歳月が経過しました。1969年7月20日20時17分40秒(UTC) ※UTC=世界標準時日本時間では、明日21日の午前5時17分ですから、夏休みに入ったか入らないかぐらいの早朝でした。(勿論、当時は「海の日」の祭日など有りません。)寝ぼけ眼で見た映像は今でも脳裏にぼんやりと残り今でも、何がしかのエネルギー源のひとつになっています。月、とか宇宙への憧れと言うものは太鼓の昔から人類共通の「夢」なのでしょう。夜空を見上げると、無数の星が、人間のちっぽけな存在を見せ付けるように何千年、何万年も前から光っています。行き詰ったときは、時折空を見上げますが、見上げた先のひちつ、「月」に人間の足跡が有る・・・というのもすごいことです。 ↑ ↑ ↑ 勝ち癖を付ける為に、自ら「かちっ(勝ち!)」とクリックしてます。 皆さんの、「勝ち!」のお裾分けを頂ければ百人力! お裾分けを頂いてばかりですので、僅かばかりの私の「らっき~」を お裾分けさせて頂きます。どり~むず・かむ太郎(Dreams Come True!) 今までの瞬間最高順位は、「4位/631サイト中」です。 ヽ(゚◇゚ )ノ
2009年07月20日
例年、梅雨時の真っ只中に「夏至」は到来します。「春分の日」「秋分の日」は祭日でもあり、お墓参りとか、行楽とかそれなりに「有り難味」を享受します。また、「冬至」も南瓜(かぼちゃ)を食べるとか、柚子(ゆず)を入れた風呂に入るとか何かしらの風習が残っていますが、この「夏至」は、これと言って思い当たるものがありません。(-_-)「1年中で一番日が長い」とか、威張られても梅雨空に遮られて「日照時間」もくそも有りません。(-_-)今年は、「父の日」も重なって、ますます存在が薄い「夏至」です。「母の日」に比べて、今ひとつ盛大さに欠けるような日ですが、私も幼少の頃には、「父の日」の記憶が、あまりありません。私の父は、「巨人の星」の“星一徹”が酔っ払った時をそのまま毎日演じているような破天荒なめちゃくちゃな男でした。毎日、ビール数本、お酒最低1升(1.8リットル) 信州長野「七笑(ななわらい)」と 地酒「此花(このはな)」を愛飲。を飲み干し、タバコは、「缶ピース」「ハイライト」「ホープ」「チェリー」「蘭」を日に4~5箱。“貯蓄”のメインバンクは、「岐阜競輪場」「大垣競輪場」週に3回は、我が家で「花札賭博」ご開帳・・・趣味は、●「製図」・・・将来「ビッグ」になったときの「自社ビル」の図面を特に念入りに描いてました。 私が中学に上がるときに「技術家庭科」で 「製図セット」を購入するときに 学校指定の物ではなく、舶来ものらしき 「製図セット」を調達してきました。 いざ授業で使う日には、親父が使っていて 結局授業では・・・「忘れました。(-_-)」●「ドキュメンタリー撮影」当時では珍しい「動画撮影機」を購入今で言う、ビデオカメラですが、昭和40年代で、80万円しかも、デカイデカイ・・・そいつを、車に積んで、台風の日や、雪の日、正月には谷汲山などへ出かけて、「撮影」「インタビュー」を敢行。より良い映像や、声を拾う為に「N●K」(某公共放送会社)の腕章まで偽造し、車にはこれまた「N●K」」の三角旗までつけてあちこちで撮影をしてました。いろんな事に手を出してお金が有る時期もあれば、借金取りが毎日押しかける日も有りジェットコースターのような幼少期を送っております。何かの事業に大失敗こいて、何もかも借金取りのお兄さん達に持っていかれ家が閑散としてしまった時に「楽しみは、タバコと酒だけになっちまった。」としみじみしていた姿を思い出します。その年の、「父の日」に「へそくり」をはたいて買ったのが アクア・フィルターです。タバコの吸い口に装着して中の特殊フィルターと、水によって有害な「ニコチン」をカットする。という「スグレモノ」です。昨今の主流タバコが「ニコチン:0.1mg」に対してピースは、「ニコチン:2.4mg」で実に24倍の含有量です。 実験値により、「2.7mg」とか「1.9mg」とか・・・「アクアフィルター」を使って半分になったとしてもせいぜい「ハイライト」になった程度か・・・「アクアフィルター」も、子どもの小遣いで買うには限界があり、かと言って、親父自ら「あくあふぃるたー」などと言う“ヤワ”なものを買うようなタマでは有りません。やがて、私に気遣ってくれたのか「ピース」から「ハイライト」に変わっていました。※間違っても、「健康を気遣って」という事は有り得ません。「こんな体に悪いモンを、お金出して買って吸うなんて 大人って、なんて馬鹿なんだろう。」と子供ごころに思っていましたが、今となっては、親父のDNAをしっかりと受け継ぐ「馬鹿な大人」になってしまいました。来月、定期健診の際には、「禁煙外来」(2回目)も受診して、担当医から、更なる厳しい指導を受けます。「血糖値改善」「断煙」により、野望実現に「18歩」ぐらい前進するのは確実です、。【追記】一晩寝かせた「朴葉(ほうば)寿司」は、朴葉の風味が凍み込んで良い塩梅で絶品した。v(^。^)※朴葉(ほうば)は、他に例えると「柿の葉寿司」とか「柏もち」のように葉っぱの風味をシャリ(もち)に移すとともに保存食として使う「器」の役割です。※良い子は朴葉(ほうば)自体を食べてはいけません。「朴葉(ほうば)味噌」も、味噌に風味を移して食すものです。 ↑ ↑ ↑ 勝ち癖を付ける為に、自ら「かちっ(勝ち!)」とクリックしてます。 皆さんの、「勝ち!」のお裾分けを頂ければ百人力! お裾分けを頂いてばかりですので、僅かばかりの私の「らっき~」を お裾分けさせて頂きます。どり~むず・かむ太郎(Dreams Come True!) 今までの瞬間最高順位は、「4位/631サイト中」です。 ヽ(゚◇゚ )ノ
2009年06月21日
6月13日に「2代目タイガーマスク」として一世を風靡した三沢光晴さんが死亡したとのニュースを目にしました。(TへT)私は、幼少の頃より、いろいろな苦難に直面した時、主に、漫画から人生の教訓を得てその都度、漫画のように立ち上がる自分の姿を思い描いてそれなりに這い上がって来ました。1984年は、私が新規に仕事を始め苦難の幕開けの年でした。この年に、「2代目タイガーマスク」が登場しました。お披露目の試合では、観客席から「サ・ヤ・マ」コール (初代タイガーマスクは、“佐山聡”です。)に混じって、「ミ・サ・ワ~」のコールが有ります。当時のプロレス界は、「ジュニアヘビー級」全盛で初代タイガーマスク、ブラックタイガー、ダイナマイト・キッド、など語りだすとキリが無いほど煌いておりました。そして、1990年5月14日自ら、試合中にマスクを剥ぎ取り「三沢光晴」としてリングに立ちます。その後も、三沢は進化し続け当時「この技は、誰にも破れんぞ・・・」と、思っていた「“テリー・ゴディ”のパワーボム」をまるで、アクロバット体操のように打ち破って返し技を掛けるに至った時はほれぼれとしたのを覚えています。※三沢は、高校時代レスリングで国体優勝。 中学時代は器械体操をしていたようです。 その土壌が有ってこそ、の返し技でした。その後、プロレス界は群雄割拠の時代を迎え「K-1」に代表される様々な総合格闘技が脚光を浴び始めると経営的にも困難になっていきます。三沢は「NOAH(ノア)」という団体を立ち上げ社長を兼任しながら戦いますが、この数年は、常に険しい表情だったように思います。「NOAH」の経営状況がどうだったのかはわかりませんが、いずれにしても毎日が苦難の連続だったと想像します。私は、格闘技全般が好きで、「K-1」や「PRIDE」をはじめ「修斗」「RINGS」などもビデオ鑑賞しておりました。昨今の「玄人受け」する総合格闘技も息を呑む場面が多く目が釘付けになりますが、三沢がタイガーマスクとして君臨していた頃の「全日本プロレス」や「新日本プロレス」はリング外にもドラマが待っていてわくわくしながら毎週見ていました。リング上でも、特にジュニアヘビー級の試合は体操の富田選手の「美しい体操」をもじって「美しいプロレス」と言っても過言ではなかったと思います。その魁が、初代タイガーマスクと2代目タイガーマスクの三沢光晴だったと思います。「漫画から飛び出したヒーロー」と当時言われましたが、私にとっては、「2代目タイガーマスク」というよりは「三沢光晴」というプロレスラーに今でも心に残る「生き様」を見せてもらった事を感謝しています。漫画のヒーローに勝るとも劣らない数少ない実在の男でした。それにしても、 いくら打たれても投げられても立ち上がってくるところから 「ゾンビ三沢」「受け身の天才」「アンタッチャブル」と称された。という三沢光晴が、バックドロップで死亡するとは・・・(TへT)三沢光晴さんのご冥福を心からお祈りいたします。(TへT) ↑ ↑ ↑ 今までの瞬間最高順位は、「4位/631サイト中」です。
2009年06月14日
皆さんは、「家庭の日」というのを御存知でしょうか?昭和30年(1955年)鹿児島県の鶴田町(現在さつま町)が発祥の地です。 鶴田町では、各集落の公民館長による研修がもたれました。 研修は、町や村に出かけていき、公民館活動や地域の青少年活動を視察し、 その実態を参考に公民館活動のあり方を検討するというものでした。 この研修視察を通じて提起されたのが、 家同士の繋がりは強い反面、家の中の家族の絆が薄れつつあるのではないか、 これに何とか歯止めをかける方法はないか、という問題でした。 加えて、農業を主な産業としたこの町では、 ゆっくり休むことすらできない農業従事者の多いことに気づかされ、 「農休日を設けては」という提案が起こりました。 この「家庭を大切にしたい」という思いと「農休日を設けては」 という思いが重なり、「家庭の日」という、 日本で初めての試みが産声を上げたのです。 そして、町を挙げての運動へと盛り上がってきたのです。 都道府県としていち早く「家庭の日」運動を提唱したのが秋田県で、 1965年(昭和40年)1月から第3日曜日「家庭の日」を県下一斉に実施し、 その4月、南国鹿児島県でも「家庭の日」が全県的に提唱されました。 1969年(昭和44年)の調査では、47都道府県の内42県において 「家庭の日」運動が主唱されておりました。 実施日においては、32県が「第3日曜日」を家庭の日としており、 8県が「第1日曜日」、その他「毎月5日」「地域別」としていました。 1977年の調査では、回答のあった2038市町村の内、 1275市町村で「家庭の日」運動を実施または提唱されていました。という経緯で発生した日です。我が岐阜県でも、昭和42年(1967年)に「岐阜県家庭の日を定める条例」という県条例で制定されております。この年から、大阪万博開催の昭和45年頃に向けて我が家は、「家庭崩壊」「経済危機」の道を歩み始めており、私は、カレンダーに印刷してある「毎月第3日曜日」の 「家庭の日 」という文字を見ては、 「けっ! な~にが“家庭の日”じゃい! 幸せごっこなんか、やってられっかい!べらんめぇ!」と、世間様の“普通の幸せ”をやっかむ小学生でした。いつの頃からか、カレンダーからは「家庭の日」の文字が消え、その存在自体を忘れておりました。何十年ぶりでしょうか・・・我が家のカレンダーに「家庭の日」とボールペンで書いてあるのを見つけました。このカレンダーは「書き込みスペース」が大きく、普段から、仕事の時間差が有り、顔を合わせる時間が少ない嫁様と私のスケジュールをお互いに把握する為の、いわば「グループウェア」です。 ※嫁様は、付き合いが広く月に何度かは 「○○先生と食事」とか「職員会」とか 「“ばば”と買い物」とか・・・ いろいろ予定が書き込んであります。 毎月、特にな~んにも予定が無い私は ちょっぴり悔しいので、 「資料探し」⇒古本屋さん散策 「市場調査」⇒コンビ二 などと書き込んで(勝手に)張り合っております。 本当に「飲み会」や「試験」があるときなどは メチャでかい文字で嫁様の予定欄にまではみ出して 「試験」 「飲み会」 と、イラスト付きで記入しております。「家庭の日・・・って何じゃい?しかも平日に?」との質問に、回答は ◎嫁様の勤める保育園を管轄する自治体では 「母子家庭」が増えている。、 ◎「父の日」でも“父親”がいない子 「母の日」でも“母親”がいない子 が多い。との事で、保育園の行事としては「父の日」「母の日」という言葉を使わず、一括して「家庭の日」を設けているようです。自治体なりの「配慮」のようです。私は小学生の時に両親の離婚により一時「母子家庭」を経験し当時の民法の規定に従って母親の旧姓を名乗りました。後に母親は再婚して今の姓になります。(あろう事か、再婚相手が“元夫”・・・ つまり“ヨリを戻した”訳です。)その後、一回り年下の弟が生まれましたが、結局、離婚、翌年オヤジは他界しました。当時の田舎の小学校で「姓が変わる」というのはとんでもない犯罪をおかしたかのような言葉に出来ない罪悪感が有ったものです。学期の途中で「あいうえお順」の出席番号を変えるわけにもいかず、「何で、この順番でこの名前?」「何で、途中で名前が変わったの?」事情を知らない先生は、まるで、取調べの尋問のようにデリカシーのない言葉を吐いたものです。(事情を知らないにしても、一人の大人として いろいろな点で欠落した教師が多かった・・・)その頃に比べると今では「シングルマザー」なんていう言葉が定着し「母子家庭」という一種の悲愴感をも漂わせる言葉から逆に「カッコええ」感さえ覚える響きです。嫁様の保育園に通う園児の「シングルマザー」達もそれぞれ「おしゃれ」で「明るい」人も多いようで、再婚して「姓」が変わる人も少なく有りません。それはそれで目出たい事なのですが、何ヶ月も経たないうちに再び(三たび?)「シングルマザー」となりその半年後ぐらいには、再び(三たび?四たび?)「新しい“姓”」になる方も一部に存在するようです。こうなると、「改姓」も年中行事と化して子供も「今度は、○○・・・っていう名前になったんだよ。」と、あっけらかんとしているようです。ただ、中には身辺整理が苦手な方もいて、「シングルマザー」でなくなったとたんに、「ダブルファーザー」となり、修羅場になる家庭も・・・子供は子供で、「シングルマザー」だろうが、「ダブルファーザー」だろうが、それなりに順応するようですが・・・小学生の頃は、「父親参観日」というのが嫌でした。オヤジが居る時は居る時で、白昼堂々と酒の匂いを漂わせ「カワサキ W1」・・・往年のファンには垂涎の名車またがり、デカイ音で学校に乗り込んできます。(イメージとしては、「星一徹」が一升瓶を背中に背負って サングラスをして大型バイクに乗る・・・感じ)「長期出張(自称)」などで居ない時は居ない時で、後になって「学校の都合で日時を決めるな!」と校長室に怒鳴り込む始末です。昨今の「モンスターペアレンツ」とはちょっと違い、「子供の事で云々・・・」では無くあくまでも、「自分本位」ですので、先生の私に対する「叱り方」が“甘い”時は職員室に、私をつれて行き職員の前で 鉄拳制裁をも披露します。「筋が通らない説明」「子供に甘い指導」には敏感でした。おかんが「しんぐるまざー」になってからはそんなオヤジでも、「父親参観日」になると恋しく思えてしまったものです。当時の田舎小学校では、「父親参観日」には、ほとんどの「父親」が参加していてその中に混じった「おかん」が何だかとても痛々しく感じてしまった事を覚えています。その後、一回り下の弟が小学生になっても「父親参観日」は存在し、父兄 として私がバイクにまたがり参加したのは言うまでも有りません。ただ、その頃は「バリバリ伝説」が「週刊少年マガジン」で連載され「バイクで参観日に来る」事が“カッコええ”事になっていて私が味わった「恥ずかしさ」を弟に味わってもらう目論見は見事にはずれてしまいました。弟の時代も、まだまだ田舎では「母子家庭」も少なく私と違い、物心付いた頃から父親がいなかった弟はそれなりに、寂しさや悔しさを味わったでしょうが、今では「子煩悩」なオヤジになってます。その弟の家のガレージには、今「は~れ~ だびっどそん」様がいます。・・・今でも、「父親参観日」なんてのが有るんでしょうか?ネーミングといい、「日曜日限定」といいいろいろと「文句を言いたい」行事です。 ↑ ↑ ↑ 勝ち癖を付ける為に、自ら「かちっ(勝ち!)」とクリックしてます。 皆さんの、「勝ち!」のお裾分けを頂ければ百人力! 今までの瞬間最高順位は、「4位/631サイト中」です。 ヽ(゚◇゚ )ノ
2009年05月17日
かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな もゆる思ひを 藤原実方朝臣(ふじわらのさねかたあそん)「後拾遺集」にある歌で、「百人一首」の51番です。数少ない岐阜県の「伊吹山」が出てきます。 (半分は滋賀県ですが・・・)この歌を分析すると、五・七・五・七・七 ・・・の僅か31文字にこんなにも内容が詰まっているのか!!!・・・と改めて日本語文化の奥深さに驚嘆します。 【かくとだに】 「かく」は「このように」の意味の副詞です。 「だに」は打消しの副助詞で、「~すら」とか「~さえ」を意味します。 「かく」は、ここでは「あなたをお慕いしている」ことを示しますので、 「このように(あなたをお慕いしていると)さえも」という意味を示します。 【えやは伊吹の】 「え」は副詞「得(う)」の連体形で、反語の係助詞「やは」を従えて 不可能の意味を表します。 「えやは~いふ」で「言うことができない」となりますが、 「いふ」を「伊吹(いぶき)」と掛ける掛詞になっています。 【さしも草】 ヨモギのことで、お灸に使うもぐさの原料になります。伊吹山の名物です。 「伊吹のさしも草」は下の「さしも」に掛かる序詞です。 【さしもしらじな】 「さ」は指示の副詞で、「し」と「も」は強意の助詞。 「な」は詠嘆の間投助詞で、 全体として「これほどまでとはご存知ないでしょう」という意味です。 【燃ゆる思ひを】 そのまま「燃えるようなこの想いを」という意味です。 「ひ」は「火」に掛けた掛詞、 「さしも草」と「燃ゆる」と「火」は縁語です。 また、「思ひを」は前の「知らじな」にかかる倒置法になっています。 【かむ太郎訳】 ~じゅてぇむヴァージョン 私の故郷の岐阜県には伊吹山という山が有ります。 そこには、蓬(よもぎ)が昔から沢山生えてます。 蓬は、「餅草(もちぐさ)」とか「艾(もぐさ)」とも呼ばれます。 蓬の葉を乾燥させ「うす」でついて葉の裏の白い繊維を 取り出したものを「艾(もぐさ)」と呼びます。 お灸に使うもので「指燃草(さしもぐさ)」とも言います。 お灸をすえると、じわじわと温度が上がって、 体を焼け尽くすかと思うほど熱くなります。 ・・・そう、私の思いはこの伊吹山の指燃草のように 身を焼き尽くすほどの熱さなのです。 あなたへの気持ちさえも伝える事ができないのに、 まして、この思いがこれほどのものだとは あなたは知らないでしょうね・・・(-_-) この頃の歌は、一歩間違うと「? すと~か~ ?」とさえ思われかねない物が多々有ります。まあ、現代の歌もそうなんですが・・・ (相手の事が気に入っていれば「純愛」とか 「マメな人」「私を理解してくれてる人」ですが、 そうでない場合は・・・「す・と・~・か・~」?)この歌の作者「藤原実方朝臣」は、かの「清少納言」の恋人らしいので、ストーカーではなかったようです。・・・そうそう何でいきなり「藤原実方朝臣」かと言うと、作者より、「伊吹山」です。 <<<<<<<<本題>>>>>>>>1日夜から2日朝にかけて伊吹颪(いぶきおろし)・・・六甲颪のようなヤツがメチャメチャ強く、突風が吹きまくりました。ぼ~っとしてると、体も飛ばされそうな勢いです。旗や、看板やゴミバケツが飛んでました。タイヤが積んであるラックも倒れるぐらいの大惨事!(あ、昨夜は、ガソリンスタンドの夜勤です。) 高校生の頃、私は陸上部に所属してました。(と言っても、特に運動が盛んな学校ではないので 「運動部」という感じではなく、「先輩と後輩の交流の場」 ・・・という雰囲気でした。) 「県大会でベスト4を目指す!」とか 「インターハイで行くぜ!」とか大きな目標も無い平和な倶楽部です。2年生の時に、県でも有名な陸上の先生が赴任して来て「なんで俺が、こんなやる気のない学校へ?」と嘆いていました。血と涙と汗・・・にはあまり縁が無く「体力づくり」程度の練習ですし、もともと素質があるような奴は陸上の強い学校へ行きますので、名コーチとしては、宝の持ち腐れだったわけです。それでも、名コーチとしての性でしょうかいろいろ工夫をしてました。100メートル走などの短距離種目はスタートがその命運をわけます。逆に言えば、スタート時のロスが無ければ結構タイムは伸びるものです。私たちは「110メートル走」をいつもやってました。自分のタイミングでスタートして、10メートル走った所(線が引いてある)からストプウォッチを押します。つまり110メートルのうち、後の100メートルのタイムを計ります。すると、最初の10メートルで加速が付いてから計測する為「おおっ!!!」というタイム続出です。私の場合は、普段100メートル「12秒0」ぐらいだったのがその計測では、最高「11秒5」ぐらいまで飛躍的にアップしたのを覚えています。 (この程度でも4×100mのリレーに出てましたから 如何に弱い学校だったか想像できるかと・・・)そして、その日はやって来ました。伊吹颪吹きすさぶちょうどこんな突風の吹く日でした。野球部や、テニス部、ハンドボール部などはさすがに練習をしていません。いつも肩身の狭い中で練習していた陸上部が貸切です。何をやるのかと思ったら、いつもの110メートル計測です。ただし、いつもと「スタート⇒ゴール」の向きが逆です。 そうです。強烈な伊吹颪を背中に受けて走るのです。しかも、10メートルの“助走”付き。驚く無かれ、その日の計測は 「10秒8」です。エースの「H君」は、なんと「10秒0」という世界にも通用するような記録を叩き出しました。「走る」というより「飛ばされてる」感じです。途中で足が付いていかずに転がる奴が続出。私も最後は、とんでもない突風に見舞われ転がりながらのゴールです。一人当たり、3回~5回ほど計測して ◎普段よりタイムが1秒以上上がった者 7名中7名 ◎出血した者 7名中7名 という驚くべき結果でした。血まみれの生徒7名が押しかけた保健室でも驚きの声が充満していました、この時、校庭の桜の枝は強風で折れ、自転車置き場は当然全部将棋倒しあちこちで突風による被害が起こりました。・・・その後、もともと素質も何も無いチームでしたが県の大会で私の出場する「4×100mリレー」が「3位」となる快挙を成し遂げました。(因みに有力校2校がバトンを落とすという“いわく”つき)宙を浮くように突風の中を走った(飛ばされた?)感触とケチを付けられようが、曲がりなりにも「3位」になった快感でその後、結構汗をかく練習をするようになりました。その時の事を思い出した、昨日の「突風」でした。人間、自信を持ったり、快感を得ると結構何でも一生懸命になって身に付くものです。勉強も然り!です。今日も己を鼓舞しながら叫びます。 「俺って、天才だぜぇ~!」 ↑ ↑ ↑ 勝ち癖を付ける為に、自ら「かちっ(勝ち!)」とクリックしてます。 皆さんの「勝ち!」のおすそ分けを頂ければ幸いです。 今までの瞬間最高順位は、「10位/542サイト中」です。 ヽ(゚◇゚ )ノ
2009年03月02日
本日は、休みです。(^.^)一日ぬくぬくと家の中にいました。夜はの夜間勤務ですので、軽く食事を済ませて外へ出ると北風びゅんびゅん夜勤も寒いし、明日からの外回りも寒いだろうなぁ以前、会社勤めをしていた時は管理職で、現場と「つかず離れず」の立場で、生産性向上や、品質管理を担ってました。「つかず離れず」とは言っても、現場有っての会社ですから、若い社員と一緒に徹夜したり、トラックの助手席に便乗したりしてました。現場から出る言葉は、 「夏は涼しく、冬は暖かい事務所で 机に座って仕事してる人達に 俺達の苦労がわかってたまるか!」という気持ちです。現場の気持ちを少しでも理解しようと一緒に行動する事が増えるにつれ「管理職」としての数字追求が甘くなってました。 「現場の気持ちを理解しようとしたら、 その分管理職としての厳しさが欠ける」とも言われましたが、今でも、現場の大変さを少しでも共有した事は大切な事だったと思ってます。…あまり親しくなりすぎて苦労話や、家族の事などを聞いてしまうと昇級や、賞与の査定をする時に心を痛めてしまうので、仕事以外の話や付き合いは避けてました。ですから、冷徹な印象は最後まで拭えませんでした。…冷たい風に吹かれて、あの頃を思い出してしまいました。当時厳しく接していた若い部下数人が今でも時折、相談事なんかをメールで送って来ると何だか嬉しいもんです。♪
2008年11月19日
昨日、オカンの事を書いてから、当時の事をいろいろ思い出しました。48歳で他界した親父は「酒豪」であり、同時に「酒乱」であり、「美食家」でした。私は、「自称“ぐるめ”」ですが、幼い頃から、貧乏生活が染み付いているくせに食べ物だけは、ちょっとうるさいのです。「酒豪(酒乱)」の父は、生まれが北海道で後に、信州⇒岐阜と移り住んで来ました。信州、岐阜は「海無し県」ですので、昭和40年代は、「イキの良い魚」がありません。今でも覚えていますが、正月用に、オカンが、なけなしの金をはたいて「数の子」を調達して来ました。酒のアテに出された、その数の子を一口食べた親父は、いきなり窓を開けて、「ちび!食え!」と、我が家の愛犬(「なんとかテリア」っていう犬でした。)に数の子を全部やってしまいます。更に、ヅカヅカと冷蔵庫に向かい、残りの数の子も、全部裏庭に捨ててしまいました。「こんな出来の悪い数の子は、北海道なら畑の肥料ぢゃ!」と、ムチャな事を叫びます。魚は、かなり高い確率で、「ちび」の御飯か、文字通り「裏の畑の肥料」になってました。我が家の食卓は、「一汁五菜三肴」が基本でした。 汁物一品 おかずが五品 晩酌用の酒の肴(=“アテ”)に三品家にお金が有ろうが無かろうが、オカンにはこれだけの使命が有りました。しかも、同じ品が二日続く・・・などは、御法度です。幸か不幸か、親父は、週に7日は、飲んで帰ってくるので、「今日はメシは、要らん!」という日が有ります。今のように携帯電話が有るわけでもなく、有ったとしても、「これから帰る」とか「今日は、メシは要らない」などと連絡してくるようなタマではないので、“その時”になって初めて、「メシを食う」「食わん」が判明します。何を食べて帰ってくるかもわからず、腹が減ってるか否かもわからず、昼間に何をどれぐらい食べたかもわかりません。ですから、めったな事では、カレーとか、丼モノなど、「昼間に食べたかもしれないもの」は、出せません。二日続けて同じもの・・ですら御法度なのですから、「昼も夜も同じもの」などは言語道断です。自然と、オカンのレパートリーは、「外食では、食えないようなもの」が増えていきます。素材も、「できるだけ良い物」になります。家が裕福で、金に糸目をつけない!のなら良いですが、むしろその反対でしたので、さぞかし、苦労した事と思います。※最近判明したのですが、 「あの頃には珍しい“レンジ”が有ったし、 冷凍も工夫してたしねぇ。」 そう言えば、数年に一度 「親父の仕事が波に乗って、たまたまお金が有る時」 を狙って、オカンは、「電子レンジ」とか 「最新冷蔵庫」とかを買ってました。 借金取りが取立てに来て、テレビや 冷蔵庫などを持っていった時も レンジは、新聞紙にくるんで、 裏の草むらに隠してました。 レンジなくして、当時の「一汁五菜三肴」は成り立たない。 親父は、「レンジは、子供のお菓子を作るもの」 と思っていたようです。外でメシを食ってきて「旨い!」と思ったものは家に持ち帰って、夜中だろうが明け方だろうが私もたたき起こされて食べさせられます。さぞかし、旨いものだったのでしょうが、ねぼけたガキにそんな判別は出来ません。それでも、起きてる時に食べたものは今でも思い出せるような旨いものばかりでした。親父は、時折「謎の遠征」をしていたので、帰ってこない時も有りました。そんな日は文字通り「一汁一菜」です。「たまごかけ御飯」「納豆御飯」「ふりかけ御飯」「お茶漬け」究極は、「御飯をおかずに、御飯」親父がいる時といない時は、はっきりと違います。ただ、親父がいない時は「平和」でした。結果的には、親父は平均して週に2~3日しか、家でまともにメシを食べないのでオカンは、なんとか「五菜三肴」をクリアしていたようです。ある晩、いつものように酔っ払って帰った親父が「こんなモン食えるかぁ!」と、得意の「チャブ台返し」をやっちゃいました。オカンが、魚屋さんで、「とびっきりイキの良いヤツ」を買ってきたのですが、昭和40年代当時の岐阜県の田舎では昭和20年代当時の北海道の味には遠く及ばないのは明らかで、おそらく、どんな魚も親父の口には合いません。怒り狂う親父は「酒もって来~い!」と叫びます。“深夜の恒例行事”とは言え、困ったもんです。その時、寝ぼけながらも子供の私が考えた事が有ります。「お酒飲むから、アカンのや。 でも、甘酒だったら子供でも飲むし・・・ 家の酒を甘酒にしちゃえばええんとちゃうか?」我ながら、「筋の通った名案」と思いながら、こっそりと、一升瓶にサラサラ・・・・・・お砂糖を入れました。「ふっふっふっ・・・ これで、我が家の食卓も 修羅場から、一転、一家団欒の場になるぜ。」 その時は、本気でそう思ったんだから、仕方ないでしょ! そう確信を持って親父に「甘酒」を差し出しました。“何故か”「ぐー」で殴られたのは言うまでも有りません。ヘビースモーカーであり、酒豪(酒乱)であり、晩年は、妖しげなお薬も使っていたのでは???と思われる親父でしたが、「嗅覚」と「味覚」は並外れたものが有ったようです。道産子の曾爺様、爺様、親父・・・と美食家だったようで、「食は三代」と言われるように江戸っ子のように、三代続いて初めて本物という信念で子供には、「ええモノ」を食わせていたようです。「ええモノ」と言っても派手なものばかりでなく「米」「味噌」「醤油」「塩」「酢」「砂糖」・・・味覚の基礎となるものは妥協無しでした。貧乏長屋のような所に住んでいながら、御飯は豪華ですので、晩飯を食いに、いろんな人が来てました。八百屋さんや、米屋さん、魚屋さん、酒屋さん・・・ほとんど「ツケ」で買うくせに、特注品や、「年に一回しか出ない」高級品を買う。あんまり評判の良くない一家でした。特に、米には異常なまでにこだわりが有ったようです。当時の地理的環境を差し引いても、「旨いもの」を食べていたのを思い出します。(愛犬「ちび」も旨いもん食ってたなあ・・)かくして、「代々美食家計画」の四代目にあたる私は知らず知らずに舌と鼻が鍛えられていたようで、特に、「米」「水」には敏感です。爺様、親父が特にこだわっていたのが「お酒」でした。そんな「美酒家」に「即席甘酒」は通用しませんねぇ。※親父の素行不良ぶりは、 我が父を、ちょっぴり語る さっきの続き・・・我が父をちょっぴり語るを参照下さい。スクロール
2008年10月13日
毎年、この季節になると思い出す事が有ります。私は、中学にあがるまで、小児喘息を患っていました。経験の有る方にはご理解いただけると思いますが、発作が起こると、 「死んだ方が楽かもしれん・・・」と、本気で思うほど壮絶な苦しみが襲ってきます。特に、夜、横になって眠る時が一番発作が起きやすいのです。その為、「また、発作が起きたらどうしよう・・・」という恐怖が先立ち、体調の良い日ですら、寝る時既に、体調が悪化に向かっているのです。季節の変わり目・・・残暑が去り、急激に秋に変わるちょうど今頃が一番発作の起きる頃です。深夜、ひとたび発作が起きるとまず精神的にやられてしまいます。呼吸が苦しくて、喉が「ひゅ~ひゅ~ぜ~ぜ~」咳も止まず体力も消耗してきて、苦しさと、得体の知れない絶望と、「これから、どうなっちゃうんだろ・・・」という不安とが入り混じってやがて涙が出てきます。『医者へ行くと、お金もかかるし、T先生にも迷惑かけるし・・・』 ↑過去日記参照子供心に、そんな事を思いながら、しばらく苦痛に耐えるのですが、やがて、気が付いた母親が起きて、身支度を始めます。肌寒くなった秋の深夜、自転車の後ろで、夜空の星を眺めて気を紛らしながら、「T医院」へ向かいます。意識は朦朧として、数分後には深夜に叩き起こされて眠そうな「T先生」の前にいます。ある晩、自転車の後ろで半死半生で虚ろな眼をしながらぼんやりとしていると・・・何かが落ちてるのを見つけました。普段なら、気にせず一刻も早く「T医院」へ向かうのですが、何故かその時は、とても気になって、自転車を止めてもらいました。100mほど引き返すと・・・・・・ 「神様ありがとう」世の中に、神も仏も“サンタクロース”もいない!!!と、幼くして判断を下した私が生れて始めて「神様」を意識した瞬間です。何と、「板垣退助様御一行」です。 ※当時は、「100円札」が有り、その肖像が 「板垣死すとも、自由は死なず」の板垣退助です。 10枚の板垣退助が私の元に・・・ その頃の100円札10枚は、そこそこ「大金」です。当時小学校3年生ぐらいの私にとって、「板垣退助10人をGET」という大事件は「岐阜県で、3番目ぐらいに金持ちになった」と錯覚させるぐらいインパクトの有る事でした。 これで、「T医院」にも大きな顔をして行けるし、 お父ちゃんの借金も返して、 お米屋さんのツケも払って、 給食費も、遅れずに払って、 欲しかった「鉄人28号」のソフビも買って、 ついでに、「クッピーラムネ」も箱ごと買って、・・・・・・薔薇色の妄想が喘息の苦しみを一瞬忘れさせてくれました。 「朝になったら、警察に届けよか。」と言って、再び自転車を走らせた母親に、「うちは、お金ないから貰っておいてもええやん」と私は言いました。すると、母親はいきなり自転車をとめて喘息の発作で「ひゅ~ひゅ~」と喉を鳴らしている私に ば し ~ っっと、強烈な平手打ちをくらわせました。「そんな考えしてるんやったら このままここで苦しんで死んだ方がええわ!」わけがわかりませんでしたが、その場で自転車を下ろされて、ただただ、不安と苦しみだけの私は「ごめんなさい」と言って、医者へ連れて行ってもらわないと、本当に死んでしまうような気がしました。朝、学校へ行く途中で警察署に立ち寄り、「拾得物ナンタラカンタラ」という書類を書いて「板垣様御一行」を“預けて”来ました。六ヶ月経過して落とし主が現れないと私の元へ帰ってくるのです。毎日毎日「落とし主現われませんように・・・」と願い続け、「落とし主現れたよ~」なんて声をかけられれぬように警察署を避けて遠回りしながら登下校しました。その六ヶ月は、我が人生で「最も長く感じた六ヶ月」になったのは言うまでも有りません。 ※六ヶ月後、「板垣様」を迎えに行った時の ドキドキ感(本当に落とし主が現れてないのか?)と、 無事に(?)「板垣様」が帰ってきた喜びに味を占めた私は、 その後も、50円玉(当時はデカイ)だろうが 10円玉だろうが、警察署へ届けまくりました。 一時は、「拾得物ナンタラカンタラ」を常に数枚 机の引き出しの「宝箱」に保管してました。 ・・・10円届けられて書類を書く警察も さぞかし迷惑だった事でしょう。 因みに、「板垣退助様御一行」が帰ってきたのは、 六ヵ月後の4月初めです。 お母ちゃんの誕生日が「4月5日」ですので、 警察で、「板垣様」を手にした帰り道に 花屋さんに寄って花束を買いました。 お母ちゃんが涙を流しました。 私も、泣いていましたが、 私の涙の半分は 「【板垣様御一行】=【花束の値段】にびっくりし、 薔薇色の妄想が一気に吹き飛んだ悲しみの涙」 だという事を、お母ちゃんは知る由も有りません。 その後、体の成長とともに、「喘息」は少しずつ快方に向かいました。それでも、この時期には突発的に発作が起き、あまりの苦しさに、実家に「有るはず」の「気管支拡張剤」という定量噴霧式のボンベ状の薬を求めて、「京都⇒大垣」間の高速道路を、当時の愛車「GSX400FS IMPULSE(インパルス)」に乗り、時速180km~200kmで走破した事も有ります。(しかも、その日は 死ぬか、と思うほどの吹雪でしたが、 それでも一刻も早く欲しいのが「気管支拡張剤」なのです。)後に、多い時は、狭い家の中で家ネコ8匹に囲まれ、一日中家の中でタバコを吸いながら仕事をしてました。不思議なことに、その頃から、ほとんど発作が起きません。それでも、過去の忌まわしい苦しみの記憶から「気管支拡張剤」は、お守りのように、常に携帯しています。スクロール
2008年10月12日
130万画素の携帯で、ZOOMを使い、手ブレが起きた写真。 ゴッホの「星月夜」のようになりました。 PC画面の角度をいろいろ変えて見てみて下さい。昨夜は、満月でした。今宵は、「十六夜(いざよい)」です。日本人は、古来より 朔日(ついたち) 三日月 七日月(上弦の月) 十三夜 十五夜 十六夜(いざよい) 十七夜(立待ち月) 十八夜(居待ち月) 十九夜(寝待ち月) 二十夜(臥待ち月) 二十七夜(下弦の月) (後の三日月) 三十夜(みそか,つごもり 12月は大晦日,大つごもり) 月が篭る(こもる)が由来?まさに「花鳥風月」を愛でる感性が有ります。満月は、私にとっても思い入れのある月です。昨夜、満月を見ながら涙したのは言うまでも有りません。※涙の理由は、「月よ、我に七難八苦を与えたまえ」(昨年6月6日の日記:臥薪嘗胆の日)参照
2008年04月22日
週に、2~3日夜間のアルバイトでガソリンスタンドに行ってます。昼間は、某電話会社の「ひかり通信」の営業をしてます。この「二足の草鞋(わらじ)」で、月々の生計をたてています。ガソリンスタンドは、出勤して、やるべき事をやればOKですが、営業は、ある程度「結果」を出さねばなりません。元々あまり得手でないのに加えて個別訪問で注文を取ってくるのはなかなか大変です。インターネット通信に敏感な人は、既に「光」になってるしあんまりインターネットを使わない人にとっては面倒臭くて、どうでも良い!…ようです。※岐阜県内で、「ひかり通信」を検討されている方は是非、御用命下さい!思えば、学生時代からいろんなアルバイトをしてきました。京都に住んでた頃は★かわら屋さん…何十年に一度、という「二条城」の葺き替えも参加しました。屋根の傾斜がきつくて大変でした。★染め物屋さん…反物の切れ目の染めムラだけをひたすらチェックする仕事でした。★某有名ホテルの「ぎゃるそん」…ほとんど観光の外国人ばかりの「かふぇ」です。ナマの英語で鍛えられましたので「ぱぁどぅん~?」の発音だけは負けません。名古屋に住んでた頃は★ビアガーデン…ジョッキは左右で14個持てます。★高層ビルの外壁・ガラス清掃…本来「高所恐怖症」なのですが、給料が良かったので…長続きはしませんでした。★マ○ドナ○ド…閉店後の警備兼清掃メンテナンスやるべき事をチャッチャと済ませて学校のレポート作成と読書ばかりしてました。(今の深夜のガソリンスタンドと雰囲気が似てます。)高校卒業して、大学入学までの2年間は、★簗場(やなば)…川原で鮎(アユ)を食する処で、ひたすら鮎を捌いてました。毎日生臭いカラダで堤防を自転車で通ってました。帰り道は、何故か毎日さだまさし「れもん」を口ずさんでました。↑↑↑お~まいがぁっ携帯では漢字が出ないぜ!★某公団のダム建設の材料試験官…毎日毎日、砂・土・岩の密度や含水率や圧縮強度なんかをひたすらデータ化していました。コンピューターが無い頃なので計算は、全て電卓グラフは、雲形定規と自在定規図面は、T定規を使いカラス口か、ロットリング…でした。この時貯めたお金で、大学の入学金や授業料を賄う予定でしたか、我が父の「公共投資」(競輪)に注ぎ込まれて、パーになりました。他にも★家庭教師★トラック運転手★鳶(とび)職人★ちょっと人には言えない仕事も…などなど、様々な仕事を経験してきました。お金を稼ぐのは楽じゃないなぁ~今、昼と夜と仕事をしてますが、これは「生活の為」の仕事で「夢」として取り組んでいる新規事業を何とか軌道に載せるべく粉骨砕身の覚悟であります。一度の人生、欲張って生きるぜ
2008年04月12日
コメントを頂いた 友美夢叶さんのページで中島みゆきの「ファイト」を見てしまいました。バブルの名残が、まだあちこちに有った頃、何とか頑張って、無理して、必死に生きてた頃・・・丁度、この歌を聴いてしまって・・・不覚にも涙してしまった事を思い出しました。あの頃の方が、今より必死だったような気がします。当時、歌詞と自分とが合致したわけでは無いのですが、何だか、無性に泣けたのを思い出します。 ファイト!闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう ファイト!冷たい水の中を ふるえながらのぼってゆけ涙は流しませんが、常に前を向いています。どんな時でも、笑顔でいられるようになりました。あれから、20年近く経ちます。あの頃も、今も、この先も・・・ ふぁいと! です!Powerd by テンプレート
2008年03月04日
「カノッサの屈辱」 ※同名のテレビ番組が有りましたが、それではありません。「バビロン幽囚」車を運転中に、ふと頭に蘇った「単語」です。 ※高校生の頃、世界史の授業は“受験用”でしたので 単語としてしか事件を捉えてません。勿体無いことですが・・・ 運転中は、「アルファ波」状態になるのでしょうかよく色んな事を思い出したり、思いついたりします。「単語」や「言葉」は良いのですが、イメージやアイディアはすぐに忘れてしまいます。それで、ぼいすれこ~だ~ を常に持ち歩いています。ところが、運転中は思うように操作ができず結局、その場で嫁様に電話を掛けて 「回転中の中身!」とか 「携帯の裏側!」など意味不明の言葉を叫んでメモしてもらってます。直後に、メールで送り返してもらうのですが 「回転中」なのか「開店中」なのか? 「携帯の裏側」???何の事なのかさっぱりわかりません。かなり重要な事のハズだったんですが・・・「バビロン幽囚」は実に30年ぶりぐらいに脳内に蘇った単語です。 ※「バビロン捕囚」とか「バビロンの捕囚」とも言いますが 私の高校の教科書では「バビロン幽囚」だったハズです。さきほど、内容を調べてみましたが、言葉はさておき、その事件の内容は 「こういう事やったか・・・ぜんぜん覚えとらん」という有様でした。完璧 では無いにせよなんだか少しずつ脳細胞のオーバーホールが功を奏してきたように実感してます。(無理やりですが・・・)ニューロンが、にょきにょき伸びてシナプス 間を神経伝達細胞がビュンビュン飛び交っているそんなイメージを抱きながら、脳内イメージトレーニングをしています。・・・と先程、この辺まで一気に書き上げたところでまたまた変な事をしてしまったようで前文が消えてしまい、気を取り直して再度、何とかここまで書きました。調子に乗っているとあんまり良いことは有りません。今日の一言 好事魔多し Powerd by テンプレート
2008年02月10日
1月31日は、我が親父様の命日です。あれから、もう25年も経ちました。 ※我が親父様については、「我が父を、ちょっぴり語る」 「 さっきの続き・・・我が父をちょっぴり語る」をご参照下さい。破天荒な我が父の追憶です。大学の授業料稼ぎの為に、高校卒業後2年間働いて少しばかりのお金を貯めましたが、「自称“投資家”」の親父に虎の子の「へそくり」を盗掘されてまんまと全額「ハズレ車券」(競輪につぎ込んだ)に変えられてしまいました。その後、何とか志望大学に合格したものの授業料稼ぎの為に、単位習得もままならず留年と休学を繰り返す状態でした。そんな頃に親父は、見知らぬ地で死にました。・・・・・・もう25年も経ちました。今、親父が死んだ時の年齢になりました。48歳の自分が、まだまだこれから ひと花もふた花も咲かせようと意気盛んな事を鑑みると、48歳で、突然死んだ(脳卒中)親父はさぞ無念だったろうと思います。死ぬ直前は、私たち家族からも離れ、1年ぐらいは音信不通でした。それまでの、「不名誉」を挽回するかのごとく結構「マジメ」に働いていたようです。借金を返しながら、わずかばかりの「貯金」も有ったようです。 ※「江戸っ子」ならぬ「蝦夷っ子」を自負する親父でしたが、 金の使い方は「江戸っ子」もビックリで 「宵越しのカネは持たない」どころか 「カネは無くても使う!」と豪語しておりました。「親父の辞書に“貯金”の文字は無い」と信じていた家族にとって、「親父が貯金している」というのは不思議な感じでした。 「葬式の時に、骨になった親父をボンヤリと見つめながら 私が小学生の頃(親父は35~6歳ぐらい・・・) 時折語った話を思い出していた」・・・事を今思い出しました。 山に登るには、当然山の頂上を目指す。でも、今自分が立っている所から頂上へ真っ直ぐの最短距離で行けるワケでは無い。(ヘリコプターやロープウェイを使うのは別。)あくまでも、自分の足で頂上を目指すにはルートの選別が大切だ。綿密な計画で一度ルートを決めたらひたすらそれに従って歩む。道中は、西に向かったり、東に向かったりある時は、下にも向かうかもしれない。その時その時は、決して「頂上」を向いているワケでは無い。むしろ、「頂上」をむいて進んでいるときの方が少ないぐらいだ。そこで、少しでも「これで果たして頂上へ辿り着くんだろうか?」と疑念を抱くと、当初の計画ルートから外れて“一見”近そうな道へと入って行く。その場では、「頂上」を向いているのだが、結局は、険しい断崖絶壁にブチ当たったり軟弱な地盤に入ってしまったりして、 「しまった!」と悔やむのが関のヤマ。そういう事態を避けるために綿密に計画を立てているのに・・・計画段階では冷静な判断で、遠回りしてでも、着実なルート選択をしているのに・・・いざ、山に上って目の前の困難にブチ当たるとその場その場の、安直なルートに行ってしまう。人間の生き様もおんなじようなモンだ。イザとなるとなかなか冷静に判断できないし、本来の目的さえも見失ってしまう。例え、今が困難に見えても、「己の選んだルートに間違いがない!」と確信を持っていれば、やがては、頂上に辿り着く。それでダメだったとしても、そもそも自分のルート選択が謝っていたのだからその時は、「勇気ある撤退」をして再び準備を始めれば良い。ただし、同じ轍は踏むな!!!大切なことは、「自分にとっての“頂上”」を常に思い描くこと。そして、どんな時でもその「頂上」を確認する事。たとえ吹雪の中でも、暗闇の中でも「頂上は、あの方向」とわかっていれば曲がりくねって遠回りに見えるルートでも着実に“近づいている”と認識できるはず。・・・こんな話でした。年齢を重ねるにつれて、何かと自分の可能性が狭く狭くなっていくように思えますが、自分で自分の可能性を狭めているのでしょう。体力も、脳力も、たしかに衰えはしますが、だからと言って「可能性」まで否定はしたくない。自分にとっての「頂上」・・・時々見失いそうになったり、蜃気楼に騙されて、見当違いの方向に行ってしまったり・・・完璧なハズのルート選択も、実際は、予想以上に険しい崖だったり・・・それでも、常に自分の「頂上」を確認し、思い描き、計画を立てる・・・そうするうちにきっと、目の前に自分の求める頂上の風景が飛び込んでくるハズです。そういえば、飲んだくれで、バクチばかりやってて子供の貯金まで取り上げて勝手気ままに生きてた親父ですが周りから、バカ呼ばわりされても常に「夢」を語っておりました。子供ごころに、「アホか!」と思うこともしばしばでしたが、それでも、「無茶な“夢”」ばかりを追いかけてました。BEAUTIFUL DREAMER ~夢見る佳人というフォスターの歌がありますが、さしずめ親父はDRINKING DREAMER です。飲んで、暴れて、バクチして借金まみれで、警察にもケンカ売って・・・そのくせ、夢を語るのですから、困ったモンです。そんな親父が、夢も語らずただただ飲んだくれてた時期が有りました。「何をやってもママならず、 運も味方せず・・・・」と言ってました。(私に言わせればすべて「自業自得」なのですが)後に、そのスランプを脱した時に次のように自己分析をしていたのを思い出します。夏になると、網戸の隙間からコガネムシが部屋に飛んできてました。電気を消して、コガネムシが外へ出るまで待ちます。たいていは、窓を開けると、外へ飛んでいきます。時折、窓が開いているにもかかわらず、わざわざ網戸に向かって飛んで行き、網戸に当たっては、引き返しまた当たっては、引き返す・・・そんな事を繰り返すコガネムシがいます。わざわざ、そいつが飛んでいきそうな場所を開けてやるのですが、間が悪いのか、運が無いのかそいつは、また閉まっている方へまっしぐらに飛んでいきます。当然、網戸にぶつかってしまいます。勢いの良いヤツに限ってバシバシ網戸に向かって行きます。やがて、疲れてくるのか、フワ~っと漂うように飛び出すと・・・うまいこと隙間から出て行きます。「人間もこれと同じやなぁ。 がむしゃらに突き進んでも、タイミングや 向かう方向が間違っていると、 このコガネムシみたいに、網戸にぶつかってばかり。 でも、ちょっと方の力を抜いて自然に風の誘いに乗れば す~~っと抜けて行ける。」そんなことまで、語っていた親父がなんで、もう少し真っ当に生きていけなかったんだろねぇ?親父の「エエとこ」は見習いながらも「決して、親父のようにはならん!」 (家族を悲しませたり、早死にしたり・・・という点で)と今でも思います。Powerd by テンプレート
2008年01月31日
あれから、もう28年も経った・・・いつから「成人の日」「体育の日」「敬老の日」が第3月曜 とか 第2月曜になったんでしたっけ?5月4日も、いつの間にか「みどりの日」になってるし・・・確か5月4日は「国民の祝日」か何かだったはずだし「みどりの日」は昭和天皇の誕生日「4月29日」だったような・・・で、その「4月29日」は「昭和の日」になってるし・・・昭和55年1月15日 当時は、「1月15日=成人の日」 「9月15日=敬老の日」 「10月10日=体育の日」と決まってました。成人式当日、私は友人の家で昼寝をしてました。 (友人は成人式に出席してました)高校卒業後、「高望み」と「学費納入困難」により第一志望の大学は見事に不合格。第二志望の大学は入学金と授業料が高くて入学断念。その後の2年間でアルバイトしながら受験勉強をし何とか、入学金と2年分ぐらいの授業料を貯めました。そして、3月の受験を控え、成人式を迎えるわけですが、年始早々に 我が親父様 (我が父の話は「我が父を、ちょっぴり語る」と 「さっきの続き・・・我が父をちょっぴり語る」 参照。)に、私のヘソクリ場所を盗掘され、まんまと「入学金+授業料」を日本国公認の「不確定有価証券」に換金してしまいました。・・・早い話が私の貯金を持って競輪場へ行き「車券」を買ったのです。「倍にして返してやろうと思った」悪党の常套文句です。その数日後に「成人式」ですが、着ていく服も無く、金も無い状態で「な~にが、成人式じゃい!!!」と友人宅で「ふて寝」していたわけです。受験当日も、弁当を用意する金が無くて昼ごはんは、「不二家ソフトエクレア」(キャラメルのようなヤツ)でした。今では「ソフトエクレア」は廃盤になったようでどこにも売っていませんが、もし復刻したら、多分泣きながら買うでしょう。「俺は、大人の既成概念を強要する“成人式”には出ない!」「我々が、求められているのは、形ではなく、心だ!」・・・などと、学生運動のアジテーションもどきの事を言ってましたが、ほとんどの同級生は、おそらく事情を知っていたと思います。子供同士は、“純”な部分で付き合ってますが、親同士は決してそうではないですから・・・「かむ太郎くんとこのお父さん・・・ひそひそ」なんて事は、小学校の頃から耳に届いているので、何てことはないのですが、今にして思えば、成人式に出られない自分が惨めだったんでしょう。あの頃の反骨精神をちょっぴり思い出しました。エネルギー源にしたいと思います。 大人なんかキライだぁ~Powerd by テンプレート
2008年01月14日
ズル休み気分で浮かれてのびのびしていたら、いつの間にか眠ってしまいました。結局、その間に「新たなミッション」が発生し、これから徹夜になりそうです。思えば、幼い頃から、学生時代、その後の人生の中で「ズル休み」して、一瞬“儲けた”と思った一日も結局は、何もすることが無く、無為に過ごしてしまい、ただ単に、その一日分の収入が減っただけ・・・というのが常でした。「ぷらまいゼロ・・・むしろ“マイ”」こんなフレーズを売りにしているコンビがいますが、まさにそんな感じです。過ぎた事をクヨクヨしとっても仕方が無いので徹夜しながら、来年の作戦でも立てようかと思います。来年は、ねずみ年です。12年ぶりの年男です。過去・・・ 12歳 24歳 36歳それぞれのねずみ年は、自分の人生の“転機”となった年でした。12歳・・・前年に離婚して母方の旧姓になりましたが、 母親が、懲りもせずに再び親父と再婚。 再び、「酔った時の星一徹」のような親父と暮らす。 (何も離婚した相手と再婚せんかて・・・ しかも、その数年後にまた離婚せねばならぬとは この時母は知るよしもない・・・)24歳・・・前年に「酔った時の星一徹」のような親父が他界。 遺産どころか、目ん玉飛び出る程の借金を残す。 この頃から、「平均的な」人生から離脱。 (思惑とは裏腹に人生が下向きになる。) 「シュリーマンや伊能忠敬」の路線で行こう、 と決意するも、結局莫大な借金を作ってしまう。36歳・・・隠遁生活を余儀なくされ、転々としながらも、 この頃から、「借金返済」一色の生活となる。 私の人生の「失われた10年」がこの時期。さて、来年48歳ですが、どうなりますやら・・・ 「しあわせは、いつも自分が決める!」 「運命は、常に自分で切り拓く!」 「とことんやってアカン時は、すぐに逃げる!」この3大モットーで乗り切っていこうと思ってます。Powerd by テンプレート
2007年12月18日
本日は、午前中にカタを付けなければならない仕事が出来たので、急遽先約の仕事をキャンセルしました。・・・ところが、「書類に捺印して速達で郵送すればOK」でした。 ↓スクロール画面でっせ。結局、今日一日ポッカリと予定が空きました。何だか、ズル休みした時のような“複雑な開放感”を味わっています。小学生の頃、学校給食がイヤでイヤでかなわんかった私です。毎月配られる「献立表」を見て「今日は、学校には行けない日」が何日か有りました。そういう日は ズル休み です。そんなことが簡単に許されるわけもなく、学校へ行くふりをして家を出て、頃合を見計らって (1)山中に隠れる。・・・春から夏に限る (2)近所の老人宅に遊びに行く (3)コタツの中に潜伏する。・・・冬に限る (4)学校まで行って、「とび箱」の中に隠れる。などの「作戦」を実行します。 ※※※「ウソやろ?」と思われるかもしれませんが、 私にとって「給食」は「人生の重大事項」 の上位を常に占めていたのです。作戦がうまく行くわけも無く、常に「発見!」されては“給食地獄”に遭わされていました。学生になってからは、 「ど~しても今日はバイトに行きたくない」日や 「寒い」「暑い」日など 「風邪ひいた」だの 「腰を痛めた」だの挙句の果ては 「親戚に不幸が・・・」などと言ってズル休みしてました。元々、ウソを付くのが下手なのであらかじめ自分の心の中で 『“葬式”とか“死んだ”と、言うてるわけじゃない。 うちの親戚はみな幸せか?と問えば、“否”としか言えない。 と、言うことは、親戚に不幸が蔓延しているわけだ。 だから、「親戚に不幸が・・・」だけのフレーズなら ウソは言ってない。よしよし・・・』と言い聞かせてから、電話をかけて休みます。電話をかけるまでは、ドキドキビクビクですが、いったんかけてしまえば、目の前の雲がパぁ~っと晴れるように気持ちがスッキリします。なんだか一日の時間が儲かったような気分です。「さ~て、今日は何をしようか・・・」と一転ウキウキ気分になります。とは言え、それがそのまま「充実した一日」になるわけではありません。大概は、「無駄に一日過ぎてもうた」という結果になります。「悪銭身につかず」と同じで「悪時身につかず」といったところでしょうか・・・とか何とか言ってるうちに、もう1時です。あと半日・・・「ズル休み気分」を満喫いたします。Powerd by テンプレート
2007年12月17日
タイトルを見て、過剰な期待をされた方・・・ごめんなさい。期待とは、違う内容だと思います。昭和44年7月21日午前5時17分当時小学校4年生だった私は、アポロ11号の月面着陸の映像をナマで見ようと前日夕方4時(まだ明るいうち)から布団に入りたっぷりと寝て、12時間後の朝4時に起きました。「よっしゃ!まだアポロは、着陸前」横になってテレビに見入っていました。・・・結局5時前には再び熟睡しておりました。星一徹のような親父に叩き起こされて眠い眠い目を半開きにしながら何とか映像を確認して、倒れるように眠りました。 それから、4年。中学2年生のとき、生まれて初めて徹夜しました。この時は、特に何かがあったわけではありません。その日の学級会か何かで、翌日数名が早朝登校(たしか朝6時頃)しなければならなかったのです。そのうちの一人が 「かむ太郎んとこは近いからエエよな。 俺は、自転車で5kmも走るんやで。不公平やんか。」・・・とか何とかぬかしたので、アタマに来て 「じゃかあしい!それなら俺がおまえんとこに迎えに行ったるわい。 それなら、文句ねえやろ?」冷静に考えれば、ヤツの家までは、往復10km。坂道や、起伏を考慮して、40分ぐらい・・・メチャメチャ早く起きないとアカンやんけ!!!後悔したのは言うまでもありませんが、既に後に引けない状態です。(この頃は、些細なことでも「男がすたる」のです。)アポロの時の事を思い出しました。「俺は、寝たらトコトン寝てしまう。」 ・・・今でもそうです。無謀にも、「徹夜」を決意しました。時は、12月・・・今頃の季節です。その年の冬は、特に寒く、この夜に初雪が舞いました。雪は、ずんずんずんずん積もります。30分毎に、筆記を綴ります。 夜12時00分。 未知の世界に突入・・・ (当時は、夜9時には、寝る生活習慣でした。) 12時30分。 起きとるぞ 1時00分。 まだ起きとるぞ 1時30分。 眠いけど、起きとるぞ これを、えんえんと朝3時30分まで記入してました。さすがに、限界が近い。朝3時40分・・・決断!自転車に跨り、5km先(学校とは正反対)の「あの野郎!」んとこへ向かいます。雪は、ますます降り積もります。自転車のタイヤが、雪で一回りも太くなって靴のヒモには雪玉が膨らんで「ボンボン」になっています。雪だるまのようなかっこうで、1時間・・・(歩くのとあんまり変わらない ・・・しかも負荷のかかったペダルで疲労は2倍!)ヤツも見上げたもので、ちょうど家から出るところでした。「ホンマに来たんかい?アホかぁ!!!???」「・・・・・・」(寒すぎて答えられない)無言で、再び5kmと少し・・・(私の家は中学校から500mほどです。)黙々と走りました。眠いし、寒いし、腹減るし、足は感覚が無いし・・・6時に学校へ到着したときは、まるで、チョモランマ登頂でもしたかのようなえもいわれぬ達成感がありました。生まれて初めて徹夜した夜の事です。 「効率が悪いけど、なんかカッコええんちゃうか?」という行為にシビレル今の自分の原点です。
2007年12月07日
「人見知り」で、「照れ屋さん」な私ですが、中学生の頃、地区の「弁論大会」に出たことがあります。「“弁論”たるもの、原稿を“朗読”していたんではアカン!」と、自前の原稿をすべて暗記して、他の弁者(と言っても同じ中学生ですが)が原稿を見ながら、すっと下向きで“朗読”しているのに対し、私は、頭ん中が真っ白になりながらもひたすら、前を見て“熱弁”を振るいました。(「背水の陣」で、原稿は持たずに行きましたので・・・)題材は、「教育って何だ?」みたいなヤツだったと記憶しています。結果、大会規程には無い「熱弁賞」だか何だかをいただきました。(・・・という事は、「入賞」には値しなかったんですねぇ。)以来、「不特定多数」の前では、100人だろうが500人だろうが「演者」として、「人前で、ノ~ガキを垂れて」来ました。それでも、「対 個人」となると、体が「カチチチ・・・」と石のようになります。 ※友人(と言っても、“団塊の世代”の方ですが)の1人に 「70年安保」当時に、バリバリの学生運動をしていた人がいます。 今でも、酒が入って話す時は、「我々はぁ・・」と言います。 (我々・・・って誰よ?ここには、あんたと俺しかいないやんか) その方に、時折「弁論」の講釈を受けていますが、 「弁論」というよりも、ほとんど「アジビラ」用語満載です。例外的に、「家庭教師」や、「職場での指導」などは“得意中の得意”なのです。・・・どうやら、「立場」や「目的」がはっきりしている事はOKで、「その気が無い人」にモノを売り込んだり「これから興味を持っていただく」ようなのが苦手なようです。・・・と、自己分析したところで、先日のミッションの続きを遂行します。先日は、核心に至る前で、会談が終わってしまったので今日は、「こいつらは、俺様の話を聞きたがってる」・・・ぐらいの気持ちで話をしてこようと思います。勿論、態度には出しませんが、何とか言いくるめて来ます。いざ!出陣!(と、気張って行くほどの事ではないのでしょうが・・・)
2007年11月29日
「THP心理相談員指導者」登録をしています。THPとは、「Total Health promotion Plan」の略で、厚生労働省の外郭機関「中央労働災害防止協会(中災防)」が提唱・推進する「心とからだの健康づくり」の一環として、認定した、れっきとした「メンタル・カウンセラー」です。一匹狼となった今では、誰も「心の相談」には来ませんが、「カタギ」の頃は、“勤務時間外”で、悩める社員の話を聞いておりました。中途半端な心構えで、人の「心の奥底」を見せ付けられると結構、わが身・我が心にダメージがあるモンです。「感染」するわけでは有りませんが、人の心の悩みを受け止めているうちに自分の中では「整理」されていたはずの事がジワジワと再燃してきて、気が付かないうちに結構大きな炎になってたりします。冷静に自分の心を鎮めようにも、他人へのアドバイスと同じ文言では、自分には、通用しません。今でも、自分自身が、相当“いびつ”なカタチの精神構造になっているのがわかります。人の「心」に立ち入るにはそれ相応の覚悟と自ら強靭な精神力を維持しなければ、返り討ちに遭います。本日、その「中災防」から「職場における 自殺の予防と対応」なる冊子が届きました。いまや、年間の自殺者数は、30000人を超えています。バブル崩壊後、一気に増加し、この水準を保っています。交通事故死亡者数が、10000人を下回ってきた事を考えると「自らの生命を絶つ」という“勿体無い”行為が如何に多い事か・・・しかも、10代・・20代・・30代・・40代・・50代・・60代と、年代が上がるにつれて、自殺者数が増えています。「健康や、将来に対する不安」というのは、うなづける気もしますが、目立つのは、やはり「うつ」が原因と考えられる人が多い事です。自分自身も、経験があるのでわかりますが、一端「“うつ”のスパイラル」に捉えられると、自分でもわかっていながら、どんどんと悪化します。更には、「焦り」と「責任感」と「現実」がみごとに悪循環していきます。こうなると、何をしてもダメです。気が付くと・・・自殺 という人も多いと思います。「自殺の予防と対応」今更目新しい事が書いてあるわけでもありません。 日常からの配慮 自殺の予兆が見られる人への対応 企業における心の健康相談体制・・・などなど、「それが、出来ねえから苦労してるんやんけ!」と、ツッコミを入れたくなるような項目ばかりです。現実に、企業内で「メンタル・ヘルス」の体制を整えられるのは、ごくごく僅かでしょうし、「“うつ”=精神力が弱い」とか「甘えてる」などという風潮が少なからず存在するのも事実です。更には、「心の健康相談体制」を作る側がこういう認識では現実に整備されている「体制」もどれぐらい機能しているか疑問です。 「精神力が強い」側が「精神力が弱い」人に 「何かアドバイスしてやろう」ぐらいの誤った認識では ますます悪化するのは明らかです。仏教でも、キリスト教でも、イスラム教でもおそらく「自ら命を絶つ(=自殺)」という行為は「悪」として捉えられていると思います。(違ってたら、ご指摘下さい。 “聖戦”とか“特攻隊”とかは、除く。)それでも、自殺者が後を絶たない。現代の信仰や宗教では、阻止できないぐらい「生々しい」精神状態になってしまうのでしょう。せめて、「死んだ気になれば」とも思いますが、そんな、おためごかしも当事者には通じないでしょう。今は、一匹狼ですが、いずれ「野望」を成し遂げる頃にはそれなりの「組織」の中に身を投じている事でしょう。その時に、 “何かの”役に立てるよう・・ “誰かの”役に立てるよう・・少しでも、勉強していきたいと思います。本日11月24日は、3年前に取引先の営業マンが自殺した日です。前日夕方まで、彼と打ち合わせをしていました。その数時間後に、彼は首を括ってしまいました。幸い(?)遺書には仕事のことは触れていなかったので、なんとなく、ホッとしましたが、(哀しいけれどホンネです。)後味が悪いのは否めません。ひょっとしたら、あの時、私と話をしながらも何らかの「サイン」を発していたのかと思うと悔しさや、哀しさで、今でも眠れない時が有ります。「俺が何とかしてやれれば・・・」などという驕慢な事は言いませんが、せめて、彼が少しでも自分の胸のうちを語れるような雰囲気でも作る事ができていたら・・・そういう事がきっかけで、「THP心理相談員」にもなったのですが、もっともっと、己を磨いて、学習して、大きな存在になりたいと思います。少なくとも自分の周りでは、二度と「自殺者」を出したくありません。
2007年11月24日
こういう感じの記事は、あんまり好まれないんでしょうかね?とりあえず、続きだけ書いて終わりにします。今でこそ、私の甥っ子、姪っ子たちに囲まれて「おばあちゃん」の顔をしている母ですが、父存命の頃は、相当に苦労をしたと思います。傍目には、「茶目っ気のある、豪気なお父さん」だったようですが、家の中では「ちゃぶ台返し」は、当たり前。まるで忍法のような「タタミ引っ剥がし」や「茶碗かじり」などの必殺技が炸裂していました。 ※お茶碗が並び、おかずが用意されてるのに いつまでも「ご飯」を盛らないと 「今日のメシはこれかあ!?!?」と言いながら ご飯の茶碗をバリバリとやるのです。 イヤミなんですねえ。生きることには貪欲で、免許が無くなった後でも、あちこちの人間に話を付けて、何だかよくわかりませんが「金属」のブローカーをやったり、夏は安いトウモロコシ、冬はミカンを仕入れてきて地方に売りに行かせたりして「利ザヤ」を稼いでました。稼いだ金は、即座に「投資」します。 競輪です。ほとんど回収した事は有りません。「飲む」「打つ」「買う」三拍子でした。 飲む・・・毎日1升酒+ビール沢山 でした。 打つ・・・自宅で「コイコイ(花札バクチ)」競輪などなど 買う・・・息子の立場としては「ノーコメント」でお願いします。片や母親も・・・三拍子揃ってました。 飲む・・・よく「胃薬」を飲んでました。 打つ・・・「鬱」状態の時が時々有りました。 買う・・・夜中に酒屋をたたき起こすように言われて 酒を買いに行ってました。私の「偽装離婚届偽造」によって少しは平穏を取り戻した我が家ですが、素行不良を改めない父を家からたたき出したのも私です。母や、弟二人の為の苦渋の決断でした。その後、私の大学合格の時に、夜中に私の離れの勉強部屋にこっそりと「10万円」の封筒が投げ込まれました。暗闇の中で、私が見たのは、久しぶりに見た、我が父の後姿でした。足早に去っていく姿は、今でも脳裏に焼きついています。後、父は心を入れ替えたようで無免許運転や、パチもんを売ったり・・・相変わらずインチキなことばかりしていたようですが、「投資」をやめて貯金していたようです。贅沢三昧な生活の頃は、100kg程あった体重も最後に会った頃は68kgのベストウェイトでした。父の危篤を知らされたのは、私が23歳の時です。私は、お金を貯めるために高校卒業後2年間バイトをしていたのでこの時は、大学3年生の1月でした。「浜松聖霊病院」という見知らぬ土地の病院へ夜中に駆けつけた時は、既に昏睡状態でその2時間後に臨終を迎えました。・・・一番下の弟が、今、母と同居して弟の嫁さんと子供二人と住んでいます。母にとって、ようやく孫に囲まれた平穏な日々が来ています。時折、遊びに行ってメシをご馳走になる時に真っ先に親父の仏壇にご飯を供える母を見るとあの時の自分の判断が正しかったのか否か・・・今でも核心は持てませんが、親父の位牌を愛しそうに見つめる母の姿を見るとあの頃の苦労を、果たして「苦労」と思っていたのかどうかわからなくなっています。私の嫁様に、時折父の事を話しますが、 「いっぺん会って見たかった」と言います。 「あほか?あんなのが生きてたら、 おまえなんか一日も持たんわ!」と言ってやります。最近になって、ようやく父親の墓参りに行ける様になりました。母親は、「あんたも、大人になったなぁ」と言いますが、私は「ヤツには、相当辛い目に会わされたからなあだけど、一番辛かったのは、オカンやんけ」と言いたいのですが・・・オカンには言えません。何が幸せで、何が不幸なのか・・・よくわかりませんが、しあわせは いつも じぶんの心が 決めるいつも、そう思って生きています。オカンは、「私は、結婚する前は、お嬢様やったし、 結婚してからも不幸な事は、な~んにもなかった。 今も、おつりが来るぐらい幸せやねえ。」と言います。 あの頃のあんたが幸せだったんなら、 どんな人でも幸せになれる。と、私は思っています。公の目に触れるこのブログでは、詳細は綴れませんが、ここには、書けないほどの、凄まじい事が私の母には有りました。それでも、「私は幸せ」と言うオカンを誇りに思います。また、あれだけの人生を送りながら好き勝手して、早々に死んでしまったくせに自分の嫁に、「私は幸せ」と、言わせているオトンもあっぱれなのかな?
2007年10月31日
慣れない仕事をし始めて、毎日丸太のように眠っています。(Sleepnig Like A Log)先日、「ちゃぶ台返し」について語りましたが、ついでに、我が父の事を少しばかり語ります。昭和9年生まれで、昭和58年に他界しました。享年48歳でした。来年、私もその年になるので、ちょっとばかりビクビクしています。父は北海道の生まれで、爺様と共に 「北海道は俺たち二人で開拓した。」と常に豪語しておりました。それを、小学生の頃に言い聞かされ、それを真に受けて友達から「嘘つき野郎」と言われた経験が有ります。中学生の頃は、母親と同じ学校だったようです。親戚が集まる冠婚葬祭の時は、母方の親戚が口をそろえて「結婚する前は、ええ人やった。」と、言います。母親をGETする為でしょうか、 「将を射んとせば、まずその馬を射よ!」の諺どおり、母の身内には メチャクチャええ人だったようです。 結婚後は・・・・・・母方の婆様の「年金」は全部巻き上げるし、身内全員に「連帯保証人」のハンコを押させるし、・・・と言っても、ほとんどは父の“偽造”です。達筆で有った父は、「筆跡模写」にも卓越していてほとんどの、「借用契約書」は“偽造”です。まぁ、身内も全く知らないわけでもないし、私に言わせれば 「そんなヤツを野放しにして、それどころか 揃って“ええヤツええヤツ”って言うから付け上がったんじゃ! 母親との結婚前から、あんた方がしっかりせんから こうなってもうたんじゃあ!」母方の親戚は、世間知らずばかりです。「連帯保証人」というのが、法的にどんな意味を持っているのか何にも知らない人たちですから、海千山千の父にしてみれば「赤子の手をひねる」ようなもんです。その後、母方の親戚一同は、 「連帯保証人」の恐ろしさを、身をもって味わう事となったのは言うまでも有りません。※父方の親戚は、父に勝るとも劣らない「海千山千」野郎ばかりです。仕事が調子がいい時は、本当に気前がよく太っ腹で私の同級生も「○○君(私)とこへ遊びに行くと、お寿司が出るからいいなあ」とか「○○君とこのお父さんは、何でも買ってくれるからいいなあ」と言ってました。私の家に遊びに来る同級生には、寿司を出前注文していたようです。(私がいても、いなくても関係ないのです。)当時は、「100円寿司」などありませんから子供にとって「お寿司」は、高嶺の花なのです。かと思うと、「エポック社の野球盤」や「人生ゲーム」を買ってきて、私の友達にプレゼントしたり・・・そんな「素敵なお父さん」だったようです。(私のいない所で、プレゼントしていたようです)その代わり、一度風向きが変わって、商売が傾くと前述のような「怖いお兄さん」の登場・・・となるわけです。勿論、そんな時期でも友達が来ると「寿司食いねえ、野球盤持って行きねぇ・・」となるので、大変です。 (同級生も・・・少しは雰囲気を感じ取れ!!! 昨日まで、“テレビ”“ビデオカメラ”“でっかい4本足のステレオセット” などが有ったのに・・・今日、な~んにも無くって、しかも あちこち土足の後があるんだぜ。ちょっとは、事情を感じ取れ!!!)寿司屋も、いつまでも「ツケ」は聞きません。それどころか、 電話が普通になり・・・ ガスが止まり・・・ 電気が来なくなって・・・ 最後には、水道も危なくなって・・・(水道を止めるのは「生命の維持」に関わるので、滅多に止まる事はありません)それでも、夜中に酔ってタクシーで帰宅し、手には昔ながらの「スシ折り」を持っている。子供ごころに、「どこからお金を調達してるんだろう?」と思ったものです。今にして思えば、母は大変だったでしょう。調子が良い時でさえ、父は「内弁慶」でしたから、母が何かを買ってもらうわけでもないし、ましてや、「逆風」の時期は筆舌に尽くしがたい・・・ 流石に、「資金調達」も行き詰ってくると我々子供にも目に見えて影響が出てきます。まずは、「友達出入り禁止令」が出ます。 (来ても、ええカッコ出来ないから)次に、「給食費・学級費・修学旅行積み立て」などが滞納になります。 (黒板の端っこに、「給食費を忘れた人○○」と名前が書かれ 私の名前が最後まで残ります。やっと消えた頃には、次の月の “支払日”がやって来ます。 そういうのが、ず~っと続くわけです。 挙句の果てには、通知表に「忘れ物が多すぎる」 私自身は、“忘れている”わけではないんですが・・・)父は、教育に関しても厳しいものが有りました。我が家は、「家庭内での勉強は、一切禁止」なのです。 「何の為に学校へ行く?勉強する為やろ? 学校では、ちゃ~んと勉強してるんやろ? だったら、家にまで持ち込むな!」という理屈です。そのくせ、テストの成績は「学年で10番以内」を要求します。参考書などは、買ってもらえません。第一、そんなモノが見つかったら大変です。卒業した先輩の「おふる」を頂いて学校帰りの橋の下で呼んでいました。見つからないように「コソコソ」と勉強していました。いまだに、「古本」で勉強するクセが付いています。法律関係の試験は、「法律改定」に弱い私です。父が死ぬ2年前ぐらいから、「酒」と「なんだか怪しげなモノ」に溺れて、支離滅裂な言動をしてました。立て続けに信頼していた人間に裏切られ自分は、交通違反で免許取り消しになり(自動二輪から、大型、大型特殊などほとんどの免許を持ってましたが 全部ふっとんでしまいました。)仕事もままならず、昼間から飲んだくれてました。あんまり詳しい事は書けませんが、地元の警察にも厄介をかけてました。当然、怖いお兄さん方も連日訪問されてました。このままではアカン!!!私が導いた結論は「偽装離婚」でした。両親の籍をバラしてしまえば、父親の借金の事で母親に請求は来ないだろう・・・と考えたのです。この提案に、何故か母は「NO」としか答えませんでした。しかし、連日の怖いお兄さん方の対応を受けているのは母です。子供の目にも「精神的に限界」だとわかります。そして、私がとったのは、「偽装離婚」の為の「離婚届」を偽造して、役所に届けたのです。父の「連帯保証人偽造」を見ていたからでしょうか、何の迷いも無く実行しました。翌日からは、「離婚届受理」を怖いお兄さん方に見せて「この紋所が目に入らぬかぁぁぁ?」・・・てなもんです。おおっと、出かける時間ですので、この辺で・・・もし気が向いたら、また続きを書きます。
2007年10月31日
昼前に、電話が有りました。以前「マドンナ号」を世話してくれたヤツからです。 ※「マドンナ号」については、「6月7日:次の車GET!」 「6月15日:マドンナ到着」参照。 「家・・・買わんか?」との事。 「俺が、家どころか車すらローンが組めん事は知ってるやろ?」 「知ってるから電話してるんや」 知り合いの不動産屋が、入手したのだが、中途半端な田舎なので、「借り手」も無ければ「買い手」もいない。・・・で、私の事を思い出して、不動産屋の足元見て 「“ローン組めないけど、月賦で不動産屋に返済する” という話でどうやね?」 「今の家より広くて、支払も今の家賃より安けりゃええよ」・・・というところまで話が進みました。明日、不動産屋のボスと直接交渉して、「」なら20年ぶりのマイホームです。とりあえず、現物を見に行きました。築7年で、4LDK、駐車スペース3台、土地60坪弱都会の方は、ビックリするかもしれませんが、この辺では、「猫のヒタイ」ぐらいの広さです。 なんせ、このあたりの家は、「坪」とか「平方メートル」なんて単位を使いません。 「反(たん)」です。 明治時代に1尺=(10/33)メートルと定められたので、 そこから1反=約991.74平方メートル=約9.9174アールとなる。 この値は10アールに非常に近いので、面積についてはメートル法への 移行はスムーズに行われた。つまり、「1反」は「約300坪」です。しかも、あくまで「1反」は、“最低単位”であってだいたいの家は、 「あそこらへんから、そのへんまでが、うちの庭」って感じで、2~3反が当たり前なんです。 「けっ!! 掃除や草刈が大変なだけや」 「“よそ”は“よそ”」と自分に言い聞かせております。帰りがけに車を走らせていると、 お~ まい があぁぁっ 20数年前に新築して、一日も住まないうちに銀行様に捕られて転売された 「元 我が家」が目の前に・・・自ら設計にも口を出し、思い入れたっぷりのあの色・形・・・ 完成間近に「不渡り手形」をくらって、私の目の前で 銀行様⇒買い叩いた不動産屋 へ「カギ」が手渡されました。 1回だけでも、あの「カギ」で玄関を開けたかった。(TへT) わずか数ヶ月(建築中だけ)私の名義の土地と家でした。 「不動産取得税」だけは、きっちりと請求されました。逃げた女房に、不意に出会った時って、こんな感じなんでしょうか? 「今の住人は、大切にしてくれてるか?」 「前に家が建って、日当たりが悪くなってるなあ」などと語りかけそうになりました。思えば、20数年この田舎の土地には一度も来てません。発見したのが、「家」だったからよかったものの本当に、「逃げた女房」とか「別れた元彼女」とかだったら、ど~考えても ストーカー扱いでしょうねぇ。などと訳のわからない事を考えつつ帰路に着きました。明日の不動産屋との話次第では、近々引越ですが・・・マイホームの命運やいかに・・・ どど~んん
2007年08月06日
かなり昔の、参加票↑↑ と 平成10年の「70年記念参加票」↑↑学生さんは、夏休みです。2~3日前にも書きましたが、夏休みは、給食がない・・・・・・という「ぶらぼ~」な日々です。し・か・し・・・・・・夏休みは、 (1)ラジオ体操に行かなくちゃ (2)プールにも行かなくちゃ (3)朝10時までは、外に出ずに勉強しなくちゃ 宿題や、絵日記は、はなから「ごめんなさい」のつもりです。でも、ラジオ体操は、苦痛でした。 「なんで、こんな朝っぱらから?」首から、「参加票」ぶらさげて (こういう名称なんですねぇ。初めて知りました。)イヤイヤ体操しながらも、スタンプを押してもらって帰宅する。「自由参加」などと言いながら結局、スタンプの数をチェックされて何のかんのと言われるんです。そんな事も、「忍術使い」の私ですから、ちゃ~んと策を弄しておりました。「忍法分身の術」 まぁ、これは基本ですわな。消しゴムで、数種類のハンコを「偽造」します。後は、好きなだけ押す・押す・お酢。たまに、“本当に”参加した時は、アリバイを作るかの如く前の方で、目立つ!時には、後ろの方で、目立たないように・・・数少ない貴重な「アリバイ作り」の日ですから、前日から興奮と緊張で眠れません。普通に毎日行ってた方がよっぽど気楽だったのは言うまでも有りません。順調に作戦は遂行されました。 (Radioの頭文字を取って「オペレーション“R”」と名付けました。)しかし、「オペレーション“R”」は、私の慢心と油断からもろくも崩れたのです。 台風で、中止の日も、 お盆の休みの日も 偽造した「絵日記」によると親戚の家に泊まっていたはずの日もそうです。私の「参加票」には、きっちりと「スタンプ」が押して有ります。 そもそも、「スタンプ」は、数種類有って「インク」の色も3種類ぐらい有りました。 完璧にする為には、その日に「どのスタンプ」が「どの色で」押されたか そこまで、キチンとするべきでした。 そうすれば、少なくとも「休み」の日に押すという失敗は避けれたはず・・・ 担任の先生に有りがたい格言を頂きました。 「過ぎたるは、及ばざるが如し」どんな事態に陥っても、決して“タダでは起きない”子供でした。「オペレーション“R”」の欠点を補い、 欠点は“R”ではなく、“私自身”だったんですがねぇ・・・より進化した作戦を「プール参加票」に取り入れました。名付けて 「オペレーション“R”改」 とにかくプールが嫌いでした。幼い頃、川で泳いでいて溺れそうになった記憶がず~っと消えません。「プールへ行く」この行動自体が、心身共に苦痛であり、“ない~ぶ”な私にとっては「自殺行為」にも等しい事だったのです。「オペレーション“R”改」は、完璧でした。「スタンプ」を作る技術も向上し、最適な消しゴムも見極め図画工作で使う「彫刻刀セット」も私のは、学校指定のモノでは無く生まれ故郷の、「関の刃物」の店で調達したものです。 ・・・余談ですが、三島由紀夫が割腹した時の刀は「関の孫六」です。完璧に見えた作戦も、やはり破綻する時が来ました。夏休みが終わり、みんなの「プール票」を集めた時 そうです。みんなの用紙は、水に濡れて、シワになりインクも滲んでいます。重ねてみると一目瞭然です。私の用紙だけ、ピシッとしていて、汚れも無く、インクも全く滲んでいません。 「オペレーション“R”」での前科が有る私を見逃すような先生では有りません。職員室で、新たな格言を頂きました。 「驕る平氏は久しからず!」前回の格言は合点がいきましたが、今回のは「よ~わからん」 「奢る兵士は・・・」だと思いましたので、 (戦場では、お金も無いのにエエかっこして奢ってばかりいたら すぐにお金が無くなるよ)・・・と解釈したのですから。そんな「作戦」を駆使しながら小学校6年間の夏休みを送っていました。それでも、「朝10時までは、外出禁止!それまでに勉強する事!」という約束は守っていました。(勉強はしてませんでしたが・・・)テレビでは、「夏休みニコニコ大行進」(だったと思いますが・・)というマンガ番組が上手い具合に朝10時頃まで放映されていました。一番記憶に残っているのは、 「スーパースリー」です。 普段は人気ロックグループ、ひとたび事件が起これば、 秘密諜報部員に早変わりして、悪人たちをバッタバッタとやっつける、 と言うのが、ハンナ・バーバラ・アニメの名作「スーパースリー」 の大筋なのですが、このアニメには、主人公の3人組をはじめ、 個性溢れる悪党たちもぞくぞくと登場しました。「諜報部員」という言葉が新鮮で憧れました。 コイル(声・関敬六) スーパースリーのメンバーは、超能力者なのか 改造人間なのか知らないが、全員、特殊能力の持ち主である。 対する悪党たちもしかりである。 いつも、一番手で敵前に突っ込んでゆくボヨヨンのコイルは、 体全体がバネになっていて、敵の攻撃を弾き返したり、 ジャンプで遠くの敵を掴み引き寄せたりできる。 フリー(声・石川進) オカマ言葉で喋るスイスイのフリーは、液体に変身できる。 液状になって、どこへでも潜入できる他、増水して敵を溺れさせたり、 時には、雨雲になって、敵に雷を落とすと言う荒業を披露したりする。 マイト(声・愛川欽也) バラバラのマイトは、分身の術を使って、何十人にも増える事ができる。 敵の目を分身たちにひきつけておいて、本物が敵の裏をかく、 と言う戦略を十八番とするが、数にものを言わせて、 人間橋や巨大ハエ叩きに早変わりもできる。 「らりほ~ らりほ~ らりるれろんん~ す~ぱ~すり~はぁ 諜報部員~ 世界のためなら エンヤぁとっとぉ どっこいしょ」というテーマソングを普段のロックグループの持ち歌にしているので、「諜報部員」というのがバレバレでした。
2007年07月24日
さきほど、学校給食の苦~い思い出を綴りましたが、中には、私とは正反対の記憶をお持ちの方もいると思います。現に、今でも、「給食献立表」にランクを付けているヤツが我が家にいました。うちの嫁です。 あ!現在無職の私に代わって 我が家の「家ネコ6匹+犬1匹 +外ネコ数匹+私」 を養う大黒柱ですので、 「嫁様」と呼ばねば・・・嫁様は、保育士をしています。そこの保育園(幼稚園?私には区別が付かん)の給食は 「それはそれは美味しい」らしいのです。私の「A」「B」「C」ランクとは正反対で 「A」高熱でうなされてでも、這いつくばってでも食べに行く! 「B」園児を押しのけてでも「おかわり」をする。 「C」38度以上の高熱ならば、あきらめる。こんな感じで「嫁様ランキング」を付けてます。 ・・・本当に、「A」「B」「C」とマジックで記入して 我が家の冷蔵庫に張り出してあるんです。 ※当然「園児」への配分は、きちんとした上での話ですので、 嫁様の保育園(幼稚園)に講義の電話などしないように、 くれぐれもお願いいたします。 しかも、「かなり腕が良い」と評価している“給食のおばさま”と個人的に仲良くなっているではないか。美味しかったソースのレシピとか、時には余った「現物」などを頂戴してくる。 ・・・密告せぬようお願いいたします。 あくまでも、「余って捨てる予定のモノ」ですので・・・たしかに、「うまい」 こんな給食だったら、私のランク付けも少しは変わっていたのだろうか?あさって月曜日の献立は、「 A 」との事で、今から体調を崩さぬよう、気合を入れている嫁様です。月曜日、、、はたして園児の「分け前」は有るんでしょうか・・・?
2007年07月21日
学生さんは、いよいよ夏休みですねえ~。かく言う私も、一応「学生」の端くれなのですが、当然「夏休み」などと浮かれてはいられません。学生時代の夏休みを振り返ると、 あっと言う間に過ぎ去った記憶しか有りません。何故あんなに早く時間が過ぎ去るのでしょう? Time flies like an arrow まさに、 時間のハエは、矢が好き 光陰矢の如しそして、休みが終わると、また苦痛の毎日・・・私の場合、夏休みに限らず、休みの日は、何と言っても 給食がない これが一番嬉しかった。とにかく好き嫌いの激しかった少年時代。給食メニューのほとんどが嫌いでした。小学校の頃は、給食の時間が終わっても食べきれず、よく覚えてませんが、掃除の時間中も給食とにらめっこしていたような記憶があります。放課後まで居残りで、にらめっこしてました。 ・・・掃除の埃が舞い、挙句の果ては ただでさえ嫌いなのに、 冷めきってしまったのを食えるか~昨今は、アレルギーとか色んな事情で、無理やり給食を食べさせる・・・という教育はされていないようです。今から思えば、一種の虐待じゃないんかなぁ。と思います。特に小学校の頃は、月毎に配布される 「まいにちの給食表」・・・赤:血や肉となる食品 青:なんたらかんたら 黄:どうたらこうたらみたいな感じで一か月分の献立表が有りました。これを検討し「A」「B」「C」そして「Z」の4段階に色塗りをしていました。 「A」・・・何とかなる。 「B」・・・体調と、隣の席のヤツ次第。 「C」・・・「オペレーション“サスケ”(忍法食遁の術)」決行! 「Z」・・・学校を休む!!!「A」ですら、“何とかなる”程度ですから、何ともならなかった事もしばしばです。まして、「B」は、隣のヤツとの交渉次第なのです。 「何でも好き」と言うヤツがたいてい一人や二人いますので、 こいつを抱きこみます。 始めのうちは、「八宝菜(Cランク)」でも 「キュウリの酢の物(当然Cランク)」でも喜んで食べてくれました。 「ありがとう」とお礼を言われて、 なおかつ「Cランク」を処理してくれるのですから、ありがたい事です。 しかし、敵もさるもの・・・ そのうち、「八宝菜食べてやるから、プリンもくれ」 交換条件を出してくるのです。 泣く泣くプリンを差し出したのは言うまでも有りません。さて、「Cランク」はいよいよ門外不出の 「オペレーション“サスケ”」です。食遁の術(しょくとんのじゅつ)と名付けたこの作戦は、白土三平作「サスケ」(猿飛佐助のお話)に出てくる 土遁の術 をヒントにしました。「土遁の術」は、敵に襲われた時に炎を目くらましにしてその間に、地面に穴を掘り、そこに隠れる・・・と言う現実離れした術です。 ・・・もっとも「忍法」は、現実離れしてこそ「忍法」ですが・・・で、「食遁の術」は、 見張りの先生が、目を離した隙にトイレに行く。 その時までに、「八宝菜」などを“先割れスプーン”で 思い切り『圧縮』しておく。 しかも、「食感」や「味」の悪いアイテムを なるべく中に封入しておく。 もちろん、トイレに行く直前に『圧縮』した“ブツ”を 舌下に収納して、トイレで吐き出す。 ただし、普通に 「おしっこ言って来ます。」と発音できなければバレてしまう。 (普段から“お菓子”を舌下に含んで訓練したのは言うまでもない。) この際、周りの敵(特に学級委員)に悟られない事が肝要である。 トイレに入ってからも、素早く行動するべし!「Zランク」 これは、もう最終手段です。 「仮病」と言われようが、何と言われようが、 とにかく「休む」 こうして、毎月月末には、「献立表」を吟味し、親にもばれないように、暗がりで「ランク分け作戦」を遂行する少年の姿がありました。朝、登校する前から・・・そして午前中ず~っと 「給食なくならんかなあ」給食センター(数校の分をここで一手に賄っている)が自分の小学校に併設されていましたので、 「いっそ、 でも・・・」などと、マジで思った事も有るぐらい苦痛だったのです。いざ、給食・・・後は記憶がありません。 ボンヤリと、掃除の風景・・・そして放課後薄暗い教室そんな事しか覚えていません。中学校になってからは、 「牛乳とパン」以外は、最初から拒否! 他の人に回して、その分 「牛乳は、MAX7本」「パンは食えるだけ」 これで、小学校の時の虚弱体質から脱却しました。「パン」を食べきれずに、机の奥に押し込んでしまうヤツや、少食な女の子の分は、一手に引き受けて食べていました。人生が少し明るくなった3年間でした。義務教育を抜けると、そこには、 「お弁当」 というパラダイスが待っていました。・・・今では、当時よりも好き嫌いが減って キャベツ 生のニンジン 生のタマネギ セロリ レタス レンコン 大根おろし アルファルファ その他生野菜 チーズ 鳥レバー ジンギスカン 蟹ミソ シチュー などなど沢山・・・美味しくいただいています。で、よ~く考えてみると、 ◎当時家庭では“おかん”が作らなかったもの ◎かつ、「給食」でしか食わなかったものが、ほとんどです。 ・・・給食のおばちゃん、「料理下手」やったか? 若しくは、「味付け」が合わんかったか? 予算も限られてただろうし・・・現に、“石鹸のような”チーズしか知らなかった私が今では、チーズ大好きです。(あんまりキツイのはだめですが・・・)蟹ミソは、当時家庭でも時々出ましたが (極貧でしたが、オヤジが“道産子”ですので、 年に何回かは、北海道から蟹など海産物が来てました。)「これは、子供には毒だ」と言われて成人するまでは食べた事がなかったのです。「八宝菜」は未だに「Zランク」です。
2007年07月21日
平成2年(1990年)の 台風19号 の時に、風に飛ばされてきた「迷いネコ(飛ばされネコ)」が我が家の「ネコ世帯主」です。生後間もない赤ちゃんネコで、まだ目が開いたばかりでした。外に出て、風の様子を見ていた時に、気配も無く私の足元に突然出現しました。まるで、忍者のように・・・その日は、大雨・強風の中、行きつけの(?)古本屋に出かけ、「豪華箱入り カムイ伝全巻セット」を買ってきためでたい日なのです。 「こいつを、立派な“忍びネコ”にする。」という約束で、嫁に許可を貰い、文字通り寝食を共にしてきました。カムイ と命名された子猫は 暑い夏には、「一番涼しいところ」を確保し 凍える冬には、「最も暖かいスポット」を見つけ 腹が減っては、いつの間にか俺様の「納豆ご飯」を完食する。 ・・・そうなんです。「納豆」が大好きなんです。 「カルカン」と「刺身」と「納豆」を並べて実験したところ ヤツは“迷わず”「納豆」へと一目散・・・ かかりつけの獣医さんに聞いても、 「好きなら、ええやろ。人間の体にもええんやから。」との事。 「忍びネコ」 として日々成長を続けてきた“カムイ”は、今や、その気配すら感じさせぬ域にまで達し、毎朝、他の「忍ばないネコ」たちと一緒に 「点呼」 を取って「生存」を確認しています。 去年、今年と1匹ずつ他界して、今は「家ネコ」は6匹います。・・・人間で言うと、もう80歳~90歳の「老ネコ」だもんな~ 「クリームリンクスポイント」というネコのようです。
2007年07月13日
昨日、競馬の事を書きましたが、「借金返済」の目的で、競馬をやる以前には、“馬券ファン”ではなく、純粋に“競馬ファン”でした。19歳の頃、バイト先の人にそそのかされてなけなしの2000円で生まれて初めて馬券を買いました。新聞の出馬表を見ても何にもわかりません。 「ファーストアモン」 ・・2枠「4」番 「メジロトランザム」 ・・3枠「5」番なんとなく名前が良かったので、 「4」ー「5」土曜日(前日)に2000円を渡して、馬券を買ってきてもらうことにしました。「3点買い」だとか・・・「流して」・・・とか何も知りませんので、買い目は、「1点」です。買い目を増やせば、当然お金もたくさん必要です。イヤイヤのお付き合いですから、少しでも「捨てる金」が少ない方が良いのです。何にも、期待もしていなかったのですが、翌月曜日「やったなあ」の言葉と一緒に、私の手元に 「59,400円」という大金が転がり込んできました。(当時、アルバイトの月給が9万円ほどでした。)・・・勝ったのは、 「5」枠9番 ハシハーミット 「4」枠8番 ハシクランツ が2着。全然意味がわかりませんでしたが、どうやら、私の告げた 馬番「4」と、馬番「5」をそのまま 枠番「4」と、枠番「5」に勘違いして、・・・と言うより、「4-5」と言えば普通は、「枠番」で買ってくるのです。私の「発注」の仕方がおかしかったのです。結果オーライでしたが、「やっぱり、ハシハーミットとハシクランツで、決まったかあ」とぬかしておる自分がいました。それにしても、本当にこの2頭を買い目にしていたら、日曜日にはテレビ中継を見て「よっしゃああああああああ」などと叫び、月曜日は朝一番から、「当たり馬券」様の出社を待っていたんだろう・・・そして、「8-9」のハズレ馬券を渡されて「何じゃあぁあ~ こりゃあぁ~」 ←松田優作風にと乱闘騒ぎになっていたんでしょうか?そんなマグレはこの一度きりでした。それからも、「G1」レースが有ると金曜日からスポーツ新聞とにらめっこして、僅かばかりの予算を、知人に託して、日曜日はテレビ観戦。そこそこ負ける・・・そんな平和な「JRAファン」でした。地元の地方競馬場に変わった色の馬が一頭いました。新馬戦と4戦目で2着に敗れた以外は、常に「1着」何度か見に行きましたが、とにかく強い馬でした。後に異例の中央競馬移籍になりました。「中央でも、そこそこいけるんじゃないか」と私も地元ファンも期待していました。・・・それからの彼の活躍はすごかった。高松宮杯をレコード勝ち秋の天皇賞2着、ジャパンカップ3着と敗退したものの有馬記念で見事「1着」翌年の有馬記念は5着敗退その翌年も、安田記念こそ勝ったものの、宝塚記念2着、秋の天皇賞6着、ジャパンカップ11着「もういいから、帰って来い」・・・多くの岐阜県民はそう思ったはずです。・・・このまま引退?と思いましたがジャパンカップ大敗から約1ヵ月後そうです。武豊を鞍上に、彼は有馬記念で、まさに 有終の美 を飾ったのです。「岐阜県はあまり有名人はいない」と以前に書きましたが、「オグリキャップ」 様を忘れてました。1979年菊花賞 出走表枠 馬番 馬名 性別 斤量 騎手 1 1 ヨシノスキー 3牡 57 柴田政 1 2 ニホンピロポリシー 3牡 57 田島良 2 3 ロングオーカン 3牡 57 村本 2 4 ファーストアモン 3牡 57 吉永正 3 5 メジロトランザム 3牡 57 武 邦 3 6 サチエノホープ 3牡 57 崎山 4 7 ファインドラゴン 3牡 57 南井 4 8 ハシクランツ 3牡 57 柴田光 5 9 ハシハーミット 3牡 57 河内 5 10 ポットハード 3牡 57 武田悟 5 11 テルノエイト 3牡 57 飯田明 6 12 ビンゴガルー 3牡 57 小島太 ←「単枠指定」7 13 ロールスホーラー 3牡 57 押田 7 14 エイシンタロー 3牡 57 楠 7 15 トウショウイレブン 3牡 57 加賀 8 16 ニチドウタロー 3牡 57 清水英 8 17 ハヤテアズマ 3牡 57 伊藤清 8 18 リンドプルバン 3牡 57 嶋田
2007年06月25日
タオル?マフラー?・・・「た・ふ・ら」らしい。浮かれちゃいかん!と言いながらこんなの買っちゃいました。「HANSHIN Tigers 承認」 と記載してある丸いシールは、ていねいに剥がして、携帯電話に貼りました。タオルか、マフラーかよくわかりませんが、「虎」のマークが入っていればいいんです。 同封の紙に「阪神タイガースの歌」の歌詞が、3番まで書いてあります。「勝利の香り」の芳香剤も、押入れから発掘してきました。3年ほど前に購入した物で、開封していません。「優勝祈念」となっています。 ・・・結局この年は優勝したんですが、おそらく 製作者は、長年の阪神ファンで、優勝が決まるまでは、 「記念」とは書けなかったんだと思います。 かと言って、優勝が決まってから売り出したんでは遅いし、 挙句の果てに、優勝を逃したんでは、在庫の山だし・・・ 苦肉の策として、「祈念」となったのではなかろうか。「勝利の香り」を発掘していたら、一昔前の、「競馬ブック」がごっそり出てきました。基本的に、現在はギャンブルから足を洗っています。 人生そのものは、「毎日がギャンブル」ですが借金が、MAXになった頃に、「如何にして返済するか?」を真面目に考えていたのです。普通に働いて返済していたのでは、仮に月々25万円返済できたとしても・・・120、000、000÷250,000=480ヶ月=40年!!!こりゃアカン。かと言って、泳ぎが苦手で腰痛持ちの身としては、マグロ漁船 なんぞは、NGです。あれやこれや、と思案の挙句結局、「確率論」「統計学」「解析学」に救いを求め、10数冊の専門書と、当時のMac「LC630」(だったか・・?)を酷使して、週末ごとに競馬場に通い詰めたのです。「マーチンゲール」を元に、「ダランベール」「モンテカルロ」と独自の理論を組み合わせて、尚且つ、リアルタイムのオッズの推移・・・(これは、株式チャートのいろんな理論を参考にしました。)当時は、抽選でなかなかあたらなかった「PAT」も使いながら・・ 「レインマン」を見て、 「カードカウンティング」も少々齧りました。 本気でラスベガスへ行こうかとも考えました。 ダスティン・ホフマンとトム・クルーズの映画です。この頃は、今でも思い出すだけでシビレます。土曜日・日曜日は、電車で名古屋へ・・・関数電卓と、オリジナルのオッズ予測表、プリントアウトしたオッズ表と、専門誌の「予想オッズ」これらを持って、場外馬券上の階段に陣取り、〆切直前まで計算して・・・窓口で、買う。対象レース分だけ買ったら、すぐに家路に着く。平日は、ほとんど1日中「Mac」と「週間競馬ブック」電卓と、マーカー、色エンピツ・・・基本的には、「分散しながらのコロガシ」です。独自の理論も、かなり精度が高くなり、平日は、「競輪」にも応用していました。平日に、5万円~10万円の元手で競輪場へ。これは、平均して1日5万円ぐらいのプラスでした。(結構、危ない橋の連続でしたが・・・)このお金と、前の週末の分を合わせて、それを分散させ・・・(買う金額も、独自のリスク分散表によって配分していました。)とにかく冷静に、冷静に・・初めて100万円を超える配当の時は、わざわざ平日に払い戻しに行きました。(この頃は、「税務署にばれないように・・」とバカな事考えてました。)3歩進んで2歩下がる・・・そんな調子で、ゆっくりと、しかし着実に資金は増えて行きました。ついに、元金12万円(嫁のヘソクリを発掘した)が、な・な・なんと 560万円にまで膨らみました。そして、その日はやってきました。名古屋の場外馬券売り場です。 冷静にシミュレーションを重ね、 冷静に敗因を分析し、 冷静に買い続け、 冷静に計算結果を点検し、 冷静に税務署員を警戒し、 冷静に冷静に冷静に・・・・・・・・メインレースの前で、負けました。しかし、これは「想定内」なのです。「ハズレ」の場合は、翌日の平場のレースまで勝負なし。・・・ハズでした。魔が差したんでしょうねえ。目の前で、「G1」の馬が紹介されました。このレースは、「いける度88」と判定していました。 (「いける度90」以上しか買わない!と冷静に決めていたのです。)しかし、雨が降ってきて馬場状態が急変したのです。急遽、その場で「いける度」を再計算・・・92ぐらいまで上がったのです。「買いじゃあ!」・・・・・・・・・・・・・・・石橋を叩き、居もしない税務署員にまで気を付け、帰り道は、「ゴルゴ13」のように注意深く、家では、慎重なシミュレーションを行う。・・・・・・・・・・・・・・・そんな過酷な数ヶ月も、わずか一瞬の、「買いじゃあ!」で、すべてが吹っ飛んだのです。メインレースの負けを最終レースで・・・JRAの「有り金回収方程式」に見事にはまったのです。最終レースは、「いける度68」だったのですから・・・その日は、どうやって帰ってのか覚えていません。それ以来、「ギャンブル」からは足を洗いました。少なくとも、冷静に事を進めているうちは自分の中では「ビジネス」だったのですが・・・「シミュレーション」の上では、100万円の札束も無くただの数字ですが、実際に、「札束」ってヤツを手にすると、とかく「貧乏」と「冷静な判断力」は両立しないようで・・・
2007年06月24日
↑↑↑ 「宮内庁式部職」であられる「鵜匠」による鵜飼昨日と今日にかけて、母方の婆様の「17回忌法要」 に行って来ました。関東や関西から、母方の一族が終結するわけです。幸い、私の地元の寺での法要ですので、交通費などは、かからずに済みました。大半が、老人ですので、「次は、全員揃うかどうか、わからない」と各々が、毎回 「これが最後!」ぐらいの意気込みなので、変に気合が入っています。今回も、地元の 観光ホテル に宿泊して、「鵜飼見物」 まで企画していました。地元に長い事住んでいますが、この 「鵜飼見物」 は、初めての経験です。※※※どこでもそうだと思いますが、地元の「銘菓」とか「観光名物」って意外に、興味がないんじゃないですかね?※※※そもそも、岐阜県民(特に美濃地方の人)は、 「鮎(あゆ)」 「柿(かき)」 は、「タダ=無料」と思ってますから、あんまり有難みがないように思います。「鵜飼」 は、現在全国13箇所で行われているそうです。この内、岐阜県長良川の岐阜市と関市の2箇所は、 「御料鵜飼(ごりょううかい)」 に指定されていて、ここの鵜匠達(岐阜6人、関3人)は、 宮内庁式部職 という扱いだそうです。・・・なんだかスゲエんだ。で、この「御料鵜飼」で捕れた鮎を、 「皇居」 や 「明治神宮」 「伊勢神宮」 へ奉納するらしい。・・・・・・「岐阜県」ってそれほど有名人もいないし、「国体」は、だいたい47都道府県中、20位~25位ぐらいだし、人口は、17位(210万人程)らしい。(面積は、7位なのに・・・)「人口重心」ってのが、岐阜県に有るんですが、これも、拘ってるのは、多分「岐阜県民」だけだろうし、「首都機能移転」の話も、未だに県内では、燻っているし、いずれにしても、な~んか地味なイメージ・・・と言うか存在を知らない人も結構全国にはいるみたいです。 ※冗談ではなく、 「京都の辺でしょ?」とか、 「琵琶湖のあるとこ」とか・・・これぐらいは、まだマシで 「名古屋の中(???)でしょ?」みたいな人もいる。そういう人たちには、 「高橋尚子の出身地」とか、 (これも、そろそろ通用しなくなってる。) 「スーパーカミオカンデが有る」とか、 「信長、秀吉、家康 のとこ」 (愛知県の方には、異存が有るでしょうが、 愛知県は他に色々有名な事があるから、譲って下さい。) 「野口五郎、岡田奈々、あいざき信也・・・の出身地」とか、 「野麦峠」とか 「関が原の合戦があったとこ」とか・・・どれもこれも、「ふ~~~んん、そうなの?」程度の反応しかありません。最近は、結局 「県庁ぐるみで裏金を作ってたとこ」・・・が一番大きな反応をいただけるようです。がんばろうぜ!!!岐阜県民!!!
2007年06月17日
すんごい夕焼けが撮れたので、アップします。いつもここに載っける画像は携帯電話で撮影するのですが、以前購入したデジカメが出てきたので、喜んでいたのですが・・・このデジカメ、なんと 「130万画素」当時は、「清水の舞台から飛び降りる」つもりで購入したのに、今や、携帯電話のカメラよりも劣るとは・・・と言う事で、夕焼けも携帯画像です。夕焼け・・・と言えば梶原一騎、荘司としお の 「夕やけ番長」 (夕焼け ではない)を思い出しました。復刻版が、押入れにあるはずなので、探して読破しようと思います。 (ま~ったく、そんな事ば~っか・・・少しは勉強せ~よ!!!)テレビでも、半年ほど放映していたようです。断片的にしか覚えていません。しかし、主題歌と主人公「赤城忠治」の声は、なんとあの 「加藤みどり」・・・言わずと知れた「サザエさん」の声。です。・・・豆知識 豆知識。
2007年06月15日
雨のせいか、どうにも気が入らない。得てして、ダメ人間は 雨が降ったら降ったで、 晴れたら晴れたで、 腹が減ったら減ったで、 食いすぎたら食いすぎたで、 やれクリスマスだの やれ誕生日だの 金がない 眠て~と、「出来ない理由」なら100でも1000でも即座に思い付く。そんな事を思い付く内に、ひとつでも、 「どうしたら出来るか?」を考えればいいんだが・・・なかなかそうは行かない。と、言ってる自分が一番わかっているんだけど・・・と、自己分析はいつでもできるので、この辺にして・・・そもそも、20代の頃に自分で仕事を始める時に 「ハインリッヒ・シュリーマン」と 「伊能忠敬(いのうただたか)」この二人の存在が頭に有りました。「将来、好きな事を存分にする為に、若いうちにたんまりと稼ぐ。」大雑把に言ってしまうと、こういうコンセプトです。シュリーマンは、“架空”とされていた、「トロイアの遺跡」を実際に発掘して、世界を驚かせたドイツ人です。夢を追いかけて、事業に没頭し、資金が出来たらさっさと事業をたたんで、夢に向かった・・・という定説でしたが、「教養ある妻に対しコンプレックスがあったことから、 トロイア遺跡発掘が子供のころからの夢であったと語ってしまい、 発掘に挑む羽目になってしまった。」というのが現在の通説のようです。実際のところは、どうであれ 当時は、「架空の話」とされていた遺跡を発掘しよう!というのですから相当なエネルギーを要した事でしょう。その夢の現実のために、若い頃はひたすら働いた・・・という事です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3 ↑↑↑毎度お馴染み「Wikipedia」参照一方、「伊能忠敬」も18歳で、伊能家に養子に入ってから、酒、醤油の醸造など類稀な商才を発揮して、伊能家を再興させました。50歳になってから、家督を長男に譲り、51歳から測量を学んだ・・というのですから、天晴れです。当時の50歳と言えば、もう余命など勘定できない年齢です。56歳で、第1回の測量を開始して以来74歳で死ぬまで10回にわたる測量の旅を敢行しています。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%83%BD%E5%BF%A0%E6%95%AC ↑↑↑ 伊能忠敬のページです。(Wikipedia) 二人とも、すばらしい人生だと思います。・・・で、私もこの二人を見習うべく、若いうちに起業して、たんまり稼いで・・・と画策したのですが、・・・どこでどう狂ったのか?彼らとは違う方向へ進んでしまいました。彼らは、思惑どうりに 「資金を稼いで」 夢に向かいました。今となっては、彼らと同じルートには戻れないので、私は、「莫大な借金を」 「わざわざ作って」というルートで、夢に向かってみよう・・・と思っています。相変わらず、勉強せずにこんな事ばかり考えています。・・・あの頃、シュリーマンの事も、伊能忠敬の存在も知らなかったら・・・人生変わってたんだろうか?
2007年06月14日
前回「巨人の星」と書いて思い出したのですが・・・調べたところ、テレビ放映は、昭和43年3月~昭和46年9月までで、実に3年半もやってたんですねえ。原作のコミックスは全19巻ですから、最近の作品と比べるとそれほど「長編」というわけでもないのですが放送の2回に1回は「沢村栄治物語」とか「吉原捕手の話」とかをやってたように記憶しています。で、最終回:昭和46年の9月ですが・・・当時の日本は、前年に大阪万博を終え、翌年には札幌オリンピック(笠谷、金野、青地が70m級ジャンプで金銀銅を独占・・日の丸飛行隊に日本中が沸きました。)という、まさに高度経済成長期の真っ只中でした。先祖代々、山師の家系らしい我が家の親父も血が騒いだのか、いろんな事業に手を出していました。結果は・・・毎日学校から帰ってくると玄関の前に、黒い大きな外車(どう見ても我が家のものではないし、近所の人のでもない)と黒いスーツに黒メガネ・・・「今時そんなマンガみたいなヤツいねえぞ!」とツッコまれそうな格好のお兄さんが数人そんな光景を見れば、いやでも「うちのお父様は、どうやら人並み以上に大きな失敗をしたんだろうな・・・」ぐらいの想像はできます。当時は、「消費者金融」とか「サラリーマン金融(サラ金)」などというオシャレな言葉はなくて、単なる「取り立て」です。法律も整備されていませんから、土足で家にあがったり、勝手にテレビを持ってったり・・・ぐらいは、ごくごく普通にやってのけていました。因みに、今や上場企業で、テレビでも可愛いお姉さんや、芸人さんを配して、さわやかなイメージでCMをしている大手の金融会社数社も当時はよく我が家に来てくれていました。「プ○ミス」という意味もその時の怖いお兄さんが丁寧に教えてくれたのを覚えています。「借りたモンは、返す。約束したら、守る。それが人間のルールやで!」・・・と。そう言えば、そのお兄さんが、「おめえも苦労するなあ・・・これでタコヤキでも食え」と言って500円札をくれた事が一度だけ有りました。勿論それ以降は、キッチリと本業を全うしていましたが・・・で、「巨人の星」最終回の日を狙って(としか思えなかった)テレビを持って行かれてしまったわけです。次の日に学校へ行くと、最終回の話題で持ちきりでしたが、一言・・・「涙が出そうだった。」と語ることしかできない自分がいました。「俺もだよ」と数人が同調するのですが、私の心の涙を知る者はいません。それから、30数年・・・DVDが発売され、一気に全182話を見ましたが、最後は感動なのか何なのかわからないまま泣きじゃくっていました。それを見ていた嫁が「ガキじゃないんだから・・・」と言ったので涙と鼻水でグシャグシャの大量のティッシュを背中に押し込んでやりました。ほとぼりが冷めてから、仕返しされたのは言うまでもありません。(TへT)
2007年05月22日
20代の頃から患っている腰痛が再発してしまった。このところの運動不足と、ダラダラ過ごした日々のツケがまわってきた。要所要所で必ず襲ってくる腰痛(椎間板ヘルニアという命名をされている。)だが、今にして思えば、偶然ではなく「なるべくしてなる」ようだ。と、言うのもそもそもこの日記を書き始めるに至った理由は・・・去年の夏に3年半勤務した会社に辞表を出して、雇用保険で暮らす生活が始まった。もともと、会社勤めをした事がなく、人様から「給料」などというものを頂く生活はこの時が初めてだった。最初は、決められた金額の中で生活するのが窮屈に感じたのだけれど、慣れてしまえば“確実に”入ってくる金額の範囲内で生活設計をしてしまえば快適になるもんだ。ただ、それまでに作った借金がまだ1000万円以上残っているので、生活はギリギリで、冠婚葬祭や、車の車検、病院代、などなど・・・その分は累積赤字として残りジリ貧状態の日々。もともとは、20代の頃から作った借金が1億円以上あったので、それに比べればまだ楽になった方だ。その証拠に当時よりも体重が10kgも増えている。で、退職した後、少しでも余分に(私の勤務期間では、雇用保険は90日しかもらえない)雇用保険をいただこうと、「職業訓練校」に入りました。6ヶ月のコースに入ったので、ここに在籍している内は6ヶ月=180日分の雇用保険がいただけるわけです。ところが、通い始めて一ヶ月・・・自動車事故(正面衝突)を起こして、しばらく登校不可・・・結局「登校日数不足」との事で、「退校届」を出す事になってしまいました。180日の雇用保険の権利もなくなってしまいました。事故は、対向車が突っ込んできた事故でしたので、こちらには過失なし。後は今月いっぱいリハビリに通って、慰謝料その他の交渉に入るわけですが、既にこの3ヶ月は無収入状態で、情けないことに嫁さんの扶養家族状態です。保険証も「被扶養者」となって、嫁さんの給与明細にも「扶養手当」が加算されました。・・・嫁は「給料増えた」と言ってますが、明らかに当てつけだと思ってます。まあ、保険証が有るだけでもマシか・・・それすら無い時期が何年も有ったから・・・話を戻して・・・無収入の状態が続いている。当然焦りが出てきて(いつもそうなんだけど)「明日のジョー」や「巨人の星」「タイガーマスク」などの梶原作品を読んだり、「宝物」のうちのDVD「新造人間キャシャーン」を鑑賞したりして、己を鼓舞し、「よっしゃぁ~!」などと叫んでみます。そのうちに「○○をするぜ」などと決意するのです。一時は、なんだかわけのわからんままに「エックス線作業主任者」や「ボイラー技士」「漢字検定」「危険物乙種1、2,3,4,5,6類」「ガス溶接講習」「フォークリフト技能講習」はては、「秘書検定」など狂ったように資格を取りまくってました。でも、流石に本腰を入れないと難しい「社労士」などは玉砕しています。・・・・・・で、今回の「よっしゃぁ~」は医者になるなんですが、これには単なる思いつきや、まして「ブラックジャック」を読んだ、などという単純なキッカケではなくもっと複雑に絡んだ半生が大きく影響しています。今日は、このへんで・・・
2007年05月21日
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