秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

PR

Calendar

Favorite Blog

コレ、いいかも☆ natsu。さん
ハワイアン生活  … hayatoman20さん
NO COLOR NO LIFE! N… color&designさん
芦田晋作の三文レビ… 芦田晋作の三文レビューさん

Freepage List

2019.12.15
XML
テーマ: 写真日記(2108)
カテゴリ: 写真

14:00過ぎに床屋が終わって、帰りに不忍池にでも水鳥の写真を撮りに行こうと出かけるも、途中よくばって秋葉原にあるオムライス専門店に行ったら思いのほかまずくて疲れた足で不忍池に行ったら、12/22は冬至でさすがに、あたりが暗くなるのが早く、水鳥も黒っぽくしか見えず、池のほとりの東天紅あたりのベンチに座って休んでいました。
そうしたら、対岸のお寺みたいなのがライトアップされて、暗くなるのにつれて、徐々に浮かび上がってきて、なにかもとが取れたようでうれしかったです。家に帰って調べたら弁天堂という建物だそうです。



■参考リンク
上野の夜は不忍池弁天堂のライトアップ2016/01/11

不忍池辯天堂について - 寛永寺
不忍池辯天堂の歴史
不忍池(しのばずのいけ)辯天堂(べんてんどう)は、江戸初期の寛永年間に、天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643)によって建立されました。
天海大僧正は、「見立て」という思想によって上野の山を設計していきました。これは、寛永寺というお寺を新しく創るにあたり、さまざまなお堂を京都周辺にある神社仏閣に見立てたことを意味します。例えば「寛永寺」というお寺の名称は、「寛永」年間に創建されたことからついたのですが、これは「延暦」年間に創建された天台宗総本山の「延暦寺」というお寺を見立てたものです。
こうして天然の池であった不忍池を琵琶湖に見立て、また元々あった聖天(しょうてん)が祀られた小さな島を竹生島に見立て、さらに水谷伊勢守(みずのやいせのかみ)勝隆(かつたか)公と相談して島を大きく造成することで竹生島の「宝厳寺(ほうごんじ)」に見立てたお堂を建立したのです。
琵琶湖と竹生島に見立てられたお堂であったため、当初はお堂に参詣するにも船を使用していたのですが、参詣者が増えるにともない江戸時代に橋がかけられました。
昭和20年の空襲で一帯は焼けてしまいましたが、お堂は昭和33(1958)年に復興し、また昭和41(1966)年には芸術院会員であった児玉希望(こだまきぼう)画伯による龍の天井絵が奉納されました。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2019.12.15 22:52:04


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: