秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

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2023.08.06
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小学校から中学にかけてローラーゲームというのが一瞬流行りました。12チャンネルで確か、土井まさるさんとミッキー安川さんが実況中継していたように思います。ルールはいまだにわからないですが、ゲームの終盤で相手チームを何人か抜いてポイントを競ったように思います。


1,2年前にYouTubeでローラーゲームを探すも当時の東京ボンバーズの動画は見当たりませんでしたが今日探したら結構あったのでご紹介します。佐々木ヨーコさんがなかなかの美人でした。




■参考リンク
Wikipedia:ローラーゲーム
ローラーゲーム(英語:Roller Games)は、ローラースケートをはいてトラックで行うエンターテイメント性の強いチームスポーツ、チーム格闘技、ローラースポーツである。後にほとんどが女性選手の競技となっている。発祥国のアメリカ合衆国カナダやワールドスケートジャパンではローラーダービー(Roller derby)と呼ぶ。
アメリカ合衆国で1930年代から発展、1960年代には流行しテレビ中継も行なわれた人気競技だったが、1970年代で一旦流行が終了していた。2001年から再度復活の兆しを見せ、アマチュア競技として北アメリカ及びその他の国々で競技が行なわれている。のちに世界で約1250ヶ所のリーグがある状況になった[1]。
歴史
アメリカ合衆国で1960年代から流行し、盛んにテレビ中継された。(en:Roller_Games)
しかし、アメリカ合衆国では市場調査の結果、このスポーツのファン層が購買力のほとんどない最低所得者層であることが判明し、やがてスポンサーが離れテレビ中継は下火になっていった[2]。しかし、その後も一部に根強いファン層は存在する。アメリカ合衆国では、競技名としては「ローラーダービー」(en:Roller_Derby)が一般的である。

純粋な競技というよりも、ショー的要素の強いプロレスと共通する部分が見られ、ブック、アングル、ギミック、暗黙の了解があるといわれる。東京ボンバーズのアメリカ合衆国での試合も日本で放送される場合はほとんどベビーフェイス(善玉)を演じることが多かった。『日米対抗ローラーゲーム』の最終回が近づくとヒール(悪玉)を担当している試合も放送された。アングル等により、2選手間に抗争が勃発、激化すると1対1による禁止技のない試合マッチレースが開催された。マッチレースはテレビでは放送されなかった。




東京ボンバーズ(とうきょうボンバーズ、Tokyo Bombers)は日本のローラーゲームチーム。
概要
1972年10月から東京12チャンネル(現:テレビ東京)で放映されたエンターテイメント性の強いスポーツ番組、『日米対抗ローラーゲーム』に登場。
元所属選手の小泉博(1973年に板橋区前野町にあったトレーニングスクールから巣立ってローラーゲームのスター選手となった)によって2002年に東京ボンバーズ(第2次)が再編され、2015年現在も存在しているが、メンバーは1970年代と異なり男性のみである。小泉はプロレス的要素を排除した「真剣勝負」を提唱し、ローラーゲームの完全復活と定着化を目指して試合ルールも「競技」としての色が強いものに変えている。試合ルールとチーム構成、チームの所属がまったく違うのでここでは1970年代の東京ボンバーズ(第1次)について記述する。
ボンバーズ創設史概略
ローラーゲームの放送と日本人チーム結成計画
1968年(昭和43年)4月、東京12チャンネルがロサンゼルスに拠点を置くサンダーバードの「ローラーゲーム」放送開始。「ローラーゲーム」放送の高視聴率により日本人チーム結成を計画。選手募集を行い後楽園ローラースケートリンクに於いて選考会を開催。200名以上の応募から10数名を選考。
1969年 - 1970年にかけて選考会で選出した角田誠、佐々木陽子が2回渡米。ロスアンゼルス サンダーバードの施設で訓練を受けると共にサンダーバードの一員として試合に参加。活躍している様子が日本でも放送される。
1970年9月、東京12チャンネルは視聴率の低下を理由にロサンゼルスサンダーバードの試合番組を放送中止。
4名が渡米してサンダーバードのメンバーに

1971年6月、角田誠、佐々木陽子、河野一男、森文雄の4名はアメリカ本土からハワイに渡り、ハワイアン ウォリアーズのメンバーとして1シーズン(3ヶ月間)試合に参加後帰国。
8名が渡米して東京ボンバーズが誕生
1972年6月から8月までの3ヶ月間ハワイで開催されるウォリアーズのシーズンに参加するために日本から角田誠、遠藤優、河野一男、森文雄、佐々木陽子、綾部圭子、堀井由美子、岡田恵子の8名が渡米。
ウォリアーズの一員として試合に参加すると共に現地のウォリアーズ日系人スケーター、レイ横山、ボビー加藤、ダーニャ原田、シンディ儀間を加えてタイガー森、佐々木陽子両キャプテンが率いる東京ボンバーズが誕生。又、この時からロサンゼルスで指導を受けてきたサンダーバードのコーチ、ラルフ・バラディアスや女性選手のコリーン・ミュレルが東京ボンバーズに応援参加。東京ボンバーズとしてニューヨーク・チーフス、デトロイト・デビルス、シカゴ・ホークス、テキサス・アウトローズの4チームと対戦。試合の様子を収録。1972年10月から東京12チャンネル(現テレビ東京)は収録試合を「日米対抗ローラーゲーム」として放送を開始した。

Wikipedia:佐々木ヨーコ
佐々木 ヨーコ(ささき ヨーコ、1948年8月12日 - )は日本の元ローラーゲームの選手。試合は男女混合で編成されたチーム同士で行われ、日本の唯一のチーム、東京ボンバーズの女性側のキャプテンを務めた。その長い黒髪と美貌でアイドル的人気を誇りローラーゲームの女王と呼ばれた。旧姓、佐々木陽子で現在は鈴木陽子[1]。

1948年8月12日、東京都足立区で二人姉妹の次女として生まれる。実家は美容院で、成女学園中学校・成女高等学校を卒業後、本人も美容師になるべく中野の美容学校へ進む。ここで資格を取り、実家の手伝いをする[2][3]。
1968年の秋、20歳の頃、友人と後楽園ホールに遊びに行った時、アイスパレスでアメリカのローラーゲームを統括するナショナル・スケーティング・ダービー社が行った、プロスケーターの試験を受けるようにと関係者から声を掛けられ、気楽な気持ちで受けたところ合格する。その時、一緒に合格したのが、東京ボンバーズの男子のキャプテンとなるミッキー角田であった。そして2人は1969年の春にロサンゼルスに渡って3カ月の練習を積みロサンゼルス・サンダーバーズの一員として、アメリカの公式戦でデビューすることになった[4]。2人はハリウッドにあるアパートに住み、家賃は『ローラーゲーム』を放送していた東京12チャンネルが持ち、生活費はサンダーバーズから支給される練習生としてのわずかな給料でまかなった[5]。この頃のヨーコの生活は1年のうち、10ヵ月はアメリカで試合、2ヵ月が日本で休暇という流れであった[3]。その活躍が日本でも放送されるようになって、日本でのローラーゲームの人気が次第に高まり、プロ選手を目指す者が徐々に増えていった[1]。ダービー社は日本でのプロテストを受けて合格した者を次々とアメリカに送り込み、厳しいトレーニングを課してアメリカの各チームにふるい分けて実戦経験を積ませた。そして1972年6月、ヨーコを含む日本人選手をハワイへ集めて、日本人チームとニューヨークのチームがホノルル・シビック・オーデトリアムで戦い、日本側が勝利し東京ボンバーズが誕生した[1]。

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アエラドット:「芸能人水泳大会は嫌だった」弱みに付け込まれた佐々木ヨーコの告白佐々木ヨーコ2023/02/24/ 17:00





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Last updated  2023.08.07 23:27:08


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