Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2022年01月27日
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カテゴリ: 絶対存在論
神の存否-303
 臨済宗妙心寺派の名刹、乾徳山恵林禅寺。武田信玄の尊敬を受けた美濃の快川(かいせん)和尚、天正10年(1582年)4月3日に織田信長の焼き討ちにあい、快川国師は「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭滅却すれば火も自(おのずか)ら涼し」と言葉を残し、百人以上ともいわれる僧侶等とともに火に包まれました。事程左様に禅宗は精神から身体の存在を滅却したところに「精神の自由(寂徳:著者造語/巌の如く振れない自然体)」を肉身の実体からの離脱の境地を心の静寂を尊(たっと)びます。対して西洋哲学の実践倫理学の祖とも云えるスピノザは身体と精神の関連を如何用に捉えているのでしょうか。
 定理一〇 我々の身体の存在を排除する観念は我々の精神の中に存することができない。寧ろそうした観念は我々の精神と相反するものである。
 証明 すべて我々の身体を滅ぼしうるものは身体の中に存することができない(この部第三部の定理五 物は一が他を滅ぼしうる限りにおいて相反する本性を有する。言いかえればそうした物は同じ主体の中に在ることができない。により)。したがってそうした物の観念は神が我々の身体の観念を有する限りにおいて神の中に在ることができない(第二部定理九の系 おのおのの観念の個々の対象の中に起こるすべてのことは、神がまさにその対象の観念をもつ限りにおいてのみ、神のうちにその認識がある。により)。言いかえれば(第二部定理一一 人間精神の現実的有を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念にほかならない。および第二部定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。により)そうした物の観念は我々の精神の中に在ることができない。むしろ反対に、精神の本質を構成する最初のものは現実に存在する身体の観念であるから、我々の精神の最初にして最主要なものは、我々の身体の存在を肯定する努力である(この部第三部の定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。により)。したがって我々の身体の存在を否定する観念は我々の精神と相反する、云々。Q・E・D・=此れが証明すべきことであった。



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最終更新日  2022年01月27日 06時10分04秒
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