Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2023年08月23日
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カテゴリ: 霊魂論
「四次元/Die Vierte Dimension」数学と現実
第二部 質疑応答 續1920年3月7日
◎第二の質問:アインシュタインによって仮定された時間の相対性には何らかの現実性があるのでしょうか。
答弁:時間の問題に関しては、通常の機械的な定式ではなく、弾性についてのある定式に基づいて考えることから始める必要があるでしょう。弾性理論の考えを借りる必要があるのです。最前面を形成する分散や拡散を、無限へと広がり続ける実体として拡張的に想像することはできません。それは一定の周縁部に至ると必ず自分自身へと戻ってきます。現実の状況を扱おうとするならば、太陽が放射する光は無限へと消え去ると云うことはできません。そのようなことは全くないのです。拡張する弾性の力が尽き、それ自身へと戻ってくるようになる境界が必ずあります。拡散し、無の中へと消え去るという条件を満たすような無限系などというものは存在しないのです。拡散する実体は、それが何であれ、まるで弾性体を支配する法則にある程度従っているかのように、境界に到達するとそこで向きを変えるのです。私たちが光について語るとき、私たちが扱っているのは、決してあらゆる方向へと際限なく拡散し続けるような何かではありません。そのようなものではなく、私たちがいつも見いだすのは波のうねりと比較できるような状況です。私たちが定式を探すべき場所はそこであり、通常の力学のなかではありません。それから、まだ時間そのものの問題があります。実際、時間はこれらすべての変容を通過して行くと言えるのではないでしょうか? この力学の領域においては、いわゆる時間というものは現実的なものではありません。s(距離)=c(速度)×t(時間)という最も単純な式を取り上げてみましょう。通常の乗法にしたがえば、sは本質的にcと等価でなければなりません。何故なら、そうでなければ空間sは時間に等しくなりますが、そのようなことはあり得ないからです。この式のなかの空間については、いずれにしても数学的にはcに等しいものとして考えることしかできません。リンゴや梨を乗ずることは不可能です。そうではありませんか。一方を他方に換算しなければなりませんから。数式のなかでは、時間は数でしかあり得ないのですが、そのことは現実の時間が数であることを意味しません。私たちがそのような数式を書くことができるのは、私たちが取り扱っている数には色がついていないと仮定するときだけです。式c=s/tは別です。ここでのsは数tの大きさに関係するような一定の大きさを持った空間です。それによって速度cが与えられます。これは、特定の知覚し得る量の空間を占めているものが原子や分子であると想像するにしても、あるいは物質であると想像するにしても、現実の状況です。私は、私が経験的に直面するいかなるものも一定の速度を有していると想像しなければなりません。これ以上の結論は抽象にすぎません。時間は移動距離と除数から私が導き出したもの、私が被除数から導き出した何かですが、これらは抽象的なものです。現実的なものとは、そして、これは力学系にのみ適用可能なのですが、各物体に内在する速度です。例えば、物理学者たちが別の理由付けのために原子理論を受け入れるとすれば、原子が内在的な速度を有することなく存在すると仮定すべきではありません。速度が本当の現実なのです。ですから、私たちはこう言わなくてはなりません。いわゆる時間とはできごとや過程から抽出されたものであると。私たちが出会うもののなかでは速度だけを現実のものとして見ることができるのです。このことを完全に理解するならば、私が時間と呼ぶところのものは現象の結果として現れるのだと結論づけることをもはや避けることはできません。それは現象のなかで共同的な役割を演じるので、私たちはそれを何か相対的なものであると見なして無視するべきではありません。この抽象化された要素の共同作業が産み出すのは、例えば、ある有機体のライフスパン、生から死までの時間的隔たりというような一定の現実性を持った基本的な概念なのですが、その過程は内的なものであり、それを外的に測定することはできないのです。いかなる有機体もその有機体内部で起きているあらゆる経過の結果として生じ、かつその経過に組み込まれているところのライフスパンを有しています。有機体のサイズについても同様のことが言えます。それはその有機体にとって本来的なものであり、何か他のものと比較して測定すべきものではありません。ライフスパンとか生体の大きさといったような概念は私たちが通常仮定しているような仕方では有効に機能しないというのが適当な結論です。
 人間には特有の大きさがあります。今、私たちの通常の宇宙に非常に小さな人間が存在していると仮定してみましょう。他のすべての目的にとっては、他の対象物と比較したときの人間の大きさは重要ではありません。ところが、人間にとっては、その典型的な大きさが重要なのです。何故なら、その大きさは本来的なものだからです。これが重要な点です。人間をより大きなものとして、あるいはより小さなものとして勝手に想像することは全宇宙に対して罪を犯すことです。例えば、どこかの科学的な思考家が、私たちの太陽系よりも遙かに大きな、あるいは遙かに小さな太陽系にはどのような生命がいるだろうかと想像します。このような疑問はナンセンスです。私たちが現実に出会う実在がどれほど大きいか、そしてその寿命はどれほどかというのは内的な必然性の問題なのです。ここで、私はひとつの全体として考え得るいかなる実体もそれ自身の時間をその内部に担っているということを申し上げなければなりません。一片の無機的な物体は他のいかなるものからも独立しているものとして見ることができますが、一枚の葉については、その持続する存在が木に依存していますから、そのような見方はできません。ですから、考えなければならないのは、観察している実在がひとつの全体、総体、あるいは自己充足した系であるかどうかということです。然れども、私が観察するいかなる全体的なものもひとつの内在する要素として時間を取り込んでいますから、それぞれの物体やできごとに本来備わった時間に加えて、物事の外部に抽象的な時間が存在するという概念についてはあまり考えません。時間を始まりから終わりへと過ぎ去るものとして見るのは、個々の馬に基づいて、「馬」という抽象的な概念を発達させるのに少し似ています。個々の馬は空間という外的な現実のなかに存在していますが、概念というものは何かそれ以上のものを要求します。時間についても同じことが言えます。時間というものは本来変化するものなのかという質問は本質的に意味がありません。何故なら、それぞれの全体システムはそれ自身の内在する存在のなかにそれ自身の時間と速度を有しているからです。いかなる無機的あるいは生命的な過程の速度もこの内在する時間というものを遡って指し示しています。ひとつの軸座標系を別の系に関連づけることはいつも可能であると仮定する相対性理論ではなく、私たちが全体としての有機体に向かうのと同じ方法で対処することができるような全体システムはどこに見いだされるかを明らかにするために、むしろ絶対性理論を確立したいと私が思うのは以上の理由からです。私たちは、例えば、地球進化におけるシルリア期の全体性について語ることはできません。何故なら、ひとつの全体としての系を構成するためには、シルリア期は別の進化期と結びつけられなければならないからです。人間の頭部をひとつの全体として語ることも同様に不可能なのですが、それはそれが体の他の部分とともに人間に属しているものだからです。私たちは地質学的な年代を、それがまるで現実の状況であるかのように、他の年代から独立して記述します。しかし、そうではありません。ひとつの年代とは、ちょうど生きた有機体が、それからは何も差し引くことができないようなひとつの現実であるように、地球進化全体との関連においてのみひとつの現実なのです。経過を座標軸に関連づけるのではなく、それらの過程をそれら自身の本来の現実に関連づけることによって、その全体システム、あるいはその総体を見ることができるようになるということの方がずっと適切です。その時点で、私たちはある種の単子論 (Monad) に立ち返らなければならなくなるでしょう。私たちは、相対性理論を克服し、絶対性理論に到達することになるのかもしれません。そのとき、アインシュタインの理論は抽象化に向けた努力の最後の表現であるということが私たちに明らかとなるでしょう。アインシュタインは抽象的なもののなかで機能しますが、彼の抽象化は、彼の仮定が非常に基本的なことがらに適用されるとき、ときとして耐え難いものとなります。例えば、私自身が音速で移動するときには、音はどのような働きを及ぼすでしょうか。もし、私が音速で移動すれば、もちろん音は決して聞こえないでしょう。何故なら、音は私と共に移動することになるからです。現実の言葉で、つまり全体性において考える人にとっては、そのような概念を用いることは不可能です。何故なら、音を聞くことができるいかなる存在も、音速で(原注:空気中を)移動したならば、バラバラになってしまうであろうからです。そのような概念は現実の世界における観察に基づいたものではありません。時間とは本来変化するものなのかと問うときも同じです。もちろん、抽象的な時間においてであれ、絶対的な時間においてであれ、何らかの変化を確認することはできません。それは「先験的」に想像されなければならないのです。しかしながら、私たちが時間の変化について語るときには、時間の現実を把握しなければならないのですが、それは、一時的な経過が世界のなかに存在する全体系に本来どのように結びついているのかを考慮することなしには、不可能なことなのです。(了)



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最終更新日  2023年08月23日 06時10分08秒
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