Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2023年09月17日
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カテゴリ: 霊魂論
「霊的世界の入口/DIE SCHWELLE DER GEISTIGEN WELT」
4:繰り返される地上生とカルマについて
副題:●人間のアストラル体と霊的世界について●アーリマン存在について
 日常的な感覚で言うところの外的世界のように、魂的な意識にとって外的な世界である何かが魂の生活を支配しているということを認めるのは、魂にとって特別に困難なことである。魂はそれに対して―無意識的に―毛を逆立てて抵抗するが、それはそれ自身の存在がその事実によって危険に曝されると信じるからである。魂はその霊的な眼差しを本能的にその事実から逸らす。最近の科学はその事実をそのようなものとして理論的には容認しているとしても、まだそれを自分で内的に把握したり、自分に浸透させたりといったあらゆる帰結を伴いながら、その事実を十分に体験しているとはいえない。意識がこの事実を生き生きと感じることができるようになったとき、魂存在の中には、生と死の間の意識的な魂的生活の範囲内で発展することができるあらゆるものから独立した実体であるひとつの内的な核が認められるということが分かるようになる。意識は、その根底に、意識そのものがそれを産みだしたものとして感じるべきひとつの存在を認めるようになるのである。そして、その意識の担い手であり、あらゆる力や特性を有するその体もまた、その産物として感じ取られなければならない。魂は、そのような体験を追求する中で、魂の中にあって意識的な生活の影響を受けようとしない霊的実体が成熟していくのを感じるようになる。誕生と死の間を生きる間、この内的な実体がますます力強くなると同時に、ますます自立していくように感じるところにまで行きつくのである。誕生と死の間の生活において、この実体は、それ以外の体験に対して、ちょうど植物存在の中で発育する種子が植物全体に対するのと同じような関係にある、ということが分かるようになる。但し、植物の種が物理的な存在であるのに対して、魂の種は精神的なものである。そのような体験を追求していけば、人間の繰り返される地上生という考え方を認める方向へと導かれる。もし、人が誕生から死までの間、物理的な地上の体で覆われているときには許されることのなかったあの生命状態を、死後の精神的な世界において、純粋に精神的な仕方で経験していたならば、その魂は自分からある程度独立したその存在の核の中に、現在の人生の果実を新たな人生へと担っていくことになる種子を感知することができる。そのとき、この考え方から必然的に別の考え方が生じるが、それは、誕生と死の間における現在の感覚的な生が遥か昔に過ぎ去った別の地上生の結果であり、魂はその別の地上生の中でひとつの種子を育んでいたということ、そしてちょうど、植物の種子が、それがその中で生じた古い植物を離れ、長期間、別の存在条件の下に置かれた後、新しい植物になるように、その種子は、死後、純粋に精神的な世界の中で生き続け、新生を通して新しい地上生へと歩みを進めるまでに成熟するというものである。超感覚的な意識は、相応しい魂の準備を通して、ある人生の成果を次の地上生へと運んで行く、ある程度自立した核がこの人生の中で育っていくという過程の中に沈潜することを学ぶのである。魂の流れの中から、これまで人が自分の自我と見なしてきた存在から独立し、それよりも上位にあるもののように見える第二の自我が、絵画的、実体的に、あたかも自分の本性が露になろうとしているかのように浮かび上がってくる。それはこの自我に霊感を与えるものであるかのように見える。人は、この後者の自我として、それに霊感を与え、その上位にあるものと合流する。そのように、超感覚的な意識は、日常的な意識が、そうとは知らず、生きている状況を見通しているのである。人がそれと交じり合う精神的な外的世界に対してだけではなく、より高次の意味では自分自身ではあるけれども、感覚界においては必然的に自分自身であると感じるべきものの外側に立つひとつの精神的な実体に関しても、今、しっかりと自分を保つために、再び魂の強化が必要となる。このような第二の自分が魂の流れの中から絵画的、実体的に現われる様子は、様々な個々人にとって、全く異なるものである。私は、劇場用の魂の描写である「秘儀参入の門」、「魂の試煉」、「境域の守護霊」、「魂の目覚め」の中で、いかに様々な個々人がこの「別の自我」の体験に向けて努力するかを描写しようとした。今、日常的な意識の中の魂がその「別の自我」によるインスピレーションについて何も知らないとしても、それでもやはりこのインスピレーションは魂の奥底に存在している。ただ、このインスピレーションは、思考や内なる言葉の中にあるようなものではなく、行為を通して、プロセスを通して、できごとを通して作用する。この「別の自我」は、魂をその運命の詳細へと導くとともに、能力、傾向、天分等をその中に呼び起こす。この「別の自我」は人生の運命全体の中に生きているのである。それは誕生と死の間に制約された自我に同行し、喜び、高揚、苦悩をその中にもたらすあらゆるものをもってその人生を形成する。超感覚的な意識は、自らがこの「別の自我」とともにあるのを見出すことにより、物質的な人間が自分の存在を「私」と呼ぶように、人生の運命全体を「私」と呼ぶことを学ぶのである。東洋の言葉で「カルマ」と呼ばれるものは、ここに示されたような仕方で、「別の自我」、「精神的な自我存在」とともに成長する。人間の一生は人生から人生へと継続する自分自身の本質存在からインスピレーションを受けて生じるのである が、そのインスピレーションは、後の地上存在の運命が以前の地上生の結果として現われる、というような仕方で生じる。こうして、人は自分自身を「別の存在」としての自分、すなわち、感覚存在としての自分ではなく、この感覚的な在り方においては、単にその働きを通してのみ自らを表現するようなものとしての自分を知ることを学ぶのである。意識がこの世界に歩み入るということは、元素的な世界に対して、精神的な領域と呼ぶことができる領域にいるということである。人は、この領域の中で感知している限り、感覚世界におけるあらゆる経験や体験が生じている輪の外に立っている自分を見出す。いわば自分が後に残してきた世界を別の世界から振り返るのである。とはいえ、人は人間として両方の世界に属しているという認識に至る。人は感覚世界を霊的世界の一種の鏡像と感じる。とはいえ、それは単に霊的世界のプロセスや存在達がその中に映し出されている鏡像であるというだけではなく、その中には、それ自身で自立した生が営まれているのである。人が鏡の中を覗き込むとき、彼が自分を見ることで、その鏡像が自立した生を獲得するのに似ている。そして、人はこの霊的世界の鏡像の自立した生を引き起こす霊的な存在たちを知るようになる。これらの霊的な存在たちは、その源泉を霊的世界に有してはいるが、その世界の舞台を離れ、その活動の場を感覚世界の中で展開していると感じられる。したがって、人は相互に働きかける二つの世界に直面することになる。ここでは、霊的な世界を上方の、感覚の世界を下方の世界と呼ぶことにしよう。人は、ある意味でその視点を上方の世界に移したことによって、その特徴ある霊的な存在達のことを下方の世界において知るようになる。それらの霊的な存在の一種として、人が感覚の世界を物質的なものとして体験する理由を彼らの中に見出すというようなものがいる。すべての物質的なものは実際には霊的なものなのであるが、それらの存在達の霊的な働きによって、感覚界の霊的なものが物質的なものへと堅く硬化させられているということが分かる。ある特定の名前は在席の方々にも不評ではあるが、霊的な世界の中で活動しているのが見られるもののために、それは必要とされる。したがって、ここでは、感覚界の物質化を引き起こす存在をアーリマン的な存在達とでも名づけることにしよう。さて、これらのアーリマン的な存在達に関して言えば、彼らはその本来の領域を鉱物界に有していることを示している。これらの存在達が鉱物界に君臨するとき、彼らは、この領域において、彼らが本来何者なのかということを十分に明らかにする。植物界やそれより高次の自然界においては、彼らは何か別のことがらを遂行する。人が元素的な世界の領域を考慮するとき、この別のことがらがはじめて理解可能なものとなる。霊的な領域から見ると、この元素的な世界もまたこの霊的な領域の反映のように見える。とはいえ、元素的な世界での鏡像の自立性は、物理的な感覚世界のそれに比べると、それほど大きくはない。元素的な世界においては、霊的な存在たちのアーリマン的な性質は感覚世界におけるほど支配的ではないとはいえ、これらのアーリマン的な存在たちが元素的な世界から展開するのは、存在の消滅と死の中にその表現を見出す別の働きである。有体に言えば、アーリマン的な存在たちは、より高次の自然界のために、死をもたらすという任務を有しているのである。死が存在の秩序にとって不可欠なものに属す限り、アーリマン的な存在たちの任務はこの秩序において正当化される。とはいえ、アーリマン的な存在の働きを霊的な領域から観察すると、下方の世界では彼らの働きに何か別のものが関連しているということが分かる。彼らは、この世界の中にその活動の舞台を有していることで、彼らがその源泉を有する上方の世界で働いていたときには彼らにその力を付与していた秩序には縛られていないと感じる。彼らは上方の世界では決して持つことができなかった自立性を下方の世界の中で獲得しようとするのである。このことはとりわけ人間へのアーリマン的な働きかけにおいて顕著なものとなるが、それは感覚世界の中では人間が最高の自然領域を構成しているからである。彼らは自立するために、人間の魂的生活を、それが感覚存在に捉われている限りにおいて、より高次の世界から引き離し、彼ら自身の世界に完全に組み入れようとする。人間は、思考する魂として、その源泉をより高次の世界の中に有している。霊視的になり、思考する魂はこのより高次の世界にも歩み入る。感覚世界の中で展開し、この世界に縛りつけられている思考にはアーリマン的な存在の流入と呼ぶべきものが含まれている。これらの存在たちはいわば感覚世界内部の感覚的な思考に一種の永続的な存在性を付与しようとしているのである。彼らは、彼らの力が死をもたらすがゆえに、思考する魂に死を免れさせ、人間のその他の本質だけを無の中に流れ込ませようとする。しかし、人間の思考力は、彼らの意図にしたがって、感覚的な領域に留まり、アーリマン的なものの本性にますます似たものとなるべきあり方を受け入れることになる。今述べたことは、下方の世界においては、単にその働きを通してのみ表現される。人間は、彼の思考する魂の中で、霊的世界を認識する力、それ自体の中で生き、そして存在していることを自ら知っている力で自分を満たすよう努力することができる。しかしまた、彼の思考する魂をそのような力から引き離し、その思考を単に感覚世界を把握するためだけに利用することもできる。そのような誘惑はアーリマン的な力からやって来る。
注:魂的存在生命に齎す「死」の意義



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最終更新日  2023年09月17日 06時10分07秒
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