真相から見た宇宙の進化 第1講 土星紀における地球の内的側面-Ⅶ ベルリン 1911年10月31日 「哲学の歴史」(シュテュットガルト/1848年)の著者で、ドイツの哲学者・神学者フリードリヒ・カール・アルベルト・シュヴェーグラー(Friedrich Karl Albert Schwegler/1819-1857)を取り上げてみましょう。この著作本は、かつて学生たちが試験の前に勉強するのを好んだものですが、哲学から魂が取り除かれたことにより、もはや役に立たないものとなっています。しかし、後の版では改訂を受けているとはいえ、初版本の重要なところは完全には失われていません。つまり、それはヘーゲル哲学の観点から見た哲学の歴史書なのです。ですから、皆さんがシュヴェグラーの「哲学の歴史」を取り上げますと、皆さんはそれが書かれた当時の哲学像を知るためのよい例、ヘーゲル哲学の優れた参考文献をそこに見いだすことになります。けれども今、ドイツの神秘主義者であり、ドイツ自然哲学思想をドイツ語で主に著述した最初の思想家でもあるヤコブ・ベーメ(Jakob Böhme/1575年-1624年)に関する短い章を読んでみますと、知的な哲学書を書く人物が、神秘主義のような精神に直面するときには、いかに無力なものであるかを知ることができます。幸いなことに、彼はパラケルススを取り上げていませんが、もし取り上げていたとしたら、彼についての相当にひどい代物を書いていたことでしょう。とはいえ、シュヴェグラーがベーメについて何を書いているか読んでみましょう。彼はベーメの中にひとつの心を見い出しました。そして、その心の中では、古の「土星」の像ではなく、「土星」の繰り返しの像が素朴な仕方で夜明けを迎えていたのです。この「土星」像の繰り返しは「地球」期において繰り返されたものです。シュヴェグラーがベーメの中で出会ったのは、知性を通しては理解できないような何かを言葉と像で記述しようと試みることしかできない精神でした。「土星」の繰り返しを把握しようとする純粋に知的な方法のすべては失敗するしかありません。つまり、それは、まるでこれらのことがらを全く理解できないかのようであるというよりは、もし、通常の、無味乾燥の哲学的論理にしがみつくだけならば、それらを把握することができないということです。お分かりのように、重要な点は、通常の知性の十全さを越えて自らを上昇させるということです。通常の知的な能力をもってしても、まだシュヴェグラーの「哲学の歴史」のように優れた作品を作り出すことはできますが、だからこそ、それは並はずれた知性が、ヤーコブ・ベーメのような精神に直面したとき、いかに完全に立ち止まらざるを得ないかということを示すよい例となっているのです。私たちは今日、古「土星」に関する考察の中で、私たちの「地球」が太古に体現した惑星状態の内的な側面に貫き至ろうとしました。私たちは古「土星」存在を振り返り、トローネたちが自らをケルビームに捧げることよって時間存在を創造したときの印象を生じさせるようにしましたが、この後の講義では、私たちがそれによって達成した概念に負けず劣らず印象深い概念に到達するために、「太陽」と「月」存在について同じことをしていくことにしましょう。時間とは犠牲から生じたものであり、生きた「時間」から成立っているのですが、「太陽」存在の間に、いかにこれらのことすべてが変化していくのかを、そして、私たちが「土星」存在から「太陽」そして「月」存在へと進むとき、宇宙におけるその他の力強いプロセスがいかに生じるのかを見ていくことにしたいと思います。