Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年01月30日
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カテゴリ: 霊魂論
内的霊的衝動の写しとしての美術史
第2講  ルネサンスの三人の巨匠 レオナルド ミケランジェロ ラファエロ
ドルナハ  1916年11月1日-ミケランジェロ
さて今度はミケランジェロに移りましょう。まず、彼の自画像です。これは、まだ徒弟であった頃の、まだ独立していないミケランジェロです、ドナテルロの弟子ベルトルドその他の影響のもとに、フィレンツェで働いています。今度は、私が述べました影響のもとに、はじめてローマに移るミケランジェロのことを考えてみましょう。この画とすぐ後に続く絵画をごらんになって両方の絵の気分を比べてみてください。この絵画をごらんください。これはまったく、ローマへ来る(NachRom-Kommen])というこの気分のもとに生まれたのであり、多かれ少なかれ悲劇的なペシミズムが全体を覆っています。もう一度戻ってみますとこの両作品は、芸術上の特性において非常に似通っていて、ミケランジェロにおけるまったく同じ感情ニュアンスの一部であることがおわかりになるでしょう。もう一度ピエタに戻りましょう。これは今ローマの聖ピエトロ寺院にあって、入っていくと、すぐ右に見えます。この彫刻について、芸術的なものよりも小説的なものを感じる人たちによって、聖母は彼女が置かれている状況にあってまだこんなに若い、とさんざん言われたものです。この若々しい表現は、当時にあってはまったく自然であってミケランジェロの魂をも貫いていたひとつの信仰と関わりがあります、つまり聖母はその処女性のゆえにそもそも老いの特徴を備えなかったのだという信仰です。これは前にお話ししたものですね。この人物は、外的な何ものかではなく芸術的なもの全体のなかに秘められている巨大さを通して、とりわけ作用を及ぼします。ここでシスティナ礼拝堂に移ります。ここにはミケランジェロの「最後の審判とその天井画」があります。ます天井画の個々の部分です。世界創造、最初の段階です、夜からの光の創造、と言えるかもしれません。ここでは、世界創造に関して、イェホヴァが、彼により征服され引き下がったかつての創造者のいわば後継者として創造したということがなお伝統のなかに生きていたようすがわかります。新たな世界創造によって克服された古い世界創造と、新たな世界創造との共鳴がこの絵に現れています。ですからこのように言うこともできます、この絵に表現されているような表象は、まったく消え去っていき、もはやなくなってしまったと。これはつまり人類に先立つものの創造です。ここで男の創造、続いてエヴァの創造が見られます。ここで私たちは、ますますいっそう世界創造的なものから歴史的なものへ、人類の進化へ、堕罪のなかへと入っていきます。
さて、今度は「巫女/Sibylle」たちに移ります、これについては一度ある講義でお話ししたことがありますが、巫女たちは、その後また一連の預言者たちのなかに現れることになる預言者的な要素に対して、人間の生成における超感覚的な要素を示しているのです。つまり一方の要素、巫女の要素です。ライプチヒの連続講義で、この要素が預言者的な要素とどう関係しているのかについてもっと詳しく語られているのを見出されるでしょう。けれどもミケランジェロがこれらの事柄全般を、彼の連続した絵画ののなかに組み込んだこと、これは彼が地上生活を、超感覚的な要素に、スピリチュアルなものに結びつけたことを立証しています。さてごらんください、巫女たちがいかに順番に続いているか、ひとりひとりのなかにいかに真に個である生命が注ぎ込まれているか、ひとりひとりがいかにあらゆる個別的な部分にいたるまでまったく特定のヴジョン的な性格を表現しているかを。手のポーズを観察してごらんなさい。これは偶然ではありません。 これをあまさずごらんになれば、つまり元素的なものから来る眼差しでごらんになれば、予感できるものもあるでしょう。 あまりにも抽象的になってしまうので、言い表すことはできませんが、それはこのなかに芸術的にあるものです。今度は預言者たちです。これらは皆、旧約聖書の預言者たちですね。最後に、巫女たちと預言者たちの上部の弟子たちの姿からいくつか。さて今度は、ミケランジェロのさらなるフィレンツェでの滞在、つまりメディチ家、メディチ家礼拝堂に移りましょう、メディチ家出身の法王たちの委託により彼はここの仕事を手がけさせられ、私が描写しましたような状況での仕事になりました。おそらくもう印刷されているある講義で、私はこのメディチ家の墓についてお話ししました。これは通常、ジュリアーノの墓碑と呼ばれています。さてミケランジェロをふたたびローマに導かなくてはなりません、ローマで彼はまたも法王の委託により、システィナ礼拝堂の祭壇画、「最後の審判」を制作します。これは、人物たちの世界意味の特徴づけという点でまったく重要な絵です。つまり、いわば天に定められているものすべて、そして下界に定められているもの、地獄に定められているもの、そしてそのまん中の世界の審判としてのキリストに注目すれば、いかにミケランジェロがまったく壮大に思索された宇宙の情景を人間の個人感情と調和させようとしていたかがわかるのです。続けて「最後の審判」の細部をいくつか。ヘルマン・グリムはかつてキリストの頭部を間近でスケッチしましたが、これはベルヴェデーレのアポロの頭部とよく似ていることが判明しました。もうひとつ右下の隅の細部とさらにもうひとつ、小舟の上の一群です。さて今度は、時代はもっと前にされるべきものでしょうけれども、ミケランジェロが法王ユリウスの記念碑のために制作したものです。これをここで出しましたのは、この記念碑はもともと構想されていた栄光に満ちた形態に仕上がっておらず、ミケランジェロはその最後の時期にまだこれを手がけ、これの一部を完成させたからです。重要なのはまさに、まさしく真に偉大な性質であった法王ユリウス2世が自分の努力に対してこの記念碑を建てさせようとしたことです。ひょっとしたら三十体かそれ以上の一群の人物像を備えさせようというものでした。それは実現に至りませんでしたが、これに関連する最も重要な人物として残されたのが、この有名な「モーゼ像」です。これについては何度もお話したしました、さてこれに続くもの、これはミケランジェロによってその生涯の最晩年に仕上げられたものです。この「埋葬」をごらんになれば、本来完全な状態ではどうなのかを言うことは困難です。まったく確実なのは、この一群は、ミケランジェロがその全生涯を通じて担っていた理念に従っているということです。最初の作品のひとつとして完成されたこの場面を含む何かの理由で失われた群像があったのかどうか、あるいはもしかすると、彼が高い祭壇にさらに造り変えたのと同じブロックだったのかどうか、言うのは困難です。けれどもこれをミケランジェロの最後の作品としてここに示しますのは、これが単に高い祭壇に仕上げられたものであるからというばかりではなく、これが、彼がその全生涯にわたって担い、ふつう考えられているよりもずっと、ミケランジェロの基本感情全体と実際に関わっている芸術的理念に従っているからです。なるほど彼は生涯のどの段階においてもこの群像を制作することができたでしょう、それらはいつも少しちがった状態だったでしょうし、彼の魂の根底をなす気分も異なって再現されたことでしょう。けれども、ミケランジェロのなかに生きていた原キリスト教的な気分、これがまさにこの群像のなかに表現されているのです。埋葬の場面におけるこの独特のキリストと母の関係のなかに。と申しますのも、繰り返し繰り返し、ミケランジェロの魂のなかには、ゴルゴタの秘蹟の理念が現れてきて、彼はとりわけ強くこう感じたからです、ゴルゴタのの秘蹟とともに、地上を超えた愛の行為が起こったのだ、ひとつの大いなる理想として常に人間の目の前に浮かぼうとするけれども、かけ離れたもののなかで人間には到達できず、世界の出来事を見つめる者を悲劇的な気分にさせざるを得ないほどの強度で起こったのだと。さてよく考えてごらんなさい、魂のなかのこの理念とともに、ミケランジェロは、ローマのイエズス会的生成を見、魂のなかのこの理念とともに、彼は私がお話ししました感情をすべてを味わい尽くし、彼が世界に見たものを常にそれによって測ったのです。そして最後に彼はここで世界のなかにまさしく多くを見たのです。と申しますのも、よく考えてください、彼がまだフィレンツェで、最初の芸術上の作品を手がけていたとき、ローマにはボルジア家の法王アレクサンデル6世がいました。その後彼はローマに呼ばれ、ユリウス2世の委託により、「世界の創造」を手がけました。つまり私たちは、ローマにおいてボルジア経済が、法王ユリウス、続いてメディチ家のレオ10世によって解き放たれるのを見るのです。ここではっきりと理解しておかなければならないのは、法王ユリウス2世は、毒、殺人、偽装その他似たようなけっこうな特性と呼びうるすべてをもって活動したにも関わらず、キリスト教芸術をまったく高度に、真剣に、真剣に感じていたということ、つまり政治的なボルジア家支配を解き放ったユリウス法王は、もちろん徹底して戦士であったにも関わらず、精神生活を通じて法王制を偉大なものとするために、法王制を目指していたということです。けれどもそのもっとも内奥において彼は自分をやはり霊的ローマにのみ仕える戦士と考えていました。そしてユリウス2世の場合、ぜひとも注目しておかなければならないのは、彼が聖職者であったこと、ペテロ教会を再建するという彼の衝動のなかにあるものについて、真剣であったこと、芸術のために行ったすべてのことについて真剣であったこと、無私にして真剣であったことです。計画の遂行のために毒殺その他を用いたような人物についてこういうことを言うのは奇妙に聞こえることでしょう、けれどもこれも、ともに計画を実現したグループにおける彼の時代の慣例なのです。けれども彼の最高のものは、世界の偉大な芸術家たちを通じて彼が世界に導入しようとしたものです。そしてミケランジェロのような精神にとってみれば、世界においては決して完全に善なるものは実現され得ず、まさに一面性において実現されざるを得ない、と感じることは深く悲劇的なことでした。それから彼は、メディチ家から出た、こう言ってよろしければ商業的な法王たちへの移行に、なおも加わらざるを得ませんでした。これらの法王たちには、名誉欲のほうが重要だったので、ユリウス2世や、ボルジア主義からも根本的に区別されるのは事実ですが、いずれにせよましというわけではありません。とは言え、これらの現象全般を時代から判断しなければなりません。と申しますのも、今日、法王アレクサンデル6世やその息子チェーザレ・ボルジア、あるいはユリウス2世を、ぞっとするようなことのように感じるのは、もちろんたやすいことなのです、彼らについてはもう偏らず書くことが許されているからですが、一方その後のもののいくつかを、このような自由をもって記述することはまだできないでしょう。けれども当時起こった大きな出来事は、これらの法王全部であったもの、つまりサヴォナローラあるいはルターが法王の座についたとしたらきっとあり得なかったであろうものと、因果関係にある、ということを同時に知っておかなければなりません。

参照画:ミケランジェロ-自画像




参照群:ミケランジェロ画像・彫刻・建築




参照-年表:ミケランジェロ略年表 1475年3月6日 アレッツォ近郊のカプレーゼに生まれる。 1488年 フィレンツェのギルランダイオ工房で徒弟として一年を過ごした後、ロレンツォ・イル・マニフィコの庇護下で彫刻を学ぶ。《階段の聖母》はこの頃に作られた。 1494-95年 ヴェネツィアとボローニャに滞在。 1496-1501年 ローマにて《バッカス》と《ピエタ》を相次いで制作。 1501年 フィレンツェにて《ダヴィデ》を含む複数の大理石像を制作。 1504年 レオナルドとの競作壁画《カッシナの戦い》に着手。 1505年 教皇ユリウス2世のための墓碑が委嘱され、これ以降40年間に渡って断続的に制作。 1508-12年 システィーナ礼拝堂天井画の制作に従事。 1514年 教皇レオ10世がサン・ロレンツォ聖堂(フィレンツェ)のファサードを委嘱。 1519年 新たに委嘱された同聖堂新聖具室(メディチ家礼拝堂)を15年間に渡り断続的に制作。 1534年 ローマに永住。 1533-41年 システィーナ礼拝堂壁画《最後の審判》を制作。 1544-50年 ヴァティカン宮殿内パオリーナ礼拝堂壁画を制作。1546年以降は建築主任としてサン・ピエトロ大聖堂の改築事業に携わる。 1559年 《ロンダニーニのピエタ》に着手。 1564年2月18日 ローマで歿する。

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最終更新日  2024年01月30日 10時26分43秒
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