Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年06月15日
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カテゴリ: 霊魂論



ゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)
第16章 思索家、そして研究者としてのゲーテ 佐々木義之訳 1-6
3.自然科学の体系
 今、私たちの探求は、思考の使命を知覚の秩序づけに限定することによって、さしあたり私たちがあれほど強く擁護した概念とアイデアの自律性そのものに対して問題を投げかけているかのように見えるかも知れません。そうではないということは、考察をさらに進めることによって示されるでしょう。結局のところ、思考が知覚と知覚の間の関係を確立する目的とは何なのでしょうか。知覚a及び知覚bについて想像してみましょう。さしあたり、それらは概念を欠く実体として私たちに与えられます。私の感覚に提供される性質を概念的な思考を通してその他のものに変化させることはできません。もし、私が感覚的な経験によって与えられるものに知覚を通してアクセスできなかったとしたら、それを構築すべきいかなる概念的な性質もまた見い出すことはできません。例えば、私がどんなに「赤」という性質を概念的に記述したとしても、色盲の人にそれを伝える方法はありません。感覚知覚には決して概念の中に入って来ることのない側面、そもそも認識の対象となるためには経験されなければならない何かがあるのです。
参考画:普遍的色彩論



 では、私たちが感覚的な知覚に付加する概念の役割とは何でしょうか。明らかにそれは何か全く新しいもの、それ自身に立脚しながら、その感覚的な知覚に属するとはいえ、その知覚自体の中には決して現われることのない何らかのものに貢献するものでなければなりません。さて、この新しい「何か」とは概念が感覚的な知覚にもたらすものであって、正に私たちの説明への必要を満たすものであるということは確かです。私たちが感覚世界における何らかの要素について理解することができるのは、それについての概念を持つときだけです。感覚的な現実が私たちに提供するものが何であれ、私たちはいつでもそれを指し示すことができます。そして、それを知覚する能力を持つ人であれば誰であれ、それが何であるかを正確に知っていることでしょう。概念は、感覚の世界では知覚され得ない何かを私たちに語らせます。このことから明らかになるのは、もし、感覚的な性質において知覚の本質が十全に表現されるならば、概念は何も新しいことをつけ加えることはできないだろうということです。このように、感覚的な知覚とは、不完全なもの、ひとつの側面、見られるだけの側面から構成されるものです。概念を通してはじめて私たちは私たちが見ているものが何かを理解します。今では、私たちは前節で「方法論的に」発展させたものの「内容」の重要性について定式化することができます。感覚世界における何かが「何」であるかは、私たちがそれを概念的に理解するとき、はじめて明らかになります。私たちには、私たちが観察するものの内容を表現することができませんが、それはその内容全体が「いかに」現われるかにおいて、つまり、それが現われるその「形態」において与えられるからです。こうして、世界は概念を通してはじめてその十全たる内容を達成します。しかし、私たちが見出したのは、概念は個々の現象を越えて事物の関係性を指し示すということです。感覚的な現実の別々に孤立したものとしての現われは「ひとつの統合された全体」として概念に提示されます。こうして、私たちの科学的な方法論はそれ自体が「一元論的な自然科学」という究極の目的へと導かれるものとなります。しかし、この一元論は、ある統一性を仮定するとともに、単に「具体的な」存在という個別の事実を包含するというような抽象的なものではありません。むしろ、それは、感覚的な存在の見かけ上の多様性がアイデアという領域の中でいかにひとつの統一体として自らを現すかを段階的に示していくというような具体的な一元論なのです。そのような多様性は統合された世界の本質がその中で自らを表現するところのひとつの形態に過ぎません。感覚はこの統合された内容を理解できないため、多様性に固執します。つまり、感覚は生来の多元論者なのです。しかし、思考は多様性を克服し、統合された世界原則にまで遡る道を徐々に辿ります。自然界における差別化は、概念(*アイデアの三つの形態の一)が感覚世界の中に顕現する個別の「方法」によって説明されます。感覚知覚可能な実体が完全に概念の外にある存在性のみを獲得するとき―言い換えれば、もし、概念がその変容を決定づけるところのひとつの「法則」としてのみ支配しているとき―私たちはその実体を「無機的」と呼びます。そのような実体に何が生じたとしても、それは別の実体の影響にまで遡ることができます。そして、その二つがどのように相互作用するかは、外的な法則によって説明することができます。私たちはこの領域において現象と法則とを扱っているのですが、もし、それらが主要なものであるならば、それらは「元型的な現象」と呼ぶことができるでしょう。この場合、理解すべき概念は知覚された多様性の外に横たわっています。しかし、「感覚知覚可能な統一体」はそれ自身を越えたところをも指し示します。私たちがそれを理解しようとするとき、それは知覚可能なものを超越した決定的な要素を探すように私たちに強います。そのとき、私たちが概念として理解するところのものは感覚知覚可能な統一体として現われます。これら二つのもの、概念と知覚されたものは同じではありませんが、その概念はその「外に」ひとつの法則として存在するのではなく、感覚的な多様性の「内に」ひとつの原理として現われるのです。私たちは現象の根底に概念を見出しますが、それは現象に浸透しており、もはや感覚知覚可能なものではありません。これは私たちが「型」と呼ぶところのものです。私たちは今や「有機的な」科学の領域内にいます。しかし、ここでも概念は、「型」としてのみ現われ、まだ概念としてそれ自体の形態において現われるのではありません。型がちょうどそのようなものとして、つまり、固有の原理として―現われるのではなく、その概念的な形態において現われるところでは、それは「意識」として現われます。低いレベルでは存在としてのみそこにあったものが、今、最終的に自らを現すのです。つまり、概念そのものが今や知覚可能なものとなりました。これが認識する人間の領域です。「自然法則」、「型」、そして「概念」はアイデアの三つの形態です。自然法則は多様性の上位に立つ抽象性であり、無機的な科学を支配しています。ここでは、アイデアと感覚的な現実性とは完全に分離しています。型はそれらをひとつの存在へと結びつけます。精神は活動的な存在になりますが、それはまだそのようなものとして活動しているのでも、そのようなものとして存在しているのでもありません。それがその実際の存在において観察されるためには、感覚知覚可能な形態において知覚されなければなりません。これは私たちが有機的な自然において見出すところのものです。概念は知覚可能な形態において存在しています。人間の意識においては、概念そのものが知覚できるものとなります。観察とアイデアが一致するのです。つまり、私たちは実際にアイデアを知覚するようになるのですが、これはまた、より低いレベルの自然の内的な原理を私たちに見えるようにするものでもあります。人間の意識とは、より低いレベルにおいては単に存在しているものの顕現していないものを十分に顕現した現実として知覚できるようにさせるものです。    (3.自然科学の体系 了)
記:ルドルフ・シュタイナーは世界内の物事全てに「自然法則」、「型」、そして「概念」を求めます。すなわちカントが言う「普遍」に相当します。
参考画:ドイツ観念論系統




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最終更新日  2024年06月17日 19時14分32秒
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