Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年07月29日
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カテゴリ: 霊魂論



「精神科学と医学」(GA312) 第一講(本文・解説付)本文 1920年 3月21日/ドルナハ 1-4
 さて今度は、ロキタンスキーの「病理学的解剖学」出版後の20年間が、医学の本質の原子論的・唯物論的考察にとっての本来の基礎をなす期間となったことに注目してみたいと思います。古くからのものは、奇妙なことに、なおも19世紀前半に形成された表象の中に入りこんでいるのです。ですから、例えば、植物細胞の発見者と言えるシュヴァン(☆13)(*11)はなお、細胞形成の根底には、ある種の形式化されてない液体形成、彼が胚胞とみなした液体形成があるという見解を持っていますが、この液体形成から細胞核が硬化し、細胞原形質が周囲に分化するのを観察するのは興味深いことです。シュヴァンがなお、細分化していく方向に流れる特性を内在させている液体的要素に依拠していること、そしてこの細分化を通して細胞的なものが発生することを観察するのが興味深いのです。さらに興味を惹くのは、人間の生体組織は細胞から構成されているという言葉で総括し得る見解が、その後次第次第に形成されていくのを追求することです。細胞は一種の基本的有機体であり、人間の生体組織は細胞から構成されているという見解は、実際今日あたりまえになっているものでしょう。さて、シュヴァンがなおもその行間に、いやその行間以上にと申し上げたいのですが、この有していたこの見解は、つまるところ古代の医学の本質の最後の名残りなのです。なぜならこの見解は原子論的なものには向けられないからです。この見解は、原子論的に現れてくるものである細胞質をきちんと観察すれば決して原子論的には観察できないもの、つまり液体的な何かから生じてくるものとして観察します。この液体的なものが力を内在させていて、この力が自らのうちから原子論的なものを分化していくというのです。19世紀の40年代と50年代のこの20年間に、より普遍的であった古代の見解は終焉に向かい、原子論的な医学的見解が黎明を迎えます。1858年にウィルヒョウ(☆14)(*12)の『細胞病理学』が出版されたのがまさしくその時でした。実際この二つの著作、つまり1842年のロキタンスキーによる著「病理学的解剖学」と、1858年のウィルヒョウの著「細胞病理学」の間に、近代の医学的思考における大きな飛躍的転回を見い出さねばなりません。この細胞病理学により根本的に、人間に現れてくるものはすべて細胞作用の変化から推論されるようになります。公的な見解にしたがって、すべてを細胞の変化に基づいて構築することが理想とみなされます。ある器官組織の細胞の変化を研究し、この細胞の変化から病気を理解しようとすることにこそ理想が見出されるのです。こうした原子論的観察は実際容易なものです。つまるところそれは自明の理とでも言うべきものなのですから。すべてをこのように容易に理解できるように作りあげることができます。こうして、近代科学はあらゆる進歩をとげたとはいえ、この科学はあいもかわらずすべてを容易に理解することを目指し、自然の本質と宇宙の本質はきわめて複雑なものなのだということを考えてもみないのです。さてこれは簡単に実験で確かめられるでしょうが、例えばアメーバは水中でその形を変化させ、腕のような突起を伸ばしたり、また縮めたりします。それからアメーバが泳いでいる水を暖めたとします。すると、ある特定の温度になるまでは、突起を伸ばしたり縮めたりするのがだんだん活発になるのがわかります。その後、アメーバは収縮してしまい、もはや周囲の媒体で起こっている変化について行けなくなります。また、この液体のなかに流れを作り出すと、アメーバはその体を球状にし、流れをあまりに強くすると、最後には破裂してしまうのが観察されます。このように個々の細胞が環境の影響によってどのように変化するかを研究し、そこから、いかに細胞の本質の変化により次第に病気の本質が構築されるかという理論を形作ることができるわけです。20年間に起こった転換によって到来したもの、これらすべての本質とは何なのでしょうか。この時ひき起こされたものは、今日公認された医学のすべてを貫いているものの中に実際生き続けています。この時ひき起こされたものの中に生きているのは、やはり、まさしく唯物論的な時代に形成された、世界を原子論的に理解しようとする傾向に他なりません。さて、次のようなことに注意してくださるようお願いいたします。私は、今日医学に携わっている人は、必然的に、そもそも病気とはいったいいかなるプロセスなのかという疑問を提示せざるをえないということに皆さんの注意を向けることから出発いたしました。病気は、人間の生体組織のいわゆる正常な状態からいったいどのように区別されるのでしょうか。と申しますのも、このような逸脱に関するポジティブな観念をもってのみ活動もできるというものなのに、公認の科学において通常見い出され、与えられる表現は結局ネガティブなものでしかないからです。もっぱらこのような逸脱があると指摘されるだけなのです。それから、この逸脱をいかにして取り除けるかが試されます。けれども人間の本質に関する透徹した見解はそもそもそこにはないのです。人間の本性に関するこういう透徹した見解が欠けているということにおいて、根本的に、私たちの医学的見解全体が病んでいるのです。いったい病気のプロセスとは何なのでしょうか。やはり皆さんは、それは自然のプロセスであると言わざるをえないでしょう。外部で進行していてその結果を追求できる何らかの自然のプロセスと、病気のプロセスとの間に、すぐさま抽象的な区別を立てることはできないのですから。自然のプロセス、皆さんはこれを正常と称し、病気のプロセスを異常と称します。その際、人間の生体組織におけるこの病気のプロセスがなぜ異常なものなのかについては注意しておられません。少なくともこのプロセスがなぜ異常なのか説明できなくては、実際のところ実践に移ることはできないのです。説明できてはじめて、このプロセスをいかにして終結させることができるかを探究していけるのです。そうすることによってはじめて、このような病気のプロセスを取り除くことは、宇宙に存在するもののどの一隅から可能なのかという問題に行き着くことができるからです。つまるところ異常とみなすこと自体が妨げになるのです。いったいなぜ、人間における相当数のプロセスが異常とみなされねばならないのでしょうか。私が指を切ったとしても、それは人間にとって単に相対的に異常であるだけなのです。私が自分の指を切るのではなく、一片の木材を何らかの形に切るとしたら、これは正常なプロセスといえるからです。自分の指を切ると、これを異常なプロセスと呼ぶわけです。おわかりでしょうか、自分の指を切るのとは違うプロセスの方を追求するのに慣れているということによっては、実際何も語られはしないのです。単なる言葉遊びが世に広まっているにすぎません。なぜなら、私が自分の指を切る時に起こっていることは、ある側面からすれば、その経過においては他の何らかの自然のプロセスと全く同様に正常なものと言えるからです。さて、次のようなことに行き着くのが課題です。つまり、私たちが病気のプロセスと呼んではいるけれども、根本においては全く正常なプロセスであり、ただ、特定の原因によって引き起こされたにちがいないプロセスと、私たちが通常健康なプロセスとみなしている日常的なプロセス、人間の生体組織におけるこの二つのプロセスの間にどのような差異があるのかということです。この決定的な差異が見出されねばなりません。この差異は、真に人間の本質へと導く観察方法に立ち入ることができなければ、見出すことはできないでしょう。この導入部において私は皆さんにそのための少なくとも最初の基礎を示しておきたいと思います。その後あらためて個別的に詳しくお話していくつもりです。ご理解いただけるでしょうが、私はこのたびの回数のかぎられた講演において、主として皆さんが通常書物や講演では見出せないことをお話しております。けれども、その前提としておりますのはまさに通常見出せるものなのです。皆さんにも通常おなじみであるような理論を私が並べ立てることはさして価値があるとも思えません。ですからここで、人間の骨格と、いわゆる高等なサルであるゴリラの骨格を思い浮かべていただいて、見てとれることを単純に比較すれば明らかになることを参照していただきます。両者の骨格を純粋に外的に比較してみると、本質的なこととして、ゴリラの場合にはもっぱら下顎組織全体が特に大きく発達していることに気づかれるでしょう。この下顎組織はいわば頭骨全体の中で負荷としてあり、それでゴリラの頭部をその大きな下顎とともに見ると、この下顎組織は何らかの方法で負荷をかけられており、骨格全体が前に突き出ている、そしてゴリラは、言うなれば、とりわけ下顎で働いているこの負荷に逆らって、幾分苦労して直立していると感じられます(図あり)。手の部分を伴う前膊部の骨格に目を向けると、ゴリラと同じ負荷システムを人間の骨格にも見出すことができます。これらは重力的に作用しますが、ゴリラの場合はすべてがかさばっているのに対し、人間の場合はすべてが精密繊細に分化されています。人間の場合は量が目立たないのです。下顎組織と、指の組織をともなう前膊組織というまさにこの部分において、人間においては量的なものが目立たず、ゴリラの場合には量的なものが目立つのです。こういう関係に対して観察眼を鋭くした人は、足および下肢の骨格にも同様のものを追求できます。ここにも、ある特定の方向に圧力をかけるいわば負荷的なものがあるのです。これらの力、これらは下顎組織、腕の組織、脚および足の組織に見出せるのですが、其れをこういう線によって図式的に描いてみたいと思います(図示)。ゴリラの骨格と人間の骨格を純粋に観察することから差異として現れてくること、すなわち、人間においては下顎は後退していてもはや負荷がかかっておらず、腕および指の骨格は精密に形成されていることに着目していただければ、人間の場合は至る所で上昇しようとする力がこれらの力に対抗していると言わざるをえないでしょう。人間においては一種の力の平行四辺形から形成されるものを設定しなければならないのです。これはこの上に向かう力から生じるもので、この力をゴリラは外的にのみ習得していて、それはゴリラが直立し、直立しようとする努力のなかに見出せます。こうして次のような線で描かれた平行四辺形が得られます(図示)。さてきわめて奇妙なことは、今日私たちは通常、高等動物の骨あるいは筋肉を人間のそれと比較することに限定していて、その際、これらの形態の変化には重点を置かないということです。本質的で重要なことは、こういう形態の変化を見るということの中に求められねばなりません。ごらんのように、ゴリラにおいてその形態を形成している力、この力に逆らって作用するような力が存在せねばならないからです。実際こういう力が存在せねばならず、こういう力が働いていなければならないのです。私たちがこういう力を探すとすれば、古代の医学がヒポクラテス的な体系によって濾過された際に捨て去られたものを再び見出すことになるでしょう。さらに、こういう力は地上的自然の力の平行四辺形の中にあって、力の平行四辺形の中で地上的な力と合成され、その結果今や地上的な力を起源とせず、地上を越えた、地球外的な力を起源とする合力が成立することがわかるでしょう。こういう力を私たちは地上的なものの外に求めなければなりません。私たちは人間に直立姿勢をもたらした牽引力を求めなければなりませんが、この牽引力は単に、高等動物にも時おり見られるような直立姿勢をもたらすのみではなく、直立姿勢の中で作用している力が同時に形成力でもあるようなありかたで直立姿勢をもたらすものなのです。サルは直立歩行しますが、量的にそれに逆らって働く力を有しているかどうか、あるいは人間はその骨組織の形成が地上的でない起源を持つ力の方向に作用しているかどうか、これが相違点なのです。人間の骨格の形を正しく見れば、個々の骨を記述して動物の骨と比較することに限定されることはありません。人間の骨格構造におけるダイナミズムを追求すれば、地球の他の領域にこれを見出すことはできない、私たちがここで出会う力は、他の力と合わせて力の平行四辺形を作らねばならないそういう力なのだ、と言うことができるのです。私たちが単に人間の外部にある力に注目しているだけでは発見できない合力が成立しているのです。ですから動物から人間へのこの飛躍を一度きちんと追求してみることが重要となるでしょう。そうすれば単に人間のみならず動物の場合にも、病気の本質の起源を見出すことができるでしょう。私は皆さんにこういう要素を少しずつしか指摘できませんが、さらに進むうちに、これらから非常に多くのことを発見できるでしょう。さて今ご説明したことと関連して今度は次のようなことをお話したいと思います。骨組織から筋肉組織に移ると、私たちは筋肉の本質におけるこの重要な差異を見出すわけですが、つまり、通常の化学的作用に留意するなら、静止している筋肉はアルカリ性の反応を示す、ということです。ただし、静止している筋肉の場合、アルカリ反応はその他の場合ほど絶対的に明確には現れないので、アルカリ性に似たと言えるだけなのですが。活動している筋肉の場合もやはりあまり明確でない酸性反応が働いています。さて考えてみてください、当然のことながら、筋肉はまずもって新陳代謝に応じて、人間が摂取したものから構成されています。つまり筋肉はいわば、地上的な物質の中に存在している諸力の成果なのです。けれども人間が活動し始めるとともに、筋肉が単に通常の新陳代謝の支配下にあることによって自らのうちに有しているものが、次第に明確に克服されます。筋肉に変化が現れるのです。この変化はつまるところ、通常の新陳代謝に応じた変化に対して、人間の骨の形成に作用している力と比較する以外にないものです。人間の場合こういう力が外から取り入れたものを越えていくように、またこういう力が地上的に貫かれて、それらと合一して合力を形成するように、筋肉のなかで新陳代謝における作用として現れるものとならんで、地上的な化学の中に化学的に作用するものにも目を向けなければならないのです。ここでは、もはや私たちが地上的なものの中には見出せない何かが、地上的な力学、動力学の中へと作用を及ぼしていると言えるかもしれません。新陳代謝の場合、地上的な化学の中に、地上的でない化学であるもの、地上的な化学の影響下においてのみ出現可能な作用とは別の作用をもたらすものが作用を及ぼしているのです。
記:ゴリラと人間は共通の祖先から進化した霊長類であり、DNAの97?98%が同じです。ゴリラは力強い体格を持ち、主に植食性で、群れで生活する社会的な動物です。一方、人間は直立二足歩行をし、言語や文化の発展により高度な社会を形成しています。両者は近縁ですが、行動や生態には大きな違いがあります。
参考画:ゴリラと人間の比較



   「精神科学と医学」(GA312) 第一講本文 1-4了

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最終更新日  2024年07月29日 06時10分07秒
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