Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年10月28日
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カテゴリ: 霊魂論
ルドルフ・シュタイナー
「精神科学と医学」第10講 1920年 3月30日   ドルナハ
第10講-2
 自然を正しい観点で探究する直観(イントゥイション/intuition)の観点から、もうひとつ別のことに注意を向けていただきます。例えばラヴェンダー(Lavandula*5)のような植物が持っている、かなり包括的な作用を研究してごらんなさい。そうすると、一方において、ラヴェンダーのなかにあるものは、魂のネガティヴな衰弱(negative Seelenschwaeche)とでも申しますか、失神、神経衰弱、麻痺といったものすべてに対して、強い治癒力を有していること、つまり、ラヴェンダーは人間の生体組織の末端部に作用して、それがアストラル体を追い出すように、アストラル体が物質体に及ぼす力を失うように働きかけるということがわかるでしょう。さてこのような植物、つまり、こう呼んでよければ、ネガティヴな神経衰弱に対抗する作用が見られるこのような物質全般においては、常に、また別のこれとは逆のネガティヴな神経状態についても問うことができるのです、例えば月経不順があるかどうか、といったことです。すると、このような物質は一方にも、また他方にも作用することがわかるでしょう。このように両方にとりわけ強く作用する植物は、例えばこれもまたメリッサ(*6)であり、これは眩暈、失神の場合にも強く作用しますし、またかなりな程度月経を促進するように作用することもできるのです。以上の例に言及いたしましたのは、外的な植物プロセスを、人間自身のなかで起こっているプロセスとの類似という点においていかに追求できるか、皆さんにお見せするためでした。ただ、はっきり理解しておかなくてはならないのは、植物が実際に親和性を持っているのは、人間存在の一部分に対してだけであるということです。例えば現在存在しているものをファナティック(狂信的/fanatic)に植物療法だけに切替えたいと思っているようなひとたちは、このことをよく考えて下さるようお願いしたいのです。人間というものは実際、自然界全部を自らのうちに含んでいて、自分自身がまだそれである人間界以外に、形成される経過において、つまり発達の諸段階において、他のすべての自然界と親和性を有していたのであり、しかもある種のしかたで、他のすべての自然界を自らのうちから外に出したのです。そして場合によっては、自分が外に出したものを、この自然界から再び自分のなかに取り戻すこともあるのです。そう、それはこのように自分のなかに取り戻すこと(In-sich-Zuruecknehmen)なのです。それがこのように自分のなかに取り戻すことである、ということは大変重要なことです。比較的最後になってから外に出されたものは、逆に治療プロセスにおいては、最も早く私たちのなかに取り戻さなくてはなりません。動物界を考慮に入れないなら、この問題にももっと光を当てていくつもりなのですが、さしあたっては除外しておきますが、私たちは、植物界より後に、本来の鉱物界を私たちのなかから外に出したわけです。そして明確に理解しておかなくてはならないことは、単に人間と植物界の関係のみを探究することはそれゆえ一面的だということです。とはいえやはり、植物界は依然として有益なものです。なぜなら、結局のところ、植物といえども、何かを癒すときには、単に植物であることによって癒すのではなく、内部において鉱物界にも属していることによって癒しているからです。ですから植物は依然として有益なのです。さらにはっきり理解しておくべきことは、植物はまた、鉱物界に存在しているものの一部を新たに加工しているので、この植物によってすでに加工されたものは、まだ加工されていないものと同程度の薬ではないということです。つまり、すでに植物によって克服され、植物プロセスのなかに取り入れられている珪酸は、鉱物において私たちに現われてくる珪酸ほど強力な薬ではないということです。この鉱物中の珪酸の場合、それを同化吸収し、一体化するためには、単に植物界のなかの珪酸を扱うときよりもずっと生体組織に負担がかかるのですこれは常に強調さねばならないことですが、人間はより強い力に対すると、より強い力を発達させなければならないものなのだということです。人間は、自らの内部で鉱物的なものを同化吸収し、克服せねばならないとき、単に植物的なものを同化するときよりも、もっとポジティヴに強い力に相対しているのです。よろしいでしょうか、違いというのはまさにここにあります。どうか皆さん、私は強調しておきたいのですが、私はいわば括弧付きでこのことをお話ししているのであって、この場で何らかの食物のとりかたについてプロパガンダ(propaganda)とするつもりなどありませんし、何かを支持するつもりも毛頭ありません。ただありのままの事実をお話ししたいだけなのです。菜食と動物食との違いはまさにこの点にあるのです。単に植物性の食物だけを取るとき、私たち自身は人間ですから、全プロセスを引き受けなければなりませんが、動物は植物的なものを少しばかり先へと継続することによって、私たちからこのプロセスを取り除いてくれるのです。私たちはいわばこのように言うことができます、つまり、植物がすでにある地点まで成し遂げたプロセスは、動物によって継続されるのです。したがって、考慮される動物形成プロセスはここで止まり(図参照)、植物におけるそれはここで止まります(赤、白)。さて肉を食べる人は、このプロセスをここでは成し遂げないのです。このプロセスを成し遂げるのは動物です。このプロセスを動物に取り除いてもらうわけです。つまり肉を食べる人は、植物的なもののみを摂取する場合には発生させられなければならない力を、自らの内部に、まったく発生させなくてすむのです。植物だけを食べる場合は、その人が自らこの部分を継続しなければならないからです。すなわち、生体組織は、菜食者の場合、肉食者の場合とはまったく異なる力を、自らの内奥(ないおう)から引き出してこなければならないのです。植物的なものを克服するために動物的なものにまで用いられるこういう力があるのです。こういう力はいわば逆転によって再び生体組織に戻ってきて、そのなかで活動します。その力が活動するとき、根本的に人間をひどく疲労させたり、妨げるように作用するということになります。ともかくも、強調しておかなければならないこと、はっきりと強調しておかなければならないことは、菜食療法による疲労に関しては、それでもやはり本質的には負担が軽くなるいうこと、人間は、力を内部から取り出すことに慣れているので、それによって活動可能になるということです。この力を人間は肉を食べるときには取り出さず、まさに生体組織の妨害する力として用いてしまうのです。しかし先に申しましたように私はアジテーション(たきつけ/agitation)をしているわけではありません。似たものが似たものを治すを指針とするホメオパシーの医師たちでさえ繰り返し私にこう言い返したものです、それでもやはり、肉食をやめさせると。人々に結核である癆(Schwindsuche)を植え付けてしまう云々と。なる程、どれも起こり得ることではありますが、私がここで純然たる事実として申し上げたことは、まったく揺らぎません。申すまでもなく現にあることです。しかし当然のことながら、私としても、現代においては単に植物性の食品のみでは耐えられず、どうしても肉類を食さなければならない生体も存在していることを否定するつもりはまったくありません。これは個別的なケースの問題です。記:図の文字(上から):rot(赤)、gruen(緑)、weiss(白)
 さて、治療プロセスにおいて鉱物界とその諸力との関係も作り出される必要があると強調するのを認めるならば、このときこそ、私たちはこの治療プロセスのために何か別のものに導かれるのです。この問題は実際取り組まれてはいたのですが、やはりその解決はこのようにしてのみ見出されると私は思います。それはつまり、これを精神科学的に観察すればある種の関係を見出すことができるということです。*白、緑、赤の三色を用いたのは西洋国家の旗に見られるようにそれぞれが意味を持ちます。
参考図:Tricolore-italiano



   第10講-2 了

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最終更新日  2024年10月28日 06時10分09秒
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