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今日の午前中は、桑折町内で開催されている伊達地区小中音楽祭」を観に行ってました。みんな一所懸命練習したのでしょう。非常に上手でした。聴いているこちらまで、なんだか嬉しくなっちゃいますね。特に印象に残ったのは、伊達市梁川町の白根小学校。26人しかいない全校児童が参加して、「崖の上のポニョ」の合奏と「気球に乗ってどこまでも」の合唱をこなしてました。特に「気球に乗ってどこまでも」は、元気いっぱいの合唱で良かったですね。実はこの曲、個人的には苦い思い出があります。中学校のクラス対抗合唱コンクールでこの曲を歌ったことがあるんですが、練習中に、男声パートと女声パートの息が合わず、クラス全体で大ゲンカ状態になったんです。もちろん、本番でも上手くいかず、入賞など程遠い話だった次第。白根小学校のように息の合う合わないを気にせず声を張り上げて歌えば、私のクラスももっといい成績が取れていただろうか… 四半世紀も前の話を思い出しながら、白根小学校の子供達に拍手を送るのでありました。まだまだ暑い!ポイント10倍〔8/30(月)9:59まで〕10P27aug10【送料無料】絶対行きたい!世界の音楽祭
2010.08.27
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いつものように適当にネットサーフィンしていたら、「訃報:神戸守一さん86歳=およげ!たいやきくんのモデル」なんて記事を見つけました。正確に言うと、曲のPV登場するたい焼き屋のおじさんのモデルですか… 写真を拝見すると、確かに面影がありますね。モデルになったということは、神戸さんご本人も「街の名物おじさん」だったのでしょう。ご冥福をお祈りいたします。この記事に触発されてしまい、これまた例によって(笑)YouTubeで「およげ!たいやきくん」の動画なんて観てしまいました。どうしてこの曲が何百万枚も売れるほどヒットしたのかわからないけど、幼児期に繰り返し聴いていた曲だからか、歌詞は鮮明に覚えているんですね。この後、「いっぽんでもニンジン」「ホネホネロック」「パタパタママ」と1970年代半ばから後半にかけて「ひらけ!ポンキッキ」で流れていた曲を連続で聴いたのですが、いずれも歌詞、メロディー共に覚えていて、幼児期の記憶力に舌を巻いてしまう次第。「懐かしい」という感覚とはちょっと違うかもしれません。「刷り込まれてる」という感じかな。意思とは関係なくメロディーやフレーズが湧き出てくるのは、ちょっと怖いかも…【中古】CD およげ!たいやきくん(DVD付)/子門真人
2010.05.09
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作家の井上ひさしが亡くなりましたね。ご冥福をお祈りする次第ですが、ふと思い出したのが、学生時代、懇意にしていた先輩から勧められて読んだ代表作「吉里吉里人」のことでした。80年代初頭のミニ独立国ブームの火付け役ともなった小説ですが、いざ読んでみると、文章量の長さはもちろんのこと、とてもじゃないけど「下」関係を中心に映像化が不可能な表現も多く、あまり感情移入ができないままに読み終えてしまった感があります。もうひとつ、この作品について「何だかな~」と思ったのが、舞台設定の曖昧さでしょうか。実はこの作品は時系列にするとわずか1日半でしかないのですが、冒頭に「新幹線開通に伴う改装工事中の仙台駅」についての文章が登場するのに、クライマックス近くに「江川事件」なんて表現が出てきます。前者は1977年に改装工事をひとまず終えているし、後者は1978年の出来事なので、時系列的にはちょっと変です。舞台となった吉里吉里国についても、岩手・宮城の県境という位置関係については一貫している(なお、実在する岩手県大槌町の吉里吉里は、吉里吉里国とは関係がありません)んですが、所属が岩手県だったり宮城県だったり曖昧な部分があるし、自治体の格も「吉里吉里村」「吉里吉里町」双方の記述があるんです。そんな訳であまり評価していなかった小説なのですが、ひょっとしたら、今読んでみたら当時は見つけられなかった新しい発見があるのかな? 故人を偲ぶ意味でも、今一度目を通してみるのも一興かな…と思います。吉里吉里人
2010.04.12
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昨日の話になるんですが、新幹線に乗るために福島駅まで送ってもらった途中、カーラジオから「梶原しげるのNEXT ONE」なんて番組が流れてました。司会者の年齢を反映してか(?)、この番組、懐メロばっかり流すんだ。FMなのに。ちなみに、私が聞いていた時間帯に流れていたのが、太田裕美「木綿のハンカチーフ」と工藤静香「黄砂に吹かれて」でした。特に「黄砂に吹かれて」は、確か天気予報で「今日は黄砂が観測されるでしょう」とのコメントが流れてから、この曲へと続いていったように思います。このノリで番組を進めていくとなると、サザンの「TSUNAMI」、アリスの「冬の稲妻」、シャネルズの「ハリケーン」あたり、流れる頻度が高いかもしれませんね(笑)それはともかくとして、久々に聞いた「黄砂に吹かれて」。今思うとなんでこの曲がヒットしたのか見当がつかない部分があります。曲自体は良いんですが、この曲が流行った当時の工藤静香って、どうして人気があったのかわからないんですよね。言っちゃぁ悪いけどそんなに美人でもないし、歌だって目を見張るほど上手い訳ではないし…自分が若い時、幼い時に聴いていた曲って、大抵の場合懐かしさを伴うものですが、この種の疑問も、時折伴うことがありますよね。モバイルサイトでご購入されるとPCサイトよりポイントが10倍アップ!【中古】シングルCD 工藤 静香 /黄砂に吹かれて/秋子
2010.03.22
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今日のバンクーバー五輪のフィギュアスケート女子、浅田真央は残念でしたね。率直に言って、キム・ヨナが良すぎました。そんな感じで今日はフィギュア一色の日だったんですが、そんな中思い出していたのが、今から22年前、バンクーバーと同じカナダはカルガリーで開催された冬季五輪のフィギュアスケート女子で金メダルを獲得した東ドイツ(当時)のカタリーナ・ビットのこと。例によってYouTubeで、彼女の演技を観ておりました。金メダルを取った時の演技を改めて観ると、技術的には今の選手の方がレベルが上だと素人目にもわかります。そう言えば、今日のキム・ヨナも、「世界最高得点記録!」とか実況してましたしね。でも、ビットって、妙に印象に残ってるんですよね。特に度肝を抜いたのが、エキシビションでの演技! BGMがマイケル・ジャクソンの「BAD」ですよ! それも当時東側の選手が!!国家間の政治的対立は撲滅すべき事柄だと思いますが、それがなければビットの演技も印象には残らなかったかもしれません。ちょっと複雑ですね…フィギュアスケートの魔力
2010.02.26
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今日のMステで、昨年活動を復活させたバービーボーイズが出演してたんですね。「女ぎつね on the Run」を歌ってましたが、80年代の全盛期から色あせてないステージにちょっと感動でした。考えてみると、バービーボーイズって、ロックバンドでありながら大人の歌手というイメージはありましたね。KONTAのソプラノサックスとか、杏子のハスキーヴォイスとか。「ラサーラ」や「チャンス到来」など、スローテンポの曲も多いイメージもありましたしね。バービーボーイズの全盛期は私が高校生だった頃のこと。だから、曲を聴くと、カセットテープ(古っ)を聴きながら受験勉強してたことを思い出します。受験勉強は御免だけど、戻れるものなら高校生には戻ってみたいとふと夢想したりして(笑)●バービーボーイズ“Freebee”CD(2009/5/27)
2010.01.29
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昨日の日記で上の子の宿題を心配していることを書いたのですが、どうやら始業式には間に合いそうです。それどころか、余裕の表情の上の子。担任の先生から聞いたという「ウサギはなんで『一羽、二羽』って数えるか?」というウンチク話を語ったりしています。上の子はどういう訳かそのテのネタのストックが多く、本当に小学2年生なのかと驚かされることがあります。そんな姿を見て思い出したのが、今から30年前、私が横浜の日吉に住んでいた小学3年生の頃のこと。授業中に「箱根の芦ノ湖の名前がどうして芦ノ湖になったのか?」なんて話を披露していた子がいたんです。その子が語ってくれたのは、こんな話だったかな?その昔、芦ノ湖のほとりを歩いていた旅人がおりました。あまりにも美しい湖だったので、近くを孫を連れて歩いていた地元のおじいさんにこう訊きました。「この湖は、『なに湖』っていうんだい?」ところが訊かれたおじいさんはちょっと耳が不自由。「湖」を「子」と聞き間違えてしまいます。それで、隣にいた孫を指さして、こう答えます。「この子のこと? これ『あっしの子』」ところが旅人は、湖の名前を「あっしの湖」と勘違い。その後「あっしの湖」が訛って「芦ノ湖」になり、今に至っています。ちょっとした小話風というか、面白い地名譚ですよね。由来そのものの信憑性はともかくとして、小学3年生でよくそんな話を知っていたなと今更ながら驚かされます。ジグソーパズル 富士臨む芦ノ湖 (73-163) ビバリー(発売中)【楽ギフ_包装】
2010.01.05
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こちらの日記で書いたGReeeeNのベストアルバム、今日の仕事帰りに買ってきました。購入先は、エスパル仙台の3階にある新星堂。足を運んだのは10年ぶりぐらいでしょうか。レジで「ポイントカードは作られますか?」と訊かれたのですが、躊躇した挙句「いいです。」と返答しました。だって、今度いつ買いに行くのかわかりませんからね。でも、独身時代は、新星堂のポイントカードを持ってました。当時、近県各地の新星堂に足を運んではCDを買ってスタンプを捺してもらうというマニアックな趣味を持っていて、地元の福島、仙台はもちろんのこと、山形、水戸、宇都宮、新潟辺りには足を運んでいたと記憶しています。どこでどんなCDを買ったか殆ど忘れてしまったのですが、確か水戸で買ったのが、今井美樹の「Lluvia」(ジュビア)だったかな? 常磐線で出掛けて水郡線で帰りました(笑)Lluvia / 今井美樹
2009.11.25
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37年も生きていると長年音信不通となっている友人知人が結構いるんですが、ごくまれに、新聞やテレビなどの報道で、近年の消息を知るケースがあったりします。これが良いニュースだといいんですけどね。近年の例で言うと、大学時代の恩師(年賀状すら出さず不義理してます。申し訳ない・苦笑)が今年から学類長に就任した、なんてのがありました。ところがごくまれにバッドニュースを耳にし、憂鬱な気分になったことが何度かあります。高校生の頃だったかなぁ… 小学校時代のクラスメートが交通事故死したことがあって、これは結構ショックでした。ちょうど「ノルウェイの森」にハマっていた頃で、「人の死」について考えさせられました。大学絡みで言えば、ずっと以前(いつだか忘れたよ)に書きましたが、一度顔を合わせたことがある後輩がストーカーの挙句傷害事件を起こしたということもありました。物静かだった彼の印象と事件とが結びつかず、しばし混乱した記憶があります。そして今日、またバッドニュースが… 詳細は書きたくもないので省きますが、「なぜ?」「どうして?」頭の中はクエスチョンの山、山、山… です。しばらく整理がつかないかも。そう言えば、 ↓ の人の現在の消息はどうなってるんだろ? 【中古】邦楽CD 華原朋美/daily news
2009.09.10
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今日の夕方、ふと口をついて出てきた鼻歌が、久保田早紀「異邦人」。「♪ちょっと~ ふりむいて~」アラフォー男が風呂上りに歌っている姿を想像してください。ちょっと笑えるかもですね。今年リリースから30年を迎えたこの曲、個人的にはちょっとした思い出があるんですよね。久保田早紀は、東京都国立市の出身。だからという訳かどうかはわかりませんが、「ザ・ベストテン」で、国立駅前から中継で歌うなんてことがありました。当時小学2年生だった私は隣の国分寺市のしかも国立市に近い西部に住んでいたし友人宅に遊ぶついでとばかりに国立駅近辺へもしばしば訪れていたということもあるので、映像を観てすごく驚いた記憶が残っています。それまでTV中継ってバーチャルなものだとばかり思っていましね。しかし今となっては、久保田早紀も芸能界から身を引き本名の久米小百合で教会音楽に転身してしまったし、三角屋根である意味異国情緒が漂っていた国立駅の駅舎も取り壊されてしまったし… 歳月の流れって本当に残酷だよな~ と感じますね。税込\2000以上のご購入で全国送料無料!!※代引き手数料を除くDREAM PRICE 1000 久保田早紀 異邦人■久保田早紀
2009.07.04
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物思いにふけっていたら、ふと、頭の中で、ミスチルの「雨のち晴れ」が流れてきました。多分、そういう曲を聴きたい心境でもあったのでしょう。ちょっとだけ、勇気が出ました。確かこの曲は、1995年に発売された「【es】~Theme of es~」のカップリングだったっけ。いかにもバラードという感じの「【es】~Theme of es~」よりも聴きやすかったように記憶しています。1995年と言えば、妻と私とが知り合った年。あれからもう14年かぁ… 結構経つものですね(笑) 自分がそれなりに年をとってしまったせいか、14年前の出来事の方が3年前の出来事よりも鮮明に覚えている… なんてことが増えてきたような気がします。その証拠に、3年前のヒット曲なんて全然思い出せないし。いや、子供は別ですよ。子供のことだったら、直近のことでも鮮明に記憶に残っているんです。でも、父親や会社員ではない「私」の記憶は、直近に関してはかなりあいまいなまま。散歩を始めたのも、その埋め合わせなのかもしれませんね。歩いている間だけは、肩書のない自分に戻れるわけですから。う~ん、いかんいかん。思考がすっかりネガティヴになってるなぁ。気分の方もスッキリと「雨のち晴れ」でいきたいものですが。es~Theme of es/雨のち晴れ
2009.06.11
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ひょんなきっかけで、知り合いに元ライダーの方がいることを知りました。私はモータースポーツ音痴なので、かっこいいなぁ、すごいなぁって、素直に思います。ちなみに、ライダー経験者と直に接したのは、生涯2度目(大げさな表現だこと…)のこと。初めての機会は、もう17年も前、大学時代にアルバイトしていた警備会社でのことでした。そこの社員に、警備員とライダーの二足のわらじを履いていた方がいらっしゃったんです。確かHさんというお名前で、熊本出身だったと記憶しています。何故福島にいらしたのかはわかりませんが… 会社には私も含めてチャランポランな学生バイトが多くしょっちゅう仕事に穴が開いていたため、「もしも~し、明日のスケジュール開いてる?」などとHさんから電話がよくかかってきたなぁ(笑)そんなことを思い出していたらHさんが今どうしているのかちょっと気になって、早速googleで検索してみました。プライバシーがネット上にウヨウヨしている嫌らしい世の中ではありますが、実際Hさんと思しき方を見つけることができたので、便利と言えば便利です。どうやらHさんは熊本に帰郷し、現在はバイクショップを経営している模様。お店のサイトやメールアドレスもあったしメールしようかなと思ったのですが、結局しませんでした。私の記憶も曖昧としたものだから人違いの可能性もあるし、仮に同一人物だったとしても私のことなんて覚えちゃいないでしょう。でも、しばし昔のことを懐かしく思い出すことができました。それだけで満足です。メール便発送OK!仮面ライダーキッズ 仮面ライダーイクサ活躍!編 仮面ライダーキバ (ダークネスムーンブレイクver.)
2009.05.15
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先週土曜日に起こった岩手・宮城内陸地震以来、被災地の「ある地名」が頻繁にマスコミに登場するようになりました。実はこの名前、こちらの日記で紹介した大学時代の恩師と同じ名前。ニュースでその地名が出る度に、先生のことも気になったりします。闘病生活を続けながらも教壇には立っているとの話なんですが、大丈夫かな?って。そう言えば、この地震以来、どうも先生との関連を思い起こさせる出来事が続いています。一昨日は小学校の球技大会で会話したある人が大学の同級生(ただし、学部は違う)だということがわかったし、昨日は私の携帯に、同じゼミで先生の指導を受けていたA君(彼はこちらの日記のも登場しています)から突然の電話が来て昔話に花を咲かせ、そして今日は、宮崎勤の死刑執行。どうして宮崎勤で先生が連想されるのかというと、実は宮崎が犯罪に使用したクルマと先生の愛車が同じ車種。初めて買ったクルマがいわくつきの車種ということで、先生ちょっと落ち込んでましたっけね。これはいったい、何の暗示なんだろう? 良い内容であることを、願わずにはいられません。予知夢
2008.06.17
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昨日の日記で紹介した「取材ノート」を読んでいたら、遠出したくなっちゃいました。でも今は、いつか暇ができたら… と思うだけ(涙)ところで、私が宮脇俊三の存在を知ったのは、1991年の夏のこと。当時から友人と鈍行旅行を楽しんではいた(そう言えば、小平さんと一緒に東京まで鈍行旅行もしたっけ)のですが、書店で偶然手に取った「最長片道切符の旅」を読んで、正直かなりの衝撃を覚えた記憶があります。宮脇の著作の顕著な特徴は、よく言われるのが紀行文の枠を超えた文学性といったところですが、個人的には「いつ、どこに出かけた」のかが克明に記されている点が、気に入っています。年月日まで丁寧に記すのは鉄道にはダイヤ改正がつきものであり執筆時点では存在した列車や路線が読者の手に渡った際には廃止されていたなんてケースが往々にしてありがちだからなのなのですが、乗り鉄の端くれとしては「どこかで宮脇先生と同じ列車に乗っていないかな?」と目を皿のようにして探す楽しみもあったりする訳で。でもさすがに、同じ列車に乗っていたというケースは、ないようですね。最も接近していた事例としては、1990年4月、私が福島市内で大学の入学式やらガイダンスやらに臨んでいた最中に、宮脇が福島県の三春や霊山を訪れていたというのがあるにはありますが(「阿武隈山地は三春と霊山」『日本探見二泊三日』に所収)。確かこの時は、地味な存在である阿武隈山地を訪れてみようと常磐線から磐越東線(これまた地味な路線だ)に乗り継いで田村氏・秋田氏の城下町である三春で一泊し、翌日は郡山に出て東北本線(東北新幹線だったかも。いずれにせよ、この時私の通った大学のすぐそばを通過した訳で…)を北上、福島から阿武隈急行と乗り継いで保原で下車、タクシーに乗って霊山(行合道)まで行ったと記憶しています。旅行の帰途は福島駅から東北新幹線を利用したはずだから、そこでバッタリ出くわしてないだろうか? と、ついつい想像をめぐらせてしまうんですよね。日本探見二泊三日
2008.04.30
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ネット上、またリアルな話としても何度か聞いたことがあるのですが、「信夫山がなければ福島市は仙台市よりも発展していた」そうな。仙台だって市街地の至近に青葉山や大年寺山があるし旧市街の北西は丘陵地帯なわけですから地形のせいで発展度合いが云々されるという話はまったくもって根拠がないのですが、そのネタ元を調べていくとどうやら「教師」が原因らしい。小学校あたりの担任の先生がヨタ話程度に話したことを生徒が素直に信じちゃった図、が想定できます。教師というのは結構クセ者なんですよね。私は小学校高学年から高校まで仙台で暮らしていましたが、当時の先生も結構とんでもないことを言ってましたっけ。一番インパクトが強かったのは「広島、長崎に原爆を投下してそれでも日本が降伏しなかったら、次は仙台に原爆が投下される予定だった」という話。今も原爆症に苦しんでいる人がいるのに不謹慎極まりない話ですけど、確かにそう聞きましたよ。私は。あと、同じ先生から「下手すれば岩手県・秋田県から北はソ連に占領されて社会主義国になっていたかもしれなかった」という話も聞いたかもしれません。今、特に郷土史の世界で溢れ返っている「資料的根拠はまったくないけれど地元民に史実として認識されている事柄」の多くも、ネタ元をたどれば教師にいきつく可能性が高いかも。だって、郷土史家の多くは、元教師だったりするわけですからね。
2008.03.10
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昨日、イカ天復活祭をちょっとだけ見ました。懐かしいという感慨はなかったのですが、たまは結構良かったですね。当時はイロモノとしか思ってなかったけど、今になってみて晩年の竹中労がベタ褒めした理由がちょっとだけわかったような(笑)ところで、イカ天が放送されてたのって、今から18年前のことなんですよね。当時私は18歳。今の半分の年齢だった次第で… 嫌が応にも、時の流れを感じます。平成初頭のバブル時代が(今現在の)自分の人生の折り返し点。なんだか軽すぎるなぁ(苦笑)そして、先を考えてみると、自分の年齢を2倍すると70歳を過ぎる次第。現在の日本人男性の平均寿命は78歳だったか79歳だったか忘れましたが、阿久悠とか稲尾和久のように70歳ちょうどで亡くなった方もいることを考えると、今が人生の折り返し点ということになるのでしょうか? 「門松は冥土の旅の一里塚」とは言うけれど、縁起でもないことをいろいろと考えてしまいました。
2007.12.31
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冬に入り散歩に出かけることがなくなった今、来年はどこを歩こうかと、いろいろと夢想にふけっております。歩きたいところはいろいろあれど、どうしても引っかかってしまうのが、時間が取れないこと。休日が少ないし家族サービスもしたいし、自分の時間がなかなか作れないのが現状です。そんな時思うのが、暇だらけだった学生時代に散歩に目覚めていればなぁ~ ということ。友達や先輩と卓を囲んでばかりいないで少し歩いときゃよかったと、ちょびっと後悔。当時は今より体力があったはずだから、一日中歩きっぱなしでも大丈夫だったかな? 私は結局白河~仙台間の奥州街道を1回あたり平均2時間~2時間半程度のコースを14回に分けて歩いた訳ですが、学生時代ならば1回あたり4時間程度のコースを8回ぐらいで踏破できたんじゃないかと思うんです。ただ、当時の私にも欠点がありました。それは「金がない」こと(苦笑) 1月3~4万円程度の貧乏生活をしていたから、散歩先までの交通費が払えたかどうかは微妙なところ。散歩するために単発のバイトにいそしむという本末転倒なことにもなっていたりして(苦笑)何事も一長一短はあるものですね。
2007.12.12
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先日NHKで放送された「その時歴史が動いた」で松平容保が紹介された時、郡山在住の歴史作家が出演してましたね。生でお会いしたことはないしTVで声を聞くのもひょっとしたら初めてだったかもしれないのですが、実は私、この人とはちょっとした縁があるのです。実は、作家の身内の人が大学時代の同級生にいました。その人は夜間の学生で私が通っていた昼間のコースと比べると必修単位数も少なかったんですが、必修ではない非英外国語も履修していたし、ずいぶん向学心の高い人なんだな~ という印象がありました。で、その人、大学院に進学したのですが、そこからがちょっとマズかった。大学院といえば曲がりなりにも研究をする所。ところがその人には確たる研究テーマがなかったのでした。身内の職業に影響されてか歴史系の教官の指導を受けていたのですが、いつまで経っても論文が書けない状況。「これこれこういうものを書きたい」と口にはするものの、具体的なプロットを構築するまで至らないのです。この頃になると、私の評価も、「向学心の高い人」ではなく「単なる見栄っぱりか?」に変わっていました。何と言うか、自分の実力を度外視してもとにかく人より上の立場にはいたい、という感じ。正直大学院にはそのテの人が少なくないのですが、大抵フェイドアウトしてましたね。まぁ、その人は、4年かけて修士論文だけは何とか書いたようですが…身内がそんな人だから… というのはかなりの偏見ですが、件の作家の名前を聞くと、どうしても学生時代のことを思い出してしまうんですよね。そして作家の主張にも、どちらかと言えば否定的なバイアスがかかってしまったりするのです。
2007.10.18
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一昨日の散歩の話になるのですが、松島まで行くときの電車で進行方向の左側の席に座ったんですよね。私は元々左に何か寄り掛かるものがあったほうが精神的に落ち着くタイプだし右側の方角は東で朝は強い日差しを浴びるから当然の選択だったのですが、仙台以北の東北本線に関して言えば、無理してでも右側に座ったほうが良かったかな… とちょっぴり後悔しています。だって、海が見えますものね(笑) 東北本線の車窓から海が見えるのは松島駅の手前と野辺地駅の先、あと浅虫温泉駅付近ぐらいしかないから、貴重な風景です。あと、仙台~東仙台間に展開する車両基地や塩竈の街並みも、右側に陣取った方が良く見えますしね。座席で失敗したと言えば、その昔、釜石から花巻まで釜石線に乗った時を思い出します。確かあの時は右側の席に座っていたのですが、甲子川に沿って細長く延びる釜石の街並みや陸中大橋~上有住間のセミループ線、あと遠野の街並みも、全部左側に展開したんですよね。完全に失敗でした。特にセミループ線なんて、山を仰ぎ見るしかできませんでしたから(苦笑)電車に乗る時は、どんな風景が展開するのかも、頭の中に入れておかなければ、ですよね。
2007.09.18
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鉄道関係の紀行文で思い出すライターといえば、タイトルにも記した通り、宮脇俊三か種村直樹ですよね。どちらの本も手に取ったことは、あります。が、宮脇の本はスイスイ読めたのに対し、種村の本は全然読めなかったんですよね。十数ページ読んだだけで放り出しちゃいました。どちらが良い悪いという訳じゃないのですが、個人的な印象を言ってしまうと、種村の「旅のスタイル」が、肌に合わなかったんですよね。同好の士を引き連れての鉄道旅行ってやつ。私は車窓の景色を楽しむなら一人がいいというタイプだったので、自然と一人旅派の宮脇へと流れてしまった次第で。趣味の披瀝って悪くはないなと思うのですが、肌が合わないと鼻につきますよね。私も自分の日記で趣味のことばかり書いている訳ですが、ほどほどにした方がいいかもですね(苦笑)
2007.08.27
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今日の散歩の帰りに乗った東北本線の列車で、東京から仙台まで鈍行旅行してきた帰りだという(多分学生の)カップルと相席になりました。見ていてなんだか羨ましくなってしまいました。休みが思うように取れない今の私にとって、鈍行旅行はある意味贅沢の極みだからです。暇だらけだった学生時代は、青春18切符を使って一人であちこち鈍行旅行しましたね。原則日帰りだったので西日本に足を運ぶ機会はありませんでしたが、北は盛岡、南は横浜、西は長岡あたりまで、結構乗りまくってました。今やっている早朝散歩でもそうなんですが、観光地であろうがなかろうが、普段の自分と関わりのない地域を通るのって、やっぱり楽しいんですよね。周囲にはなかなか理解してもらえないけれど、「ハレの世界」にトランスしちゃってます(笑)あの頃に戻れれば、もうちょっと器用に一人旅が楽しめたはず… そう思うと非常に惜しい! 容赦ない時間の経過が、心底悔やまれるのであります。
2007.08.26
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今日の仕事帰り、どういう拍子にか自分でも把握できないままに鼻歌を歌ってました。曲目は、槇原敬之「どんなときも」。私は(今の)彼のことがあまり好きではないだけに、どうしてこの曲を歌ってしまったのか、ちょっとビックリ。ただ、この曲がかくも脳裏に焼き付いてしまった背景は、何となくたどることができます。この曲が流行ったのは、私が大学2年の時のこと。当時の私は、ある意味八方塞の状況にありました。大学の講義にはついていけないし、早くも「卒業後」にむけて準備を始め出した同級生からも遅れはじめる始末。入学当時は受験勉強の反動からかよく遊んでいましたが、遊ぶのすら飽きてしまったし… どうしたらいいのかわからず、悶々と毎日を過ごしていたんですよね。だからこそ、この曲が心に染み入ったのでしょうかね。この曲がデビュー曲だった(と思う)の槇原は、当時青山学院大学の1年生。同年代にこんないい曲を書く奴がいたのか! と驚かされた記憶があります。まぁ、この曲を聴いたからといって触発されてポジティヴになったとも言えない私ですが、現状に不満があって、「変わりたい!」という願望は持っていたんでしょうね。
2007.06.19
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先月来執筆していた秋田県湯沢市への旅行記(5月13、14日分日記)、今日ようやく、脱稿することができました。それにしても、書き上げるまで4週間もかかるとは、私の体力というか持久力というかも、相当落ちたものだなと実感する次第(笑)執筆にあたっては10年ほど前に購入した秋田県の道路地図を見ながら書いたのですが、そこにはちょっと恥ずかしい落書きが。なんと、暇潰しに書いた仮想鉄道の路線図が、描かれていたんですよね。その路線は陸羽東線の鳴子温泉駅から奥羽山脈を越えて横手まで行くというもので、山形新幹線の新庄開通で軌道系交通機関の陸の孤島となった秋田県南部と東北新幹線の古川、仙台とを結べればなぁ… と妄想して描いたもの。ちなみに、路線図で確認すると、駅は下記の通り。鳴子温泉(なるこおんせん・大崎市鳴子温泉)鳴子郷(なるこきょう・大崎市鳴子温泉)鳴子ダム(鳴子ダム・大崎市鳴子温泉)鬼首温泉(おにこうべおんせん・大崎市鳴子温泉鬼首)尾ヶ沢(おがさわ・大崎市鳴子温泉鬼首)岩入(がにゅう・大崎市鳴子温泉鬼首)沼沢(信号場)(湯沢市皆瀬)小安温泉(おやすおんせん・湯沢市皆瀬)皆瀬ダム(みなせだむ・湯沢市皆瀬)皆瀬(みなせ・湯沢市皆瀬)稲庭(いなにわ・湯沢市稲庭町)三梨(みつなし・湯沢市三梨町)川連(かわつら・湯沢市川連町)駒形(こまがた・湯沢市駒形町)東湯沢(ひがしゆざわ・湯沢市山谷)新湯沢(しんゆざわ・湯沢市湯ノ原)弁天(べんてん・湯沢市菱堂)角間(かくま・湯沢市角間)植田(うえだ・横手市十文字植田)浅舞(あさまい・横手市平鹿浅舞)平成高校前(へいせいこうこうまえ・横手市平鹿上吉田間内)朝日が丘(あさひがおか・横手市赤坂)横手(よこて・横手市駅前町)スキー場や温泉が多い鳴子温泉~新湯沢間は観光路線、平野部を走る新湯沢~横手間は通勤・通学路線として設定したつもりです。まぁ、利用客は少なそうな気がするのですが(苦笑)
2007.06.09
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今日の日中に、妻の高校時代のお友達が、我が家に子連れで遊びに来てました。今月はこんなこともあったし、学校を出てからも、妻とお友達との交流は、長く続いているようです。一方私はというと、今月はこんなことがあったものの、その頻度は、妻に比べると著しく低いのが現状です。妻の友達が比較的近場に住んでいるのに対し、私の友達は遠方に住んでいる人ばかりという地理的問題はありますが、やっぱり男性よりも女性の方が、現在も旧友との親交がウェットな傾向はあるのかなぁ? 私の方は、ここ数年年賀状のやりとりだけでしたしね(苦笑)それはともかく、妻とお友達とは、いつまでも仲良くいて欲しいもの。お互いの子供たちも仲良く遊んでいたというし、親子2代で交流が続いていけば… と思う次第です。
2007.05.24
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ずいぶん前にもこの日記で書いた記憶がありますが、周期的に、同じ夢を見ることがあります。夢の中での私は大学生。しかも少なくとも5回生。ロクに授業にも出ず、かといって将来の夢がある訳でもなく、友人はみんな卒業してしまい、自分はというとまた留年寸前で途方に暮れている… いつもそういうシチュエーションです。現実の私は大学に7年間在籍しており、卒業間際について言えば夢の中とほぼ似た境遇でした。ただし、途方に暮れるということはなかったですね。少ないながらも友人はいたし、妻とも既に交際していたし、将来どうなるかは分からなかったけれどいろいろ勉強していたおかげで「学生」としての生活自体は充実していたし… 結構楽観的に過ごしてました。それでも、普通の人のようにストレートに4年間で卒業して就職しなかったことが、心のどこかで負い目とかトラウマにでもなっているのかなぁ? そうなってたらどうなっただろうなぁと思うことはあるけれど、大学に7年いたからこそ得られた今の人生という自負も一応あります。だから、そんな夢をちょくちょく見てしまうのが、ちょっと信じられないんですよね。夢は深層心理の現われとも言うから、一度カウンセラーに相談に行った方がいいのでしょうか? なんか嫌だなぁ…
2007.04.04
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言語学の本なんて読んでたらふと思い出したのが、大学時代に受講していた非英外国語(第二外国語)のことでした。振り返ってみると、英語以外の外国語と鬱陶しいぐらいに接した機会は、今のところ、大学時代ぐらいしかないんですよね。その意味では、貴重な時間だったと言えなくもありません。ちなみに、私が受講していた非英外国語は、ロシア語。入学当時ゴルバチョフ率いるソ連のペレストロイカが世間の注目を集めていたし、また、あの独特のキリル文字を習得する機会もそうはないだろうと思って選んだんです。でも、学生の中で一番人気があった非英外国語は、何と言っても「つぶしが利く」ドイツ語。次いでフランス語だったでしょうか。私が通っていた大学にはドイツ語、フランス語、中国語、ロシア語、スペイン語と5つの非英外国語の講座があったのですが、前二者と後三者とでは受講者の数がまるで違ってました。ただ、面白かったのは、大学時代に私がつるんでいた面々の大半が、後三者の非英外国語を受講していたこと。特に同じゼミで仲が良かった連中は、なんと全員ロシア語の受講者! ある意味「類は友を呼ぶ」というか、仲良くなったのも必然なのかな… と思います。
2007.01.31
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昨日から明日にかけて自宅でネットが使えないので、休日の今日は暇を持て余していました。仕方がないので、ダンボール箱にしまってある本から1冊適当に抜き出して、読んでみることにしました。抜き出したのは、田中克彦「ことばと国家」(岩波新書 1981年)。タイトルの通り、ことばと国家(あるいは社会)との関わりについて事細かに書かれている本です。この本を通して著者が訴えたいことは、一人ひとりが母親から授かったことば(母語。断じて「母国語」ではない)が国家ないしは権力によって抑圧される傾向にあることへの憂い、なんでしょうかね。上手く表現できませんが。ことばって、なかなか取り替えがききませんからね。私たちの大半は学校で英語を6年間以上学んでいるはずですがちっとも喋ることができないし、東京生活が長い人でもお国訛りが抜けない人はいくらでもいます。だからこそ母語は身体の一部とも言えるし、それを「間違っている」とか「乱れている」とか大所高所から指摘する人達(それは国家権力であったり、エリート文化人であったりする)を、著者は厳しく批判します。私もまた、著者の意見には概ね同感です。でも、個人的な実感としてはどうしても耳障りな表現が ~例えば、コンビニの店員の「ちょうどお預りします」といった類の~ 巷に氾濫しているのも事実。これらのバイアスを取っ払わなければ著者が本当に言いたいことはなかなか理解できないと思うし、その意味では、凝り固まった頭を解きほぐすのにもってこいの本だと言えるでしょう。そう言えば、ダンボール箱の中には同じ著者の「言語学とは何か」もあったっけ。こっちも読まなきゃなぁ…
2007.01.28
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学生時代に仲の良かった同級生も、卒業すれば散り散りバラバラ。私のように大学から程近いところに住んでいるのは珍しい部類なんですよね。それでも26、7歳ぐらいまでは毎年のように福島に集合して顔をあわせていたんですが、ここ数年はすっかりご無沙汰。非常に寂しいですが、年賀状のやりとりをするだけの関係になりつつあったんです。でも、今年は、ちょっと嬉しい知らせが。そんな同級生の一人が、この5月に挙式の運びとなったというんですよ。お付き合いしている人がいるとは昨年より耳にしていましたが、ついにゴールインかぁ。心より祝福申し上げます。地元ではそれなりに名士として通っている彼のこと。挙式後に行なわれるであろう披露宴も、さぞ大規模なものになると思います。果たして私も招かれるのかわかりませんが、彼の性格からして恐らくかなりの人数が集まるはずで、ひょっとしたらプチ同窓会の様相を呈するかもしれません。そうなったら面白いよなぁ… 新郎の同級生はもちろんのこと、招かれるであろう別の同級生達にも期待しちゃったりして(笑) とにもかくにも「学生に戻れる瞬間」の到来が、今から楽しみではあります。
2007.01.03
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佐田行革担当相が、自らの政治団体の会計処理に不適切なものがあったとし、その責任をとって辞任しました。問題発覚から数日しか経っておらずいささかいさぎが良すぎる感がありますが、辞任はいたしかたないでしょうね。佐田に関しては、個人的に、変わった思い出があります。今から5年前、高崎で行なわれた大学時代の同級生の結婚式に、佐田が主賓として招かれていたんですよ。同級生の父親が佐田の後援者という縁で招かれたようですが、この時点で佐田は既に初当選から10年以上経過しており、いわゆる陣笠代議士ではない存在。それがきちんと参列してくるんですから、マメな人というか、また披露宴の最中に新郎である同級生にいろいろと気さくに話しかけていたのも見ていたので、我々の手の届くところにいる庶民派代議士なのかなぁとか、とにかくその時の佐田には好印象を持ちました。が、そんな人当たりの良さそうな立ち回りの裏で、不適切な会計処理を続けていたとは… 変な意味で裏切られたというか、いや、これぞまさしく絵に描いたような政治家と言うべきか(笑)とにかく驚いちゃいましたね。う~ん… 上手く言えないけれど、個人的な思い出も相俟って、政治家に対する不信感が、ちょっとアップしてしまいました。
2006.12.28
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今日は、色んな方の訃報が流れましたね。青島幸男にカンニング中島、そして岸田今日子ですか。青島は異論はあるだろうけどやっぱりああいう反骨キャラがいなくなるのは寂しい面があるし、中島は… 自分と同学齢なだけにただただショックの一言。岸田もまた、元夫の仲谷昇が先月亡くなったばかりということもあり、奇妙な縁を感じさせる訃報ではありました。ところで、岸田といえば、彼女絡みで、ちょっと変わったエピソードがあります。大学に入ったばかりの頃のことだったんですが、芸能事情に非常に疎い同級生がいたんですよ。「(当時人気絶頂だった)キョンキョンって誰のこと?」と質問しても、全然分からない。見かねた誰かが「下の名前はキョーコだよ」と助け船を出すと、またしばらく首を捻った挙句、出てきた答えが「わかった、岸田今日子だ!」(笑) 多分、名前を知ってる「キョーコ」という芸能人を当てずっぽうに出してみたんでしょうが、あのルックスのどこがキョンキョンなんだか… 以降この話は私の頭の中にこびりついてしまい、「キョンキョン=岸田今日子」の構図が出来てしまいました。それにしても、岸田今日子ねぇ… 私の世代から見ると、やっぱり、ムーミンの声優のイメージが強いかな? あと、化粧品の「IONA」でしたっけ? 「お友達にも教えてあげましょう(だったかな?)」なんてナレーションもやってましたけど、「キョンキョン」… ありえないなぁ。そのニックネームは(笑)
2006.12.20
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今日のslash555さんのブログで、早生まれについて書かれていました。なるほど、確かにブログで紹介されたような現実や危惧はあるのでしょうが、私自身早生まれの人間として生きてきた経験から言うと、別に体格や学力の面で劣っていた訳でもないし、周囲の心配は杞憂のように感じます。ただ、振り返ってみて不思議だな… と思うのは、私の周囲の人物にやたらと早生まれが多かったこと。大学時代に仲の良かった友人の半数近くが早生まれだったし、妻も早生まれ。親の収入や兄弟構成など生きてきた境遇って人を結びつける重要な要素のひとつだと思いますが、早生まれという境遇も、単に誕生日云々というだけの問題ではなく、その徳俵的立場が知らず知らずのうちに我々の間に共通する何かを形作っていたのかもしれません。そういえば、うちは私も妻も、そして二人の子供までも早生まれという極めて珍しい家族形態。子供たちは今のところ早生まれを意識するような機会はないようですが、成長したら、私と同じように早生まれ同士でつるむようになるのかなぁ? 楽しみでもあり、心配でもあります。
2006.12.05
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12月に入り年賀状の準備もそろそろ… と思うのですが、この時期になると時折届くのが、年賀欠礼の挨拶ですよね。我が家にも1通、年賀欠礼が届きました。妻がお世話になった先生が亡くなったということで、妻はショックを受けていました。今現在交流がほとんどない人の場合亡くなったことを年賀欠礼で初めて知る時もあります。便りのないのが無事な証拠という面があるだけに、いきなりの欠礼の知らせには驚きますよね。やっぱり。数年前ですが、私も、高校時代の友人の奥さんが亡くなったことを年賀欠礼で知り、ショックを受けたことがあります。友人とその人との結婚式にも参列したことがあり、その限りでは仲の良い似合いのカップルだと思っていただけに、衝撃は尚更大きかったですね。その友人とは、奥さんが亡くなった翌年の春に2、3度会いましたが、よく考えてみるとそれきり会ってません。男手一人で子育てしてるとあの時は聞いたけど、今も頑張っているのかなぁ? 再婚話とかはないのかなぁ?きっとそのテの知らせも、私の元には突然もたらされるんでしょうね。
2006.12.02
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昨日の日記で書いたリストを見ると、来年の早朝散歩では、路線バスのお世話になる機会が多そうです。路線バスって年に数回しか乗らないんですけど、あれって、乗ってみると結構面白いですよね。座席の位置が高いからクルマに乗った時よりも多少眺望が利くし、市街地ではバイパスではなく旧市街にきちんと分け入ってくれるから、街の様子もしっかり見れるし。運賃が高めなのが難点ですが、私好みの交通手段ではあります。そんな路線バスにもっとも長時間揺られたのは、今から7年前に妻と牡鹿半島に行った時でしたっけ。あの時はJRで女川まで行ってそこからジェットフォイルで金華山へ。でもって遊覧船で牡鹿半島の突端にある港町・鮎川に行き、鮎川から石巻までがバス移動。当日は石巻で川開きのお祭りが開催されていたこともあり、バスの乗車時間は1時間半ほどかかったと記憶しています。今後の早朝散歩ではさすがにそこまでの長時間乗車はなさそうですが、バスから見える景色も散歩の沿道風景同様、しっかりと目に焼き付けておきたいと思っています。
2006.11.27
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今、上の子が幼稚園で縄跳びにチャレンジしています。周囲の子はだいぶ跳べるようになっているんですが、ウチの子はまだまだ… 来月まで試練の日々が続きそうな予感です。全国的な傾向なのかどうかわかりませんが、縄跳びって、冬季の体育の授業では必ずやらされるイメージがあります。私が小学生だった頃は、縄跳びとマラソン。これが授業の柱でした。今は全然跳べる自信がないのですが、当時は200回以上跳べたはずなんですよね。ただ、二重飛びが全然できなかった。何遍練習しても5、6回しか跳べなかったんです。そこで、登校直後から朝礼までの時間を利用して練習、練習。あの頃は私だけではなく、多くの生徒が同様に、朝練していましたっけ。で、練習の成果はというと、せいぜい十数回に増えた程度だったりして(苦笑)ただ、まぐれで1回だけ、30回以上跳べたことがありました。その時は嬉しかったなぁ…だから上の子も、今は跳べないけど腐らずに練習を続ければ、上手に跳べるようになるはずだ、と思います。今の段階では口で言っても理解してもらえないかもしれませんけどね。
2006.11.10
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一昨日発生した徳山高専校舎内での女子学生殺人事件。容疑者は同じ研究室に所属する男子学生だそうですね。今現在行方が分からなくなっているとのことですが、一刻も早く、身柄を確保して欲しいものです。学校内、しかも男子学生が女子学生を殺傷した事件といえば、個人的にどうしても思い出してしまうのが、こちらの事件。当時私が事件のあった大学の現役の学生だったということもあり事件そのものにも大変ショックを受けましたが、それ以上に気になったのは、容疑者は(少なくとも私から見た印象では)そんなことをしでかす男には見えなかったこと。狂気って、人の知らないところで養われていくものなんだなぁ… と思ったものです。今回の容疑者も「おとなしい子」という印象だったそうです。であるからこそ、自殺など企てず、警察に自らの身柄を預けて欲しい。罪を償うのはもちろんですが、人を殺めなければならなかったほどの彼の狂気の原因は一体なんだったのか? それが知りたいです。今後の同種の事件の防止のためにも。
2006.08.30
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今日から仙台七夕です。日曜なのに仕事だったんですが、帰りの電車は七夕帰りとおぼしき家族連れやカップルでいっぱい。背広姿の私は浮いてましたね。完全に。福島と仙台とをかれこれ2,000往復近くもしていると、今回のように七夕帰りの客を乗せた電車に乗り合わせたことも、何度かあります。お祭りの雰囲気をおすそ分けしてもらったようでこっちまで楽しい気分になる半面、酔っ払って大暴れ(までいかないか)したお客さんに興ざめしたり、カップルのいちゃつき具合に辟易したり… なんてことも、あったりしました。特にカップルでは、何と言うか、参ったな~ という経験があります。大学の何年生かの時の話なんですが、仙台に所用があっての帰りの電車で、学生風とおぼしきカップルと乗り合わせたんですよね。私の見ている前でいちゃつきまくるカップル。こりゃきつかったですね。今なら冷めた視線で見れますが、当時はそれほど冷静にはなれませんでした。目の毒なので、とりあえず寝たふりしてやりすごすことに。まさに「♪寝たふりしてる間に 出ていってくれ」って心境だったんですが、県境を越えてもカップルはなかなか降りる気配がありません。それどころか、体を寄せ合って寝ちまいやんの。参ったなぁ。結局、当時住んでいた金谷川まで、彼らと一緒に過ごすことになりました。南福島を過ぎるとそそくさと荷物をまとめ、席を離れてドアの前に立つ私。ところが、列車が金谷川に近づくと、カップルの方も、やおら立ち上がって降りる準備をするではないですか! なんと、降りる駅まで一緒だった次第で(苦笑)どこまで一緒なんだよ~ もう彼らの姿を見たくなかった私は、改札を出ると急ぎ足で、自室へと向かうのでありました。
2006.08.06
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今日は私は仕事だったんですが、日中に妻のイトコが子連れで遊びに来ていたので、我が家は賑やかでした。妻とそのイトコとは同い年、高校ではなんと同じクラスだった(!)こともありとても仲が良いのですが、子供同士も仲良く遊んでいたみたいです。猫の額のような我が家の庭で泥遊びをして服を汚しては、一緒にはだかんぼになってシャワー… こんな様子を聞くと、嬉しくなっちゃいますね。イトコの子とうちの子はハトコ同士になる訳ですが、これからも仲良くして欲しいものです。ハトコ同士と言えば、私自身は、あまり思い出したくない記憶があります。小学5年の頃、転校した小学校で「なんかこいつ嫌だなぁ…」という奴がいたんですね。彼はサッカーが得意なスポーツマンタイプでどちらかと言えば後にヤンキー系になりそうな人たちと交流が深く、私はスポーツがまったく駄目なうらなりで友人も大人しめのキャラが大半。だから接点なんて見つけようがなかったんです。ところが運動会の時のこと、なんと、うちの家族と彼の家族とが並んで座っていて仲良く談笑しているではないですか! それを見つけて私も彼も口には出さないけど「なんでこいつの…」という態度。後で聞いたら父親同士がイトコで、運動会の席で何十年ぶりかにたまたま会って意気投合したとのこと。それを聞いて、更にお互い、仲が悪くなってしまったりして… 中学にあがると「おまえ、あいつの親戚なんだってなぁ」なんてヤンキーに絡まれたりしたこともあったんで、本当に嫌でした。まぁ、それは彼も同じ思いだったでしょうが(笑)
2006.06.17
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このところこの日記でも取り上げている秋田の事件でしばしば登場するのが、能代市二ツ井町という地名です。容疑者の出身地でもあり遺体が発見されたところでもあります。実はこの地名を聞いて、思い出した人物がいるんですよ。彼は、二ツ井町出身の大学の同級生。我々は事件の容疑者と1~2学年しか違わないから、彼と容疑者とは、ひょっとしたら何らかの接点があったかもしれないし、なかったかもしれません。彼の趣味は、鉄道写真の撮影と、エロビデオの鑑賞でした。しかも後者の方は、スカトロ専門… そういうジャンルがあることは承知していましたが、それが趣味であることを包み隠さずカミングアウトした人には、初めて遭遇しました。私だったら、とてもできないなぁ… エロビデオを持っていたとしても、家族、恋人、友人には見せたかないって性質ですからね。包み隠さない… それが彼の行動の特徴だったような気がします。いつだったか、鉄道写真の話で「仙石線は被写体として全く面白くない」と仙石線沿線出身の私に対して臆することなく話したことがあったし、自分の故郷の話でも「自分は二ツ井の小さな学校の出身で同級生が五人ほどしかいなかったのだが、そのうちの一人が中学を出てから街に出て… 死んじゃった(嫌な死に方だった)」なんて言いにくいことを淡々と話していました。そんな訳で、彼は周囲の人間からは、多少気味悪がられていました。それでも学校の成績は優秀だったから、卒業後は秋田県の職員に登用されたはずです。今頃し尿処理の業務にでも就いているんだろうか(苦笑)うわ~ どうしてこんなこと思い出しちゃったんだろう? 彼のようなパーソナリティって、二ツ井でもレアケースですよね?
2006.06.05
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今朝、ふと「温泉に行きたい!」と思ってしまいました。我が家の風呂が狭いせいで、唐突にそう思ってしまうことが、時折あります。振り返ってみると、泊りがけで温泉に行ったのは上の子が生まれた年の秋に岩手・花巻の志戸平温泉に行って以来(参考)で、もう4年近く行ってないんですね。ここでまたまた想像が飛んでしまって、思い出したのは、学生時代に2年連続で飯坂温泉に泊まった時の思い出。もう苦笑するしかないんですが、泊まった宿が2軒とも悲惨な目に逢っていたりするんです。最初に泊まったI屋はそれから1年も経たないうちに閉鎖してしまったし、翌年に泊まったW旅館はやはり1年も経たないうちになんと火災を起こしてしまい、今では更地に… 火災のニュースを知った時は、自分は疫病神だったんじゃないか? と思っちゃいましたからね。旅館・ホテルの廃墟が建ち並ぶ不気味な光景を見せている飯坂だけに別に私が行っても行かなくてもそういう結果になっちゃったんじゃないかとも思うんですが、結果を見せ付けられるとやっぱり気になっちゃいますよね。このところの飯坂は歴史的建造物を活かした温泉街づくりに力を入れるなど再興の兆しが見え始めているだけに、訪れたくもあり訪れたくもなく… ちょっと複雑な気分です。
2006.05.31
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今日の読売新聞のトップ記事でしたか。ニートに関する調査で部活動未経験者が6割を占めるとか、就職活動もあまり本腰を入れていなかった者が多いとか、書かれていましたね。どうやら、ニートというのは雇用形態が流動化しつつあるという社会構造の問題もあるでしょうが本人の意欲や適性の問題もある、というところでしょうね。で、この調査結果を見て驚いたのは、私自身が部活動・サークルがほぼ未経験(中学時代にテニス部に入っていたが強制入部で、自分の意志で部活動・サークルに入った経験はない)で、就職活動も正直言ってあまり乗り気ではなかった… つまり一歩間違えればニートだったんじゃないか? ということ。振り返ってみると、今の勤務先に就職でき、しかも商業・経済系の履修経験がないのに経理を担当しているというのは、かなりの僥倖だったんだなと思います。ちなみに私の場合、学生時代からその会社で数年間アルバイトをしていたんですよね。そうしながら主にマスコミ系を狙って漫然と就職活動をしていたりしてたんですが、そんな様子を見ていた役員の方がいて、「25にもなってフラついてるんだったらウチに就職したらどうだ?」と言われたんです。見ている人は見ているんだなぁ… と思いました。本当に嬉しかったです。そんな経験があるものだから、ニート問題で「社会が悪い」という論調には賛成できないんですよね。世間体やプライドなんかかなぐり捨てて、バイトでもパートでも派遣でもいいから、とにかく一所懸命に働くこと。もし本当に「問題」だというのなら、その気概がまず、ニート本人に求められているんじゃないかと思います。
2006.05.26
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今日は、上の子の幼稚園の運動会でした。もっとも、幼稚園単独で運動会を行う訳ではなく、近所の小学校の運動会に混ぜてもらい、演技を披露するという形でしたが。徒競走(宝拾い)とフラフープを使ったダンスを披露したんですが、どっちも一生懸命やってたんで、嬉しくなりました(笑)ところで、その小学校は全校生徒が150人ぐらいしかおらず、もちろん1学年1クラス。従って大規模校で行われるようなクラス対抗方式が採れず、各学年を紅白2チームに分けて争そわせるという方式で運営されていました。また、運動会を運営する係は主に高学年の児童が行っていたようですが、みんなどこかの係に所属していた模様で、それが「手作り感」を高めていたように感じます。まさに児童が運営し、参加する運動会な訳で。私が小学生の時は、そんな運動会じゃなかったよなぁ… 私は毎年のように転校を繰り返していたので都合四つの小学校に通いましたが、いずれもクラスが3~5はある大規模校。運動会でも特に何かの係になった記憶もなく、言われるがままにただ参加しているだけでしたからね。そういう環境って、人格形成にも影響するんじゃないかなぁ。職場でよく言われるんですが私にはどうやら「あなたまかせ」な傾向があるようで、ひょっとしたらその要因のひとつは「手を挙げなくても、誰かがやってくれる」環境に身を置いていたから、という気がするんです。ものすごく図々しい言い訳ですが(苦笑)普段の生活でもテキパキと自分で判断して行動しているのは、私ではなくこの小学校のOGでもある妻の方。いずれ子供たちもこの小学校にあがることになる訳で、「自分から積極的に参加しなければ物事が進んでいかない」環境のなかで、自主性をどんどん伸ばしていって欲しいなと思います。以上、反面教師のパパからのお願いでした。
2006.05.21
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この日記、本来は5日に書く予定だったんですけど、あまりにも眠くて、結局7日の日中に書くことになっちゃったんですよ。眠いとネタも浮かばないし文章もおかしくなりがちなので無理しないで執筆を翌日あるいは翌々日回しにしているんですが、ふと思ってしまうのが、人間はどうして眠くなっちゃうんだろう? ということ。仕事にしろプライベートにしろ時間が足りなくてそれこそ寝る間も惜しい毎日を過ごしているのに、眠気を制御することはできないんですよね。1週間ぶっ通しで起きた後に丸1日睡眠するなんて生活ができたらいいのに、とは思うんですけど(苦笑)そんなことを考えながら思い出していたのは、大学時代の同級生のこと。「宝島」の「VOW!」ファンなのが縁(なんつう縁だ…)で仲良くなったんですが、彼がどこかへ旅行に行った時に「『人生1/3は布団の中』って看板を掲げている布団屋を見つけたよ! VOW!に投稿しようかな?」なんてはしゃいでいたんですよね。そうだよな、確かに我々、人生の1/3は布団の中な訳で、改めて考えると、睡眠の占めるウェイトは大きいんですよね。その看板は正直言ってVOW!に載せるほどのネタじゃないとは思うんですが(笑)説得力は感じました。ところで、現在の私の睡眠時間は平均して1日の1/4といったところなんですが、学生時代は1/2だったかもなぁ… 学生時代に寝過ぎたツケを、今になって払わされている感じです(苦笑)
2006.05.05
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数日前の話になるんですが、人事担当の女の子から、「○○さんの血液型って、Rh-なんですか? 人事ソフトにそう登録されてましたけど。」と訊かれました。「いやいや違うよ、俺はRh+だぞ、誰かが誤入力したんじゃないか。」と回答すると、相手は納得しながらも、「ふ~ん、つまんないの」とでも言いたげな表情。そう思うのも分からなくはありません。日本人でRh-の血液型を有する人の割合は200人に1人と言われていますが当人が口にしなければ表沙汰になることはないので、Rh-の人と遭遇できる確率はそれよりももっと低いものになりますからね。ちなみに私も、Rh-の人(厳密には、そうカミングアウトしてくれた人)とは、一度しか会ったことがありません。その人は大学の先輩だったんですが、その特異な血液型を活かして「売血」のアルバイトをしていました(確か売血は禁じられているはずだが、本人はそう言っていた)。詳しいことはよく分からないのですがRh-の人が病気や事故等で輸血が必要となった時はRh-の血液しか輸血できないんだそうで、Rh-の血液は売買されるだけの価値を有するらしいんです。私用の外出どころか授業にすらあまり出ようとしなかった先輩ですが、売血には比較的まめに出掛けていたように記憶しています。
2006.04.09
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このところ、通勤電車が止まったり遅れたりした話ばかり書いているような気がするんですよね… 2000回近く書いてきただけに、もういいかげんネタ切れなのかなぁ? それはないにしても、内容が単調になっているような気はします。その辺改めなければ(苦笑)このテの日記が示すように、恐らく私は列車の運休、遅延の遭遇率が人よりは高いとは思うんですが、実のところ「そのせいでその日のうちに帰宅できなかった」経験は、一度しかないんですよね。それも、通勤じゃなく一人旅をしていた時の話。今から7年前の秋口のことだったんですが、北東北へ日帰り旅行に行ったんですよ。当時住んでいた仙台から新幹線で秋田へ。更にそこから五能線を経由するリゾートしらかみに乗り込んで、深浦の町や千畳敷海岸を見て回ったんです。その後はリゾートしらかみの終点でもある弘前の街を少し見物し、あとは青森から東北本線に乗って盛岡に抜け、盛岡発の最終の新幹線で帰る予定だったんですが…青森から盛岡まで当時走っていた特急はつかりに乗っていた時のこと。盛岡の北約60キロ、ここを発車すればあとは盛岡へと一目散に走るだけという地点にある一戸駅で、列車が止まってしまったんですよ。車内アナウンスによると、一戸の先の峠で集中豪雨があり列車の運行ができなくなっているとのこと。ところが一戸では雨が降っていなかったので、乗客一堂キツネにつままれたような表情。だもんで時期に発車するだろうとたかをくくっていたんですが、なかなか発車しない。列車には私と同じく盛岡から新幹線に乗り継ぐお客さんが多かったようで、時間が経過するにつれ、乗り継ぎや宿泊先を心配する声もチラホラと出てきました。私もまた、別に心配事が。当時コンタクトレンズを装用していたんですが、あまり長時間装用できるタイプではなかったし、洗浄液もメガネも持ってきてなかったので、どうしたものかと。とりあえずコンタクトを入れる容器だけでも確保しとかなきゃと、駅前にあったコンビニまで走ったんですね。容器らしいものはなかったんですが、それでも駅前にコンビニがあったのはラッキーでした。暇潰しに読む雑誌とか、夜食なんかが確保できましたからね。ちょうどその頃、列車の遅延が著しく新幹線に接続できないことがほぼ確定してしまったので、逆に腰が落ち着いちゃった感じですね。結局、盛岡には2時間遅れの到着となりました。時刻はまもなく0時。とりあえず駅前のカプセルホテルに宿をとります。長時間列車に閉じ込められていたので、旅行とはいえさすがに疲労困憊。ベッドに入るやいなや速攻で寝入ったのは、言うまでもありません。
2006.04.04
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いつもお世話になっているslash555さんのこちらの日記を読んでいて、専業主婦についてちょっと考えてしまいました。専業主婦… 就労についての男女の壁がなくなりつつある現在、この道を好んで選ぶという人は、ひょっとしたらそれほど多くはないのかもしれません。でも、この5年間妻に専業主婦をしてもらっている私の立場から言うと、妻が家庭のことを専門にみていてくれているからこそ私も仕事に身が入るという面は少なからずあるんですよね。だから、ライフスタイルの一つとして「男は仕事、女は家庭」(もちろん「女は仕事、男は家庭」」でも可)という形態は認めて欲しいなと思うし、扶養対象配偶者に対する配偶者特別控除の廃止なんて専業主婦いじめとしか思えない政策は、正直なところとって欲しくないんです。でも、世間的には、専業主婦って、旧世代的な概念と捉えられている感があるんですよね。特に私が驚いたのは、女性問題の識者に専業主婦を嫌っている人がいた、という現実。今から10年ほど前の福島という地方都市の話ではあるんですが、県を単位にした女性問題関係の団体のトップ(その人も女性)が「専業主婦は『働く女性』の敵」と平然と口にしたのを、聞いたことがありました。その人は、「家庭や地域を顧みず、仕事人間となってしまった男性(あるいは『女性の形をした男性』)」や「就労の機会を奪われ家庭に閉じ込められた女性」の現状を憂うと共に、男女がともに仕事・家庭・地域に目を配り参加できるような男女共同参画型社会の実現を提唱していました。なるほど、そういうライフスタイルはあっていいでしょうが、人には当然得手不得手があるからどれもこれも人並みにこなせない人が続出するように思うし、私なんか「家事が忙しいからこれ以上仕事できませ~ん」とか「仕事が立て込んでいて家事なんてできないよ」とか、双方に対して言い訳してしまいそう(苦笑)結局、「餅は餅屋」じゃないけれど役割分担を決めておいた方が円滑にコトが進むというケースは、少なくないんじゃないでしょうか?話があっちこっちに飛んでしまいましたが、私がとても気にしているのは、家父長制的な古い家族形態の崩壊が、必ずしもライフスタイルの多様化という方向性に向っていない、ということ。先日どこかの自治体であったような「共働き家庭の職員に対し退職を推奨」なんてのは論外だと思いますが、それと同じような(要するに「現状を否定する」)刃が専業主婦にも向けられがちだというのが、個人的には、嫌です。
2006.03.10
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今日は、会社の決起大会でした。今期の方針の説明と役員の訓示が一通り終わると、あとは飲み会。私もビール3、4杯は飲みました。で、その日の帰りの電車。福島行の終電に乗っていたんですが、酒の力も働いて仙台駅を出発する前から熟睡モード。気がついた時には白石駅の跨線橋を歩いておりました。白石駅!?なんでこんな所で降りてんの? しかも福島行の電車はもうないという状況。酔った末の大ボケの結果とは言え、とんでもないミスをしでかしてしまいました。結局、白石からタクシーで帰宅する羽目に。事情を説明すると「白石で乗り過ごすお客さんは毎日いるんだけど、間違って手前の駅で降りたお客さんは初めてだなぁ」を笑われてしまいました。自宅前で下車。料金は6,360円なり。とりあえず帰宅はできましたが、まったくの無駄な出費に、妻はおかんむりでした。はぁぁ… 申し訳ありません…
2006.02.23
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こちらの日記で紹介した暇潰し。実は他の路線でも試していたんですよ。相変わらず、バカなことをやってばかりいる私です(苦笑)でも、東北地方の路線だと、東北本線よりスッキリ決まる路線って、なかなかないんですよね。多分、複線区間があまりないのが、影響しているんだと思います。まぁ、奥羽本線みたいに複線区間があっても列車の本数が少なすぎてジ・エンドという路線もあるんですけどね。で、ちょっと強引に持っていくんですが、今回は奥羽本線に初めて乗った時の話。偶然と言うべきか、その時はウチのリンク先である行政書士の小平さんと二人で乗ったんですよ。確か、福島から仙台を経由して仙山線で山形入りし奥羽本線で福島に戻るという環状ルートで乗車したと記憶しています。我々にとってこの時が、山形県の鉄道に乗る初めての機会でした。東北本線~仙山線と乗り継いで、まずは山形へ。乗ったのは1991年の3月のことだったんですが当時の山形駅は今みたいに立派な駅舎ではなく、大ぶりではあったけれどもやや古びた駅舎。山形新幹線の乗り入れに伴う改築工事がちょうど始まった頃で、駅ビルが閉鎖されていました。で、山形からいよいよ奥羽本線に。ところがここで天候が悪化。吹雪が舞う中の乗車となってしまいました。おかげで外は真っ白けで何も見えず。石造りの蔵王駅の駅舎は見ましたがあとは何が何だかわかりませんでした。そんなこんなで数分遅れで、米沢に到着。こちらも今の米沢駅とは趣が異なり、洋館風で古びた駅舎でした。驚いたのは、駅前にめぼしい商店やビルが見当たらなかったこと。繁華街からかなり東に離れたところに駅があることを後に知りましたが、人口10万近い都市の玄関駅としては淋しいなぁ… とその時は感じました。そんな米沢で、アクシデント発生。なんとこの先が猛吹雪のため、列車が一時運転を見合わせてしまったんです。待っているうちに外は真っ暗。列車には通勤、通学客の他スキー帰りとおぼしき団体客が乗りあわせていたんですが、みな一様に不安そうな表情を浮かべていました。ところが我々は、そんな状況を知ってか知らずか、ボックス席を二人で占領して、ちょっとした酒盛りに走ります。当時米沢駅のホームにあったキヨスクでビールを購入し、まずは乾杯。それだけではもの足りず追加購入してまた乾杯。少なくともビール3杯は飲んだと思います。日本酒好きの小平さんは、ワンカップにも手を伸ばしていたかもわかりません。結局、1時間程度遅れて、列車は出発しました。外は真っ暗で何があるのか確めようがなかったけれど、あの暗闇は恐かったなぁ… 駅が近くなっても人家の灯りが全然見えないんですもん。庭坂でようやく集落の気配を感じた時には、とても安心したのを覚えています。
2006.02.19
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一昨日から溜め込んだ日記を今日の妻子の留守中にまとめて書いていた訳ですが、日記が思った以上に長大なものになってしまったために、ちょっと目が痛くなってしまいました。PCで道楽していて目が痛くなってしまったなんてある意味情けない話なんですけど、とりあえず目を休めるためにちょっとお昼寝。でもそのお昼寝、15分ぐらいで跡切れてしまいました。外で鳴いてた野良猫の声に、起こされてしまったんです。外は寒いし腹は減るだろうし、野良猫も大変だろうと思います。そう言えば、これと似たようなシチュエーションに、学生時代に遭遇したことがあります。一人暮らしをしていた部屋(1階だった)の窓の下、野良猫の泣き声で起こされてしまったことが。あまりにもしつこく鳴いているので、「シッシッ!」と私は追い払う仕草をします。しかし野良猫も、ニャ~だかギャ~だか鳴き声とも叫びともつかない声を挙げて、立ち去る気配がありません。そうか、腹が減っているのか。何かあげれば鳴き声も収まるかな… と思い、室内を物色。でも貧乏学生のこと、食べられそうなものは殆どありません。辛うじてあったのは、湖池屋のスコーンぐらい。味付けが濃いし果たして猫が食べられるのか? と思いながら与えてみると、なんと何の警戒もせずにバリバリ食べるではないですか。そしてスコーンを食べ終わった野良猫は、そそくさと消えていくのでありました。いくら腹が減っているとはいえ、猫がスコーンなんて食べるものかなぁ? その場凌ぎにはなったろうけど、後でお腹こわしたりしてないかなぁ? 他愛もない出来事だったけど、終わってからいろいろと考えさせられてしまいました。
2006.02.05
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先日、同僚から、「○○さんって、家庭があって子供がいるようには見えないよね」と、思いっきり言われてしまいました。その人に言わせると、私には「生活感」をあまり感じないということ。う~ん、そうなのかなぁ? ちょっと悩んでしまう次第なんですが、振り返ってみれば、私って、そう言われ続けていたような気もするんですよね。学生時代には「卒業してから一般企業に就職してなさそう」とかよく言われてましたもん。いったいどんなキャラだったんだよ、私は(苦笑)「彼女いなさそう」「年取っても結婚してなさそう」ともよく言われてましたね。だもんで、今の妻を友達に紹介した時なんか、どうやら彼らから見た「私」に似つかわしくないと思ったらしく驚かれることがしばしばでした。結婚式の二次会の時なんか、高校時代の友人が「あいつのどこが良かったの? どうして結婚しようと思ったの?」と妻に質問攻め。妻も困惑してました。まったく、余計なお世話だこと(苦笑)人をイメージで捉えるのは実のところ自分の身を守るためにも必要なことだと思うんですけど、自分がそんな風に言われたことを考えると、それも程々にしないとな… と思ってしまいます。
2006.02.04
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ライブドアショックの一件で、株式投資をやっている人が以外に多かったことを知りました。こんなことを言っては失礼になるのかもしれませんが、今や猫も杓子も株式投資。職のない主婦や学生まで株に手を出しているし、証券会社の主導で株式投資の授業までやった小学校があるとかないとか。まぁ、私も某企業(っても勤務先ですけど・笑)の株主になっているから偉そうなことは言えないんですが、今の株式投資、特にデイトレードの流行を見ると、みんな目先のお金が欲しいんだな~ って思います。1980年代後半のバブル景気の頃って、確かに株価は青天井で上昇してて「財テク」なんて言葉が流行ったぐらいなんですけど、少なくとも学生が株を積極的にやるなんて事態は聞いたことがありませんでした。身内から譲られたとかそういう人はいたかもしれないけれど、日々の値動きを気にしてた人はいなかったような気がします。まぁ、今の株式投資流行りはネットでのトレードが可能になったことにも起因している ~逆にバブル当時のパソコン技術はせいぜいチャット程度~ から、ツールさえ整っていれば株式投資が流行っていた可能性はあるんですけどね。実は私が通っていた大学の教授(当時は助教授)に、大胆にも「マネーゲームの時代」なんて本を書いた人がいるんです。しかも「若者たちのマネーセンス」なんてサブタイトルがついていた(爆)で、この本はその教授の講義のテキストでもあって大学の生協でも販売されていたんですけど、書籍コーナーに平積みされたままなかなか減らなかったんですよね。当時の学生たちだってお金が欲しいとは思っていたんでしょうけど、よく考えてみるとその殆どが親掛かり。仕送り月10万。免許取得もクルマを買うのも親に払ってもらうのが当り前、という風潮があったように思います。そう考えると、今の学生の中に株式投資に走る人がいるのは先に述べたネットの普及のせいもあるでしょうけど、ひょっとしたら、現在の親がバブル当時の親よりも金銭面で頼りにならないからかな? なんて思ってもしまうんですよね。つまりその分だけバブル時代の学生よりも自立していると言えなくもないのかなぁ… でもその一方で、特にデイトレードはギャンブルに近いから、我々が学生だった頃のパチンコ、競馬、麻雀に成り代わって株式投資が台頭してきたのかな? とも思います。う~ん、どっちなんだろ(笑)
2006.02.03
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