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すべてのからくりがわかってしまえば、後に残るは選択のみ。 何を選ぶのか? 本質的には、ただそれだけ。 選ぶとはどういうことか? ただそのものになっているのかということ。 思念レベル・想念レベル・思考レベル・思っただけの何かでは無く。 あるいは自分をごまかしたゆえの偽の願望でも無く。 誰かに刷り込まれた本当は自分のものでは無い願望でも無く。 恐怖や自己保身に基づいた仮面の願望でも無く。 自己顕示欲や独裁欲をただ満たし、エゴに一時の満足を与えて安心するための願望でも無く。 ただただ純粋に、ただただあり、ただただ自然な自分自身の願いなのか。 本当の自分自身の願いを選択する時。 それは最もその人を幸せにし、最も喜びにあふれ、最も自然で、最も他人をも幸せにする願いの選択となる。 その選択が現実化した時。 その人は知る。 自分は真実の選択をしたことを。 自分に最もふさわしい選択をしたことを。 「生きる」という意味そのものを選び取ったことを・・・知る。
2019年02月09日
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必要なものは平安。 例え焼け野原でも。 例えがれきの山でも。 その場ですくっと立ち。 心の中心に平安をたずさえ。 透徹したまなざしですべてを見すえ。 勇気と言う名の歩を進め。 安らぎと言う名の自分を生きる。 分かたれることの無い我。 すべてが私。 すべてが愛。 道は目の前にあり。 たどった道には触れ合いが残る。 慈しみと言う名の人生を送り。 やさしさという答えを得る。 今ここに。 私はある。
2019年02月04日
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今いるこちら。 望んだあちら。 こちらとあちらが意識の中で同一となる時。 こちらはあちらとなる。 こちらとあちらが心の中で一緒となる時。 こちらはあちらとなる。 こちらとあちらが一つとなった時。 望んだ場所にその人はいる。 願いがかなった場所にその人はいる。 こちらとあちらはもはや分かたれること無く。 同じ一つの場所となり。 今こことなる。
2019年02月04日
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今ここにある自分の姿。 今ここにある自分の状況。 他人にやられたこともあるし、理不尽で不条理なこともあるけれども。 それらすらすべてをひっくるめて、今ここにある。 すべて自分というレンズを通して投影され焦点を結んだ上での「像」なのだ。 「現実」という名の「虚像」。 「虚像」と言ってもそれを体験している者に取ってはリアルな「現実」。 「大地」に手を当て、すべてを感じてみる。 世界すべてが自分自身であることを感じる。 さて、どうしよう。 様々な事象そのものに手を加え、物事を変えていくのも一つの手だ。 レンズの方の焦点を変えてみて、結ぶ「像」を変えてみるのもの一つの手だ。 極端な話だが、深く傷を負ったとして、その傷を一瞬で奇跡的に治すことも、 逆にその傷跡と痛みを背負いながら生きることも宇宙的には等価値なのだ。 その体験から何を得、どうするのか。 その人の「自由」でそれだけなのだ。 それだけの完全な受容性を持ってこの多次元宇宙は存在しているのだ。 さて、どうしよう? 「虚像」と言う名の「実像」をどう体験しよう。 投影された「現実」と呼ばれているものをどう体験しよう。 すべては「自由」。 「自由」なのだから・・・。
2019年02月02日
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その人の波動(周波数)が世界を決める。 その人の時空間構造体が世界を決める。 その人を構成している分離された神の視点の集合体の重心が世界を決める。 その人の意識の焦点の最も合っている所が世界を決める。 その人の本当の心が世界を決める。
2019年02月01日
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宇宙の仕組みについて・No1の続きです。 それでは前回に引き続き、宇宙の仕組みについて述べていきます。 前回は主に「ワンネス」について述べました。 今回は、いかに「絶対」の「ワンネス」から、私達の経験している「相対」の「多次元宇宙にまたがる宇宙のすべて」が展開していくのかを説明していきたいと思います。 それではこの絶対不変の「ワンネス」から、どのようにして私達から経験している多次元宇宙が生まれたのでしょうか? 何のために? どういうプロセスで? 何の目的で? そして、この経験をしている主体である私達に何の意味があるのか? 実はですね、その答えを人間の思考プロセスで答えることは、正確にはできないのです。 人の持っている概念の枠内で説明なんかできないものなのです。 多くの人がここで引っかかったり、あるいは間違ってしまっているように見えます。 でも、不可知論をここで論じているわけでも無いのです。 どうせ理解できないし、知覚もできないから、論じるだけ不要・無用だと言っているわけでは無いのです(そう言って切り捨てている人もいます「しょせん、わからないことを考えるより日常に目を向けましょう」とか) 私は「理解」をしていますし、「実感」もしていますし、「わかっています」が、人の言葉や概念で説明することはとても困難です。 でも、それでは不親切というものですので、やれる範囲でできるだけやってみます。 太古の昔より、このことに気が付いた人々、それもおぼろげに気が付いた人から、完全把握した人まで、多種多様な人が多くのことを伝え残してきました。 例えば古代インドの古典ではこんな風にいいます「無限であるがゆえに有限を望み、永遠であるがゆえに)(限られた)刹那の時を望んだ」。 そう言えなくも無いでしょう。 古代インド思想でも、イスラム神秘主義のアラビアでも、同じようなことが書き残されています。 「じゃあ、なんでこの完全で完璧で神であるものがわざわざこんな分離された世界を作ったのか?」そして「また完全で完璧で神であるものにまた戻らなければならないような奇妙なことをしてるのだ?」。 言いえて妙かもしれません。 「完全で完璧なものが、そうではないことを経験してみたかった」と言う人もいます。 それも一理あるかもしれません。 でも私が実感として答えるなら(人の言葉や思考形態や概念で説明できないという前提で聞いてくださいね)こんな感じになります。 「答えはワンネスじゃなく、私達にあります」。 「ワンネスからの分離のドラマを、どれだけ最初にワンネスがあってそれからこんな風になったと説明しても無駄です。そういうものじゃないですから。ワンネス自体はまったく不変の実態で動きませんし、変化しませんから。そもそも時間も空間も無いのですから」。 あの、最初にあったのはワンネスじゃなくて、私達にとっては、私達の方なのです。 最初というものも実は無いのですが。 わかっていただけますか? 絶対不変の「ワンネス」から、どのようにして私達から経験している多次元宇宙が生まれたのでしょうか? 何のために? どういうプロセスで? 何の目的で? その答えは「私達自身」の方にあります。 そしてその「答え」を付与するのも最終的に私達自身なのです。 あなたにとってはあなたが。 真に実感するものが「答え」です。 わかりにくいでしょう。ですから宇宙の仕組みの方から述べてみましょう。 宇宙にある真の実態が「ワンネス」しかないのなら、私達が経験している世界って何でしょう? 宇宙にある真の実態が「ワンネス」しかないのなら、地球と言う3次元の惑星でこんな人類の一員たる人間としての体験なんてしようもないでしょう。 これを成り立たせている宇宙の仕組みの真髄は実は「錯覚」なのです。 色々な言葉で表現はできると思います「錯覚」、「投影」、「絶対に対する相対」、「反射意識」、その他諸々。 これから先に述べることは前にも例えとして似たようなことを書いたことがあると思います。 いわゆるアナロジー、例え、比喩、類似のもので述べるものではあるのですが、ただすべての記述の中で一番正確でないものであることだけは覚えていて下さい。 人の思考法や概念では理解できないことを、何とか理解の一助となるように無理やり疑似イメージ化して述べているのです。 さて、完全で完璧でそれしかないものを材料に、無限にして永遠の多種多様なものを経験しようとしたら、どういうからくりを用意しますか? 決してできないことをしようとしたら。 例えですが、こんなことをしたのです。 「それ」しかないものを、それ以外のものもあるように知覚するようにするのに、錯覚を利用する。 説明してみましょう。 宇宙の仕組みについて・No3に続く。
2019年02月01日
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それでは、これからシリーズで宇宙の仕組みについて述べていきたいと思います。 ここで言う宇宙とは、いわゆる銀河系とかの3次元の物質的な宇宙だけを指すのでは無く、多次元にまでわたる宇宙構造とその仕組みのすべてを指しています。 まず、宇宙の根源・根本について述べてみましょう。 ここではこの宇宙の根源・根本であるものを「ワンネス」と呼んでおきます。 「一つなるもの」とでも言った意味になりますが、何かしら名称が無いと不便ですので便宜上、そう呼んでおきます。 ここで「ワンネス」と表現している宇宙の根源・根本は様々な名で呼ばれています。 根源、根本、第一原理、それ、神、等々。 この「ワンネス」のことを説明し語ることは、一般的に言って非常に難しいのです。 と、言うのも人の思考や理解には、なかなか収まってくれない代物だからです。 理由はあります。 難しいと言っていますが、実際には難しいのでは無く、私達がそれを理解し実感しないようにして、世界が成り立っているからなのです。 難しいどころか逆のもの。 複雑怪奇どころか、これ以上無い単純なもの(でも単純という言葉すら本当は当てはまらないもの)。 だって宇宙には本当は「それ」しか無いのですから。 宇宙の実態は「それ」しか無いのです。 この理解し難いものを、それでも何とか説明してみましょう。 まずは完全なものを思い浮かべてみて下さい。 完璧なものを思い浮かべてみて下さい。 「ワンネス」とはそういったものでもあるのですが、でも完全とか完璧とか言うと普通、欠けの無いものを想像しませんか? 欠けが無いと言えば、確かに欠けが無いのですが、欠けるということは、欠けるに足る実態がまずあるわけです。 その実態すら無いのです。 「ワンネスとは無のようなものか?」と何人かの別々の人に聞かれました。 「そういう風に思うんだ」という感想と、複数の人に判で押したようにこの同じ質問をされましたので「皆、同じような疑問を抱くんだ」という感想を持ち、とても興味深く感じましたが、答えは「違います」というものです。 「無」の逆です。 「ある」という感覚が強いて表現するなら近いものです。 それも圧倒的な「ある」という感覚。 でも「圧倒的」と言うと「量」があることになるわけです。 その「量」もありません。 「質」も無いです。 「時間」もありません。 「空間」もありません。 「次元」もありません。 「感情」もありません。 「思考」もありません。 「意志」もありません。 「意識」もありません。 「動き」もありません。 まったく分かたれていないのです。 分離が一切ありません。 でも分かれるとか分離とかいうと、その分かれたり分離したりする元があるように思いますが、その分かれる元自体が無いのです。 で、「じゃあ、無のようなものか?」という質問が出てくるのでしょうが、「違います」。 むしろ「逆」です。 ちなみに本当の「無」というものは宇宙に存在しません。 本当の「無」ということがあるのなら、それは究極の錯覚状態のことを指します。 また、「分離の果て」というものも本当はありません。 「分離」というものも本当は宇宙に存在しないのです。 本当に宇宙にある実態は「それ」のみ、「ワンネス」のみなのです。 「ワンネス」とは「絶対」です。 でも普通、何となく「絶対」というと「強固な信念」とか、「それだけで強化したもの」とか、「それだけで純化したもの」とか、「特化したもの」とか、その他そんな風な感じで受け止めませんか? そういうものでは無いのです。 ここで言う「ワンネス」の「絶対」とは、「質」も「量」も「その他のもの」もありません。 「絶対」とは結構、言い得て妙の言葉で、文字通り「対になるものが絶っした(絶無)」の状態なのです。 反対語が「相対」です。 これも言い得て妙の言葉で、私達が経験する宇宙はすべてこの「相対」で成り立っています。 「ワンネス」。 もしかしたら、「高次元超精神生命融合体」のようなものを想像してもらえると、ちょっとだけ「ワンネス」のイメージの理解に近いかも知れませんが、本当に「高次元超精神生命融合体」というものがいたら、それは相対の多次元宇宙の中の一存在に過ぎませんので、根源たる「ワンネス」そのもののことではありえません。 「ワンネス」は、精神でもなければ、融合体でもなく、高次元の存在ですらありません。 次元という幻影を作り出している本体でもあるからです。 「ワンネス」。 存在そのものであり、生命そのものであり、絶対そのものであり、神そのものであるもの。 宇宙の唯一の実態。 すべてのものの本当の正体。 そして私達の究極の正体でもあります。 ちなみに「神」と言っても「ワンネス」は、これをしろとか、あれをするなとか、これが神の意志だとか、神の計画だとか、一切言いません。 「意識」とか、「意志」とか、持っていないです。 よく「神」がこう言ったとか、「神」の意思だとか、「神」の法則だとか言いますが、本当の宇宙の唯一の実在である「神」=「ワンネス」には一切そんなものは無いです。 「ただある」それだけです。 「存在」そのもの。 そういうものです。 ある意味でですが(便宜上の説明ですが)究極の喜びとは、「ワンネス」のことです。 神への回帰、あるいは神人合一とは、「ワンネス」のことです。 ニルバーナ(涅槃・悟り)もまた、本来は「ワンネス」のことです。 他にも「仙道」の方の還虚合道とかも本来「ワンネス」のことです。 ある人が、人とかすべてのものの究極の目的は「ワンネス」になることだというようなことを言っていたのですが、「違います」。 正直、「よくわかってない人だな」と思います。 あの、「ワンネス」ってなるものじゃあないんです。 なるもくそも、最初から「ワンネス」以外のものって無いんです。 人の目的もワンネスになることではありません。 ある個人、一人のある人が自分で決めた人生の目的が、自分の正体がワンネスであることを完全に思い出すということはあり得ます(これも便宜的表現ですが)。 でも人の目的、人類の目的、すべての存在の目的がワンネスになることなんてことは無いです。 なぜなら、逆に私達はワンネスである実態から、わざわざ芸術的なまでに錯覚に錯覚を重ねて今ここで人間としての個人の意識を持って、わざわざ人生を送っているからです。 じゃあ、人生の目的って何でしょう? その人が決めた目的以上のものなんてありません。 その人が人生の目的を変えれば、文字通り人生の目的は変わります。 また、別の表現をさせてもらえれば、人であることがあなたの目的です。 あなたがあなたであることが、人生の目的です。 あなたの人生を生きることが、あなたの目的です。 そういう言い方もできます。 例えばあなたが個人として、自分の究極の正体がワンネスであることを思い出し完全に実感するとします。 そうするとどうなるかと言うと、あなたは消えます。 投影をやめてしまいます。 相対をやめて、絶対に戻ってしまいます。 錯覚をやめます。 「ワンネス」であることを完全に思い出し実感するとは、「ワンネス」そのもののこと。 あなたという幻は消え、ワンネスだけがそこにあることになります。 言っちゃあ、何ですが、私達はわざわざ錯覚を起こし、幻である人間の「私」を生きています。 すべての「人」がです。 「人」どころか、すべてのもの、すべての存在がそうなのです。 人生の目的とは何か? あなた自身が目的です。 そしてあなたが決め選択したことが目的です。 それは「奇跡」と言えば「奇跡」なのですよ。 私が多次元宇宙の探求を経て、何が一番驚嘆したって、この「制限」を作り出すほうが大変なんだという事実です。 例えばですが、この制限だらけのいやになる物質世界をわざわざ作り出すために、どれだけの芸術的な技術の極みとでもいうべきものを駆使して、錯覚に錯覚に錯覚を重ね、投影に投影に投影を重ね、幻影に幻影に幻影を重ねて、わざわざ作り出されているか。 まさに究極の芸術、技術の粋と極み、そんなものでわざわざできているのです制限って。 人間であるって、ある意味、すごいことなんですよ。 あなたがあなたであるって、ある意味、すごいことなんですよ。 あなたが「神」なんです。本当に。 ああ、でも私なりの助言です。 あなた以外の人も「神」なのです。 あなた以外のすべても「神」なのです。 だから軽々しく犯しに行かないで下さいね。 他人を自分に貢ぐための道具にしたり、他人を自分を崇拝させて自分の優越感を感じるための道具にしたり、他人を貶めて自分の価値を感じるための道具にしたり、他人にやらせても自分がやったと盗んだり、その他もろもろ、まったくおすすめしません。 そんな必要が無い人生をおすすめします。 それでも上記のことをどうしてもやるというなら、別に止められませんし、ある意味で止めません。 でも、責任も自分で背負うことになります。 逆もそうです。 自分で自分を犯すような、自分で自分を傷つけるようなことも止めることをおすすめします。 自分自身を不当に傷つけたり、また、不当に搾取される所に自分を置いたり、自分への虐待を許したり。 そういったものも、まったくおすすめしません。 ガラにも無く何か偉そうなことを言っちゃいましたが・・・。 あなたの人生をあなたが彩ってみて下さい。 それは「可能」です。 また、他の人と共同創造で何かをやってみたいなら、それもありです(ただ、相手や仲間は、自分と共同創造するに本当にふさわしい人を選んだ方がよいとは思いますが・・・例えばあくまで一例ですが、搾取もせず、搾取もさせぬ相手を)。 「自由」。 あなたは本来「自由」なのです。 制限だらけの嫌になっちゃうこともあるだろうこの世界で、本当はあなたは「自由」です。 その「自由」の本源は、「あなたは神だ」という紛れもない事実なのです。 あなたが本当に持っているもの、それは幻で制限を作り出し、その自分縛りの中でいかに自分の創造性や独自性を発揮し、自分自身の生きがいを生きるかという、制限というものを自分に課す自由すら自分に駆使した「自分で作ったゲーム」の「主人公」だという事実なのです。 次回は、この唯一の実態である「ワンネス」から、言わば「絶対」からどのようにして「相対」の世界が作られ、多次元世界が作られ、私達の生きる物質世界が作られていったのか、そういった話をしたいと思います。 <宇宙の仕組みについて・No2に続く>
2019年02月01日
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このブログ、1012年に諸々の理由があってアメブロへお引越ししていました。 そして引っ越し先で数年書かれた後、これまた理由があって数年お休みしていました。 そして2018年の暮れに、またまた理由あって再開しました。 同時に今回、こちらでも引っ越し先のアメブロで掲載しているものと同じものをミラーリングブログとして載せようと思い立ちました。 同じものを載せているのでどちらが本家とも言えませんが、そういう体制でやっていこうと思っています。 それで・・・遅ればせながら再開です。 (アメブロのアドレス http://ameblo.jp/channelcosmos/)
2019年02月01日
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少々、突然ですがブログをお引越しいたしました。 この楽天ブログには2005年からお世話になりましたが、かゆい所に手が届くような配慮の多かった多機能なブログだったのですが、最近、その機能が大きく削られました。 何らかの理由で時流に乗り遅れたのか、業界の中で楽天ブログ自体がどうも勢いを失い、当初の熱意は感じられない体制と状態になってしまっていると個人的に感じていました。 また、ブログの引越しを始め、新体制への移行のシンクロメッセージが立て続けに送られていていたような状況が続きましたので、このブログへの名残も惜しく、腰もどこか重たかったのですが、この8月1日を機に完全に引っ越すことを決めました。 このブログは過去ブログとしてのみ残ります。これ移行の新しい記述はすべて新しいブログの方でとなります。 ですので、引き続きこの「セラピストMASAの心の旅日記」の購読を希望される方は、新しいブログへとブックマークの変更をお願いいたします。 移行先はアメブロ(アメーバブログ)で、ブログ名は同じ 『セラピストMASAの心の旅日記』、URLが違ってきます。 下記が新しいURLとなります。 http://ameblo.jp/channelcosmos/ 一説にはこの新しい体制への移行は、多くの人に取って9月から一気に加速するという話しもあります。 この楽天ブログへは今までお世話になった感謝を残し、新しい舞台に立つために、この場を立ち去りたいと思います。 引き続き、新しいブログの方でお会いしましょう!
2012年08月01日
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生命があらゆるものの中で燦然と輝いている。 その本流がほとばしる。 生命の賛歌。 留まることを知らないその流れ。 その人自身の生命の流れに身を任せれば。 必要なあらゆることを体験し、必要なあらゆることをめぐり。 世界でたった一つのその人の生命のドラマをつむぎ出す。 流れ行く生命の流れは、やがて大河となり。 さらにその大河も、生命の大海へと流れ込む。 その大海もまた、その人自身の生命の表現そのものなのだ。 今度は生命の大海を生きる。 生命そのものの表現として。 生命を育み。 世界を育てる。 人生は尊く。 人は貴い。 あまりにも・・・美しく・・・そこにある。
2012年07月28日
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今回は前に質問された方への返答・追伸の3回目、そして最終回を掲載する予定だったのですが、その方の最新のブログを読ませていただきましたら、その後自分自身の経験でセラピー上とてもよい経験をされたようで、そしてこの調子で人生を進めていけば、今後も色々と、そして段々と解放されていくだろうと感じさせていただいたものでしたので、これ以上は必要ないかと思い、その3回目の内容は掲載せずに終わらしたいと思います。 ご質問いただいた方には、今後も私のブログへコメントをいただいてまったくかまわないのですが、ご自分のセラピーに関することを質疑応答を重ねる形では、申し訳ありませんが、先に書かせていただいた通り、事実上の無料セッションみたいになってしまいますので、そういう形では避けたいと思いますので、その旨どうぞよろしくお願いいたします。 人には、自分自身を癒し、自分自身の自己実現をはかる深い力が間違いなくあります。 滞ったまま、そのままでいる人はほとんどいません。 その自分自身の力を信じ歩んでいただければと思います。 世の中にある数々のセラピーのテクニックや他人の言うことに合わせねばならないということはありません(私の言ったこともふくめてです)。 本当に自分に合っていて、本当に自分が解放されることなら、それが正解なのです。 ある意味では、理由付けや、原因探しも必要は無いのです。 本当に自分が晴れ晴れと生きれるのであれば、それが答えそのものです。 一番のセラピーの場とは、ほとんどの場合で「自分の人生の目の前で起きていること」です。 宇宙は必要性をきちんと持ってきてくれます。 どうぞ、自分自身の人生を歩んで行って下さい。 焦る必要もありません。 ある意味では時間の問題です。 一歩、一歩、自分自身の人生を取り戻していくその道のり。 それそのものが、とても尊い得がたい経験であったことに気が付かれる日もやって来るでしょう。 あなた様の気高き人生に、敬意を表します。
2012年07月27日
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朝方、見たビジョン。 私は、白い大理石の上に立っていた。 そこはかつて(自分に取っての)事件があって、穢れた場所であったようだ。 そこは芳香を放つ聖なる香油を持って綺麗に磨かれ、白く輝いていた。 神聖な場所、聖地(サンクチュアリ)となっていた。 経験という場を経て、成長という成果を得て、そこは聖地(サンクチュアリ)となったのだ。 軽く、明るく、神々しく、すがすがしく。 白く、限りなく白く。 本当の清らかさを持って。 そこはあった。 『もういいよ・・・』。 またあの声が響いた。 『もういいよ』って。 ただ、今とこことすべてを受け入れれば、すべてが終わる。 最初のものが、最後になる。 すべてへの納得。 限りなき平坦さ。 整合性。 清められ磨かれ白く輝く大理石。 私は聖地(サンクチュアリ)の上に立っていた。 あとほんのもう少しで、すべてを受け入れ終わる。 神と自分との完全なる和解が成される。 合一。 すべてが終わり、すべてが始まるだろう。 いつか訪れる清らかな朝に・・・。
2012年07月24日
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「返答・追伸・No1」 の続きです。 それでは、質問者の方の最初の質問に戻ります。 「成熟した大人の(人格の)私が その時制限を受けたままで止まっているチャイルドを愛し育てる。というのですが 成熟した大人になれていない自分をみるばかりでどうしていいのかわからなくなってしまいました(いきづまりを感じています)」。 それについてお答えしてみたいと思います。 これはおそらくですが、こういうことが起きています。 まず、あなたの中に成熟した大人の女性の人格の部分はちゃんとあります。 「無いんじゃないか?」とか、「そんなに成長していないから」とか思われるのかも知れませんが、ちゃんとあります。 この成熟した大人の女性の人格の部分が無いと、今までの人生が成り立ってきたはずが無いのです。 ちょっと考えてみて下さい。 そんな難しい話しじゃ無いです。 あなたは、成人して、社会人として働いても来たでしょうし、「この人と共に人生を歩もう」という男性を見つけて(男性の方もあなたにそういう思いを抱いて)ご結婚もなさった。 お子さんも生まれて、新たな家庭を築いた。 それで普通に回っているでしょう? 別に重度の虐待家庭ですとか、完全に崩壊しているすさんだ家庭とかではないでしょう? 社会人としても、まあ普通につつがなくお勤めできたでしょう。 お母さんとしても、まあ普通にお子さんを育てていらっしゃるでしょう。 一般的な良識を持った市井の市民として、まあ普通に暮らしていらっしゃるでしょう。 ここで私が書いていることも、「ああ、そうかもしれないな」くらいの感じで理解なさっているでしょう。 その成熟した大人の女性の人格がちゃんと無いと、こんなことは無理です。 先ほど、「現実の夫と子供を目の前にして、父親と兄弟姉妹の役を振ってしまっている」と書きましたが、あなたは「年がら年中いつも」それをなさっているわけではありません。 母親目線で(母親の意識・人格で)子供と接している時もありますし、夫にもきちんと妻目線(妻の意識。人格)や成人の女目線で、接している時もあります。 正確には、意識の構造とは、そうですね、こう説明しましょうか。 例えば、あなたがある日、夫と接している時、妻部分60%、女部分20%、子供の母親部分10%、自分のインナーチャイルドの部分10%の混合状態で、会っているとしましょう。 妻の人格の部分が一番表に出て、主にそこで夫と接してコミュニケーションをはかっています。 そこであなたの子供のころの惨めさを思い出すような、先ほども述べましたが、今や抽象的なエッセンスのような部分が反応する出来事が起こる。 例えば、夫と子供が仲良く話し始める。 するとこのインナーチャイルドの部分がいきなり、90%MAXで表に出てきて、意識の大半を占めてしまう。 で、・・・私なんかと話すよりも楽しいんだろうなと嫉妬する・・・自分では相手を喜ばす事が出来ないんだ・・・私には価値が無いんだ・・・等の思いを抱き、惨めさを味わい、自分をかまってよ、愛してよ、安心させてよ・・・というような感じになります。 何度か書いていますが、これは多かれ少なかれ、また内容の種類の違いこそあれ、誰にでもあることです。 ただ、あなたが苦しんでいるのは、まあ、自分自身の実感として「その度合いが大き過ぎるだろう」というような感じなのだろうと思います。 しょっちゅう「心の底から突っつかれ続けているようで、休まる間が無い」というような感じなのかも知れません。 それでインナーチャイルドワークとは、その混合状態のままで行なうには、自分でもわけわからなく混乱しやすいので、このことを正していこうとするにしても、とりあえず有効な手段として、成熟した大人の女性の人格の部分とインナーチャイルドの人格の部分を分けて出現さし、そこで交流して、思い込みを正そうという手段なのです。 それで、実際にまず成熟した大人の女性の人格を表に出してみますね。 ところがまずこの時点で、100%成熟した大人の女性の人格にはなりません。 そもそも意識の構造自体が、そういう風にはなっていないのです。 すべての色々な人格部分が自分の側面ですから、ある意味では常に混合状態です(それが普通です)。 ただ、「どの部分の比率が大きく今、前面に出ているのか?」というようなことなのです。 それで、まあ、仮定として、その成熟した大人の女性の人格を80%表に出したとしますね、それで残り20%で他の部分が混ざっている状態と。 それで、もう一人の交流したい相手、インナーチャイルドの部分を表に出します。 便宜的な言い方ですが、意識のMAXを100%とすると、この時、成熟した大人の女性の人格40%、インナーチャイルドの人格40%、残り20%みたいな状態になります。 ともかく交流をはかりたい、成熟した大人の女性の人格と、インナーチャイルドの人格を主に表に出して、交流し始めます。 具体的には、この成熟した大人の女性の人格で、まずはこの子の精神的な母親代わりを努めます。 それでこのインナーチャイルドの人格の部分というのは、ものすごい感情のエネルギーを持っています。 思い込みも激しいです。 それはそうなんですよ、無理ないです。 この場合で言えば、成熟した大人の女性の人格が、この子に「あなたはそのままで、ありのままで、愛される素敵な子よ」とでも言ったとします。 この子にしたら「そんな事実は無かった」という話になります。 この辺、私が書いても本当にそのインナーチャイルドの子の正確な反応を再現することは出来ません。 もう人それぞれの個性なので、さすがにいただいた短い文面で、すべてを推察するのは無理です。 ですから、ありうる一般論として聞いてください。 正確な反応はあなたが一番、ご存知のはずです。 それでここで、質問にあった「成熟した大人になれていない自分をみるばかりでどうしていいのかわからなくなってしまいました(いきづまりを感じています)」という状態になってしまうのですが、この時、おそらくこういうことが起きています。 この交流の時、インナーチャイルドは自分の抱えている不安などを感情のエネルギーや思いや疑念として一気にぶつけて来ます。 すると、その成熟した大人の女性の人格40%、インナーチャイルドの人格40%の所が、インナーチャイルドの部分がぐわっと勝って80%、成熟した大人の女性の人格10%、残り10%みたいな状態になります。 ところが、こちらは成熟した大人の女性の人格を保っているつもりですし、その目線を保っているつもりですから、イメージで言うと、その成熟した大人の女性の人物像の中に、インナーチャイルドの不安感や不信感とかが、下からわいてくるように入って来て中を占拠し、表向き大人の女性像、中身インナーチャイルドの不安感や不信感という、張りぼてみたいな状態になってしまうことがあります。 この時、目線だけは大人の女性の人格を保っているつもりですから、インナーチャイルド側の目線というより、「ああ、私、ダメな人間だ」とか、「未熟な女性だ」とか、「母親失格ね」とか、そんな風な感じになりやすいですが、その不安感は実はインナーチャイルドのものなんです。 それで本物の成熟した大人の女性の人格の方は、もっと高い所から、優しく微笑みながら「あらあら」とでも言っているような状態になります。 これに対処する手はいくつかありますが、一つは仕切りなおして、きちんと成熟した大人の女性の人格を本当に表に出すというもの。 あるいは一時、その張りぼての女性像を出すのをやめて、まずはインナーチャイルドの不安感や言い分をちゃんと感じてあげるとか。 「私には子供がいるのですが 私に似ているところがあると どうしても受け入れられないのです こんな私が 私のチャイルドを受け入れることが出来るのだろうかと 不安になってきます」という質問もいただきました。 それで、色々な角度から言うことが出来るのですが、今回はこういう角度から言ってみたいと思います。 あなたのインナーチャイルドを最初から、あなたは受け入れています。 それは不可分なあなたの一部なんです。 もう最初っから、あなたの大事な心の一部なんです。 なので受け入れらるかどうかって心配する必要は無いのです、完全に受け入れ済みですので。 言っていることはわかるのですが、むしろここでの本質は「インナーチャイルドの思い違いを、どうやって心地良くスムーズに変えてあげる手伝いができるのだろうか?」みたいな方が本筋なのです。 お子さんとの関係は、さすがにそこまで言及するなら、セラピーを受けに来ていただいて、もっと詳しくお話しを聞いて、きちんと見て見ないとわかりませんし、いい加減なことも言えません。 ただ、一般的なことを言わせてもらえばですが、ご自分とインナーチャイルドとの関係性が良好に変わって行けば、お子さんとの関係性も良好に変わって行く可能性が高いものです。 <次回に続きます>
2012年07月23日
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<今回は、前々回いただいた質問への「返答」 をこちらのブログ本文で書かせてもらいましたが、その件について再度質問がありました。それについての返答の追伸をここに書かせていただきたいと思います。他の読者の方々にも参考になる部分は参考になるかも知れないこととしてお読みくださると幸いです> また、長くなってしまいましたので、お時間もいただきましたが、返答をこちらに書かせていただきます。 なお、このこともお伝えしておきたいのですが、私はセラピー料をいただいて、人様へのセラピーを行なっているプロです。 ですので、無料カウンセリングみたいにこんな感じでずっと際限なく応答を続けることは避けたいと思いますので、この件に関しては申し訳ありませんが、今回でこういう形での応答は最後とさせていただきます。 この件でこれ以上の内容や進展を(私というセラピストを通して)はかりたいと言うのでしたら、どうぞ私の元へセラピーを受けに来てください。 よろしくお願いいたします。 今回、「成熟した大人の(人格の)私が その時制限を受けたままで止まっているチャイルドを愛し育てる。というのですが 成熟した大人になれていない自分をみるばかりでどうしていいのかわからなくなってしまいました(いきづまりを感じています)」という主旨の質問をいただきました。 それについて返答させていただきたいと思います。 質問者の方が、私の使っている楽天ブログで同じくブログをお持ちなので、楽天ブログのリンク機能として、その方のブログを拝見することが出来ました。 最新のものを中心に何件か読ませていただきました。 その範疇のことも加味して、お答えさせていただきたいと思います。 私が典型的なここがポイントだなと感じた一例は、こういうものでした。 夫と子供と二人で話しが盛り上がっている・・・そんな時、私なんかと話すよりも楽しいんだろうなと嫉妬する自分がいる・・・自分では相手を喜ばす事が出来ない・・・そしてそれは幼いころ、二人の間に中々入れなかった姉達との関係も感じる・・・私はそこにいたいの?それともいたくないの?ただそれだけのことだった・・・。 これは、セラピストである私から見るとですが、ある程度まではよい線いっているんですけど、そこから先が認識できていないのです。 ここでの本当のポイントは「私はそこにいたいの?それともいたくないの?ただそれだけのことだった」というより、『何で自分が子供目線になっちゃっているのだろう?』なのです 。 詳しく話してみましょう。 一人の成熟した女性でお母さんがいるとします。 夫と子供が仲良く話しをしている。 それを母親として暖かいふんわりした気分で好ましく眺めているでしょうし、本当に夫が生活時間全般にわたって、時間とかをあまりにも子供にかけすぎて、女としての自分がないがしろにされ過ぎているとでも感じたら、子供のいない時に夫に「もう少し私にも女としてかまってくれる時間をくれない?」とでも笑って言ってみればすむ話です。 逆に自分が一人の女として、夫にも男としてきちんとかまってあげられているか?を見てあげてもよい部分もあります。 けど、これは極端な言い方をすれば、現実の夫と子供を目の前にして、自分が子供に(小さな女の子に)なってしまい、夫を父親(や母親)に、子供を自分の兄弟姉妹みたいなポジションに置いてしまっているんです。 前回に詳しく述べましたが、小さな子供に取ってはほとんど神の立場のような、幼少時に無条件の愛情や安心感を与えてくれるべきだった父親から母親から、そのままでは愛されない、常に親の顔色を見て望むように振舞わなければならない、そうしなければ身が危ういというような環境に身を置いていたわけです。 この場合、夫に、表面上はどうあれ、小さな子供から見た、自分にかまってもらって、喜んでもらえて、自分の価値を感じさせてくれて、愛情を与えてくれる存在という「親代わり」をさせてしまっています。 子供には、小さな子供が、親の愛情を取り合って争う「兄弟姉妹の代わり」をさせてしまっています。 ちなみに多かれ少なかれ、誰でもある部分ではあります。 あなたの場合、それが過剰過多になっている上に、敏感に反応する条件反射の部分にもなってしまっています。 そして、このことも重要なので覚えておかれたらよいと思いますが。 その人のある種の出来事や人間関係で(特に基本的な人格が構成される幼児期に多いのですが)構成されたその人の世界を創り上げているビリーフシステム(観念体系・信念体系)は、具象的・具体的なものから、抽象的なものになって、エッセンスとして作用し続けることが多いということです。 おそらく、わかりにくいですね。 わかりやすく例で言ってみましょう。 あなたの例で言うと、上記のことは本当のお父さんやお母さん相手にだけ生じてもよいことなんです。 でも、一度刻まれたビリーフシステム、あるいは条件反射と言ってもよいですが、それは、そういう風には働きません。 ありとあらゆる人間関係や、ありとあらゆる状況に、それを何故か適応していくのです(これはあなただけがそうなのでは無く、すべての人がそうなっています)。 特にそれを「思い起こさせるような人や状況」に、それはそれはとてもよく過剰反応します。 いわゆる投影です。 あなたが自分を苦しめていると感じている部分のビリーフシステムは、おそらくこんな風に働いています。 私はそのままでは愛される価値が無い。 私はその人の役に立っていなくてはならない。 私はその人の望む姿でなけらばならない。 私は愛情をそのままでは与えられない。 で、自分の感情の部分で言うと。 私を見て。 私を特別だと言って。 私が一番だと言って。 私に愛情を注いで。 私をかまって。 等々。 それも例えば一人の成人女性目線というよりは、自分が小さな子供目線で、相手が自分よりも存在が大きくて、大きなものから小さなものへ(親が子にそうするように)庇護と愛情を注いでくれるべきで、それで自分の価値を感じるというような・・・。 先にも述べましたが、本当に実の親との関係でそれが刻まれたなら、実の親にだけそういう反応をしてもよさそうなものですが、ビリーフシステムとはそういう風には働きません。 その感覚を、ありとあらゆる人間関係や出来事に適応していきます。 特に上記の感情を強く揺さぶるような関係の相手や、出来事には。 具体的には、深い愛情が絡んでくる相手や(なぜなら親が深い愛情で絡むはずだった一番最初の相手だったので)、あるいは愛情とかはほとんど絡んでいない相手なのに(例えば会社の上司とか)父親の怒り方に似ている相手とか、出来事ならその小さな子供の惨めな感情を思い起こしたり、揺さぶったりする出来事とかにそれは強く反応します。 これは、今の現実の親とも、関係なく機能しているという所も着目点です。 大変失礼な表現ですが、あなたのご両親がそれぞれご存命なのかもわかりませんが、例えばどちらかが(あるいはご両親とも)亡くなっていても、この自分が惨めな子供のように愛情に飢え乾いて行動している世界観は別に変わらないのです。 あるいはご存命だとしても、おそらく同居もしておらず、ご両親は遠隔地に住み、夫と子供という新しい自分の家族と共に生きているのではないかと思います。 ほとんど日常では、ご両親とは関わりは無いはずです。 今、日常生きている目の前には、そのご両親との関係性はほとんど無いにもかかわらず、小さな子供の時代の惨めさを人生の根底にあるものとして繰り返す。 それは子供の時に、その時の両親との関係で「自分で自分に刻んでしまった世界観」、「自分の人生を形創っているプログラム」を、毎日繰り返して生き続けているということなのです。 なんなら「自分に自分でついた嘘をずっと信じ続けている状態」と言ってもよいです。 子供のころの背景を考えれば、それは本当に無理のない状態なのですが、それでもそれは真実を言えば「自分が自分に押し付けて、これが私の真実だと決めてしまったこと」なのです。 両親に無理やり押し付けられたことを、自分自身の真実の姿だと刷り込んでしまったわけです。 疑いの余地も無いほど。 さて、この自分に居心地の悪い思いをさせているビリーフシステムを解消するには、本当に色々な方法があるわけですが、本当に自分に取って効果のある方法を選ぶことが大切になってきます。 ある人に効いた方法が、別の人にも効くとは限りません。 私もセラピストとしては、いらっしゃったクライアントさんとディスカッションを重ねながら、その方に取って最適な方法を選んで行きます。 例えば過去の書き換えという方法もあります。 クライアントさんを軽いトランス状態(変性意識状態)に導き、潜在意識にアクセスしやすい状況にして、過去を自分で書き換えてもらう。 上記の例なら、「親は自分を愛してくれた」と自分が望んでいたように振舞ってくれた親のビジョンで過去の記憶を書き換えて行くとか。 私個人ではあまり好みの方法ではないのですが。 と言うのも私は自分の世界観として「起こった過去は過去だし、自分の人生の一部だし」という感覚が強い方の人なので。 それをわざわざ変える必要もなく、それを踏まえてどう生きるかが大切だという感じなので。 でも、その私の個性はクライアントさんには、ほとんど関係ありません。 ですのでディスカッションの中で、過去の書き換えの方がこのクライアントさんが望み、効く方法だと感じたら、躊躇無く採用します。 ただ、今までの事例だと過去の書き換えは、どちらかというと過去にあった大きな出来事を(悲劇的なことが多いですが)、今の自分でしっかり踏まえてその時に戻り、選択を変えるというようなケースには一般的にいって効果を発しますが、長々と毎日、何年も続いたことによって刻まれた好ましくないビリーフシステムには、効果が薄いことが多いという印象を持っています。 私の第一感では、質問者の方は、インナーチャイルドワークが向いているタイプとケースなのでは?と感じました。 この方法の特徴は、長々と親との関係で刻まれてしまった「世界観」を、こっちも長々と自分の成熟した大人の女性の人格の部分と、惨めな子供の人格の部分で、長期戦覚悟で交流をはかって、少しづつ変えて行きましょう・・・という方法です。 長くかかるとも限らないのですが、それはケースバイケースによって異なります。 ただ、背景としては、小さな子供が毎日やられ続けて思い込んでしまったことを、今度は自分の大人の成熟した女性の人格の部分が両親の代りになって日々相手をしてあげて、その子の思い違いを正して行ってあげようというプロセスになります。 <非常に長くなってしまい入り切らないので、続編として次回に続きます>
2012年07月22日
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あとほんの少しで自分の中に最後に受け入れ切れていないこと。 あのひらひらと舞う薄い最後のベールの向こう側に至る最後の関門。 完全なる統合。 完璧なる平安。 あの絶対のワンネスの持つ安らぎのこの相対の世界への限りない反映の姿。 でもそれは・・・もう普通に、自然に、ただ自らあるようにある・・・ということだけなのだ。 完全に全面的な自己受容。 そう、最後の最後で受け入れきれていない自分の人生や、自分自身。 世界と自分との調和。 神である自分と人生への許し。 過去も未来も今に集約し。 すべてが一つとなる。 分離無き境地。 ただあるという状態。 存在そのものであること。 その最後の最後ですべてを受け入れ切れていない。 でも・・・日々、少しづつ、少しづつ、すべての中に潜む愛が、私の中に染み透って来ている。 あの無条件の愛が。 すべてを支えている愛が。 すべての幻影の裏側に潜む愛が。 やがて、私の全存在で「わかる」日が来る。 「それ」そのものとなってしまう日が。 優しい微笑と共に。 生きる日が。 もうすぐ・・・あと、ほんの少し・・・。 最後の道のりを・・・歩む。
2012年07月16日
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<今回はブログのコメント欄に寄せられました質問への返答をこちらにて書かせていただきました・質問された方だけでは無く、読んでくださっている別の方々にも参考になる所もあるかも知れない事例としてお読みくださると幸いです> わざわざ再度の書き込みをありがとうございました。 返答に少しお時間をいただきましたが、私なりに誠意を持って答えさせていただきます。 ちょっと長くなってしまってコメント欄に入り切らないので、ブログの方で記述させていただきます。 ご自分で書かれているように(そしてご自分でも色々ご自分の生きにくさについて原因を調べられて来られたのでしょうから)この場合、幼少期の経験が深く影響していると思います。 小さな子供に取っては、親はほとんど神の代わりです。 本来、保護者である親から深い愛情や安心感を与えられて、自分であることに安心感や自己肯定感に包まれるべき時期を、逆に深く存在を否定されたように感じる時期を過ごされてしまったわけです。 それがベースとなって人生観が構築されてしまっているのだろうと思います。 両親に(特にお父様に)受け入れられるために、顔色をうかがうことが当たり前になってしまった。 幼少時からずっとそう生きていくと、多くの場合で人生が生き苦しいものとなります。 自分の意志より、他人の意志を最優先してしまう生き方をしてしまうからです。 自分の感じていることより、他人の感じていることを、自分の生きるための基準として行動してしまいます。 これでは人生はうまくは回りません。 「自分で創造する世界をどうやって作り出すのかお聞きしたい」と書かれていましたが、実は『常に自分の創造する世界を今も創り出している』というのが究極の答えです。 「創造の法則」は常に働いています。 あなたが体験している世界は、今この瞬間もあなたが創り出しています。 ここでの問題は「それが自分に取って心地良いものでは無い現実を創り続けてしまっている」という事実にあります。 書きかけですが、その辺の仕組みは 「ビリーフシステム・No1」 「ビリーフシステム・No2」 「ビリーフシステム・No3」等にも書かせていただきました。 これはちょっと考えていただければおわかりになると思いますが、おそらくは今のあなたのビリーフシステム(信念体系・観念体系)では当たり前なんです。 人生を形作っているプログラムが主に「他人の意志を満足させること」で動いているからです。 あと「自己価値を低く感じる自己否定的な世界観」で動いているからです。 あなたに欠けているのは「健全な意味での自己肯定感」なんです。 それは子供時代は無理のないことでした。 子供時代に与えられた環境から、それ自体は、ほぼ無理がなかったんです。 そしてその時、自分の人生を創り出しているプログラムに「私はこのままでは存在価値が無い」とか「父親の望む通りに振舞わなければ身が危うい」とか、そういう感じのものを刻んでしまったんです。 それはかなり根底に流れている深層心理的な部分に刻み込まれているプログラムになります。 そして対象はおそらく父親だけに留まりません。 今や、自分が生きる上で関わる他人の多くにそれを投影しているのだろうと思われます。 そしてそれが骨格となって、大人になった今でも、その根底に刻まれた反応を繰り返してしまっているというのがあなたの今陥っている状況だと思います。 これは別に珍しいことではありません。 多かれ少なかれ、また内容に違いこそあれ、多くの人がそれに類した状況に陥っているのが、今の世の中の現状です。 これを解消するには色々な方法があることはあるのですが、それは自分に合った方法を取らないと効果が無いか、効果の薄いものとなります。 私が一つ提案したいのは「インナーチャイルドワーク」が効くかも知れないケースだと言うことです。 そのインナーチャイルドワークについて、詳細をここに逐一書いているような余裕はありませんので、それを丁寧に書いてある良著の書籍を一つ紹介しておきます。 このブログで何度か触れているチャネラーのリチャード・ラビンさんのチャネリングするチャネリング存在エクトン(ECTON)の今はもう絶版となってしまっているのですが「エクトン2 ようこそ地球へ」という本に「インナーチャイルドを癒す」という項目で載っています。 本自体はすでに絶版なのですが、アドビ社のアクロバットリーダーという無料配布ソフトで読めるPDFファイルとして、リチャードさんのエクトンのホームページより、無料でまるまる一冊分、電子書籍としてダウンロードして読むことが出来ます。 下記にそのためのアドレスを書いておきます。 リチャードさんのエクトンのホームページ http://www.richardlavin.com/ このURLのトップページから、<GOODS 商品紹介>をクリックしてみて下さい。 出てきた画面の下に方に ECTON1 と ECTON2 (副題・ようこそ地球へ) のそれぞれのPDFファイルがダウンロードできる所があります。 そこから ECTON2 (副題・ようこそ地球へ) をダウンロードしてみて下さい。 それを読むためのアクロバットリーダーという無料ソフトがお使いのパソコンに入っていなければ、その同じ<GOODS 商品紹介>のページの一番下の方に「日本語版はこちらからダウンロードできます」という表示があります、その「こちら」をクリックしてソフトをダウンロードしてみて下さい。 これは絶対に読んでくださいとか、あるいは絶対にインナーチャイルドワークをして下さいと言っているわけではありません。 私の方からできるあくまで一つの提案です。 どうするかはまったく自由にして下さい。 その自由意志を私は完全に尊重します。 あと、もしインナーチャイルドワークをなさる場合は、一つ大事な助言があります。 この作業に他人を関わらさないで下さい。 例えばご自分のブログに逐一、インナーチャイルドワークを行なった経緯と途中経過を書いて、他人の反応をうかがうとかいうことはやめて下さい。 もし記録を取るなら他人の目に触れないようにノートにでも書いて、その内容もブログとかで衆人の目にさらすのはやめて下さい。 また他人の意見がそこに入ってくる可能性が非常にあります。 その他人の目が気にもなると思います。 そういうものに依存して安心しようともすると思います。 そうすると話しがややこしくなり、元の木阿弥の泥沼になる可能性が高くなります。 実際、そこであれやこれや言ってくる人は、表向きはカモフラージュしているかも知れませんが、まず間違いなく「自分もインナーチャイルドがある程度以上癒されておらず問題を抱えている人」です。 「盲人が盲人の手を引く」と言った状況に、まず間違いなくなります。 それはお奨めしません。 ただ、それもどうしてもやるとおっしゃるなら私は止めません。 それも当事者が選んだ選択だからです。 インナーチャイルドワークとは、自分が自分に行なうことです。 あなたの中には十分に成熟した精神的な意味で大人の人格の部分もきちんとあります。 その部分とインナーチャイルドの人格の部分とで交流しながら、人生を息苦しくしている思い込みによる間違いを正していこうという作業です。 私の立場では、まずこれをお奨めします。 それと、本当に自分がしたいこと、喜びを感じることを、小さなことでもよいから積み上げていったら・・・と思います。 前からコメントへの返答としてお伝えしているのですが、ネガティブなことや原因探しにウエイトをかけすぎているように感じます。 もはやポジティブなこと、プラスのことにフォーカスしていった方がよい時期が来ているように感じます。 今はその本当に自分がしたいこと、喜びを感じることすら、自分でわからないというのなら、インナーチャイルドワークをきちんと続けていけば、段々わかってくると思います。 なお、私がどういう世界を創造したいのかという質問もありましたが、この件に関してはこのことにお答えするのはあまり意味がないと思われます。 私が自分が体験するどういう世界を創造したいのか、大体は今までも私のブログに書いていると思いますが、おそらくここで言いたかったことは、自分が苦しんでいる所をかつて抜けたらしい私が、どんな風に創造を行ないたいのか興味があるし、参考になるのかも知れないと思われているのではないかと推察しますが、実際はあなたがこの状況を抜けた時、あなたが創造したい世界は、私が創造したい世界とはだいぶ違うはずです。 それは、そういうものなんです。 これは例えで何でもよいのですが、私が紫陽花の花として咲くのであれば、あなたはバラの花として咲き、別の人は牡丹の花として咲く。 そんな感じのものなんです。 ですからここでフォーカスすべきはご自分が生きたい生き方をスムーズに生きれるようにすることであり、それを阻んでいる自分のビリーフシステムを変えるということなんです。 具体的には、「健全な自己肯定感」を自分の中に育み育てる。 ということです。 上記に書いたようなことを、私の方からのコメントへの返答とさせていただきますね。
2012年07月15日
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この世の自分の部屋で、風に吹かれてユラユラとゆれるレースのカーテンが。 あの最後のベールのゆらめきにも似て。 幻影の向こう側にある「それ」へといざなう。 戦いが終わる。 葛藤が消えていく。 あの赤ん坊の肉体に入った時。 感じた不自由。 限りなき制限。 物質の束縛。 牢獄・・・。 他の生き物の命を食わねば生きていけない矛盾。 肉体のしがらみに縛られた様々な生存への条件。 人の性(さが)と業(ごう)の積み上げられた世の中の有様。 世界のどこかで戦争は終わらず。 世界のどこかで子供がバタバタと飢え渇き死んでいき。 世界のどこかで不条理がこれでもかとまかり通る。 飽くなき権力闘争や影でうごめくものの姿。 美辞麗句で表向きを飾って人心を操り。 どこが底とも見えぬ闇が常に世界に覆いかぶさっているように見えた。 深い狂気が目に見えぬ所から支配している世界。 狂っている世界に・・・見えた。 私が神様ならこんな世界は創らないだろう。 そして自分の心の醜い姿にも辟易(へきえき)していた。 自分すら、この自分が人として生きている不可解な世界と同じく神の失敗作に思えた。 多分、普通の人より、多次元宇宙にアクセスする能力が勝っていた子供の私は、人から見れば天国のような高周波の高次元世界にもアクセスしたし、暗く冷たく重い地獄のような低次元世界にもアクセスをした。 そう、文字通り様々なパラレルワールドにアクセスしたが、それはどちらも私という子供に絶望しかもたらさなかった。 高次元世界はとてつもなくすばらしいが、自分が生きているこの物質世界とのあまりの差と、それを日常では得られないということが、私の中に深い矛盾と亀裂を生み出した。 絶望。 やがて私は、高次元世界にアクセスすることを(おそらく無意識の内に)やめてしまった。 何で?とか、もったいないという人もいるかも知れない。 でも、当時の私にはただただ絶望だった、耐え難い苦痛になってしまった。 逆に低次元世界、それも深い悪意の世界の住人達は、いたいけな子供だった私に対して侵略してきた。 いやだと言っても問答無用で無理やり侵略してきた。 それが私には仮面を剥いだこの世界の裏でうごめいている者達にも見えた。 子供の私に取って人生とは、この毎日24時間の絶え間ない拷問や苦痛に耐える作業になってしまった。 いつかはたどり着くかも知れない、あの暗いトンネルのはるか先に見える針の先のような小さな出口の光りに向かって、永遠とも思える道のりを歩む道程になってしまった。 深い絶望と苦しみの中で、生命力を奪われ、私のものではない狂気の思念を送り込まれ続けながら、ただひたすら耐えた。 人外のものをふくめ、主なところで5~6体。 全体ではおそらく30体以上、こういうのに憑依され、暗く冷たく重たい人生を、それでも希望の光だけは抱えて生きていた子供だった。 逆にこのような過酷な境遇が、私の思いを純粋なものにした。 神はいるのかいないのか? 宇宙はどういう構造をしているのか? 人はどこから来てどこに行くのか? 人の存在価値とは何か? 世界はどうやって創られたのか? この高次元世界や低次元世界とは何か? 私はどうしたらこの闇の者どもから逃れられるのか? この狂気が支配している部分がある世の中を変えるにはどうしたらよいのか? 真実が知りたい! 例えば、今までに読んだ本は少なく見積もっても1万冊以上になる。 それも色々な分野に及んでだ。 本当に世界を知ろうとしたのだ、真実を知ろうとしたのだ。 そんじょそこらの人の真剣度とは違った。 私に取ってそれはサバイバルだった。 私はサバイバー(生存者)だった。 このサバイバーという言葉は心理学の専門用語の方では、生死をさまようような深い虐待状態を生き残った子供にも使われるが、私はそれに近いかそれ以上の状態にあった。 命がかかっており、命以上のものがかかっていた。 本当の本当にそうだった。 もちろん本だけでは無い。 実体験でも色々なことを探った。 やがて様々な人生体験や認識が私を深めていった。 少しづつ、少しづつ、私は実感として、わかり始めた。 それと同時に私も変わっていった。 今ならわかるのだ。 様々なことが。 そしてそれを生きることが出来るのだ。 私自身として。 私はやがて・・・。 不自由すら体験する自由があったことを知った。 制限を自分に課した条件だとわかり始めた。 制限を制限と見なさずいきなり乗り越える方法もあるが、それとは別に制限を制限として使いこなし、制限を利用して制限を越えることも覚えた。 そして一度マスターしたものは、二度目は無かった(あっても本当に又出来るのかの自分に課したテストみたいなものだった)。 もう学んでしまったからだ、また人生に出てくる必要性が無い。 肉体の牢獄に苦しんでいた私は、肉体にすら波動を染み込ますことを覚えた。 やがてこの世もあの世も関係なくなっていった。 肉体もそれ以外の高次元体も関係なくなっていった。 そしてあのすべての背後に潜むワンネスに気が付き始めた。 高次元世界や低次元世界の住人達どう関わるか、その究極の選択権は自分にあることを学んだ。 そもそも彼らはある意味では、自分の無限の心のある領域からのそれぞれの訪問者達であるようなものでもあることも学んだ。 世界を変えたければ、自分を変えることだということも学んだ。 私は自分を愛し始めた。 私は世界を愛し始めた。 世界をどうしようもない狂気が、正体のわからない闇が覆いかぶさっている所と見なすのを止めた。 ある意味ではだが、世界や人々に負っていた責任や負債を手放した。 それぞれの者達がそれぞれの場所で神を表現している冒険者達なのだと見なし始めた。 それでも胸痛むことは痛むし、助けになることは助けになろうと思う。 それでただよいのだということも学んだ。 自分が本当にしたいことの機会は、ただ訪れてくるのだと言うことも学んだ。 自分を失敗作と見なすのも、欠陥品と見なすのも止めた。 私もまた、すべての者達とまったく同じく、神の冒険旅行のある視点なのだ。 私はただ私だった、それでよかったのだ。 どのパラレルワールドを選ぶのかと言う選択権を行使できるのだということも学んだ。 そしてそのパラレルワールドとは、すなわち自分自身でもあるのだということも学んだ。 自分自身が心底信じ感じているものが、体験する世界そのものを創造しているのだということも学んだ。 人はその本源においてまさに神そのものなのだということも学んだ。 こういうことを述べていけば切りが無い。 そしてこの学んだと言うのは、知的に理解したということでは無い。 私は本当に実感として知ったということなのだ。 そしてそれらをほとんど再現し、実行できるということなのだ。 自分で創り出すことが出来るということなのだ。 それらをマスターしたということなのだ。 そしてそれこそが、私が自分に対して選んだ人生だったのだ。 それは豊かな、限りなく豊かな人生だったのだ。 他のすべての人、そべての存在が、それぞれ選んだ神の表現と同じように。 限りなく豊かな人生だったのだ。 それが私だった。 そして、それでよかったのだ。
2012年07月13日
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あと一歩。 いや、あと半歩かもしれない。 あのベールの向こう側。 すべてが反転(逆転・投影)されて出来た世界の源へ。 ここまでたどり着いたのに。 そのあとわずかの距離が、遠く、長い。 それでも日々、深まっていく意識。 日常にすら、押し寄せてくる訪れ。 知っている。 やがて、あの根源に至ってしまうことを。 そう、もうあと半歩まで近づいた。 完全に自分を許しきれた時。 完璧に世界を愛せた時。 神との和解を成し遂げられた時。 今とここと私とを受け入れ切れた時。 私はたどり着き選んだ答えを生きる。 そう、あと半歩の道のり・・・。 希求の旅は、一つの終わりを告げる。
2012年07月11日
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命の庭に花が咲く。 ただあることによって。 もっともふさわしい時期に。 もっともふさわしき花が咲く。 ただ自らあるようにある。 宇宙と共振しながら。 世界との一体感に浸りながら。 生命そのものとして。 ある。 ああ、何と美しき花なことか。 命の庭に咲いた。 世界で一つだけの。 あなたという花は・・・。
2012年07月10日
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最近、寝て起きると必ずといってもよいほど至っている意識。 日々の日常ですら、その終焉に向かって収束していっている。 変わりなく見える日々さえ、背後に潜むものが浮上していく。 個でありながら、全であり、その全すら、一つへと集約していく。 絶対と相対が矛盾無く成立している姿。 神と人が一つとなった姿。 すべての人が、遅かれ早かれそこに至る。 それぞれが、個を表現した自覚ある神へと。 矛盾無く。 分離無く。 ただ、その存在としてある。 人類の夜明けに立ち会っている姿。 夜空の向こうから、美しい一筋の光が射し始める。 夜明けは近い。 私はその目撃者の一人として。 今ここに立っている。
2012年07月08日
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「ビリーフシステム・No1」 、「ビリーフシステム・No2」 の続きです。 さて、前回の続きの話しをしよう。 三例目をあげよう。 三例目はこういうものだ。 ものすごい感情的発露で「明日、ばら色の未来が訪れることを願い、苦しみの無い世界、何もかもが歓喜の世界、それがずっと続くこと」を願ったとしよう。 そこで起こることは。 昨日と変わらず、「砂を噛むような苦渋に満ちた毎日」がずっと続く・・・というものだ。 以下、一例目と二例目とほぼ同文である。 強いて言うなら「神はやはりいないのだな」とか、「やっぱり人生とはこういうものだ」とか、その手の思いに駆られやすいだろう。 これは、多くの人に取ってわかりにくいのかも知れないが、こういうことが起きている。 「あなたはあなたの願った通りの世界で生きていますよ」。 「あなたのプログラム通りに世界は展開しています」。 「あなたのビリーフシステム(人生を形造っているプログラム)は変わっていません」。 「ですので、あなたの体験している現実も変わりません」。 「それがわかるまでこのままです」。 一種の「放置」という提示の仕方なのだ。 「そのまんま」というある意味「究極の教訓」を提示されているのだ。 この一例目、二例目、三例目以外にも色々あり得るが、結局、提示されているものの真髄は同じなのである。 ここでの一つのポイントは「明日、何もかもばら色になれ」とものすごい感情の発露で願ったことにある。 要するに自分を苦しめているビリーフシステムの一瞬での全部取替えを願ったわけだ。 すると宇宙は(それは自分自身でもあるのだが)それに見合った体験を、普通はよこす。 一瞬ですべてを変えるべく、劇的に自分に迫る出来事が起きるわけである。 例外はあるし、すべてがそうなるとも限らなのだが、一般的に言ってそれは「劇薬」をいきなり投与するような現象になりやすい。 実はそれは本当にうまくとらえて扱えば、一日で自分の経験している世界を変えられるような出来事であるのだが(つまりそれをきっかけにして、自分のビリーフシステムを自分で根本から変更することが出来ればなのだが)、普通はそんなことは無理だ・・・だからそこから実感という至宝を得て、その人が体験している世界を変えるには、何年も(場合によっては何十年も)かかるといういささか皮肉な結果となりやすい。 なので、普通は無難な線で行くのなら、「少しづつ自分を変えていく」というのが、まあ、多くの人には、お奨めの方法なのである。 一応、念のためにこれも述べておく。 「明日、何もかもばら色になれ」とものすごい感情の発露で願うことが、本当に自分の道だと感じるのなら、ハートの奥からそう自然にわいてくるのなら、そうしたらよい。 その場合はそれがその人に取っての人生の正解である。 それで上記の3例やそれ以外のことも起きるかもしれないが、それはそれでよい。 あと、必ずしも上記のようになるとも限らない。 確かに本当に明日「何もかもばら色になった」という結果が来る可能性もあることはある。 その場合は大概、例外的なことが起きているのだが、その例外とは何なのかが気になる人もいるだろうから、これも幾例かの事例を後で述べておこう。 さて、話しを戻して、一般的に言って無難な線で行くのなら、「少しづつ自分を変えていく」というのがお奨めだ。 実際、多くの人がこの方法でしか変われない。 また、多くの人が無意識の内に、何だかんだいって採用しているのもこの方法なのだ。 これは言葉を変えて言うと、自分の体験を創り出しているプログラムを少しづつ変更していくということである。 <次回に続きます>
2012年07月02日
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「ビリーフシステム・No1」 の続きです。 さて、前回の続きの話しをしよう。 なぜ、「砂を噛むような苦渋に満ちた毎日」を繰り返すことを選んでしまっている人が、その人のビリーフシステム(信念体系・観念体系)を変えて、体験している現象を変えることが出来ないのか(変えようとはしないのか)。 普通、こういう人は意識の深い所において、「砂を噛むような苦渋に満ちた毎日」を繰り返すことの方が、自分の生存に取って「メリット」があるという判断をしている。 そういう「条件反射」を自分に課してしまっている。 そしてその自分で実行しているプログラム通りに、「砂を噛むような苦渋に満ちた毎日」を創造し続けている。 機械なら、ちゃらっとプログラムを書き換えれば済む話しだ。 (書き換えが可能な機械で、なおかつ書き換える内容のプログラムが手元にあるようだったらの話しだが)。 普通は人間はそう簡単にはいかない。 なぜなら人間のその人が体験している世界を創り上げているプログラムは、思考・感情・意志・肉体・その他諸々、そういうものの相乗効果で成り立っているからだ。 一言で言うのなら「世界観」とでも言ったものになるのだが、世間一般で言っている「世界観」は知的理解の意味合いが強いと思う。 しかし、ビリーフシステムとは、とても砕いた言い方をすると、その人の「実感」「体感」で出来ている。 これを人は普通「現実」と呼んでいる。 その人に取って間違いなく世界は「砂を噛むような苦渋に満ちた毎日」のことを指しているのだ。 それこそがその人が味わっている「現実」なのだ。 その人に取って、そこに疑いの余地は無い。 間違いなく、その人は「砂を噛むような苦渋に満ちた毎日」を味わい続けているからだ。 鍵となっているのは主に「感情」である。 人間に取っては、「感情的理解」の方が真実なのだ。 そして感情とは、その人の持つ信念・観念に対する条件反射的反応で生じるものなのだ。 「砂を噛むような苦渋に満ちた毎日が続く」人が、自分のビリーフシステムを根本から変え、自分が体験している現実を変えることは、例外はあるのだが普通はそれなりに大変だ。 と、言うのもこういうことが起こるからだ。 原理的には実に簡単なんである。 それをすっと実行できれば、上記の(良い意味での)例外の人になる。 自分のビリーフシステム(信念体系・観念体系)を変え、条件反射を変え、感情的反応を変え、「世界はこういうものだ」という「世界観」を根本から変え、世界を創造しているプログラムを変え、自分自身の実感を変えれば、「そうなる」。 例えば、「宇宙は安全で、安らぎに満ちた場所です」というように。 本当に心の底から実感すれば、そうなっている。 が・・・こういう人は、その多くが「その状況が先に訪れてくれたら、そしてそれがずっと続いてくれたら、信じる」という風に考える。 皮肉だが、これは「プログラムをまったく変えずに、プログラムを実行した結果を変えてくれ」と言っているのに等しい。 確かに非常に例外的なこともありうるのだが、まあ、まずそうはならない。 先に変えなくてはならないのは、プログラムの方なのだ。 違うプログラムを実行すれば、結果も変わる。 そうすればいわゆるその人が経験している「現実」も変わる。 こういう状況の人の多くが、明日、ばら色の未来が訪れることを願う。 苦しみの無い世界、何もかもが歓喜の世界、それがずっと続くことを。 心情としては深く理解できる。 まったくそういうことが無いとは言えない、可能性としてあることはあると言える、しかし、確率的には非常に低い。 なぜなら、自分が変わっていないのに、世界が変わるということは基本的には無いからだ。 自分が体感している世界を創り上げている幻影のプログラムのプログラマーは自分なので。 こういう人はある意味で、自分の責任を回避してしまっている、一種の自己逃避の状態にある。 究極の自分の正体が「神」であること、世界の創造者は自分であることから、逃げ出そうとしてしまっている。 しかし・・・酷に聞こえるかもしれないが、世界の果てまで逃げても自分自身からは逃れられないし、時の彼方まで逃れても自分自身からは逃れられない。 その人自身が向かい合うべきは、まずは自分で自分を縛り付けてしまっている恐怖の幻影であるし、さらに大切な向かい合うべきものは、真実の自分の喜びなのだ。 もっともフォーカスすべきは「真実の自分の喜び」なのである。 世界の創造主として創り上げた世界を変えるのは、自分の責任なのだ。 創り変えたかったらの話しだが。 さて、ものすごい感情的発露で「明日、ばら色の未来が訪れることを願い、苦しみの無い世界、何もかもが歓喜の世界、それがずっと続くこと」を願ったとしよう。 起こるかもかも知れないことを三例だけあげよう(特にスピリチャルな感性や世界観が濃い人に起こりやすい事例で)。 一例目。 ドーンと光りの固まりようなものが降ってきて、光りの柱のようなものとつながり、多次元的なエクスタシーのようなものを感じる。 それがしばらく続くが、やがて消えてしまう。 その感覚があまりにもすばらしかったので、それが続くことを願うが何年も起こらない。 これに類似した経験をした多くの人が、ここで深い絶望と悲しみを抱く。 ここでネガティブなケースだと、自殺したり、麻薬や覚せい剤に頼って落ちていったり、あるいは怪しげな宗教団体行脚にあけくれたり、その他、自虐的で自滅的な行動に走る。 そうでなかった場合、あるいは道をそれても何とか立て直した場合。 その間に、人生色々あって、数年後(数十年後)に、まったく同じことではないが、似たような深い神秘体験が起こって、それが小出しに続く。 また、人生で色々ある。 自分が変わっていたのを感じている。 しかし、どこにたどり着くのかよくわからないが、深い喜びにあふれている。 まだまだ人生は続く・・・。 てな、感じになる。 さて、これが何かと言うと、ある意味でだが「未来を先取り」しているのだ。 しかし、それを自分自身の全存在で体感し、表現する土台も素地も出来ていないのである。 ある職人が若いころ自分で仕上げた仕事1000件の内、奇跡的に出来た至上の出来の1件のような状態の出来事なのだ。 それが100件の内の1件、10件の内の1件、やがてやる仕事すべてが至上の出来、となるまで自分を磨き上げたという話しに似ている。 しかし、最初のものと最後のものは、出来は共にすばらしくとも中身が違っている。 最初の奇跡のものは「純粋」な出来だろう。 しかし最後のものは何か「深み」を感じる出来だろう。 「人生」を「生きた」というエッセンスがそこに凝縮されているからだ。 最初の神秘体験と、最後の神秘体験は同じものでは無い。 それこそが・・・「人生を生きる」ということの価値なのだ。 個性を持ったその人の花開いた姿。 様々な花の中のその一輪の花の美しさ。 その人がたどり着いた場所。 人生の果実。 その実りを見てるのだ。 二例目をあげよう。 ものすごい感情的発露で「明日、ばら色の未来が訪れることを願い、苦しみの無い世界、何もかもが歓喜の世界、それがずっと続くこと」を願った結果。 突然、何もかもを失う。 何が起こったのかもよくわからず、人間関係、経済、社会的地位、恋愛や夫婦関係、その他。 個人差はあるが、それなりにまたは全部失う。 裸一貫で、ゼロから人生を生きなければならなくなる。 もうわけがわからない。 宇宙から罰を受けたのかと思ったり、暗黒のエネルギーに捕まったのかと思ったり、何もかもが嘘だったのかと思ったり、自分は人生の落伍者なんだと思ったり、その他色々思う。 ここでネガティブなケースだと、先ほど述べたこととそんなに変わらず、自殺したり、麻薬や覚せい剤に頼って落ちていったり、あるいは怪しげな宗教団体行脚にあけくれたり、その他、自虐的で自滅的な行動に走る。 そうでなかった場合、あるいは道をそれても何とか立て直した場合。 ともかくゼロから自分の足で立ち上がる。 その内、また別の知り合いや友人や、転々とするかもしれないが仕事や、別の恋人や、没頭できる趣味や、別の生きる場所が見つかったりし出す。 前より地に足が着いて、それにバランスが取れた生き方をしてることに気が付く。 やがて、前の恐怖はなんだったんだろう? もう、大概のことは怖くないし、「人生何とかなるもんだ」と自信も付く。 やがて、本当に自分の生きたい生き方を見つけて、そちらにシフトしていったり。 あるいはここで深い継続する神秘体験にいきなり遭遇したりする。 まだ、未来はわからないけど、喜びの人生を歩むのだと言うことはわかっている。 人生が続く・・・。 てな、感じになる。 こちらで起こっていることは、こういうことだ。 「あなたの創り出している恐怖はあなたの創造物なのですよ。あなたは本当はゼロからすべてを創り出すことができる存在なんです。どんなマイナスの状況からでも建て直しは可能です。その能力を自覚し発揮できるようにしましょう。神である自分自身を取り戻しましょう。そしてそれを自覚した時、いかなる世界でも創り出せるでしょう」。 これ、意外に聞こえるかも知れないけれども、一例目と二例目の起きていることの真髄は同じなのだ。 宇宙は(すなわち自分は)「明日、ばら色の未来が訪れることを願い、苦しみの無い世界、何もかもが歓喜の世界、それがずっと続くこと」という願い(希望)をかなえるために、必要なことをしたのだ。 別の言い方をすると、「砂を噛むような苦渋に満ちた毎日」を創り上げているビリーフシステム、そのプログラムをプログラマーであるその自身人が書き換えるために必要なこと、そのための出来事や環境を持ってきたのだ。 ここ、多くの人が勘違いしやすいのだが、「明日、バラ色の人生が訪れろ」と願った場合、「明日、バラ色の人生が訪れる」のでは無く、「明日、バラ色の人生が訪れる」ためにその人が「変えなければならないこと」を提示し、推し進めることが訪れてくる。 ちなみに宇宙的視点からは、善悪も無く、優劣も無く、ポジティブ(肯定的)もネガティブ(否定的)も無い。 ただ「必要」だけが届けられる。 より正確に言うなら宇宙が持っているのは、ただ「存在」だけなのだ。 これ一例目も二例目も起こっていることは、宇宙的視点からは、ほぼ同じなのだ。 おわかりになっていただけるだろうか? 「ビリーフシステム・No3」 に続きます>
2012年06月29日
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最後の最後ではすべてが整合してしまう。 いや、むしろすべてが整合していたことを知るという表現の方が近い。 でも、それをこの世の人の概念や言葉で説明しようとすると、どうしても矛盾になってしまうと思う。 人の型枠を越えて成り立っているもの。 でも、それはあまりにぶっ飛んでいるからとか、あまりに複雑だからとかだからというわけでは無く。 シンプルで、あまりにシンプルであるにも関わらず(シンプルであるがゆえにか)、一見矛盾するものがちゃんと両立している状態を何と言えばいいのだろう。 両立どころか、すべてが存在し、そのすべてが一つに集約していることを(その一つの無限の投影であることを)人の枠内でとらえて、自分の人生の自己実現の仕方に当てはめることは、普通は難しいことなのかも知れない。 それを実感すればするほど、言葉では語れなくなっていく。 例えば、「存在そのものであること」、「あるがままであること」、「ありのままのあなたであること」、「自然に普通に」と言う。 ある種の人達はこれらのことを「この砂を噛むような苦渋に満ちた毎日が続くこと」がずっと続くということかと思う。 いや、そういうことを言っているのではない。 例えばだが、ここに大地から顔を出した小さな芽があるとして、普通は永遠にそのままということは無い。 日光や水や気候や、そういうものが普通にそろっていれば、黙っていても育っていく。 いつかは大樹になるだろう。 どちらかというと、「自然に」等々とはそういうことを言っている。 「でも」と言うかも知れない。 「育たない芽もあるだろう」。 ある意味では、その通りだ。 でも、自己実現の真髄として、ここでもまた同じことを告げよう。 「存在そのものであること」、「あるがままであること」、「ありのままのあなたであること」、「自然に普通に」。 それが望み通りの人生を送る最も手っ取り早い手段だと。 どういうことだろうか? 究極での話しをしよう。 宇宙の創られ方の究極での話しだ。 多くの人が見失い、知ることが出来ず、他の原理で動いていると思い込み、陥っているものを。 その「砂を噛むような苦渋に満ちた毎日」を創り上げているのは、『その人自身の宇宙の創造の力』なのだ。 実に多次元宇宙にまたがる宇宙すべてを本人が創っているその力を使って、何とまあ、その人はその人自身が陥っていると思っている「砂を噛むような苦渋に満ちた毎日」を創り上げているのだ。 それがずっと続いていると言うのなら(少なくとも何年も続いていると言うのなら・・・そしてそれが一生続きそうだと言うのなら)それは、わざわざほぼ同じ状況をずっとリピートして(繰り返して)創造し続けているのである。 実に実に、かたくなで大変なことをわざわざしているのである。 そこでは、あの銀河系を創り上げた力と何らかわらない力が働いている。 宇宙の創造の力が。 それをふるっているのは誰か? 実はその人自身なのだ。 その人は、その人自身が描いた設計図通りの状況を味わっているのだ。 生まれる前とかに書いた(魂とかの)設計図通りなのだろうか? そうとも言えなくも無い部分もあるのだが、これも究極の答えを言うと、実は今この瞬間、その人が描いている設計図通りの状況をその人は味わっている。 では、その設計図とは何なのだろうか? 専門用語で言うとビリーフシステム(信念体系・観念体系)だ。 もっと砕いた言い方をするとそれは「世界はこれこれこういうものだ」というその人が思い込み同意している「その人に取っての世界の姿」なのだ。 もっとわかりやすく説明してみよう。 一つの実験をしてみよう。 ここにレモンがあるとして、それを丸かじりすることを想像してみて欲しい。 レモン一個では実感がわかなかったら、レモンティーを頼んで、それに付いている輪切りのレモンを口の中に入れて、シャキシャキ噛んでいるとありありと想像して、感じてもらいたい。 どうなるだろうか? 普通は唾液がわいてくるだろう。 すっぱさを感じさえする。 口さえすぼむ。 実際にはレモンは無い。 でも、今あなたは過去に経験した「レモンのすっぱさの記憶」にアクセスし、それを今のこととして体験して、身体すら反応する状況を創り上げた。 本当に奇妙に聞こえるかも知れないが、このありもしない「レモンのすっぱさ」を感じる仕組みと、その人の「砂を噛むような苦渋に満ちた毎日」を味わっている仕組みはほとんど同じものなのだ。 ビリーフシステムとは、ほとんどが「条件反射」で作られている。 それは「自動世界創造装置」みたいなものだ。 「砂を噛むような苦渋に満ちた毎日」が続くということは、その人の「世界はこういうものだ」という信念がまったく変わらず、毎日毎日、その宇宙を丸ごと創り出している力を使って、同じ世界を創造し続けているということなのだ。 それを変えるにはどうしたよいのだろうか? まず、ビリーフシステムのすべてを変える必要は無いということ。 逆に好ましい反応をしている条件反射も多々あるのだ。 問題なのは、その人自身に取って好ましくない反応をして、世界を創り上げているものの方だ。 言葉を変えて言うと「自動世界創造装置」を動かしているプログラムの内容を書き換える必要があるということなのだ。 だが、機械的なプログラムと違ってこちらが厄介なのは、これが人という生き物の話しで、生存や感情といったものと結びついているということなのだ。 まず、原理的なことを説明してみよう。 この例で言う「砂を噛むような苦渋に満ちた毎日」を経験している人は、その深層心理において普通は「砂を噛むような苦渋に満ちた毎日」を送ることがその人に取って「メリットがある」という判断をして、それをプログラムとして実行し続けている。 信じられないような話しだが、例外中の例外みたいなものを除いて、本当にそうなっている。 なぜそうなってしまっているかと言うと、いくつか理由が考えられるが、それらをあげてみよう。 一つ目。 「それしか知らない」というもの。 今までそれしか知らなければ、それ以外の未知の状況に出ることは、多くの人に取って意識の深い所では、怖いことなのだ。 未知の新しい世界で、何が起こるのかわからないからだ。 例え「砂を噛むような苦渋に満ちた毎日」でも、それはすでに十分知っている状況で、そういう意味では安全なのである。 でも、真実を言えば、その「砂を噛むような苦渋に満ちた毎日」も、色々な意味で永遠には続かない。 ここでややこしいことが起こるのだが、徹底的に「砂を噛むような苦渋に満ちた毎日」にその人が意識の深い所でしがみついた結果何が起こるかというと、結構、外部の環境は変わっているのに、その「砂を噛むような苦渋に満ちた毎日」は、何だかんだ変わらずに続くと言う変なことが起こる。 例えば、リストラで職を失ったが、新しく付いた職場が、また別の形で嫌で、同じような「砂を噛むような苦渋に満ちた毎日」を送っているとか・・・5回転職しても全部そうだったとか。 そして最終的には「人生なんてこんなものさ」と、うそぶく。 それで人生の真理を悟った気になる。 「人生とは残酷な神が支配する世界に住むこと」だとか。 まだましな方で「人生とは重たい荷物を死ぬまで背負って、変わりの無い毎日を過ごすこと」だとか。 この人は死ぬまで気が付かない(死後すら気が付かないかもしれない)。 まさに、自分の願った通りに「砂を噛むような苦渋に満ちた毎日」の人生を歩んだことを。 それを自分で「選択」してしまったということを。 これは本当はとても変なことなのだ。 逆の意味で奇跡を演じているのである。 ここまでその状況を創り出すことが出来るということ自体、もう神の創造力を発揮して奇跡を創り出しているということにも気が付かない。 <「ビリーフシステム・No2」 に続きます>
2012年06月27日
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深い深い意識の中で。 分離の幻影が消えていく。 すべての葛藤や喧騒が。 内なるすべての争いが。 日に溶かされる淡雪のように。 消滅していく。 外なる世界が、いかに内なる世界を反映していようと。 その反映さえ、幻影と知る。 幻影の海を泳ぎ切る。 一つに集約していく世界。 幻影からの目覚め。 人類全体ですら数百万年もの間、集団でこの幻影の海を泳いでいたのだ。 ごく少数の異なる選択をした人々を除いて。 それは善でも悪でも無い。 優れている劣っているでも無い。 それは体験だ。 貴重な体験を自らに課し、種族ごと選択していたのだ。 分離の海を泳ぎ、制限の枷(かせ)の中であがくことで始めて得られる体験。 でも・・・目覚めることを選べば、大きく道が開かれているこの時代。 それは選択と向かい合い方次第なのだ。 ただ「それ」なのだ。 そこに「あれこれ」はいらない。 その状態の時、完全な「生命」だけが瞬く。 絶対である「存在」そのものがそこにある。 一つの終局。 「答え」を生きる。 幻影の海を泳ぎ切ってたどり着くその場所で・・・。
2012年06月24日
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心の庭に、青い海が広がっていた。 さわやかな風が吹く。 緑の丘。 半透明の白い家が建ち。 明るい日差しの中、白いカーテンが舞う。 ここは一つの楽園。 私の心の風景。 でも、それはいつかこの世界でも形になること。 淡い光の粒が降り注ぐ。 すべてから愛が届けられる。 自分自身が愛そのものであることを自覚した時に。 分離の幻想は消える。 神も人も、世界も自分も、分け隔て無く一つとなる。 心のままに。 生きる。 愛として。 生きる。 そう。 大丈夫。 大丈夫・・・。
2012年06月23日
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今の感覚を感じるままに言うと、さなぎの背にひびが入り、中から羽化の時らしい。 少しづつ、出来事が起こっている。 一つ一つ片付けていく。 何か、用意を整えているような感じもある。 ここ10日あまり、風邪を引き込み、かなりダウン気味であった。 最近の私では珍しいことだ。 力を抜かざるを得なかった。 すると色々なものが浮かび上がっては、消えていった。 少しづつ、状況が変わっていっている。 きっと、羽化し切ればまったく新しいステージ(舞台)が待っている。 私は何になるのだろう? よくはわからない。 でも・・・長い間心の奥底で望んできたものが形になった何かを生きるだろう。 羽化はすでに始まっている。 もう、止めることは出来ない。 もうすぐ私は・・・さなぎの殻を脱ぎ捨てる。 世界への感謝と共に。 新たな命が躍り出る。
2012年06月20日
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今朝方、寝床の中でまた振動していた。 何度か書いているが、こういう時、身体が暖かくなり、細かく振動し、その内、肉体を感じなくなる。 意識が拡大し、さらに細かく振動し、周波数が高まり、多角形がさらに角を増やしていくと円に近づいていくように、振動というより一つの意識へと近づいていく。 この状態だとわかる。 これを極限まで高めてしまえば、臨界点を越えて、至ってしまうことを。 それは人であるフォーマットすら保てないということなのだが、確かにそういう領域はある。 それは「根源」なのだ。 すべての原点「ワンネス」。 すべての次元を超えた「存在」そのものである場所。 そこまで至っていないにせよ、ここからでも世界を見渡せばわかる。 そんな複雑な話しでは無いのだ。 世界は、本当にそれを体験している本人に取っては、リアルに感じている「幻影」なのだと。 「分離の幻想」。 それで世界は保たれているのだと。 その人自身は、その世界の「創造主」であり、その世界を感じている「体験者」であり、その体験から感情や理解や意識の拡大を得る「収穫者」なのだと。 世界は、原理的には、本当にシンプルにシンプルに創られている。 もう、目覚めてもよいころだ。 あなたが「神」そのものであることに・・・。
2012年06月13日
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例えで言うと今まで、位置が良くわからない鍵穴に、手に持っている鍵をいかに鍵穴に差し込むかを迷っていた感がある。 でも、実は今の局面は、鍵を鍵穴に差し込んだけど、それを回してはいなかった・・・というような感じらしい。 この場合の鍵を回すとは、言葉にするのが難しいが、一種の「意志と共にある推進力」のようなものなのだ。 なんていうのだろう・・・ああ、言葉にできない。 それはある種の「選択」でもあるのだ。 同時に、目に見える次元と目に見えない次元のマッチングでもある。 これは、この世における「一致」の作業なのだ。 目に見える世界と目に見えない世界の・・・。 鍵穴に差し込まれた鍵を回す。 そう・・・ドアは開く。 開く・・・。
2012年06月09日
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夜中に目が覚めた。 「ああ、これなんだ」と思った。 そこには「平安」があった。 あの「無条件の愛」があった。 そんなに難しいことでは無いのだ。 いや、そこで感じたのは「すでに私達は答えを生きている」という感覚だった。 すべてが整合していた。 それをそうは見えないように、そうは感じないように、意識を分断しているのが、通常の私達の生き方なのだ。 ある意味では、答えを見出そうと言うより、その錯覚・幻影の方を何とかすべきなのだ。 でも、それは日常で「これはすべて幻影なんだ」と自分に知的な理解を押し付け続けることでは無いし(それはそれで役に立つかも知れないが)、錯覚・幻影の方に意識をフォーカスしてそれと格闘することでも無い。 それは「それ」そのものであるという真実の実感なのだ。 ある意味では、こんなことを思いもしないで、ただ「それ」その状態なのだ。 実際、本当に肉体の振動数さえ変わり、時空間における立ち位置さえ、変わってくるのである。 今、自分の置かれている状況も、課題と言えば課題も、その瞬間はわかった。 でも、「日常の意識に戻れば、また忘れてしまうかも知れない」とも思った。 毎瞬、毎瞬、ギリシャ神話の忘却の「レテの河の水」を飲んでいるようなものだ。 それでも日々、その恒久的な場所へ近づいている。 ある臨界点を越えたら、もはや引き返すことは無いことも、わかっている。 水が蒸発して、水蒸気になったら、それは液体から気体への昇華(アセンション)だ。 同じようなことが自分の身に起きている。 でも、それは、ちまたで言われているような、仰々しいことでも、華々しいものでも、特別なことでも無く。 ただ、ただ、自然で、普通で、当たり前で、あるがままで、ありのままで、そのものであるだけのことなのだ。 根源の本来の姿に戻っていくような・・・。 ただ「それ」なのだ、それだけのことなのだ、本当は。
2012年06月06日
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色々なものが涙となって流れていく。 後に残るのは優しさ。 静かに静かに。 すべてが満たされていく。 ひらひらと舞う薄いベール。 分離の幻影に終止符を打つ。 思い出された神。 自分自身の姿。
2012年06月05日
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すべてが流れていく。 優しく暖かく。 自然に。 常にあったもの。 忘れられても、忘れられても、常に寄り添い続けたもの。 ただあるという平安。 人々の根源。 すべての存在の根源。 いざなう声。 自分自身の真実への目覚め。 存在そのものであるということを持って。 つぼみは花開く・・・。
2012年06月04日
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『もういいよ』。 今朝方、寝床の中で急に告げられた言葉。 もちろんこの世の声ではないけれど。 ただ、『もういいよ』とだけ。 すっと身体中の力が抜けた。 わかっているつもりで、わかっていないのかも知れない。 できている方のつもりで、できていないのかも知れない。 あるいはこういう意味合いだと思っているのとは、違う意味合いなのかも知れない。 真意はわからないけど、声はただ告げる。 『もういいよ』って。
2012年06月02日
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「祖母の訃報」の続きのお話しです。 祖母の葬儀に参列して来た。 久しぶりに一同にそろう親類縁者達。 中々見ない顔の方々は、お年を召していたり、あるいは大きくなっていたり、初めて奥様にお会いしたり、始めて会う祖母から見ればひ孫の世代に当たる子供達もいた。 中々長生きの家系なのか、20年ほど前に参列して以来の親族のお葬式となった。 90歳を越える戦争を知る世代の祖母の妹達二人も参列。 時々、赤く目を腫らしたり、涙ぐむ人や場面があっても、全体的に明るく、にぎやかで、健やかな葬儀だったと思う。 背景にあったのは「大往生だったね、おばあちゃん」という感情だった。 皆様、年を取った方々は、それなりの色々な酸いも甘いも噛み締めた人生経験を経て得たものを。 若い方々は、その純粋な感性を。 小さな子供達は率直さとかわいらしさを。 それぞれ持ち寄って、とてもよい感じの葬儀を成していたと思う。 祖母も主役の参加者だ。 最後のお棺を閉じる時、最後に祖母の顔を見たがったのは90歳を越える下の妹だった。 杖をつきながら近寄ってくるその姿を見て察して、お棺のふたを閉じようとする係員を私が「ちょっとだけ待ってください」と言って止めた。 気丈に振舞っていた私の母は、お棺が閉じられた時に始めて泣いた。 祖母の長男である叔父は、最後の皆様への挨拶の時に、あふれ出る思いに震えて声を詰まらせた。 私自身は、火葬場で焼きあがったおばあちゃんのお骨を見た時に、さすがに切なかった。 でもこの葬儀で私がずっと感じていたのは、生者も死者も無い、この世もあの世も境目の無い、ただそこにあるのは絶え間なく続く生命だけ。 思いと感情の旅だけ。 という感覚だった。 ああ、そう、神が神を旅しているのだ。 無限の広さを。 永遠の旅路を。 「ありがとう」。 そう・・・最後に残るのは「ありがとう」という言葉だけ。
2012年06月01日
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先日の朝方に感じたビジョン。 弓道の的に、狙いを定めて弓を引き、矢を放とうとしている。 でも、すでにもう的のド真ん中にすでに矢は当たって、突き刺さっている。 すでに矢は的の中心に当たっている。 そのことに気が付かない、見えない。 なのに一生懸命、的の中心に当てようとしている。 そんな感じのビジョン・・・。
2012年06月01日
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「生命」が輝き、「生命」がまたたく。 自分自身があふれ出る 「生命」であり、その 「生命」の奔流でもある。 健全な自己愛は、健全な他人への愛の姿でもあり、健全な世界への愛の形でもある。 自分という「生命」そのものであること。 さえぎること無い「自分という生命」の流れそのものであること。 その「喜び」を知っているだろうか。 その「幸せ」を知っているだろうか。 ただ自らあるだけで 「生命」そのものを生きる。 すべてがよどみ無く流れていく。 永遠に付き添われ、無限に抱きしめられながら。 ただ、「喜び」を知る。 ただ、「幸せ」を知る。 「生命」そのものの発露の・・・姿を知る。
2012年05月30日
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ふとした時。 あふれ出る愛。 包まれている優しさ。 無限と永遠を知るとはこういうことかと思う。 いつもこの状態の中にいるわけではないけれど。 それでも訪れは増えている。 浸ろうと思えば、いつでも浸れるような・・・。 ああ、もうすぐだ。 本当にもうすぐだ。 すべてが集約してしまうことが。 分離なき人生。 私であることと宇宙であることが一つである人生が。 完全に訪れる。 その約束の時まで。 あとわずか・・・。
2012年05月28日
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世界を変えることは、本当はそんなに難しいことでは無い。 実に優しく、軽やかに、暖かく、健やかに、世界を変えることはできる。 その真髄は自分が変わることだ。 自分と言う存在が変わってしまえば、自分の焦点を当てて体験しているパラレルワールドの選択もまた、変わらざるをえない。 自分に優しくあって欲しい。 自分自身そのものになってもらいたい。 限りなく自己受容をしてみて欲しい。 そうしたら・・・世界は最もあなたにふさわしい場所へと流れていく。 あなたが自分を受け止めれば、受け止めるほど。 あなたが自分という存在に安らげば安らぐほど。 世界はあなたにふさわしい世界へと変わっていき、留まる所を知らない。 あなたが矛盾無く、葛藤無く、分離無く、あなたであること以外に、本当は必要なものは何も無いのだ。 あなたと世界は一つのものなのだから。 まぎれも無く・・・そう、まぎれも無く。 それは、やさしいことなのだ。
2012年05月27日
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私の母方の祖母が亡くなったと訃報が届いた。 その日の朝、6時ころに目が覚めて、そのまま寝れなくなった。 その朝は(こういう表現は本当は使いたくないが)霊的な体験があるわけでもなく、例えばよく私が経験する「振動を始めて、身体を感じなくなり、温感に包まれ、意識も拡大し、一体感に至る」というようなこともなかった。 別の次元で別の存在に会ったという感覚も明確には無かった。 何かおかしな気分だった。 落ち着かないような、でもネガティブというわけでもなく、ある種の爽快感のようなものもあり、わけがわからなかった。 その後、訃報が届いた。 『今朝方、おばあちゃんが亡くなった』と。 「ああ、そういうことだったのか」と思った。 感じてみた限りでは、割とすっと上がったようだ。自分が落ち着くべき次元の場所にもう収まってしまったようだった。 祖母はもう90歳を越えていたから、大往生の方なのだが、痴呆が進みもう何年も専門の施設に入って暮らしていた。 老衰で施設の中でそのまま亡くなったそうだ。 もう私も誰だかわからなくなっていて『あんたはどなたさんですか?』とか、会うたびに毎回言われたりしたのだが「孫、孫」と毎度答えるのも、お定まりの行事になっていた。 施設では結構、人気者だったらしい。 人生全般的にかなり自由に自分勝手に生きた方の人なので、周りに多少の迷惑もあったのだが、まあ、おばあちゃんらしいと言えば、おばあちゃんらしいかと。 叔父(母の弟・祖母の息子で長男)から母に「戒名どんなのにする?」という相談があったそうだ(私は個人的には戒名なんていらないんじゃないという人なのだが)。 それを後で聞いた私が「かなり自由気ままに勝手に生きた人っていうのを戒名にしたらどんな風になるんだ?」と言ったら、母は『そうだ、そうだ』と大笑いしていた。 叔父と母が電話で話していたそうだが、『施設で亡くなってよかったね』と。 おそらく病院に連れて行って入院という事態だと、祖母の今の状態ではパニックになったろうというのが叔父と母の見立てらしい。 痴呆が進んで、誰が誰かもわからず、見知らぬ環境や状況に置かれると、不安で異様におびえる感じだったという。 祖母の中でどんな基準があったのかよくわからないのだが、57歳以降は、翌年に年齢を聞いても「57歳」、その次の年に年齢を聞いても「57」歳、いつ年齢を聞いても「57歳」だったので、当時子供心に変に思っていたが、祖母はずっと自称「57歳」を押し通して生きた。 ので90歳を越えて鬼籍に入ったが、私の中では「自称57歳」の大往生である。 祖母が痴呆になってからかなりの年月が経っている。 そうなる前に最後にもらった電話で、『ええか、真っ正直に生きていたら、お天照さんはちゃんと見ているで、いつかはきちんと報われるで』みたいなことを言っていた。 唐突に脈絡も無く言われたので、うろ覚えな部分もあるのだがそういうことを言われた。 今にして思うとこれは私への祖母からの正式な『遺言』みたいなものだったのかなと思う。 色々なものを思い出し、色々なものを思い出に変え、収まる所に収まり、人は生きていく。 つくづく思うのだが、見えない人だろうが、見える人だろうが、同じ時代を親しく生きた人々は、同じ川の上の船に乗っている。 船は違うかも知れないが、同じ川を下る隣を走る船に、その人は乗り換えただけだ。 人生をこんどは違う船の上から、伴走してくれているだけの話しだ。 どんな人だろうが、どんな存在だろうが、最後の最後の最後にはあの「平安」にたどり着く。 あの「存在」そのものである「平安」こそが、私達が最初の最初の最初に生まれ、最後の最後の最後に帰って行く所。 「生きる」ということそのものが「答え」。 そして世間一般で言う「亡くなった」とは、「生き方を変えた」ということに異ならない。 「亡くなった」とは、「無くなった」ということではないのだ。 そういうことだ。 「生命」は続いていく。 形を変え、生き方を変え、表現の仕方を変えても。 「永遠」に。 「生命」そのものから生まれ、実は「生命」そのものであるのが、私達の究極の正体なのだから。 大丈夫。 私達は生きていく・・・そう・・・大丈夫。
2012年05月26日
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(実際にリアルな虐待でも受けているのなら、ちょっと違う対処が必要になってくると思うので、そうゆうのとは少し違う話しという前提で) あの人のあの言動や行動が気に食わない。 世の中のこういうことが気に食わない。 あれがうらやましい、これが面白くない。 でも、その奥にあるのはなんなのだろう。 そこで感じている主人公は自分。 例えば自分の中の無力感、それを「あいつのせいだ」怒っている部分、「仕方が無いのだ」と言い聞かせている部分、「もっと報われていいのに」ぼやいている部分」、「自分にはできない」と嘆いている部分、その他、心の領土の様々な部分がせめぎあっている姿、背景にあるのは何らかの形での「恐怖」。 結局、それは他人がどうのとか、状況がどうのとかでは無く、自分の心の中のある部分とある部分の摩擦・葛藤なのだ。 全体的に言うと、肯定と否定の間を行ったり来たりして、様々な理由付けをして、自分を裁き続けている。 それは自分の心の中で行なわれている戦争なのだ。 だから、その心の中のそういう部分を外に見える何かに投影して解決しようとする。 それは外に形を持って表した、とてもわかりやすい姿だからだ。 でも、目の前の何か、例えば自分の心の中の押し殺した見たくないある部分をあぶり出す、疎ましく感じる誰かを排除したり、その者が失脚したのを見て喜んでも、多分、次のあなたのその心の部分を突っつき、嫌な思いをさせてくれる誰かがまた現れるだろう。 自分のその心の部分は何ら変わらず、また同じ問題をわかりやすく外のスクリーンに映して、同じドラマが繰り返される状況を、あなたはまた創造するだろう。 その自分の心の中の戦争に何らかの形できちんと向かい合って、戦争を終わらすという決着は付けなかったのだから。 原因がそのままの戦争は、また繰り返されて終わらない。 (例外はあり得る。でも、それは述べるのならまた別の機会にでも述べよう) 究極での話しをしよう。 究極での話しだ。 意識的にせよ、無意識の内にせよ、あなたはその状況を創り出し、その状況を経験し、その状況から理解や感情的な情感や成長や学びを引き出そうとしている「神」なのだ。 リアル過ぎるほどリアルに感じる幻影を自分に課している「神」なのだ。 究極でのその戦争の終わらし方を一つ教えよう。 これも究極での話しだ。 戦争そのものを止めてしまうのだ。 理解を得てしまうのだ。 感情的な情感を得てしまうのだ。 成長を得てしまうのだ。 その究極の姿は、神そのものの姿である。 これは言葉では説明できない。 ただある。 恐怖と言う名の分離の幻想はそこには無い。 究極の理解がある。 無条件の愛がある。 真実がある。 無限の豊かさがある。 「存在」そのものである姿が。 世界が自分の心の投影であることを知っている姿が。 創造主として自分の創り上げた世界を所有している姿が。 その時、本当にそうなった時、自分の心の中の葛藤→戦争を外部に投影していたものは、自分の世界からは消える。 後には何も残らない。 それが仮に他人の誰かあった場合、その人自身は勝手に生きてやっているだろうが、まったく気にならなくなる。 自分の人生にも関わってこなくなる、自分も関わらなくなる。 逆にその人に対しても、良くも悪くも今まで見えていなかったものを見るだろう。 やっと自分の心の戦争の投影では無い、本当のその人の姿を見ることになる。 それは思っていたより美しい姿かも知れないし、思っていたのより醜い姿なのかも知れないが、それすらどうでもよくなる。 ただ、微笑だけが残る。 懐かしさのような。 感謝がある。 その時、初めて自分がその人を、自分の心の牢獄から自由にしてあげたこと知る。 そして何よりも、自分を自分で創り上げた牢獄から解き放ち、自由にしてあげたことを知る。 戦いは終わる。 あとは「平和」しか残らない。 そう、心の深い「平安」だけしか・・・残らない。 心の戦いは終わり、戦争は終焉を迎えたのだ・・・。
2012年05月23日
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昨夜は珍しく悪夢を見た。 正確には悪夢とは違う。 別の人生を一生経験したような、そんな感覚で疲れ切って目が覚めた。 それは、ある意味ではある過去生を一通り追体験したと言ってもよく、ある意味では別のパラレルワールドの人生の一生分を一晩で早送りで体験したと言ってもよく、あるいは私とは別の人物のもしかしたらあったかも知れない一つの人生のエッセンスを体験してみたと言ってもよい。 文字通り一睡の夢。 それは時代背景とでもいうべき、社会的な重圧が重荷としてのしかかり、一生をまるでひき臼ですりつぶされるかのように生きた人の人生だった。 戦争もあった。経済の混乱もあった。様々な形での人々や社会との軋轢もあった。 その局面、局面で、その人なりに一生懸命生きたみたいだけど、人生にこれでもかこれでもかと次々と降りかかる重荷を、最後まで降ろすことはかなわずに、重圧の中で苦しみと共に亡くなった人の人生だった。 目が覚めて思った。 これはこれで一つの人生だ。 一つの物語、一つの経験だ。 そして人類の歴史上、このような人々が大半だった時代を、人類は生きてきたのかも知れない。 ただ・・・もう私は知っている。 真実を。 そして私達が生きているこの「時代」ですら、もはや今までのこのような時空の中には無いことを。 ある意味では、それはとても幸せなことなのかも知れない。 でも、それを選択した最後の主権者は、まぎれも無く自分自身でもあるのだ(これは誰でもがそうなのだ)。 私は伝えよう。 新しい時代の息吹を。 それは同時に最も古くから伝わっている、世の片隅でひそかに語り継がれてきた、神秘のベールの中に覆われてきた「真理」でもあるのだが。 今まで隠されていたものがあらわになり、すべてを知った上で何を選択するのかを、問いかけられている時代が来たのだ。 多くの物事が、今までのやり方では通用しなくなって行く。 今まで社会的に結構、幅を利かせてきた我執や偽りに基づいたやり方が、今まではうまく回ってきたし、ごまかしも通用したものが、どんどん歯車が回らなくなって行く。 なぜなのかもわからずに、戸惑い迷う者も多いだろう。。 新しい時代は、もうその目の前にまで来ているのだ。 あなたの目の前にまで・・・あなたが気付くことを待っているのだ。 あなたがそれを許可しなければ、その時代があなたの人生に訪れることは難しくなる。 合わない昔のやり方を繰り返して、うまく回らない人生の歯車を感じるだろう。 「真実」を生きなさい。 あなたの「真実」を。 我執や偽りに基づくのでは無い、あなたの本当の心からの「真実」を。 それこそが「自分の人生への通行許可証」なのだから・・・。
2012年05月18日
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朝方、寝床の中で目覚めた時。 あのまっとうき平安の中にいた。 そこは完全だった。 そこで世界の完璧性を感じていた。 その一瞬だけ、何回かビジョンで見ている未来の自分だったと言ってもよい。 私は例えようも無い一体感を感じていた。 もはや言葉で表現できないと思った。 思考や概念で説明できることでは無いのだ。 それでも何とか、言葉や文字にしなければ、何も伝わらないこの世界の矛盾。 「ああ、これなんだ」と思った。 ただ道端を足で踏みしめて歩いているだけでも。 その一歩の中にでさえ。 潜むものの顕現した状態。 人は記憶喪失の神を演じているだけの存在なのだ。 いつかは・・・いつかは・・・例えるならば、今の様なまるで時々仮接続のような状態では無く。 ある日、ガッと入ってきて至ってしまってつながりきり。 日常ですら常時接続で、生きることになるだろう。 でも、それは外見上、自然で、普通で、あるがままで、あるというだけのことだろう。 ああ、そんな難しい話しでは無いのだ。 スピリチャルな何かを歌っているものでさえ、分離の幻影に基づいた恐怖をてこに世界観を展開し、実際に平安を得られることは無い泥沼のゲームを提示しているものもざらにあるのだから。 究極の話しをすれば、決まりきった幸せへの手順なんか存在しない。 「存在」そのものであることが「答え」。 ただ「ある」ということ。 それを忘れているふりをしているだけ。 思い出した状態では、あれこれはいらない。 分離の幻影が無い。 したがって恐怖も無い。 ただ「それ」だけがあるという状態。 人であることも慈しみながら・・・。 愛と優しさに包まれながら・・・。 生きている。 本当は伝えたいことは、ただ一つ。 ただ一つ・・・だけ。
2012年05月16日
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最後の最後は人知を超えたゆだねなんだなと。 その人知を超えた部分も自分自身なのだが。 一致点があるのだ、その人に取っての。 すべてが整合する場所が。 自我(エゴ)も、魂意識(ハイアーセルフ)も、宇宙意識・神意識(ゴッドセルフ)も、すべてが一点に集約して、一致する場所が。 そして、それがほぼ恒久的に続く人生をおくる事は不可能ではないのだ。 青虫から、サナギになり、脱皮して、蝶になれば、もはや後戻りすることは無い。 それは一つのゴールであり、また新たなるスタートでもある。 サナギの状態の時、外見はまったく変わらない、動きというものがまったく見えない。 でも、中ではすさまじいまでの創り変えが行われている。 (80%以上の部分が創り変えられてしまうのだ) それに近い状況を過ごしていたのかも知れない。 私の最後の部分がゆだねに抵抗しているのだけど、本当は必要ないこともわかっている。 すべてはある形で完璧だったし、完璧なラストへと船は向かっているのだ。 途中、色々と蛇行したように見えても。 すでに未来の自分がいる場所へと。 あの光り輝く手で出来た船 は向かっている。 それだけの人生を送ってきたのだ。 確かな人生を。 様々な者達に愛されながら・・・。
2012年05月12日
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「今ここ」。 3次元の物質次元で肉体を持って生きている私達に取って。 すべての基点となる所。 すべての力の原点。 ただピタッとはまりにはまれば。 すべての歯車が噛み合い、世界のすべてが動き出す。 相対の世界の投影で出来ているすべての総体である「大いなるすべて」(オールザットイズ)が、永遠と無限を保証するなら。 「ワンネス」(一つなるもの)は、究極の絶対を保証する。 そのワンネスの状態に、この時間と空間のある3次元で一番近い地点が、「今ここ」と言えるのだ。 ただある。 存在そのものとして。 裁かず。 価値判断を付与せず。 世界の創造主にして、自分が経験する世界のすべての所有者として。 ただある。 今こここに。 自分の心の本質だけを抱え。 自分の響きの調べだけを奏でて。 裸の自分自身で。 ただある。 今ここに。 それがすべてはまり、すべての宇宙の歯車が回り、あなたがあなたの投影したすべての世界を知る時。 あなたは知るだろう。 自分が経験したかったことを、自分が経験していたことを。 今までは、自分以外のものを一生懸命重ね着して安心しようとして、逆に苦しみを味わい、身動きが取れなくなっていたことを。 そして、自分の心の本質だけを抱え、自分の響きの調べだけを奏でて、まぎれも無く自分自身を生きた時。 世界はまさに自分の心をスクリーンに映し出した映画であったことを知るだろう。 あなたの体験する世界のあまりの激変ぶりに、あなたは目を見張るだろう。 その世界もまた、あなた自身であったことを知るだろう。 あなたに必要なのは恐れを克服し、真実の自分を余すことなく生きることだけなのだ。 あなたがあなたを生きなければ、世界は変わらない。 おそらく、自分に合わない服を何着も着込んで身動きできないような、不自由な日々が続くだけだろう。 ただある。 今ここに。 あなたがあなたとして。 それ以外のものは、本当に何も必要が無いのだ。 それこそが宇宙の仕組みそのものの姿なのだ。 宇宙はあなた自身でもあるのだから・・・。
2012年05月11日
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人生の表でどれだけ嵐が吹き荒れているように見えても。 世界を創り出している最も深奥にあるものは「平安」なのだ。 あの「絶対」の「平安」が世界の基盤となっている。 そう・・・だから・・・本当は、大丈夫なのだ。 あなたの真の姿が現れる時。 あなたは知るだろう。 大丈夫。 そう、大丈夫。 あなたと世界の調和の果て。 たどり着く場所にある大いなるものを。 いつか、あなたは知ることだろう。 その日まで。 その足で歩むがよい。 人生を。 しっかりとしたあなたの足どりで。
2012年05月09日
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とても深い真実。 でも、当たり前で普通で自然なもの。 『ワンネス』という究極の姿はわかった。 そこへ還元されてしまうことを、人生の究極のゴールにしている人も多いのだろう。 でも、私に取ってのゴールはそこではなかった。 どうしたら、どのような姿が、あの絶対の『ワンネス』と、相対の世界の人の世での私という個性を持った「人間」との折り合った、私の望む生き方が結実された姿なのだろう? 何度かそう生きているらしい未来の私の一つの可能性のビジョンを見ていた。 でも、そこまで行ききれない自分にも煮立ちを覚える。 それでも段々、何かが染みて来るように。 何かに浸されていくように。 寄せては返す波に揉まれている様な中で。 確かな実感が訪れ始めた。 その場所に押し流されていく船に乗っている自分がいる。 そして・・・いつか必ずたどり着くのだ、その場所に。 それがいつのことなのかを知ることは、人知を超えているのだけど。 そんなに遠い日のことでもないという感覚もある。 むしろもはやこの局面まで来てしまえば、手放せば手放すほど、その大いなる流れは船を着実に運んでくれる。 最後の最後まで私がしがみついているものがむしろ船を留めている。 その最後までしがみついているものとは、多分、人間性に基づいた「やるせなさ」のようなものなのだ。 言葉を変えて言うなら「今ここ」を受け入れ切れていないのだ。 自分の人生と自分自身を「完全に全面的な自己受容」し切れていないのだ。 でも・・・その自分自身でさえ、裁くことを止めた。 何だろう? 静かに静かに。 優しく優しく。 確かに確かに。 私は運ばれているのだ。 私を運んでくれている船は。 光り輝く手で出来ていた。 何本もの何本もの光り輝く手が。 私の真の願いをくみ取り。 私を支え、私を運んでくれていた。 それは美しい・・・本当に美しい光景だった。 涙がにじんできた。 こんなにも私が愛されていたことを・・・私は知らなかった。 そう、知らなかったんだよ・・・私は。
2012年05月08日
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前にも何度かあった、未来の私と思われる人物のビジョン。 前はただ優しく微笑んでいる目の前の私を感じるだけだった・・・。 私もそのビジョンの中にあって、その眼差しを見つめていると問うことの必要性を感じなくなって、そのままで終わることが多かった。 でも、日常の意識に戻ってみれば物足りなさを覚える。 「一度、きちんと話してみたいと思っていたんだ」。 目の前の私は微笑んで、またティーカップのお茶をすすめてくれた。 「あなたは未来の一つのパラレルワールドの可能性としての私なんだよね・・・」。 「一種の私の投影といってもいいような・・・」。 『そうね・・・でも、私はここにいるよ』。 「あなたは最後の扉をくぐったわけだよね」。 『今の君から見ればそう言えるだろう・・・でも、私から君に言えることは、例えばね、今の君でも君の能力とかそんな所ではなく、君の人格、君の人間性、そんな所に引かれている人達もいるんだとわかっている?』。 『ただ君は君を生きてさえいればいいんだよ、ただそれだけなんだよ、必ずそれがわかる時が来るよ』。 優しい、優しい目をしていた。 懐かしむような、慈しむような、穏やかで、春の陽だまりにも似て、そこにいるだけで癒されていくような・・・一方で、自然のしゃきっとした芯の通った何かが入ってくるような・・・。 そこでビジョンは消えた。 この人では無い今の自分を悲しく感じた・・・そんなビジョンだった。
2012年05月02日
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そう、道に迷ったようでも、目的地に通じている道を見出し歩むことは、実はとても簡単なことなのだ。 開かない門の前に立っているようでも、その門をくぐることは、実はたやすい。 世界を創っているのは、実は自分自身なのだ。 あなたが意識的にせよ、無意識的にせよ、同意したことだけを、世界は鏡に映し出す。 恐れも恐れとして。 あなたの障害物を映し出しているのも、実はあなた。 それどころか、その障害物は、ある意味であなた自身でもあるのだ。 現実の創造の意識をフォーカスすべきものは(焦点を当てるべき物は)何か? あなたの真の願い。 真の生き様。 そういったものだ。 他人の芝生が青く見えることもあるかもしれない。 何かの今までの人生でもたらされてきた自己否定的な出来事の影響がぶり返してくることもあるかも知れない。 自分を完璧にしようと自分を追い詰めることがあるかも知れない。 その他、こういうことを言い始めればキリが無い。 それらは障害物に形を変えてあなたの前に立ちはだかる。 でも、その障害物の真の正体は、あなたに真実を思い出させ、真実を生きることを本当に選択するかを問うているあなた自身なのだ。 あなたはその問いにどう答える? 答えは難しくは無い。 あなたがあなたを生きればいい。 あなたがあなたの人生を歩めばいい。 あなたがあなたの創り出すものを信じればいい。 大丈夫だよ。 あなたはあなたの真実を生きてもいいのだ。 そう、それは本当はとても簡単なことなのだ。 とてもね・・・。
2012年04月29日
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かつて書いたものなのですが、今、このメッセージが必要な人もいるようですので、リンクを張って再掲させていただきます。 「金色に光るか細い糸」
2012年04月28日
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宇宙の真理を、衛星軌道に打ち上げられた望遠鏡でとらえた宇宙の果ての姿に探す人もいる。 宇宙の真理を、マヤの隠れた石版の中の古代文字の中に探す人もいる。 宇宙の真理を、物質の粒子構造の最小単位に探す人もいる。 宇宙の真理を、チャネリング等の宇宙人情報の中に探す人もいる。 でも、宇宙の真理は、ふと見上げた先にある風に揺れる葉っぱ一枚の中にもあれば、差し出した自分の手のひらのぬくもりの中にもあり、ニャーと鳴いて飼い主に擦り寄ってきた猫の鳴き声の中にもあるものなのだ。 いや、多くの人が一生懸命、特別の中にその答えを見出そうとして、それこそ世界の果てまでも探しに行くのだが、宇宙の真理は、普通の中にも、いつも目の前に、絶えずそこにあるものなのだ。 ただ、気が付かないだけで。 存在しているということそのものが、宇宙の真理だと感じたことはあるだろうか? 存在しているということそのものが、問いかけへの答えそのものだと感じたことはあるだろうか? 比喩や一般論を言っているわけでもないのだ。 「存在している、ありがたいね」・・・それもとても尊い認識だ・・・でも、もっと奥深い真実をここでは言っている。 感じたことはあるだろうか? そべての背後に潜む「それ」を。 すべての人、すべての存在、すべての時空間が「それ」の投影でしかない「それ」を。 そして自分の究極の正体が「それ」であることを。 万生世万物の究極の正体も「それ」であることを。 「神」が同じ「神」とリアルな幻影の中で戯れているに過ぎない姿を。 究極の「愛」を生きている姿を。 そして究極の「愛」そのものでもある姿を。 言葉が消えていく。 行為も消えていく。 自他すら消えていく。 世界も消えてしまう。 ただ「それ」となる。 後には何も残らない。 でも・・・わかっている。 私は帰って来る。 最後には、普通の日常を自然に生きている私がこの世に残る。 ただ、微笑みながら。 宇宙の真理そのものを生きている姿。 さりげない、日々の中で・・・。
2012年04月26日
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光も闇もすべてが通り過ぎれば、薄っすらとした思い出として懐かしさすら覚える光景。 静かな安らぎ。 自分の世界が限りなく豊かな世界だったことを知る。 ああ、すべてはある。 ただ、ある。 それは愛の姿だ。 相対の世界、無限の投影体として保障された世界である『大いなるすべて』(オールザットイズ)。 その背後に潜む宇宙で唯一の実態、絶対の『ワンネス』。 でも、ある意味でそれらは等価値なのだ。 究極の『ワンネス』も。 白猫が通りざま、すりっとほおをすり寄せていくぬくもりも。 かつて流した悲しみの涙も。 宇宙的視点ではある意味、等価値なのだ。 すべてがあるがままにあることを許し、受け入れた時、自分自身も受け入れたことになる。 いや、でも、おそらく世界で最も受け入れないでいる相手が自分自身なのだ。 私なりに表現させてもらうなら、自分自身の受け入れとは、自分の心にぽっかり空いている虚無の穴、その恐怖を埋めるために狂気の欲望に取り付かれて暴走して満たされようとすることでも、逆に時代背景を元にした道徳律や社会規範にがんじがらめに縛られて安心しようとすることでも無い。 それを行っている最中の夢中さで一時しのぎにはなっても、結局、それらのことで満たされ切ることは無い。 むしろ、後々まで残る問題と後悔を山積みにして、新たなるマッチポンプに陥るだけだろう。 自分自身を受け入れるということは。 ただ、自分の本質に寄り添い、その調べを奏でてやるということだ。 自分を制限しないで、自分という和音であることを、自分に許すということだ。 それを内面に抱き、外面に発揮して生きるということだ。 この世での具体的な形というと、それは人によって様々だろう。 様々な側面にもわたるだろう。 それ自体も変化していくのだろう。 でも、そこには真の意味での調和がある。 自分自身と調和し、宇宙と調和した姿がある。 その瞬間、両者は一致している。 自分が宇宙であり、宇宙が自分である姿がある。 自分に対する最も深い愛の姿がそこにある。 でも・・・人はそれをなかなか自分に許さない。 多くの人が、自分に取ってのまがい物に頼って安心しようとする。 自分の本質を生きることが、なぜか一番恐ろしいこと、最も恐怖の対象となってしまっている。 これは・・・人類という種族の大半を、今までの制限の多い、苦難を重ねて、やっと果実を実らせることができるかどうか、そんな人生経験とその価値を得るという「フィールド」に置いてきた時代の一つの刻まれた「機構」(オーガン)でもあるのだろう。 でも・・・もはや時空間的にも、その時代では無い。 望むものには、より正確に言うなら、それを自分で生きるものには、その扉は大きく開かれている。 もはや、そういう時代なのだ。 でも、何百万年にも渡って閉められていた扉が、いつの間にか開いていても、多くの人がそれに気が付かない。 その意味すらわからない人が多いかも知れない。 でも、その開いた扉から流れ込んでくる優しい風が、今までとは違う「フィールド」を生きていることを告げている。 人々は、無意識の内に深い所では気が付いている。 優しい風が自分のほおを、なでていっていることを。 自分をいざなっていることを。 その風を感じるほうに歩むがいい。 湧き上がってきた恐れを踏みしめて一歩一歩。 隠れた恐れが巧妙に指し示す「こっち」だという偽りの方角に惑わされずに。 優しい風、自由な風、暖かい風、あなたをいざなう真の声に従って。 すでに開かれている扉の方へと。 自分自身を受け入れるということは。 ただ、自分の本質に寄り添い、その調べを奏でてやるということ。 自分を制限しないで、自分という和音であることを、自分に許すということ。 それを内面に抱き、外面に発揮して生きるということ。 そういうことだ。 そう生きるがいい。 最初の内は、おぼつかない足どりかも知れない。 色々、もたついてもしまうのかも知れない。 時には、惑ってしまうこともあるのかも知れない。 でも、本当にそう生き続けるのなら。 やがて、その道のりは確かなものとなる。 遠からず門の前までたどり着き、そこをくぐってしまう。 もはや引き返せない、自分に取っての真実の愛を生きる。 そうしたら、あなたは気が付くだろう。 自分が至上の愛を生き体験していたことを。 これ以上無いくらいの深い深い感動と喜びと共に。 幸せそのものを生きていたことを。 自分が自分という愛そのものであったことに。 あなたはきっと気が付くことだろう・・・。
2012年04月23日
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