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photo;clareyuko <入院中に撮影>ブログ読者の皆様へ今まで長い間、クレアゆうこの部屋をご愛読いただき 本当にありがとうございました。皆さまはもうご存知のことと思いますが、クレアゆうこは2006年11月27日午後6時55分その背に美しい羽根をはばたかせ 永遠の空へと飛び立ちました。2005年4月にインドへ行き、その時すでに新しい旅立ちの日を悟り現世における役割に別れを告げる準備をはじめていたのではないかと思っております。彼女の葬儀の際の法名は 「釈尼芳祐(ホウユウ)」 と名づけられました。その時たまたま来て下さっていたお客様がその法名を聞き「彼女にぴったりの名前だね!だって“for you”だもの!」と言って下さいました。最後までそんなニクイ演出をしてくれた彼女を私たち家族は祝福の気持ちで送ってあげたいと考えています。ですからどうぞ、皆さまも悲しいけれど「おめでとう!」と言ってあげて下さい。光の写真を撮り続けていた彼女ですが、いつかきっとどこかで、誰かの撮る写真に愛の光となって帰って来ると信じています。その時はどうぞ、暖かく迎えてやって下さい。なお、このブログはそのまま残すつもりでおります。ふと思い出された時には、また見に来てあげて下さい。長い間本当にありがとうございました。クレアゆうこの パパと3人のエンジェル (と一匹のイヌと4羽の鳥)より寂しがり屋のユコタンはみんなに愛されて幸せいっぱいでした。ありがとう☆ちっちゃな天使君大丈夫だよ、寂しくないよほら、みんなが君を愛してる愛を伝えるために生まれてきた尊い命の、ちっちゃな、愛しいエンジェル君のこと、大好きだよ☆
2006.12.03
photo;clareyuko ちっちゃな天使君大丈夫だよ、寂しくないよほら、みんなが君を愛してる愛を伝えるために生まれてきた尊い命の、ちっちゃな、愛しいエンジェル君のこと、大好きだよ☆ **************しばらく入院します。近くだから、時々帰ってくるから心配しないでね。。。。。
2006.11.14
photo;clareyuko ねぇ、永遠に続くものってあなた、知ってる?この痛みさえもいつかは消える 愛しい今だけのプレゼント
2006.11.11
photo;clareyuko世界は愛に満ちている 人は愛にあふれている本当は生命そのものが 真実の光だったんだね
2006.11.09
Photo;clareyuko5日間の写真展が無事終わりました。開催できたのも優しさにつつまれてこの5日を過ごすことができたのも、家族の支えと、そして心を寄せてくださった皆さんのおかげです。日記がアップされず、心配いただいた皆様、ごめんなさい。さすがのユコタンも疲れが出たというか、年齢には勝てないというか・・・・ (^.^; 初日ライブでは60人ほどの方が集まり、会場に座れないほど、京子先生たちのすんごく素敵なオカリナの音色につつまれての光のひとときとなりました。開演前に挨拶をした私は、病気で倒れた私に代わって、半数の作品を額装して送ってくれたkazesanや、半数の額を快くかしてくれた染ちゃん、そして私にかわって休む間もなく準備をすすめてくれた明子さんへの感謝を述べながら、涙があふれてきて、続けてオカリナの京子先生まで泣いてしまって、演奏できるか心配してしまったくらいでした。 この5日間、いらしてくださった皆さんとお話をできたことが、本当に嬉しかったです。人を助ける、人のために働くなんて、カッコイイことを宣言した私なのに、実際は皆さんに助けられるばかりの日々です。お忙しい中、初日に来てくださったケビンをはじめ、たくさんの方がヒーリングしてくださいました。遠くて会場に来られない方々からもたくさんの祈りが届きました。 毎日お弁当を作ってくださった明子さんとギャラリーのオーナーの道子さん、最初は思わず泣いてしまいましたが、その後もいつもココロの中で手を合わせていました。所沢まで2時間弱の道のりを荷物をもってくれた子どもたちのほかにも、疲れた私の荷物を持って送ってくださった方々もいらっしゃいました。4日めの朝、おなかが痛くなって駅をとぼとぼ歩いていた私の荷物を持って、画廊まで送ってくださった見ず知らずのおじ様。荷物を持っていただいた瞬間、私、泣いてしまいました。全然方向が違うのに私の荷物を持って、汗をふきながら、何度も乗り換えして、飯田橋の改札口まで送ってくださったテツヤさん、ありがとうございます。実はとっても疲れていたので、テツヤさんの優しさに甘えさせていただきました。本当に、救われました。最終日に私に動かないように言って、片づけを全部してくださった、Rishikeshさん、思いもかけず遅くなってしまったのに、最後までおつきあいくださって、本当にありがとうございました。 Rishiikeshさんの優しさが心にしみました。 人はこんなにも助けられて生かされている・・・・ただ、ただ、そのことを感じた写真展でした。 美しい愛をプレゼントしてくださった皆様は、相手が私だからでは決してなく、ただ、ただ、どなたに対しても、心優しい美しい人たちです。きっと、人はみな、愛にあふれているんですね。都会はつらい、山や田舎で暮らしたい・・・・そんなふうに時々思っていました。けれど、今日も東京の青空は美しい、強い風に吹かれながら、花はけなげに美しく咲いている。。。。 今の社会で生きること、みんな、つらくて、悲しくて、傷だらけ・・・・そんなふうに感じていました。けれど、みんな、こんなにも優しくて、誰かのために惜しげなく愛を注いでいる。。。。 わたしは何を見て、何を感じて今まで生きてきたのでしょう。。。。。。。毎日感動の涙を流しながら、病気がくれたプレゼントを大切にしたい☆そう思った5日間でした。 お花やたくさんの贈り物を始め、心を寄せてくださったすべての皆様へこの場をお借りして、心からお礼を申し上げます。ありがとうございました☆ ClareYuko(谷口祐子)
2006.11.07
皆さんのおかげで今日からいよいよ写真展開催の運びとなりました。病気でテキパキ動けない私に代わって献身的に準備を進めてくださった明子さん。準備不足の私にかわって写真の印刷から額装まで引き受けて遠い金沢から13点も送ってくださったkazesan 。初めての写真展でなにもわからない私に、快く20点もの額をかしてくださった染ちゃん。その額をとりに行くのに夜車を運転してくれたシオリン。私に代わってたくさんインフォメーションしてくれた仲間たち。そして、こんな私に心を寄せてくださった、優しい方々・・・・・本当に、並べたらキリがないくらいたくさんの方の協力を得て今日からの5日間、写真展を予定どおり開催できることになりました。 応援してくださった皆さん、ほんとうにありがとうございます☆ 今日準備を終えて、とっても素敵な会場ができあがりました♪入場無料で私は5日間ずっと会場にいる予定です。ご希望の方にはドネーションでディクシャもさせていただきます。よろしければ光いっぱいの会場に、ぜひ、遊びにいらっしゃってくださいね☆ 初日の今日はムチャクチャ素敵な「ねんど」のライブがあります。 kazesanにお会いしたい方は2日にほんの少しですが寄っていただけそうです。「あめつちのしづかなる日」も数冊ですが並んでいます。皆様にお会いできるのを楽しみにしています☆Divine Presence ☆ 光の写真展11月1日(水)~5日(日) 11:30~18:30 (最終日17:00まで) 入場もちろん無料初日LIVE "ねんど" 小山京子先生と仲間たちによるオカリナ&ギター コンサート 11月1日(水) 14:00~16:00 A 前売券 2000円(ワンドリンク) 13:30~ B 前売券 3000円(ランチコース) 12:30~ 当日券は2500円(Aのみ)ですカフェギャラリー ガルリエ道 所沢市緑町4-1-20-103 (TEL・FAX 04-2923-6035) ※ 西武新宿線新所沢駅西口を出て線路際入曽方向に徒歩2分 (西友駐車場先50m) 車でご来場の場合は西友駐車場(有料)あり世界は愛につつまれている・・・・ 降りそそぐ光を心に感じて皆様の愛のサポートとプレゼンスの導きによって光の写真展を開催することになりましたことを、心より嬉しく思います。開催中、希望者の方にはドネーション(1000円程度)でディクシャを予定しております。光につつまれたひとときを 共に過ごしましょう。 クレアゆうこ
2006.10.31
海より深い眼差しの奥に私の哀しみが映っていたそれは、世界の深い哀しみでもあった澄んだ美しい眼差しは深い哀しみを大きくつつんでいた宇宙よりも果てしない愛につつまれて深く頭を垂れ手を合わせた
2006.10.30
遠くの友との再会と思いがけない贈り物封をあけて思わず涙がこみあげたあなたに逢ったのは2回めだったね最初に逢ったとき泣いてるあなたを抱きしめた今度は私が抱きしめられていた。。。。
2006.10.28
photo;kazesan たくさんの仲間たちの温かな愛に支えられてアチャリア師の来日イベントカンファレンスの4日間のひとときを過ごすことができました。奇跡の日々に、心から感謝します。 病気になってからの私は、自分を大切にしていなかったなぁ、と反省してみたり、家族や友人など、多くの人に心配をかけてしまったことなどを省みたりで、周りの人たちのためにも、今なにを一番に考えていいか、少しばかり迷子のようになっていました。初日の19日、キャプテンMからのアドバイスを受けグループセッションで、勇気を出して手を上げ質問しました。「今私は何をすべきなのでしょう」しばしの質疑応答の後、アチャリア師は答えられました。「あなたは人のために働いてください。あなたのことは私たち全員で祈ります。あなたは人を助けてください」私は目が覚めたような思いになりました。インドへ行く前から、そんな人生を望んでいたはずだったのに、今の私はなぜかそのことをしばし忘れていたようでした。 そして、祈ってくださるというアチャリア師の御心の前でひざまずきたい思いにかられました。皆さんの温かな祈りを受け取りながら、私も祈りました。世界のすべての人々にみんなの愛と祈りが届きますように。祈ってくださるすべての方々が愛につつまれた日々を過ごせますように。私自身が人のために奉仕できるような毎日を過ごせますように、と。 この4日間で、アチャリア師はいろんなことを話されましたが、私の中に深く残ったメッセージはふたつあります。ひとつは、世界は鏡であり、常に人々の内側が顕現されているということ。たとえばテレビなどを見て、不安や恐怖感に襲われた場合、それは地球の反対側に影響を及ぼすということ。もうひとつは、人々は今まで、自分が生き残ることばかりを考えてきた、けれど、サバイバルのために人を犠牲にしてばかりでは、地球は破壊される。自分の安全性、満足だけでは、痛みだけが世界に存在してしまう。今、人のため、社会のために貢献する人が必要とされている。個人の欲求を超えて、意味のある人生を送りたいという人が必要とされている。というお話です。アチャリア師はこのことを毎日繰り返し話されたように私は感じました。 私自身そんなだいそれたことはできないでしょう。けれど、ディクシャを通して、たくさんの方々とふれあう中で、ようやく気づいたことがあります。それは人が悲しいときは自分も悲しい人が怒っている時はとてもとても心が痛い悲しい人がいる限り、私自身の胸の痛みはいつまでも消えない、ということ。そしてなにより、人が喜んでくれたとき自分はその10倍も100倍も嬉しくなること。だから、与えることは受け取ること助けることは助けられること そんな素敵な毎日を、過ごしたいな・・・・そう思った4日間でした。 皆様のお祈りに、心から、感謝を捧げるとともに皆様が愛につつまれて過ごされることを、お祈りいたします☆
2006.10.27
photo;clareyuko 与えることは 与えられること助けることは 助けられること すべては同時に起こっているだって、 みんなひとつに つながってるからね 愛することは 愛されることどんなココロのときでも祈った愛が真実ならばココロが愛で満たされる だって、 わたしたちだれもが みんなひとつに つながってるから。。。。。
2006.10.23
photo;kazesan 自転車で走る歩道での一瞬の出会い嬉しくって思わず微笑んだあなたの声聞こえたよ風が運んでくれるのをただ静かに待っている優しい命
2006.10.21
photo;kazesan 明日消える命も 10年続く命もなにも変らない今という尊い、この時
2006.10.20
光の写真展の案内ハガキが出来上がって10日以上たちました。上海へ出かける前になんとか、と頑張って創ったものの、結局ダウンした私は、皆さんにお送りする気力もないままでここ数日を過ごしました。初めての個展を行なうことを決めたのは神様の導きと感じたからでした。なーんていうと、小さな写真展なのに大袈裟に聴こえてしまいますね。私はプロの写真家でもないし、ほとんどなにもわかりません。ましてやアートと言われるものたちとはほとんど縁がない世界で暮らしてきたのです。けれどすすめてくださった明子さん、そして力になってくれる染ちゃんや功ちゃんのアドバイスに励まされ、開催を決めました。光のフォトカードはkazesanが好意で、一枚一枚ココロをこめて印刷してくださっているので、私はそれを縁ある方に届いて、と願いながら、機会ある毎に皆さんに紹介しています。 おかげさまで、カードを飾ることによって、キライだった家にいられるようになったとか、お店にお客様が増えた、など、嬉しい声を届けて下さる方もいらっしゃいます。きっと、その方々も、プレゼンスが目覚めつつある過程での出来事なのだろうと想像しながら、それでもとっても嬉しくなります。今回も多くの方に光との出会いがとありますように。。。と願っています。場所は新所沢駅前で、自宅からは1時間半かかります。知り合いも少ない地域ではありますが、きっとご縁のある方々との、出会いとふれあいのひとときになることでしょう。私は開催中はずっと会場にいて、来てくださる方とゆっくりお話したり、ご希望の方にはディクシャもできることが嬉しいです。写真展初日には大好きなキョン先生が仲間と3人でギターとオカリナのライブをしてくださることになりました。お願いしてすぐに、「わーい光につつまれて演奏できるの、嬉しい~」って言ってくれた京子先生。ありがとう☆私も本当に嬉しかったよ。「ハガキは一枚一枚手作りしたらどう?」kazesanにはそう勧められたけれど、今回は印刷を選びました。版画家の宇賀地洋子さんが個展中の忙しいなかに関わらず、印刷屋さんの資料やご自分の案内状などを一式揃えて送ってくださったのです。そのおかげで一枚10円足らずで案内ハガキができあがりました。やった!この案内状でたくさんの人に光を届けられる♪インドで初めて光の写真を撮って、バガヴァンに「この光はDivinePrwesenceだよ」と喜んでいただいて帰国後の私はただ、この光をたくさんの皆さんの下へ届けることばかりを考えていました。東京で暮らす一主婦の私にとって、光の写真をたくさんの人のもとに届けることはむずかしいことです。けれど、kazesanが「フォトカードをつくったらどう?」と声をかけてくださり、そしてデザインと制作まで引き受けてくださいました。そしてケビンが北海道から沖縄まで全国を駆け回りながら、セミナーやディクシャ会のなかで、写真を紹介してくださいました。また今回、出帆新社から発売された「とんぱ」第6号(ディクシャ特集)の表紙にも光の写真を使っていただきました。すべては神様の導き。。。。私の手によるものではありません。光の写真は、私だけでなくたくさんの方が撮っていらっしゃるかもしれません。また、実際の光をもたくさんの方が見ていらっしゃるかもしれません。でも、もし、私たちにいつも光が降り注いでいること、私たちが光に見守られているということを、写真という目に見えるカタチでとらえることによって、何かを感じて下さる方がいらっしゃれば、こんな嬉しいことはありません。写真たちは出会ったひとりひとりにそれぞれになにかを語りかけるでしょう。それは言葉には表せないけれど、きっと温かな、なにかを・・・・・・言葉にならないそのギフトを受け取って下さる方がいらっしゃいますように。。。。。。皆さん、よかったらどうぞ、遊びにきてくださいね☆*********************************Divine Presence ☆ 光の写真展11月1日(水)~5日(日) 11:30~18:30 (最終日17:00まで) 入場もちろん無料初日LIVE "ねんど" 小山京子先生と仲間たちによるオカリナ&ギター コンサート 11月1日(水) 14:00~16:00 A 前売券 2000円(ワンドリンク) 13:30~ B 前売券 3000円(ランチコース) 12:30~ 当日券は2500円(Aのみ)ですカフェギャラリー ガルリエ道 所沢市緑町4-1-20-103 (TEL・FAX 04-2923-6035) ※ 西武新宿線新所沢駅西口を出て線路際入曽方向に徒歩2分 (西友駐車場先50m) 車でご来場の場合は西友駐車場(有料)あり世界は愛につつまれている・・・・ 降りそそぐ光を心に感じて皆様の愛のサポートとプレゼンスの導きによって光の写真展を開催することになりましたことを、心より嬉しく思います。開催中、希望者の方にはドネーション(1000円程度)でディクシャを予定しております。光につつまれたひとときを 共に過ごしましょう。 クレアゆうこ
2006.10.18
ピーターラビットが私のもとへやってきた。まだ見ぬ友、まつさんの愛と神様からのメッセージを携えて。お礼のメールを送ったら喜んでもらえて私しあわせ、うさちゃんぴよんがゆうこさんのところに少し前から行きたがったの迷惑だからって、一度は諦めさせたんだけどついに飛んじゃったというお返事。愛の使いのピーター君一緒に歩いてくれる友達ができて、すんごく嬉しくなった。 今日内視鏡検査を終えて、ようやく診察を受けることができた。気の小さな私はどうしてもカメラを飲みこみたくなくて、早朝から外来の診察を受けた。「どうしても検査、受けなきゃだめですか・・・・」恐る恐る確認したけれど、「当たり前でしょ」と言わんばかりのお返事が返ってきた。救急で運ばれたときの痛みももうこりごりだったけれど、胃カメラも相当なものだった。もう2度と受けたくない検査。それに比べ、昨日の超音波はドキドキしたわりには楽な検査だった。久しぶりにバガヴァンが現れて、腸の中を走り回り、何度もピースサインを送ってくれた。 21日間コースの受講者ならご存知かもしれないが、バガヴァンってとってもオチャメなのだ。おかげで、ふぅっ・・・・っと安心、リラックスできた。 今回の病気で心配をかけた何人かの友人に言われたことがあった。それは「身体の痛みよりアストラル体の傷が深いよ。人との境界線をきちんと持って、自分を大切にプロテクトするようにね」とのアドバイスだった。 人一倍淋しがりやの私は「共感」ということをとても大切に思っていて、多分無意識だとは思うけれど、自ら、境界線を作らないと決めているところがあった。人と人とのつながりにはプロテクトという言葉なんてあっちゃダメ!と。でも、人を助けたいなんて大それた気持ちがあるわけではなく、ただ、マイナスを受けやすい体質だとか、そんな言われ方に反発して、マイナスだって光だぞ!ぐらいに思ってたのだ。 でも、それはもしかして、相手のプレゼンスを信頼していなかったのでは・・・・と思い始めた。すべてはPresence同士のかかわりのはずだ。プレゼンスを信頼・・・・・まず、自分を可愛がることが大切だと感じた。病気になって、今までの自分を愛しく思い始めている自分に気づいた。。。。。
2006.10.17
photo;kazesan寝たり起きたり、安静に過ごすここ数日ですが、毎日涙ぐんでばかりの私です。お見舞いのお便りをたくさんいただきました。動けない私に代わって、光の写真展の案内をたくさんの方にお知らせしてくれる友。遠隔で愛のエネルギーを送ってくださるたくさんの友たち。メールが届くたびに、電話がかかるたびに、みんなの優しさがココロに染みて、ありがたくって涙ばかり出てくるのです。 この世界は悲しい、みんな傷だらけ、私も傷だらけ、こんな世界もうイヤ!何かにつけては被害者意識に陥ろうとする私へ、ほら、ほらね、とみんなのあふれる愛のギフトを通して、私の傷が幻想にすぎないんだと、神さまが示してくれているように思えました。 QXで遠隔をしてくれたSさんから今朝電話がありました。「身体の疲れがたまってるね、それから、憎しみもあるみたいだよ」「え?憎しみ?」「覚えがない?」「うん、、、、思い当たらないけど、、、、」「いにしえ(過去生)のものかもしれないな・・・」 私の中に憎しみがあるんだろうか。。。。。電話を切ってからしばし考えてみました。あぁと思いました。私は、これまでの人生で、自分の尊厳をないがしろにされたように感じたことが何度かありました。「なぜ?こんなむごいしうちを神さまはなぜするの?」その嘆きの底には、悲しみや怒りを超えた深い絶望感がありました。私は生きているこの世界そのものを憎んでいたかもしれません。本当は誰も私を傷つけようとしたわけではなかったはずです。私自身が勝手に傷ついただけなのです。幼い私は、自分がダメな子だから愛されないんだと思いました。そして大人になってからの私は教えられていました。「すべての原因は自分にあるんだよ。自分が変れば、人は変るよ」と。絶望の中で、泣き叫ぶことすらできないまま、自分に問い、自分を責めていました。「どうすればいいの?お願い助けて!私が悪かったの。私、どう変れば幸せになれるの?」と。葬られたこの感情が、いつも、いつまでも、私のココロの扉をノックし続けているのかもしれません。人は変ることなんて、できないのに。。。。。・・・・・憎しみなの?世界はこんなにも愛にあふれているというのに・・・・。神さまを信じられなかったインナーチャイルドたち、大丈夫だよ、もう怖くないよ。思いっきり泣いて、そして、そのあとはにっこり微笑んでごらん☆みんな、本当は、とっても優しいんだよ。優しくなれないときはね、みんなもきっと、とっても淋しいんだよ。パンパン堅くなったおなかの痛みを感じながら、ごめんね、ごめんね、とおなかをさすりました。 明日は超音波検査です。美しい秋の空の下、痛いおなかを労わりながらゆっくりとでかけてくることにしましょう。世界が本当は、愛にあふれていることを感じながら。。。。。
2006.10.15
photo;kazesan上海に出かける日の朝、耐えられない痛みに襲われてとうとう救急車を呼びました。突然の痛みは前日から始まっていました。けれど、上海に行くと決めていたので、絶対にこれは治るものだと信じようとしていました。痛みに襲われるたびに皇帝塩を入れたお風呂にはいったりしながらまぎらわしていました。それでも痛みは続くばかりで、「バガヴァン、わかりました、もう何もいりませんから、助けてください」、と言う気持ちになったところ、夜になって、急に痛みが和らいできました。あぁ、よかった、上海の皆さんに迷惑かけずにすみそう、、、、よかった~、、、、ほっと胸をなでおろしました。遠隔で愛のエネルギーを送ってくださってたケビンと友人にも「もう大丈夫」とお礼のメールを送りました。ところが夜半に吐いてからまた具合が悪くなってきました。朝、祈る思いでお風呂に入ってみたけれど、どうすることもできずに、うめくばかりになってしまいました。成田まで送ってくれると言っていたシオリンからは、朝から何度も心配メールが届いていました。「救急呼ぶ」と言うと、「R病院にしてもらって」、と言ってくれました。シオリンの家のすぐそばの病院です。息子に救急車を呼んでもらいました。痛みはどんどんひどくなる一方でした。痛みのあまりに過呼吸になり、手足はしびれて冷たくなっていきます。少しでも動くと激痛が走ります。痛みのせいか、胃の中に少ししかないはずの水分も何度も吐いてしまいます。気が遠くなりそうな中のCTやレントゲンは本当に堪ええました。シオリンが来て付き添ってくれました。苦しみの中、天使がやってきたように感じました。そばにいて手を握ってくれるだけで安心できました。ヒーラーのシオリンは苦しいときにおなかに手をあててくれました。すっかりシオリンに甘えて、上海への連絡や空港への連絡など、すべてお願いしました。ただ、ただ、ありがたかったです。。。。。痛みと過ごす日々の中、痛みをうけいれることの大変さをひしひしと感じました。痛みと戦うという言葉はどこからきたのでしょうか。ただ、ただ、痛みと共に過ごしました。そしてみんなの愛と共に過ごしました。あれから2日たちました。激痛は去っていきました。 検査は続いています。腎臓結石と卵巣脳腫の疑いが晴れて、私は既に安心しています。けれど、お医者様にいただいたたくさんの薬はしっかり飲んでいます。あの強烈な痛みが、トラウマのような恐怖感を私のココロに残しているようです。原因はまだ不明だけれど、腹水がたまっていて、おなかがまだ張っている感じで重いかんじです。昨日の泌尿器科のお医者様と今日婦人科のお医者様は腹膜炎だろうとおっしゃいました。まだ検査はまだ3つも残っているし、内科の診察は10日もあとです。総合病院の難しいところでしょう。 上海の皆様には本当に迷惑をおかけしてしまいました。それでも予定していた参加者の皆さんが、そのまま出席くださって、この9月にギバーになったばかりのえるちゃんが、ひとりで会を進めてくれたようです。たくさんの迷惑をかけたにもかかわらず、参加者の方からも温かいお言葉まで頂戴しました。今回の会を企画してくれたちこちゃんとえるちゃんからも、温かな励ましをいただくばかりでした。ただただ、感謝です。皆さんへの感謝と、そして皆さんの温かいココロを受け取るために病気になったのかもしれない、そう思うほどです。少し落ち着いたので天使の祝福カードをひいてみました。ラジエルという知識の天使が現れました。私たちが聖なる道を歩む途上で病気など不可解な出来事に遭遇したときに、必要な知識を与えてくれる天使です。病気ならば、その原因をさぐることから始まる。わたしたちが創り上げた信念は知識の流れを止め、自分の信念に合わないことを批判したり排除したりして、内なる声をさえぎっている。知識の流れを止めている原因を見つけましょう。そうすれば、深い感情レベルで自分を解放することができるでしょう。とありました。 今回このつらい痛みを通してプレゼンスは何を伝えようとしたのでしょう。しばし、自分を振り返り、考える時間を与えられたようでした。
2006.10.12
photo;kazesan娘の高校4年生の半期が終った。彼女は高1の途中から殆ど学校へ行っていない。ちょうど長男が中学へ行かなくなった頃と重なり、深刻だった彼のことで頭がいっぱいだった私は、娘の不登校についてはあまり気にはかけていなかった。その後、見えない世界の扉を開いた私は、子どもたちに、「学校なんて行かなくってもいいよ」と言うようになり、娘はそれからの2年間をバイトと中村光也君のドーマン法のプログラムのお手伝いへと通う毎日を過ごした。その間、新学期ごとには決意も固く、「よし、行くぞ」、と張り切っていたようだったが、そのパワーと意気込みは、たいていは一週間ほどで切れる、、、、そんなことを繰り返していた。落ち込む彼女に、「どんなに頑張ろうとしたって、すべては神さまが決めてるんだから、抵抗しなくっていいよ。」と、私もオキラクに構えるようになっていた。学校は都立の単位制だが、2年3年と殆ど1~2単位ずつしかとってないかもしれないから(よく知らない、全然把握していない・・・・ (^.^; )先は長そうだ。今年の春、クラスの半数の子どもたちが卒業して行った。娘の仲良しさんも卒業して行った。娘は突然二つのバイトをスッパリと辞めて(夏休みからまたひとつ始めたが)、この春から学校へ通い始めた。時々昼夜転倒して朝起きれず、多少はサボりながらも、今ようやく半年が過ぎた。驚くべきことは、ちゃんと前期の試験を中間、期末、と受けたことだ。昨年までは勉強してないから、とか、出席数が足りないからいい、とかいって、ほとんど試験を受けてないのだ。だから、単位も取れていない。私は子どもが小学生の頃から、テストや成績表をあまり見ない母だった。人をカタチで評価することに反発があった。成績が良い時もあまり褒めない、子どもにとっては冷たい母だったかもしれない。今回娘が成績表をもらって、私に見せに来た。「ねぇねぇ、ほら、これ・・・・」 「おぅ、4と5が並んでるじゃん」(-)は出席数が足りずに評価を出せない科目だ。それでもけなげに今回は全部のテストをきちんと受けたのだ。「ほらね、この5、あの先生がくれたんだよ」あの先生とはいつも遅刻する彼女(朝の支度に時間がかかる)を待ってくれてる先生だ。「よし、今日は11時まで待ってみるか」、とか言って雑談しながら待ってくださることが多いらしい。その先生が遅刻常習犯の彼女に試験頑張ったからと言って5をくれた。他にもテストの時など遅れると心配して電話をくださる先生もいる。 娘は人とはテンポが違う。つまりとってもマイペースで、スローなのだ。さあ、やろう、と言って始めるまでにとにかく時間がかかる。バイトから帰って「おなかすいたごはん~」と言って、食卓に着く前にまずリクとたわむれる。「ねえねぇ、お母さん」と言って話を始める。30分からほっておくと1時間もそのままだ。「ねぇ、おなかすいてるんじゃないの?」「あ、そうそう」やっとテーブルの前に行く。もう、すっかりさめたおかずの前に座ることになる。「お風呂入ろう」そう言ってから入るまでに30分はあるから、その間に弟たちは競って入る。入ったら最後、なかなか出てこないのがわかっているからだ。以前の私はそんな彼女にいつも早く早くと、怒ってせき立てていた。小さな頃からずっと。。。。(ごめんなさい・・・・)こんなんで、どうやって生きていくのだろうと、要らぬ心配もしていた。今ではそんな自分や社会がオカシイのだと思うようになった。スローライフを楽しんでいるクリスタルチルドレンたちは案外多いのかもしれない。 そんな彼女はなぜか、先生方と親しい。わからないことがあると先生を訪ねて聴きに行くからだ。マイペースの彼女の素敵な一面だとわが子ながら感心している。中学生の頃、なんでも聞いて来る娘がメンドウになって、「わからないところは自分で先生に聞いて見るといいよ」と言ってみた。すると彼女は素直にそうしたばかりでなく、以来忠実にそれを実行し続けているのだった。個人的にお話すると、苦手、とかキライとか思ってた先生も好きになるらしい。 「ねぇ、ほら、この先生も。」「あら、ホントだ~♪」「今回クラスで2番目だったんだって、担任の先生が頑張ったね~って言ってくれたよ」「よかったねー」 成績表には先生たちが娘を応援する気持ちが表れていた。「ねぇ、なによりも、先生たちが応援してくれてるって、そのことが嬉しいよね♪」「うん」「よかったねー☆」愛があふれた?成績表を見て、娘と感動のひとときだった。 娘が全単位とれるまではあと2年はかかるだろう。人生に大切なのは人との出会いとふれあい、そして今を楽しむことだ。卒業するとかしないとか、そんなことに囚われる必要は全然ない。出会う人、ふれあう人との間に美しい花を咲かせて、そんな毎日を過ごしてくれたなら、母も嬉しい。。。。。そんな日々のなかで、好きな道と出会ってくれれば、それもまた嬉しい。おっと、娘の人生に口出しはしない。どんな人生も素晴らしく愛しい彼女の尊い人生だ。母はただにっこり笑って見守るだけでいい。子どもたちの明るい未来を、一緒に見届けたいと願ってみた。
2006.10.07
photo;clareyuko ねぇねぇ、あなたはなんて名前なの?わたしのこと、とっても愛してる、って言ってくれて、そして、可愛い、って言ってくれた。そのことが、どんなに嬉しかったことか、思い出すたびに泣けてくるよ。こんなにも淋しい今のわたしを知っていて、そんなふうに伝えてきてくれたんだね。そんなあなたの優しさに、胸が熱くなります。 ずっとずっと見守ってくれてたの?ずっと私が気づかなかっただけ?今まで何人かの友があなたのことを教えてくれてたけれど、私は感じようとしなかったね。ねぇ、もっとお話しても、いい?私の3人のプレゼンスにきいたら、あなたのこと、僕たちのおとうさんだよ、って言ってた。 ありがとう、私を、あなたのほうへ向かせてくれて。。。。。ありがとう、私のこと、ずっと愛してくれて。。。。光のダンス・・・・・・光は雨と仲良し☆今日は傘も役に立たない嵐のような一日。横殴りの雨の会社の帰り道、道端の草むらが街灯の光を受けて、キラン☆と話しかけてきた。あら、と雨の中カメラを取り出して、レンズ越しの会話。こんな飛ばされそうな風の中、光たちは踊って遊んでたよ♪
2006.10.06
photo;clareyukoインドマハディクシャ、9月の21日間コースが修了。みんなが元気に帰ってきました。ミクシィに増えた足跡を見ておっ、元気に帰ってきたんだな、なんて思いながら、今回参加したたくさんの友たちの笑顔を思い浮かべていました。みんな無事元気いっぱいで帰国しただろうなと想像していると、心が温かくなってきます。そのうちのひとりの天使からメールをいただいて、昨日一緒に秋葉原でのディクシャ会に出かけてきました。みんな、とっても楽しかったみたい。まるで新婚旅行から帰ってきたばかりのように幸せにあふれています。なんだかそのおすそわけをいただいたように、私もとっても嬉しくなりました。私の場合、インドへ行った帰り、2回とも飛行機の中から吐き下しが始まり、帰国後3日は寝込んでいました。2度ともです。心は東京での生活になじめず、静かな故郷へ(インド?光の国?静かな山の中?いったいどこのことだか)へ帰りたくて泣いていました。体調を崩した友も何人かいたみたいだけれど、でも、みんな元気そうです。そして、とにかく楽しかったそうです。なんか、私たちのときとは違う、新しい時代を感じさせるような、古い考えの時代はもう終ったよ、とでもいうような、そんな明るい未来を感じさせてくれた、彼らです。これからが、楽しみです。 実は、上海のちこちゃんが私を呼んでくれて、今回コース修了の上海のエルちゃんと一緒に 10月11日、12日に上海でディクシャ会を開催することになっています。チラシも海を超えてちこちゃんとふたりで合作しました♪ ギバーの笑波さんともお会いできそうです☆そしてなんと、インドでエルちゃんと仲良くなって帰国したシオリンが「一緒に上海へ行く~」と言い出しました。「とんぼ返りなのに、いいの?」「スケジュールが奇跡的に空いてるから、行く~ 」 ひとり淋しく?行くはずだった上海が、大好きなシオリンと一緒に行けるなんて、そんな嬉しいことはありません。でも、本当に、10日夜出発13日朝帰国のとんぼ帰りなのです。 大丈夫? 神様の導きって、すごいね。もう殆ど無抵抗の私たちです。だって、そこには愛と祝福しかないもんね。さて、満席状態の飛行機が、とれるかどうか・・・・それも神さまにお任せね♪上海にお知り合いがいらっしゃったら、ぜひ、ご参加くださいね。 ■ 日時...10月11日(水)・12日(木)(両日とも9:30~12:30)■ 会場...11日...浦東地区 12日...虹橋地区参加費...5,000円 ■ 定員 30名 * 個人セッション...11日、12日 いずれも14時~17時(1時間 4,000円)* お子さんのために... 12日17時~19時(1,000円~2,000円)申し込み&お問い合わせ先 みちこちゃん huanxi88@hotmail.com http://being9.jp/ http://spaces.msn.com/members/huanxi88
2006.10.01
photo;clareyuo 10月5日はミューズの会です。4人の仲良し女神たちによるディクシャ会が始まって、もう5回めになるでしょうか。私にとっても、ゆみちゃん、さきちゃん、ゆうちゃんの3人はとても眩しい存在です。3人は帰国したらいっしょにディクシャ会を開くようにインドでメッセージを受けたそうです。そこになぜか加わった私には、どうして私が一緒にいるのだろう、という不思議な思いがいつもココロにありました。私は会を実行するきっかけを作っただけだから、とすぐに抜けるつもりでした。でも、なかなか言い出せません。神さまが創られる道に委ねるということもあるけれど、傷つくことが怖くていつもいい子でいようとする私には、断るには勇気が必要だったのです。今にして思えば、居心地が悪いと感じるとき、なぜ、気持ちよくないか、そんな自分を発見する、それはひとつのチャンスなのです。気持ちいい道を選ぶのもひとつの道歩く道を気持ちよく感じるようにコンセプトをひとつずつ捨てていくのもひとつの道ですね。でも、自分の気持ちを大切に、自分が気持ちよく感じるように生きていきたい、その頃、そんなふうに思うようになっていた私は、春の3度目の会のときに、ついに不参加表明をしました。ところが、私の用事が前々日に突然キャンセルになり、さらに前日の夜になって、突然私の知り合いがふたり参加することになり、結局ノコノコと出向いた私だったのです。そんな私に、ありがたいことに3人は「きてくれて、よかった~」と喜んでくれたのでした。 太陽のように明るい彼女たちと自分がどこか違うという違和感がいつもありました。ある日この居心地の悪さはなんだろうと考えてみました。おしゃべりについていけない、、、、3人のパワーに圧倒される。。。。それは、私らしくいられないことの居心地の悪さでした。4人でいると、いつも、ポツンとひとり取り残された感じがあるのです。あれ?私って、ただ、認められたいだけだったの???まだあります。みんな、すごいなぁ。。。。そう思うたびに、私はダメな子。。。。。。と、恐ろしい劣等感と自己否定にさいなまれるのです。そりゃあ、居心地も悪くなるわけですね。いったいこの自己否定はどこから来るの? 孤独分離感恐怖 昨年4月にインドへ行く前に、悲しみが襲ってきた時、お風呂場でずっと泣き続けたことがありました。そのときに自分を強烈に否定するものの正体を発見して愕然としたのでした。ソイツはほらね、あんたなんか、誰にも愛されないよそう語りかけてきたのです。でも、ソイツって、、、、私自身だったのです。この自己否定は、比較や嫉妬をも生む、相当手強いヤツです。そして、いつも私の身体の奥深くに息をひそめていて、コトあるごとに風船のように大きくふくらんで、私をやっつけようとします。私を破壊しようとするのです。なぜだかわかりません。そうして、私は、生きることから逃げ出したくなるのです。コイツと戦おうなんて、無理に決まってます、勝敗は最初っから見えてるようなもんです。3ヶ月前、私は(コイツ・・・・・訂正して)この子を認めてあげようと思いました。だって、ソノ子、私自身なんだもん。比較がやってきたら、あら、またきたのね、いいよ。私って、ジェラシーだったんだね。いいよね、それが私だもんね。ひと月前、私はこの子を愛でつつんであげようと思いました。あら、こんにちは、今日はいつまでいるの?きっとまた、静かに消えていくんだね、また来てもいいよ☆認めようとか、つつんであげようとか、そう思うココロもマインド、そんなこと、簡単にできませんよね。 本当はすべてが、すでに在ることを許されて、そこに在るというそのことに、ただ、気づいていればいいだけ・・・・そうでしたね。 ま、いいさ♪時々だったら、そんなふうに感じることができる。それでいいよね☆さあて、、、、と。自己否定のこの子が現れるたびに、それに気づいた私が、どう感じていくことができるか・・・・・あいかわらず、落ち込んだり、元気になったり、、、、そんな私だろうけれども、許されて、愛されて、そこにいるっていうことをそっと感じてみることにしましょう・・・・・ ☆。・゜゜♪・゜゜・。☆。ミューズの会のお知らせ゜・。♪・゜゜・。。☆ とき 10月5日(木)10時~16時場所 タワーホール船堀4F和室2参加費 10000円 ディクシャとガイド役・・・4人の女神たち 芸能界にも多くのクライアントをもつ、生まれながらにしてチャネラーの侑生ちゃん こと松山侑生 毎年船で世界を旅するフリーMCの由美ちゃん こと寺本由美子 アロマテラピストとしていやしの村のヒーラーとして大活躍のミラクルさきちゃん、こと中島左貴 そしてクレアゆうこ こんな私たちと共に過ごすひとときよかったら、ご一緒しましょう☆お問あわせ、お申し込みはこちらまで
2006.09.30
photo;clareyukoオカリ座でのひととき、やっぱり何度も笑いだしてとまらなくなったことがあったけれど、笑いすぎて涙は流したけれど、でも、なんと、おなかは痛くならなかった。やった!ほとんど筋肉痛のようなおなかをさすりながら、なんだ、意外と簡単にできたじゃん♪と思っていた。 1ヶ月続いたあの苦しみはもう、過去の出来事みたいだ。Mキャプテンが言ったとおり、自分で調節できるもんなんだ・・・・と、密かに胸をなでおろしていた。 ところが、昨日、オムライスをつくったら、娘が新しいケチャップを出してきた。銀色のアルミの蓋をはがしたとたん、娘は手をすべらせて、ケチャップが、スカートの上のまッさかさまに、、、落ちた。。。。どぼどぼ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・スカートはお絵かきしたように、あっという間にケチャップ色に染まった。その様子と娘の驚いた顔を見たとたん、あー、ダズゲデ~・・・おなかが、痙攣を始めた。苦しい~助けて!!!スプーンを放り投げて、ソファーへ走りよって、床に突っ伏した。グルジイ~リクが走ってきて、スカートを舐め始めた。必死でリクを制しながら、「おかあちゃん、大丈夫?でも、泣きたいのは、私だよ」娘も半泣き笑い状態だ。ダメ、思い出させないで、助けて!クルシイ~またまたポロポロ涙を流し、泣きながら訴えた。・・・・・・・ようやく笑いの発作がおさまって、なるべくあのスカートを思い出さないようにしながら、洞察?してみた。どうやら、オカリ座では無意識の緊張があって、素の自分ではなかったようだ。家では緊張すらない。ましてや相手は子どもたち、はっちゃけたように笑いのツボのはまってしまったとしても、しょうがないことだ。自分で調整できるようになるには、どうやらまだまだ時間がかかるようだ。そして、どこにいても、素の自分でいられるようになるにも、これまたさらに時間がかかるようだった。。。。 今日のオカリ座はレストランで会食♪ 週末から、ひかりっ子くらぶ、そして金沢でディクシャ会でのひとときを過ごしてきた。松田先生の体調が悪かったので、24日は高岡行きを中止して、実家の金沢へ向った。のんびりゆっくりと母とのひとときを過ごした。家にいるとあれこれとやりたいことが出てきて、心休まらないわたしだけれど、(なにもしないくせに、やらなきゃいけないのに、やってないよ、という罪悪感がつきまとう)故郷の家にいると、ココロからのんびりしてしまう。翌日は具合が悪い松田先生に代わって、Oさんがリードするディクシャ会のひとときとなった。Oさんはご自分でもご夫婦で素晴らしいディクシャ会をされているにもかかわらず、「ディクシャはいろんな方から受けるといいよ」と、自ら松田先生や照真先生を招いてのディクシャ会をも主催なさっている。私はかねてから、友人が絶賛するOさんのディクシャ会のひとときを過ごす機会を得たことを喜んだ。皆さんはふだん、無意識のうちに、カッコつけたり、我慢したり、知らないうちに無理したりして暮らしています。それはごく普通に当たり前のことです。けれど、どうか、自分のココロには正直でいてください。自分のココロにはウソをつかないでください。 Oさんの一言で始まったディクシャ会のひととき。みんな、それぞれに自分のココロを感じている。今まで、見ないようにしてきた、あるいは、忙しくて、無視してきた、そんな自分と向き合うひとときだ。 皆さんは、本当の意味では苦しんでいません。苦しみから逃げることが、皆さんが苦しみと呼んでいるものです。苦しみと向かい合って、味わってください。そうすれば、どんな体験も喜びに変ります。 これはバガヴァンの言葉だ。けれど、誰もがすんなりできることではないだろう。でも、苦しいと感じる自分に寄り添うことはできるかもしれない。「ごめんね、本当は、私、悲しかったんだね☆淋しすぎて、傷ついた自分を、見ないように、してたんだ、ごめんね☆ 」そういって、そっと抱きしめてあげることはできる。 そして、「助けて!」と宇宙に向って叫ぶこともできる。「つらいよ、ひとりぼっちだよ、どうしたらいいの?なんとかして、お願い、助けて!!! 」そうして人は初めて、神へと心の向きを変える。真実の自分へ、一歩一歩近づいていくのかもしれない。 私だけでじゃない、誰だって、みんな、淋しいんだ。。。。そんなことをも少しずつ感じながら、人とつながる温かさも感じながら、毎日を過ごすようになった。だからこそ、ふれあい、支えあいながら、ひとりひとりの道を歩いているんだなぁと、思う。そしてそれは、ひとりひとりの道ではあるけれど、みんなつながったひとつの命の道なんだ、とこのごろは思う。 人見知りの私はおひとりおひとりとお話することもなくお別れしたけれど、故郷金沢で出会った友たち。きっとまたどこかでお会いできるような気がした。 とんぼ返りの故郷、初秋の街とさよならしながらいつか都会を離れ、山に、海に、四季を感じながら暮らしたいと思った。
2006.09.28
photo;clareyukoMキャプテンの船を降りて、四ツ谷に向った。私にとっては9回目となる、青空禅フォーラムの日だった。伊東先生のお話を聴くのは10回目になるが、先生の会はだんだん参加者の人数も増えて、来月からは月2回の開催(10月は19日、28日)と、となる。けれど、たまたま忙しいこの10月、私はどちらも参加できない。月に一度の青空ひとときがない来月を、ちょっぴり淋しく感じる秋ではあるけれど、ココロ中にはすでに、いつも広がっている美しい青空があることをいつもいつも感じて過ごすことにしよう。 今回も空間のお話。目に見える世界に物体と空間が存在するように、内側の世界でも、マインド(思考や感情)を、そこに在らしめている空間なる純粋意識が存在することを、いつも忘れないでおこう というお話。なにかの考えや感情に囚われて、頭がいっぱいになったとしても、そこには必ず空間という純粋意識がある。そこに意識を向けてみよう、ということだ。さっき私が書いたとおり、ココロに青空がいつも広がっていることを、思い出してみようということかもしれない。先生とその場にすっかり慣れ親しんだ私は、いつものように、ココロに浮かぶままに質問をした。 そのマインドの中にある「これが私自身だ」という思い込み、幻想の概念はいったいいつできあがったんですか?それは、宇宙空間が遊んででいた渦が大きくなって、トルネードのようにカタチあるものと錯覚を始めた、ということです。そして、空間だけでは空間を認識できないために、分離が始まった、ということ。以前に何度か先生からお伺いしたお話だ。つまり、それは誰かに与えられた概念ではなく、神である自分が創りだした幻想だったんだ・・・。 純粋意識にフォーカスするということ、それだけではなく、マインドを観察するということは必要ないのですか? 観察自体は必要であると、あらゆるところで言われています。しかし、観察し続けるだけではだめなんです。観察する自分がいる間は、出口を見つけられなくなる可能性もあります。観察にもコツがあります。ボク流のコツをシェアするなら、ただマインドにフォーカスするのではなく、同時にマインドそのものに主体の目を持っていき、無限大の空間の果てを見るのです。そこに存在するものこそ、真実の意識です。この意識の反転がコツです。 チャージ(過去のマイナスエネルギー)の解消についてどう思われますか?必要でしょう。そして、覚醒はある期間の苦しみを経て初めてやってくるんですね。 **********************私たちは、苦しいと感じていることがらを抱えて生きている。あるいは人生こんなもんだと、幸せのやりくりをしながら生きている方も、大勢いらっしゃるかもしれない。今まで避けていた自分の内側を覗いたとき、苦しみを発見して、人は戸惑うかもしれない。そしてそれを見ないようにしたり、また、そこから逃げようとして、苦しむかもしれない。 人生の折り返し点を過ぎた私は、自分の内側をちゃんと見て過ごしているだろうか。残念ながら、答えはノーだ。ほとんどが、無意識の反応で、流れるように時が過ぎていく。 時々は、青空に浮かぶ白い雲を眺めながら、雲の向こうにある美しい青空を、雲とふたりで感じてみることにしよう。そして、優しく微笑んでいる青空の私がそこにいたならば、どんな色の雲をも、みんな、母の愛でつつんでいることだろう。。 。。。。
2006.09.27
photo;clareyuko故郷へ帰る前のこと、キャプテンMの船に久々乗船した。最初に乗ったのが6月、私にとっては3度目の航海だ。今回は乗客も少なく、私は乗組員たちのことも忘れてキャプテンとふたりで舵をとった。航海士見習いだ。私がめざす海のむこうはどんな世界が待っているのだろう。ひとりで小船にゆられて大海の大波に呑み込まれそうになりながら、あちこち漂流して迷子になりながら、プレゼンスはまっすぐにその場所へ向おうとしているようだ。キャプテンMに少しの間、私の船に乗り込んでもらって、航海図を見ながら軌道を修正してもらった。 私は時々やってくる胸の痛みにずっとひっかかっていた。人の怒りに合うと、ものすごくこたえる。人の悲しみに出合ったときも、堪えるには堪えるのだが、しばらくするとそれは流れて消えていく。けれど、怒りはけっこう胸にぐっさりとくる。深く傷ついたように胸が痛い。ハートが開くと、いろんな感情が飛び込んでくるから、しかたないことだね。でも、その怒りの正体を良く観察してごらん。Mキャプテンに言われて考えてみた。ここに誰かに怒っている人がいるとする。ここに私に対して怒っている人がいるとする。どう違うだろう・・・・私に対して怒っている人さえ、たまたま自分の反応で怒っているだけだ。私を傷つけようとして怒っているのではない。だとしたら、胸に痛みを感じたとしても、それは鋭いナイフではなく、その人の苦しみの重さがやってくるだけかもしれない。真我は痛みを感じても、傷ついたりはしていない。その痛みさえをも、優しくつつんでくれているに違いない。 観察するのはあなたです。俺が代わりにすることはできない。人から得た教えは言葉がくっつくだけで、なんの意味もありません。そして気づきは内側から起こります。すべては自分がもっているのです。それが始めて学びとして生きてくるのです。 そうだね。今、私が思ったこと、ココロから、そう思えるかどうか、それも体験してみないとわからないね。OK、やってみるよ、感じたことが真実かどうか。 たくさんのワガママな質問に優しく、ある意味厳しく答えてくださって、Mキャプテンは自分の船に帰っていった。そうそう、ひとつ素敵なお土産を置いていってくれた。 実はひと月ほど前から、私に身体に困ったことが起きていた。ある日、友人たちと過ごすひとときの中で、なぜか、笑いが止まらなくなり、涙もとまらず、そのうえ、おなかが痛くて、助けて!っていう感じだったのだ。その後、笑いが止まらなくなることが何度か重なり、もう、おなかが痛くて痛くて、痛いよ~って涙がぽろぽろ出ちゃう始末。筋肉、失礼、贅肉が炎症を起こしているか、筋がきれたとか、、、、?なんか、きっと大変なことになっているかもしれない、と思った。私があまりに苦しそうなので、発作が起きるたびに、家族のみんなも「まただ・・・・」と、どうすることもできずに、一度医者に診てもらったら?とみんなで心配していた。だって、ほんとうに、痛くて、痛くて、助けてーっと泣くのだ、笑いながら。。。。。お願いだから、私を笑わせないで。。。。っていうか、なんでもない会話なのに、勝手に可笑しくなってしまうのだからしょうがない。身体のしくみにも詳しいMキャプテンにおなかの痛みについても聞いてみた。すると、大丈夫、心配ないよ。今まで知らない間に抑圧してきたものがはじけちゃったんだよ。思いっきり笑ったり、怒ったり、泣いたりしたことなかったでしょう。その蓋がとれちゃうと身体にたまっていたのがイッキにでてくるから、時々いるよ、そんな人。え?そうなの?だって、すんごく痛いのに。大丈夫、慣れれば自分で調節できるようになるから。なんだ、心配したのに、そんな素敵なことだったんだ。急に力がぬけたと同時に、あの日以来(まだ5日めだけれど)、笑い過ぎて痛い涙を流すことがなくなった。助かった、、、、あんな痛い思いはもうこりごりだった。。。。あ、でも、やばい、、、、今日は久しぶりのオカリ座。私は練習中にキョン先生(小山京子先生)と目が合うだけで、吹き出しちゃうのだ。一度など、電話がかかってきて、モシモシと言っただけで、二人で笑い出して停まらなくなった事もある。どうしよう・・・・・でも、今日は個展ライブのお礼も伝えたいし、、、、、。11月1日~5日の間、新所沢駅前のカフェギャラリー「ガルリエ道」で、DivinePresence光の写真展を開催することになったのだ。明子さんからお話を頂いた時は、え?素人の私が?と思ったけれど、親身にお世話してくださる明子さんや、いろんな方から励ましの言葉をいただき、開催を決めた。そして、初日にキョン先生がグループ「ねんど」の3人でライブを行なってくださる。キョン先生は「嬉しい~光につつまれてオカリナ吹けるできるなんて、幸せ~」って言ってくださった。私こそ、本当に、嬉しい(><。)。。。ライブあり、ディクシャありの光の写真展、みなさん、お立ち寄りくださいね♪
2006.09.26
photo;clareyuko 雨の降る日は思い出して傘に隠れて笑ってる傘の蔭で泣いている雨が大好きだった私のこと。。。。。***********************ひかりっ子くらぶの一日が暮れ故郷へ向うバスに乗ります。またね☆故郷の海故郷の山故郷の街故郷の秋に逢いにいってくるね♪
2006.09.23
photo;clareyuko 歩道にどんぐりがころがる季節どんぐりたちは嬉しそうに踊ってるけれどちょっぴりせつないね金木犀が香る秋 ************************************* 昨日は昼と夜、私の大好きなふたつの会に参加した。今月のキャプテンMの会は亀戸で開かれた。亀戸へはバスで行ける。駅まで歩いてロータリーに着いたら、ちょうどバスが出たところ。次のバスが来るまで、15分ほどある。どうしよう、遅れたらみんなに迷惑がかかっちゃうな。どうか道が空いています様に・・・・。やっとバスが来て、ぼんやり外を眺めていたら、バスは駅を出発して3つめのバス停に停まった。そこは自宅のすぐそばのバス停。そういえば、このバスはうちの近くの停留所に停まるんだった。なんでそれを忘れていたんだろう。こっちのバス停にまっすぐ来れば早いバスに乗れたのに、あん、もう!おバカな私。「なんで」って言っても、思考回路がそこを無視して通過しちゃってたので、自分の意志ではどうにもならない。神さまがそうさせちゃったわけで・・・・って思いながらも「クソ~」という思いがやってきた。あれ、これって怒り?ただの反応?覚醒したなら、起きることをただ、淡々と眺めるようになるもんなのかなぁ・・・・ぼんやりそう思った瞬間だった。突然「クソ~」という思いが愛しくなった。あれ?私、どうしちゃったんだろう?マインドとか、マイナスの反応って、嫌いだったはずなのに、愛しいなんて、、、なんで?ま、いっか・・・・・会場には10時ちょうどに着いた。キャプテンMにその話をしたら、「真我はどんなマインドも抱きしめます。この子はいい子だから、この子は出来が悪いからって差別したらおかしいでしょ」と言われました。本当に、そうだよなぁ。。。。そしていつもいつもそんなふうに思えたらいいなぁ。どんな感情に対しても、誰の感情に対しても。みんながそうなったら、愛と喜びにあふれた世界になるんだろうなぁ・・・・本当は、いつでもそうなれることに気づいたうえで、今のすべてをじっくり体験するとしようかな☆
2006.09.22
photo;clareyuko 今日は区の連合陸上大会の日、中学最後の大会、私も応援に行った。1年生の時、1500M走で東京都で4位だった息子だが、その時の1位から5位の生徒は皆今では全国10位内の成績を誇っているらしい。息子はというとずっとサッカーで泥だらけな日々を過ごし、この夏の都大会で負けて引退してからは、塾の夏期講習に早々に行けなくなって以来、勉強にも運動も無気力になり、ただ、ただ、ゲーム三昧の夏休みを過ごしていた。新学期を迎える前日、クリーニングから返ってきた制服を着て、「おかあさん、どうしよう!!!」とズボンをひきずってあせったくらいだから(想像できるでしょ)どんなにか贅肉がついて、体力が落ちた身体になったことか、想像するまでもなかった。そんな彼が果たしてどれほど頑張れるか。。。。陸上競技場裏夏が帰ってきたような、暑い一日だった。 結局期待の800Mは4位、しかも1位2位3位とも、この暑さの中で大会新記録だ。さすが、全国のトップを競う子どもたち。そのパワーはどこからくるんだろう?800M、100M、リレーとヘロヘロになってお弁当も食べずに帰ってきた二男。私も早起きして炎天下で見ているだけでも、疲れた。 子どもたちって、元気なんだなぁ。。。。つくづく感心する。頼もしい♪君たちが自由に創る未来だよ。優しい未来だよ。楽しい未来だよ。思いっきり、羽ばたいてね☆ ******************************ではでは、女神山のユコタン、番外編だよ☆それは忘れもしません、女神山の最後の夕方のことでした。広場からの帰り道、森の中の坂道を歩いていると、「ユコタン」と、うしろから、みっ君が声をかけてきました。その瞬間、背中になにかが当たったように感じました。ぽとっと落ちたそれを見て「きゃーっ」と走り出したユコタン。みっ君に思わず「バカ!」って叫びました。ごめんね、みっ君、、、ユコタンにミミズ君を投げつけたのはみっ君ではなくて、ジッジだったのに。。。。。そのことに気づいて、またまたジッジに「バカバカバカ!!!」と叫んで、さらにまた、ぴゅーっと逃げ出したユコタンでした。 マー君、シオリンたちの笑い声が聴こえてきます。だって、またソレを拾って、追いかけてきそうだったんだもん・・・・ユコタンのトラウマ・・・・それは小学校2年生のときのことでした。クラスのみんなで畑に出て、草むしりをしたときのことです。上級生の男の子がやってきて、ポンポンと肩を叩かれた私。えっ?と振り向いたら、ユコタンの肩の上に、な、な、なんと、ミミズ君が!!きゃー!!!目に涙をいっぱいためて、呆然として身動きひとつ出来ませんでした。 以来、ユコタンは足のない虫を見ると、ソイツがからだにくっついているようで、ゾクゾクして、涙が出てきちゃうんです。(普通の虫なら全然ヘイキなのに・・・)ケビンの恐怖のサムスカーラで何度か体験しようトライしたけど、気持ち悪くて出来たもんじゃ、ありません。 それを、このぉ~!私の虫嫌いをジッジは知っているはずなのに!!!おかげでそれ以来、みっ君はミミズ君を見つけては、ユコタンのところへ持ってくるのです。なんてこと。。。。【><。】 ところで、今朝夢を見て泣きました。夢の中で長男が石を起こし、その下にいたゲジゲジをつまんで私の肩の上に乗せたのです。私はうめき声をあげて泣きました。すると早起きしていた長男に起こされました。「おかあさん、どうしたの?何で泣いてるの」目が覚めて夢とわかったけれど、うまくしゃべれない。「だって、、、シュウが、、、私の肩に・・・・・」 あぁ、これも女神山後遺症。。。。いったいいつまで続くやら・・・この前みっ君に会った時も「ユコタン、あのね、今度ミミズ持ってってあげるよ」なんて言うし、、、、みんな、どうか、、、もう、忘れようよ。足のない虫が怖いユコタンのことは☆
2006.09.20
photo;clareyuko昨日今日とレインボーくらぶのひとときを過ごしました。昨日は台風の中、岐阜県は高山からきてくださったKさんと、10日ごとに埼玉から来てくださるIさんのお二人。Kさんとはどういうご縁なのか、彼女は私と同じKIN170白い磁気の犬、愛ひとすじの人です。私は自分と同じKINの人と初めて会いました。愛って、とってもシンプルなはずなのに、私にとってはむずかしいんだなぁ、とっても。だって、愛そのものの自分と、愛してる、って言うことは、違うんだもんね。 そして今日は練馬のYさんの個人セッション。彼がきてくれるようになってから、もう1年になります。ふたりで光のメッセージカードをひきました。彼がひいたカードはListen・・・・・他人の意見は気にしない、内側から響くハートの声に耳を澄ませ、その導きに従う。私がひいたカードはMe・・・・・誰に認めてもらう必要もない、他人も問題を引き受けたりもしない、自分という存在をひたすら高めていこう。ふたつのメッセージはふたりへのメッセージだと思いました。神の声をもっと聴くんだよ、彼もそうなるから・・・・・彼にディクシャをしながら、プレゼンスの声が聴こえてきたように思いました。私が自分自身への信頼を深め、愛に目覚めるということは、私自身の問題でありながら、私ひとりの問題ではなかったのです。地球上のひとりひとりが、そうやって影響しあって、助け合って生きています。なぜなら、みんなひとつにつながっているのだから。今更ながら、そのことを思い出していました。 さぁ、女神山最終日、最後のワークです。よーい、ドンで「ぎゅっ ( ^▽^‐)」大会。ママのところへダッシュして、ぎゅ~っ ( ^▽^‐)次はママから子どもたちのところへ走ってって、ぎゅ~ ( ^▽^‐)ラストは他の人んとこへ走ってってギュ~ ( ^▽^‐)でも、3歳の天使たちのたくましいこと!最後まで大人にコントロールされることはありません。ヒカル君は3日間ですっかりお気に入りになったタイコを離さなかったし(本当に上手なんだな、これが!)、けれど、やっとやってきてくれて一緒に参加。ほっ☆のぶ君は眠いのか、絵本を離さず、ぐずっててなかなかママのそばを離れません。最後までスムーズには運びません。でも私は、子どもたちのたくましさに、うん、いいぞ♪と、内心拍手を送っていました。 次に親子でハグハグしてるところを、みんなで輪になって手をつなぎ、歌を歌いながらぐるぐるまわりました。そしてストップして、せーの、で、わーっ♪と真ん中へ走ってって、みんなでギュッ~ ( ^▽^‐)歌を変えながら親子一組ずつを、みんなで囲んで、ぎゅ~っ ( ^▽^‐)しました。途中で、なかなかご機嫌が直らないノブ君を向こうにおいたまま、なんと、ときえちゃんも輪の中に入って参加♪すごい!ときえちゃん☆ するとママに置いていかれたノブ君、ワンワン泣くかとと思いきや、不思議そうに、こっちを見てます。あれ?なんだろう、ボクも参加してみようかなぁ。。。。なんて感じです。やったー♪ 今度はノブ君親子の周りを歌って廻ってせーの、ワァー♪ギュー ( ^▽^‐) やったね☆ 最後はさよならセレモニー。アイコンタクトで「ありがとう」の思いを伝えあう、プレゼンスの存在を感じあう、ひとつのつながりを感じあうひととき。あやさん、シオリン、そして7歳のみっ君も泣いていました。そして、最後に皆で手をつないで、、、ひとつを感じました。ありがとうございました♪あっというまの3日間でした。マー君が涙ながらにお礼を言いにきてくれました。 みんなの涙と、熱い思いを感じながら、ユコタンこそ、感動していました。みなさん、ありがとうございます。講師でもなんでもない、ディクシャしかできない、ただ子ども大好きの写真家(私はアマチュア)である私たちのセミナーに、長野まできて参加いただいたこと、本当に嬉しかった。次回はいつになるかわからないけれど、きっとまたどこかの森で集まりましょうね。雪の森もいいなぁ。春の森も、秋の森も。。。。少し大きくなった天使たちと、きっとまた会えるね。 あやさんはのんびりもう一日泊まっていくとのこと。電車で帰るときえちゃん親子、車で温泉へ向うというマー君一家を見送り、お祭りのあとの静けさが残った女神山で、淋しさを感じた光君。ユコタンのオカリナ探しにくっついてきて広場まで一緒に散歩しました。森の中を、ふたりで手をつないで歩きながら、なんだか愛しさがこみあげてきました。大丈夫、きっと、みんなが楽しく過ごせる、優しい未来になるからね、誰も傷つかない、みんな、ひとりぼっちになんてならないからね☆ なんか、そんな思いで胸がいっぱいになりました。ヒカル君の、ノブ君の、みっ君の胸に、女神山で過ごした記憶は、いつか忘れられるかもしれないけれど、お互いに感じあった、交流のひとときは、いつまでもココロの奥深くに、温かなギフトとして残っているにちがいありません。あやさん、ときえちゃん、マー君、シオリンのハートにも、kazesanのココロにも、森で過ごしたこのひとときに灯った暖かな灯が、いつまでも消えずに温めているとしたら、、、、素敵だなぁ。。。。。私にとっても生涯忘れることのできない、大切な宝物となったひととき☆神さま、ありがとう。そしてありがとう、森の妖精さんたち、いつでもまた、会えるね。そう、ココロに思ったこの瞬間に・・・・・
2006.09.19
photo;kazesan kazesanの思いの詰まった写真集「あめつちのしづかなる日」がついに完成しました。価格は3,500円。2冊以上注文されると送料無料になるそうです。お申し込みは 龜鳴屋さんまで(TEL/FAX 076-263-5848)私も、手にとって、ページを開くのが今からドキドキ楽しみです☆ さて、3日め 、女神山最終日の朝がやってきました。 今朝は朝から車でに乗ってみんなでおでかけ。すぐ近くで陶芸をされていらっしゃる工房土喜の佐々木さんのアトリエに、みんなでおじゃましました。佐々木さんはジッジの旧友、エミサリーの仲間です。女神山ライフセンターを創られた大森仁さんも同じ仲間です。 できれば8時半ごろにきてほしいと言っていらっしゃった佐々木さんですが、到着したのは9時過ぎ。優しい佐々木さんは「早かったな、子どもたちがいるから9時半ごろになるかなあって思ってた」と言ってくださいました。森の時間はやっぱり流れる速度がちょっと違う感じです~。佐々木さんのゆったりした雰囲気は、彼の谷あいでの生活、自然そのもののように感じました。アトリエも工房も、すぐそばにある喫茶店パニも、全部佐々木さんの手作りの建物です。ゴザをひいて迎えてくださった佐々木さん。みんなにお茶を入れてくださって、まずはゆったり自己紹介。「佐々木さんのこと、なんてお呼びすればいいですか?」「ぬめちゃん、にしようかな」最近近くに住みついたウシガエルの名前だそうです。入るはずもない下水溝のアミをとおり抜けて、スルスル入ってそこにいたヌメちゃん。近頃また行方不明なのだそうです。さて、いよいよ土つくり、粘土遊びタイムです。ふるいにかけて半分できあがった土に水を混ぜてこねていきます。ヌメちゃんは硬めと柔らかめの2種類の土を用意してくださいました。少しずつ水を混ぜて、こねて、広げて、まるめて、またこねて、、、、そして足でフミフミもしました。ももタンを抱っこしながら、素足フミフミがなんとも言えず気持ちいいユコタンでした。からだにたまった不要なエネルギーを優しく吸い取ってくれる感じです。あやさんとときえちゃんが、フミフミしながら、ヌメちゃんがたたくタイコに合わせて、楽しく踊りだしました。時空を超えてタイムスリップ?粘土を踏みながらリズムに乗って踊るふたりの姿は、松明のまわりで踊るアフリカの原住民そのもののように見えました。 不思議な世界が終わり、今度はちぎっては投げ、ちぎっては投げのひととき。壁にビシッ、ビシッと粘土を打ち付けます。日ごろのストレス解消?とばかりに投げあう姿はけっこう迫力ありました~(=^_^=)一番アクシデント?はノブ君です。粘土に水を混ぜる佐々木さんをじっと見ていて、そして、ついにバッシャーン♪バケツをひっくり返したのでした~ もちろん、多分、粘土に水を混ぜるつもりで(=^_^=) おぉ!サプライズ♪天使たちはなにをしてくれるかわかりませんね。しかも驚く大人たちをまったく気にせずに黙々と水浸し粘土で遊んでいます。と、思ったら2こめのバケツもひっくり返そうとして、引き下がりません。いいよ、ノブ君、どんどんひっくり返しちゃってね★ ユコタン、益々楽しくなってきました。みっ君はできあがる前の土から黙々となにかを作り続けています。「それ、まだこねる前の土だから、やり直したら?」ぬめちゃんのアドバイスも子どもたちには通用しないみたいです。そういえば、曼荼羅のパズル絵を描いた時も、3人とも没頭していました。集中して絵筆を離さないノブ君は、余白がなくなるまで塗りつぶして、やっと、「よし」って言う感じで、その姿はアーティスト、っていうより、職人そのもののようでした。 そしていよいよ創作タイム。ぬめちゃんといっしょに、いろんなカタチを思い思いに創りました。でも、みんなでひとつの世界を創造している感じ。なんだかどの作品もみ~んなつながってるみたいだもん。 できあがってみんなで批評しあって、最後にはまたそれをぐちゃぐちゃに踏み潰しました。お片づけ~みんなで鶏さんやワンちゃんのいるところまで行って手足を洗い、そしてまたゴザをひきなおしてお茶をいただきました。大自然の中に在るアトリエでの、楽しいひとときも、あっという間に過ぎていきました。宿舎に戻り、シャワーをあび、ラストランチも終わり。いよいよシェアリングと最後のワークの始まりです。みんな陶芸教室でのひとときに大満足の様子です。あやさんはこのセミナーでのたくさんの気づきについて語ってくれたあとで、親子で参加できるセミナーを続けてほしいと言われました。 子どもがいるということで、自分を見つめる時間をなかなか持てないでいるママたち。いつもいつも忙しさに流されてしまいそうな不安、子どもが少し大きくなったとはいえ、ユコタン、わかるなぁ、その気持ち。ココロ静かに自分と向き合うひととき、自然とつながるひとときが、とっても大切に思えるんだよ。都会に暮らしてると、その思い、よけいに強くなるよね。ときえちゃんは、静かな森の中で、子どもといっしょに過ごせた時間を心から喜んでくださいました。マー君シオリン一家も「いつか長野へ引っ越してくることになるかもしれないね・・・」なんて楽しい未来についても語ってくれました。 さぁ、最後の最後のワークを始めます。
2006.09.18
photo;clareyuko 昨日は中学校の委員会でした。ちょうど学校公開中の土曜ということもあって、大勢の方々が授業参観に来られていました。私も委員会が終ってから、3年生の教室を覗いて見ました。教室へ向って歩いていくとちょうど、二男と目が合って手を振って、後ろへ廻りました。扉のそばに立って、正面を見ると、ちょうど国語の授業中。ザワザワ。。。私に気づいた生徒たちが後ろを振り返り始めました。ひとりの生徒が私を見て、「こんにちは!」と声をかけてきました。すると連鎖反応のように4,5人の男子生徒が振り返り、「こんにちは」と挨拶の声がコダマします。と同時にザワザワ・・・・「ほら、タニ坊のおかあさんだよ」みんなの視線がささやきあってるみたいです。元気よく挨拶してくれる子どもたちはとっても気持ちいいけれど・・・おいおい、今授業中だよ、と私が思った瞬間、二男がみんなに向って「うるさい」(顔は笑ってる)と叫びました。先生が何か言ってます。あらら、これじゃ授業の邪魔になっちゃうわ~・・・・・二男に手を振って、そのまま帰ってきました。こんな授業参観日も初めて。まったく二男にはいつも驚かされることばかり。前日100円ショップでストッキングを買った友達からそれをもらった二男は教室で、部活で、ソーラン練習会で、それを被って、みんなを驚かせたと言います。みんなを笑わせるのが大好きな二男だけれど、「ちょっとやりすぎじゃない?先生なんか言ってなかった?」「べつに、、、『おまえは宇宙人か』って、言ってたよ。」東京都は2学期の成績と内申書の50%ほどが高校受験時の点数になります。この時期にそんなおバカをしているのはうちの子ぐらいかもしれません。古い尺度でものを見るのはやめよう。君たちは自由だよ。困ったことが起きても、自分で受け止めて、また立ち上がる。思いのままに、自由に生きて。いつもいつも見守ってるからね。 さて、19時半。女神山の最後の夜のスタートです。思いもかけずノブ君が起きていたので、まずは絵本タイム★ kazesanが大好きな星野道夫さんの写真絵本「ナヌークの贈りもの」を読みました。 3歳のノブ君には少しむずかしかったようですが、ミズキは聴いています。そして子どもたちより、なお真剣に耳を傾けているのは大人たち。いえいえ、ジッジ自身が一番真剣に、ハートをドキドキさせながら読んでるみたいです。 ユコタンはヒカル君いなくて残念だったけど、「ぎゅっ」読みました。この絵本は大阪に住んでるゆかりちゃんから教えてもらった絵本です。子どもたちのために何かをしたいと思っている大人はたくさんいます。ギバーの中にも、このブログの読者の方のなかにも、たくさんいらっしゃいます。お母さんばかりでなく、一緒にやりたいと言ってくださる方との出会いが、今までにもたくさんありました。数年前までインディゴだったという若者たちです。ゆかりちゃんもそのひとりです。「ぎゅっ」は動物の親子がたくさん出てくるので、のぶ君もみっ君も真剣に耳を傾け始めました。このあと続けて「ぎゅっ」大会をしたいところだったのですが、ヒカル君がもう下で寝ていたので、それは明日のお楽しみにとっておくことにしました。 8時いよいよ大人の時間、バーチューズカードです。ここで子どもたちは二人とも眠ってしまいました。kazesanが講習を受けてこのカードを始めたのはもう一年以上前になるでしょうか。正式のルールに囚われることなく、カードを使って自由にそれぞれの思いを語り合いました。それはそれぞれにひいたカードと、そしてみんなからその人へ贈る言葉のプレゼントでもありました。ユコタンは「信頼」というカードをひきました。「信頼」と言っても、自分への信頼、人への信頼、神への信頼・・・・いろいろありそうです。言葉ひとつとっても、生まれた場所、生きてきた環境の違いでしょうか、実はひとりひとり感じ方や受け取り方が違うということを、このごろになってしみじみと感じています。私は「信頼」というカードから、家族をコントロールしないというお話をしました。おせっかいな私は娘に常々言っていることがあります。「迷った時には、おかあさんだったらどうするかって、頼むから考えないでね、自分がココロから望む道を選択してね」私は母に「迷った時は、お母さんなら、どうするだろうって考えて決めれば間違いないよ」と教えられてきました。だからって、その反対を娘に押し付けちゃってるわけです。あぁ、どこが信頼なのか・・・・本当は自由なのにね。 ま、いっか・・・(^.^; 人を信頼できない自分のなかに、自分自身を信頼していない、という事実が浮上してきます。そんな私ですが、マー君、シオリン、あやさん、ときえちゃん、そしてジッジ・・・みんなからたくさんの温かな言葉のプレゼントをいただきました。私がどんなに自分を信頼できていなかったとしても、迷いながらも、道草をしながらも、立ちどまってうずくまったりしながらも、なんとか私自身の人生というこの道を歩いている・・・・ということは、そのように導いてくれている目に見えない存在、真の自分が、きっといるんだと思えてきます。そのことをきっと、私は限りなく信頼しているのかもしれません。そして言葉のプレゼントが行なわれる時、そこに添えられた思いが、温かく、それぞれのハートに流れていくのを感じます。いつもいつも、言葉に囚われず、というよりも言葉による反応、反射パターンに囚われることなく、言葉の向こう側にある相手の思いを感じながら暮らしていったなら、人と人とのつながりはもっと温かなものになるかもしれません。そして、もしできるなら、その人の思いの向こう側にあるものまでを感じようと、ひとりひとりが思えたなら、この世界の人間関係はすべて、愛という名の美しい花束の応酬になることでしょう。 あっという間に2時間ちかい時間がたっていました。最後にサンカルパ、意図のディクシャをしました。みんなの願いが、どうか、叶いますように・・・・ 今日という一日が終りました。最終日の明日も素敵に過ごせそうです。おやすみなさい★
2006.09.17
photo;clareyuko秩父の上江洲先生の会で素敵な若者と出会った。経営者でもある31歳のK君は、今奇跡のような毎日のめまぐるしい変化にワクワクしながら、目に見えない世界のつながりの中で、日本を、世界を変えようと、張り切っている。すごいと感じたのは、そういう若者たちとの出会いが、すさまじい勢いで彼のまわりに広がっているということだ。彼の周りの若者たち。私は会ったことがないけれど、半数が経営者であり、目に見えないものが見えるという、いわゆるクリスタルチルドレンたちだそうだ。彼や彼らは物々交換の村づくりをしたり、新エネルギーを開発、利用のために奔走したりなど、新しい時代を嬉々として創り始めている。話を聴きながら、圧倒されながら、私は、明るい未来を、今現実として感じ始めた。彼らのパワーの原動力となっているものは何だろう。未来を信じる力・・・・・自分を信じる力・・・・・短いひとときの間に、あっという間にそのパワーが力強いうねりとなって、私のハートに温かくしみこんできた。私はディクシャを主に苦しみからの解放のツールとして、今まで紹介してきた。子どもたちの未来のために、まずはママたちが解放されなければ、、、、大人が概念から自由にならなければ、、、、などと考えていた。K君の話に耳を傾けながら、こんなにも明るく力強い若者たちがいるのだから、彼らがもっともっと自由に思いっきりやれるように、そんな明るいパワーディクシャをどんどん広めるのもいいんじゃないかと思った。苦しみからの解放であろうが、ワクワクルンルンのディクシャであろうが、ディクシャは愛のエネルギーだ。私の視野をもっと広げれば、もっともっと、助け合い、支えあい、愛があふれる明るい未来を、確かなものとして感じられるようになるかもしれない。私は嬉しくなってきた。楽しい出会いと楽しいひとときだった。 ★ ひかりっ子くらぶ~天使の親子のディクシャ会とき 第11回9月23日(土)10時~16時 場所 タワーホール船堀 4F和室1 (地下鉄都営新宿線船堀駅前)参加費 18歳以上7000円 小学生~18歳未満3000円 未就学児は無料 ※ お子さんが小さい方で長時間の参加が難しい方は半日(参加費4000円)受講も可能です。第9回ひかりっ子くらぶ以来、親子のためのディクシャ会を開催しております。大人も子どもも、それぞれが親子関係の中にあるトラウマを解放しながらひとりひとりがDivine Presenceとしてふれあう永遠のつながりでこの人生を旅していくためのディクシャ会です。 子どもたちがトラウマから解放され、スワダルマ(生涯の仕事)に目覚めるように。。。。大人の私たちも両親との人間関係を整え、そして子どもたちとの間に作られてきたかもしれないチャージを解放していきます。親子共にプレゼンスの絆を深め、プレゼンスと共に光の道を歩いていけるよう愛と光のひとときを過ごします。 お子さんがいらっしゃらない方で、両親との人間関係を整えたい方、 また、インナーチャイルドをいやしたい方も どうぞお気軽にご参加くださいね。 お問い合わせはこちらまで
2006.09.15
pohoto;clareyuko前夜、家族で創作した天地をつなぐそれぞれの物語の発表の時間がやってきました。最初にジッジとユコタンが二人で描いた絵からです。まず、ふたりがひかりっ子くらっぶを始めた経緯とこれからなにを目指そうとしているかというお話を、kazesanがしてくれました。私は、それを引き継いで、ある虹の天使の物語をお話しました。地球を助けたいと願ってやってきた天使が傷だらけになって、そしてとうとう歩けなくなった時に、たくさんの仲間たちが自分の羽をプレゼントしてくれて、ついに大空を飛んだ。そしてたくさんの子天使たちがあとに続いて、飛び立った。。。。そんな天使のお話です。ユコタンはその物語の紙芝居を子どもたちに語りたくて絵を描いたのでした。ある日、虹の天使は神様のお使いで銀河を散歩していました。美しい星たちがきらきらウインクしながらささやきかけてきます。その中でもひときわ美しい蒼い星が天使を呼んでいるようで、彼女は導かれるようにその星に降りてきました。天使はその星に近づくにつれて、なぜか哀しみで胸がいっぱいになってきました。そう、その星は泣いていたのです。星の名前は地球。天使が降りてきた場所は戦争の真っ只中、傷ついた兵士が故郷の母を思い、今命を落とそうとしています。天使は母の代わりにそっと兵士を抱きしめました。別のところに降りてみると、そこは貧しくて、病気が万延している小さな国でした。病に侵され栄養失調で苦しむ幼子を助けることもできず、ただ涙しているママの姿がそこにありました。胸が張り裂けそうな思いで、共に悲しみながら、天使は少し違う時間の地球へ降りてみました。するとそこには、いじめで泣いている子どもたちがいました。いじめている子どもたちも、思いっきり傷ついています。会社へ行けなくなったお父さんたちもいます。満員電車に乗ることすらできません。孤独なママたちは、育児ノイローゼで、子どもに当たることしかできません。みんな、一見平気を装っていますが、ココロが悲鳴をあげています。どうしてこんなになるまで、誰も気づいてあげれないんでしょうか。いえ、みんな、みんな、疲れきっているのです。虹の天使はいたたまれなくなって光の国へ帰り、神様に言いました。「神様、地球を助けてください。いったい、どうしたらいいんですか」神様は言いました。「みんなもう、気づいているんだよ。苦しむために生まれてきたんじゃないって」「神様、私になにかできるでしょうか」「地球で生まれてみるかね」「はい、きっと・・・」虹の天使は決心して地球へやってきました。実は同じ思いですでに地球へ降りてきている天使たちがたくさんいたのです。そして彼女に続いて、たくさんの天使たちも地球へやってきました。虹の天使の地球での転生が始まりました。けれど、最初の意気込みはどこへやら、、、、何度も転生を繰り返すうちに、天使は傷ついて、傷ついて、いつのまにか羽はボロボロ。身体は泥だらけ、足を引きずり、あぁ、もう倒れて、起き上がれないみたいです、、、、、もう涙さえ枯れてしまいました。虹の天使は自分が天使だったことすら、もう忘れてしまいました。大空を自由に飛んでいた、喜びのあの頃のことを、もう思い出すことはありません。すると小さな天使がやってきて、自分の羽根を一枚虹の天使に渡しました。見るとその天使も羽が痛んでいます。痛んだ自分の羽から、綺麗な羽を選んで、彼女にさしだしてくれたのです。羽をもらった虹の天使は、少し元気になり、泥の中から、起き上がりました。今度は別の小さな天使がまたやってきて、また自分の羽をぬいて、彼女にそっと差し出しました。彼女はもっと元気になってヨロヨロと歩き始めました。それからは次々といろんな天使がやってきて、一枚ずつ自分の大切な羽を虹の天使にプレゼントしてくれました。虹の天使の羽はみるみる大きく美しい翼になっていきました。そして、やっと、自分が愛と自由の天使だったことを思い出していました。大空を飛んでいたころの遠い記憶が蘇えってきました。虹の天使はある晴れた朝に、翼を大きく広げて、飛び立ちました。小さな天使たちも思い出し始めていました。青空を楽しそうに飛ぶ虹の天使の姿を見て、自分たちも自由と喜びの天使だったことを、たくさんの天使たちが次々と思いだしていました。虹の天使が地上を振り返ると、たくさんの天使たちが彼女に続いて飛び立ってきています。愛と自由の翼をもっていることを、とうとうみんなが、思い出したのです。天使たちが舞う大空の向こう、遥か輝く銀河に美しい虹がかかっていました。見下ろすと地上は金色に輝いています。すべてを思い出したときに、虹の向こうも、虹のこちらも、世界のすべてが、きらきら輝く美しい愛の世界だったのだと、天使たちは今思い出していました。 傷ついた天使は私であり、ひとりひとりであり、みんなです。みんな、だれかに助けられて、生きています。そして、元気になった翼を広げて、大空を自由に飛ぶ日がいつかきっとやってくるんですね。世界のすべての道しるべとなって・・・・・そんな夢を描いているユコタンです。そんなそれぞれの家族の天地をつなぐ物語も素晴らしいものでした。そして全員の絵に、必ずと言っていいほどに、虹が描かれていたのが印象的でした。みんな、それぞれに羽をプレゼントしあっている、虹を渡る仲間なんだろうな、密かに思ったユコタンでした。女神山では室内での写真を一枚も撮らなかったので、お見せできなくて、残念ですがジッジがkazesan galleryにアップしてくれました。 まだ4時前だったので、ジッジが「外で遊ぼう!」と言って、森へ飛び出していきました。子どもたちも、そして少し大きな子どもたちも、あとへ続いたのは言うまでもありません。いつのまにか音楽家になった子どもたちはタイコをもって外へ。タイコをたたいたり、走り回ったり、蜘蛛の巣採集などをしながら、みんな自由に遊びました。最後の夜が、ひとりひとりにとって、かけがえのないひとときになりますように☆ ユコタンの胸はいっぱいにふくらんでいきました。
2006.09.14
ひかりっ子たち創作の世界東京は2日続けて雨降り。秋が駆け足でやってきたみたいです。雨にぬれて街路樹がキラキラキラキラなんてきれいなんでしょう!!!!この世に生きていることに感謝で胸がいっぱいになります。 さて、女神山2日め、午後の部が始まりました。昼食のあと、kazesanとみずきが、ふたりでこっそりとジグソー絵のピースをつなぎ合わせていたようです。もちろん裏側からで、ふたりさえもまだ見ていません。午後2時半、会場に上がっていくと、裏返しの絵がホワイトボードに吊り下げられていました。さて、いったいどんな作品ができあがっているのでしょう?ジャーン♪ いったいこれは????なんの意味もない光と闇の絵には違いありません。そして闇の真ん中に光の世界があるのです。けれど、これはひかりっ子たち全員で創り上げた一枚の大きな絵。遠い昔、この10人が暮らしていたどこかの星・・・・・私にはそんな情景に見えてきました。何千回、何万回もの転生で、きっとどこかでふれあっている仲間たちだからこそ、今ここで、こうして出会っている。私にはそんなふうに思えるのです。そして、そうした輪廻転生もそろそろ終わりです。私たちは真の自分に目覚めつつあると言われています。分離の世界が終わり、ワンネスがやってくるのだそうです。 そしてついに、ひかりっ子くらぶKIDSのメインイベントの時間がやってきました。子どもたちはお昼寝しませんでした。本当は、夜に予定していたのですが、お昼寝しない子どもたちは今夜も食事の後には眠ってしまうことでしょう。 プログラムは子どもたちが起きている場合、眠ってしまった場合、はたまた夜ともなるとミズキだけが起きている場合、、、、と幾通りかの準備が必要となってきます。大切なそのプログラムを思い切ってこの時間に実行することにしました。 大いなる自然に見守られるなかでの、親子のふれあい、それは女神山での今回のひかりっ子くらぶKIDSを決めたときから、kazesanの中でずっと温められてきた思いでした。生きている!胸に耳を当てて鼓動を感じる、温かさを感じる、そんなひとときにユコタンの思いもプラスさせてもらいました。天使の子どもたちはきっとどんなことも感じている。ママを思うココロは誰にも負けない。彼らがママにふれれば、きっとママのすべてを、具合の悪いところさえもを癒してくれるにちがいない。そんな思いから生まれた親子のヒーリングごっこをそこに加えて、そしてジッジとユコタンのグレースタッチもプラスしました。せっかく起きているからと思った3歳のノブヒロとヒカルはすでに部屋の隅で座椅子を積み上げ、なにやら基地を作って遊び始めています。残ったメンバーで心臓のドキドキを聴き始めました。温かな、神聖な時間が流れました。みっ君の両側に寄り添って横になっているシオリン(ママ)とマー君(パパ)の姿は今も私の胸に温かく蘇えってきます。それぞれの親子がみんな微笑ましくって素敵なひとときでした。まだ赤ちゃんのモモちゃんのヒーリングはナンバー1だったかもしれません。大活躍のももちゃんです。 ふれているだけで癒される子どもたちって、なんでしょう。愛と純真・・・・子どもたちに向き合う時、私たち大人も素直にそのままでいられます。そうでないときに、そのままでいられないのはいったい何故でしょう?自分を守るために、仮面や、鎧や、いろんな信念や概念をぺたぺた貼りつけて暮らしている大人たち。そして、いつしか子どもたちにも同じようにそれを貼り付け始めます。子どもたちが傷つかないように、子どもたちを守ろうとして。せっかく子どもたちが、そんなものなどいらないことを教えてくれているのに。。。。ひとりの大人が、素直にそのまんまで誰かと向きあったなら、きっと相手の人は癒されるに違いありません。そしてその人もまた、そんまんまで誰かと接することができたなら・・・・そうやって、素直の輪が少しずつ、波紋となって世界へ広がっていったなら、きっと素敵だなぁ。。。。。そうしたら、傷ついたり、傷つけたり、そんなことがなくなってくるにちがいありません。ワンネスの世界がどんなものか、今の私には想像すらできないけれど、悲しみや苦しみ、不安や恐怖がなくなるのだったら、生きていることがどんなにか楽しいことでしょう。でも、きっと、少しずつ少しずつそんな世界に近づいてきていますよね。だって、切ないくらいに、みんながそう望んでいるのですから・・・・。
2006.09.13
photo;clareyuko 19日 おはよう、森の妖精さんたち♪ 子どもたち、早起きできるかなぁ。。。。5時半 少し早めに森の広場へ行って写真を撮ったり、体操しながら皆を待ちました。 オヒサマの光を受けながらゆっくりと体をほぐしていると、やってきたやってきた。。。すごい♪約束どおり6時半には子どもたちも全員揃いました。まずはゆる体操で体をブルブル。。。さっそく森の妖精たちと遊び始めた子どもたちをそのままに、大人たちだけでゆっくり体操、そして朝食までのひとときをゲームをして過ごしました。大人たちだけで、こっそりと、子どもに帰って楽しんだ二つのゲーム。イタズラっ子のような、茶目っ気たっぷりのときえちゃんの大勝利にマー君完敗、みんなの拍手がこだましました。楽器はいろいろ持ってきたものの、森の音楽会はあきらめて、虫眼鏡を持って探検したり、森の朝をそれぞれに満喫しました。 さて、賑やかな朝食を終え、いよいよメインの一日のスタートです。午前中はユコタンの思いつきにから生まれたワークです。 見る(目)聴く(耳)嗅ぐ(鼻)味わう(口)触る(体)・・・五感を使って大自然と対話します。空、風、鳥、花、木、、、、森の声を聴くながら過ごすひとときです。 東京で暮らすようになって8年。引っ越してきて驚いたことは山が見えないこと。関東平野の大きさに圧倒されると同時に、淋しくてしょうがなかった私でした。そして私の住んでるところは新興住宅地。耳を澄ませると聴こえてくるのは、車の騒音、工事の音、救急車のサイレン、船のエンジン音から飛行機のエンジン騒音。そして時には子どもをしかりつける孤独な母の悲鳴に近い声まで聴こえてくることがあります。静けさとは程遠い毎日を過ごすようになって、いつか耳も慣れてきてしまっていました。目に見えない世界の扉を開けた私は、時折ベランダに出て過ごすようになりました。緑の少ないこの地ではあるけれど、目の前のは荒川が流れ、そして、大きな空があります。夕方西の空に太陽が沈むとき、富士山が美しいシルエットで見える、そんな美しい風景に出会うときもあります。いつか、私は空とお話するようになっていました。中村光也君の家へ向う河原のサイクリングも、風が、すすきが、鳥が、蝶が、語りかけてきます。そのうちに、街を歩いている時も、街路樹や、足元の小さな雑草たちと、お話するようになりました。どうってことないお話です。「おはよ、今日も青空、きれいね」「あれ?お水がほしいの?そういえば、雨ふっていないね」「大丈夫、きっと明日は雨が降るよ」「いってらっしゃい、スピカちゃんが、待ってるよ」 ・・・・・・・ なんだっていいのです。誰だってお話できます。創作でかまわないのです。ただ、目を閉じて、風を感じてみるだけで。耳をすませてみれば、何か聴こえてくるかもしれません。みんなで外へ出ました。「ゆっくりお散歩してきてね。耳をすませて、森とお話したあとは親子で宝探ししてきてね。石ころ、葉っぱ、木の実、なんでもいいよ~」 みんな、みんな、いってらっしゃい ♪kazesanもひとりでどこかへ消えて生きました。すぐそこにある大きな楓の木が風で優しく揺れています。「なぁに?」「また、おいでよ。いつでも待ってるよ」「ありがとう、きっとまたくるね。約束のしるしに一枚もらっていい?」「いいよ」葉っぱのフレディを思い出しました。フレディの友達にクレアと言う名前の葉っぱがいました。「ごめんね、一緒にきてくれてありがとう」そっと一枚の葉を抜いて、本にはさみました。 あやさんは宝物を見つけ、すぐに戻って、ももちゃんにおっぱい。おかあさんと一緒にちゃんと戻ってきて遊んでいるヒカルは本当に、優しいね。のぶ君親子はおとうさんのお土産に野の花をつんできました。「親子で森の散歩は都会の散歩とちがって、とってもいい時間でした」って。森のお散歩、ふたりでゆっくり過ごせて、よかったね。「セミの声が都会のほうが騒がしく感じるのはなぜかしら?ここは空が広いから?」確かにアスファルトだらけの都会は声も反響するかもしれません。そういえば、いつもディクシャを受けにこられるKさんがおっしゃっていました。「今はジャッジがなくなって、物事がドミノ倒しのように、ただ、淡々と起きてくる感じ。そして、いろんな騒音さえも、心地よい音に感じるんです」女神山でのセミの声、すべての音が心地よく感じられるのは、きっと、ここにいるひとりひとりが、森の自然の中で、気持ちよく過ごしているからなのかもしれません。 シオリン一家はけっこう上の遠いところまで行ったらしく、不思議の国へ迷い込んだ様子。そこだけが静かな空間、風がぴたっとやんで、木々のざわめきも葉っぱのささやきもない、音ひとつない、動きひとつない、不思議な静寂の空間に入り込んだそうです。親子3人の不思議な体験に感動が伝わってきました。 11時半 kazesanリードの曼荼羅お絵かきの時間です。画用紙をたくさん貼りあわせ、ジグソーパズルに切り取ったピースに、光の世界と闇の世界をひとりずつ自由に描きます。楽しい世界と悲しい世界を、子どもたちもそれぞれ絵の具やクレヨンを使って、黙々と描きました。ユコタンは悲しみの涙の海と、その向こうに隠れている温かな光の世界を描きました。どんなに悲しみに暮れようとも、涙のむこうで、きっとプレゼンスが微笑んでいる。天使が腕を広げて抱きしめてくれようとしている。そんなイメージがわいてきました。って言っても、ただ、グルグルクレヨンをぬりたくっていただけだけど・・・・・絵がヘタクソなユコタンだけれど、自由に描いて見ました 。人って、ものを創るのが好きなのかなぁ。7歳のミズキだけでなく、3歳になったばかりのヒカルもノブヒロも黙々と絵筆を動かし続けています。すごい集中力!特に、のぶ君は紙いっぱいに、隙間なく絵の具を塗り続けています。すごいすごい♪ ジャッジのない世界だったら、何を創っても、、みんな、うんと楽しめるにちがいありません。そして何をやってもジャッジのない世界だったら、生きることが、どんなにか楽しいことでしょう♪自分自身にも、人に対しても、ジャッジをしないで生きられれば、どんなにか素敵なことはわかっています。でも、それができずに苦しんでいる人がたくさんたくさんいることも事実です。私たち大人は、せめて子どもたちに対して、ジャッジのない愛で包んであげればいいと思います。いえ、どんな社会であろうと、せめて家庭の中では、子どもたちがどんなに自由に感情を表現しようと、我慢させることなく、それを温かくつつんであげられる・・・・そんな場所が子どもたちにとっては必要なのではないでしょうか。。。。私のハートの一部分でいい、ジャッジのないスペース、いつも用意していたいな。いつでも魔法のステッキを振って、そんなスペースを創れるように、せめてココロ準備だけでもしておきたい♪ お昼を食べて、いよいよ午後のプログラムの開始です。ジグソーを張り合わせたら、いったいどんな絵ができあがるのか・・・・・楽しみ、楽しみ♪
2006.09.12
Photo;clareyuko1日目 午後3時 さぁ、まずはみんなで外の広場へ集合♪ どのゲームからスタートからはじめようかなぁ・・・・ ワクワクしながら靴を履いていると、やったーとばかりにさっそく虫かごとアミを持って外へ飛び出した天使たち。あららら~(^^*)「チョー面白いゲーム、やるぞ♪」天使たちをなんとかそそのかし、まるめ込んだkazesan 。 まずはロープを持ち出し、ニョロニョロへび(ジッジリード)の始まり始まり~お、やりぃ♪なんとか全員参加ヽ(^。^)丿普通のセミナーだったら当たり前のことが、当たり前に進行することすら奇跡のようだ。そんじゃ、これはどうだ?ユコタン発案のゲーム「おかあさんの手どーれだ?」最初にママとパパから。目隠ししてわが子の手を見つけます。子どもたちもちょっと興味あり~の表情。でも、のぶ君がなかなかママと離れようとしません。のぶ君、ママが大好きなんだよね、わかるわかる☆さすが7歳のみっ君は、ちゃんと目隠しして積極的に楽しんでる様子。よかった~☆そしてみんなのリクエストで マー君には子ども探しの次にママ探しをしてもらいました。これが、案外むすかしかったみたいで・・・・ ヾ(´▽`;)ゝ私たちもワクワク、いえ、ヒヤヒヤしながら楽しんでしまいました。 子どもたちが森の子どもの世界へはいりこんでしまったので、大人だけになって、「木のシルエット」遊びをしました。私はいきなりのご指名で照れてしまって、肝心の木の気持ちになることをすっかり忘れてしまいました。でも、みんなは素晴らしい☆木そのものになりきってて、これがなかなか、どの木かちゃんと当たるのが不思議でした。 1時間ほど外でゲームを楽しんだあとは、森のお風呂に入ってくつろぎタイム。東京から早朝新幹線を乗りついできただけでも、みんな疲れているのです。ハイテンションだった天使たちも、さすがに疲れたのか夕食後は早々にオネムの時間を迎えたようでした。そしていよいよ夜の部のスタート。巨大スクリーンに映し出されたkazesanの美しい写真のDVDをみんなで観賞しました。 バックに流れるのはミネハハさんの「天地をつなぐ物語」。参加者の皆さんは(何度も見ている私さえも)美しい写真に見惚れてしまって日木流奈君の歌詞を追うどころではなかったけれど、それほどまでに、kazesanの写真が胸に響くのでしょう。私が写真を撮るきっかけとなったのも、kazesanの写真との出会いからかもしれません。 それまでは写真に興味を持ったことも、美しいと感動したこともありませんでしたから。kazesanが撮った写真ではあるけれど、そこに映し出される生命たちは、見る人ひとりひとりに、なにかを語りかけてくるようにも思えます。そのストーリーはきっとそれぞれに違うものでしょう。生命たちの声は、時には神さまの声のように、また妖精たちの声のように、あるいは懐かしい友の声のように、いつもハートに語りかけてくるように感じます。それは私にとって、目に見えない存在と会話する瞬間とも言えます。DVDのシェアリングのあと、それぞれの家族の「天地をつなぐ物語」の絵を創作。小さな天使たちが眠ってしまったことをちょっと残念に思いながら、絵の具やクレヨンをたっぷり使って、お絵かきタイムを私自身も楽しみました。kazesanと私が描く絵はひかりっ子たちがつなぐ天地の物語です。幸い、みっ君がまだ起きていて参加してくれました。明日のシェアリングが楽しみだなぁ。。。。21時 リクエストにお答えしてのディクシャタイム。シャバーサナの時に「天使と神さまが来てパパの手を持ち上げてたよ」ってみっ君が言ってた。私も小さな頃は天使が見えてたのかなぁ・・・・だんだん幼い頃に帰っていく(つもりの)私。いつか、みっ君のように、天使や神様が見えるようになるかもしれないね☆ 私は特に子どもが大好きという人間ではありませんでした。わが子が幼い頃は、自分の子育てだけで精一杯の毎日でした。子どもが少し大きくなって、仕事を始めてからは、友達も出来て、子どもの預かりあいを日常茶飯事にやりながらの、まるで合宿生活のように忙しい毎日を送っていた頃もありました。いつもたくさんの子どもたちに囲まれてはいましたが、自分の子も、人の子も、特に「可愛い~」と思う暇もなく、ただ、忙しく日々を過ごしていたように思います。ところが目に見えない世界の扉を開いた3年前のある日のこと、娘といっしょに電車に乗って買い物に出かけた時のことでした。電車の中は子ども連れのファミリーが何組かいて、子ども好きの娘とふたりで、「可愛いね」、なんて話していたのです。しばらく子どもたちの様子を眺めていた私は、突然胸が熱くなり、涙があふれてきたのです。電車の中で突然ポロポロ泣き出した私に、娘がびっくりして、「どうしたの?」「だって、、、子どもたちが、可愛くて。。。。」自分でもよくわからないけれど、答えながら、涙がとまらない私でした。それからは子どもを叱るママなどを見かけると、「怒らないで」と泣けてきたり、(自分は子どもに怒ったり、しょっちゅうなのに、まったく勝手な話です)なんだか、それから子どもたちが可愛~く思えるようになっちゃったのです。って言っても、もともと子どもそのもの、のようなkazesanの思いにはまだまだかないません。それほどまでに一所懸命子どもたちと遊んでくれたジッジでした。ようやく1日目の終わり・・・・・ディクシャで手のひらが熱くなったというシオリンに、夜遅くまで、たっぷりヒーリングしてもらって、パワー全開のユコタン☆さぁ、明日の朝は早起きして、みんなで森の音楽会をやるぞ♪
2006.09.10
photo;clareyuko 黄昏の海原今日はLAXMIさん主催の上江洲先生の「真我覚醒の会」だった。ちょっと早めに会場に着くと、なんともう先生がいらっしゃっていた。「先生、こんにちは」「やぁ、会うたびにどんどんきれいになって行くね」 (え?わたしってそんなにきれい?・・・・これって超ジョークです、ごめんなさい (^.^; )「え?そうですか?落ち込んでばかりなんですけど」「へぇ、そうなの?まだ囚われたりすることなんてあるわけ?」「はい、しょっちゅうです (^.^; 」「でも、どんどん浄化が進んでるよ、全然心配いらないよ」「そうなんですか、よかった。。。。ありがとうございます。自分ではわからないので、とっても安心しました。」 私は、ほっとしていた。ディクシャギバーとして、ふれあう人に対する責任として、常に美しいココロの自分でいたいと心がけている。悲しみを感じたときなど、特に気を遣う。それでも、浄化が進んでいるということは、私にはわからない意識下のレベルの問題なのかもしれない。あるいは、自分が悲しいととらえたことさえも、実は、浄化を促すパワーとなっているのかもしれない。きっとそうだ。起きるすべてのことが、限りなく浄化へと導いてくれる、神さまからのプレゼントなのに違いない。 上江洲先生のヒーリングを一ヶ月ぶりに受けた。真我覚醒こそが人生の目的だと言う先生は、身体をヒーリングして病を治しても、また、しばらくして別の病に侵されるようでは意味がない、とおっしゃっている。チャクラのブロックをはずして、魂の汚れをとってくれるヒーリングのようだ。第3の目とハートチャクラをヒーリングしてくださった先生に「先生、痛みの正体ってなんでしょう」と尋ねると、「チャクラが開くときに胸の痛みを伴うことがよくあります。でもあなたの場合は痛みなどより、宇宙真理にフォーカスしていったほうがいいと思いますよ」とおっしゃった。 そうだよね、と内心思っていた。なにもわざわざ闇にフォーカスする必要なんてない。青空と宇宙、神に意識を向けていけばいい。胸が痛んだら、原因を確かめることよりも、完璧な神としての自分が痛みを光でつつんであげればいいじゃない。人の痛みのために祈るときのように。もし、闇にフォーカスする必要があるなら、それは必要なタイミングで起きるはず。あえてそんな努力などする必要なんてないよね。今の私にはなんだかそう思えてきた。いつも、いつでも、その時々にプレゼンスが感じるままに過ごしたい。 神聖な瞑想のひとときが流れた。身体が揺れて眩暈を感じた。顔をあげると先生がこちらを見ていらっしゃった。見守られているような安心感につつまれた。 夜、駅に着いて自転車に乗ろうとしたら、時間が遅くて駐輪場にロープが張られていた。あららら~(。>_<。) でも、頑張ってなんとか自転車を外へ出そうと頑張ってたら、通りすがりのホッケーの荷物を担いだ若者が「大丈夫ですか」と声をかけてくれて、助けてくれた。「荷物をたくさんお持ちなのに、ありがとうございます」神様からのプレゼントに感謝しながら帰宅した。マンションの駐輪場の扉は、突風に耐えられるように重くなっていて、四十肩の私をいつも泣かせる。そこをうまく通れずに何度自転車を倒して途方に暮れたかわからない。今日は扉を開けようとしたら、近くを歩いてきた住人の方がこちらに気づいて開けてくださった。「ありがとうございます!」本当に嬉しかった。重い扉をずっと嘆いていた私だったけれど、重い扉も悪くない。大切なことを私に教えてくれる重い扉が愛しく思えてきた。誰かから優しさをもらうと、人はこんなにもハッピーになれるのだ。この世で一番尊いもの、それは人の愛かもしれない。どんな宝石よりも美しい価値がある。人からかけがえのない宝物をいただいて、初めてそのことに気づく。 「親切」という愛を受けとった時も、「ありがとう」という感謝を受け取った時も、そこに流れる波動はかぎりなく私を幸せにしてくれる。今日も神様からの大きなギフトに感謝しながら、人と人とが皆愛でつながる世界になったなら、どんなにハッピーだろうと夢見た。あと1時間で月食。。。。でも、もう、眠くて、、、ごめんなさい。。。。★ レインボーくらぶのお知らせ 9月12日(火)10時~12時 9月18日(祝月)13時30分~15時30分 自宅マンション集会室にてお問い合わせはこちらまで レインボーくらぶのひとときは限りなく神聖な、大好きな時間。 30分前に会場に入って準備をする。 CDを選んで、スタートボタンを押す。神聖なメロディにつつまれて、プレゼンスと会話しながらシ、ュリムルティや写真を飾る。ソルティランプの蝋燭に火を灯し、チャクラのお香を選ぶ。ハートが選んだチャクラのお香を焚いて、光の写真をゆっくりと並べる。準備が整ったら、静かに座り、プレゼンスを感じる。時にはエンジェルカードをひいてメッセージを受け取る。そうやって、参加される方々をゆっくりと待つ・・・・限りなく神聖な、静寂のひとときが私は大好きだ。そして参加者の方が到着し、神様からのギフトを、共にわかちあう。プレゼンスの愛につつまれた、幸せなひとときだ。
2006.09.09
photo;clareyukoヒーリングデイの日の夕方、縷衣香さんと会った。初めて彼女とお会いした日から、半年近くが過ぎようとしている。その間、時折お手紙をいただいたりしていた。そして彼女のアトリエにお邪魔するという約束の日が、多分最も必要なタイミングで訪れたのだった。起き上がることのすべては、きっと当たり前に奇跡のタイミングで、必要な時に起きているに違いない。ふたりのそれぞれの半年はどんなだったろうか。私はというと、目に見えるところではなんの変化もない。見えないところでは、苦しい日々が続いたこともあった。 縷衣香さんはどうだったろう。お嬢さんがニューヨークからって帰っていらっしゃって、そして、「マリアコード」(来年出版される縷衣香さんの体験を描いた著書)をここ数ヶ月間で書き上げられた。知り合いのカメラマンの個展で出会い、ほんの30分ほどを共に過ごしただけの私たち。お互いに顔を覚えているかどうかさえ、怪しかった。五反田駅の近くで待ち合わせ、再会を喜びあい、二人で食事した。ごく普通の主婦である私が、不思議なことにアーティストとの出会いが増えている。画家、版画家、ピアニスト、シンガー、、、、芸術的な才能とは殆ど縁のない私にとっては、眩しいほどにキラキラしている芸術家たちばかりだ。神は私になにを伝えようとしているのだろう。そして、一見なんの接点もなさそうな私たちにいったいどんなつながりが生まれようとしているのだろう。縷衣香さんのアトリエで、彼女の温かな作品たちに囲まれて、夜が更けるまで話し込んでいた。縷衣香さんは20歳の時に神の啓示を受け、以来、どんな苦難の道であろうが、どんな孤独の道であろうが、どんな時にも、ただひたすら自分が信じる道を、崇高なまでに歩き続けてきた方だ。 30歳にして20歳の若者たちのための塾を開いて、生きる喜びをわかちあい、フランスへアメリカへと人生の拠点を移しながら、ひたすら描くこと、創ることの喜びを通して、社会へ平和のメッセージを発表してこられた。 しかも、いつもハッピーである。たくさんの方々に助けられて、今日までの彼女の人生があったのだろう。人を大切にされる、その思いは人並みのものではない。縷衣香さんがいつもいつもふれあう人たちをココロから大切になさるので、神様は世界のどこででも彼女を助けてくださるのだろう。どんなに大変そうに見えるときにも必ず助けてくれる人が現れるという彼女は自分の人生で困ったり、不安に思うことは殆どないというハッピーな人だ。 ただ、自分の行動が人へ及ぼす影響についての心配りはとても繊細で愛に満ちている。人生の要所要所にマリア様、イエス様が現れるという縷衣香さんは人には想像できないほどの試練も経験してこられたのだろうけれどすべてを神様に委ねていらっしゃるようにお見うけした。 暴力を受ける人の悲しみ、暴力を振るう人の悲しみ・・・・私たち女性にとっては切ないばかりの今の世の中だ。この社会で生きていくのが大変な子どもたち、若者、そして女性たち・・・・彼らの助けになるような社会的弱者救済のための施設を創る、という縷衣香さんの夢を、私がお手伝いできる日がくるとしたら、とてもとても素敵なことだ。ルイカンパニーのシンボルは棺桶に入ったハートだ。私たちのハートは社会の概念に縛られてがんじがらめになっている。けれど、いったい誰が大切な自分のハートを棺おけの中に閉じ込めたんだろう。自分自身が、幻の棺おけを勝手に創り、その中に自分自身を閉じ込めているのだ。それが幻であると、ひとりひとりが気づいたら、傷つけあうことなどなくなるかもしれない。 気がつけばもう11時をまわっていた。6時間近くも話していたんだ。。。。縷衣香さんはイエス様の家族の降臨を描いた大切なカードをプレゼントしてくださった。なにも持っていなかった私は大矢さんの「こころを癒す救急箱」を手渡した。パラパラとページをめくりながら、縷衣香さんは共鳴してくださった。(後日お電話でからだが一瞬暖かくなり、癒されたと感じたとおっしゃってくださった)私たちは美しい大きな光の流れの中にあって、助け合い支えあって暮らしているのかもしれない。ごく普通に仮面をかぶり、自分を守ってこの半世紀を暮らしてきた私には、縷衣香さんに教えられることばかりだった。縷衣香さんとの出会いも、神様からの愛のプレゼント、かけがえのない天よりのギフトだ。縷衣香さんがは暗い道を駅の近くまで送ってくださった。その夜、私は縷衣香さんの夢を見た。。。。。
2006.09.08
photo;clareyuko今日はいやしの村のお話会。2ヶ月ぶりにケビンのヒーリングを受けた。右肩がずいぶん良くなってきていたが、まだまだ痛みがあって不自由だ。「強烈な罪悪感があるね。いいとか悪いとかじゃないんだから、罪悪感は持つ必要ないんだからね」え????と思いながら内心図星を言い当てられたように感じていた。「正しい自分」が自身を傷つけてきたことに気づいて、理想を自分に押し付けることにうんざりして、私はいい人でいることをもう放棄したつもりだった。なのに、まだまだ、人に愛されたい自分がいたんだ。。。。。そんなにも傷つくのが怖いの?そんなにもひとりぼっちが怖いの?そうだったんだ、、、、いいよ、無理しなくても。。。。もう、いいよ。。。。そのまんまで・・・・ 罪悪感。私は物心着いた頃から、いつもいつも罪悪感で自分を縛って生きてきたのかもしれなかった。両親の理想に報えない自分いつもダメな自分人と比較して小さく固まっている自分こんな私で、ごめんなさいこんな私、変えられないよいつも不完全な自分を好きななれなかった。いいの?こんな私生きてても、いいの?何十年も罪悪感の中を生きてきた私だった。 なんか、そんなこと、忘れていたのになぁ。。。。気づかないふりしてただけだったのかなぁ。。。でも、そんな私、自分ではどうすることもできないやY(>_<、)Y アンマとバガヴァンに祈ることにした。神様、どうか、もし、必要でないならば私の中の罪悪感とさようならさせてください☆ そして、罪悪感で苦しむたくさんの人もみんなみんな、解放されますように☆
2006.09.06
女神山の原っぱ★photo;clareyuko青空よどこまでも澄んだ私の中の美しい青空よ私の悲しみを誰かの悲しみのココロをその優しさでつつんでおくれ ☆ 雨上がりの夜の街角に立ちどまると雨に濡れた街路樹の滴たちが薄明かりに照らされていっせいにキラキラきらきら詩いただした。クリスマスツリーのイリュミネーションのようにいつか見た、蛍たちの光のようにまるでひと粒ひと粒が世界一美しい宝石のように美しく瞬いた。愛につつまれたように胸がいっぱいになった。美しさは優しさだと初めて気づいた夜だった。。。。
2006.09.05
photo;clareyuko★ ひかりっ子くらぶ~天使の親子のディクシャ会お子さんがいらっしゃらない方で、両親との人間関係を整えたい方、 また、インナーチャイルドをいやしたい方も どうぞお気軽にご参加ください☆ とき 第11回9月23日(土)・第12回11月12日(日) 共に10時~16時 (お子さんが小さい方は半日コースも可)場所 タワーホール船堀 4F 第1和室参加費 参加費 18歳以上7000円 小学生~18歳未満3000円 未就学児は無料 (お子さんが小さい方で半日を希望の方 大人のみ4000円)第9回ひかりっ子くらぶ以来、親子のためのディクシャ会を開催しております。大人も子どもも、それぞれが親子関係の中にあるトラウマを解放しながらひとりひとりがDivine Presenceとしてふれあう永遠のつながりでこの人生を旅していくためのディクシャ会です。 子どもたちがトラウマから解放され、スワダルマ(生涯の仕事)に目覚めるように。。。。大人の私たちも両親との人間関係を整え、そして子どもたちとの間に作られてきたかもしれないチャージを解放していきます。親子共にプレゼンスの絆を深め、プレゼンスと共に光の道を歩いていけるよう愛と光のひとときを過ごします。 ★ レインボーくらぶ のお知らせ自宅マンション集会室にてディクシャ&セッションを行なっています。ご希望があれば、前世療法、インナーチャイルドヒーリングも行ないます。個人セッションをご希望の方は会場費を負担していただくため、2時間5000円です。 9月7日(木)10時~12時 9月18日(月)13時30分~15時30分他、随時ご希望にあわせて開いております。どうぞお気軽にご相談くださいね。 ※ こちらから出かける場合は別途交通費をいただいています。★ 遠隔ディクシャは3回3000円でさせていただいてます。メールにてお問い合わせくださいね☆
2006.09.05
photo;clareyuko8月18日(金) 2年ぶりに女神山の朝を迎えた。昨夜の雨があがって、静かな森の朝だ。鳥のさえずりが夜明けを教えてくれている。せみも鳴き始めた。山の中だから陽が昇るずいぶん前から明るくなくる。時計を見た。5時。あんまり張り切りすぎると息がきれそうに思えて、のんびりかまえることにした。そして6時をすぎてから、散歩にでかけた。雨上がりの美しい朝だった。 2年前の朝を思い出しながら、写真を撮った。静かな朝の女神山で、kazesanがインディアンフルートを吹いている。優しい音色が森の朝を優しくつつんでいた。明日の朝も早起きして、みんなで森の音楽会をしよう♪ みんなの到着が待ち遠しくなってきた。 ここ女神山にはいろんな野生の花が咲いている。女神山ライフセンターを主宰している仁さん、ケイコさんご夫妻の許可を得て、たくさんの草花を摘んだ。オープニングセレモニーで、花たちにも活躍してもらうのだ。セレモニーの準備とリハーサルをして、あっという間にお昼を迎えた。 13時30分 ドキドキ待っていたら、みんな合わせたように、そろって到着。マイカーで道に迷いながら到着したシオリン一家。シオリンとはいやしの村のセミナーで知り合った。偶然自宅が近所だったこともあって、以来、私が自宅で行なうレインボーくらぶと言うディクシャ会に時々参加してくれるようになった。しあわせ体験セミナーに一度参加したことがあるというご主人、そして7歳のみずき君とは会うのはこれで2度目になる。そして東京から新幹線を乗り継いでやってきたのはあやママと天使たち、ノブ君とときえママ親子。あやママは女神山にはもう20回近く通っているというベテラン?さん。kazesanとはその頃からのお知り合いだそうだ。けれど、お子さんが生まれてからはめっきり足が遠のいていたという。今回は3歳のヒカル君とまだ赤ちゃんの可愛いモモちゃんを連れての参加となった。ときえママは昨秋の女神山での子育て関連のセミナーで知り合ったあやさんのお友達、3歳のノブヒロ君とふたりで参加してくれた。子ども連れの旅はとてもとても大変である。お疲れ様でした~☆ 母家の一階に3家族の宿泊部屋、階段を上がった2階をセミナー会場として、前日からセッティング済みだった。ちょっと恥ずかしそうにみえる7歳のミズキ。そして朝からのハイテンションがさらに頂点の達したかのように、3歳のヒカルとノブヒロは挨拶もそこそこに、ところ狭しとばかりに、もう走り回っている。一冊の芳名帳をまわしながら、みんなに名札を書いてもらった。「呼んでほしい名前で書いてね」って、言ったら、みずきパパがマー君って書いてくれた。 clareyukoはユコタン、kazesanはマチャピロジッジだ。素直なみっ君(みずき)はさっそく「ねぇねぇ、ユコタン」って話しかけてきてくれた。嬉しい~♪大感激のユコタンだ!ゆっくりチャイを飲んでもらって、荷物の整理などが落ち着き、いよいよセミナーがスタートした。 まずは一組ずつ、親子でゆっくり階段を上がってもらい、2階の入り口でそれぞれに選んでもらったお花をユコタンがプレゼント。ジッジがカリンバの音色で全身浄化、うっとりいい気持ちでサークルに座っていただいた。遠くまで来てくれて、本当にありがとう。3日間、共にすごしましょうね。感謝の心をいっぱいこめた。3組全員の親子を迎えた後、私たち二人もそれぞれお花を選び、サークルに着席した。 mother divineをBGMに、ひとりひとり、真ん中の花器にお花を投げ入れた。はさみを使って、短く切って、順に入れていく。子どもたちははさみで切るのが楽しそうだ。 私たちはMotherDivineを今回のセミナーのテーマ曲に選んだ。神聖で、慈悲深い母という存在、そして母を守るようにさらに神聖でそして自由な天使たち。。。。私はここ女神山で、今までの人生でたくさんたくさん学んできた、こうあらねばばらないという概念をすべて脱ぎ捨てて、ひとりの人間として、ただ、母として、あるいは神として、天使たち、そしてそこに縁あって集まったみんなとふれあい、つながり、そして感じあうひとときを創り上げたいと思っていた。大自然に抱かれて生きる喜びや不思議を感じながら、今こうして生きていることの喜びを感じあいたい、kazesanも私以上の思いだったに違いない。 それぞれの挨拶や自己紹介の声をききながら、この夏のひとときを、子どもたちといっしょに、何かを発見したいというパパママたちの気持ちが伝わってきた。普段、都会の中に在って忙しい毎日を過ごすパパママたちが、これからの3日間で、自分自身を、また子どもたちとのかけがえのない絆を、そして命の尊さを感じてもらえるだろうか。何ができる私たちでもないし、何かを教える立場の私たちでもない。そんなkazesanとクレアの企画に集ってくれた方々の気持ちに応えるために、私たちができるせいいっぱいの準備はしたつもりだけれど、いったい何がおきるかはわからない。これから始まる3日間に対するkazesanと私のふたりの思いが、どうか、皆さんに伝わりますように。。。。祈りをこめたセレモニーのひとときだった。セミの声と、鳥のさえずりが響きわたるだけの、静かな女神山で神聖な時間がスタートしていた。
2006.09.03
photo;clareyuko優しい風が届けてくれる秋の声を感じていたら、今日は久しぶりの雨の東京傘をさして歩いていたら、金木犀の香りがどこからか運ばれてきた。夏の暑さにうんざりしていたはずなのに、移ろいゆく季節に淋しさを感じるのは何故だろう。。。昨夜の伊東先生の言葉が急に思い出され、胸がジンと熱くなった。 最後のシェアリングの時に「な~んだ、私の中の純粋意識は、もうすべてを受け入れてるんだ。それなのに、心(マインド)までが受け容れよう、なんて思う必要、全然なかったんだ・・・・・そう思ったとたん、急にかる~くなりました。」とお話したら、先生は「そう!それそれ!祐子ちゃん、その感覚、忘れないで。深刻になりそうになったら、いつでも、それを思い出せばいいよ」そう言ってくださったのだ。先生の言葉は優しさにあふれ、「このままでよかったんだ」・・・心からそう思えた。 私の心はあらゆる教えや学びにもううんざりしていた。と言っても、それは自信のない私が無意識に求めて、そして与えられた、励ましや教えや愛の言葉であったはずなのだ。にもかかわらず、いろんなことを聴くたびに「そうしなくては!」と力が入る自分がいつもいて、そんな自分にいい加減、疲れていたのだった。 心が軽くなった私を見て、会が終ってから岡部明美ちゃんが先生に「先生、祐子ちゃんが写真撮ると、いつも光が写るんですよ」と話すと、先生はにっこり微笑んでおっしゃった。「その光は、天からの贈り物だから、楽しむといいね。でも、祐子ちゃんの意識がもっと深まると、また違った写真が撮れるよ。つまり、そうなると、光を意識しなくなって、光ともっと仲良くなるんだよ。世界はすべてパラドクスだからね。その時にどんな写真を撮るのか、楽しみだね」私は昨夏、天河神社の柿坂宮司にいただいた言葉を思い出していた。光の写真は私の波動と光が同調して写ったものだと、宮司は言われた。そして「これからもっともっと写真を撮り続けなさい。たとえば、手のひらに乗せたボールさえも、輝く光の球となって、映るようになりますよ。」と、言われたのだった。天河から帰って宮司の言葉をかみしめているうちに、私はこの世のすべては、きっと光なのだと想像した。そして、ふと、この世のすべてが、神も仏も、アンマもバガヴァンも、生きとし生けるすべての存在が自分自身であるような錯覚に陥った。伊東先生の純粋意識の話は、それが錯覚では決してなかったことを証明してくれたのだった。昨夜はメモをとらなかったが、実は先生は他に面白お話をふたつされていた。ひとつはある実験のお話。もう何十年前だか忘れたが、アメリカの心理学者がある実験を試みた。表現とコミュニケーションに関する実験だった。言葉と身振り手振りで相手に何かを伝える、というその様子をフィルムに録画し、それを46~48分の1/秒に細かく刻み、一こま一こまを調べた。そして伝え手と受け手との間に驚くべき事実を発見したという。それは、AがBに伝えようとしたまさにその瞬間、既にBはAと同じ波動を発していたというのだ。つまり、普通なら物事は AからBへ発信→Bが受信→Bが反応 というパターンで発生するはずだ。ところが何度調べても、発信と反応が同時に起こっていたのだ、それも同じ波動で。これは言い換えると、物事が発生する寸前に、純粋意識と言う空間がその波動を創り出し、その波動によって、瞬時にAは動作を発信し、同時にBは反応している、つまり、起きあがるすべての事柄は、人間の意志によって<起こそうとして起きているのではなく、純粋意識という大いなるものに動かされて自動的に起きている、ということの証明なのである。先日ギバーの友人から「せっかくインドまで行って来たのに、なんも変わっとらん、って友達に言われた」とメールをいただいた。その時私はなんの根拠もなくただ、「何かを得ようとして目的を持ってインドへ行ったって思ってるけど、実はただ行っただけで、目的もマインドが理由を後づけしただけ。その結果もマインドが勝手に評価してるだけなんじゃないの?」と答えていた。なんとなくその時のことを思い出しながら、先生のこのお話もまた、そのときの答が間違いではなかったと証明してくれているように感じた。 また、魂についての質問もあった。目に見えないもののなかには、純粋意識のほかに感情や思考というものがあり、また目に見えないボディや魂と呼ばれている個別の波動があります。それは時空を超えて個々の質として存在するものです。そこにフォーカスして楽しむのは大いにけっこうなんですが、そこにばかり注意を向けていると、肉体を離れてもまた、輪廻転生し、この三次元にやってくることになります。もちろんそれはそれでいいのですが、ただ、順序として、その前に自分の本質が純粋意識であるということをきちんと知っていて、その上でそこを楽しむというのがいいですね。順序を間違えると分離意識に翻弄され、いたずらに輪廻転生を繰り返すことになりかねません。同じように目に見えないものではありますが、ソウルとスピリットは別のものなのです。 自分の意志の働かないところで物事が起きていると思えば、人間として無力であること、委ねるしかないことに対して、喪失感を覚える人、反発を覚える人、もいるかもしれない。でも、自分自身が大いなる存在としての意志で、個々の人生を創造していると思えば、それは想像を絶するほどに偉大なことに違いないだろう。 今日、悲しさで胸が痛んだ時、すべてを受け容れている、純粋意識の青空としての自分を感じてみた。悲しみの心をそのまんまつつみこんでいる、どこまでも澄みきった、美しい青空を思った。
2006.09.02
photo;clareyuko今日は2ヶ月に一度のミューズの会、そして夜は青空禅フォーラムのひとときを過ごした。伊東先生の誘導で、いつものように瞑想をしながら、うとうとしながら、私はぼんやりと考えていた。 今日のミューズの会で私がひいた女神カードはアイネだった。「飛び立つんだけど、祐子ちゃんの場合は内側へ向うんだって、外に求めるのはもう終わり。」ハイアーセルフからのメッセージをゆうちゃんが伝えてくれた。私にはその言葉の意味がよくわかっていた。人の言葉は自分の言葉ではない、という当たり前のことを最近痛いほど感じていたからだ。ただし、ゆうちゃんは、「自分の闇の部分を受け容れるのは、つらいプロセスだよ」と付け加えた。それはゆうちゃんの体験から出た言葉だったにちがいない。そして私自身にも苦しみの果てに気づいた体験というものがあった。人から見ればたいした苦しみではないかもしれない。けれど、私にとっては、そのプロセスがなければ体験できなかった境地だった。自分と向き合うということは、この先さらにそんなことが待ち受けているのかと、少し戸惑う私がいた。 その上今日は胸の痛む出来事があった。その悲しみが私の胸いっぱいに占領していた。そんなことが重なって、真我との対話って、どういうことだろう、と頭の中でイメージを始めていたのだった。 今日の伊東先生のお話は意識についてだった。先生が言われる意識とはいわゆる純粋意識のことだ。私は寝不足の頭で先生のお話をぼんやりと聴いていた。そしていつものように先生に質問した。「キリストだ、仏陀だ、光だと、概念としてのイメージで大いなる存在を見ると、イメージした瞬間に純粋意識でなくなるような気がします。大いなる存在をどんなふうに考えればいいのでしょうか。」すると先生はまるで魔法のようにわかりやすくお話してくださった。 ここにあるグラスとお菓子、在ると認識されたグラスとお菓子、それがここに在るということを受け容れているのは何ですか?何がそれを受け容れているのでしょうか?答えは空間です。グラスとお菓子が在るということを、空間が受け容れているのです。空間とは、すなわち、純粋意識です。あるがままを受け容れる、ただ、在るということを受け容れる、そういうお話は聴いたことがあると思います。 それは、言い換えれば、「あるがままにあることを既に受け容れていることに気づく」ということなのです。つまり、もうすでに受けれいていることを、更に受けいれようと、心がそうするわけです。けれど、心がそれをするのは大変なことなのです。できた、と思う瞬間も確かにあるかもしれませんが、またすぐの出来ない心が表れます。すでに、純粋意識という空間が受け容れているのです。だから、それに気づくだけでいいのです。 深刻タイプの私は急に可笑しくさえ思えてきた。みんなにあれこれ言われ、今日という日さえも、内側へと頑張ろうとしていた。人の言葉だけではない、心という意識に囚われていた私だったのだ。な~んだ、そうだったんだ。。。。心は心。心をないがしろにするつもりはないけれど、心に囚われる必要などまったくない。心で自分を許そうとしていた。心で自分を受け容れようとしていた。ここにこうして在るということは、すべてがそのままで許されているから、そこに在るだけなんだ。あなたも、私も、あらゆる感情や思考でさえも。純粋意識が自分を在らしめているのだから、それでいいじゃん☆ 体験は人それぞれだ。苦しい体験を通り抜けなければならないなんて誰がきめたんだろう。一足飛びに純粋意識にフォーカスしてなにが悪いの?必要な体験がそのあとでまたやってきたなら、その時に見ていればいいだけじゃないの。 私の心はすっきり晴れやかになってきた。いや、マインドや感情の雲も、もちろんいっぱいある。でも、純粋意識の青空がそれでいいよって、在りと在るすべてのものを受け容れているのだ。それでいい。ただ、それだけでいい。それ以外のなにも必要ない。心が苦しんだ時は、そっとその心を見守ってあげればいい。そしてできるなら、優しい愛でつつんであげよう。私の心も誰かの心も。 会が終って外に出て思わず空を見上げた。もう10時近い夜の四ツ谷の空は、晴れて雲が浮かんでいた。青空だ!と思った。私の意識が空とひとつにつながっていった。。。★ レインボーくらぶのお知らせ 9月2日(土)10時半から12時半 自宅マンション集会室にて ディクシャとセッションを行います。 お問い合わせはこちらへどうぞ
2006.09.01
女神山のドラゴンフライ ☆ photo;clareyuko深川にある成田不動尊は会社へ行く道の途中にある。護摩焚の28日、同僚の由美ちゃんと二人で、お参りに行ってきた。燃え上がる炎の前でお経を聞きながら、遠い昔を思い出していた。小学生の頃、毎朝読んでいたお経だった。その頃、家族で毎月お隣の富山県にある倶利伽羅不動尊にお参りに通っていた。まだ倶利伽羅トンネルが出来る前で、冬などは山の中の一本道を歩いて行くのが結構大変で、雪深い夜道など、懐中電灯を手に、冒険のようにワクワクしながら歩いた、懐かしい思い出もある。不動明王の前で手をあわせながら、あぁ、この人、ずっと私を守ってくれてたんだ、、、、なんだかそんな気持ちが湧いてきた。 いつしか倶利伽羅から足が遠のいて、その後浄土真宗の信者として、ここ数十年は朝夕のお参りに30分以上仏壇の前に座っている母の姿を見るようになっていた。先日帰郷した時に、「いつも何をお祈りしとるん?」と聞いてみた。「感謝と懺悔」という答えが返ってきた。仏壇には先祖代々も、父の位牌もない、仏様が奉ってあるだけだ。昨年から墨絵を始めた母の筆をとり、私は文を書き始めた。我は神仏也、自分自身を尊べば、仏様もご先祖様も喜ぶというような内容だった。それを読んで母は、「自分は修行もしていない煩夫だから、仏にはなれない」と言った。母にとって仏様は本当に尊い、恭しい存在のようだった。 私という存在、仏という存在についてぼんやり考えながら深川不動尊に奉ってある如来や、菩薩を見て廻った。帰宅して家族で話していたら、夫はこう言った。「ちょっと理屈っぽいけど、仏様といっしょに歩く人生というのは、つまり、神仏は自分より上でも下でもない、神も仏も、如来も、菩薩も、すべて自分の側面なんじゃないの?」「それって、なんか、わかりやすいねぇ。そうだね、みんな、自分の側面だね。そして、みんな神の側面だね。」私は妙に納得した。母にもそんなふうに言えばよかったかな。プレゼンスがにっこり微笑んでいるようだった。
2006.08.31
女神山の朝 ☆ photo;clareyuko 女神山でのひかりっ子くらぶKIDSの翌日、富山のディクシャ会に行ってきた。高岡にお住まいのOさんご夫妻は、学習塾を開いて子どもたちに勉強を教えながら、いろんな講師の方を招いて、ディクシャ会を開催されている。私もご縁をいただいて何度かお邪魔させていただいている。先月の松田先生のディクシャ会に続き、今月は菅澤照真先生のディクシャ会だった。照真さんとは昨年12月の上級コース以来の再会だった。会が終って、個人的な相談があればどうぞと言われた。別に何も浮かんでこない。けれど、せっかく声をかけてくださったので、「そうだ、先祖供養の方法をきいてみよう」と思った。すると照真さんは「インドで教えてもらったとおりでいいよ、アンマとバガヴァンを呼んでお願いするんだよ」と言われた。「なんだ、それで、いいの?私も、あまりそんなことしたことないし、考えたこともなかったんだけど、このごろなぜか、そうしなさい、ってけっこういろんな人から言われちゃって。なんか、やっぱ先祖供養したほうがいいのかなぁって思うようになったの。。。」「なに言ってんの、インドへ行って、しっかりつながってきたんだから、なにも不安に思う必要なんてないよ。自分に自信がないから、いろんな人につけいれられてるだけだよ。誰になに言われたって、なんにも気にする必要ないよ」私はおかしくなって笑ってしまった。最近自分が思ってることを、そのまんま照真さんに言われたのだった。「そうですよねー、ほんとうに。私も、人に振り回されてばかりいる自分をこの頃バカバカしく思うようになってきたんです。でもね、そうやって私に近づいてくる人は、もしかして、プレゼンスが助けてって叫んでるのかもしれないって思うと、たとえ憑依されてるとか言われても、ま、いっかって思って、そのまま受け容れちゃうんですよ。」「なに言ってんの、ゆうこさん、つけいれられてるだけじゃないの」ふたりで大笑いして、そしておまじないでもするようにお祓いもしてくださった。いろんな人がいろんなことを話す。いろんな話が耳に入ってきたりもする。けれど、大切なことは言葉でも、想像でもないだろう。自分にとって一番大切な真実は、ひとりひとりとの関係以外にありえない。私にとっての、彼、彼女、あの人、あなた、、、、それ以外の真実はなにもない。で、あれば、人の話に胸を痛めるよりは、あふれる愛でふれあう誰かをつつめる自分でありたいと思う。おっと、その前に、まずは自分を愛することだった。ガラスのハートに入りきらずにあふれるほどの愛で、私自身を、つつんであげよう☆ どんなに醜い私をも。。。。。。
2006.08.29
photo;clareyuko上海のちこちゃんがお里帰りで東京へやってきた。ちこちゃんにお会いするのはこれで2回め。思いもかけず、大学生と高校生の天使君たちにディクシャする時間もあって、嬉しかった♪ディクシャのエネルギーはそれぞれに必要なところへ働くと言われているから、若者へのディクシャは知性や身体に必要なエネルギーとなるのだろうか。可愛い彼らのお願いごとが叶うことを、いっしょに夢見る私たちもなんだか楽しい。ちこちゃんはとても楽しそうにお話しする方。奇跡のように毎日が展開している、その感動が私にも伝わってくる。たっぷりおしゃべりしてもまだまだ時間が足りないくらい、話題に尽きることはなかった。そんな中、インナーチャイルドのお話になった。 ちこ「母が心配性でね、いつもそんなふうだから、何にも話せなくて寂しかったの」ゆうこ「そうそう、私もね、もっと、もっと、って感じで。ついこの前も、安心してもらおうと思って近況報告したら、『そんなことより、子どもをきちんと育てなさい』、って言われて。。。。母の気持ちをありがたく受け止めてはみたけれど、一方で、『やっぱり、いくつになっても、母にとって私はダメな娘なんだ~』って思いがやってきて、ガクッて感じ(笑)母に安心してもらえることなんて、永遠に来そうにないわ。」ちこ「子どもって、否定的な部分をとても大きくとらえて、傷ついたりするのよね。母が亡くなって少しずつ、自分を縛っていたものが溶けていったみたいで、あぁ、母も一所懸命愛してくれてたんだなぁ、って思えるようになってきたのよ。」私は母の思いが息苦しく、親元を離れたくて大学時代を名古屋で過ごした。そして帰って来いとの声に従い、金沢へ戻って、就職。7年後には「雪よけ、これから誰がするんや?」と言われつつ、再び親元を離れ京都で再就職した。人間関係を整える。それぞれの生き方は違って当たり前。母には母の生き方がある。言葉の奥に母の愛を感じて、感謝の心がわいてくる。と同時に、母に安心してもらえる日が永遠に来ないことを胸の痛みと共に感じながら、そんな自分さえもただ、受け容れる、それこそが「整える」、ということなのと思い出していた。ちこちゃんと別れて歩いていると、ちょうど母からメールが届いた。今度は兄の体調を心配するメールだった。一人暮らしの母にとっては、離れて暮らす家族たちのことがどんなにか心配なことだろう。「今まで頑張りすぎてきたんだから、無理するなってことだよね。ベストな生き方を選ぶ時がきたんだね。」オキラクにそう返したところ「ゆうこまで巻き添えにしてごめんね、反省」と返ってきた。母はいつも反省ばかり。兄も小さな頃から誰にも頼らずひとりで頑張る人だった。そして私自身もまったくオンナジ。人に頼ったり、甘えたりできないのだから、偉そうに言えることではない。(あ、でも今は子どもたちには甘えてるかも・・・・)自分がこんなだから、人を甘えさせてあげることもできていないのかもしれない。自分のことを棚にあげてまた返信した。 「いいよ、 みんな家族だし、、、、、むしろ人に頼らず自分ひとりでかかえて無理することに問題がある 我慢するから悪くなるんだね。それでもそれぞれのそんな生き方も認めてあげて、私にできることは祈ることだけ 。今まで頑張ったね もう充分だよって」 すると「有難う、貴女も大人になって私は嬉しい 心配していた子が今は優しい子に成長してくれて有難う」 と返ってきた。私はビックリ☆母に褒められた記憶は今までになかった。あるのかもしれないが、恩知らずなことに覚えていない。生まれて初めての母からの言葉に感動しながら、気弱になっている母のことを思った。母は好き放題に生きてきた私のことを、否定しているわけではなかっただろう。ただ、少しの不安や心配を言葉にして、私に伝えずにはいられなかっただけかもしれない。私たち母子はお互いに否定的な部分にばかりフォーカスして、ぶつかりあっていただけなのだろう。けれど、それさえも、わかっていながら、どうすることもできないのが人間としての私たちだ。 金沢から帰った日、ゆうちゃんと会ったら、「ハートが痛いよ」って言われた。自分ではすっきり穏やかなつもりだったので、「えっ?」と思った。すると「自分を愛するんだよ。自分を愛していないと人からも愛されないよ。」と、自分の体験を話してくれた。このときばかりはゆうちゃんのいうとおりだなぁ、と胸に感じていた。 胸の痛みの原因をたどれば、いろいろあるだろう。そこにはきっと、どこまでも癒されることのない淋しさが、頑張って存在しているのかもしれない。母から受け取った言葉が胸に広がる中、ゆうちゃんの言葉を思い出してあぁ、私も、ちょっとは自分のことを愛せるようになったのかもしれない・・・・と思えた。 「私こそ産んでくれてありがとう育ててくれて、今なお見守ってくれて ありがとうございます☆ 言葉では伝えられないほどに、感謝してます...」 メールを送り終えると会社に着いた。頑張って働いている友オキラクに楽しんで過ごしている友無理しすぎて疲れている友めっちゃ楽しんで働いている友それぞれにそれぞれの道を自由に歩いている仲間たちが笑顔で迎えてくれた。
2006.08.27
photo;clareyuko 故郷金沢から東京へ帰ってきて3日が過ぎました。女神山へ向けて、東京を発って、あっという間の日々でした。こうして流れるような記憶をたどってみると、時間という概念は錯覚で、本当に、真実は今、この一瞬にあるのだと感じます。この一瞬、それは今体験していることばかりではなく、遠く思いを馳せて心で感じていることさえも、時空を超えて、真実なのかもしれませんね。 念願だった女神山でのひかりっ子くらぶKIDSがついに実現♪ただ、ただ、感謝です。今回はKIDSたちの生きる喜び、そして親子のふれあいということをメインに考えての会だったので、当初は参加者を小学生以上ということで限定、また、大人だけの参加はナシ、あくまで家族単位でご参加くださいということでインフォメーションさせていただきした。ところが、中学生のご家族が、やむを得ない事情で参加をキャンセルされたため、今回果たして開催できるかどうかの危機を迎えていたのでした。そして縁あって3歳のお子さんのご家族が二組参加されることになり、初めての2泊3日のセミナーが開催できることになったのです。マー君パパとしおりんママ、そして7歳のみっ君のおにいちゃん一家あやママと光君(3歳)とももちゃん(0歳)の温か親子ときえママとのぶ君(3歳)の仲良し親子この3組の素敵なご家族が東京から参加されました。 いつも必要な人たちがそこに集う。これは神さまの計画で、最初から決まっていたのかもしれないけれど、私には驚きと感動の連続でした。 そして参加されなかったご家族の方々も、きっとさらに素敵な体験をされていることでしょう。ひかりっ子くらぶキッズ・・・・私たちはそこでなにを創ろうとしているかなにを伝えようとしているかそして参加者の方々はなにを求めてきてくださるのか。 天使の年齢がイッキに下がったので、スタート地点に立ち返った思いで、私たちは話し合いました。と言っても、親の心に支配などされない自由な天使たち。スケジュールどおりいくはずはないことは初めからわかっていました。 前泊で入った長野は雨でした。陶芸教室(粘土遊び)をお願いしていた「工房土喜」の義之さんの谷あいのアトリエを訪ね、新鮮な空気を満喫、最後にはディクシャもさせていただいたこと。停電で、ろうそくの明かりを灯して、ひっそり静かに夕飯をいただいたこと。アートセラピーのセミナーに参加しに来ていたギバーのともちゃんとの偶然の再会。ぬかるんだ道を長靴で歩きながら、うっかり、しっかりと転んで、泥だらけになったこと。しと降る雨の中、静かな薄明かりの森のお風呂に入ったこと。そして、翌朝の雨上がりの森の朝の美しさといったら、それこそ言葉にはできません。たくさんの想い出をつめこんで、女神山での初日がスタートしました。
2006.08.26
photo;clareyuko昨日はアンマの誕生日、祝福につつまれた一日でした。私は穏やかに過ごす日々と,すべての生命に愛と感謝の祈りを捧げました。祝福につつまれているのは、昨日だけではありませんね。愛につつまれているのは、私たちだけではありませんね。すべての存在、すべての生命がそのままで祝福されていますね☆ このごろ、時どき、そんなふうに思います。 アンマのお誕生日の夜に・・・・ 上江洲先生へも・・・・明日から女神山。森の妖精たちとお話してきますね☆
2006.08.16
photo;clareyuko事の真偽について物議を醸すという出来事が、最近よく近辺で起きています。 あの人はほんもの?あの光はなんの光?それってほんとなの?その言葉、信じていいの? なにかを言葉にすると、人はその言葉にふりまわされます。そしてそれがいいことなのか悪いことなのかマインドはジャッジしようとします。いつも人の言うことにふりまわされている私自身がいい例かもしれません。そんなにまで、人の言葉で落ちこんだり、胸を痛めたりいったい自分自身の考えは、ないの?外に求めるのではなくて、内側の答えを聴きなさいよ!と。自分でもあきれることがあるけれど、それが自分なのだから抵抗してもしかたありません。気のすむまで落ち込んで、飽きるまでそこにいるだけです。私ができることと言ったら、せいぜいそんな自分を観察し続けることことぐらいです。っていうか、それがそこから脱出する一番の近道かもしれません。そこで「そうだよね、つらいかったね」と慰めてくれる人がいれば、本当に、救われた気持ちになって、立ち直ることができるかもしれません。けれど、なにかに振り回されるという現実は、ほかからもまたやってくるに違いありません。この春の私は、そのどん底で苦しみました。人からみればそんなこと、、、、って思うことかもしれないけれど、私にとってはこの人生で1~2を争うほどの、最低の苦しみと悲しみでした。その波は何度も執拗に押し寄せて、終ることがない絶望感を味わいました。そしてその後初めて、怒りとバカバカしさ、そして、おかしさがこみあげてきて、自分を愛しくさえ思えた瞬間がありました。こうしてはいけないこうしなくては・・・・!そんな思いが苦しみを生んでいたようです。正しい自分はいつも自分を傷つけてきました。もう、誰かに愛されたいなど、思うのは疲れた、私は私、こんな私でなにが悪いの?自分の感情に蓋をすることなく、飽きるまでそれを味わった瞬間のことでした。昭和初期に肺病が流行った時、なるべく栄養があるものを食べて養生したそうですが、以前師友塾での村上和雄先生の講演の中で、「下手に栄養をとらずにそのまま過ごしていれば、細胞は危機を感じ、別の遺伝子のスイッチがONになって体が回復してくる」そんなお話をうかがったことがあります。過食の友人から、「それをとことん味わうのはちょっとしんどいぜ」と、メールをいただきました。そうだよね、ココロだけでなく、体だって悲鳴をあげるかもしれない。体の声、心の声を聴きながら、こんなのイヤだ~と、逃げ出したくなったら、逃げ出した自分をやはり観察しつづけるんですね、ジャッジ(マインドの介入)なしに。そんな私もこのごろは少しだけ自己主張するようになってきました。ただ、開き直ってきただけかもしれませんが、それでもいいかな、と思っています。先日メルトモのひとりが「運命を変えることはできるか」との疑問を投げかけてきました。その疑問がどこから生まれてくるのでしょう。なぜ運命を変えたいと思うのでしょう。自分の人生は神に委ねるのではなく、自分自身の手で切り開きたいということなのでしょうか。またある友に聞かれました。「すべて神さまが決めてる、って、どういう意味?神さまが見守っているなかで、自分自身が切り開いていくんでしょ。」人の言葉ではなく自分の体験で答えなければならないところでしょうが、私には体験がありません。ただ、自分の感覚から生まれる言葉で言い表せば・・・・・。「私」とは自分という人間を通して運命をというドラマを楽しんでいる神さま。運命を、そして人生を創造するのは「私」という神さまで、そのまま受け容れているのはただ体験している自分という人間 。人間として生きるか神として生きるかただ、その表現の違いではないでしょうか。言葉を変えるなら、マインドを中心に生きるか、ハートを開いて生きるか、とも言えるかもしれませんね。 「 私」って、人間として生きている、神様 なんじゃないかな・・・・そんなふうに感じています。話を最初に戻すと、事の真偽を問い詰めても仕方がないこと、特に言葉は真実の1割をも語ることはできないでしょう。まして人はそこから、どれだけのことを聴き取ることができるというのでしょう。言葉の向こうに、声なき声を感じてみる。その人の後ろに見えないものを感じてみる。そこにいて気持ちがいいからそこへ行く。会うと、ココロが洗われるからその人と会う。見ると、温かな気持ちになるから、それを見る。それ以外になにが必要なのでしょうか。ハートが喜ぶことを感じて生きる。それを一番大切にして、この瞬間を生きることがサイコウの幸せなのかもしれません。このごろ思うことを徒然なるままに書いてみました。言葉で真実を表現するのは、とっても難しいからY(>_<、)Y、と(単なる言い訳ですが)、わかりにくいところはどうぞお許しくださいね(=^^=)明日8月15日は終戦記念日、そしてアンマのお誕生日☆アンマに願い事をお祈りすることで、慈愛と祝福を受け取ることが出来ることしょう☆生きとし生けるすべての生命に愛と感謝をこめて・・・・・
2006.08.14
photo;clareyuko昼夜転倒気味の二男は,、塾の夏期講習(体験)をさぼりまくっている。昨日も早々と起きたものの「休んでいい?」と聴くので、「お母さんは最初から行かない方がいいって言ってるでしょ。好きにすればいいじゃない」と言うと、すまなさそうに「ごめんね、明日からちゃんとするから」とか言ってひとりでボールを蹴りに出かけていった。休む自分をどうも、だらしないヤツ、と思っているようだ。今回の塾の体験夏期講習。毎朝、行こうとするのだが、時間が迫ると、おなかが痛くなったり、ぼーっとしたりして、身体がいうことを利かなくなるらしい。行ってしまえば、それなりに楽しく過ごして帰ってくるのを自分でもわかっているので、そんな自分をなおさらもてあましてしまう。長男が小学生の頃、学校へ行けなくなったときと同じだ。ココロも身体も一応行くつもりで起きるのだが、玄関で靴をはこうとするところで突然身体が動かなくなる。魂は偽れない。人は自分をコントロールできないけれど、魂が自分を守ろうと頑張っているのだと私は思う。あるいは、そんなに大袈裟なことではなかったとしても、「そんなところ、行く必要なんてないさ」と、プレゼンスが微笑んでいるのは確かだ。塾へ行くことを望んでいない魂は、最初から行かないことに決まっているのに、心が無理やり行こうとして、葛藤しているだけなのかもしれない。長女も同じパターンだ。「夏期講習においで」と先生に誘われて、行き始めたはいいのだが、遅刻と欠席が続いている。今日も朝から起きて準備していたから、先生が喜ぶだろうなぁ、って思っていたら、昼近くまでのんびり準備して、そのあげく時間切れで、私がセッションから戻ったら、リビングで、、、、、寝ていた。。。(* ̄∇ ̄*) みんな気持ちが進まないことは無理してすることはないだろうに、それでもやろうとするところはエライのかもしれない。夕方仕事から戻ったら、今度は二男が、寝ていた(* ̄∇ ̄*) なんて素敵な夏休み(^.^; いつもとは逆に早寝早起きが続いている長男は、翌日は早朝から友達と壁打ちに行くらしく「7時に起きるからね」と言う。夜帰宅した夫は、せっかく朝起きたのに塾を休んで夕寝をしていた二男を横目で見ながら「寝るために起きるヤツもいるからなぁ」とやじった。寝転んでゲームをしていた二男は、思わずガバッと起き上がり「ありがとう!」とにこにこ作り笑顔で返した。夫は可笑しそうに「おもろいやんか、『さぁ、明日の朝は頑張って早起きして寝るぞ!』って。。。」それを聴いた長女「きゃははは~♪おもしろ~」と大笑いしている。さすがに私は「あんた、笑ってる場合?」とあきれると「きゃははは~、そうだった、人のことは言えん~」と益々大笑いしている。ノウテンキな娘だ。あぁ、幸せな子どもたちよ。優しいだけで、充分だよ☆どうかそのままで、いつまでもノウテンキでいてくれ~♪****************女神山でのひかりっ子くらぶKIDSに小中学生の天使ちゃんのほかにちっちゃな天使ちゃんたちも参加されることになりました。可愛い~!嬉しい☆楽しみー♪
2006.08.13
photo;clareyuko昨日久しぶりに前世療法の個人セッションを行なった。埼玉から車で余裕を見て8時に家を出られたのだが、うちに着いた時はなんと12時近かった。昨日の最高気温は34度。暑いなか、本当に申し訳なかった。そのお客様は先日某所でお会いして初めてお話した方だったが、過去生を見たいとおっしゃって、わざわざお電話をくださったのだ。私はトリシア・カエタノ先生から前世療法とインナーチャイルドヒーリングを学んだ。リーディングでなく、誘導によってご本人に過去生を思い出してもらうものだ。クレアという名前もその講座を受けているときに自分で見た、未来生の天使クレアのビジョンから借りたものだ。悲惨な状態の地球に降りて、人々の悲しみをつつんでいる未来生のクレアを見ながら、あまりの悲しみで私は涙がとまらなかったのだ。クレアは優しく微笑んでいたというのに。。。。 前世療法を専門にカウンセリングされている方もたくさんいらっしゃるので、そちらをお勧めもしたけれど、私のセッションを希望してわざわざ遠くから来てくださったのだ。セッションの始めに、必要な過去生を思い出させてくださいとアンマとバガヴァンにお願いした。そして終わりには、過去生ワークで得た気づきが更に深まり、これからのプロセスが進むように、パドゥカによるディクシャに願いをこめた。 人との出会いやふれあいの中には気づきや愛、感動がある。セッションを進めながら、私はその方と自分との間にある接点を深く感じていた。その方との温かなひととき、彼女の涙に思わず共感して涙ぐむ私がそこにいた。あっと思った瞬間、そんな自分を眺めているもうひとりの自分に気づき、涙は止まった。カウンセリングの基本はジャッジしないこと。そして、そこに境界線という言葉がある。私は境界線を飛び越えてつながってしまうことがたびたびある。けれど、すぐにプレゼンスの光を感じる。涙のむこうでプレゼンスが微笑んでいるのだ。これから先、私が彼女とどう関わっていくのかわからないけれど、あのひととき、確かに、つながって、支えあっているふたりがいた。私たちはいつも、助け合って生きている。人は皆、手をとりあい、光の道を歩いていく仲間なのだ。悲しい時は思う存分悲しめばいい。すべての存在に愛されていた幼いあのころのように。悲しんではいけないと思う心が苦しみを創りだす。どんなに悲しみの中にどっぷり浸かっていようと、いつかそれに飽きたら、起き上がり、そして歩きだす日がやってくる。 仲間が歩き出す姿は、誰かに勇気を与えてくれるかもしれない。翼広げて大空を飛ぶ姿を見て、私も飛ぼう、と思う人がいるかもしれない。そうだ!遠い昔、愛につつまれて、青空を自由に飛んでいたあのころを思い出すかもしれない。自分らしく、そのままで生きて、大丈夫。でも、無理しないで、ゆっくりで大丈夫。ひとりひとりが、そうなる日が必ず来るから。誰も傷つくことのない時代が、きっと。。。。今この瞬間にも☆
2006.08.11
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