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女優の山本陽子さんが亡くなった(2月20日、81歳)。和服がよく似合う日本美人の雛形のような綺麗な人で、また潤いのある声も魅力だった。映画、テレビドラマ、舞台と活躍されたが、私が印象に残っているのは映画『八つ墓村』(1977、野村芳太郎監督)での多治見春代役かな。山本さんらしい品のいい役柄だった。天国で安らかに 🕯あの頃映画 松竹DVDコレクション 八つ墓村 [ 萩原健一 ]『八つ墓村』のおもしろさ、出来栄えの良さなどはもう定評となっているので改めて書くこともないだろう。ただ、この映画のテーマとされている「祟り」とか「怨念」「因縁」といったオカルトチックなものについて少し書いておきたい。都会ではこうしたものは「ばかばかしい」と一笑に付されることが多いかもしれない。しかし、地方部では今も高齢者たちのなかに、これらを軽視できない重い事柄として恐れる人がけっこういると思う。私の両親は東北地方の寒村の出だが、母の出身の村でこの多治見家と同じような恐ろしい因縁めいた家があったと聞いたことがある。その村には非健常者の出生が何代にも渡って続いた家があって、なんでもその原因が昔あった家どうしの泥沼化した諍いにあるというものだった。詳細は忘れたが、その村のA家とB家の間になにか争いごとがあって、その結果一方の家が没落するに至ったらしい。その没落した家の当主が今際の際に「○○代まで(あの家を)祟ってやる」と言い残した。そしてその後、存続し続けた家の子孫には非健常者の出生が続いたというのである。母が若い頃に聞いた話だというから、両家の争いがあったのは近世後半か近代に入った頃だろう。もちろん今なら、これは遺伝学による説明によって済む話かもしれない。しかし、単に偶然の出来事とは思えない、あるいは合理的な説明のできない不可思議な事象は世にたくさんある。キリスト教では、神の前に「すべての人は罪人である」という前提がある。人間なら誰でも罪を犯してしまうということだ。学校なら「イジメ」、実社会なら「パワハラ」と、その当人が法の裁きを受けない悪事はつねにある。実害の発生はなくても、相手の気持ちを考えずに悪態をつく、陰で悪口を言う、悪意の謀をするといった人が必ずいるのだ。また、心ならずも相手に悪いことをしてしまった-ということは誰にでもあるはずだし、過去のそうした言動を忘れてしまっている人もいることだろう。これまでの経験則で、「因縁」「因果応報」といったものは実際“ある”と私は信じている。それが神、仏と呼ぶ存在によるものかわからないが、重力や磁力のような目には見えない不思議な力が確かにある。
2024.02.22
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新約聖書は信者によって書かれたものであり、その内容には史実もあれば創作もある。口伝によって伝わるうちに最初の出来事が変容したり、想像や信仰により書き加えられたりしたのだ。また書き写しで複製されていた時代には、間違って書き写されたり、意図的に挿入がなされたりもした。原初の正確な出来事はほとんどわからないのである。しかし読んでると、これは本当のことが書かれてるのではないか-と思う記述に出くわす。その例の一つとして使徒行伝(使徒言行録)の第5章を挙げたい。ここには原始キリスト教会(エルサレム教会)の信者である夫婦が教会に献金をしようとしたエピソードが書かれている。夫婦は持っていた地所を売り、その一部を教会に献金しようとした。ところが教会指導者のペテロは、夫婦が売却益の全額を寄付しようとしなかったことを「神への冒涜だ」と叱責し、この夫婦はペテロとのその話の最中に突然死んでしまった(記述では夫妻別々に)というのである。この話をどう解釈するか?あくまで信者でない私の個人的解釈として書く。「教会は夫婦をその場で殺害し、その財産をすべて奪った」が史実だと思う。ユダヤの律法では、神への冒涜は死刑に値する。エルサレム教会は信仰共同体を形成しており、その生活は信者が拠出する資産によって成り立っていた。だが信者が増えるにつれ、その配給に滞りが生じていたことも使徒伝には書かれている。そのことが原因で信者グループ間に溝が生まれたことが窺われる。ヘブライ語を話す信者たち(元々のユダヤ在住者)⇔ギリシャ語を話す信者たち(邦外ユダヤ人、ディアスポラ)のことであり、このグルーブ間の溝はやがて対立関係になったものと私は想像している。ちなみに今日まで続くキリスト教(本流)の元は、ギリシャ語を話す信者たちの「キリスト信仰」である。ところで、安倍総理が凶弾に倒れた後、旧統一教会問題が起こりこれが政治問題に発展した。問題の根本は旧統一教会の霊感商法を用いた悪徳商法(教会側は否定)や信者を破産に追い込むほどの高額献金の要求だ。一般の常識感覚からすればかなり異様なことだし、なんで騙される?と素朴に思うのだが-。また宗教団体からのこうした非常識な献金要求は旧統一教会だけでなく、程度の差こそあれ他にもあるのだろうと思いたくもなる。ところが、先に記したように宗教団体によるこうした法外な献金要求は、2千年前の原始キリスト教会(正確にはユダヤ教の異端派、-ナザレ派)にもあったのだ。福音書にある他のいろいろなエピソードからも、イエス運動のグループ、ガリラヤ出身者のその集まりは、当時の民衆からは「かなり怪しい特殊な信仰集団(少数派)」と思われていたのではないだろうか。少なくとも、その信仰が広く一般化したのはパウロが布教活動をした時期のずっと後の時代である。最後の誘惑 [ ウィレム・デフォー ]
2023.12.25
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ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇が来日された。私は教会の成員ではなく“一ファン”くらいの者で、特段の感慨はないのだが、何年か前に観た『ローマ法王の休日(2011)』という映画を思い出した。ヴァチカンを舞台に、精神的に不安定になった教皇(法王)がカウンセリングを受けるというコメディタッチの作品だ。ベネディクト16世が2013年2月28日に生前退位され、これからコンクラーヴェが行われようかというときに私はこれを観た。ベネディクト16世の退位は、表向きには心身の衰えを理由としていたが、多分に他の事情もあったのではないか。その一つとして考えられるのが「聖職者による性的虐待事件」への対応だ。その頃欧米各国では、一部の高位聖職者による児童への性的虐待事件がしばしば報道されていた。前教皇(ベネディクト16世)はこれらの問題に対して積極的に手を尽くそうとしなかったため、ローマ・カトリック教会の責任を問う声が高まり、2010年にはロンドンでベネディクト16世の退位を要求するデモが行われる事態にまでなっていたのだ。また、ヴァチカン銀行(宗教事業協会)の問題に絡んで、前教皇側近の元執事がヴァチカンの機密文書を流出させるという「ヴァチリークス」と呼ばれる事件も起こり、キリスト教圏社会を揺るがせていた。聖職と言われながらも、単に“役職”となってしまっている教会指導者のあり方を憂い、たとえ教皇といえども、いや教皇であればこそ自身の矜持をしかと保ち、その立場に真摯に向き合ってほしいと、この作品にはそんなメッセージが込められていると私は感じとったものだった。いまキリスト教会、とくにカトリック教会は再び大きな改革をすべき時期に来ているのではないか。科学や技術の進展によって人々の常識が変わったなら、宗教も時代に合わせてアップデートしなければならない。約二千年前のイエス・キリストやパウロのことばは、今を生きる現代人の辛苦をそれだけで癒すというわけにはいかない。『人はパンのみにて生きるにあらず』だが、まず先にパンがなければ、“ただ生きる”ことも叶わないのだ。欧米における人々のキリスト教離れや教会の衰微が言われて久しい。日本でも、身近にある教会は共鳴者の集まりによるクラブ・サークル的なものになってはいないか。そこが単なる人類の遺産にならないように、キリスト教は「救いを求めて“いまを生きる人々”」の心の拠り所となってほしいと切に願う。ローマ法王の休日 ミシェル・ピッコリ 【中古DVD/レンタル落ち/送料無料】
2019.11.24
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神戸市立東須磨小学校での教員間暴力・暴言問題がテレビのワイドショー番組でよく取り上げられている。実社会ではイジメ、嫌がらせ、パワハラは広くあり、程度の差こそあれそれがどんな職域にもあることを大人は知っている。しかし、教育の場でこれほど幼稚で陰湿な行為があるとは呆れるばかり。日本の教育には問題がたくさんあるが、教員の質がこれほど落ちてしまっていることに驚愕するとともに、深い虚しさを覚えるね。キリスト教の世界には「サタン」という神の敵対者がいる。小説・ドラマ・映画などで悪魔の頭(魔王)のイメージとしてその姿形がよく描かれるのだが、ほんとうは何なのかはっきりしていない。聖書におけるそれも原義は「誘惑するもの」「敵対するもの」ということから、神の道を阻むものとの意味合いで、その具体的な概念は曖昧なものとなっている。悪魔を見たことはないが、その力(存在)を感じたことは何度もある。それが悪霊といっていいものなのか、表現が難しいのだが、目に見えない負のエネルギーとでもいったらいいだろうか。世にはその負のエネルギーを纏った、言い方を変えれば悪霊に心を満たされた邪悪な人が存在する。他者に悪意をもって故意に嫌がらせをしたり(イジメ、パワハラ)、傷つける、盗む、殺す等々の悪行を平気でする...そして、その行為に対して心が痛まない。ところがその一方で、どんなに苦難に遭ってもどうしても悪いことができない人がいる。日々の暮らしのなかで、時折目に見えない負の(邪悪な)何かが自分に近づくことがあり、そうしたときには不運な出来事が身によく起きる。 正体はわからないが、目に見えない「魔のなにか」は確かにあると私は信じている。酷い悪事を犯す人には、その脳に障害がある(病気)場合もあるのだが、人には中身(本体、心、魂、霊)の違い(ルーツの違い)による神の子とサタンの子といった区別があるように私には思えてならない。【中古】 よくわかるキリスト教 /土井かおる(その他) 【中古】afb
2019.10.22
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金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。だから、わたしたちは、はばからずに言おう、「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」。(新約聖書(口語訳)~ヘブル人への手紙 13章5、6節)世界一わかりやすい聖書入門
2010.12.25
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久々に〈金縛り〉に遭いました。(閉眼就寝中)自身の部屋にあるハンガーボックスの前でバタバタと何かがもがいている。黒いアゲハ蝶だ。(カラスアゲハか)ハンガーボックスに頭をぶつけもがきながら、次第に床の方へと下がっていき消えていった。直後何者かがわたしの体の自由を奪った。繰り返し、ある〈念仏〉を唱える。(これが私の金縛りからの脱却法)ほどなくして覚醒する。不吉な夢。嫌な予感。ワタシハ、コワイ。「フリー写真ブログもってって!」さんから
2009.05.22
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キリスト・イエスはなぜ神の子といわれたのか。多数派(正統派)の信仰者であれば、三位一体説に則り、「神の子は神」と信じるだけだろうが、人の欲以外はすべてが変わり、科学と技術の常識が支配する今の時代にあっては、聖書が示すキリスト像にも時代に適った解釈があっていいだろう。キリストは、神学上の教義や宗派にかかわらず、自分を受け入れるすべての人を救う救世主のはずだ。ところで、イエスが神である証しとして、聖書にはたくさんのイエスによる奇跡行為が書かれている。曰く、目の不自由な人を見えるようにした。脚の不自由な人を歩けるようにした。らい病(ハンセン病)患者を治した-などである。現代の一般人に、これらのことをただ信じろというのは無理である。聖書学者は、こうした奇跡物語は後から福音書に書き加えられたものであるとしているが、私は奇跡行為自体はさして重要ではないと考えている。重要なのは、「イエスが被差別民に対して平等に接した」という事実である。現代でも障害者などはかなり差別されている。差別を口に出して言わなくても、それを行動には出さなくても、多くの人が障害者の人たちとは関わりたくないと心の中で考えているだろう(すでにそのこと自体が罪)。被差別民に対して分け隔てなく接するというのは、今でもそれほど難しいことなのだから、二千年前の社会での障害者などへの差別のほどは想像に余りある。おそらく彼らは人間として扱われなかったはずで、インドの〈カースト〉でいうところの「不可触民」以下の存在だったろう。当時の社会で障害者の人たちに普通に接するなどということは、ほとんどの人にとってできないことだった。その誰にもできないことをイエスは行い、彼らの心を癒した。その行為が当時の人々の目には神の行いと映ったのだ。イエスが神の子といわれるのはそういうことだと、私は確信している。
2008.12.24
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ミャンマーではサイクロンによる被害で死者・行方不明者が6万人を超え、中国四川省ではM7.8の地震による死者が9千人超。どうやら、ブラジルの予言者ジュセリーノ氏の予言が現実のものとなってきたようだ。氏は、この世界の崩壊へ向けてのあらゆる変化が、今年2008年からはじまると予言している。台風による被害も地震によるそれも今にはじまったことではないが、なんか嫌な予感がする。人類滅亡への序章-といったら大袈裟すぎるだろうか。でも、確かに変化を感じる。負のエネルギーが増大していると思えるのだ。人間が地上の支配者であるという驕りは捨てないとね。未来からの警告(続)
2008.05.13
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サタンの正体とは何か?サタンが最初に聖書に登場するのは、『創世記』にある人間の楽園追放の物語である。アダムとエバはヘビにそそのかされ、禁断の木の実を食べ知恵を得たことにより原罪を負う。このヘビがサタンであるといわれている。しかし、このヘビはひょっとしたら人間自身ではないだろうか。人間のなかにあるどうしようもない「欲」。サタンには「誘惑者」という意味もある。誘惑に抗しきれない人間の欲。この人間の欲こそがサタンの正体ではないか。人間の多くはその欲のために地球環境を破壊し、他の動物を駆逐している。この所業そのものが悪。歴史を振り返れば、ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺。ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下。これまでも、そして今も世界中のどこかで戦争は行なわれ、悪の所業は繰り返されている。人間がサタン。そのことは多くのクリエイターが表現している。鬼才として有名なアメリカの映画監督デヴィット・リンチは、『人間のなかに神と悪魔が共存しており、そのどちらか一方が他方を抑えているのだ』といっています。また、漫画家の永井豪は作品『デビルマン』(アニメではない)のなかで、デーモンの恐怖に怯えた人間たちが中世さながらの魔女狩りを行い、人間が悪魔の姿をさらけだす様子を描いています。神の僕と悪魔の僕、その区分は絶対的なものではなく、相対的なものなのかもしれない。
2008.04.06
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ジュセリーノ未来予知ノートテレビ番組への出演などで、日本でもすっかり有名になった話題の予言者ジュセリーノ氏の本を読んでみた。100%当たるわけではないが、アメリカの同時多発テロや日本の地下鉄サリン事件の的中などをみても、彼の予知夢をまったくのインチキとは言えないであろう。本には、日本や世界各国の危機的な未来の様子が予知されており、暗澹たる気持ちになる。しかし、だからこそ警告を真摯に受け止めて危機を回避してほしいと、氏は訴える。彼の予知夢に纏わる体験には、一種の神がかり的なスピリチュアル現象があると思うが、私が本を読んで感じたのは、むしろ彼の誠実な人柄だった。それは、地球環境や人類の危機的な諸問題を真摯に憂い、神を信じ、人間の英知を信じて未来に希望を抱く、バランス感覚にすぐれた良識ある紳士の姿だ。氏は、将来の危機を免れるために、人類が行いをあらためるタイムリミットは2007年12月31日だと訴えている。その期限を過ぎると、2008年から世界は変わり始めるのだという。もちろんあらゆる崩壊への変化のはじまりだ。人類は滅亡へのシナリオを回避できるのだろうか。それは、今を生きる私たちひとり一人の考え方と行動にかかっている。
2008.02.25
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先日、ZARDのボーカル坂井泉水が亡くなってメディアでかなり取り上げられていた。また、タレントの岸部四郎氏の妻が急死しこれもワイドショウなどで伝えられていた。ふたりともかなり短命だ。だが、このふたりには短命の相がでていた-といったら驚かれるだろうか。人には信じてもらえないが、私には人の相がみえる不思議な感覚がある。短命の相は特に女性の場合はわかりやすい。顔の形状にも傾向があって、短命の相が感じられる女性はたいてい細面で、特に顎が非常に細い。また、頬のへこみ方というか細身にも特徴が出ている。もちろん、そうした顔の女性がすべて短命というわけではない。短命の女性には、その人全体からなんともいえないマイナスのオーラというか、色は見えないが、たとえて言えば薄いブルーのような感じの何かが発しているのが感じられるのである。実はテレビなどを見ていて、他にもそれが感じられる女性タレントが存在する。人には話していない。はずれるかもしれないし、けっして喜ばしい話題ではないからだ。だが私は密かに、自分の不思議な感覚(能力)が本物かどうか、日常のなかで常に検証をしている。女性の身体的特徴には、顔以外にもその形状からその女性の運命的傾向がわかるある部分があるのだが、この内容についてはまた別の機会に譲ることにしたい。
2007.06.02
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こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう。柔和な人たちは、さいわいである。彼らは地を受けつぐであろう。義に飢えかわいている人たちは、さいわいである。彼らは飽き足りるようになるであろう。あわれみ深い人たちは、さいわいである。彼らはあわれみを受けるであろう。心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう。平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し...〈マタイによる福音書第5章3~11、口語訳〉
2006.12.25
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あの恐ろしい大事件から早5年がたった。米国同時多発テロ。あの信じがたい映像をテレビで見たとき、とっさに私の脳裏に浮かんだのは『バベルの塔』だった。空高くそびえるツインタワーの威容とその崩壊の光景は、私に旧約聖書『創世記』の大事件を思い起こさせたのであった。多くの犠牲者の悲惨な現実に胸を痛めながらも、これは神による人類への警告ではないか。文明の行末を暗示する神の非情な御業ではないかとも思えたのだ。キリスト教でいう゛原罪゛というのは確かにあるのだと思う。われわれ人間は、同じ人間にも、動植物にも、そして地球にも大いなる罪を負っている。そのことがわからないという人は、あのテロ事件の惨状も他人事だろう。
2006.09.11
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映画『ダヴィンチ・コード』が公開された。原作本のヒットと相まって、マスコミも大きく取り上げている。この映画に関してキリスト教会側は反発している。正統教義に反する内容があるためだ。でもそれは一種のポーズだろう。教会側が真剣に抗議しているとしたら、それはナンセンスだ。宗教は科学じゃない。事実の云々を議論する必要はないのだ。信徒は聖書を信奉し、神とキリスト・イエスの救いを信じて信仰を守ればそれでよいのだ。この件で客観的な事実を言えば、『ダヴィンチ・コード』の作者は己が利益のため、福音書と「モナ・リザ」を゛ミステリー゛で繋げて利用した-ということだろう。しかし、今回はちょっとした価値転換をもたらすかもしれない。奇しくも、エジプトで『ユダの福音書』の写本(古文書)が見つかり、裏切り者のユダのイメージも180度転換しようかという話題もある。一般には知られていないが、聖書学者によれば、キリスト教初期の福音書というのは多数あるという。新約聖書に収められている四つの福音書は教会の正統教義として、人間の手によって選ばれた(恣意的に選別された)ものだ。だから事実はわからない。イエスなる人物の歴史上の存在を否定する学説とてあるという。つまりイエス伝は架空の物語(神話)というわけ。こうした一連の情勢をみて、教会がその教義を改めることはまずありえないが、マグダラのマリヤがイエスの妻であったという説は、「イエスは神の子だから神」という奇跡話よりは説得力がある。
2006.05.21
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最近、伊勢原市の日向薬師如来へお参りをしてきた。長年患っている病気の平癒をじっくりと祈願してきた。まことにここ数年は病気に煩わされてばかり。病気は己の運命をも変化せしめた。未来は決して予測できないが、これだけはいえる。『信じる者は救われる』神・仏を敬い、この世界を動かす目に見えぬ大いなる存在、その力に気づいている者は、決してその力に裏切られることはないだろう。聖書にもある。『義に飢えかわいている人たちはさいわいである。彼らは飽き足りるようになるであろう』
2006.01.16
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朝、夢をみた。山の頂から急斜面に向かって、空を飛ぶように、何も持たずに飛び降りた。腕を伸ばして、泳ぐように、そう鳥の鷹か鷲のように山の斜面を滑空した。高い木々のてっぺんをやり過ごし、ほどなく平地へとソフトランディング。そこには顔なじみの仲間たちのいつもの笑顔があって、気さくに私に話しかける。私も自然に笑顔で話し返す。未来は決して予測できないが、今日だけは信じたい。この夢がささやかな吉兆であると。
2005.12.26
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日本人にとってのクリスマスイブは、恋人どうしの特別な日のごときイメージが定着している感がある。まあ、それはそれでいいのだが、少しはXmas Dayについても考えてみよう。一般にはキリスト・イエスの生誕日とされているが、学術的にははっきりとわかっていない。しかし、キリスト・イエスの教えがその後の人間界を大きく変え、今日までその世界が続いていることを思えば、彼の生誕の日がいつであるかは問題とされる必要はない。大事なのは、あくまで゛彼の教え゛なのだ。イエスは「神の国がはじまっている」と説いた。その意味を「人間の幸福が広がっていく」と解釈すれば、物質的には確かにそうなのだろう。100馬力の自動車を持っていれば、馬100頭分のエネルギーを現代では一人で使っていることになる。その当時、多くの奴隷であった民がこれほどに豊かになったのだ。だが、精神的にはどうなのか。ほんとうに心の豊かさを実感している人の割合は?イエスは「人はパンのみにて生きるものではない」ともいっている。現代の人々の価値観、その中心に位置するものは常に゛金(カネ)゛である。゛金゛がすべてであると言ってはばからない人はたくさんいる。親子であれ、夫婦であれ、恋人どうしであれ、友人どうしであれ、そのつなぎ合わせている材料が金のみなら、それは砂上の楼閣よりも脆いものであろう。物と金に魂を奪われたいまの人間界が至上の世界というなら、それは、イエスのいう゛神の国゛とはほど遠い世界といえる。やはり、人は(人の多くは)サタンの子なのか。
2005.12.24
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広島・長崎に原爆が投下されて六十年。核兵器による人体実験の犠牲者となってしまった人々には心より黙祷を捧げたい。また、現在も後遺症に苦悩する被爆者の心痛いかばかりか。仏陀は『苦悩の原因は欲望にある』と説いた。戦争・対立・喧嘩・憎悪・悪意・妬み・・・・人間社会の悲劇の源はなんだろうか。それは、突き詰めていけば、やはり人の欲望だろう。仏陀が悟った真理は正しい。だが、仏陀の示した処方箋には疑義がある。彼は『苦悩(欲望)を克服せよ』といっている。そのための方法『八正道』・・・これをすべての人が実践すれば、理想とされる世界平和はすぐにでも実現しそうだが、ちょっと無理だろう。現実には、それぞれの国家の中と国際社会の枠組みの中で、宗教・人種・階級などを克服し形成される新しい政治・経済の体制が必要なのだ。そのために、まずは私たち一人一人が己の欲望を少しずつ抑えて、質素な生活を送ることを心がけよう。
2005.08.09
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またも黒い陰が忍び寄っている。黒い服の女が四人、黒い招き猫、黒猫との遭遇。悲劇はもう一度起こる。運命を操作する術をもたない我に打つ手なし。ただ、神の栄光にすがるのみ。光を。もっと光を。(>_
2005.06.09
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黒猫の警告はやはり的中した。(5月4日の日記参照)三日前の夕刻、帰宅途中で事故にあった。道路を横断中、軽トラックとぶつかったのだ。通り過ぎるバスの陰に隠れた反対車線の軽トラに気づかなかったのだ。しかし、運転手を一方的に責めることはできない。場所は横断歩道ではないうえに、自身十分な注意を怠った。路上に倒れこんだ私は激痛で身動きできなかった。しばらくして、救急車で運ばれ検査と処置を受けたが、診断は打撲だけ。信じられなかった。事故直後、少なくとも肋骨が2・3本は折れていると感じていた。不幸中の幸い・・・というより神仏の御加護によるもの-と私は信じている。それにしても、なぜこんなことになったのか。自分の不注意なのだが、いつもは十分に注意を払っているのに、その時は魔がさしていた。黒猫の警告を察知し、十分に警戒していたのだが、2・3週間が過ぎ、黒い魔物は過ぎ去った-と油断していた。悪魔はそういう心の隙間につけこんでくるのだ。サイエンスの常識を信じて疑わない人には゛ナンセンス゛だろうが、目に見えぬFORCE(+・-、陽・陰)は確かにある。私は経験でそれを知っている。ところで、事故後心配して来た友人は、大事に至らなかった私の姿を見るなり、『よかったじゃないか。これでダービーも当たるよ。』と言ってくれた。命に別状はなくとも、ひどい苦痛に耐えている中、よく言ってくれるよ。(~_~;)
2005.05.28
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あれが目の前に現れたときは要注意。黒猫が車の前を横切る。黒い服の女がふたり現れる。黒猫が寺の門前でたたずむ。・・・・黒猫は魔物の象徴だ。黒猫自体は魔物ではないかもしれないが、あれが、何か闇の力、スターウォーズでいえばフォースの暗黒面のようなものを運んでくるのは確かだ。それとも、不吉な黒い波の到来を警告しているのか。あれが現れた後は必ず不運な出来事が身に起こる。用心、用心。神仏を敬い、幸運の波を呼び戻さねば。光あれ。
2005.05.04
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最近、テレビのバラエティ番組を見ていたら、人のオーラが見えるという女性ゲストが出ていた。彼女は、その番組に出演している芸能人一人一人に、あなたのオーラは何々色で性格はこうこうです-と解説していたのだが、本当かいな-と半信半疑。ホームページを探すと、オーラ占いなんてものもあり、イメージ映像などから、『へぇ~、これが見えるというのか...』と、なんとも不思議な感じがして、ちょっとにわかには信じがたい思いがした。そして、それが本当なら、自分のオーラはいったい何色?どんな模様?などとだんだん興味がわいてきた。でも、どうして見えるのだろう。目の構造に特別な違いがあるとは思えない。脳、脳神経の中で特別な働きをしている部分があるのかな~まさに、シックスセンスだね。
2005.04.21
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この地球上、人間の住んでいる場所(国)で人間の血が流されていない所はあるだろうか-と、ふと考えてみた。近々知人がハワイに旅行に行くと聞いて、常夏の楽園-いいなあ~と羨みながらも、パールハーバー=戦争 ・・・あそこでも人の血は流れたんだなあ~と思った。それで海外旅行に行くなら人の血が流れていない清地(聖地ではない)へ行ってみたいなどと考えてみたけど、南極大陸ぐらいしか思いつかない。振り返れば有史以来今日までずっと戦争は続いている。多くの宗教が、神の国(あるいは浄土など)を人間界とは別のところにあると考えたのも当然といえる。
2003.08.20
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