2007.01.02
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雑誌でよく行われる座談会というものが実際にはどう進行するのか、とても興味がある。対談の場合でもどちらかが舵取りになることがあるだろうし、あるいは誰かが司会役になって進行させることもあるだろう、三人以上になると、三人ともが相当の識者や学者であるから、ダイナミズムがどのような展開をもたらすのか予期できないのではないだろうか?具体的に言うと、参加者の一人一人が持っているトピックに対する見解の違い、学会など社会的な潜在的(あるいは顕在的な)上下関係、主催している雑誌との過去の関係とこれからの関係への見通しなど、こういった背景的要素が座談会でのやり取りのぬるま湯さや白熱度の違いに現われてくることは、疑いない。ただ、編集の過程でテーブルの下の争いをどれだけ残すか、そして読者がどれだけ読みとることができるか?

昨日の日記で触れた木村尚三郎、澤田昭夫、村松剛のフランス革命についての座談会だが、三人の構え方が微妙に違う。

まず、木村氏、この辺りが彼の専門なのだろう、冒頭で口を開いたのも彼だし、取りも彼だ。フランス革命に対する視点も納得のできるものが多い。「絶対主義の時代に国民国家」を「名実共に完成させた」、「本当の目標、本当の敵は、実はカトリック教会であったろう」、「(カトリック教会などの聖界の権力を)ぶち壊さないことには」産業革命で先に進んでいた「イギリスに対抗できない」、「暴力的に農村の原理を国全体に広げ」た、「聖と俗が分離されたのが、革命最大の成果だったかも知れない」。木村氏の視点は、主としてフランス革命が歴史の中でどういう役割を果たしたか、という機能的な考え方のように思える。

同じ東大西洋史科出身の澤田氏の場合、視点が若干違う。彼はきっとリヴィジョニストなのではないか、<フランス革命が歴史の必然として起った>というマルクス主義的史観を否定することに、非常に拘っている。彼にとっては、「避けることのできたミス・マネージメントというのが、フランス革命の原因」ということになる。フランス革命は「功罪相半ばするのじゃなくて、罪の方が多いような気がしている」という点をさかんに強調する。澤田氏は、ジロンドからジャコバンの恐怖に至る経過はある程度必然で、人間の思い上がりの仕業だと考える。更に彼は、「カトリック教会を撲滅しようというところにつながっている」、と主張している。つまり、カトリック教会という聖界の権力を壊そうとした、その意志の中に人間の思い上がりを見、フランス革命の残酷さの原因を見るわけだ。

村松氏は、先の二人とは違って東大仏文科出身で、西洋史学会とは恐らくあまり関係のないところで独自の活動をしてきたのではないだろうか。もともと文芸評論家で、1975年の「死の日本文学史」というのは読んだことがある。行動する批評家で、アイヒマン裁判やアルジェリア戦争の現場も訪れ、「中東戦記」や「ナチズムとユダヤ人」という作品もある。

この座談会での村松氏は、木村氏の見解と澤田氏の信念表出の陰に隠れて、あまり独自の見解を述べる機会をもらっていない。貴族・僧侶側の土地に対する執着が日本の武士階級に比べて非常に強かったという点、ジャコバンの支配が二年で崩壊した原因は直接的には経済政策の失敗だったという点、くらいがユニークな発言だろうか。他の場面では、誰かの極論を否定したり傍証を提出したりするにとどまっている。

優れた司会者のいない座談会というのは、信念の表出、知識の開陳、太鼓もち、に帰着してしまうことが多いのかもしれない。まあ、これはブロッグなどへの書き込みとそのリスポンスにもよく見られることだが、開かれた議論というのはなかなか難しい。「開かれた」というのは受け答えする人の心が開かれているという意味で、「これはこうじゃないの」というコメントに対して、「あ、そうかもしれない」という気持ちを持つことだ。反射的に自己防衛に走ってしまう人がほとんどで、僕もそうなる時がよくあるのだが、これでは開かれた議論はできない。政治的・経済的・年齢的上下関係を忘れ、聞く耳を持ってコミュニケーションに臨まなくては生産的な発展は得られない、と思うのだ。





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最終更新日  2007.01.02 14:05:18
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木村尚三郎  
tomoo954 さん
論壇という言葉の存在感がなくなってから思春期を迎えた私で、しかも浅学だったもので、TVなどで見たことはあっても最近まで「木村尚三郎」という人を認識していませんでした。N饗アワーの司会といわれて、「あ、見てたかも」と思うくらいで。昨年の10月にNHKの深夜放送をみていたら木村氏がフランス中世の街・コルドを語りながら散歩する番組をやっていて、その解説と美しい風景に引き込まれて最後まで見ました。1993年の番組で、あとから聞いたら氏が亡くなった追悼で放送していたようです。ところで歴史認識なり、歴史教育なり、とにかく「歴史」というのは思索の源泉で、議論の共通基盤になるものだとおもうのですが、私が物心ついたこの20年で「歴史番組」は増えたのに「歴史」にたいする深い意味での関心が日本ではどんどん失われてきたようなな気がするのは私だけでしょうか。世界が蛸壺化、細分化されている表れなのかも知れませんが、世界の脳みそがどんどんツルツルになっているような、別の言い方をすると「議論自体不可能」な時代の到来を、cozyさんの文章とJAWSさんとのやり取りを拝見して逆に痛切に感じてしまいました。NHKでは最近、かの局では歴史のある「教養番組部」というのが「趣味実用番組部」に名前も組織も変わったそうですが、これが象徴しているような気が致します。 (2007.01.04 12:23:52)

このエッセーを書くにあたり  
cozycoach  さん
各人のバックグラウンドを調べていて、木村氏の逝去のことを知りました。76歳だそうで、まだあと10年はやれたのにと思います。愛知万博総合プロデュースの評判はどうだったのでしょうか?

澤田昭夫氏は、ちょっと調べたところでは、問題ありそうな人ですね。「カトリシズム荒廃の教訓」というエッセーがウエッブにありましたね。フランス革命への評価といい、あまり信用できない歴史家だなと感じました。

雑誌の座談会であまりいい議論を見かけることはありませんね。どうも開かれていない。tomooさんの説では、共通基盤としての歴史が風化してきている、ということですか?今の若い人たちとあまり議論したことがないので、どういう状況なのかよくわかりません。でも「国家の品格」が馬鹿受けするようではね、どうも。ああいう「反動」みたいなのは啓蒙時代の真っ最中にもいたそうで、そういった連中のメンタリティがスターリニズムやファシズムに繋がった、というのがアイゼイヤ・バーリンの読みのようです。最近思うのは、ネーション・ステートを基盤にしたナショナリズム論ね、これは欧米が創り上げたものだけども、これもいわば歴史的な幻想でしょ、キリスト教やマルクス主義や精神分析と同じような、このコンセプトが崩れない限り次の時代はやってこないんじゃないかって。ネーション・ステートなんて意味ないわけですよ。日本が美しい、日本に生まれてよかった、まあ同じメンタリティですが、こんなもの糞食らえと、最近思うのです。 (2007.01.04 15:00:27)

Re:このエッセーを書くにあたり(01/02)  
tomoo954 さん
cozycoachさん
>各人のバックグラウンドを調べていて、木村氏の逝去のことを知りました。76歳だそうで、まだあと10年はやれたのにと思います。愛知万博総合プロデュースの評判はどうだったのでしょうか?

私は「万博」というものがどうも苦手なので結局行きませんでしたし、万博というコンセプト自体が明治のものだからか、中身がいいとか悪いとかいう議論にもなっていなかったような雰囲気を感じました。そのようなもののプロデューサーなどを行きうけられて命を縮められたのではないかと、直観的に感じております。堺屋さんくらい政治家でないと・・・。

>澤田昭夫氏は、ちょっと調べたところでは、問題ありそうな人ですね。「カトリシズム荒廃の教訓」というエッセーがウエッブにありましたね。フランス革命への評価といい、あまり信用できない歴史家だなと感じました。

ちょっと良く読んだことがないので、わかりません。

>雑誌の座談会であまりいい議論を見かけることはありませんね。どうも開かれていない。tomooさんの説では、共通基盤としての歴史が風化してきている、ということですか?

cozyさんのお立場からすると、歴史の「共通性」そのものが「幻想」ということですか?もしそうだとすると、私の知っている範囲では「ニヒリズム」に近い感じがするのですがどうでしょうか?またもしそうだとするとhttp://www.asahi.com/ad/clients/waseda/opinion/opinion220.html
このようなオピニオンはどうおもわれますか?
(2007.01.04 17:08:33)

tomooさん  
cozycoach  さん
そうじゃなくて、人々が創り上げた共同の制度とか概念とか、それを「幻想」と呼んだのですが、それが人間を疎外してきた、結果として人間の自由を奪い殺戮を正当化してきた、もちろんポジティヴな面もあるでしょうが。ひとたび確立されるとそれ自身の成長と老化のプロセスをたどる。これは単に個人の意識や行動の集合ではないというところが重要だと思います。桜井さんがやろうとしているようなシステムダイナミクスの応用するとすると、こういった「幻想」群は個人の集合とは別個の実態として取り扱わないといけないと考えます。システムダイナミクスは僕も違った分野で使っていますが、現実のシステムの変動をモデル化するのは尋常のことではなく、往々にして思考実験というレベルにとどまります。その他の点に関して桜井さんの言っていることは、この頃よく見かける日本的な価値観をオルターナティヴとして提示するタイプに思えます。僕自身は、別の方向性を模索しています。

ということで、ニヒリズムというのは誤解です。 (2007.01.05 02:30:16)

Re:tomooさん(01/02)  
tomoo954 さん
そうするとやはりGoogleみたいなプレーヤーが世界の基幹になっていくイメージですか?だとすると1、今ネーションステートがその源泉を与えている多国籍企業の知的所有権の枠組みと、2、誰が「公」、つまり「持つものと持たざるものの公平を担保するような保証人」となるのか、この100年か200年で生まれてくるのかが私の疑問なんですがどうでしょうか。 (2007.01.05 04:26:18)

希望的予測では  
cozycoach  さん
100年、200百年はかからないんじゃないでしょうか。知的所有権の枠組みはいろいろなフロントで変化しつつあるんでしょうし、変化し続けることは間違いないですよね。卑近な例では、プロ野球のポスティング制度、これなんか5年以内に大変化するんじゃないでしょうか。インターネットの領域でも国の枠が結構制約になってる部分がありますが、これは10年くらいのうちに取り払ってもらえるとありがたいですが。「保証人」となる制度・組織が一番の問題ですよね。おそらく、これに関して有意味な変化を見ないうちに、僕は別の世界に旅立つと思います。あとはよろしく。
(2007.01.05 06:06:14)

Re:希望的予測では(01/02)  
tomoo954 さん
cozycoachさん
>100年、200百年はかからないんじゃないでしょうか。知的所有権の枠組みはいろいろなフロントで変化しつつあるんでしょうし、変化し続けることは間違いないですよね。

そうですか。この点私は悲観的です。知的所有権の枠組みは多国籍企業がネーションステートをコントロールして、「持てる者が永らえる」ように延命を繰り返しています。持てる者と持たざるものの軋轢はこの10年では臨界点に達せず、巧妙にさらに進みます。私はこの先、市場なり自然環境のシステムバグが生じることで、いったんカタストロフィーが起きてインパクトになる以外に、インターネットによる市民革命とでもいいましょうか、起こらないのではないかと考えています。 (2007.01.05 13:26:01)

追伸  
tomoo954 さん
http://promotion.yahoo.co.jp/charger/backnumber/200611/contents10/theme10.php

ついでに上記を例示させていただきます。ここに出てくる「ロングテール」がまさに私の感じているリアリティーです。情報化・グローバル化は格差社会にドライブをかけるものだという認識です。この時に有効策が出ないと(出ないでしょうアメリカ主導の日本では)「日本てなんだっけ?もう一度考えてみよう」とバックラッシュするのはある意味必然とも思えるのですが。どうですか? (2007.01.05 17:16:52)

ロングテールの話で  
cozycoach  さん
Howard Moskowitzのペプシ味覚テストの話を思い出しました。どのくらいの甘さが完璧かの調査を頼まれたMoskowitzがデータの分散のあまりのめちゃくちゃさに思い悩み、あるときふと思いついたのが、the perfect Pepsiではなく the perfect Pepsi'sを探すべきなのだ、と思い当たったというのです。つまり、人々の好みはあちこちの散らばっていて平均値を求めることはあまり意味がない。それよりも、いくつかのグループに分けてそれぞれの平均を追及すればよい、という感じでしょうか。この考え方を応用したのがPregoのスパゲティーソースだそうです。今まで一種類しかなかったスパゲティソース市場に、Pregoは何十種類もの味を導入して、大成功を収めたとか。好みの分散、関心の分散、その一つ一つの好みや関心が大手を振って歩けるようになった、これがロングテール社会の出現した理由ですよね。tomooさんはこれを格差社会とくっつけるわけですが、もちろん僕も格差社会の存在は認識してますが、それは世界では常に存在していたわけで、日本がようやくそれにのみ込まれ始めただけじゃないんでしょうか。日本的バックラッシュの理由は、失われつつあるものに対する郷愁では?一方で、日本的なものが一つのマーケティングの対象になっているのは確かで、一つのユニークな味として売れるわけですから、この現象と郷愁の現象とがダブっているのでは? (2007.01.06 03:10:25)

Re:ロングテールの話で(01/02)  
tomoo954 さん
長いURLを貼り付けたせいでレイアウトが崩れてしまいました。すみません。なるほど・・・。争点が見えてきたような気がします。基本的に私は「人間は無限の選択可能性には耐えられない」そして「自由とは極端に走ると『堕ちる自由』にまで行き着く」というスタンスです。そして自由や選択可能性には「主体」というものが前提にないと成り立たない。さらに「主体」とは自己組織的に生まれるものではなく、過去の記憶資源に依拠して形成されるものである。と考えております。amazonの「顧客の選好から次の商品を提案するマーケティング」もそこを突いているとおもいます。これは裏返せば、「選んであげる」ことが商売になるということだし、また社会全体が不透明になることで無条件にガバナンスを信頼し依存する傾向に繋がり始めていて、ネーションステート側のフリーハンドを広げこそすれ、狭めることにはならないと思っています。本筋からハズれた長い議論になってすみません。 (2007.01.06 03:47:33)

この考え方は  
cozycoach  さん
非常にジョセフ・ド・メストレ(de Maistre)に近いように思えます。啓蒙主義に潜む人間の傲慢さを批判した反啓蒙の人(1753-1821)。澤田昭夫氏と同様、権威の必要を説く人です。人間の本性には非合理的な邪悪さが潜んでいる、矛盾した動因を抱え、自分が何を欲しているのか欲していないのかさえよくわからない。こういう人間が種として生き残る方法はただ一つ、教会や国家などの権威によってコントロールされしつけられること。こういった思想は非合理主義、保守主義、権威主義、エリート主義、性悪論、などの系統に属するものと思います。もちろん、僕もこういう傾向がないわけではありませんが、理念としてはこれとは逆の方向を目指したいと思います。 (2007.01.06 15:39:31)

Re:この考え方は(01/02)  
tomoo954 さん
そんなに単純ではないと思います。というか私のは社会学の最先端の受け売りをしているだけです。私のは学部時代に学んだポストモダニズムとその限界。そして以下にあるような宮台=ローレンス・レッシグ(スタンフォードロー教授)ラインの受け売りです。以下宮台がレッシグ一部使いながら書いたものですが、
【IT技術の発展がもたらす自己触媒作用】
■〈生活世界〉が空洞化し「我々」が断裂した社会では、互いの感情や動機が不透明になり、不信ベースのコミュニケーションが一般化する。自明性が支配するはずの価値の地面が液状化し、不安ベースの実存が一般化する。単に「〈物語〉が小さくなる」のではない。
■IT技術の発展は、(1)〈生活世界〉の空洞化を埋め合せる準私的なネット・コミュニケーション領域を与え、(2)不信ベースのコミュニケーションを埋め合わせる監視テクノロジーを与え、(3)不安ベースの実存を埋め合わせる個人化したデジタルコンテンツを与える。
■IT技術の発展は、〈生活世界〉の空洞化がもたらす付帯効果を手当てすると同時に、そのことで〈生活世界〉の空洞化を触媒する。例えば、ネットがもたらす匿名的親密さは、家族内の記名的親密さの空洞化を埋め合せると同時に、記名的親密さへの期待値を下げる。
■すなわち、ここには、IT技術の発展が、IT技術への需要(の背景となる〈生活世界〉の空洞化)をもたらすという「自己触媒作用」がある。この化学的な比喩が示すように、IT技術の導入は、是非を論じる暇もないままに、極めて高速度で進むしかなかろう。
■70年代から進展する〈生活世界〉空洞化には、二つの処方箋が既存する。一つは、〈システム〉全域化を制約する、欧州的処方箋。もう一つは、〈システム〉全域化を制約しない、米国的処方箋だ。日本は事実上、米国的処方箋への無自覚な追随を示してきている。

つづく (2007.01.07 01:22:29)

Re:この考え方は(01/02)  
tomoo954 さん
つづき

【米国的処方箋とは何か?】
■米国的処方箋は、〈生活世界〉を護持する代わりに、アーキテクチュラルな権力を持ち出す。冷暖房の温度、照明の明るさ、BGMの音量、椅子の堅さ、家具や調度のアメニティによって、主観的自由感を損なわずに、客の回転率を制御する技術によって象徴される。
■「権力者による監視」というより「データベース化による検索」を意味する「監視社会化」も、この種の権力に属する。フーコー的権力と違い、「人間」でなくとも快不快に反応する「動物」でさえあれば制御できるような「ドゥルーズ的権力」が重視される。
■「人間であること」に小さな期待しか抱かないこうした傾きは、米国社会の多人種構成に対処するところから導入された「役割&マニュアル」優位のサービス提供や人事管理にそもそも見出される。更に遡れば建国の歴史に由来するアソシエーショニズムに行き着く。
■米国の政教分離は、叙任権闘争に遡る欧州の如き「宗教的猛威の囲い込み」でなく、メイフラワー協約に遡る「異なる宗派同士が殺し合わない宗教的共和」を意味する。そこでは各宗教ごとに示される「善」と、共和のためのルール形成に示される「正」が分離する。
■分かりやすく言えば、米国社会が〈生活世界〉の護持に固執しないのは、もともとそうしたものに依存しない開拓文化を背景にした「明示的ルールによって共和するアソシエーショニズム」と「ルールによる共和を要求する強固な超越神帰依」の存在ゆえである。

というわけで、近代・反近代、合理主義・非合理主義という構図に乗るものではありません。

(2007.01.07 01:23:20)

Re:この考え方は(01/02)  
tomoo954 さん
たびたびすみません。
「Code and other laws of Cyberspace」の翻訳本「Code-インターネットの合法・違法・プライバシー」でLawrence Lessig教授は「1996年に公開された、『インディペンデンス・デイID4』というひどい映画があった。宇宙人の侵略のお話だ。宇宙人が登場すると、地球人たちの多くは、よろこんでそれを歓迎する。こういう理想主義者にとって、悪意があると考えるべき理由はまったくないので、これまでにただの夢でしかなかったものに対して、概してよろこびが広がる。でも宇宙人があらわれてまもなく、宴たけなわのころに、雰囲気が変わる。いきなり地球の指導者たちはこの宇宙人たちが友好的ではないことに気がつく。それどころか、かなりの敵意をもってやってきたのだから・・・」「ここでの私の話も同じだ。われわれは、『インディペンデンス・デイ』の地球人が宇宙人をむかえたのと同じくらい、ネットを歓迎してよろこんでいた。それがわれわれの生活の中で拡大するのを、その最終的な影響を考えずに受け入れてきた。でもどこかの時点で、われわれも脅威の可能性を理解するようになるだろう。サイバー空間がそれ自身の自由を保障するものではなく、むしろコントロールのためのすさまじい可能性を抱えていることを理解するだろう。そしてそのときになってわれわれは問うことになる:どう対応したものか、と」

長くなりましたが、もし原書を読む機会があったら御意見おきかせください。 (2007.01.07 02:04:58)

tomooさん  
cozycoach  さん
僕は、あなたの「基本的に私は「人間は無限の選択可能性には耐えられない」」云々という部分に関して反応しているので、マーケティングや票集めをしている人達は消費者や有権者を違う次元で見てるわけで、自分が世界や他者とどうかかわっていくのかという理念の話とは違うでしょう。宮台氏の仮説は面白いと思いますし、ある程度有効なのでしょう。

しかし、書き込みのやり取りをレヴューしますと、二人の間で最初から話の焦点がずれてるんですね。もう一度読み返して次の日記としてまとめてみようかと思います。 (2007.01.07 06:14:15)

と思いましたが  
cozycoach  さん
やめにして、一応僕なりに総括してみますと、この高度IT化社会も、それなりの「共同幻想」を生んで自己増殖・変化していくのでしょう。これに関して現代社会学者の言うことのある部分は当たるでしょうし、アル部分は見当はずれになるんでしょう。過去の事象の分析と違って(こちらの方に僕は興味があるのですが)、近未来の予想にともなるgeneralizationは常に自分たち自身も組み入れられてしまうのが嫌ですが。疫学でもそうですが、過去のデータの分析は比較的議論が可能ですが、未来に関しては検証のしようがないので議論の有効性を比較しようがないのですよ。Lessig氏の寓話に関しては、別に僕達はインターネットの普及に対して弊害がないとは、まったく思ってないので、どんなシステムにも予期しない弊害があることはシステムダイナミクスを齧ったことがある人なら誰でも知ってるわけですが、彼の批判は当てはまりません。社会の変動は、新しい概念・技術・価値観を上から導入するわけではなく、草の根的に増殖していくわけでしょ。もちろんインターネットが発展してきたのには国防省の研究があったり国の政策があったりしたのですが、増殖そのものは人々の自発性でしょう。だから、弊害をすべて研究する余裕はないと思います。それをどうやって乗り越えていくのかあるいは呑まれていくのか、そこが現在生きていることの興奮でもあるんじゃないでしょうか。 (2007.01.07 08:03:29)

Re:と思いましたが(01/02)  
tomoo954 さん
議論を拡散は自覚しております。それによってよりベースの違いが鮮明になると思ったからです。まず、「人間は無限の選択可能性には耐えられない」。別の言い方をすれば「選択は選ばれた選択肢の中でしか可能ではない」。私はこれが現代社会学(ポストモダニズム以後)の出発点と認識しております。もちろん「日本における近代の不徹底」と「近代自体の限界」をごっちゃにする議論があることを認識した上です。総括を受けて話を戻しますと、木村尚三郎さんと澤田氏の対比に始まります。
1、「開かれた議論」という言葉に反応しました。しかし「開かれた議論」は今日ますます困難になっていますが放棄する気はありません。それどころか前提がどこまで違うのかということに真摯に向き合うべきだと思っています。これは最後に触れます。
2、「あたらしい社会への期待」=「既存の権力をぶち壊す」にご趣旨があると感じました。例えば「ナベツネが居なくなればもっと日本の野球も面白くなるだろう」ぐらいの素朴なレベルでしたら全く賛成ですし、その程度の「既存の権力」でしたらわかります。しかしそれが「ネーションステート」の次元まで広げられて否定論となるとあまりにもちがいすぎる。もっというと「ナベツネ」=「権力」=「いつの時代も同じ」という線形的なイメージに見える。そこもきわめて考え方の違いが際立つポイントでした。ですから今の時代は「ナベツネよりネットこそが権力でやっかいです」、というところに傍証が行ったわけです。「ネーションステート」=「時代遅れ」で「国粋主義」、という素朴な進歩史観(線形)にみえるのです。ことほど左様に立場が大きく隔たっています。当初抱かれている座談会に対する素朴な疑問を逆にそのまま顕出する試みのつもりでした。無礼三昧の段はお詫びします。「隔たり」について最後にご感想をください。私のリアクションは以後メールにて。深謝。
(2007.01.07 14:25:11)

tomooさん  
cozycoach  さん
やはり、総括を次のエッセーに書きました。 (2007.01.07 16:56:35)

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