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現在の県庁裏、ホテルチュラ琉球の向かいあたりに「琉球政府立法院跡」の碑が建っている。この立法院については、鮮明な記憶がある。今の県庁と県議会・警察本部が、揃って建替えをしようとしていた頃、この歴史的建物をどうするか?と問題になっていた。結局は、老朽化を理由に取り壊されたが・・まだ二中前通りからパレット前に出る道が、片側1車線の渋滞がひどかった頃、よく車からこの建物を眺めていた思い出がある。この立法院は、米軍政下の元、高度自治権を持ち戦後の沖縄の民政府である琉球政府により、昭和29年に建設された。アメリカーによる規制下とは言え、沖縄では、議会・立法・司法を国無き状態で、行使してきたのだ。立法院は、その象徴だったと言えるのだ。よく沖縄独立論なんてものが話題になったりするが、僕はナンセンスだと思っている。しかし、アメリカー時代を知る人達の中には、独立してもやっていけると考える人がいても不思議では無いのだ。復帰後は、老朽化が確認されるまで、県議会議事堂としても使用されていた。画像は、今のパレット辺りから撮影されたものだ。中央が、建設されたばかりの立法院。左には、今のおきなわ屋あたりにデパート「りうぼう」があるのが解る。画像の道路の勾配を見てもらえば解るが、ここは、明治の頃くらいまで山であった。現在の警察本部の駐車場のあたりには、「湧田井(ワクタガー)」と言う湧水があったのが、戦前の地図で確認できる。また、県庁と那覇市役所の間の一方通行の道なんかは、昭和初期まで桑畑だった。美味しいナンデンシーが、一杯採れていたに違いない。そういえば最近は、ナンデンシーを見ない。久々に食べたいなあ。にほんブログ村にほんブログ村
2011.10.31
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自作の琉歌を一首。干瀬打ちゅる波ん (ひしうちゅるなみん)浮かびたる大石 (うかびたるうぶし)何思てぃ立ちゅか (ぬーうむてぃたちゅか)千鳥一人 (ちぢゅいひちゅい)まあ、昔から上のような琉歌は、多数読まれてきた。「リーフやキノコ岩に波が打ち寄せているが、岩の上には、微動だにしない千鳥がいる。」みたいな光景は、沖縄の至る所で今なお見ることが出来る。こういう光景を沖縄人は愛し、思いを乗せていたのだろう。キノコ岩は、ノッチとも言う。海岸沿いにある岩の下方が、波に削り取られた跡を示す地形のことだ。上画像の手前の影の部分がノッチだ。次の画像は、干瀬(リーフ)の上にただ、大岩が転がっているように見えるが、これこそ、ノッチ地形の成れの果ての姿だ。岩の下方が、波の浸食を受けすぎた結果、土台を失い横転してしまった結果なのだ。画像の岩の左下には、少し盛り上がった土台を確認することができる。真夏の沖縄の少し寂しくなる光景。このリーフの内側では、シュノーケリングの初期講習みたいな事をやっていた。海中を見て、喝采をあげる観光客のいるすぐ側で、僕は一人、千鳥になった気分でこの光景を眺め続けるのであった。にほんブログ村にほんブログ村
2011.10.30
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八重山宿の跡地は、開南小学校の敷地内にある。泉崎村学校の場所跡からすぐに割り出すことができた。八重山宿とは何か?まあ、字面通りの意味なのだが、八重山人(やいまんちゅー)の那覇における専用宿だ。昔のことだ。八重山と那覇では半端無い距離感だったであろう。仕事で那覇人と接するのは仕方ない。だが、宿に戻った後は、郷里の仲間と心行くまで酒でも飲みたいと言った八重山人が、多く逗留していたと思う。故郷が同じと言うだけで、溢れ出てくる連帯感に説明は要らないだろう。僕が、8年前に季節で行った工場は、沖縄人を迎えるのは初めてだった所で、仲介の派遣会社の人も「頑張ってね。貴方達が頑張ってくれれば、それだけ沖縄人の雇用が増えるんだから。」と何か凄い励ましの言葉をくれたりしたものだ。僕と一緒に赴任したナカバルヤッチー(仲原兄貴)がやった事は、県人会を作ることだった。以後、次々にやってくる沖縄の若者達のために寮の部屋を提供し、毎晩のように島酒を用意して、皆のストレス発散の場を作ってやったりしたのだ。ちなみにヤッチーが会長。僕が副会長だ。今日でもう沖縄に帰ると言う奴(みーばらー=前原君)が、寂しそうにしているのを見て、二人で飲みに行き、「沖縄は内地よりも大変だけどさ、だからこそ自分次第だからよ。気張りよ!」と激励してやったこともある。うーん。何か思いだして泣けてくる(涙)ヤッチーサイ!ミーバラー!何か凄く会いたいぞ!!!まあ僕の話はいい。八重山宿は泉崎にあったが、那覇市内には他に宮古宿・山原宿・慶良間宿等の沖縄各地の出身者専用の宿屋が、多数あったらしい。もう解体されてしまった県立郷土劇場の西、今は駐車場になっているが、昔の那覇漁港の傍には糸満部落と呼ばれた区域があった。ここは、糸満宿が発展した姿だったらしい。糸満宿には、海人の嫁小達(とぅじぐゎーたー)が長期宿泊どころか、常駐していたのだ。毎日、旦那が糸満の沖で取れた魚小(いゆぐゎー)を漁港に水揚げしにくる。嫁小達は、宿でその魚を裁き、カゴに入れて、すぐ近くの東町にある今魚市場(いまいゆいちば)で売りさばいたのだ。那覇に糸満の女性が毎日、魚を売りに来たと言う話はよく聞く。でも「毎日糸満から?歩いてくる間に魚小が腐れるあらに?」と疑問に思っていたのだ。なるほど、疑問が解けた。よかった。よかった。うん。参考文献:外間朝貴:気ままにゆんたくいまむかしにほんブログ村にほんブログ村
2011.10.30
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真栄田と言う地名について真栄田と言う表記は、まず当て字だ。「前田」と意味的には同じで、「前田」の方のが地名の意味が理解しやすい。スリムクラブの真栄田が、よくテレビで「何で3文字?」みたいなツッコミを入れられてるが、沖縄の地名・人名が音読の当て字ばかりなんで仕方ない。真栄田を音読表記すると、「めんだ」になる。これを更に分解すると「めぇーんぢゃ」になる。海際にある沖縄の部落は、海に近い順に「崎」「前」「内「仲」「上」の字が、頭につく。判りやすく言うと、地域と言う意味の「間」を上記の字の後につけてみるといい。「崎間」「内間」「仲間」「上間」となり、海から近いか、遠いかの判別が地名をみるだけでわかるのだ。ちなみに「前間」という地名は無いようだ。では「田」ではどうか?「前田」「仲田」「上田」となる。今度は「崎」や「内」がない。「崎」と「前」、「内」と「仲」は、同義語と言えるのではないだろうか。「田」は単純に田んぼのことを言う場合もあるが、沖縄の米作に適した地域と「田」の付く地域はイコールではない。「田」は、「だ」と読むべきで、土や土地を意味する方言「みちゃ」「んちゃ」に通ずる「ぢゃ」の当て字の場合が多いのだ。ってことで「真栄田」は、「海にもっとも近い土地」と言う意味になる。「崎間」も同じ意味だ。で、「崎間」で考えると「崎」は岬に通じるので、「岬のある土地」になる。「真栄田」と言う地名だけで、「真栄田岬」のことを言ってるのが判るだろう。「真栄田岬」は、何と二重表記であり、「みさきみさき」になってしまうのだ。うーん。これ今、考えながら書いているのだが、変な結論になってしまった(笑)面白っさよーや!にほんブログ村にほんブログ村
2011.10.30
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50~60年代あたりの那覇市の市政だよりみたいな本を集めて読んでいると、那覇と言うのは、戦後の混乱と共に大きくなってきたのが、手に取るように判って面白い。天久や与儀タンク、ハーバービューなどの米軍の強制接収によって、土地を失った人達は、戦前まったく人の住まなかったガーブ川沿いや松尾・楚辺・牧志の原野や湿地帯に逃げるように着て、定住していった。50年代には、すでに那覇市はこういった地域をスラムと呼び、再三に渡って、再開発を行っている。上画像2枚は、松尾消防署通りから、浮島通り向けに少し入った当時の町並み。那覇市は、ここもスラムと呼び、再開発が必要な地域に指定していた。が、その町並みは結局、今でも残っている。僕は、そう言った所を散策するのが大好きだ。多分に郷愁的な、自分の体験していない沖縄を発見・味わうためにだ。上の画像の三菱テレビの看板なんか、発見して大いに驚いた記憶がある。だが、それでもかつて行政にスラムと呼ばれた町並みは、徐々に消え行く運命だ。この看板の家もこの2年ほどの間に、いつの間にか無くなってしまった。沖縄方言の「懐かさん」は、内地の「懐かしい」と違い、悲しいと言う意味が無いと言葉として、成立しない。懐かさや沖縄世替わいぬ果てぃん変わい変わりどぅむ想い残ち即興で、琉歌を詠んでみた。では、またん。にほんブログ村にほんブログ村
2011.10.29
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数日後、僕の仕事休みにあわせて、友小リングス(以下R)とアドキ島に向かった。このRと言う男、身長190cmオーバーの巨漢で、雑貨屋を数店経営している社長だ。店の粗利の何割かを給料として貰っているらしい。銭持っちゃー(じんむっちゃー)なのだ。とは言え、僕の前ではその気配さえ出さない。まあ、友人関係にお金は無用だと思うので、今のままでいいのだが。島に上陸。とにかく、目にするシャコ貝を全てビーチの一角に集めた。運搬は、ズタ袋を多数用意。これに大小様々のシャコ貝を叩っこむ。で、袋を片手に持ち、泳いで漁港に戻る。片手だけで、この重量にたえながらの平泳ぎはかなりキツイ。はっしぇ!この状況何だばああ!!!と叫びながらも、海峡を4往復。その間にジュースは2リットルは飲んだ気がする。ふー。と言う訳で、戦果は下の画像の通りだ。ところで、山分けしたシャコ貝が、我が家で余っている。欲しいと言う方は是非、一報ください。マジにあげます(笑)にほんブログ村
2011.10.29
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画像は、昭和30年代の断水時のもの。所は那覇。給水の順番待ちには、童達(わらばーたー)が動員されたらしい。汲み置き用にバケツさえも、ろくに無かったようで、ほとんど一斗缶がつかわれていたようだ。最近の沖縄では、断水は珍しいものになってしまった。僕が、沖縄に定住しだしたのが、26年前。その頃でも夏になれば、毎日の様に夜間断水があった記憶がある。今ほどダムが多くなく、また上水道さえも普及されてない地域もあったりしたので、各地域の水瓶となる水源が枯れると即断水の憂き目に会っていたのだ。その頃、山原や離島では、上水は簡易水道が主だった記憶がある。山原の水道は、石灰のせいで白く濁っていて、時間を置かないと透明にならなかった。今でもそういう所はありそうだが・・僕が内地で小学生だった頃、テレビで沖縄の水不足のニュースを見た記憶がある。自衛隊の給水車に多数の人達が列をなし、皆がゴミ出し用の大きなポリバケツを抱えていた。子供心に何て可哀想なんだろうと思ったものだ。昭和50年くらいだったと思う。ちなみに730や海洋博のニュースも見た記憶がある。730の時の横転したバスの映像に結構、ショックを受けていたりしたのだ。僕は完全断水は経験したが、幸いにして給水車の前で2時間待ちみたいな経験はしていない。まったく、ありがたいことだ。最近、うちの職場に来たナイチャーは、「沖縄の水は硬水なので、水は全て軟水を買っている。」と言っていた。何か罰当たりな気がする。皆して、「何しに沖縄に来たの?」と突っ込んでも、「だって軟水のが美味しいですよ。」と悪びた様子もないのだ。今度、雨乞い御嶽にでも連れて行ってやろうと思う。にほんブログ村
2011.10.29
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お宝は、ずばりシャコ貝の貝殻だ。ビーチは元より、森の木下まで、数cmから30cmくらいのまで、大小様々なシャコ貝が、散乱しているのだ。シャコ貝の何が、お宝か?まあ、簡単に言うと、沖縄本島ではもう大きめのサイズのものは採れないということだ。土産物屋なんかにインテリア用に売っているのは、100%外国産だろう。勿論、小サイズのシャコ貝は、リーフに行けば生きているのが、ばんないいる。が、基本、漁業資源なので、採集禁止なのだ。シャコ貝の貝殻は、用途として、魔除けになる。海際の部落に行けば、門扉や塀の上にシャコ貝を置いている家をよく見る。シーサー・フー札・サン・石敢当・ヒンプンなど、沖縄には悪風返し(やなかじげーし)となる物は多い。シャコ貝もそうなのである。30cmオーバーの貝殻を10個ほど拾う。ここで重要なことに気づいた。これを抱えて、泳げるか?ということだ。うーん。今日は、二個だけ持って帰ることにして、撤退しよう。と言う事で、両手にシャコ貝を持ち、泳いで志喜屋漁港を目指す。一個だけでも2kgオーバーだろう。手は、水中にぶら下がり状態。足だけで泳ぐ。ほっとくと、シュノーケルにも水が入ってくるくらいに沈むのだ。正直に言う。半分溺れた状態になり、かなり海水を飲んでしまった。とにかくも生還。家に戻り、早速、シャコ貝を見せに友小のリングスのところ行く。このリングスと言うやつ、近々、どぅーでカフェをオープンする予定なのだが、店の飾りに一杯欲しいと言い出した。と言う訳で、第二次アドキ島遠征が決定しまった。にほんブログ村
2011.10.29
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アドキ島東海岸から辛くも撤退した僕は、迷わず、西海岸方面へと向った。アダンとモクマオウの原生林を横目に通り過ぎる。なんかペンキ塗りたての20畳くらいのセメントに象が、一匹乱入しました。みたいな平たい岩の上を行く。デコボコなのだ。だが、この岩が波の力で、未来のビーチロック(板干瀬)になるのだ。そういう感じの岩が数箇所つづく。歩きにくいので、海の中を歩く。目の前には玉城方面の緑豊かな光景が見えた。平野の少ない、山が迫り出すように海に突き出ている光景。うーん。いいなあと撮影しながら進む。少し泳いで、西海岸を望む。東海岸と全く同じ、岩また岩の足場の無い感じだ。無論、島の裏は見えない。ずっと、こんな感じの島なのでは?と疑念が過ぎる。ここで、ちゃーするか悩む。と言うのも、上陸した瞬間からこのアドキ島には、お宝がゴロゴロしているのに気がついていたからだ。沢山のあのお宝があるということは、この島、本当に人が出入りしていない事の裏付けになる。志喜屋の人からも全く、価値の無い島と思われていたのだ。と言う事で、探検は早々に切り上げ、お宝採集に入ることにした。にほんブログ村にほんブログ村
2011.10.29
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昭和4年の泉崎の地図より。田仲筋の南に上之段(ぅいーぬだん)と言うスージがある。今の泉崎一丁目16~17番地あたりだと思う。ここらが、傾斜地だったと言う事だろうその上之段の南にシーサーがあったらしい。そのシーサーの名前は、「ほーとぅぐゎー山獅子」。泉崎出身の地名研究家、知念融氏は、「ここには美しい枝ぶりのガジュマルがあり、その枝ぶりが鳩(ほーと)の翼を広げた姿に似ていた・・かどうかは定かではないが、真夏の納涼地だった。」と述べている。うーん。美しい枝の形を鳩なんかに例えるか?それなら猛禽類のがしっくりくると思う。さて、本題だ。何を言いたいのかというと「ほーとぅ」の解釈についてだ。僕の個人的意見では、「ほーとぅ」は、臍のことだと思う。日本神話で「天岩戸の前で踊るウズメの衣の間からホトがちらりと見えた。」と言う箇所があったような記憶がある。ホトは、臍の古語だとすると、つまりは沖縄方言の「ホ」「ホー」「ホーミ」に繋がると思う。一般に女性の局部の方言は「ほーみ」と思われているが、正式には「ホー」だ。「ホーミ」とは、「ホー」の丁寧語で「ホー前」ということだ。まあ、「○○○」が、「お○○○」になるのと同じなのである。「ほーとぅぐゎー山」のすぐ北には、仲島遊郭がある。更にすぐ東には「ハンキの御願」と言う男の聖地がある。多分に独断が入っているが(笑)「ほーとぅぐゎー山」は、仲島遊郭の遊女のとっての聖地だった!!間違いない!!!(笑)一応、これ結構、無責任に書いてます。ご了承ください。でも同じ遊郭の辻には、遊女達が建てたと言う寺があったり、遊女が拝みに来る拝所が間違いなく存在している。仲島遊郭にも、そういう場所があっても不思議ではないと思う。そういえば、仲島遊郭って漫湖のほとりにあったんだよなあ(笑)にほんブログ村にほんブログ村
2011.10.28
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琉歌を紹介する。さてどんな意味でしょう?(笑)1・ハンキとるタニや 穴とぅみてぃ入ゆい ハンキらん物や あま見くま見2・ハンキらんタニぬ ぬしきたる可笑さ ハンキらわいもり 素性知みら僕は、こういう内容の琉歌が大好きで、ナークニーやマシュンク節なんかによく乗せて歌っている。絶対に近所迷惑にちがいない(笑)さて、ハンキとは何か?画像は戦前、ハンキの御願と呼ばれていた所の予想地点だ。この御願所(うがんじょ)は、「ハンキらん物」が、「ハンキとぅる物」になるようにと拝みに来る所だ。何しろ、一筋向こうの道から西は、世に名高い仲島遊郭だ。いかん。何か笑えてきて堪らんやっさ~(笑)まあ、こんな所もあったのは驚きだが、男と言うのは所詮、こんな者と言うことだろう。1の訳「皮の脱げたチンチンは、穴を探し出して、入ることが出来る。 包茎のチンチンは、メクラと同じなので、キョロキョロするだけ。」2の訳「皮かむりの主が来るとおかしく見える。皮を脱いでこそ素性がわかるってものだ。」ハンキとは、「半皮」と書く。ハンキらんタニとは、仮性包茎・真性包茎のことだ。上の琉歌は、包茎男をからかっている狂歌なのだ。ちなみに2の琉歌は、辻の尾類小が詠んだものらしい(笑)しかし、今の泉崎の様子からは想像つかない。昔の泉崎は、楽しかったんだろうなあ。言っておくが、僕は、ハンキぬ御願には用の無い男だ!(笑)参考文献上原直彦:春歌礼賛にほんブログ村にほんブログ村
2011.10.28
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真栄田海岸で見つけた横穴。最初見たときは、壕(ガマ)か?と思ったが、長方形の風穴があるのを見て、旧軍の施設跡だと確信した記憶がある。読谷の米軍上陸地である渡具知あたりは、つぶさに散策したことがあるが、恩納村の戦争被害については、全くの無知だ。ここは、恐らく旧軍のトーチカだったのではないかと思う。米軍の上陸に備えて、重機関銃の数丁も配備されていたはずだ。中から外の様子がわかる窓は、銃眼だったと思う。戦跡に指定されてない所からすると、実戦では未使用だったんではないだろうか?中から見る陽光溢れる世界は、異常に眩しい。にほんブログ村
2011.10.28
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一つの岩を海面近くまで、足場を確かめながら降りる。するとまた、垂直に近い岩をへばりつく様に登る。この繰り返しには正直参った。足を滑らせたら、海に向かって飛び込めばいいと思ったりもしたが、デジカメを片手に持っている。ならん。空中に舞いながら、防水パックにデジカメを叩っ込むなんて離れ業をやる自身は無い(笑)しかし、この島はアダンが多い。地盤が安定してないのか、上に伸びずに横に枝を伸ばしている輩ばかりだ。こっちは上半身裸なのだ。葉っぱのトゲトゲが当たると、痛くてたまらない。蘇鉄も多い。そう言えば、蘇鉄とアダンのアクの抜き方を知りたい。昔の飢饉の際には、この二つの実を食べて、凌いでいたと聞く。「蘇鉄地獄」なんて言葉もあるくらいだ。なんか、サバイバルのhow toの一つとして、くぬひゃーらの美味しい食べ方を知っておきたいのだ。思い出した!!今月の28日、明日だ!沖縄に大地震が来ると言う噂を臣下達(しんかぬちゃー)から耳にした。本当か?至急、詳細求む!!いよいよ限界が。眼の前にある岩まで、1m以上。飛び越すには裸で安物マリンシューズでは怖すぎる。海面に降りるには、垂直以上の角度で降りないといけない。スパイダーマン(USA)になるか、スパイダーマン(JAPAN)にでもならないと無理だ。と言うわけで、東海岸から島の裏を目指すのは断念。喉の渇きがひどいし・・・とりあえず、引き揚げることにする。にほんブログ村
2011.10.27
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三線を弾くのが趣味だ。レパートリーは自称200曲以上。吉屋チルーの琉歌も「カイサレー」あたりに乗せて歌うのがすきだったりする。以下は僕が歌う「吉屋鶴の唄」ツラネ・誰がし名付けたや 吉屋てぃる人や 歌ぬ数々や 世々に残てぃ・歌に繋がりてぃ 見染みたる里とぅ 想い自由ならん くぬ世しでぃてぃカイサレー・及ばらんとぅ思ば 思い増す鏡 影やちょん映ち 拝み欲しゃや・頼む夜や更きてぃ 訪りん無らん 一人山入端ぬ 月に向かてぃ・恨み比謝橋や 我ん渡さとぅ思てぃ 情無ん人ぬ 架きてぃ置ちゅら・島んどぅなどぅなとぅ クバんすゆすゆとぅ 繋じうる牛ん 鳴ちゅらとぅ思ば・流りゆる水ん 桜花浮きてぃ 色美らさあてぃどぅ 掬うてぃ見ちゃる吉屋鶴(チルー)については、高名な歌人ゆえ説明は割愛。泉崎には、チルーのいた遊所「吉屋」があった。当時の田仲筋沿い。仲島遊郭の一角だ。ちなみに最初の画像が、遊郭跡地ではない。なんとなく、チルーはオードリーみたいな美人だったに違いないと思って貼ってみた(笑)仲島遊郭は、おそらく泉崎一丁目14~16番地あたりに位置していたと思う。画像は、一丁目16-2あたりなのだが、ここらに「吉屋」はあったと思う。って言うか、これほどに有名な女流歌人のいた所だ。碑の一つくらいあってもよさそうなのだが。「尾類馬」が風紀を乱すとか、女性差別だと禁止される世の中だ。遊郭の跡地なんかを文化財扱いにはできないと言う事か?まったく、糸数カメが泉下で泣いてるぞ!!にほんブログ村にほんブログ村
2011.10.27
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環状2号のジミーズの帰りに新都心の自然森に行って来た。那覇市では、緑化特区みたいな区域にしている所。天久開放地が、いよいよ開発となった際にここが野鳥の楽園だと言う事で、市民団体が動き、見事に戦前・アメリカ世の状態のままに残った森である。僕は、この森には入れないようになっていると思っていたが・・森脇の歩道を歩いていると、下に降りれそうな道がある。勿論、未舗装。何やが?ビビビと来るものを感じる。何かある。あった!!ホームレスのテントだあ!!!(笑)はっしぇ!何だばー!と思いつつも先があるので進んでみた。拝所があった。やっぱり。ここらは銘苅だ。新都心のできる前、地図で見る銘苅は本当に狭かった。基地の中には、人の住まない銘苅の区域が、広々と示されていた。銘苅の人にとっては、60年もの間、故郷は基地の中であったのだ。その銘苅の聖地に違いない。石版に「ウフモウバル ウサチアムシヲレ」と彫られている。恐らく「大毛原。拝みみしょうれ」と言う意味だろう。この原野は大毛原と言うらしい。では、と香炉にタバコで焼香。何とは無しに祈る。更に降りると、階段が。その下には、ガジュマルを擁する石灰岩の大岩が。その大岩の岩陰に井(カー)を発見。湧水だ。そばの木柱には、「天地久帳之主」とここの神様の名前が書かれていた。天地久?西遊記の天竺?そこで字面から、「ああ、天久のことか。」とひらめく。ってことは、ここは天久の聖地なのか?でも銘苅の隣は安謝やし。わからない。天久(あみく)を穿った見方をすれば「あみきゅ」「あまみきゅ」と読める。沖縄開闢の神であるアマミキョを祭っているとも考えてみた。あっしゃびなー。まじ解らん。井を覗いてみると、少量ながら水が湧いているが判る。周囲の土が濡れているので、この井は現役で使えることは判明。だが、飲む気は起きない。汚れているのだ。飲料不向き。お供え物を置くための台みたいなのがあったので、そこへ焼香。祈る。井の先は川であった。人工的な護岸も何もない自然そのままの川。素晴らしい。磯ヒヨドリの声が響き、虫の声が鳴り、アメンボが水面を我が物顔に泳いでいる。原始の沖縄の風景。いい所だなあとおもいつつも、僕は現実社会に帰っていったのであった。にほんブログ村
2011.10.27
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アメリカー時代の建物が好きである。なんか、レトロ感もあるが、素直に個性的な建築物だと思うのだ。画像は、久米の58沿いに建っていたビルだ。窓枠のデザインを見よ!充分、個性的だ。しかし、今では取り壊されて、西鉄リゾートホテルなんぞと言う内地資本のビルに変わってしまった。一階のテナントの旅行社が撤退して久しかったが、そのせいなのだろうなあ。今気づいた。「我喜屋薬品」って浮島通りの我喜屋薬局と関係ある?我喜屋薬局は、浮島通りにあり、余程の老舗らしく、古い格式溢れる木製の看板を掲げている。あげ!画像が見つからないやっさー!!うーん。画像は、いずれ「浮島通りを歩く」でうpします(笑)にほんブログ村
2011.10.27
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画像は、1959年の国際通り。いや、当時は国際大通りと呼ばれていた。多分、国場ビルから撮影されたものだろう。左上方に目立つように建っているのが、セイコー時計台だ。セイコー時計の宣伝塔に違いないが、当時の人々にとって時間を知るために大いに役立っていたに違いない。この時計台は、現存する。お色直しは施されているが、当時そのままの格好なのが嬉しい。しかし、なんか目立っていない。ただ、やはり今の携帯で時間を見る時代にはそぐわないようだ。とはいえ、半世紀の歴史を持つ物件だ。ランドマークとしての役割は終えても、ずっと時は刻み続けていて欲しいものだ。にほんブログ村にほんブログ村
2011.10.27
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画像は真栄田の船泊りのすぐ近くの海岸。はるか昔、海面が今よりも上昇していた頃、この石灰岩の崖は、海中にあってリーフを形成していたに違いない。崖の上部は、干瀬(ヒシ)であり、崖の斜面はヒシヌクシ(礁斜面)だったはずだ。この崖に出来た風穴は、昔の風葬地だったようだ。画像では二箇所見えるが、CBで蓋をされている。今でも、門中墓として機能はしている気配がある。中央の風葬墓の前には、香炉が設けられている。崖に向かって、合掌。真栄田人には、後世、守り続けてもらいたいものだ。僕は、海の素人だ。画像のような珊瑚は死んでいるものと、つい最近まで思っていたのだ。はっし、我んねーふらー風姿よーーー(苦笑)珊瑚上部の平面は、干潮時の潮位と同じ高さを示している。珊瑚は、けっして海面から顔を覗かせないように健気に成長しているのだ。にほんブログ村
2011.10.26
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島の東海岸は、とんでもない悪路だった。岩と岩の間を跳び越し、岩と岩の間の隙間をすりぬける。マリンシューズを履いてきてよかった!!!でもこのジューズは中国製だ。突然、破れたり、裏面が剥がれたりしないか?と心配になる。ふとアダンが邪魔でしょうがない岩の上から、下をみてみた。表面が、乾燥してひび割れた灰色の地面が見える。島尻マージで間違いないと思う。島尻マージは、本島南部の表層を形成している土だ。マージは、漢字では「真地」と当てられる。真の土・・つまり昔から農地にされてきた沃土なのだ。その南部特有の沃土が、この島を形成している。このアドキ島は、珊瑚礁の隆起とかでできた島ではないと言う事だ。海面が今よりも低かった時代がある。はるか昔、アドキ島は沖縄本島の一部であったのだ!!間違い無い!!!・・・じゅんにか?俺(笑)にほんブログ村
2011.10.26
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田仲筋(タナカスージ)は、戦前の牧志街道と軽便鉄道那覇駅を結ぶ大通りであった。明治以前においても、御成橋と漫湖沿岸を結ぶ要路だったようだ。ちなみに牧志街道は今の国際通りだ。国際通りは、正式には県道39号線。安里から泉崎を抜け、旧海岸線であるバスターミナルを結んでいる。では、この県道39号の泉崎を横切る部分が、旧田仲筋だというのは、かなり怪しい。僕的には、現在の県庁駅前バス停から斜めにまっすぐバスターミナルに出ているように思う。つまり、県道39号から南に一本入ったスージが、田仲筋にもっとも近接してると思う。市役所の裏通りに入る。松本料理学校なんかは、昔からある。全く変わらず存在してるのは嬉しい。画像のような建物を発見。壁面に上泉町と書かれている。泉崎は、大正から昭和初期にかけて、旧泉崎村が下泉町。旧湧田村が上泉町と行政上区分されていた。この建物、当然、戦後の物件だ。戦後、かなりの時期までこの界隈が、上泉・下泉と呼ばれていた証だ。庶民の町に対する呼称は、行政の都合とは関係無いということだ。久茂地でも三丁目界隈では、ビルの名に旧町名の美栄橋の名前を使っている所が多数のこっている。人の気持ちと地名の関係性が表れていて、面白い。仕事上、観光客に「南城市に行きたいんですが」とよく聞かれる。僕としてはどうしても「は?南城って広いさー。知念?玉城?佐敷?大里?どれ?」と聞いてしまう。うるま市にしてもそう。勝連なんか、でーじ惜しい。その歴史的価値から町名が消えるくらいなら合併拒否!!くらいの対応しても良かったと思う。とにかく今いるのが、旧上泉町と言うのが解った。田仲筋よりも南側の位置にいるのだ。田仲筋の場所特定は、一応、当たっていたらしい。にほんブログ村にほんブログ村
2011.10.26
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画像は、海歩っちゃーのオジーが、今から素潜り漁に出るとこ。オジー曰く、「リーフの中はもうダメさ。ならん。リーフの外ならマギーのタコとか採れるよ。」実際にリーフの外で、このオジーを見たが、腰の網にはしっかりとオオダコが入っていた。ルリスズメダイ。どこにでもいる。一見、綺麗で可愛いのだが、結構汚い海にもいたりする。沖縄の海中の庶民的存在。にほんブログ村
2011.10.26
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アドキ島の海峡の海はひどく濁っていた。海底を見ると、島に向かってなだらかに赤茶色の砂がスロープを作っている。珊瑚の死体も多数。かなり大きめの枝珊瑚が転がっているのは意外だった。南部特有の砂泥底だと思っていたからだ。我ながら海峡の横断は苦にならなかった。日ごろの鍛錬の賜物である。いよいよ上陸。満潮時のラインあたりは、薄い岩が敷き詰められたようになっている。数百年後の未来には立派なビーチロックになっているに違いない。こんもりとした森に近づく。どうも人が侵入した気配が無い。登れるかな?と思った獣道みたいなところをあがってみる。ダメだ。折り重なるような雑木群は、とてもじゃないが今の装備では乗り越えられそうにない。島に人工構造物はたった一つ。コブシ大の石灰岩を積み重ねた石垣みたいなのを発見。御嶽か?と思ったが、香を焚いた跡などもない。何より聖地にあるべき雰囲気がない。雰囲気?うーん。何かいい表現を思いつけない。さて島の裏側に行きたいのだが、どうするか・・・泳ぐと言う手もあるが、どうも濁った海を行くのは面白くない。島の東側の岩場を進むことにする。にほんブログ村
2011.10.25
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旭橋からバスターミナルの手前を左折すると、仲島の大石がすぐに眼に飛び込んでくる。この大岩だけは、昔から変わっていない。石灰の巨岩の上部には、複数の木々がこんもりと茂っているのが印象的だ。高校の時に沖縄に来た時に糸満へのバスに乗るためにここへ来たのを思い出す。この大石を見て、何故街中にこんなものが?と思ったものだ。まだ沖縄に住み、定住するとは思ってなかった頃だ。仲島の大石は、かつてこのあたりが海であった事の名残だ。石の下部には、波で削られたノッチも確認できる。この大石も在りしころには、海中に浮かぶ明媚な姿だったのであろう。埋め立ては恐らく、大正の頃、軽便鉄道の那覇駅造成のためではないだろうか?戦前まで、大石周辺は潟と呼ばれていたらしい。埋め立てしやすい干潟だったのだろう。大石を望むその潟には、前之浜(めーぬはま)と呼ばれたビーチもあったようだ。前之浜は、南部や離島から仲島遊郭に来る人々の上陸地であったのは間違いないだろう。大石の前には、祭壇がある。裏手には香炉も置かれていた。かなり、昔からの聖地であることが伺いしれる。ふと見上げると岩の上にも香炉が・・香炉には、霊御殿の文字が見える。祭られているのは「酉みふし産女神」。正直よく解らん。子宝の神様か?とにかくも何もせずに離れるのも、罰当たりなので、下の香炉でタバコで焼香。祭壇で手を合わせておいた。岩上の木々の木陰から出ると、太陽が眩しい。にほんブログ村にほんブログ村
2011.10.25
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画像は、真栄田海岸で素潜りをする時の基地になる船泊り。残波岬側に少し行くと、大きな新設の漁港があるが、ここは、昔ながらのスロープしかない漁港だ。大きな漁船なんぞは必要ない。海人たるもの、サバニ一艘で充分。と言うオジー向けの感じが溢れるいい感じの所だ。ここらの海歩っちゃーともよく遭遇できる。糸満の方言で、イノーでも海岸に近い礁原をシラマーと言う。白砂のある所と言う意味で「白間」か?白間といえば・・淳!!見てるか?見てたら至急、連絡しれ!(笑)画像は、そのシラマーの写真。画像の群落間の隙間が、通路みたいになってるのが面白い。魚道なのか?海底の水流の流路なのか?珊瑚の住み分けとも考えられる。うーん。自然ぬ面白さ(うーむっさ)よ~~。にほんブログ村
2011.10.25
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志喜屋漁港とアドキ島の間の海峡は凪いでいる。満潮に近い感じ。日差しも結構強い。素潜り日和だ。僕の基本的な素潜りの格好。上半身は裸。下は半パン。水中眼鏡にシュノーケル。あと、首から防水パックを下げている。この防水パックは優れもの。水中写真の撮影用だ。これにデジカメとタバコを入れる。いつもなら島サバを半パンに突っ込み、裸足になるのだが、今日はマリンシューズを持参。観光客が結構出入りする某施設に捨てられていたものだ。まったく、勿体無いことをする奴がいるものだ。とは言え、素潜りをスキンダイビング等と呼び、ウェットスーツを着込み、珊瑚の被覆率の低いそこそこに綺麗な海で「ああ、お魚になった気分!」みたいな事を抜かし、悦に入っているようなナイチャー女には、絶対にカッコ悪いと思われる格好だ。と、女性スキンダイバーを否定することをかいてしまったが、今年、いきなり開眼したことがある。「ウェットスーツの上だけを着て、下はビキニだけの女はエロい!!!!」こういう方とは是非とも、一緒に泳ぎたいものである(笑)堤防から海に向けて階段があり、そこを降りる。海を覗くと、手前に海草が堤防沿いに密集しているのが判る。その先は、他よりも海の色が深い青。いきなり深くなっているようだ。アドキ島の前面は赤見を帯びた砂のビーチ。その砂のシルトのせいか、水はハッキリ濁っているのが解る。水中に侵入。水温がいい感じに低めで、死に気持ちいい!!目指すは、アドキ島。100mほどの遠泳となる。遠泳か?なんかショボいなあ(笑)にほんブログ村
2011.10.24
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この泉崎シリーズは疲れる・・今の泉崎の泉崎橋通りから南側、泉崎1丁目の10~14番地辺りこそ、泉崎の地名の由縁たる湧水多発地帯だ。解りやすくいえば、大原簿記専門学校・琉球新報ビル・沖縄バス本社ビルのある辺りだ。琉球新報と沖縄バスのある一角に昔、「仲島小堀(ナカジマクムイ)」があった。「小堀」とは、簡単に言えば湧泉のこと。本来なら、地下水の籠る所という意味での「クムイ」なのだろう。今、「籠」の字には龍が含まれているのに気づいた。首里の龍樋など、湧水と龍には密接な関係があるらしい。何か興味深い。この「仲島小堀」は中々に大きい。今の沖縄バスのビル全体とその前の県道29号の半分くらいは湧泉とその周辺施設(洗い場や、石溝)だったようだ。他に有名な小堀としては、首里の「鳥堀(鶏小堀・トゥンジムイ)や、今も素敵な景観を誇る東村の「手長海老小堀(タナガーグムイ)」などがある。仲島小堀から流れ出た水はどこへ行くのか?「水走(みじはい)」と呼ばれる一角があったのが、地図上確認できる。今の大原専門学校の裏手らへんだと思われる。水はここを流れ、久茂地川に流れ込んでいたに違いない。水走とは、水の流れの事を言う。水走と似た小地名で有名なのが、玉城の「受水走水(うきんじゅはいんじゅ)」なのだが、この漢字の当て字は間違いだ。正確には、「浮溝走溝(うきんずはいんず)」が正しい。このことについては、いずれ玉城について書く時に大いに語りたいと思う。にほんブログ村
2011.10.24
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我が愛輪「コメット号(リード90)」は、太陽(てぃーだ)カンカン、南風(ふぇー)や涼さん、我んねー暑さん、世界一ならヨナグニサン!!と言った状態のなか、志喜屋漁港に到達。一年ぶりだ。前来た時は、女の子も一緒だったのに・・今日は孤独だ(涙)志喜屋の地名について。多分だろうが、志喜屋は「しぢゃ」もしくは「いしちゃー」と呼ばれたのでは?と思う。「し」は、石の意味に違いない。内地でも「石」を「し」と読む言葉は残っている。例えば「重石」なんかそうだ。では「きや」はどうか?沖縄方言では、「き」を音読すると「ち」になるという不思議な音韻変化がある。「月」が「ちち」になったり、「沖」が「うち」になったりするのだ。「きや」は、本来「ちゃ」であることは間違いない。では「ちゃ」の意味は?方言で土を「んちゃ」と言う。土地と言う意味もある。と言うことで、志喜屋は「石ころばかりの土地」と言う意味になる。ちなみに「石原(いしゃら)」「石川(いしちゃー)」も同じだ。などと、誰得?みたいなことを考えつつも、漁港最先端の堤防へ。海人の皆さんが、船の中から「誰やがひー?」みたいな冷たい視線を送っているように感じてしまう。まあ、アドキ島なんて地元の人にとっては、毎日でも渡っているぞ!!みたいな感覚だと、勝手に僕は思っていたのだが。実は、違った!!!あきさばよ~~~~にほんブログ村
2011.10.23
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無人島・・何て男のロマンをくすぐる言葉なんだ!我が職場から、渡嘉敷の無人島ナガンヌへの渡しの様子が見える。真夏ともなれば、数百人の観光客が毎日、ナガンヌに渡っている。け!!周りを見渡せば、人ばかりの無人島?テレビの影響なんか知れんけど、笑わさんけ!!有人島やしぇ!!と憤りつつも、では手前はどうなのだ?と言う自問自答の末に本当の無人島を目指すことにした。お金がかからないと言う条件付で(笑)目指すは、アドキ島。志喜屋漁港から、わずか100m程の海峡を隔てた所のある。以前、拡張されたばかりの志喜屋漁港に釣りをしに行って、アドキ島を見ていいなあと思った記憶がある。10年以上の前からの夢なのだ。大げさだな(笑)車ではなく、我が愛輪コメット号(リード90)で出発。晩夏ながらも、風が気持ちいい!!途中、知名崎に寄る。すでにエビの養殖場やレストランの建物は消えていた。かつてのリーフは埋め立てられ、道路となっている。「こいつら、知名崎一周道路でも造ってるんでは?」疑念が湧く。全くいらない道路が今、出来つつあるのだ。観光客の為に・・気を取り直して、安座間方面へ。今度は、かつて沖にあった岩が、道路沿いにへばりついている光景を眼にしてしまった。ほんの数年前の風光明媚さの欠片も無い。岩の周辺は漂着物のせいで、チリ捨て場みたいになっている。見ると、そこに多数のヤドカリの皆さんがいる。何か切ない・・うーん。楽しい記事を書く予定が・・(鬱)去年の知名崎については、こちら。にほんブログ村
2011.10.23
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泉崎と言う地名の通りにかつては、この地域には多数の井(かー)、つまり湧水があった。今は、その気配すら無い町になってしまったが、その豊富な湧水はどこに行ってしまったのだろうか?地下からの出口を失い、久茂地川か漫湖のどこかに噴出しているのに違いないが。昭和4年の地図を見ると、泉崎大道と呼ばれた大通り沿いに「テランサガー」とある。恐らくだが、現在のかりゆし琉球ホテル付近だ。「テランサガー」の「ガー」は井のことで、すぐに井戸だと思った。が、「テランサ」とは?僕の最初の予想。テラは、テーラと同じ意味では?テーラと言う地名は多い。多くは、平良や田井等、汀良の文字が当てられる。意味は「ターヒラ」。「高坂」が本来の当て字となる。では、「ンサ」とは?「ンサ」の字を少し分解すると「ンシャ」になる。沖縄で、「シャ」もしくは「ジャ」のつく地名は多い。大謝名・謝花・大見謝などだ。これは方言の土「ンチャ」「ミチャ」に由来する。つまりは土地の意味だ。って訳で、「テランサガー」は「勾配のある土地にある井戸」だと勝手に予想していた。そこで、答え合わせだ。何てことはない。地名研究家の知念融氏の文に載っていた。「テランサガーは、コーガン山にあった広厳寺の下方にあった井戸のことで、寺の下の井の意味である。」うーん。予想破れたり!(笑)。結構、単純だったようだ。ちなみに中国語で「下」を「サ」と言うらしいことも書いてあった。何故、そこだけ中国語なんだあ!!んーん。奥が深い・・・・参考文献;宮城真治・沖縄地名考;知念融・那覇泉崎付近の地名にほんブログ村
2011.10.22
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現泉崎橋を渡ると、琉球新報に出る泉崎橋通りが続いている。画像がその通りなのだが、旧道の泉崎大道(いずみざきうふみち)とはやっぱり違うようだ。泉崎大道は、戦前の久米と城岳を結ぶ幹線道路のことだ。戦中の航空写真と現在の地図を見比べると、見る程に訳が解らなくなる。沖縄テレビの裏スージがそうか?とも思うが、どうも北に寄りすぎている気がする。強いて言えば、画像の青い看板ホテルコンフォートの敷地内かとも思う。だめだ。変わりすぎだ。空襲のためにランドマークとなるものも無い。うーん。仕方ない。妥協しよう!泉崎大道は、「今の泉崎橋通りの北側の歩道のことだ!」嘘物言い(ゆくしむにー)加さんけえ! 俺!wにほんブログ村ってことにしておく・・・
2011.10.22
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古宇利島の裏のビーチの激変ぶりが、嫌でたまらない。何やが?トイレ100円?がんまりかまさんけえ!!!いかん。興奮してしまった。画像は、ハートロックのあるビーチでの夕暮れ。小さく写っているのは、女友(いなぐどぅし)二人。何かいいなあ。でも、この岩、ハートにはじぇったい見えん。何だばー?って感じ・・ここの海も瀕死の重傷だ。水が綺麗なだけで、イノーの中の珊瑚はほぼ全滅状態だ。画像は、その中を泳ぐメーター級のガーラ。皆、知っちょーるーはガーラの刺身は、独特すぎて嫌いだ!などと言う。それを旨いと言う俺は、白い眼で見られっぱなしだ(笑)にほんブログ村
2011.10.22
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素潜りが趣味である。銛を片手に晩飯のおかずを狙う意味もある。今年はデジカメの撮影用防水パックを買ったおかげで水中写真をかなり撮ることができた。今日の日記は、画像だけで済ませようやっさー!みたいな時にうpしていこうと思う。真栄田海岸。真栄田岬はダイビングスポットとして有名だが、その西側の真栄田部落の海岸のことだ。テンペストのロケ地にもなったところだ。まあ、上画像の岩場なんかがそう。その近辺を潜っていた時の画像。タマンが二匹。結構なサイズだったと思う。惜しいのは、撮影メインで潜ったので銛を持ってなかったこと。晩飯のおかずは、悠々と僕から逃げて行ったのであった(涙)にほんブログ村
2011.10.21
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旧泉崎橋を渡ると、左手に「鶏市」、右手に「橋口まちぐゎー」と地図上にある。現泉崎橋の東側の一帯あたりだ。町小とは市場と訳されることが多いが、卸も兼ねた商店街のことだ。商店一軒一軒については「町屋小」と呼ばれる。戦前の東町は、那覇の中心であり商業の要であった。これは多分に那覇港に近かったことが遠因だ。その繁栄の一部が泉崎橋の存在ゆえに泉崎にも及んでいたのだろう。手元に「カラー おきなわの今と昔」と言う本がある。発行が37年前なので当時の今として掲載されている写真でも相当に古い。この本に戦前の東町の市場の記述と写真が載っている。相当、繁盛していたらしい。が、この記事によると東町には、豚・牛・山羊の肉市場しかなかったらしい。戦前と言えど沖縄でも鶏肉は食べられていたに違いない。鶏肉市場は東町ではなく、海峡を隔てた泉崎にあったのだ。東町の繁盛振りを見ると、ここも結構な規模であったと思われる。と、ここで昔、鶏肉の営業をしていたことを思いだしてしまった。あの頃は、結婚していたが(苦笑)、我が家の肉料理と言えば全て鶏肉であった。うーん。なんか鶏汁を食べたくなったな。ちょっとユニオンに行ってくる!!にほんブログ村
2011.10.21
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現在のホテルサン沖縄の立体駐車場からさくら家という飲み屋辺りに「フナングゎー」があった。仮名では何なのかまったく判らないが、漢字にすると恐らく「船之蔵」だと思う。昭和初期の地図を見ながらの推測でしかないのだが、かつての久茂地川は、那覇港や漫湖から、船が入り、安里あたりまで上っていたらしい。主に物資輸送が船の目的だったであろうが、この「フナングヮー」がその基地だったのではないだろうか。廻船問屋みたいな所だったと思われる。地図上、サン沖縄の本館前あたりには、ハーリー屋の文字が見える。戦前まで那覇ハーリーは、那覇港で行われていた。って事は、そのハーリー船を収容する船泊が、ここだったのではと思う。もしかすると造船所だったのかも?でもまあ、造船所は那覇港の対岸に立派なのが、400年前から戦前まであったし・・うーん。空想は楽しいさー(笑)今では、川に下りるのもままならず、干潮時には真っ黒なヘドロが顔を出す久茂地川もかつては、色々な面で活用されていたのだ。ところで、最初の画像を改めて見てしかんだ。炉端泉崎が看板だけになってる!!潰れたのか?はっさばよーー(泣)。もし移転なら情報を求む!にほんブログ村
2011.10.21
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画像は、かつての泉崎橋の架かってたであろう箇所だ。今の泉崎橋は、戦後の架橋だ。上画像が戦前の泉崎橋。石灰岩によるアーチ橋で、アーチ部分は二箇所。かつての孔子廟と泉崎間の海峡を結び、城岳まで続く泉崎大道に繋がっていたらしい。ちなみに孔子廟は現在の青年会議所付近にあって、その前の58号も又、孔子廟の敷地であった。戦後、アメリカーによる軍用1号線の敷設に伴い、波之上(なんみん)に移設されている。上画像が旧孔子廟。手前が久茂地川。廟の前の通りは大門通りだ。左端に見切れているのが、泉崎橋と思われる。今となっては遺構らしきものは無い。久茂地川の改修工事が戦後、頻繁に行われてきたせいもあるだろう。久茂地川は、パレット裏から現泉崎橋にかけて、ゆるやかにS字を描いて流れているが、戦前の川筋は、泉崎半島にぶつかって直角に右に曲がり、孔子廟の手前辺りでまた直角に左折していた。河原もあり、安里あたりまで船も行き来していたのだ。現在のパレット裏から旭橋にかけて川沿いに通る道路や植え込み部分は、かつての川であったと考えてもらっていい。泉崎橋に限らず、石灰岩のアーチ橋は琉球の文化の一端だ。何とか、再生できないだろうか。安全上、車を通すのは無理にしても、例えば久茂地川にも数箇所の人道橋が架けられている。あんな鉄骨バリバリの橋よりも、昔ながらの石造りの橋の方が、文字通り、「人道」的だと思うのだが(笑)にほんブログ村
2011.10.21
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やっぱり、Rock'nrollですよ。ブルースをちゃんと吸収・下敷きにしたロックはやっぱ最高やっさー!今年の夏ごろから、まずRunawaysにはまって、今はJoan Jettだ。まあ、今更のように聞くと、80'sの香り満載の音で多少、古い感じがするのだが、あえて言おう!だが、それがいい!この人でーじかっこいいんだけど、最近の画像でもまだパンクっぽい格好してるなあ。いい年なんだろうに。まったくもって素晴らしい!今、二日酔い状態なので、何か文章がまとまらない(苦笑)はっしぇ!どぅーぬかってぃやし!とにかく、ロックはスピード感ありつつも、横に揺れるビートですよ。うん。I Love Rock'nRoll!!!!!!!!!にほんブログ村
2011.10.20
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甲辰尋常小学校の建つ前、現在の沖縄テレビ・ホテルサン沖縄付近は、鬱蒼たる山だったらしい。山の名は、「コウガン山」。山と言っても、学校に転用されたくらいなので標高はせいぜい数m程度だったと思う。ちなみに世の中には、標高と言うか、海抜数mの山なんぞはザラにある。僕も、季節で行った香川で「日本一低い山」に登ったことがある。詳しくはここへどうぞ!って訳で、このコウガン山も立派な山だったのは間違いないだろう。まあ、緑ヶ丘くらいの感じくらいはあったのではないだろうか。本題に移る。この「コウガン」とは何の意味なのだろうか?最初に思い描いたのは、勿論「睾丸」だ(笑)まあ、さすがにこれは無いだろう。知念融氏の文によれば、学校新聞などでは「鴻雁」「紅岸」の文字が当てられていたらしい。でもなあ、僕個人としては、何か沖縄的ではない感じがして、違うと思う。また氏は、更に以前にあった「広厳寺」という寺名に由来したのが真相だろうと言っている。ではここに僕の個人的な意見を加えてみたいと思う。今ではもう言う人も居なくなっていると思うが、沖縄では「悪口を言う」ことを「コージンする」と言うことがある。コージンは、「荒神」と書く。荒神は毎年、旧の12月2日に天帝に人々の良いことと悪いことを報告する役目を持った神様だ。普段は台所にいる神様で、当時の主婦達は「荒神様、天に良いことだけを報告してください」と祈ったりしたらしい。あの火ぬ神(ひぬかん)も台所の神様だが、御嶽に祭られている場合が多々ある。コーガン山も山なるが故に聖地とされた可能性がある。そこに祭られていたのが「荒神」さまで、読み方が泉崎では「コージン」ではなく「コーガン」だったのではないだろうか?と、ここまで書いていて何か恥かさーしてきた(笑)はい、勿論、これは僕の勝手な妄想です(苦笑)もう一つ「コウガン」の意味として考えたのは、「小御願」だ。ライトな感覚で、拝みをするには打って付けの場所だったみたいな(笑)まあ、どちらにせよ、又、知念氏の寺名説にしても、コウガン山は聖地だったのではないだろうか?お?結構、的を得ている気がするぞ!(笑)参考文献;知念融「那覇泉崎付近の地名」にほんブログ村
2011.10.19
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自らの学んだ学校が無くなると言うのは悲しい。しかも、それが戦争によって無くなると言うのは悲し過ぎる。甲辰尋常小学校跡の石碑は、パレット久茂地の裏手の駐車場入り口付近にある。甲辰の名が示す通り、明治36年甲辰の干支の年に完成した学校だ。1945年の航空写真から判別するにその敷地は、パレットの南端と与那嶺ビル・久茂地セントラルビル並びに沖縄テレビの敷地の大半部分だったことが解る。甲辰尋常小学校は、昭和19年10月10日の所謂「十・十空襲」で消失した。爆撃の目的が、本来那覇港の港湾施設の破壊であったはずなのにアメリカーは、当時の中心市街であった東町・西町・久米・久茂地そして泉崎と徹底的に市街地を破壊している。これは、非軍事的行動であり、到底許されるものではない。写真で見ると、明治まで湧田と呼ばれていた地域は無傷で残っている。旧泉崎村の地域は焼け野原だ。画像の石碑は、平成9年に同校の同窓会によって建立されている。学校跡だと偲ばれるものは何も残っていない。校庭だった場所も道路で数箇所に分断されてしまっている。泉崎には、現在開南小学校がある。場所は、市役所の裏、二中前通り近くだ。仮に戦争が無かったとしたら、戦後の再開発も無く、この場所に学校はあり続けたに違いない。パレット裏から久茂地向けに渡る橋がある。「甲辰橋」だ。この架橋は戦後の復興期だったらしい。心ある人が、学校跡を偲び名づけたに違いない。にほんブログ村
2011.10.18
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昔、泉崎村は楚辺(宗部)村の一部であった。現在の泉崎橋付近に安室親方(あむるうぇーかた)と言う金持ちがいた。安室親方の正業は酒造業であった。ここの泡盛はおいしいと評判で飛ぶように売れていたらしい。どんなに沢山の注文が来たも、尽きることなく酒が出てきたので安室親方の酒のことを泉のように湧く酒、つまり「泉酒(いぢゅみざき)」と呼ぶようになったそうだ。それが転じて、安室親方の酒造所付近の地名も「いずみざき」となったそうだ。うーん。まあよく出来た話だ。一応、安室親方が実在したのか気になるが、安室姓は首里の士族階級の苗字なので、仮に泉崎に酒造所があったとしても、明治以後の士(さむれー)階級の崩壊後になるので、地名の成り立ちとは関係無いこととなる。ちなみに琉球の「さむらい」には「士」の字をあてるのが正解だ。「侍」の字には寺の字が含まれている。武士の発祥が寺社の護衛を任務とした武装集団だからだ。琉球にはそんな歴史的経緯はない。故に「士」なのだ。よって、土産物屋で売られている「琉球侍」Tシャツは間違いということになる。このTシャツを買うもしくは、持っている人は注意だ(笑)にほんブログ村
2011.10.17
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泉崎は、久茂地川河口部にある。ここらは明治以前からあり、埋立地ではない。那覇四町とともに「那覇」の一角を築いてきた歴史がある。先の大戦で灰燼と化したために昔の面影の全く無い、市役所や県庁に近いことから官公庁の城下町になってしまっている。僕の手元に1945年に米軍が撮影した航空写真と明治中期の地図・昭和初期の地図の其々のコピーがある。今回は、今の泉崎を歩いて、昔の姿を想像しようと言う企画だ。その前にこの泉崎。500年前の那覇の想像図においては、浮島と呼ばれた那覇に向かって楚辺の山並みから続く稜線が海に突き出てできたであろう半島になっている。更に王朝時代は、現在のパレット久茂地からバスターミナルに至る県道の西側が泉崎村で、東側は湧田村と分かれていたのだ。つまりは泉崎の崎とは、漢字通りに岬のことを指すことになる。昭和初期の地図をみてみる。隣接の湧田の地名とも連動するが、このあたりは湧水が多い。井(かー)や小堀(くーむい)が数箇所ある事が確認できる。故に泉崎の泉も字面通り、湧水を指すに違いない。泉は、正確には出ぢゅる水ということで「出水」のことだ。たしか鹿児島に同名地名があったはずだ。ということで、泉崎は湧水豊富な海に突き出た岬という地勢の判りやすい地名なのである。ちなみに本部に「伊豆味」というところがある。これも漢字こそ当て字で出水の意味だ。また、大宜味村もまた古くは「うぢみ」とよばれていて、これも「御出水(うじゅみ)」の当て字で大宜味になったのは、七滝などの豊富な水源を見れば明白だ。参考文献:地名を歩く・南東地名研究センター:南島の地名 第二集・同上:那覇市広報 市民の友 縮刷版1にほんブログ村
2011.10.17
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今の紫をとやかく言う気はないが、出来ることならオリジナルメンバーでのライブを一度でいいから見たかったってのが本音だ。だが、それはもう実現不可能なことなのだ・・・・ステージには、恐らく新調したであろうジョージのハモンドと新品でロゴ入りのドラムセットがすでにセッティングされている。その中をメンバーが登場。清正がかなりのワタブーになっていたのにまず驚く。ジジは髪が伸びて少し痩せたか?70年代の頃の雰囲気に戻ったなあと言う印象。ジョージとチビは、ステージ衣装も含めて基本的に変わらない雰囲気。jjは昔と較べて、随分マッチョなイメージに変貌。かつてのハンサムボーイの感じとかなり変わった気がする。一曲目は「58」。去年出たアルバムの中では一番好きな曲なので単純に嬉しい。どうも紫には、他の沖縄のバンドには無い迫力を感じる。音圧と言うか、これが紫の音だあ!とばかりの確固たるものがあるのだ。音だけ聞くとバタバタした印象の強いチビのドラミングも、生で見ると全く飽きのこないパフォーマンスを展開してくれる。ドラムセットのフル活用にも程があるだろ?と突っ込みたくなる程だ(笑)ジョージも基本的に表情を変えないながらも、ハモンドを弾く姿は異常に感情的だ。昔、Tさんが、「ジョージは日本のロックミュージシャンでただ一人、鍵盤に感情を乗せることが出来る人だ!!」と言っていたのが思い出される。ジジと清正も基本的に棒立ちなのに弾いてるフレーズは凄いみたいな。隠し持ったものが凄すぎるだろうと言う印象は変わらない。jjは、マリナーやヘビメタアーミーの頃よりも歌に自信があるのではないだろうか。感情剥き出しで、青筋たてて歌う姿は、やはりマッチョでかっこいい。まったく何て還暦バンドなんだと感心してしまう。2曲目が意外だった。jjが、「next is murasaki's favorite song. chibi sing a song!」と言ってステージから掃けてしまった。するとチビが聞き覚えのあるフレーズを叩き出す。お!?ジジが、不安感をあおるようなリフを弾き始めた。あげ!?そして清正が、メロをかぶせる。はっし!?「Mother nature's plite」だ。これにはどぅまんぎた。「あきさみよ!チビがうり歌うばー!?」この曲への僕の思い入れは半端ではない。再結成紫では、これがガストの曲なので封印状態だと聞いていたからでーじだ。それをボーカル・チビでやっちゃうの?って感じだ。ガストファンのMさんなら、きっとワジワジーするんだろうなあ(笑)この演奏の感想。「チビ!カンペ見ながら歌わんけええ!!!!(笑)」とは言えこの曲はいい。ジョージの自然破壊への怒りのハモンドはかなりの沸点に達していたようで、鬼気迫る。その長いジョージの間奏の終わり方が「doin our things」と同じだったのは良かった。って言うかきっと、終わりの合図のフレーズなんだはず。波音のSEのなか、「なんた浜」が始まる。ジョージとジジの連携にミスがあったのか、ジョージがおどけた表情で舌を出す。ジョージは、「なんた浜」の音を旧紫で使ったストリングスとOKINAWAやGMPの頃を思い出させるピアノを同時に出して弾いていた。何か感慨深い。最後も全員の息が少し合ってないかな?と思うところはあったが、まあライブで聴けたことに感謝だ。そして最後に定番「double dealing woman」。指笛をちゃー吹きーする。最高ではないか。そういえばUstreamで、この日のライブを見直してみたのだが、俺の指笛が結構聞こえていたなあ。ちなみにアップで写ったのは一回だけであった。double dealing woman は安心して聞ける。ジジと清正に其々ソロをやらせる構成にしたのには、拍手喝采だ。途中、jjがステージを降りて最前列にいたオバー(恐らく移民の人)に向かって「お前は、double dealing womanだあ!」とばかりにサビを連呼してた。何て失礼なやつだ(笑)そのオバー、感激したのか驚いたのか泣いていた。一瞬、jjの母親か?と思ったが、曲が終わるとすぐにjjはオバーに謝っていた。まったく人騒がせなやつだ(笑)紫のステージは終了。正直、急遽決まったスケジュールだったはずなので、まあこれで充分かなといった処だ。今月終盤に石川ドームでワンマンをやるらしい。基地内発行の英字雑誌を見ての情報なので、多分そうなのだろう。「mother natures plite」をやったのを見てしまった今、行くべきか悩んでいる。紫名義で出された全曲やってくれないかなあ。それなら絶対に見に行くのだが・・にほんブログ村
2011.10.17
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琉球マジックの後は、沖縄ロック協会選抜バンドだ。ギターはカオルとシンキ。あと知らん人(しらんちゅ)(苦笑)ベースはボラ。ドラムはレイとなかなか豪華。不意にシンキが適当にギターを弾きつつ、前に出てきた。適当に弾いていたメロディーが、徐々に曲の体になってゆく。ここである予感が頭を過ぎる。「もしやあの曲では?」予感どおりに曲が明らかに進行していく。コード進行にあわせるように哀愁のメロがギターから紡ぎ出されていく。そしてシンキのギターからあのフレーズが・・・「AKIYUMA」やった!初めてこの曲を生で聴けるのだ。思わず隣の関西人Hに「これ、コンディショングリーンの名曲だぞ!」と耳打ち。ちなみにその様子が、USTREAMでばっちり写っていた。恥ずかさーすっさー(笑)とはいえ、いやー、今日来た甲斐がこれ一曲で達成してしまった。本当に素晴らしい。その後は、何か知らないが、どうも喜屋武ケニーが今育てているっぽい二才達(にーせーたー)がボーカルをとっての定番メドレーみたいに進行。この二才達には悪いが、まだまだ発展途上の感じ。ケニーにはマリーという成功例があるので、ひょっとすると大化けするかもしれんが。個人的には一人目の子のルックスと二人目の子のハスキーパワーボイスに可能性があると思う。彼女らの情報を誰かください。ゆたしく!!つぎに登場したのは城間健市。この人については言うことはなし。ロッカーのかっこよさの欠片もない。ラストは、チビが音頭をとってのスモコンだ。おおお!!!ここまでの定番になるとさすがに皆さん貫禄だなあと思いつつも一緒になって歌ってしまった。シンキの弾くスモコン。うーん、味わい深いやっさー(笑)ところが最後の3番の歌詞を前述の城間が間違えて、1番の歌詞で歌い始めてしまったのだ。慌ててチビが、サブボーカルの若小(わかーぐゎー)に1番を歌えと指示を出す。えーー^-11!!何やがうり?一番盛り上がるところをやらないままに曲は終了。あきさみよーや~~。ここはやはり次の紫に期待するしかないな。うん。にほんブログ村
2011.10.16
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ここ20数年来の沖縄ハードロックのファンである。特に「紫」には沖縄初上陸の日以来、傾倒し続けている。詳しくはここへどうぞ世界のウチナンチュ大会のプログラムにチビとジョージの名前があったので、行ってきた。球場下で紫のグッズを販売しているのを発見。店の娘に2部のジョージのステージは、紫だと教えられる。うーん。一応、再結成紫については一歩距離を置いてたのだが、まあ無料だし見てみるかと言った心境だ。記念にバンダナとタオルを購入。一部のステージは、チビの琉球マジック。チビの姿が見えるなか、喜屋武ケニーの姿が見える。なるほど沖縄ロック協会の主催ステージと言う訳か。ボラとカオルのzodiacのメンバーがいる。正直、皆老けたなあと言う印象。正直に言う。琉球マジックのステージは面白かった。太鼓と琉球舞踊のチームとのコラボは、本当にいい!!曲の構成も良かった。なにしろ世界のウチナンチュ大会だ。会場には移民一世から4世くらいの人が大勢いる。一曲目は「城 gusiku」。沖縄へようこそ来てくださいましたと言う内容の曲だ。琉舞の艶やかながらも美しく、清楚で慎みを感じる舞いは本当にいい。チビの声も思ったよりもよく出ていた。デブーになってもそこらへんは、やっぱプロだなあと実感。二曲目は「世替わり yugawai」。島津の琉球入りから大和世・戦世・アメリカ世・またん大和世と言った沖縄の歴史を突きつける曲だ。不安をあおる感じの曲に島太鼓の勇壮さが見事に嵌っていて素晴らしい。しかし女性が太鼓を叩く姿はかっこいいなあ!かた小やっさー!三曲目でラスト。チビが「最後はカチャーシーだあ!」とMCを挟んでの「御祭りどー umachiido」。この曲、世界のウチナンチュ大会のテーマ曲では?と初めて聞いた人は思うのではないだろうか。それ位、歌詞と今大会の趣旨が連動されているのだ。歌詞の内容は、老いも若きも、他島(ゆすじま)・アジア・アメリカ・ヨーロッパからいらっしゃい!世界の平和は一人一人の心持ちから実現するのだといった感じだ。太鼓隊の叩き方が軽やかになる中、琉舞隊が何か微笑ましい。琉舞ではあり得ない小刻みなステップで、尚且つ楽しげに踊っているのが堪らなくいい!カチャーシーではなく、あくまで琉舞として表現されているもいい!しかし踊り子さんが可愛らしく感じる。御年配の方もいると判っていてもだ(笑)この琉球マジックは惜しい。パフォーマンスとしてはかなり完成度は高い。ならば、CD音源からのカラオケは何とかならないだろうか。シンセや打ち込み、SEの部分もライブで表現できるようになれば一層、盛り上がると思うのだが。あと、ケーシー・ランキンの歌パートに重ねてチビも歌うのだが、何か違う(笑)あのパートは、別に低音の渋い歌い手さんでも用意した方がイメージに合うと思う。まあ、僕のCD音源を聞き倒した末の勝手なイメージなのだが(笑)にほんブログ村
2011.10.15
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世界のウチナンチュ大会の二日目のチャンプルー交流祭に行ってきた。場所はセルラースタジアムのメインステージ。同行は例により関西人Hだ。司会進行は80年代のFM沖縄伝説の番組。POPNROLL STATIONでDJをしていたケン&マスミ。でーじ懐かしく思ったのだが、相変わらず沖縄口(うちなーぐち)よりも英語のほうが流暢なケンに対して、マスミはウチナーグチが格段に上手くなっていた。マスミ~!汝(ぃやー)は、変な外人あらんよ!立派な沖縄人やいびんど~!ステージの方は、次々と海外の県人会が琉舞を披露していたのが感慨深かった。ノースキャロライナ州の県人会などは、舞台裏で英語と方言が飛び交っていたと言う。日本語ではなく、方言つまり沖縄口なのがミソだ。普通の日系社会とは違うコミューンが出来てしまっているだろう。それだけ沖縄人の移民の絶対数は多いということだ。また、標準語の介在を許さない純粋な方言もまたこの人達の間ではちゃんと残っているに違いない。一番、感慨深かったのは童謡・唱歌のコーラス隊だ。「春の小川」や「七つの子」などを披露するなか、やはり「ふるさと」にはグッときてしまった。まわりのオジー・オバーも一緒になって歌っている。隣のオバーが目にハンカチを当てているのを見て、不覚にも僕も涙そうそうしてしまった。また、「移民した先祖の頑張りは、沖縄人が真面目で働き者だったからこそのものだ!」「だからこそ私達は、ご先祖様を尊敬しています。」とコーラス隊の方が言っていたのもぐっときてしまった。その後に歌った民謡「汗水節(あしみじぶし)」は素晴らしくも感動的だった。実は、この後の紫のライブを目当てに来たのだが、意外にも良かった。ばちくぁいやっさー!にほんブログ村
2011.10.15
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久々の更新だ。去年の一番仕事の忙しい時期にブログを始めたのが失敗だった。繁忙期が終わると同時に力尽きてしまった。まったくもって面目無い(苦笑)先日より始まった世界のウチナンチュ大会の開会式に行ってきた。このイベントには初参加だ。ところが動向の関西人Hの野郎が、21時までやってるなんぞと嘘物言い(ゆくしむにー)かましてくれたおかげで、セルラースタジアムに着いた19時半には終わっていた。詰まらん。何ということだ。世界のウチナンチューの皆さんが次々とバスで会場を離れていく中、会場を散策する。メキシコのボヘミヤというビールを購入。これがでーじうまい!結構な数の出店のなか、やはり移民先の国のブースを探して突入。ペルーの店にて、ナスカの地上絵を模したデザインが粋なキャップとマチュピチュ発見100年の記念コインを購入。カナダの店は太っ腹で、無料の抽選会をしていたので当然のように挑戦。見事に卓上のメモ帳をget!見事か?あと家の窓を飾るべく国旗を探す。我が家には今、旭日旗・星条旗・海兵隊の部隊旗がある。南米各国の旗が並ぶ店へ。スタジアムで見たペルーの国旗が妙に印象的だったので、ペルー国旗を購入・・にはずが、何故だかわからんのだが、沖縄県の旗を買ってしまった。白地に赤く染まった沖縄県のマークは、日の丸そのままに格好よかったのだ。沖縄万歳!にほんブログ村
2011.10.15
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