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画像は、現公設市場の建設前の用地だ。1967年頃か?細長い区画が、多数並んでいるが、これは現市場内の店舗割だ。奥の区画が、現海産物コーナーで、手前が現食肉製品コーナーだと判る。60年代のガーブ川周辺は、混沌からの脱出がテーマみたいになっていて、自然発生的なガーブ川の水上店舗と、それを何とかしたい那覇市の闘いみたいなものになっていた。現在の市場本通りとむつみ橋通りの間の商店群は、市によって建ってられた細長いビルに入っている。これが、昔の水上店舗の成れの果てだ。この水上ビルは、太平通りでも見ることが出来る。画像は、水上ビル建設前のガーブ川改修工事の為に立ち退き準備をしている店舗だ。これだけを見れば、多分に同情的になるのだが、こういった店舗群の裏に真実がある。水上店舗と言われた商店街の裏の画像。どれだけ、非衛生的かつ危険な状態なのかが、解るだろう。まあ、僕はこういうスラム的な街のが、好きなのだが(苦笑)。そう言う動きの中で、水上店舗の店主達は、1960年に自らの権利を守る為に「ガーブ川商店街組合」を結成している。この組合は、現存しており、例えば夏の甲子園大会で市場前に街頭テレビを設置して、県代表を応援しよう!みたいな企画は、この組合が運営しているのだ。この組合の結成式に当時の那覇市長が、出席したらしい。その市長の挨拶が面白い。ガーブ川の七不思議を語ったのだが、以下、列挙してみる。ガーブ川の七不思議1:戦前は、田畑にもならなかったガーブ川一帯が、なぜか那覇市の中心商店街になった。2:ガーブ川の水面上にいつの間にか、店舗が出来た。3:川は公有水面のはずなのに、ガーブ川には地主がいる。4:那覇市にとって重要な商店街のはずなのに、洪水対策などが一切されていない。5:水上店舗が不法建築で、地主が撤去すればいいのに市に撤去してくれと言われる。6:ガーブ川の悪臭は大問題なのに、そこに住む人はちっとも臭くない。7:川の氾濫の原因が水上店舗なのに地主は、何もしない。以上なのだが、市長の本音と皮肉が混じった挨拶で、面白い。市長の「いったーや!ちゃーするばーがー!?(お前ら!結局どうしたいんだああ!!)」と言った怒りと嘆きを含んだ呆れ顔が、目に浮かぶようだ(笑)にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2011.12.04
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西洲で釣りに行く時は、いつも手軽なルアーフィッシングになる。勿論、リーフ内で打ち込みや浮きでもいけるのだが、単純に根掛かりが多いので、いつの間にかルアーに変わってしまった。1000円のルアーロッドに1000円のリールだけ持って、家を出る。ウエストポーチには、ジグヘッドとソフトルアーの予備。狙うのは、主にイシミーバイ。昔は、ヤマトビーやカマサー、ダツなんかもルアーでいけたが、最近は釣れたと言う話はあまり聞かない。あと、m級のヒーフチャー(火吹ちゃー=やがらー)も狙える。こいつは、目の前に来た奴の目先にルアーを泳がすと、すぐに食い付いてくるのだ。画像はエソ。外道中の外道だが、一番釣れる奴なので仕方ない。もっとも、気軽に暇つぶし程度に釣るには、なかなか楽しいターゲットになる。珊瑚の群生のある根に根掛かりしないようにキャストし、ゆっくりとしゃくりながら、ルアーを泳がす。エソの場合、猛スピードで泳いで来てルアーに食い付く瞬間を見れたりするので、面白い。来た!来た!と見ながら、ロッドにアタリが伝わる瞬間のブルブルが堪らない!このエソは、大抵逃がすのだが、たまにキープして持って帰る。外道とは言え、カマボコの素材にもなる奴だ。すり身にするのは難儀なので、単純に焼いて、白身部分を取り出す。で、塩をふりかけ、そのままご飯に載せて食べている。まあ、塩加減によってはいける味だ。ちなみに汁の実にして食べたことがある。はっし!でーじやなー!二度と食わん!と心に誓った僕であった(笑)にほんブログ村にほんブログ村
2011.12.03
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夫婦瀬(ミートゥジ)は、かつては沖に浮かぶ岩場であり、環礁であった。その片鱗は、公園内に残る岩石群を見れば、一目瞭然だ。この岩場が何故、夫婦瀬と呼ばれたのか?内地にも夫婦岩と呼ばれる奇岩は多い。が、大抵は、沖に2つの岩があり、それが仲睦まじい夫婦の様に思える。という具合に名づけられたものだろう。沖縄の場合は、一味違う。夫婦の名がつく岩礁や瀬は複数ある。例えば名護の屋我地島などだ。とにかく沖縄の文化と言うか、風習なのか?よく分からないが夫婦岩のある所には、同じような民話が伝わっている。夫婦瀬に関する民話「ある所に夫婦がいた。だが、二人は村の者が決めた縁談により、結ばれたので、決して仲の良い夫婦とは言えなかった。そこで、村の者が一計を案じた。冬の波風の強い日の夕方、二人を近くの岩礁に船で連れ出したのだ。二人を降ろすと、船は当然のように引き返して行った。二人の格好は防寒用では無かった。夫はまだ、上着を羽織っていたのだが、妻の方は、薄手の着物を一枚着ていただけであった。夜になり、冬の寒風の上に波が岩に当たり、二人をびしょ濡れにしてしまう。凍える妻の様子を見た夫は、不憫に思い、妻に上着を掛けてやった。妻は礼を言ったが、今度は夫の方が気がかりになった。夜も大分更けた頃、二人は互いに励まし、互いに寄り添い、体を暖め始めた。早朝、船が迎えに来た頃には、二人はお互いを思いやり、心の打ち解けあう立派な夫婦の姿になっていたらしい。」いい話だ。この手の話が複数の地域に伝わっていると言う事は、沖縄では夫婦円満の為の風習として、本当にやっていた話なのだろう。素晴らしい!!僕も誰か、暖めて欲しい(笑)にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2011.12.02
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河原を渡ると、思いがけず緑のトンネルを発見。いい感じだ。見上げると木漏れ日が眩しい。本当にいい所だ。ガジャンさえいなければだが(笑)トンネルを抜けると、黙認耕作地が広がっていた。黙認耕作地は、字面だけ追うと、いかにも軍に黙って農地にしてしまっているが、軍は特に気にしていない所と言うイメージになっていしまう。僕もそう思っていた頃がある。が、実態は基地内での許可制の農地のことだ。この許可を取ること事態が、かつては奇跡的だったのだろう。ゆえに黙認なんて皮肉的に呼んでいるに違いない。読谷の黙認耕作地に多いのが、観葉植物の栽培だ。基地内ゆえに農薬の使用とかが、厳しく制限されているのだろう。放っておけば育つみたいな物しか、商品にならないに違いない。ここでは、ゴーヤーやナーベラーの県産野菜を作っていた。電気や水道が無いので、大規模な商品作物の栽培は無理だろう。恐らく、JAとかの直売所とかで売っている無農薬野菜とかは、こう言った黙認耕作地で採れたものが多い気がする。まあ、エコな昔ながらの農法で作っているには違いない。しかし、金網の向こうとは差がある。金網があると言うことは、実質、返還されているも同然なのだが、色々と制限があるのだろう。金網の向こうの画像は、やばいかも知れないのでうpしない。が、アメリカーの大好きな芝生が、広々と拡がっているのだ。昔は、あの芝生を見て、綺麗だなあとか羨ましいと思ったものだ。が、アメリカーが、ハワイ・サイパン・グアムなどの原生植物を壊滅状態にした、自然改造のやり方を知った今は、そうとは言えない。やはり、緑眼に染む沖縄特有の、繊細な自然が一番だ!!!にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2011.12.02
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現在の山田部落は、58の西側にある。倉波部落と合併した形になっており、多幸山の北の裾一帯に広がる農村地帯になっている。山田の旧落跡に行ってみた。明治時代に国道(旧軍1号・現58)が敷かれた際に現在の地に移転が始まったらしい。戦前にはまだ、19件の戸数が旧落に住んでいたらしい。と言うことは、戦後にアメリカーの敷いた軍用1号線の開発により、全面移転させられたと言うことだ。幹線道路により、部落が分断されるより、一点集住を住民達は選んだのだろう。その際に倉波との合併も行われたのに違いない。元は、山田城の城下町としての性格を持った邑だったに違いない。山田城跡(やまだぐすくあと)の看板の所にバイクを置き、城跡のある山を望む。なかなかにのどかな景色だ。旧落跡地は、今や鬱蒼とした原野だ。地図上で確認すると、山田水車屋のある信号からここまでの一帯が、旧落跡だと確認できた。ここらは、旧街道と言うことで整備がされている。旧街道の北側には、旧落時代の田んぼの跡が残っている。今尚、2反の田んぼが現役で、田芋の生産の為に使われている。読谷山(四方田之峡=ゆむたんざ)と山田は同義語だと言うのは、このシリーズですでに述べた。この辺りが、読谷のかつての中心地である証だ。案内板にここらが、古読谷山と呼ばれていたとある。どうも「おもろ草子」にそう言う記述があるらしい。なるほど。となれば、読谷山が中山王国に属さない独立王国だった証にもなる。護佐丸は、尚巴志の北山征伐後、座喜味城を築きその一帯を読谷山の主邑とした。言わば、首都移転であり、実際地理的に見れば、座喜味を主邑にすることにより、読谷半島一帯の支配はより強固なものになったはずだ。尚巴志は、より強くなった護佐丸の読谷支配を一時的にせよ、認めているのだ。護佐丸の中城移転後も、強固な城造成など支配権の確立を認めている。どうやらそこら辺に尚巴志と護佐丸の関係性が、隠れていると思う。古読谷山の「古」には、主邑移転があったことと共に、尚氏王朝が山田の地を読谷半島の地勢から引き離そうとした意図が見えるのだ。旧落の田んぼ跡の配置から、山田城の南西麓一帯が米作地帯だったことが分かる。この傾斜面が、内地の棚田宜しく、全て稲作地だと想像すると楽しい。そう言えば、かつて僕が沖縄に移り住んできた頃はまだ、県内産の自主流通米が売られていたが、最近見ない。米を作っている地方のJAまで行かないと手に入らなくなっている。うーん。どうにかならないのか?って言うか、羽地米食べたいのに現地に買いに行くのが難儀やっさ~(笑)にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2011.12.01
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1986年、昭和61年の2月に僕は、沖縄に来た。その頃のことだ。僕と知り合いになったKの二人で、初めて那覇に買い物に行った時のこと。Kは、奈良出身の奴で、何か知らないが二人で那覇に出てみようと言うことになったのだ。当時、二人は宜野湾市に住んでいた。どうも記憶が薄いのだが、那覇ショッピングセンターとかフェスティバル、沖映通りのダイナハ、メンズビギ、三信衣料、それに丸国マーケットあたりに行った気がする。内地に土産物を送るためにキラク大城にも行った覚えがある。当時の国際は、土産物屋もあったが、まだまだ地元志向の店が多くを占め、また平和通りも普通に日曜品を扱う店ばかりだった。公設市場もまだ、庶民の台所と言う本来の姿のままだった。洗練とは程遠く、今とは比較にならない位の交通量で、那覇は渋滞で動けない街と言う印象が強い。本題に入る。その時、二人で市場周辺のスージを隈なく歩いた覚えがある。その際、昼食にしようと言うことになって、いかにも沖縄のダウンタウンの雰囲気の漂う食堂を見つけて、沖縄そばを食べようと言うことになった。覚えているのは、細い一方通行の道に車が、ひしめき合っていたこと。店の入り口のドアが、風呂場かあ!と突っ込みたくなる様なアルミサッシだったこと。で、食べた沖縄そばが、当時の那覇で良くみられた手打ち風で、少し縮れた感じの麺だったことだ。この店には、以来25年、記憶の隅にはあったが、訪れていなかった。那覇に行くたびに、また開南に住んでいた時でさえ、あの店を見つける事ができなかったのだ。もう潰れたんだろうなあと思っていたのは、確かだ。今、僕はその店に結構、出入りしている。画像のテビチ定食なんか、値は少し張るが、最高に旨い。今、僕は松尾に住んでいる。公設市場なんかは牧志と名乗っているが、本当はあそこは、松尾2丁目だ。むつみ橋通りから南西側は、松尾なのだ。松尾には1年半前くらいから住んでいる。当然、公設市場周辺が買い物の場となるのだが、僕は、那覇で始めて外食をしたあの店を捜した。一方通行の通りは、すぐに浮島通りだと分かった。で、公設市場から開南向けに少し行くと、かりゆし通りがある。その通りの途中に左折できるスージがある。そのスージが浮島通りに通じていて、その最後のところにあの店があったのだ。アルミのドアはあの時のまま。半信半疑のままで、そばを注文すると昔ながらの那覇そばが出てきた。ああああ、今もやっていたんだあ。素晴らしい。感慨深いと言った方がいいか。とにかく感激してしまった。ミルク食堂が店名。まあ、いちいち店のおばちゃんにそう言う思い出を語るのもなんなので、話はしてない。向こうからしたら、たまに来る常連が増えたなって感じだろう。通いだしてから、ここの煮付けの旨さに参っている。テビチなんか、トゥルトゥルの上に味もよく、何て言っても赤肉が旨い。骨をすっぷると中の骨髄が出てくる。これも最高だ。いやあ、初めての那覇でいい店に出会っていたんだなあと思う。ミロクは、観光客は来ない。地元のオバーが常連客だ。庶民的なのである。ちなみに店にサインが飾ってあるのだが、志村けんとダチョウ倶楽部だ(笑)にほんブログ村にほんブログ村
2011.12.01
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西洲(いりじま)は、浦添市の沖にある埋立地のことだ。浦添市の占有水域だが、キャンプキンサーがある故に海岸からの埋め立てはされていない。よって一度、那覇市の安謝を通ってしかいけない。不思議な場所にある。実態は、卸問屋を中心にした商業基地。沖縄の有名食品会社の本社が、軒を連ねている。しまった!これは、伊奈武瀬(いなんせ)のことだった(笑)西洲は、漁港と商港になっている。埋め立てとはいえ、基地の存在で海岸が自然海岸であること。潮通しが異常に良いことで、イノー(珊瑚礁池)の生態系が守られてきた所だ。那覇近郊にして、奇跡の海と言っていい。この西洲も、もう終わりだ。糸満から読谷まで通す湾岸道路(58のバイパス)の建設により、自然海岸を埋め立てる工事が進行中だ。米軍は、キンサーの占有水域を放棄したらしい。また、キンサーが軍の補給基地であり、物資の備蓄目的と言う正確上、それにあわせて、かなりも部分が、実質返還された。浦添市は、58から海岸に通じる道路を造成し始めている。先ごろ、Pizza inが、閉店したが、この道路建設の弊害によるものだ。市は、キンサーの海岸部一帯を商業・経済の開発地区に指定しているのだ。いつの間にか・・また、僕の遊び場が消えてしまう。西洲は、20年来の僕の釣りスポットであり、ここ数年は素潜りのポイントだ。去年、発表によると西洲のイノーの中での珊瑚被覆率は、15%超だったらしい。海底に珊瑚が占める割合でだ。10%を越える所は、本島内では、あと馬天沖・泡瀬・今帰仁港付近程度しかない。画像は、西洲の水底1mも無い所のものだ。ミドリイシ類の珊瑚の群生が、ビッチリと這えている。こんな所が、那覇からすぐの場所にあるのだ。タンクなんか要らない。シュノーケルも要らない。水中眼鏡一個で、珊瑚の群生を見る事ができるのだ!西洲の画像をシリーズで、うpしていこうと思っている。まあ、安物カメラのつたない画像ですが・・・・ゆたしく!にほんブログ村
2011.12.01
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