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朝日新聞出版、マンガ日本史「中大兄皇子」。 飛鳥時代半ば、波乱に満ちたこの時代に、国の未来を憂い、理想の国造りのために立ち上がった若き改革者たちがいました。 7世紀前半、政治の主導権を握っていたのは蘇我馬子。 娘を次々と天皇に嫁がせて強大な権力を築いていました。 蘇我馬子の死後も、蘇我氏は勢力を拡大し、その振舞いに、人々の不満は高まっていました。 645年、古代史最大のクーデターが、天皇(皇極天皇)の目の前で起こり、時の最高権力者・蘇我入鹿は襲撃されました。 その後も、多くの血が流がしながらも、新しい国づくりは進んでいきます。 学生の頃習った日本史では、蘇我家は横暴な権力者の感じですが…。 この時代、海外情勢も慌ただしく、クーデターは仕方がなかったのかしれません。 中国の王朝が、聖徳太子時代から交流のあった隋から唐に変わり、朝鮮半島の3国(この当時は、高句麗、百済、新羅)との緊張感も高まっていました。 強大化した唐に脅威を感じ、それに対抗するためには、天皇を中心とした中央集権国家が必要だったようです。 国のために、天皇自ら手を血で汚すというのは、いかにも古代らしいですね。
2015.02.23
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朝日新聞社マンガ日本史「聖徳太子」。 古代、東アジアの中心は中国。 中国は、周辺の国を野蛮な地とみなし、日本列島に住む人々を「小さき者」という意味をこめて“倭人”と名付けたそうです。 6世紀に中国に出現した新たな国家・隋。 この超大国の脅威に倭国は服従するかどうかの決断を迫られます。 その頃の倭国に厩戸皇子、聖徳太子が、弱冠20歳にして女帝推古天皇の摂政となっていました。 聖徳太子は、ある大きな意味を秘めて隋の皇帝に書をしたためました。 ~「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや」~ とんでもなく恐ろしい国書です。 隋の皇帝のもとで、この国書を読み上げなければならなかった小野妹子はどんな心境だったのでしょうか。 幸い、隋の皇帝は不快感をあらわしたそうですが、小野妹子は罰せられず、無事に帰国。 その頃の朝鮮半島は高句麗。 高句麗と一戦交えるつもりだった隋は倭国と高句麗の手を組むのを恐れたとも。 それを見こした聖徳太子の外交戦略? いろいろな逸話の残る聖徳太子ですが、政治家だけでなく、優れた外交家でもあったのでしょうか。 懐かしい壱萬円!
2015.02.16
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マンが日本史「卑弥呼」。 朝日新聞社からマンガ日本史シリーズが再刊されました。 第1巻は、「卑弥呼」。 謎に満ちた女王。 紀元180年ごろ、邪馬台国の女王に即位したそうですが、在位期間は、ナント60年以上。 80歳以上の長生きだったようです。 「魏志倭人伝」によると、倭国人の寿命は、80~100歳と記されているそうです。 こんな古代から、日本は長寿国だったのでしょうか。 小学生の時の日本史では、「幻の邪馬台国」と習いました。 が、いまだに邪馬台国の場所は不明です。 いつの日か、解明されるといいですね。 ちなみに、私は、近畿説です。週刊 マンガ日本史 改訂版 創刊号 朝日ジュニアシリーズ / 週刊マンガ日本史編集部 【雑誌】価格:180円(税込、送料別)
2015.02.07
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朝日新聞の朝刊に掲載されていた夏目漱石の「こころ」が終了し、あらたに「三四郎」の掲載が始まりました。 夏目漱石の作品は好きで、随分読んだのですが、「三四郎」は読み損ねていました。 これから、毎朝、楽しみに読もうと思います。 【楽天ブックスならいつでも送料無料】三四郎改版 [ 夏目漱石 ]価格:367円(税込、送料込)
2014.10.07
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1914年(大正3年)4月20日から8月11日まで、『朝日新聞』で「心 先生の遺書」として連載され、連載開始からちょうど100年たった2014年4月20日に、『朝日新聞』上で再度連載が開始された夏目漱石の「こころ」が、終了しました。 友情と恋愛の板ばさみになりながらも結局は友人より、恋人を取ったために罪悪感に苛まれた「先生」からの遺書を通して、明治高等遊民の利己を描いた長編小説。 ※明治高等遊民 大学等の高等教育機関で教育を受け卒業しながらも、経済的に不自由がないため、官吏や会社員などになって労働に従事することなく、読書などをして過ごしている人。 漱石が乃木希典の殉死に影響を受け執筆した作品と言われています。 私も、40年ぶりに、読み返しました。 のらりくらりとしながらも謎めいた先生の過去が一気にあかされる後半の「先生の遺書」。 まるで、急展開のサスペンスドラマを見るようなドキドキ感で読んだ中学生の頃を思い出しました。
2014.10.06
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朝日新聞で、夏目漱石の「こころ」の連載が始まりました。 1914年(大正3年)4月20日から8月11日まで、「朝日新聞」で「心 先生の遺書」として連載されていたそうで、連載開始からちょうど100年たった2014年4月20日に、朝日新聞上で再度連載を開始したそうです。 私が、「こころ」を読んだのは、確か、中学生の時。そして、高校生で、もう一度、読んだ記憶があります。 私も、40年ぶりに新聞で読み始めることにしました。
2014.04.27
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フジTV,土曜ミステリー「星新一ミステリーSP」。 累計5000万部1001編 SF界の巨匠...珠玉の名作5編をドラマ化! 星新一さんのショートショートは、大好きでほどんど読みましたが、映像化されるとさらに面白いと思いました。 壇蜜さんの「華やかな三つの願い」が特によかったです。 たいしたことではないですが、星新一先生は、戸越銀座近辺にお住まいだったのですね。 ですが、私が一番好きな作品は「殿様の日」です。 これは、SFではなく、江戸時代にいたであろう地方の大名の殿様のお話。 さしたる事件も起こらず、淡々とした殿様の生活がつづられています。 大改革を起こして名君となるよりは、先祖から預かった領地をそのまま次世代に引き継ぐのも大事ではないか~そんな殿様のお話です。 そういうことも、実は大変で大事なことかもしれない~そんなことを考えさせられる物語です。【オープン記念価格(送料込)】殿さまの日価格:3,885円(税込、送料込)
2014.02.16
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劇画「ゴルゴ13」が連載45周年だそうです。 1968年に始まり、一度も休まずに45年の連載。 連載は、一千回を超え、単行本は、170巻にも及ぶそうです。 すごいことです。 不可能な狙撃を超人的な能力で可能にするスナイパー。 イデオロギーに関係なく依頼を冷徹にこなく殺し屋・ゴルゴ13は、時代を超越しながらも、時代とともに生きているような気がします。 20年くらい前は、毎週読んでいました。 また、読んでみたいなと思います。
2013.11.26
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久しぶりに漫画雑誌を購入しました。 「ベルサイユのばら 華麗なる新作」というコピーにつられてしましました。 40年経っても、ベルばらの威力はすごいですね。 今回は「ベルばら新作第2弾、エピソード2」ということで、オスカルを愛した男性、ジェローデルの少年時代をを描いています。 ジェローデル少佐(ヴィクトール・クレマン・ド・ジェローデル)貴族の次男で、近衛隊でのオスカルの部下。 オスカルがフランス衛兵隊へ去ったのち、近衛隊長に任命。 同時にオスカルの前に求婚者として現れますが、アンドレへの想いをオスカルから聞かされ、静かに身を引くのです。 自分の容姿や家柄に自信を持ち、うぬぼれが強く少々うざっぽい男性ですが、オスカルの女性としての密かな葛藤をも見抜いているのです。 何の憂いもない貴族の御曹司だと思っていましたが、実は寂しい少年時代を送っていたのですね。 そして、少年時代からオスカルのことを見守っていたのです。 ちなみに、付録として、「ベルサイユのばら」の第1巻が付いています。 【2500円以上送料無料】マーガレット 2013年11月5日号【雑誌】価格:350円(税込、送料別)※楽天では売り切れです。
2013.10.22
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「佐川男子」【送料無料】 佐川男子 / 飛鳥新社編集部 【単行本】という佐川急便の宅配ドライバーの写真集が今月末に発売されるそうです。 「佐川萌え」という言葉もあるそうですが、確かに佐川急便のお兄さんたちはかっこいいですね。 うちの教室に配達に来ていた男性もなかなか。 配達途中に商店街で会っても会釈してくださったり。 溌剌とした雰囲気が、確かにステキです。 でも、佐川急便のお兄さんたちがかっこいいのは、今に始まったことではありません。 30年も前から、かっこよかったのです。 30年前、私は、セミプロで、夜だけ東京のダンス教室に勤務して、昼間は、横浜で、営業補助事務のOLしてました。 工業ミシンを製造販売する会社でしたので、、配送するものも、届く物もとても多い。 毎日、決まった時間に集配にくる佐川さんは、日焼けした肌に制服のシャツから見えるたくましい腕は、まるで、アスリートのように鍛錬され、ホント、ステキでした。
2012.07.19
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毎週水曜日、朝日新聞の夕刊に「天才柳沢教授の生活」が、特別スピンアウト企画として、今年から連載されています。 以前から好きな漫画です。 Y大経済学部の教授の柳沢良則。毎朝5時半に起床、夜21時に就寝。道路は道端を歩き、横断歩道以外で道を渡らない。自由経済の法則に忠実な学者。 なぜか、ほとんど目を開けたことがない。~目を開けた絵がないのです。でも、若い頃は、すごいイケメン。 そして、そんなおじいいちゃんが大好きで、おじいちゃんの真似ばかりしている教授の孫で幼稚園児の華子。 この2人が醸し出す生活は、なんとも楽しい。 今日の「教授、孫・華子との"写真"の巻」は、とってもよいお話でした。
2012.03.09
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「薮原検校」ー井上ひさしーを読みました。 ひとりの按摩が語る稀代の悪党藪原検校の一代記という形式の脚本です。 江戸時代中期の塩釜。悪党七兵衛は、醜女ですが気立てのよいお志保を嫁にもらい一度は改心しますが、お産の費用欲しさに行きずりの座頭を殺して金を奪ってしまいます。産まれてきた赤ん坊は、因果応報なのか、盲でした。幼くして琴の市という座頭に預けられたその子は、杉の市と名づけられます。 ある日、琴の市と杉の市が浄瑠璃を語っていると仙台の佐久間検校が現れて、当道座(盲人の自治組織)の掟に叛いたと難癖をつけ、なんと稼いだ金を徴収しようとします。両者が言い争ううちに、杉の市は検校の結解(検校が連れて歩く目明きの秘書)を刺してしまいます。身を隠す前に、別れを告げに実家に寄りますが誤って母を刺し殺してしまうのです。そしてかねてより師匠の女房お市と通じていた杉の市は、金銭目当てに、琴の市をお市に殺させるが、お市は返り討ちに遭ってしまいます。一人になった杉の市は江戸へ向かうのでした。 目明きと対等になるには金の力で検校になるしかないと考えた杉の市は、酉の市と名を変えて藪原検校に弟子入りし、貸し金の取立てで頭角を現し、遂には二度目の主殺しを犯して二代目藪原検校の座につくことになるのです。襲名披露の日、実は生きていたお市が現れ、自分と一緒にならねば、今までの悪行をばらすと迫ります。口封じにお市を殺害したところを人に見つかり捕らえられた杉の市は、緩んでしまった世の中を象徴する悪党として、人々への見せしめのために無残な方法(三段斬り)で処刑されたのでした。行年二十八歳。 本としては、かなり、面白く一気に読んでしまいましたが、残酷で衝撃的な話です。 40年近い昔、私が中学生だった頃、テレビドラマで、勝新太郎さんが演じられた記憶があります。あの時も、かなり驚いた記憶があります。 本としては、面白かったですが、これが舞台にかかったら見たくない気がします。 そんな本を仕方なく読んだのは、来年、野村萬斎さんが、この薮原検校の役を演じられるから。 普段「笑い」の演技が多いから、こういう極悪非道な人物像を演じてみたいのでしょう。 でも、この脚本のままで演じられるだとしたら、イヤだな。言葉遣いもきついし、卑屈なシーンが多いし、レイプシーンもあるし…。 視点を変えた演出に~盲目の人間が人並みに生きていくにはこうなるしかなかったとか、徳川中期の緩んだ世の中を締めるための“生け贄”にされたような~マクベスやファウストの時の様な人間の苦悩を描くのなら、いいのですけど…。
2011.11.18
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新マンガ日本史「平賀源内」。 18世紀後半、オランダや中国などの、限られた国だけと交易してきた日本でしたが、それでも海外の新しい文化は次々とやってきていました。 特にオランダから届く西洋の文化は、大いに人々を刺激して、日本の学者たちの知識欲を駆り立てて、蘭学の発展へと繋がりました。 そんな時代の江戸の町に、奇想天外な発想で人々を驚かせる、1人の男が現れました。 その男は、マルチな才能を持つ奇才・平賀源内でした。 どれだけ、マルチ人間だったかというと、 本来は、本草学の学者。薬物(動植物や鉱物)など、薬用植物を中心に研究する学問。 エンジニア。西洋の機械の仕組みを研究して、同じものを再現したり、時にはその原理を生かして独自の道具、量程器(日本初の万歩計)などを作成。そして、難と言っても有名なのは、静電気発生装置「エレキテル」ですね。 宣伝マン。知り合いのうなぎやのために、「土用丑の日」というキャッチコピーを考案。歯磨き粉「そう石香」を売るための広告チラシの作成。香木を使った「源内櫛」を売れっ子遊女に身に着けさせてキャンペンガールに。 シナリオライター。人形浄瑠璃のシナリオを書き、「江戸浄瑠璃の開祖」をまでいわれるほどの人気。 プロデュサー。本草学の知識を生かし、全国各地から薬の材料となる植物や動物などを集めて薬品会(物産会)を企画・実施。 陶芸家。長崎で学んだ陶磁器製法を、故郷(香川県・讃岐)の陶工に伝授して中国風の陶磁器を作らせるた。 洋風画家。長崎で西洋画家と出会い、その技法や理論を身につけて日本で初めて西洋式の遠近法を使った油絵を発表。 現代に生きていたら、面白かったかも。
2011.10.25
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朝日新聞の夕刊で、野村萬斎さんのコラムが始まりました。 今回のテーマは、「誰にでもある瞬間」。 おさえられない衝動にかられる瞬間。 …は、衝動買い。 ミラノの街角のショーウインドで見たスーツを全身トータルで買ってしまったそう。 衝動買い~。 B型のおひつじ座にはよくある?かな。 これから、毎週金曜日の夕刊が楽しみです。
2011.10.08
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新マンガ日本史「徳川吉宗」。 徳川家康が江戸幕府を開いてから100年余りが過ぎ、天下では大きな騒乱もなく、人々は平和な世の中で暮らしていました。 しかし、その陰で幕府は危機に直面していました。歴代の将軍が贅沢に金を使ったことや、世の中の経済状態の変化などによって、幕府の金の蓄えがなくなり、赤字に苦しむようになっていたのです。 財政難のなって幕府の力が弱まると、全国が統制できなくなり、再び戦乱の世が訪れる可能性が出てきます。そこで幕府は財政を立て直すための改革に乗り出しました。 その改革主導したのが、紀州藩主から抜擢されて8代将軍になった徳川吉宗でした。 吉宗は御三家のひとつ紀州藩主の四男として生まれました。 母親は身分の低い側室で本来ならば藩主になる見込みすらありませんでした。が、兄たちの相次ぐ死により、22歳で紀州藩主となりました。 藩主となった吉宗は、徹底した簡約と農地改革で赤字に苦しんでいた藩の財政を立て直したのでした。 そして、わずか8歳の幼将軍家継の危篤のおり、将軍の後見人となり、家継の死により、8代将軍となったのでした。 吉宗は「御庭番」を設置し、江戸市中から諸国にいたるまであらゆる情報を集めました。 また、町火消しの整備、目安箱の設置、小石川療養所の設立、新田開発、商品作物の栽培奨励など、様々な改革を推進させたのでした。 さすが、江戸幕府一の名君。 ちなみに、吉宗は身の丈6尺あまりあったようで、歴代将軍の中でも、最も巨漢であったそうです。 やっぱり、健さんですね。
2011.09.22
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新マンガ日本史「紀伊国屋文左衛門」。 17世紀末、5代将軍徳川綱吉の治世。豪華寺院の建築ラッシュが起こり、産業や経済も絶好調のバブル時代。 元禄文化が花開いたこの時代、人々は平和と豊かさを満喫していました。 そんな時代、商人たちは、日本中に張り巡らされた街道や航路を利用して各地から商品を輸送し、大都市の江戸で商いをしました。 そして、一攫千金を夢見た青年が、江戸で一旗あげようと、吹きすさぶ大嵐の中、紀州ミカンをいっぱい積んで、紀伊国の港から船出をしました。青年の名は、文平。後の紀伊国屋文左衛門。 嵐の中、命がけで運んだミカンのおかげで、江戸の人々に受け入れられた文左衛門は、やがて材木商として頭角をあらわし、幕府の土木事業を次々に請け負って、数年後には、「紀文大尽」と呼ばれる大豪商にまで成り上がりました。 ところが、江戸時代の中でも、特に景気のいい時期だった元禄も、金銀の産出量の減少や、5代将軍綱吉の寺社造営事業の出費などにより、幕府の財政は赤字に転落。そして、綱吉が亡くなるとともに、江戸の町も、徐々にその様相を変えていきました。 そして、江戸の町を騒がせた文左衛門も、ミカン船で江戸にたどり着いてからわずか20年ほどで店を閉め、表舞台から姿を消してしまうのです。 身代をつぶして落ちぶれたとも、風流を楽しみながら、悠々自適の生活を送ったとも。
2011.08.31
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新マンガ日本史「松尾芭蕉」 松尾芭蕉は、伊賀上野(三重県伊賀市)に無足人(伊賀上野の藤堂家において、苗字・帯刀など藩士と同等の礼法を許されていた農民)の子として生まれました。 19歳のときに仕えた侍大将(合戦の時などに兵全員を指揮する役職)の家で俳諧好きの主人に出会い、ともに学びます。 しかし、数年後にその主人が死去。これを機に、自作の発句集を一つ持って、江戸に行くことを決意します。当時、江戸はたいへんな俳諧ブームでした。 戦乱の世が過去のものとなり、生活の余裕を楽しむゆとりが出来ていた江戸には、「元禄文化」と呼ばれる新しい文化が花開き、その中に、俳諧もあったのでした。 何人かが集まって句を連ねていく俳諧は「言葉の技法」の最先端で、身分を問わず、誰もが気軽に参加できるライブイベントとしても人気がありました。 そんな中、芭蕉は、当初は、小さな俳諧の会を渡り歩き、点取り俳諧(詠んだ句に点数をつけて競う遊び)の賞品で食いつないでいました。 すると、最近、伊賀から出てきたという若い俳諧師があちこちの句会で賞品をさらって夜の街に消えていく~。その句があまりに見事なので、昔の歌仙の幽霊が若者の姿になって夜な夜な現れているのでは~との噂がたつようになります。 そして、数年の後には一人前の宗匠として幾人かの門人を抱えるようになります。 ところが、宗匠になってわずか1年。芭蕉は突然剃髪し、やがて深川の掘っ立て小屋で、引きこもりになってしまいました。 江戸でももてはやされていた談林俳諧の作風についていけなくなったとか、遊びのような句会で句を採点する役目がいやになったとか。 そんな生活に入って2年たった1682(天和2)年、江戸を大火が襲い、芭蕉庵も焼け落ちてしまいました。 これを機に、今度は旅に出ることを決意します。 1684(貞享1)年8月、門人を伴い、伊勢に向かう旅に出たのでした。 9月に帰京すると、さらに吉野から熱田名古屋を巡る旅をし、翌年は奈良を経て京都に。 旅から江戸に帰ると、紀行文と句集を編む。そしてまた旅へ。いつしか旅は、芭蕉の人生になっていたのでした。 芭蕉51歳の秋、西国への道中に倒れ、最期の句を残して、この世から旅たちました。~旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる~ ※ 旅の途中で病気で寝込んでしまった。病床で見る夢の中の自分は、冬の野原を駆け巡っている。もっと旅を続けていたい。
2011.08.18
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新マンガ日本史「天草四郎」。 1549(天文18)年、異国の地からやってきた一人の宣教師によって、九州の南端にキリスト教がもたらされました。やがてこの教えは全国へと広まり、多くのキリシタンが生まれました。 1637(寛永14)、九州の島原と天草で、藩主たちの悪政に耐えかねた者たちによる江戸時代最大の一揆が起こりました。 異国からもたらされた」キリスト教を信仰していた島原・天草の人々は、幕府の禁教令によって信仰を奪われ、さらに飢饉飢饉に襲われて作物も失いました。そんな彼らに藩主たちは容赦なく年貢を取りたて、年貢が納められない場合は、火責め、水責め、逆さづりなどのひどい拷問を行ないました。拷問は、女性や子供に加えられることが多く、中には何日も水につけられて死んでしまった妊婦もいたそうです。 そんな地獄のような生活を強いられていた人々の前に、1人の少年が現れました。 天草四郎、16歳。やがて人々は四郎のもとに集い、ともにパライソ(天国)へ導かれることを願いながら、戦うために、原城に籠城しました。 しかし、兵糧攻めを受け食料も、武器や弾薬も底を付き、約3万人の一揆勢は、幕府軍によって皆殺しにされてしまったのです。 なんともやりきれなく、悲しい結末です。 天草四郎は、「眉目秀麗な少年」(かなりの美少年)だったと伝えられています。時代が違えば生き方も違っていたでしょうに。
2011.08.10
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新マンガ日本史「春日局」。 江戸時代の幕が開けた頃、徳川家には将軍の跡継ぎをめぐる対立が起きていました。 2代将軍・徳川秀忠の長男・竹千代と、器量の優れたその弟・国松。 時代の転換期に起きた対立の裏で、「育ての母」~春日局~と「生みの母」~お江の方~との我が子への深い愛情が交錯していました。 織田信長が天下統一事業を進めていた1579年、お福(後の春日局)は、斉藤利三の娘として生まれました。利三は、織田信長の重臣・明智光秀の家老を務めていましたが、お福が4歳の時に、本能寺の変が起き、秀吉との戦いに敗れ、磔になってしまいます。 16歳で、小早川秀秋の家老・稲葉正成と結婚しますが、その後、正成は小早川家を離れて牢人の身になってしまいます。そんなお福に父が優秀な武将だったことから、2代将軍の秀忠の長男・竹千代への乳母にと抜擢されます。お福は、夫と離縁し、江戸城入りします。 竹千代は幼い頃、体が弱くて言葉を話し始めるのも遅かったのでした。一方2つ年下の国松は、幼い頃から利発な子供で、将としての資質も備えていました。秀忠もお江の方も、次第に国松に期待をかけるようになりました。 そんな立場にあった竹千代を、春日局は工夫を凝らし、愛情をこめて育て、260年に渡って続く天下泰平の江戸時代の礎を築く名将軍・3代家光を誕生させたのでした。
2011.07.20
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新マンガ日本史「柳生宗矩(やぎゅうむねのり)」。 日本全土で戦が相次いだ室町時代中期以降、実践で役立つ剣術は発展しました。 剣の腕を磨いた剣豪たちがしのぎを削り、多くの流派が生み出されました。そして剣豪達は、自らの極めた剣の力で、大名などの各地の実力者に取り立ててもらうことを目標とし、大名たちもより強い剣豪を家来として迎え入れようとしました。 が、戦乱の時代に大いに注目された剣豪たちも、時代が平和に向かう中、役目も終えようとしていました。 そんな時代、平和の世に役立つ剣を求め、それを成功さあせ、剣豪から大名に出世していったのが、柳生宗矩でした。 1601(慶長6)年、宗矩は家康の息子・秀忠の剣術指南役を命じられ、柳生新陰流は将軍家の御流儀となりました。剣術を戦の手段ではなく、幕府や諸藩を支える武士たちの修養の手段と位置づけた宗矩の理論はこそ、平和の時代を治めようとする将軍家に必要なものでした。 大阪夏の陣の翌年の坂崎成正の事件を解決した宗矩は、秀忠や幕府の重役たちからその政治手腕を大きく買われ、秀忠の引退後も、3代将軍に・家光を陰から支えていきます。 柳生新陰流の極意。「剣禅一致」。剣と禅の一致、心の重要性を唱える。 「一つの悪を殺して万人を救うもの」であり、また「剣は人を殺すものではなく、活かすもの」である。
2011.07.18
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読書の真価を理解する人は「二種の世界の住人」だそうです。 二種の世界とは、現実の世界と、書物に描かれた世界。 読書は、たとえば、ヒマラヤ登山や深海探検、歴史上の出来事など、現実には経験できない"別世界"の体験を、文字を通じて可能にするすばらしい奇跡。 私も、子供の頃から、本を読むのは大好きでした。短時間でも、本を読むとその世界に入っていけました。 でも、、最近は、なかなか本が読めません。読みたい本は、いつもそばに置いてあるのですが...。 本を読む根性がなくなってきています。 なんとか、頑張りたいのですが。ひとり灯のもとに文をひろげて、 見ぬ世の人を友とする -徒然草ー これって、本当に素晴らしいと思いますけれど。
2011.06.25
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新マンガ日本史「出雲阿国」。 日本を代表する文化の歌舞伎。その歌舞伎は、今から400年前、たった1人の女性が始めました。 戦国時代が終り、徳川家康が天下を治める江戸時代。「かぶき者」と呼ばれる無法者たちが、太平の世を抗うかのように、奇抜な服装で町を闊歩し、喧嘩に明け暮れては世間を騒がさせていました。 そんななか、京の都にかぶき者の格好をして踊る1人の女が現れました。出雲大社の巫女だというその女の名は、阿国。阿国の踊りはたちまち都の人々をとりこにしました。 人は彼女を「天下一の女」と呼び、彼女の踊りを「かぶき踊り」と称しました。 その後、この「かぶき踊り」は様々な芸人の手を経て発展を続けます。 女性だけの「女歌舞伎」。~現代のAKB48のような?~。が、これは、風紀を乱すものとして幕府より禁じられます。 そして、美少年による「若衆歌舞伎」~これは、ジャニーズ?~。が、やはり、これも幕府により禁止。 それから、ようやく、成人男子だけが出演する「野郎歌舞伎」が許されて生き残りました。そして、元禄時代に今の歌舞伎の原型が完成されていったそうです。
2011.06.17
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新マンガ日本史「真田幸村」。 戦国の世、信濃国(長野県)に真田という小さな豪族がいました。 そこには、優秀な兄弟がいました。真田家のために生きた兄・信幸、おのれを貫き戦場で散った弟・幸村。 真田幸村は、1567年、真田昌幸の次男と生まれました。 18歳で上杉家の人質となり、さらに、翌年には、豊臣家の人質となります。 1590(天正18)年、豊臣秀吉の小田原征伐に参戦。 その後、豊臣秀吉が世を去り、再び動き始めた天下。真田家は、家の存続をかけて、兄弟は別れることになります。 兄は、徳川家に付き、幸村は、石田軍に付きます。そして、上田の合戦で10倍以上の兵力を持つ徳川秀忠軍を足止めにし、秀忠を関が原の合戦に遅刻させ、家康を激怒させます。が、結局関が原の戦いで、西軍は敗れ、幸村は和歌山県の九度山へ配流となります。 しかし、その14年後、家康の支配に異を唱える豊臣方の残存勢力が大阪城を拠点に反旗を翻す大阪冬の陣をを起こし、幸村も参戦します。 そして、その後の、1615(慶長20)年5月、大阪夏の陣で、幸村は、戦死します。 その戦いは、単騎徳川家康に肉薄し天下人の陣を脅かした勇猛な戦いぶりで、「真田は日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)なり」と後世に伝えられたのでした。 一方、兄の真田信幸は、松代藩13万石の藩主となり、93歳まで生き、真田家は、明治まで続く大名家となったのでした。
2011.06.06
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新マンガ日本史「伊達政宗」。 伊達政宗は、1567(永禄10)年、出羽国米沢城を本拠とする名門・伊達氏の嫡男として生まれました。 父・輝宗は、「柔よく剛を制す」と評される穏やかで、また教育にも熱心な人でした。 その父のもと、すこやかに成長していた政宗でしたが、4歳の頃、疱瘡を患い、そのうみが目に入ったことで右目を失明してしまいました。このため人前に出るのを嫌うようになり、消極的で暗い性格になってしまいました。 母の義姫は、政宗を嫌い、弟の小次郎を溺愛し、小次郎に家督を継がせるために、実の子である政宗を毒殺しようとしたと言われています。わが子なのに、恐ろしいことです。 そんな政宗を心配した父・輝宗は、深い学識を持つ名僧・虎哉宋乙を招き、政宗の教育にあたらせます。 父の愛と、師の厳しい教えにより、見違えるような成長を遂げた政宗は、わずか18歳で家督を譲りうけ。伊達家当主となります。 そして、1589(天正17)年、最大のライバルだった会津の蘆名氏を撃破しわずか23歳で、南奥州の覇者となります。 仙台城を築き、次は天下を狙います。が、残念ながらその機会は訪れませんでした。 しかし、秀吉死後も、徳川家康、秀忠、家光の信頼を得て、徳川家の後見人として地位をえ、領内の新田開発をし、その米を江戸に送って売るなどのルートをつくり、仙台藩隆盛の基礎を作りました。 NHKの大河ドラマでは、渡辺謙さんが演じられたので、大きな男性のイメージがありましたが、発見された遺骨をもとにした復元によると、身長は159センチだったそう。小さい~。私と同じ身長!!ですが、これが当時の男性の平均身長だったそうです。 ちなみに、血液型はB型だったそうです。
2011.05.19
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新マンガ日本史「黒田官兵衛」。 尾張の織田信長は、飛ぶ鳥を落す勢いで近畿、東海、北陸地方へと進攻して、次々と支配下に治めていきました。 ですが、天下統一事業が終盤へと差し掛かった1582(天正10)年、明智光秀の謀反によって、織田信長は没してしまいます。 織田信長の手からすべり落ちた天下人の座を目指し、戦いが始まります。あまたの武将の中で、いち早く天下人の名乗りを上げた羽柴秀吉。その陰に、秀吉に天下への道を開こうとする天才軍師・黒田官兵衛の存在がありました。 播磨の国で生まれた官兵衛は、16歳で小寺家に仕え始め、17歳で初陣を飾ると武功を重ね、家督を継いで姫路城代となりました。 天下は織田信長が手にすると確信していた官兵衛は、主君の小寺氏を説得して織田信長への従属を決めさせ、自ら使者となります。 織田軍の毛利攻めの際、播磨の国に入った秀吉を、官兵衛は姫路城に迎え入れます。これに感激した秀吉はその後、官兵衛を軍師として重用するようになります。しかし、やがて天下を取った秀吉は、官兵衛の才能を恐れるようになり、それに気づいた官兵衛は44歳という若さで、息子に家督を譲り、自分は引退します。 酒は呑め呑め 呑むならば 日本一の この槍を 呑み取るほどに 呑むならば これぞ真の 黒田武士 「黒田節」に出てくる黒田武士は、黒田官兵衛の家臣だそうです。にほんブログ村
2011.04.23
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新マンガ日本史「千利休」。 織田信長と豊臣秀吉、2人の天下人が世を治めた安土・桃山時代。 戦国の世ですさんだ心を癒すかのように、華やかに茶の湯の文化が花開きました。 武将たちは、政治の道具としてこぞって茶の湯をたしなみました。 堺の茶人・千宗易(千利休)も、織田信長と豊臣秀吉、2人の天下人に仕え、政治の道具としての茶の湯の中枢にいました。 利休は、秀吉の側近として権勢をふるいながらも、草庵の茶ともいわれる「わび茶」を究めていきます。 しかし、なぜか安土・桃山時代も終わりを告げようとした頃、利休は秀吉によって切腹を申し付けられます。 もとは商人でいわゆる庶民階級の利休がなぜ切腹をしなければならなかったか...。 今もってまだ謎だそうです。 政治にも力を持っていた利休は、石田三成との権力争いに敗れ、切腹に追い込まれた。 また、秀吉と利休の茶の湯に対する考え方の違いから仲違いし、切腹させらたという説も有力です。この説のもとに書かれた本や、ドラマも多いですね。 秀吉が利休の娘に惚れ、言い寄ったところきっぱりと断わられ、さらに強引に自分の愛人にしようとしたら自殺してしまったので、腹を立てて利休を処罰した~昔、確か佐久間良子さんが利休の娘を演じたドラマがあったような~という説もあるそうです。 また、この時代は、茶の湯に使われる名器がとんでもない価値を持った時代でした。織田信長の家臣だった武将・滝川一益は、武田氏との戦いでめざましい活躍をし、織田信長から褒美として何が欲しいかと尋ねられ、名物茶器「珠光小茄子」を所望したそうです。しかし織田信長は、高望みすぎると却下。そのかわりに上野国(群馬県)と信濃国(長野県)を領地として与えたそうです。が、一益は、領地をもらったのに、茶器をもらえなかったことを残念がったとか!国のほうがいいと思いますけれどねえ。にほんブログ村
2011.04.15
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新マンガ日本史「服部半蔵」。 時代は戦国。勝つために手段を選ばなかった戦国大名は、戦場で戦う以外にも、情報収集や暗殺、破壊工作といった「陰」の戦いも繰り広げていました。こういった任務についていたのが、情報収集や裏工作の技術を持つ、「忍者」と呼ばれた者たちでした。 そのような忍者の一集団である「伊賀者」出身の父を持つ男がいました。男は父親の代から徳川家に仕え、主君の徳川家康と息子の信康から、厚く信頼されていました。 その男は、服部半蔵。服部半蔵は、天下を取るまでの家康の前に立ちはだかった数々の困難を家康とともに乗り越え、特に「本能寺の変」が起きたときの「神君伊賀越え」という脱出劇は、半蔵の活躍により、伊賀・甲賀の協力を得て、絶体絶命のピンチを救われました。 戦場での半蔵の活躍は目覚しく、「鬼」と恐れられていました。 家康が江戸に移ると、半蔵は徳川家についた伊賀者200人を束ね、江戸城を警護するという重要な役目につきました。 「鬼」と呼ばれた半蔵でしたが、生涯に一度だけ、家康の命にそむき、涙を流したことがありました。 家康の嫡男・信康は、わずか9歳の時に、政略結婚で織田信長の娘の徳姫を娶りました。1957(天正7)年、その徳姫が、信康とその母・築山殿が共謀して宿敵・武田家に内通しているという密告の手紙を織田信長に送ります。その手紙を読んだ信長は、2人の死を家康に命じます。家康は、半蔵に命じ、2人無実の証拠を集めさせますが、どれも怒る信長を納得させられるものではなく、ついに家康は家の存続のために築山殿を討ちました。そして、幽閉していた信康に切腹を命じ、その解釈を半蔵に命じました。しかし、半蔵は、信康の首を斬ることができませんでした。これが主君の命に背いた最初で最後でした。忍者の装束 忍者の実際の装束は黒ではなかったそう。夜の活動でも、月明かりなどがあって真っ暗ではないため、黒だとかえって体の形が浮き出てしますそうです。そのため、濃紺や赤茶、灰色などが多かったそうです。中には表は濃紺、裏は灰色のようにリバーシブルになっていて、夜の明るさに合わせて色を変えたとか。 にほんブログ村
2011.03.27
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新マンガ日本史「上杉謙信」。 上杉謙信は、越後守護代・長尾為景の子として生まれ、7歳の時に仏門に入りました。 やがて為景が家督を謙信の兄・晴景に譲り没すると、家臣の間に内乱が起こり、これに困った晴景は謙信を寺から呼び寄せ鎮圧を任せます。この時15歳だった謙信は、見事鎮圧に成功します。すると家臣の中には謙信を後継にと願う者も現れ、次第に謙信と晴景は対立するようになります。が、晴景は謙信に家督を譲ることを承諾。これによって謙信は長尾家の当主になりました。 その後、関東で起こった領土争いの際に、謙信を頼ってきた関東管領の上杉憲政から上杉家と関東管領の職を相続します。 甲斐の国を中心に勢力を拡大していた「甲斐の虎」と呼ばれた武田信玄は、信濃の国への侵攻を繰り返していました。信濃の国の豪族から救援を請われた謙信は、信玄と幾度も攻防を重ねます。 そんな中、信玄が病死。その年、織田信長が将軍・足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼしてしまいます。 ついに、織田信長が天下取りに動く出したその時、越後の竜。謙信が牙をむいたのです。 "信長の意、義にあらず"。 上杉謙信は、"義"のために戦う武将だったのです。 越後の国は、銘酒の産地。そんな土地に生きた謙信は、ものすごい大酒飲みだったとか。愛用の杯は、直径10センチ、深さは6.5センチも。 謙信の辞世の句 四十九年一睡夢 一期栄華一盃酒※49年の生涯を振り返ってみると、まるで一夜の夢のようなものだ。この世の栄華は、まるで1杯の美味しい酒のようなものだにほんブログ村
2011.03.23
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新マンガ日本史「斉藤道三」。 地位が低くとも力があれば主君を倒してのし上がっていけるーそんな下克上の空気に満ちた戦国時代に現れた「マムシ」と呼ばれた男。それが斉藤道三でした。道三の父、西村新座衛門尉は、京都の油売りでしたが、優れた武芸を買われて美濃の国で長井長弘の家来となり、出世の階段を上っていきます。 そして、さらに息子の道三は、恩人や主君をだまして国盗りに成功していきます。 まずは、父を引き立ててくれた恩人・長井長弘に謀反の疑いがあると主君の土岐頼芸に信じ込ませ、長弘を殺害します。 そして、主君の頼芸の弟・頼満と娘を結婚させますが、頼満が、道三は美濃の国を乗っ取る気だと疑い始めると、殺害してしまいます。 その後、道三の下心に気づいた主君の頼芸が兵を起こすと、返り討ちにして追放します。 頼芸が越前国の朝倉氏や尾張国の織田氏を味方につけて逆襲すると、和睦を申し入れて油断させ、織田信長と娘を結婚させて織田氏を取り込み、再び頼芸を追放し、美濃国の国主となります。 しかし、マムシの子は、やはり、マムシ? 息子の新九郎が突如2人の弟を殺害し、道三への叛意をあらわにしたのでした。ここに親子戦争が勃発し、1556(弘治2)年、長良川において、道三は戦死します。 息子の新九郎(義竜)は、身長195センチもあるがっしりとした大男でしたが、父の亡き後、美濃国の国主として知行制度や軍役制度などを整え、尾張国の織田信長の攻撃をたびたび撃退するなどして、名君とうたわれました。が、35歳の若さで急死してしまいます。そのため、美濃は信長に制圧され、斉藤氏一族は、あっという間に美濃から追い出されてしまったのでした。 まさに、下克上の時代でした。
2011.03.22
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新マンガ日本史「一休」。 1934(応永1)年、一休は京都郊外の民家で生まれました。 母は藤原氏の血を引く貴族の娘で、父は後小松天皇とも言われています。 一休の母は、女官の嫉妬により、天皇の命を狙っていると嘘の噂を流され、宮中を出ていかなければなりませんでした。女性同士の関係は難しいですね。 一休は6歳で京都の臨済宗の寺・安国寺に預けられ、その後、12歳の時に維摩経を学び、翌年からは建仁寺で漢詩を学びました。子供頃から、学問に秀でた賢い子だったようですね。 が、17歳の時に、人々が苦しんでいる時でも、金儲けをしているような大寺院に反発し、そこを去り、貧乏寺であった西金寺の謙翁宋為のもとに入門します。 一休が21歳の時、謙翁が亡くなり、師を失った一休は、自殺を考え、琵琶湖のほとりをさ迷います。が、幼い頃生き別れた母の面影が突然現れ、自殺を思い止まります。 翌年、近江の国の厳格な禅風で知られる祥瑞庵の華叟宋曇に弟子入りを志願しますが、なかなか入門を許されず、一休は何日も寺の門前に座り続け、ようやく入門を認められます。 そして、入門からわずか3年後、一休は華叟からだされた禅の難問を解き、印可状(悟りを開いたことを師から認められた証)を渡されますが、それを断わり、寺を出ます。 その後は、京都、堺、河内、大和など各地を転々としながら、特別な地位につくこともなく、庶民の中で毎日を過ごしていきます。 81歳の時に、後土御門天皇の命で断われなく、大徳寺の住持(住職)になり、戦乱で焼けた大徳寺の復興に力を注ぎ、1481(文明13)年、88歳で生涯を閉じます。 一休の言葉「諸悪莫作 衆善奉行」 ※いろいろ悪いことをせず、たくさんよいことをしなさい。 時代の権力と結びつくことで、存続を図ろうとした当時の仏教界に強い反発を覚え、アウトローに生きた破戒僧ともいうべき一休でした。 にほんブログ村
2011.03.20
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新マンガ日本史「観阿弥・世阿弥」。 室町幕府3代将軍・足利義満の治世。動乱がようやく落ち着きをみせ、人々は、明るい平和な時代の兆しを感じ、町のそこかしこで演じられる、さまざまな芸能を楽しんでいました。 そんな芸能のひとつであった猿楽の世界に、観阿弥と世阿弥という親子がいました。彼らは、観阿弥の確かな芸と、世阿弥の類稀な美しさを武器に人気を博し、数ある芸能の中から、猿楽を当代随一の芸能に押し上げました。 世阿弥が12歳の時、舞台を見た足利義満に気に入られ、義満が世阿弥を寵愛しはじめてから、貴族たちはこぞって世阿弥を贔屓にしました。 貴族をとりこにする美貌を持つ世阿弥は、観阿弥率いる観世座のアイドル。観阿弥の英才教育を受け、能の腕前はもちろん、蹴鞠・和歌などの貴族の教養もマスターしました。 時の権力者のバックアップを得て、栄華を極めた観阿弥と世阿弥でしたが、決して芸の道をおろそかにすることはありませんでした。 彼らは、庶民の娯楽であった猿楽を芸術性の高い演劇へと高め、彼らが演じた新しい猿楽は、庶民ばかりでなく、教養にたけた貴族をもとりこにしました。 芸を究めること、すべてが散り落ちた後になお残る「まことの花」を、その身に咲かせるために2人が舞台で咲かせた花は、今なお美しく、600年の時を超えて、私たちの心を揺さぶり続けます。 能楽の解説も。狂言の解説には、野村萬斎さんのお写真が!ラッキー! ページ中央の黒い四角の中の丸い穴。これは、能楽師の方が面をかけたときに見える視覚の範囲だそうです。小さい!にほんブログ村
2011.03.19
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新マンガ日本史「吉田兼好」。 神職の家に生まれた吉田兼好。2人の兄たちとともに、知的な環境で育てられました。 2人の兄は、のちに天台宗の大僧正と、朝廷の高級官僚に出世しています。 兼好も、記憶力が抜群で、子供の頃から神童を言われていたようです。 20歳前後から朝廷で働き、頭が良いだけでなく、歌を詠むのも上手でしたので、その実力は次第に認められ、25歳頃には、天皇の側近となりました。 兼好の実力をもってすれば、このまま順調に出世できるはずでしたが、仕えていた後二条天皇が24歳の若さで没してしまいました。 当時の皇室は、2勢力に分かれ、対立していたので、兼好が仕えていた天皇の反対勢力だった花園天皇の即位で、兼好の出世は望めなくなりました。 いくら努力しても、能力があっても、自力で道を切り開らけないこもある。貴族社会で生きる意味を見失った兼好は、世間からはなれて生きること選びました。 しかし、世捨て人になっても、兼好は、決して、世間を疎んだりするのではなく、静に独自の観点で世の中を見つめます。 彼が残した「徒然草」な、250年以上埋もれていましたが、江戸時代の初めに大ブレークし、当時は嫁入道具の一つにもなったそうです。 それは、兼好の書き残した「徒然草」には、「生きるための知恵」が満ち、「人生は楽しい」というメッセージが込められいるからです。にほんブログ村
2011.03.05
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新マンガ日本史「楠木正成」。 14世紀の初頭、"悪党"と呼ばれた1人の男がいました。 権力名誉そして平穏な世、多くの男たちがそれぞれの夢を求めて戦った時代に民の心を集め、乱れた世を憂うその男は希望ある未来を夢見ながら、戦場に散りました。 鎌倉幕府が成立してから約140年。幕府の最高権力者・北条高時は、酒や遊びにふけってばかりで政治を顧みず、国は乱れる一方。生活に困るようになった武士たちは、そんな幕府に不満を募らせていきました。 この頃、西国に新しい武装集団が出現しました。年貢の取立てに抵抗したり、荘園を襲ったりと、幕府や荘園領主に武力で抵抗した彼らは、やがて「悪党」と呼ばれるようになっていきました。 その頃、以前から倒幕を試みていた後醍醐天皇は、悪党や幕府に不満を持つ武士たちを利用して政権を奪い返そうと、動き出しました。そして、庭先に勢いよく伸びる大きな木があり、その南側の枝の下に自分のために用意された玉座があるという夢を見た天皇は、南に広がる木ということで、楠という名の武士を探させ、楠木正成を召したのでした。 「悪」というのは、狂言にも出てきますが、今と違って悪い人間というよりは、多少乱暴者ではあるけれど、力の強い男たちというような意味だったようです。 楠木正成は、常識破りのゲリラ戦法で戦った武士。 弓やの他に岩や大木を転がしたり、熱湯や、時にはウンチをかけたり、何でも武器にする戦法。 等身大のわら人形に鎧を着せて城の下にならべ、大きな声を上げて攻撃するふりをし、だまされて城の下まで攻め込んできた敵を上から岩や矢で攻めたり。 ちょっとダーティな戦法?かと思いますけれど、最後は、後醍醐天皇の命令で、足利尊氏討伐のために湊川に向かい、多く武士の支持を集めている尊氏との戦いに勝ち目はないとわかっていた楠木正成は、無駄な戦死者を出すのを避けるように、3万以上の足利軍にわずか700余りの兵で対抗し、最後は弟の正季と刺し違えて自害をしました。 正成の死を残念がった尊氏は、その死を嘆き、正成の首を妻子の待つ故郷に送り届けたそうです。
2011.03.04
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新マンガ日本史「親鸞」。 親鸞は、京都の日野で、名門・藤原氏の血を引く貴族の子として生まれました。 幼い頃に両親を相次いでなくし、9歳で出家し、比叡山に入山しました。 20年の修行に後に、欲望を捨てきれないことを悩んだ親鸞は、比叡山を下り、新たな道を歩み始めます。 そして、浄土宗の開祖・法然の教えに出会います。僧でありながらタブーを破り、恵信尼という女性と結婚し、「南無阿弥陀仏をとなえれば誰でも救われる」という法然の教えを、示そうとしました。 法然の教えが民衆に指示され、広まっていく中、それを良く思わない宗派の僧たちの策略により法然一派は朝廷から処罰を受け、親鸞も僧の資格を奪われ越後国に流罪となってしまいます。 失意の中、越後に渡った親鸞は、自分が僧でもなく、社会で働く一人前の人間でもない「非僧非俗」の身であると自覚します。そして、農民や漁師など、悩みを抱えながらも懸命に働いて日々を生きる人たちと供に暮らすうちに「仏の教えは民衆とともにある」ことを強く感じます。 やがて、罪を許されてからも、京に戻らず、常陸国(茨城県)に移り住み、仏の教えを民衆に広めることに専念しました。 60歳を過ぎた頃、京に戻り、執筆活動を通じて自分の教えを深め、90歳で生涯を終えました。 親鸞の教え 「他力本願」。人間ができることには限りがあり、阿弥陀仏の「本願(すべての人々を極楽浄土に導こうと言う阿弥陀仏の心からの願い)」の力にすがって初めて人は極楽浄土に往生できる。 「悪人正機」。「善人なをもちて往生をとぐ。いわんや悪人をや。(善人ですら往生できるのだから、悪人ならなおさらだ)」。 親鸞伝説 1.親鸞が越後国を離れる際に行われた宴の席で、焼いた鮒が出されました。親鸞が傍らの榎に袈裟を掛けてその鮒を池に放したところ、生き返って泳ぎ始めました。 2.竹の杖を地面にさしたら、根が生えました。 3.桜の枝に数珠を掛けたら、花が房のようにつながって咲くようになりました。 4.焼いた栗を植えたら、1年に3度実がなる栗の木が育ちました。etc.そういえば、我が家(実家)は、浄土真宗でした。にほんブログ村
2011.02.10
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新マンガ日本史「運慶・快慶」。 仏教が日本人の生活や文化に深く浸透した平安時代、仏教は貴族などに保護されて大きく発展しました。 唐に渡った空海や最澄らの僧侶たちが、新たな仏教である密教を持ち帰ると、朝廷の貴族たちの間で、密教は一大ブームに。 また、末法思想の広がりで、現実社会に不安を抱いた人々は、極楽浄土へ生まれ変わることを願い、阿弥陀仏を篤く信仰しました。貴族や新興武士たちは仏にすがり、多くの寺院や仏像を作っていきました。 そんな権力者たちの要請に答え、仏像制作にたずさわったのは仏師たちでした。 そして平安時代末期、貴族社会から武家社会に変わっていく激動の時代に、2人の天才仏師が現れました。 運慶と快慶。 運慶は、仏像彫刻の革命児。それまでの仏像にはない生き生きとした表情や動きを表現し、荒々しく情熱的に兆候に挑んだ、芸術家タイプの仏師でした。 快慶は、冴えわたる職人芸で、そつなく、すっきりとした端正な美しい仏像を作り上げました。 そして、2人で協力して、東大寺南大門の金剛力士像を作り上げたました。 その像は、800年の時を超えて、大仏殿の前に雄雄しく立ち、参拝に訪れる人々を見守り続けています。にほんブログ村
2011.01.27
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新マンガ日本史「北条政子」。 12世紀の末、源氏の棟梁・源頼朝が政治の実験を握りました。鎌倉幕府の始まりです。 頼朝の成功の陰には、妻・北条政子の存在がありました。 政子は、伊豆の豪族・北条氏の娘。当時、平氏との戦に敗れ、罪人として伊豆に流されていた頼朝を、政子は見込んで結婚したのでした。 この結婚で頼朝は北条氏をはじめとする東国武士を味方につけ、平氏を倒して武士の頂点へと駆け上がりました。 しかし、この武家政権はなかなか安定せず、頼朝・頼家・実朝の3代の将軍が、事故や暗殺で相次いで亡くなってしまいました。 この機に及んで、朝廷は、政権を取り戻すために挙兵しました。 夫や子に先立たれ、1人残された政子は、尼となっていましたが、夫とともに築いた鎌倉幕府を守るため、朝廷と戦うことを決意します。これが、承久の乱でした。 しかし、弱腰になっていた御家人たち。そんな御家人たちを名演説ですばやくまとめあげると、わずか18騎の兵で、京へ向かって出撃させました。そして乱の首謀者は後鳥羽上皇でしたが、朝廷との戦いであることを意識させないよう、上皇方の武士を討つように命じました。この作戦はあたり、18騎だった兵は、京に着く頃には、19万人まで膨れ上がり、上皇方はほとんど準備をすることなく負けてしまいました。 「吾妻鏡」には、鎌倉幕府4代将軍として政子の名が記されているそうです。女性であるため正式には将軍職にはつけませんでしたが、実質的には、まちがいなく将軍同然でした。 私には、北条政子は、やっぱり岩下志麻さんです。にほんブログ村
2011.01.24
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新マンガ日本史「木曾義仲」。 源平合戦の主役といえば、頼朝と義経。 しかし、実は、もうひとりすごい源氏がいました。 もう1人の源氏、もう1人の戦の天才。 彼は、突然現れ、あっという間に京の都を手に入れました。 ところが、あっという間になにもかも失い、忽然と歴史の表舞台から姿を消しました。 その男は、木曾義仲。 2歳の時に、源氏の同族争いで父を殺された義仲は、木曾に匿われます。そして、乳きょうだいの兼光・兼平・巴とともに自然たっぷりの信濃・木曾でたくましく成長します。 27歳の時に、以仁王の平氏追討の令旨にこたえて、挙兵します。そして、徐々に北陸方面で勢力を伸ばし、30歳で倶梨伽羅峠の戦いに勝つと京への快進撃が始まります。 延暦寺の僧をも従わせ、挙兵からたった3年で、平氏を京から追い出してしまいます。 めでたく京に入った義仲でしたが、治安の回復ができなかったりと、うまく政治を行うことができず、義仲があてにならないと判断した後白河法皇が、源頼朝と手結んだため、義仲は次第に追いつめられていきます。 そして、宇治川の戦いで源義経に敗れた義仲は、粟津で討ち死にしてしまいます。 日本史の中で義仲が活躍した期間はほんの3年ほどでした。しかし、がむしゃらで華々しい義仲の活躍は、源平合戦の中でも、強い印象があります。 テレビの時代劇などでは、源義経は、常にイケメンの俳優さんが演じていらっしゃいますが、 たとえば、タッキーとか。が、平家物語の中の義経は「色白で背が低くて、前歯がすごく飛び出てる」と。 それに比べると、義仲は、「眉目形(みめかたち)はきよげにて美男なり」と。さらに素朴で、仲間を大切にする人に好かれる性格だったそうで、本当にイケメンだったようです。にほんブログ村
2011.01.21
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新マンガ日本史「お江」。 茶々、お初、お江の三姉妹は、北近江(滋賀県北部)の戦国大名・浅井長政と、その妻・お市との間に生まれました。 母のお市は、尾張国(愛知県)の三国大名・織田信長の妹。 織田家と浅井家の同盟のために嫁いでいきましたが、お江が生まれた天正3年(1573年)、浅井家は織田家に滅ぼされてしまいます。父の長政は自害、お市と三姉妹は織田家に引き取られました。 天正10年(1582年)お市は織田家の重臣・柴田勝家と再婚し、三姉妹とともに、越前国(福井県)で暮らします。 しかし、やがて対立を深めた勝家と秀吉の戦いが始まります。賤ヶ岳で激突した両軍でしたが、勝家軍は敗れ、勝家とお市は死を選びます。三姉妹は秀吉に保護されます。 天正12年(1584年)、秀吉の命により、お江は12歳で尾張国大野城主・佐治一成と最初の結婚をします。しかし、小牧・長久手の戦いで、一成が織田信長の次男・信勝側についたため、お江は秀吉に離婚させられました。 続いて、姉のお初は京極高次に嫁ぎ、長姉の茶々は、関白となった秀吉の側室となり、淀君と呼ばれます。 そして、お江は、秀吉の姉の子で、秀吉の養子となっていた羽柴秀勝と2度目の結婚をします。が、秀勝はすぐに、秀吉の朝鮮出兵で出陣し、朝鮮で病死してしまいます。 淀君の生んだ秀頼の将来のため、豊臣家と徳川家との関係強化のため、お江は今度は家康の嫡男・秀忠に嫁ぎます。 関が原の戦いで勝利した徳川家康は、慶長8年(1603年)に江戸に幕府を開き、征夷大将軍となり、慶長10年(1605年)に、将軍職うぃ息子の秀忠に譲ります。こうしてお江は、2代将軍の妻になりました。 そして、お江の嫡男家光は3大将軍に、五女の和子は後水尾天皇の中宮になり、明正天皇を生みます。 姉の淀君は、豊臣家と共に滅びましたが、三女のお江は、将軍の母となり、天皇の祖母となったのでした。 これだけ重要な歴史を担っ三姉妹はいないのではないでしょうか。 にほんブログ村
2011.01.17
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新マンガ日本史「安倍晴明」。 平安時代半ば。 美しい麗しい都、平安京。 しかし、この都で華やかに暮らす貴族たちの間では、権勢を振るう者と奪おうとする者たちの醜い争いが絶えませんでした。 そして、敗れた者たちの心の中に恨みや憎しみを生み出していきました。 やがて、その思いは怨霊となり、それらは怨念を晴らそうと、昼となく夜となく人々脅かすようになりました。 そんな怨霊に怯える人々にとっての頼みの綱となったのが、呪術を操って怨霊に立ち向かう陰陽師たち。 そして、そんな陰陽師のなかでも、ひときわ誉れの高い最強の陰陽師が安倍晴明でした。 待ってました。この号。 私の大好きな晴明さまです。 が、この表紙は、どうみても、萬斎さんのポーズだなあ。
2010.12.29
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新マンガ日本史「平将門」。 平安時代、辺境の地、坂東(現在の関東地方)。 防人(九州の防衛のために置かれた兵士)や蝦夷(東北地方に住む朝廷に従わない人々)征討のための徴兵、陸奥国開拓のための強制移住。 豪族同士の武力衝突。 都から来た国司による納税の名を借りた略奪。 辺境の地、坂東に夢を託して開拓に励む者たちを裏切る都の暴政。 その民衆の積年の恨みを吸収し、坂東の地に一大勢力を築いた男がいました。 戦えば必ず勝つ、その武名が坂東のみならず、都にもとどろいた男、平将門。 将門は、戦に強かったばかりではなく、情け深く、農民たちを大切にしたので、評判が上がり、将門の元には、近隣諸国から、その人柄を慕う者たちが続々と押し寄せ、将門も喜んで受け入れているうちに次第に勢力を拡大していったのでした。 そして、ついに「新皇」を名乗り独立を宣言。 仰天した朝廷は、討伐軍を組織し、将門を倒した者には、破格のほうびを与えると触れ回り、この求めに応じた藤原秀郷と平定盛の連合軍との戦いで、将門は額を矢で射られ、戦死します。 将門の首は切られて都に送られ、さらし首に。 しかし、将門の人気は死後も衰えず、生首が残された胴体を求めて空を飛んだなどという噂が伝えられるようになりました。 ですが、これは、単なる噂ばかりと言えないかもしれません。 飛んできた将門の首が落ちたとされる地に立つ東京大手町の首塚。関東大震災を機に取り壊され、国の役所が建てられましたが、大臣や職員が相次いで亡くなったので、将門のたたりとされて首塚は再建されました。その後もアメリカの占領軍が壊そうとすると、ブルドーザーが横転する大事故で死者が発生。壊さずに残されたのだとか。 現在でも周囲に建つビルは必ずこの首塚に正面を向けて建築するという話を聞いたことがありますね。
2010.12.24
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新マンガ日本史「小野小町」。 諸国を巡る旅僧が、雪が降りしきる中、すすき野を通りかかると(この始まり方は、まるでお能のようですが)、どこからともなく、耳元にささやくような声が聞こえてきました。 「目が痛い。目が痛くて泣くことさえできません。」 僧が振り向くと、そこに、この雪の中、一匹の青い蝶が。その蝶の後から、垂衣をつけた市女笠の女がやってきます。その女は、かつてこのすすき野で行き倒れた1人の女の話を始めます。 その女の名は、小野小町。 その美しさと、和歌の才能で、あまたの貴公子に求婚されたにもかかわらず、誰一人愛そうとはせず、"氷の姫君"と呼ばれていましたが、親族も死に絶え、年老い、その美貌も衰え、誰に顧みられることもなく、諸国を放浪した果てに、ここで命を落としたのでした。 その話を聞いた僧は、その霊を弔います。 それを見て安心した市女笠の女は、「小町も喜んでいることでしょう」と言い、ふっと掻き消えたようにいなくなります。 市女笠の女が消えた後には、先ほどの青い蝶が干からびて死んでおり、その横には、眼窩からススキが生えたしゃれこうべがひとつ。
2010.12.15
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新マンガ日本史「坂上田村麻呂」。 都からはるか東に向かうと、白河関に行き着きます。その先は古代の人たちが「みちのく」と呼んだ地でした。 「みちのく」は、もちろん「道の奥」からきた言葉です。 今から1200年前、奈良から平安へと時代が移り変わろうとしている頃、朝廷は反乱の続く東北地方を平定するため、また、当時、東北中部(宮城県南部)までだった「日本」の領域をさらに広げるために、征討軍を送り込みました。そのなかに、戦いの天才を言われたアルテイと呼ばれるリーダーのもと、あくまでも朝廷従わずに抵抗する「蝦夷」と呼ばれる人々がいました。その蝦夷征伐に、朝廷は一人の男、坂上田村麻呂を送り込みました。 征夷大将軍を任命され、東北に赴いた坂上田村麻呂の活躍に、アルテイは降伏し、都に連れて来られ、処刑されます。坂上田村麻呂は、見事、東北を平定したのでした。 素晴らしい活躍をし、古代最強に勇者とされる坂上田村麻呂には、数々の伝説が。 桓武天皇と嵯峨天皇に仕えた坂上田村麻呂は、54歳で病死します。結構若くて亡くなったのですね。 その田村麻呂の遺骸は、嵯峨天皇のたっての希望で、死んでからも朝廷を武力で守護してくれるようにと、甲冑を着せられ、棺の中に、剣や弓、矛などを入れられ、立ったまま埋葬されたそうです。 そして田村麻呂の風貌。 身長175センチで胸の厚さが36センチ。当時の人としては、巨体だったようです。 顔は赤く、目は白い鷹の瞳ようで、耳際の毛は金色の縮れ毛。 怒ると猛獣が倒れ、笑えば幼児もすぐなつく。 髪の毛の量が多く、重い時には120kgあったとか。 120kg?ちょっと、想像つきませんが。体重より重い? いずれにせよ、古代の英雄は豪快ですね。
2010.12.09
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新マンガ日本史「阿倍仲麻呂」。 8世紀初頭、唐はその領土を中央アジアまで広げ、「世界一の大帝国」として君臨していました。 717年、そんな唐に1人の若き日本人が留学しました。第9次遣唐使・阿倍仲麻呂。 彼の使命は、唐で学んだことをすべて日本に持ち帰ることでしたが、それだけでなく、この大帝国で自分の実力を試してみたいという野望も抱いていました。 そこで、彼は「科挙」の試験を受けることにしたのです。 「科挙」は、広く能力のある者を役人として登用するための試験で、家柄や身分に関係なく受験でき、合格すれば、高級官僚になれるのでした。しかし、きわめて難関で、試験は三日三晩に及び、合格率はわずか1~2パーセント。そのため、何十年もかかって受験する人もいたそうで、50歳で合格すれば若いほうと言われていたそうです。 そんななか、安倍仲麻呂は、入唐わずか4年、24歳で、科挙の試験に合格します。 そして、順調に出世し、唐の皇帝・玄宗にも重用されます。 日本からの第10次遣唐使が16年ぶりにやってきます。阿倍仲麻呂とともに、唐に来た留学生の多くはここで帰国しますが、唐の官僚になっていた仲麻呂には帰国が許されませんでした。 そして、さらに19年後、752年の第12次遣唐使、仲麻呂は56歳。仲麻呂は強く帰国を願い出て、「日本人留学生の帰国」ではなく、「唐の官僚の日本訪問」という形で、帰国が許されます。 ようやく日本に帰れるとの思いで乗り込んだ船でしたが、この船はベトナムに流され、大変な思いをして、2年後に唐に戻ります。 そして、結局、日本に帰国できないまま、仲麻呂は73歳の生涯を唐の都長安で閉じたのでした。 「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」。 日本への思い、望郷の念がどれだけ強かったことでしょうか。 ですが、異国で活躍した、最初のすばらしい日本人だったのですね。 【漫画】【ポイント5倍】朝日ジュニアシリーズ週刊新マンガ日本史 第6号 (2010年12月5日号) 朝...価格:490円(税込、送料別)
2010.12.02
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新マンガ日本史「行基」。 新しい都・平城京へと遷都が行われ、奈良時代が、幕を開けました。 律令制によって厳しく管理された時代。都で優雅に暮らす貴族や役人がいる一方で、人々は負担の大きい税を強いられていました。ききんや地震などの天変地異の多かった奈良時代。庶民の生活は困難になるばかりなのに、役人たちは、容赦なく税を取り立てました。人々は貧しさから抜け出せず苦しむ日々を過ごしていました。 そんな時、一人の僧侶が現れました。 行基。 彼は、仏の道を説きながら人々に食べ物を与え、土木事業を通して人々を貧しさから救い出していきました。 最初は、行基の布教活動を迫害していた朝廷でしたが、民衆の信心を集める彼の功績を」認め、「大僧正」の称号を与えました。 そして、聖武天皇のもと、行基の助けをえて、民衆とともに、奈良の大仏を建立。 しかし、残念ながら、行基は、大仏の完成を待たずに、82歳で亡くなりました。 この号では、貴族のセレブな生活が紹介されています。 貴族の朝は早かったようで、出勤は平城京の門が開く午前4時。5時半ごろから9時半くらいまで午前の仕事が行われ、午前中で仕事は終了。あとは自宅などで優雅に遊び。 また、年収は、最も高い位の貴族の年収は、現在のお金に換算すると、3億7,000万円。 平城京近くの広大な屋敷に住み、食事は、車エビの塩焼きや焼きアワビ、蘇(現在の乳製品のようなもの)など、超グルメだったそうです。 しかし、これらの生活は、すべて、庶民に課せられた税でまかなわれていたのでした。 現在でも、税金を払うのは大変ですけれど、しかし、この時代の課税額は、とんでもなかったのでしょうね。 【漫画】【ポイント2倍】朝日ジュニアシリーズ週刊新マンガ日本史 第5号 (2010年11月28日号) ...価格:490円(税込、送料別)
2010.11.24
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新マンガ日本史「額田王」。 短歌、俳句、川柳などの伝統文化から現代の流行歌や標語まで「5音」と「7音」のリズムで奏でられる言葉は、日本人の心に心地よく刻まれます。 そんな日本語のリズムが文化として形になり始めた頃、美しいも力強い言葉で、歴史に彩りを添えた1人の女性がいました。 額田王。 皇族の娘として生まれた額田王は、朝廷付きの歌詠みとして仕えました。そして、皇極天皇の息子の大海人皇子と結婚し、娘(十市皇女)を産み、幸福に?暮らしていました。 ある時、大海人皇子は、兄の中大兄皇子に額田王を所望され、中大兄皇子の2人の娘の大田皇女と鵜野皇女と交換?します。奥さんの交換なんてひどいトレードですが。 が、中大兄皇子は、女性としての額田王よりも、宮中の儀式を通して人々の心をつかむ歌詠みの巫女が必要だったのかもと言われています。 それもそれで、ちょっとなあ~とも思いますが。 それだけ、額田王の作り出す歌には、人々の心を打つ強い言霊があったのでしょう。 【漫画】【ポイント2倍】朝日ジュニアシリーズ週刊新マンガ日本史 第4号 (2010年11月21日号) ...価格:490円(税込、送料別)
2010.11.15
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新マンガ日本史「蘇我馬子」。 古代、ヤマト政権の中心地として栄えた飛鳥。大陸から渡ってきた進んだ文化を取り入れて発展していきました。 そんななか、新しい神・仏教の伝来は、ヤマト政権に大きな動揺をもたらしました。仏をまつるか捨て去るか揺れる飛鳥で、国の未来を見据え、政治の舵取りに腕をふるった男がいました。 蘇我馬子。古代最強の政治家です。 蘇我馬子は、敏達・用明・崇峻・推古を4代の天皇のもとで大臣(おおきみ)の役職を務め、政治を執りきりました。 馬子は、目的のためなら手段を選ばない冷酷な人物。 このマンガの蘇我馬子は、渋いイケメンですが。 587年、用明天皇の死により、次期天皇への野心を燃やし、馬子に敵対する物部守屋(もののべのもりや)に接近した自分の甥である穴穂部皇子(あなほべのおうじ)を殺害し、続いて守屋を打ち滅ぼしました。さらに、592年、自分を憎む崇峻天皇を暗殺してしまいます。 ひどいですねえ。 でも、この頃は、まだまだ天皇は絶対的な力を持ず、豪族たちの合議制で政治は行われていたのです。 政治をとりしきる馬子にとっては、政治を混乱させないためにも、余計な争いの火種は消さなければならなかったのです。 そのための、仕方のない手段だったのかも。 そのおかげで?政治は、しばし安定し、飛鳥を都とする飛鳥時代が幕を開け、日本で初めての仏教文化が生まれたのでした。 【漫画】【ポイント5倍】朝日ジュニアシリーズ週刊新マンガ日本史 第3号 (2010年11月14日号) ...価格:490円(税込、送料別)
2010.11.12
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「のぼうの城(上)」和田竜、を読みました。 来年、野村萬斎さんの主演で上映される映画「のぼうの城」の原作です。 戦国時代、天下統一を目前に控えた豊臣秀吉は関東の雄・北条家に大軍を投じました。 そのなかに支城、武州(埼玉県・行田市)忍城がありました。周囲を湖で取り囲まれた「浮城」の異名を持つ難攻不落の城でした。 この城を攻めるように秀吉から下知された石田三成は2万の軍勢で忍城に出陣。 忍城の当主・成田氏長は、秀吉の北条攻めの守りのために、小田原城へ。その間、留守を預かることになったのは城代成田長親。 この御仁は、領民たちから何事にも役に立たないでくの坊からとった「のぼう様」と呼ばれている。しかし、なぜか、領民の心を掌握しているのです。 当主成田氏長は、密かに豊臣方と内通し、対戦せず、城を明け渡すように命じていたにもかかわらず、なぜかのぼう様は、戦さを始めてしまいます。 そして、のぼう様が戦さを始めると知った領民たちも、城に立て篭もり、僅か5百の兵で、2万の三成軍との戦さが始まります。 のぼう様の風体。 「長親はずば抜けて背が高い。脂肪がのっているため横幅もあり身体つきも大きい。どちらかと言えば醜男であった。鼻梁こそ高いが、唇は無駄に分厚く、目は眠ったように細い。」 「長親は馬に乗れない。馬だけでなく、この大男は刀術、槍術、体術、あらゆる運動ができなかった」 どうして、萬斎さんなんでしょうねえ。 身長172センチの萬斎さんは、大男ではないし、太ってないし、体脂肪は1桁台だそうですし。運動神経もいいし…。 納得いかないんですけど。 あるサイトで、“何を考えているのかわからない存在感と、伝統芸能の世界で育った育ちのよさ”ではないかという感想を述べていました。 なるほど、そうかもしれませんねえ。 とりあえず、下巻も読みます。 のぼうの城(上)価格:480円(税込、送料別)
2010.11.08
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新マンガ日本史「仁徳天皇」。 今からおよそ1,600年前、河内平野(大平野)の百舌鳥(もず)の地にこれまでにない巨大な古墳が築かれつつありました。古墳の主は、ヤマト政権の大王オオサザキ(仁徳天皇)。大王の徳を慕い国中の民が工事のために集まっていました。 オオサザキには、ウジノワキイラツコという兄と、ハヤブサワケという弟がおり、3人とも母は違いましたが、仲の良い兄弟でした。 父の応神天皇は、お気に入りの皇子・ウジノワキイラツコを跡継ぎにしました。しかし、応神天皇が没すると、ウジワキイラツコは、自分よりオオサザキのほうが天皇にふさわしいと言い、オオサザキは、先帝の命に背くことはできないと言って帝位を譲り合い、3年もの間、天皇がいない状態になってしまいました。 結局、ウジワキイラツコがオオサザキに位を譲る為に自ら命を絶ちました。 なんと、壮絶な。 しかし、このおかげで、国は安定しました。 が、オオサザキの最初の后・イワノヒメの父である葛城のソツヒコが、義理の息子のであるオオサザキを位につかせるために、ウジノワキイラツコを自殺にみせかけて殺したとの暗い噂も。 そして、さらに、仲のよかった弟ハヤブサワケも、ソツヒコの進言により、謀反を企てたということで追われ、殺されてしまいます。 国の安定のみを考えたオオサザギは、寝る間も惜しみ政務を執り、税を軽くして徳を敷き、恵みを施して人民の困窮を救い、死者を弔い、病気の者を見舞い、身寄りのない者を大切にしたそうです。そのため、政令はよく行われ、天下は平らかに。 仁徳天皇は、87年も在位し、143歳(古事記では83歳だそうですが)で天寿を全うされたそうです。 なんと、ご長寿なことでしょう。
2010.11.04
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「新週刊マンガ日本史」が創刊されました。 創刊号は、「ヤマトタケル」。 マンガで見ると、とてもいい男です。 ヤナトタケルは、第12代景行天皇の皇子として生まれました。勇敢で武力に優れていましたが、激しい気性でした。 兄のオオウスノミコトが父の大王に背こうとしたことから、このままではヤマトの国が乱れてしまうと心配し、ついに兄を殺してしまいます。国と父を思ってのことでしたが、景行天皇には、なぜか疎まれ、討伐を口実に都から遠ざけられていました。 クマソタケル兄弟の屋敷に唯一の理解者である伯母のヤマトヒメからもらった衣装で女装して忍び込みます。屋敷は宴会の最中で、クマソタケル兄弟は、女装したヤマトタケルの美しさに敵の武将とは気付きません。宴もたけなわとなった時に、不意打ちし見事討ち取りました。女装できるくらいだったのだから、勇敢な武将のわりには、華奢だったのかな。 クマソのあとはイズモを降伏させ、都に戻ったヤマトタケルでしたが、今度は東国討伐を命じられます。 出発前に伯母であり、伊勢神宮の斎王であるヤマトヒメのもとを訪れると、今度は「草薙の剣(その昔、アマテラスの弟のスサノオがヤマタノオロチを退治した時に、その尾から出てきた剣)」を渡されます。 東国に向かったヤマトタケルは相模国で国造(くにのみやっこ)からだまし討ちにあい、業火に包まれます。その時、草薙の「剣で、火を薙ぎ払い、向かい火(自分のほうに向かってくる火に対して、火打石で反対方向に火をつけ消化させる方法)で逃れます。 相模国を滅ばしたヤマトタケルはさらに東に向かい、走水(はしりみず)の海(浦賀水道あたり?)へたどり着き、対岸の安房を目指します。 が、海を渡る途中で海神の怒りに触れ、大嵐に遭います。その怒りを静めるために、ヤトトヒメから遣わされたオトタチバナ媛が、ヤマトタケルの妻として、海神に身を捧げるため海に身を沈めます。 その後、さらに北上したヤマトタケルは、蝦夷を平定し、都に戻る途中,尾張の国の息吹山で病に倒れます。 病に侵されながらも、ヤマトの都をを目指したヤマトタケルでしたが、三重の熊煩野(のぼの)で、父王の差し向けた刺客にあい、国のまほろば(すぐれたよいところという意味)、ヤマトへの思いを胸に息絶えました。 そして、その魂は白鳥となって、飛び立っていきました。 悲しいお話です。 【漫画】朝日ジュニアシリーズ週刊新マンガ日本史 創刊号 (2010年10月24日・31日号) 朝日新聞...価格:180円(税込、送料別)
2010.10.13
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「心より心に伝ふる花」-観世寿夫ー 1978年(昭和53年)に亡くなられた天才能役者と言われた観世寿夫さんの著書。 世阿弥の解説、能の解説、そして、ご自身の能に対する思いなどが綴られています。 ~身体による表現という演技の方法の上においても能は、一見全く動かないように見えながら、身体全体のあらゆる器官を極限まで追求しなくては演じられないものです。内的な呼吸の問題、それに精神的なものを含めて、全身の知覚をつねにとぎすましていなければ駄目なのです。~ 奥様で、女優であった関弘子さんの後書きを読むと、この本の出筆中に病に冒され、病気との壮絶な戦いのなかで、書かれた本のようでした。 亡くなられたお歳は、53歳。奇しくも、今の私と同じ年です。あまりに早すぎる死でした。 観世寿夫さんが、舞台に立っていらした頃は、私は、まだ10代。能とは関わりのあいの持てる年齢ではありませんでした。 一度だけでも、舞台を拝見することができたら...残念です。
2010.05.17
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