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(12/25のつづき)私が行くところはすべて――大学でも、高校でも、父兄の会でも、主婦の集まりでも――私塾化してしまう。こういう紘道館は全国にいくらあってもいいではないか。 女・紘道館が誕生してから、これなら全国展開も可能と踏んだ。お母さんや子供たちが集まってくる。皮膚の色や思想は問わない。教科書も教室も要らない。人間がいればいい。人は城、人は石垣なのだ。(つづく)
2009年12月26日
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(12/24のつづき)ところがAIUの学生は違う。眼が輝いている。今回のICEEは、私の教え子が5人も参加して、話題をさらった。私は大学の教室を塾化するから、私語問題は生じない。教室は舞台だと信じて教える。 AIUという大学は全国的に広がることはない。しかし、私が率いる「人間力を鍛えるための」紘道館という私塾には、垣根はない。国境もない。だれにも卒業証書は与えない。単位を求める人には来てもらわなくてもいい。だが不思議にたくましい人間が育っていく。(つづく)
2009年12月25日
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(12/23のつづき)「そんなにしゃべりたいのなら授業に出てこずにサボってくれ」。また「そんなに出てきたいのなら、出てきてもいいが、頼むから眠ってくれ」というが、学生たちは眠らず、ボソボソガヤガヤが続くという。 飯田先生は、『日本の反省』というご自身の著書のイントロで、「大学生の私語」のことをトップにあげておられるというから肌が寒くなる。創造性、独創性など期待できないのが今の大学。そして今どきの大学生。大学院生のインフレも続きそうだ。(つづく)
2009年12月24日
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(10/23のつづき)それがアメリカのデゾニエ教授であった。CNNでラリー・キングと衛星インタビューのできる松本教授を追い出したら、この大学のマイナスになるとひとり論陣を張ってくれた。もう一人O君という女子大生も応援してくれたが、結局派閥に負けてしまった。デゾニエは、私の六角ロジックを評価してくれた。そして私はウォーター・パースンと呼んでくれた。「何かぼくにできることはないかミッチー」とその火の男は私に声をかけた。(つづく)
2009年10月24日
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(10/22のつづき)私は火のような人間なので、水のタイプの人間には憧れる。パートナーは必ず水タイプを選ぶ。自らが水になりたいから――あやかりたいからだ。 かつて名古屋外国語大学を辞めるとき、教授会で私がいじめられたことがある。匿名による追い出しを図った教授団(某公立大の派閥)の陰謀だ。怪文書は卑怯だと、私をかばってくれた教授が一人いた。(つづく)
2009年10月23日
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ブログも本調子にもどってきた。書き込まれる恐怖も消えてきた。ちょっとおもしろい書き込みがあった。ブッダの再来をクリックしてくださいという無私の声。すぐに見て感動。私を励ましてくれる隠れたファンがいる。そんな無私の良きサマリア人には、こちらも励ましてあげたくなる。一緒に断食でもしませんかと――お互いに本名で。魚心あれば水心ありとはよくいったもの。(つづく)
2009年10月22日
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(10/14のつづき)ダンゴムシは、談合も好きだ。談合でスタートした金喰い虫の徳山ダムをゼロベースに戻すにも、より強力な談合が必要だ。私は昔からナチュラリスト。ダム建設には反対だ。自然の土壌を破壊する政治的圧力には反対する。愛知県民をダンゴムシと定義すれば、たたけば、丸くなって、退却しそうな感じがする。あのトヨタ王国でも、自民党から民主党に鞍替えした。機を見るに敏。巨大なダンゴムシ王国でも空気に逆らえないとみえる。
2009年10月15日
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(10/13のつづき)こういう雄々しい甲虫たちが、シャイで対外コミュニケーションを苦手とするダンゴムシたちをひっぱってくれれば、土着の愛知県民は必ず復活する--トヨタの城下町のダンゴムシたちが踊り出す。私は土を大切にするダンゴムシやアリが大好きだ。愛知県に棲みついた私は、サムライ・アントで通したい。この伝統的な土地に密着する愛知県は、愛すべき人たちだ。名古屋外大教授時代、女子の卒業生たちはほぼ全員県内にとどまった。この土地で産卵したいのだ。(つづく)
2009年10月14日
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(10/10のつづき)ダンゴムシとはひどいじゃないか、と心に思っていても、面と向って、対抗する人は名古屋にはいない。半ば楽しんでいる。いや深層は面白くない。土の中に本音を隠しているだけだ。そして「なんとか県人」とか、意味不明のハンドルネームで抵抗する。「あのなんとか県人というのは、君のことだろう」というと、ダンゴムシのように丸くなって、姿を消す。少しの間だけだが。(つづく)
2009年10月12日
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スズムシくんたちが歌わなくなった。南知多の「鯱亭」でリンリン啼いていたのに、名古屋へ戻ろうと仕度したときから、ピタリと演奏をやめた。5匹の楽団(クインテッド)がストでも起こしたのか。内海から名古屋までの急行車の中では、茂木健一郎のカラヤン選曲クラシック(世界文化社)をCDで聴いていたから、妬いていたのかな。クラウン・ホテルに入っても、沈黙のまま。Those bell-ring crickets are still giving me the silent treatment.夫婦間のだんまり合戦という情景だ。(つづく)
2009年08月22日
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(8月19日のつづき)時間とは何か。その日、世界文化社の植田編集長と、きものサロン編集部の富岡啓子編集長と夕食をしながら、企画を練った。 時間か時計の連載が始まりそうだ。The Debater誌の企画も再燃し始めた。母の夢を見てから、私の先祖の声が聴こえる。Dream big!(夢はバカでかく)大阪の母は東京の私によく言った。「ミッチャン、テレビ見てるよ。ミッチャン、と手を振ったら、画面からすぐ消えてしまう...」と淋しく語っていた。NHKに出ることしか、親孝行はできなかった。今は、母はいない。また地下のブログに潜るか。
2009年08月20日
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6月15日、母の夢を見た。 あっち、あっちやった、いやこっちや、と指をさすが、方向がはっきりせず、私は怒っている。あっち、こっちやいうてもわからん、と私は怒っている。目が覚めた。なぜあんなに怒ったのか、なぜもっと優しくいえなかったのか。せっかく親孝行ができると思ったのに。そんなセンチメンタルな考えは、夢の世界では通用しない。当時の母に甘えていた自分に戻っていた。目が覚めて、母を背中におんぶして、山を登っている絵を日記に書いた。起きているということは、人を偽善者にさせるのか。(つづく)
2009年08月19日
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一日、独りで浅草をぶらつきながら、人を柵にとじこめるものは何だろうと考えた。マネー、愛、(心の)借り、罪、恥、義理人情 -- そうだ、ディベートは思考という柵(box)から解放することが目的なのだ。思考のプリズン・ブレイク。その日の日記の結論だけは英語で書いた。Debate frees my thoughts, ideas and images and MYSELF. Wolves don't fear death; they fear the fear of fear. 固定は死。これは、私の人生の師、宮本武蔵の言葉ではなかったか。英語も自分と自分自身の力で獲得したものと錯覚している思考の柵から解放させる道なのだ。ナニワ英語道健全なり。
2009年08月17日
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浅草の一日。その日の日記のエッセイのテーマは、プリズン・ブレイク。朝からオバマ企画でFOXインターネット・ニュースをかけっぱなしにする。グーグル・ビデオのMONEYがおもしろかった。おカネとはdebt(借り)なのだ。まるでナニワ金融道。『村松友視からはじまる借金の輪』(角川文庫)を買って、ざーっと読む。古本なので500円。よおし、借りたい方のロジックと貸したくない方のロジックは、ディベート交渉にも使えると思った。まず女・紘道館でやってみようか。チサトがマユカの影響を受けて横浜にも女・紘道館のブランチが欲しいという。
2009年08月17日
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めったに弱音を吐かない母が初めて泣いたときは、男たちは無力になる。こんな強い母が泣くなんて...。母が毎日書いていたボロボロの日記を、こっそりと今読み直した。痛い痛いと書いている。「この子供たちが大人になったら、人の痛みがわかるのに...日記を書いて欲しい」と訴えていた。「一人娘がタバコを吸っている、イヤダイヤダ。男兄弟はだれ一人吸っていないのに...。日記を書いて欲しい」とこっそり訴えていた。痛かったやろ、ごめんな、お母ちゃん。
2009年08月07日
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母親役はmommy things。男がタテガミを立てるときは、単独行動をとる。これがdaddy things。私の亡き父は、こういう一匹狼だった。学歴はなくても裏で日本のトップ企業を動かせた。同じく亡き母も学歴はなく、歯をくいしばって裏方に徹した。オオカミ夫婦であった。母は強かった。逃げなかった。3人の息子と1人の娘を置いて逃げられるわけがない。子供も大きくなると、学歴のない母を小馬鹿にする。ときどき手をかける。母の日記には、骨に響く、痛かったと書いてある。「こんなときにお父ちゃんがいてくれたら」と泣いたと書いてあった。
2009年08月06日
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テレフォン・テストという小説風のエッセイのつづき。 「第二、すぐに日本へ行き、交渉することです。会う相手はミスター・タノガミ。中国にのまれない交渉は、日本の軍国化しかない。第三、これは交渉の取引としてFOXがこっそりお教えします。アメリカにトヨタ町をつくる。デトロイトもトヨタ町とし、自動車産業を救うメサイアにさせると述べる。それでも日本が動かなかったら、広島、長崎の原爆投下で正式に謝罪すること。これは最後の切り札です。あなたのクリティカル・チョイスは、あなたが父か母かのどちらかを選択することです。」とにかく、『オバマの本棚』企画には、私は政治生命を賭けている。
2009年08月05日
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私が女の時代を演出し始めたのは、男の時代を復興させたいがためである。『オバマの本棚』企画で、テレフォン・テストという小説風のエッセイを書いた。(多分、編集からカットされるだろう) 「オバマ大統領、フォックスのハンスキーです。深夜お邪魔します。今午前3時、二人のお嬢さんを起こさないで下さい。ミシェル夫人もお休みになった頃でしょう。彼女らを起こさないで下さい。私とあなたと男同士の話をしたいのです。今、北朝鮮が再び核実験をしました。もうすぐあなたはテレビで全世界に向って演説をします。第一、あなたは、男のタテガミを見せるのです(やるぞ! Bring'em on!)と。第二、...」(つづく)
2009年08月04日
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お母さん方の体罰ディベートでは、圧倒的に肯定側(体罰容認派)が勝った。最近、戸塚宏氏とパートナーの粟谷女史も女・紘道館見学に来られた。彼女は体罰は教育ですと述べられ、その運動も燎原の火のように広がりつつある。空気が変ってきたのだ。私が教授時代、体罰とディベートがタブーとされ、冤罪のまま有罪となった私は、大学を去った。戸塚宏弁護のツケは高くついた。しかし払った。今や、刑務所を出た戸塚氏は、国民的英雄になりつつある。
2009年07月29日
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産卵本能。なにか子孫に私の思いを残したい。それが<道>ではないか。ミチなのだ。そのミチというspiritを守るのがドウなのだ。それが私の場合、武士道、英語道である。ディベートにも「道」がくっついた。相手に勝つのがディベート術なら、自分に克つのがディベート道だ。自我の強いやつほど、転迷開悟すれば人のために働く。俳優がディレクターになりたがり、物書きが編集をやりたがる(とくに私の場合)のも、自我から離れて、何かを産み残したいという産卵本能なのかもしれない。この歳になって、ICEEの普及と舞台づくりに精を出すのも、生物学的な欲求なのかもしれない。私の活動範囲はますます広がりそうだが、鮭が遡上する母川はあくまで紘道館(浜岡塾頭)である。女・紘道館という新たなる母川にも多くの母鮭が遡上してきた。私もウキウキしてきた。日本の将来は明るい。
2009年07月28日
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69歳はまだ60歳台。まだ残心の時代だ。ちょっとくらい表に出たところで、うかれるような私ではない。私の人生は70歳台から始まる。私が人生の途中で倒れても、すぐに私の後に続く英語サムライの育成を急がなければならない。再びICEEに力を入れる気になった。名古屋ではカズ、モモのコンビが有段者の意地をみせてくれた。一匹の中年の鮭が川上に向って遡上し始めた--何をそんなに焦っているのか。本人にもよくわからない。
2009年07月27日
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もうNHK番組の話はやめよう。今の私は、オバマ大統領に90分間の突撃インタビューをするのだという意欲で燃えている。ひとりでもホワイトハウスへ乗り込みたくてウズウズしている。Time and money permitting.だが。『オバマの本棚』のシーズン2があれば、ジョージ・ソロスかスティーヴ・ジョッブズ級の人物の「本棚企画」で対決したい。70歳になる来年こそは、この松本道弘、世界相手で勝負してみたいのだ。
2009年07月24日
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コウモリはvampireとも呼ばれ、吸血鬼でもある。決してイメージはよくない。私はどういうわけか、裏の世界に関心があるほうで、イメージでソンをしている者に対して同情し、すぐに味方してしまう。冤罪じゃないだろうか、と。とにかくテレビなどのスタジオで勝負するエンターテーナーは好きになれない。しかし劇場の芸人は好きなのだ。
2009年07月22日
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「大切なのは瞬間なのです。ビデオ撮りではないのですから」と。そうか、動画では緊張感がないな。それにしても、このカメラマンが気になる。何者だろう。忍者か。目のつけどころが違う。さなぎから蝶にかえり、飛び立とうとしているクリティカル・モーメントで、鳥に狙われているような気がしてならない。いや、顔写真が世に出たから、表の人間にシェイプ・シフトしたわけではない。世間は私の顔を知らない。つまり私はまだ闇の中にいる、蝶じゃなく蛾なのだ。太陽より月が好きな縄文人間なのだ。そうだ、私はコウモリに睨まれている蛾なのだ。その無名のカメラマンのカメラ目線が恐ろしかった。編集長が言う。「あのカメラマンは業界では有名ですよ決定的な瞬間を撮るプロでしてね。先生と同じ武道家ですよ」と。たまたまその日、外国人記者クラブは、古書セールを始めたばかりだった。私が買った一冊の本。『The World of Bats』(コウモリの世界)。このぶ厚い本が300円。その日の日記のテーマができあがっていた。「編集者はコウモリだ」でいこう。
2009年07月21日
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脱稿後、世界文化社が本誌のカバー用に本棚の写真を撮りたいからと、外国人記者クラブの図書館へ私を誘い、プロの写真家を私に引き合わせた。ここまで本格的にオバマの本と私の写真を撮るのだから、また私は脚光を浴びそうだ。編集者は「本棚」シリーズ化を真剣に考えているとみえて、「本棚の松本」というキャッチフレーズ入りの名刺まで考えているという。まさか!この日陰の人間にも、やっと太陽光線が当るのか?パチパチ、ガシャガシャとシャッターがうるさい。なにかまばゆ過ぎる。どうも私の人生ではなさそうな感じがする。父の血なのか。たとえ返り咲いたところで、NHK時代の、引っぱりダコの頃の私には戻りたくはない。表の社会は虚。顔が知られていない今の私が本当の私(the real me)なのに。「先生すみません。もう一度歩いてきて、そのままちょっと止まって、その本(『ルーツ』)を手にして下さい。もっと自然に、もう一度やり直し」。一枚の写真を撮るのに、なぜこんな動作がいるのだろう。表の社会はしんどいのう。
2009年07月20日
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『オバマの本棚』の「あとがき」を書く前にハプニングが起こった。世界文化社の女編集員の一人が、「先生、きのうオバマがハエをたたくところを見たでしょう。すごい。まるで武蔵!」と興奮気味に私に話しかけた。不覚!見ていなかった。この3ヶ月のオバマ企画で、毎日インターネットで英語ニュースを見ながら、原書を読みながら、そして書き続けるという苦業を続け、オバマ情報に関しては、人に負けぬという自負があった。不覚!英語ムサシとして油断することがある。言い訳はきらいだが、昨日は一日中、『オバマの本棚』企画の一環として、DVDで『ルーツ』全巻を見ていたのだ。『マルコムX』を書いたアーサー・ヘイリーの話題の自叙伝だから、オバマも見ているだろうということで、黒人史にどっぷりつかっていたのだ。それにしても、脱稿寸前という気の弛みがあったことは否めない。この本が確実に7月17日に書店に並ぶまでは、残心を怠らぬことにした。
2009年07月17日
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今朝買ったジャパン・タイムズは、Kang Sang Jungがインタビューされている。そう、今話題のクールな論客、韓国人で東大の姜尚中教授だ。今しがた近くの喫茶店でざっと読んだ。彼の本『悩む力』(集英社)は、45万部も売れた。I'm jealous.(laughter) My jealousy isn't the issue here. (laughter) 私は、英語でも笑いをとるのが巧い。私の聞きたいのは、この「悩む力」をどう訳すか?正解は? ネイティヴ英語はthe power of wavering。そう、このwaverは揺れ動くこと。この表紙のフロント・ニュースで、英国のゴードン・ブラウン首相は、「オレは辞めない。この仕事をやり続ける」といった。その英語がこれ。"I will not waver. I will not walk away. I will get on with the job." Waverは「ぐらつく」―― つまりネガティヴ。これがポジティヴに活用すると「ゆるぎ」か。人はwaveに逆らわない人と、抗う人の二派に分かれる。紘道館は今や女・紘道館に傾き(waver to ~)つつある。それは弱さではなく、強さだ。次代の先がけをつくるのはtwitteringの好きな若者たち(young tweets)。そしてその若者を育てるのは母親だ。したがって、日本の母親が日本の将来を変えるのだ。まるでオバマだ。
2009年07月16日
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さて、twitterの語感に移ろう。紘道館の午前中の館長トークでは、道路でちぎりとったつつじの木の枝を見せる。「これは英語で何という」。私の得意なソクラテス対話は、質問から始まる。英語のテストではない。あくまで思考のテストだ。早期英語教育より、早期日本語ディベート教育に目覚めたママさん(子育てしながら学んでいるtough women)たちが目を光らせている。「そうtwig。これをこうねじり合わせることを...そうtwistする。すごいね、君のボキャはすごい。ここの小枝に小鳥が止まって啼く...どんなふうにさえずるの...そうchirping。じゃチッチッは、twit, twit, twit。そうおしゃべりはtwitters。そうこのタイムのカバーのトウィッターというのは、小鳥のさえずりなんだ。」だけど、これが大きくなると、どうなる。この業界の横綱級のグーグルやフェイスブック(三役)が注目するだろうな。この1年でのtwitterの伸び率が、なんと1298%。幕下からもうすぐ十両に入る。まるでモンゴルの力士のように、あっという間に、三役入りするんじゃないか。なぜか。
2009年07月14日
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Biz Stoneが立ち上がった。「おもろいやないか」と。このトウィッターに参加するtweets(トウイートたち)に対し、スター・トレックが野球や自分の女房に対し、いちびるのだ。彼の140字の「いちびり」はこれ。 biz was just in bed half dreaming that I was supposed to do something --- oh, yeah, wake up! (まだベッド。何かせなあかんなと夢の中。せや、起きるこっちゃ)なんやこれ。つぶやき、小鳥のさえずり。これがIT時代の新しい掲示板?辞書を引くと、twitとは、(過失、弱点、欠点などで)<人を>なじる、あざける、やじる、とある。しかし、「バカ」「イライラ」という意味もある。その姿はつかめない。そこで、「いちびる」を用いた。敬愛を込めながらも相手を小馬鹿にする人はa tweetなのだ。テレビの画面でいえないことが、このトウィッターでいえる。2ちゃんねるでハンドル・ネームでベタベタと、無抵抗な相手を批判するのではなく、ピリリと辛辣なコメントを140字で書くのだから、カラッとしている。たとえばジャック・ウエルチ(GE)は、オバマがソトマイヤーを選んだことで、くどくどといじめているメディア(共産党メディアのこと、FOX)がいる。それが気にくわないからトウィットする。「それぐらいでええやないか。彼女は適任やで」と。ネアカの反撃だから、スカーッとする。
2009年07月13日
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このスピード感は柔道からきている。まずTwitterとは何か。140字でペチャペチャしゃべるというメディアだ。新しい形のオープン・カンバーセーションだ。権威に対し否定(これなら2ちゃんねる)するのではなく、いちびるのだから、本質的にネアカ。2006年にトウィッターを始めたEvan Williamsは、"What are you doing?" から始めたという。このきっかけがこわい。これがいつtipping point を動かし、波(wave)をつくるか。それには相棒がいる。将を支える参謀がいる。
2009年07月10日
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最新のTIMEのカバーがTwitter。オバマも始めたというから、注目されている。私もインターネットをスタートするのが遅かった。血液型論議に加わるのも人一倍遅かった。かならず、空気に逆らう。ところがいったん火がつくとメラメラ燃える。あっという間に追いつき追い越す。今や、これまで敬遠してきたブログに関しても、日本ブロガー協会の最高幹部に迎えられようとしている。このブログ界の新参者が???絵日記が効いたのか?
2009年07月09日
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紘道館の例会の前日は緊張する。とくに、英語がさっぱりわからないのですが、お邪魔してもいいでしょうか、という人が増えてくると、緊張する。午前中は全部、英語でやりますが、午後はバイリンガルになります、と説明をしても、私が英語でぶっ通しで喋っていると、見学者に申し訳ない(feel guilty)と思ってしまう。そのとき、英語のわからない人に対してもリラックスさせるのが、私の"芸"の見せどころ。内容とパフォーマンスで勝負する。
2009年07月07日
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私を敬遠し、警戒する人は、私をどこか心の中で神格化しているのか、それとも神格化しようとしている群衆を警戒する人のいずれかだ。だから、私はナニワ気質で、神格化されつつ、私自身をいちびるのだ。このイチビルという関西弁が、標準語で表現できない。権威(東京)にタテつくことができないが、ヨコからチクチク制する言動のことだ。彦根の殿様が天下りされた。ハハーと頭を下げる。しかし、殿が消えたところで、舌をペロリと出す。敬して遠ざける。これなら英訳できる。give Tokyoites a respectful distanceと。
2009年07月06日
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どうしても、box(型)の中に閉じ込めようという日本的思考が、ディベートを敬遠し、派閥抗争に変えてしまう。私は、ディベートの"心"(ソクラテスまで遡る)にまで戻れというから、極めて密教的だ。かといって、私がディベートの心を代表する神だとは思っていない。神格化して欲しくない。私はイエス(キリスト教)でもなければ、モーゼ(ユダヤ教)でもないし、モハメッド(イスラム教)でもない。真実(みち)とは何かを今でも求め続けている一求道者に過ぎない。こわがる必要はない――赤ん坊がそのまま大人になったような人間なのだから。私を恐れる人は、自分を恐れている人だ。紘道館へ遊びに来ればわかる。
2009年07月03日
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オバマの愛読書の一つ『Self-reliance』(自己信頼)の中で著者のエマソンは、「一つの思考は奴隷だ」と述べている。一つのイメージにこだわると、これが宗教化され、いつの間にか戦争になるぞ、と述べたのは、インド哲学の最高峰といわれるJ. クリシュナムルチだ。私のディベート道(その「心」を「形」にしたものがヘクサゴナル・ロジックで、その応用がサッカー・ディベート)である。私のマーケティング法は、密教を「十住心論」により拡げた、空海のそれに似ている。大日如来の「心」にストレートに入るのだ。釈迦の胎内を巡るのだ。空手バカ一代の故大山倍達氏は、日本人は、派閥の中に、術を入れ、その中に道をとじ込めるから、広がらないと、私との対談中(ソニー企画)に語られた。
2009年07月02日
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ディベートはこうあるべきだ、という型(box)の中で、他流派を否定することはあまりにも悲しいことではないか。そういう私的所有されたboxから離れて考えようというのが、私のディベートによる「思考開放論」である。これまでアメリカ型のディベートで育ってきた人は、その域から乗り越えることができず、六角ロジックによるサッカー・ディベート(深く静かに広がりつつある)を否定する。しかし私の人生のメンターの1人である宮本武蔵は『五輪書』の風の巻の中で、他流派を否定するなと述べられた。私は今もそれを守っている。私は私の「道」が「術」派から否定されても、だからといって彼らを否定することはない。道は術を必要とするからだ。
2009年06月30日
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私は、今ディベート道の応用としてのソクラテス対話に凝っている。ディベートはthink outside the box(思考を遊ばせる)ことが目的。思考を解放させること、思考という名の「奴隷」から解放するための手段がディベートである。しかし、ウィキペディアを見ると、日本ではディベートの開拓の1人である私が、六角ディベートを始めた時から、本流から離れたと述べられている。こういう観方がthink inside the boxなのだ。私は本来のディベートの在り方をめぐり、その道をより深く追及し、まさに源泉に戻ろうとしている。
2009年06月29日
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私のナニワ英語道の基本は、尊敬する人にidentify(一体化する)ことだ。なり切る。擬態する。その対象が、宮本武蔵であれ、坂本竜馬であれ、故西山千師匠であれ、カマキリであれ、好きになれば、その対象に身も心も寄せる。私はその姿勢でオバマ大統領になり切ろうとしている。シャーロック・ホームズの帽子をかぶると、自分が少しは利口になったような気がする。オバマの胎内巡りをすると決めたら、オバマ好みの本から音楽から映画(DVD)から、かたっぱしから吸収する。赤ワインを飲みながら二人でデイドリーム対談をする。共通点から入らず、相違点から近づこうとすれば、冷笑者(シニック)になりやすい。
2009年06月26日
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それにしても森光子が観音様に見えるのだ。その観音様が自らの人生をふりかえって「バランスよ」と答えて、走り続ける。黙って従うより他はない。 彼女の人生を支えたのは、ハングリー精神と下積みの長さであったが、実はもう一つ理由がある。それは、『放浪記』の作者林芙美子と、森光子との間に、共通点が多いことだ。だからなり切れたのであろう。人生がだぶる ―― 二人三脚ができる。これはパワーの源泉になる。私がいうのだから間違いない。
2009年06月25日
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森光子の答えは、「バランス」......であった。「ええ、バランス?」「......ようく考えてください」 カタカナ英語だから軽く聞こえるのに何か気になる。私もそのバランスという言葉を噛みしめた。そうだ、ディベート術は、白か黒、勝か敗。しかし<道>と入れたのはバランスではなかったか。ディベートそのものは、バランスだったのだ。私は神、あなたは悪魔と決めつけた口論(アーギュメント)ではバランスを欠く。知だけのディベートではアンバランスになる。情理を入れないとバランスを欠くという考えで始めたサッカー・ディベートもバランス思考だ。
2009年06月23日
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2000回の公演を終えた森光子。41歳でやっと主演(『放浪記』)が回ってきた。もう逃したくない。その意地を89歳になっても持ち続け、今も走り続けている。松本清張も40歳を越えてから、花が咲いた。同じ松本でも私は早過ぎた。反省している。さて、ある人が、森光子に問うた。「どうして、そこまで走り続けるんですか、森さん」と。だれしも興味を持つので、公共性が高く「ある人」とした。私のブログにコメントをくれる人も、返事をするときは、よほど公共性の高い内容のものに限らせて頂いている。さて、森光子の答えは、「バランス」……であった。
2009年06月22日
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名古屋でICEE祭りをやることになった。その発起人が横井・白井二人と他の4,5名。まとまっている。トヨタ不況を彼らICEE祭りがカンフル剤となって活性化してくれるだろうか。幸いこの二人の発起人は大の音楽ファン。音楽を入れることにした。旧弘道館時代の元塾頭で音楽評論家の臼井英夫君を思い出した。音楽に国境はない。ロック、カントリー、ブルース、ジャズ ―― いかようにもクロスオーバーするのだ。言葉の歴史から音楽の歴史に入ってみようか。あの奇才の松岡正剛と、たった一枚の歌詞カードを虫メガネで見て、空気が変った。ICEEも意外な方向に向っていくようだ。
2009年06月19日
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松岡正剛著『多読術』のすごいところは、読書哲学に歴史観があるということだ。音読から黙読に変遷する「間」を見事に埋めてくれる。この辺りは圧巻だ。これで音読派の國弘正雄氏(千田潤一)と速読派の松本道弘との"絆"が生まれた。英語学習ではどちらも大切なのだ。國弘氏と私との間に残っていたミゾがこれで埋まる。音読か黙読か、という國弘・松本対談企画(たちばな出版)が延び延びになっているが、いずれケリをつけなければならないと思う――英語学習者のために。言葉と概念を衝突させると、必ずどちらかが傷つく。もし、言葉を音楽に変えればどうであろうか。
2009年06月18日
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マハリア・ジャクソンの歌うアメイジング・グレイスは、ゴスペル調だ。かなりディープでワイルドだ。オバマの好きなワイルドな世界は、本人が経験していない世界だ。だから、旧約聖書のゴスペルに畏れをいだくのであろう。彼の好きなビリー・ホリデイは、演歌の世界、cryingの世界。しかし、キング牧師やマルコムXは、soul-cry, weepさせる世界だから、ずっとずっとdeeperだ。旧約聖書は夢の世界。メサイアが現われる夢を見ている。預言者とはドリーマーなのだ。黒人に夢想家が多い。解放される夢だ。放浪癖のあるオバマもdreamerで、soulを解放させる旅が好きだ。誇大妄想的といわれるオバマ(その点、私と似ている)は、自らをイエス・キリストと一体化させているのではと思わせる。ある講演の席上で、ビリー・ホリデイは美空ひばりだといったら、会場から、「いや天童よしみだと」反論した人がいた。
2009年06月16日
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遊読と唱えたからには、遊び心が根底になければならない。だから、ゴスペルを聴きながら、歌詞カードも読む。そこに、ゴスペルは旧約聖書、スピリチュアルな新約聖書のようなものとの記述があり、ピーンときた。こういった何気ない発見が、こんなちっぽけな歌詞カードの解説にあった。そこから窓外に目をやり、考える。速読ではない。ちょっとした知的発見があると、活字から目を離し、考え込む。デイドリーミングを始める。
2009年06月15日
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今日も本屋で英語、日本語の本の背表紙を流し読みする。長旅の楽しみに選んだ一冊が、松岡正剛の『多読術』(筑摩書房)だった。気になる知的怪獣。ものすごい勢いで本を読む究極の編集人。しかも、情報が整理されている物書きであって編集人という両棲類。博覧強記の人。造語の達人でもある。食読か...... うーん、なるほどヘンな本を読めば、食読中毒が起こるというわけか。読み方は、かくも多様なのだ。幸い、私の造語である遊読(ludic reading)はなかった。ちょっと違った意味での多読家である私も、「遊読のすすめ」披露したくなった。
2009年06月12日
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執筆先を東京から奥飛騨の合掌苑に変えた。東京から岐阜の山奥へ移るのに、6時間近くもかかった。オバマが気に入っている音楽(フェイス・ブックから)は全部聴く。CDも買い揃えた。カネと時間のかかる企画だ。とくにゴスペルとスピリチュアルが私のリズムにも合う。名古屋でローカル線に乗りかえるまでの数十分、三省堂へ寄る。本棚企画は私のためのような企画だ。オバマと同じで、私は本屋で本を漁るのが大好きなのだ(軍資金はこういう情報のインプットを最優先する)。
2009年06月11日
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ジェームズ・ブラウンのウーウーという野性の叫びは、まるでオオカミのそれ。音霊を研究している私には、こたえられないtrue-blue(生粋の)blues(ブルース)だ。オバマのスピーチにもブルース調のものがあるが、このジェームズ・ブラウンのブルースをこっそり聞いているのではないか。ボディー・ガードの眼を盗んでトイレット・ブレークのときに、こっそり煙草を吸うオバマだから、生粋の黒人ブルースのリズムを心のどこかで求めているはずだ。オバマの英語は、しょっちゅうインターネット・ニュースで聞けるが、じっくり耳を傾けてみると、uh...と間をとっている。ときに、私は聞き耳を立てる。あの「間」に意味があるのだ。
2009年06月09日
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ブログで述べることは別に学説ではないのだから、幅広いビジター(公)を意識して書いている。だから、いただいたコメントも公のものと解釈して、原則として個人的な返事は書かない。あくまで公の友として、感謝の意を込めて、ファンの全ての方を相手に書いている。そして私は、コメントは、いかなるものでも――誠意さえ感じられれば――真剣に何度も読み返し、調査もする。とくに今、オバマの調査をしているところだが、「ジェームズ・ブラウン」というブルースシンガーも調べては、という心温まる忠告を頂いて、やっと探し求めた。今も気に入って聞いている。
2009年06月08日
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大阪人はplay soft to get(わしアホでんねん)と身を低く振舞う。この方が英語の習得に役立つのだ。どう考えても大阪人は「呼」が先だ。 ここで断っておきたい。日本人は東京人と大阪人だけではない。しかもこのブログを読んでいる人に、アメリカ、アフリカ、中近東と、いろいろな訪問者がいる。関西、関東というのは、シンボル化したもので、「呼」か「吸」かという色分けのために、便宜上用いたラベルのようなものだと考えていただければそれでいい。別に学説ではないのだから、幅広いビジター(公)を意識して書いている。
2009年06月05日
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