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幸せというものは目指すものではなく訪れるものだ.と捉えていることにある。.これは奥ゆかしいが、誤りが一つある。.がつがつする必要はないが、望みを持ち続けることは最低限必要なことだ。望みを持たぬことは、質素倹約にして、時に体制側に都合の良い方便であり惑わされてはいけない。.むしろ、それは、自分に対しての裏切りである。...Eili ...
2019年12月30日
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.~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~三日目にガリラヤのカナに婚礼があってイエスの母がそこにいた。イエスの弟子たちも、その婚礼に招かれた。..葡萄酒がなくなったので、母はイエスに言った。「葡萄酒がなくなってしまいました…」.イエスは母に言われた。「…私の時は、まだ来ていません。」.母はしもべたちに言った。「この方が、あなたがたに言いつけることは、何でもしてください。」.イエスは彼らに、「かめに水を一杯入れなさい」といった。さらに、「さあ、くんで料理頭のところに持っていきなさい」と.料理頭はそれを見て、このように感嘆する。「どんな人でも、初めによい葡萄酒を出して、酔いがまわったころに悪いのを出す。」「それだのに、あなたはよい葡萄酒を今まで取っておかれました…」..ヨハネ福音書 第二章~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~.僕はこの一説は読んでいたにせよ、この奇蹟のシチュエーションについては謎が多く、自力で読み解くこともできず、遠く頭を離れていた。それどころか、奇蹟の演出にしてはベタすぎるそれは、今の時代にはそぐわないとさえ感じていた。..しかし、この一説は改めて読みとくと、奥が深いのである。.このくだり、アリョーシャ(※)の捉え方は異なる。まどろみの中で、この朗読を頭に響かせながら、彼は、このシチュエーションをありありと描写してゆくのだ。.そして、今僕自身にもいろいろ思い悩み巡らしていることと照らし合わせると、妙に神秘的な響きを感じる。...キリストが訪れたのは、悲しみの場所ではなく、人間の喜びでありはじめて奇蹟を行って、人間の喜びに、力を貸したのだ….人を愛する者は、 人の喜びをも愛する…. 喜びがなければ、生きてはいけない。.真実で美しいものはすべて 常に寛大さに充ちている….この時のアリョーシャの気づきで重要な点は.救済者であるイエスは、単にその恐ろしい偉業の為だけに、この世界に降りてきたわけではないこと.に気づくことにある。.通常の素朴な人の営みの中にも、その喜びを理解できぬイエスではないことを「そっと」示しているのだ。.ただし、奇蹟をむやみに信じることは、危険だ…その希望のほとんどが無残に引き裂かれている事実をみれば、これらの神話に類する話の多くは、人につかの間の希望をあたえ、そして奪いとり、さらには神への信仰すら奪う結果となるからだ。.謎めいて奥行きがあり、この話の真髄に触れた気がするが、それを振りかざすわけにもいかない物語だ….彼がゾシマ長老から学んだことは、こういうことになる。たった一本の葱を必要としている人に与えてあげること…それがいかに重要なことなのかそれが、愛を波及させることにつながるのだ、ということ。.それに対し、僕が学んだことは、「葡萄酒がなくなってしまいました…」ということを正直に訴えてしまってもよいのだということ。...※)カラマーゾフの兄弟...Eili ...
2019年12月30日
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思索というものはとめどなくうごめくものだけれども、それをすべて摘み取って、言葉に落とすようなことは、しない。.今は、しないように心がけている。それを学んだ。.逆説的だが、以前は真逆…ただそれも、沈黙の時期が訪れて、何も語れない時期が数年は続くのだ。. すべてを摘み取らなければ、その答えは得られないもの….と感じていた。.いわば、使命感に近いものがあった。そしてこのどうしようもない感覚は抜け出せない。.周囲への違和感と、内面と外面で演じなきゃいけない世界観の圧倒的なギャップでも、それは、悲惨では決してない。.以前よりよっぽどうまく生をやりくりできるようになった。それは奇蹟的なことだが、あの下手糞で一本気な頃の自分は、貴重な時期だと感じている。ここには、その痕跡がある。.自分が幸せをかみしめているすぐ横で、悲しみに暮れている人がいる。それは彼らの不行き届きによるものでなく、全くの理不尽で不可抗力的なもの…それに気づいてしまう。.それは大人になること…なる言葉なんかでは、くくれないほどの深みがある。神の意志はどこにあるのかを問いかけたくなる誘惑にかられるし生の意味を問いかけたくなるし慈愛や慈悲といったものの真意を問いかけたくもなる.もう本質的に、無邪気に喜ぶことはできないんだってことだ。.ここまで世界をごまかしなく分析したあと、釈迦の教えに出会うんだ。それは強烈なはずで、ここに反応できない人は、まだ「気づいていない」んだ。.そして、そこからも 離れるべきだと…僕は感じる。あるいは、離れるべき時期が訪れるのではないか…という感じがしている。...宗教的な友人に言いたいことは、彼らがその生を宗教的神髄に触れるがごとく全うしたとして僕の境地とはどの程度かけ離れているか…だ。.人の生を踏みにじって、なお、至福を感じているならば、真逆だ。どこかがおかしいのだ。.でたとえ、そういう体験がなく、<安全に>宗教をやれたとしても何かが足りないのだ。.カルトの間違いを指摘することは、たやすく、賛同も得やすいだろう。。過ちを後悔することも。でもそれだけじゃ意味はない。.しかし、3大宗教の神髄を手放すことができない人たちもいる。何千年にもわたって。そこに安らぎや救いや達観を得た人たちだ。多くいる。.でも、それも、その世界を否定しないとしても、宇宙を包含してはいない。宗教的な次元を超えた宇宙観というものがあり、宗教がそれを包含しているつもりでいて、たどり着いてはいない。.ところで、課題はもっと身近なとるに足らないようなもの…そこまで大きな宇宙観を携えなくとも、生かされている事実.今年はもうすぐ終わる。.普通人は日々の生活に追われながら生きる。酷使された労働者には、一編の詩が必要になることがある。...Eili ...
2019年12月29日
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