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美貌の魂!魂は時に絶叫する!友川カズキ(かずき)■後編■撮影・鈴木真貴氏「友川かずきのうたが胸にしみいるとしたら、君は幸せだと思え。涙があふれたら、君は選ばれた人間だと思え。君にもまだ無償の愛に感応する心が残っていたのだ。無償の愛がまだ人の世に存在すること、それこそが友川が身をもってあがない、あかしてくれたことなのだ。 友川よ、久しく会わないが、元気か。美貌にかげりはないか。酒量は落ちないか。私は君がよき友人たちに恵まれていることを知っている。その数は世の中の人の数よりは少ないが、一人の男が持つ水準をこえることはるかであることを知っている。」(大島渚)「東北の詩人たちは限りなく世の中に拗ねてみせるが、また時にかぎりなく甘えてみせる。友川にはその両方がない。友川はテレ笑いをするということがない。そのことが世の中をとまどわせる。友川のあの大きな目でみつめられ問いかけられたとき人びとがとまどうように世の中はとまどう。そうだ、あれは目というべきものではない。目玉なのである。誰しもがとまどう。ルドンの目玉にとまどうように。」(大島渚)- 篠原勝之 紅テント ポスター -篠原勝之(しのはらかつゆき)は、北海道胆振管内室蘭市出身の芸術家。溶接オブジェを得意としていて、自称「鉄のゲージツ家」と名乗る。愛称は「クマさん」。タレントとしても活動。 <画:友川かずき>また、趣味で描いていた絵が美術評論家に認められ、1985年の個展を皮切りに、全国各地で精力的に個展を開き、中上健次・立松和平・石和鷹・藤沢周ら多くの芸術家たちから惜しみない賛辞を浴びた。「友川かずきの絵画は見者の特権である愉楽と悲惨のなかに見る者を突き落とす。」 (中上健次/作家)「東北の血筋ならばや清澄の水、かずきよイーハトーブの宇宙想いき」 (福島泰樹/歌人) 三上寛・友川かずき『御縁』(PSFV-2/ビデオ)1994年5月7日 日本青年館大ホールボーカル&アコースティック・ギター:友川かずき ボーカル&エレキギター:三上寛 ベース:吉沢元治 ピアノ:明田川荘之 サックス:梅津和時 パーカッション:石塚俊明 ピアノ&アコーディオン:永畑雅人 ワン・アンド・オンリーな2人のライヴ・ビデオ。フリージャズの吉沢元治や頭脳警察の石塚俊明を向こうに回してのインプロ・バトルを繰り広げつつ歌い叫ぶ肉弾戦。流行を超えた、アシッドフォークな70分が収められている。したがってバックは、日本のアシッド・ミュージシャンであるジャズメンが務めるよりない。・「サーカス」…作詩:中原中也/作曲:友川かずき 収録・「私の花」…作詩:永山則夫/作曲:友川かずき 収録<競輪に耽溺する友川かずきの著作>『競輪生活-バンクの風に吹かれて』『友川かずきの競輪ぶっちぎり勝負』秋田生まれのシンガーソングライター友川かずきが作詞作曲した「海のそばで殺された夢」は、ちあきと出逢ってしまった友川に創る必然があった。友川と出逢ったてしまったちあきなおみにはこの歌を選択し、唄う必然があった。そして私には聞く必然があった。それだけである。 これほど心凍らせる唄を私は知らない。 この「海のそばで殺された夢」は賛否両論を巻き起こした「夜へ急ぐ人」のシングルB面として昭和52年9月発売された。歴史的CD-BOX「ちあきなおみ・これくしょん ねえあんた」(2000年6月発売)でCD化されるまで、永く中古レコードのプレミア盤として在った。 「海のそばで殺された夢」 月夜の晩に 夢を見たよ海のそばで 殺された夢その時 僕は 泣いていたよみじかく 青い あの春を黒い波にもまれ もまれてやがて きれいな 海の底へやさしくゆれて むかえておくれ海の藻よ 僕を 殺してくれた人とても穏やかな 顔立ちの人その時 僕は 叫んでやったしがらむ すべてに 「ありがとう」と生まれて このかたこんなに 素直になれた僕は初めてだろうなよかったな よかったなやさしくなれて 生きてるうちに ちあきは、深夜TVで唄う友川を偶然見て、友川に楽曲の依頼をしたという。中島みゆきの書き下ろし「ルージュ」に続くシングル発売であり、ちあきの脱歌謡曲としての方向性を求める真摯な姿勢がうかがえる。人間のナマの声を発することができるアーティスト達の饗宴が見られる。撮影/山木明子氏 幻の傑作「夜を急ぐ人」について、奥崎和仁氏は解説で 「ちあきが初めてこの楽曲を披露した時、担当のテレビディレクターも驚愕し、唖然としたという。ちあき自身が発案したというそのパフォーマンスは、それまでのちあきにはあまり見られなかった感情をあらわにしての歌唱や、髪を振り乱し、全身や顔の表情、手の先まですべてを使い表現する、あまりにも斬新なものだった。曲の中に眠る、主人公の叫び、焦燥感、孤独などをちあき自身がすべて請け負い、自分の内面からすべて吐き出してしまうような、新たなちあきがステージの上にたっていたのだ。しかし、その表現方法にはディレクターも観客も度肝を抜かれてしまったらしい。」と述べている。 この「夜を急ぐ人」は紅白歌合戦で披露されるのだが、その度肝を抜くパフォーマンスは白組司会者に「なんとも気持ちの悪い歌ですね」とコメントされたが、ちあきは舞台袖でしてやったりとばかりに舌を出した。・・・かどうかは知らない。 一方、この「夜を急ぐ人」「海のそばで殺された夢」の楽曲提供に関して友川は 「いつだったか、新宿で、ちあきなおみのライブを聞き、彼女が唄ったジャニスジョプリンの歌、その声の凄まじさに、私はずっと鳥肌がたっていた。あとにもさきにも、そのような経験はなく、ジャニスも私は好きで高校時代からよく聴いていたが、本家にさえ、それは感じたことがなかったのである。どこにも、何ににも、それはまるで例えようのない、声、と言うより他はないのだが、その在りかに少しでも身を近づけようものなら、たちどころに首が吹き飛んでしまう、という、聴く側にもある種の覚悟が要る、声、であった。」と語り、さらに「意志と狂気のある声、その持ち主は、きっと歌手になるずっと前から歌手で、待たれて待たれて、歌に辿り着いたに違いない。」と述べている。撮影/山木明子氏 ちあきは友川の詩曲の採用について『日本の女の狂乱を感じてもらえるとうれしい』と語っているという。またこの頃ある雑誌で『乙女にも娼婦にも変身できる女性、三枚目もやれる歌手として今日まで来た。器用貧乏的な感じで歌ってきたのね。だから逆にちあきなおみには何かがなかった』と語っている。まさに表現者としての自信に満ちた韜晦である。それにしても、『紅とんぼ』で表現される演劇的空間の構成力・表現力の巧みさには舌を巻く。中島みゆきの「夜会」の1年前に「LADY DAY」という一人舞台があるという。ビリー・ホリデーの最後のステージを再現したものという。想像しただけでも身震いする思いである。いまだ切れば血の出る情念フォークを歌いつづけている友川かずき。初期の友川の世界は同じ東北の青森県五所川原出身の三上寛のそれに似たものであった。これは、これこそ「怨歌」である。関西や九州に生まれた地方人と違って、東京にコンプレックスを持っている東北人が歌う逆上したかのような「怨歌」は多くの人間にダサイ暗いとバカにされその滑稽さを嗤われ、頭狂人の地方人に対する優越感を増幅させたが、井戸の底に石を落としても落としても水音が聞こえてこぬ現代、聴こえて来るのは頭狂人のエゴを嗤らう彼らの哄笑か?....?! ◇CAT-O◇更新中!◇楽天フリマ◇出品中!
2011年02月13日
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美貌の魂!魂は時に絶叫する!友川カズキ(かずき)撮影・鈴木真貴氏「友川かずきのうたが胸にしみいるとしたら、君は幸せだと思え。涙があふれたら、君は選ばれた人間だと思え。君にもまだ無償の愛に感応する心が残っていたのだ。無償の愛がまだ人の世に存在すること、それこそが友川が身をもってあがない、あかしてくれたことなのだ。 友川よ、久しく会わないが、元気か。美貌にかげりはないか。酒量は落ちないか。私は君がよき友人たちに恵まれていることを知っている。その数は世の中の人の数よりは少ないが、一人の男が持つ水準をこえることはるかであることを知っている。」(大島渚)「東北の詩人たちは限りなく世の中に拗ねてみせるが、また時にかぎりなく甘えてみせる。友川にはその両方がない。友川はテレ笑いをするということがない。そのことが世の中をとまどわせる。友川のあの大きな目でみつめられ問いかけられたとき人びとがとまどうように世の中はとまどう。そうだ、あれは目というべきものではない。目玉なのである。誰しもがとまどう。ルドンの目玉にとまどうように。」(大島渚)~大島渚監督は友川かずきに映画『戦場のメリークリスマス』への出演を依頼したのですが、あまりにもひどい訛りでボツになったということです。結局その役はご存知のように坂本龍一が努めました。『やっと一枚目(1975)』「 青 春 」作詞・作曲:友川かずきパチンコ店の パチンコ店の前をギターをぶらさげて 明日と一緒に歩いているのはあれは俺じゃないか何というしけた格好して 何という情無い顔をして意気地なし! 意気地なし! おいもっと頑張れよツルハシを ツルハシをもってトラックの荷台で 牛乳呑んでいるのはあれは俺じゃないか何という青白い顔をして 何という陰気な顔をして意気地なし! 意気地なし! おいもっと頑張れよ苦しいのは みんな苦しいんだぜ淋しいのは みんな淋しいんだぜ悲しいのは みんな悲しいんだぜおいもっと頑張れよ川崎の 川崎の四畳半で包丁を朝から 包丁を朝から研いでいるのはあれは俺じゃないか疲れたからって 夢を輪切りにして口惜しいからって 自分を細切れにしてああそれでも ゴキブリ一匹殺せないじゃないか殺せるなら殺してみろ! 殺せるなら殺してみろ!愛ひとつ 淋しさひとつ 空ひとつ 苦しさひとつ悲しさひとつ 雪ダルマひとつ 人生ひとつ 夢ひとつ笹舟ひとつ 勇気ひとつ 八郎潟ひとつ 涙ひとつ 故郷ひとつおじっちゃ ひとつ 東京ひとつ 青春ひとつ☆友川かずきプロフィール☆友川かずきは、フォークシンガーであり、詩人であり、画家であり、競輪解説者兼パチスロ評論家であり、日本のオリジナル・パンカーの最重要人物、また単なる酔っ払いでもある。普段の友川かずき氏は、端正な顔立ちで寺山修司以来の東北訛りが色濃く残りトツトツとしゃべる物静かな人物であるが、ひとたび歌いはじめると、人格がまるごと変わってしまう。酒を飲んでいるためだ。酒を飲まなければ人前で歌えない。友川氏のライブでは、たちまちにしてウィスキー一本が空いてしまう。泥臭さい秋田訛りまるだしでギターをかき鳴らしうたう絶叫はまさに咆哮に近い。それは、すごい迫力で、歌うというよりポエトリー・シャウティングする、「吠える詩人」とでもいうべきもの。やがて歌声はヴィブラードしてゆき、その唱法には彼の情念が渦巻き強烈かつ独特で、その与えるインパクトは他に類がない。絶叫なのに表情は少しも変わらず淡々としていて、友川の美貌には遜色がない。友川の叙情的かつ激情的な唱法は音楽的指向はあまり感じさせないが、圧倒的な<声>の存在感、カ強く鋭角的なギターのカッティング、そして文学性の高い歌詩は、誰にも真似ようのない世界であった。ニューミュージック全盛の時代にはあまりにも衝撃的だった。彼の音楽は正に友川以外の何ものでもない、正にワン&オンリーの世界だ。中原中也『骨』ホラホラ、これが僕の骨だ、 生きてゐた時の苦労にみちた あのけがらはしい肉を破つて、しらじらと雨に洗はれ、 ヌックと出た、骨の尖。 それは光沢もない、 ただいたづらにしらじらと、 雨を吸収する、 風に吹かれる、 幾分空を反映する。 生きてゐた時に、 これが食堂の雑踏の中に、 坐つてゐたこともある、 みつばのおしたしを食つたこともある、 と思へばなんとも可笑《をか》しい。 ホラホラ、これが僕の骨―― 見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。 霊魂はあとに残つて、 また骨の処にやつて来て、 見てゐるのかしら? ふるさと故郷の小川のへりに、 半ばは枯れた草に立つて、 見てゐるのは、――僕?恰度立札ほどの高さに、骨はしらじらととんがつてゐる。 詩集『在りし日の歌』より本名及位典司(のぞきてんじ)。昭和25年(1950年)2月16日、秋田県山本郡八竜村(現在は八竜町)に農業及位清の次男として生まれる。目立ちたがりやの少年で、仲間の注目を集めるために、毛虫を呑んだり自分の小便を舐めたりしたという。中学校時代は歌手・舟木一夫にあこがれる野球少年。勉強嫌いで文学にも無縁だったが、ある日、図書館で中原中也詩集の「骨」を目にして衝撃を受け、自分でも詩作を始める。どことなく太宰の面影を感じさせる彼は文学的指向が強く、中原中也の詩に曲をつけたアルバムも発表している。能代工業高 校建築科に進学。教科書は開かず、文学書の乱読とバスケットの練習に明け暮れた。太宰治と小林秀雄に激しくひかれた。彼の詩は時に文学的で、時に自虐的だ。中原中也『サーカス』幾時代かがありまして茶色い戦争がありました幾時代かがありまして冬は疾風吹きました幾時代かがありまして今夜此処でのひと盛り今夜此処でのひと盛りサーカス小屋は高い梁そこに一つのブランコだ見えるともないブランコだ頭倒(さか)さに手を垂れて汚れた木綿の屋根のもとゆあーん ゆよーん ゆやゆよんそれの近くの白い灯が安値(やす)いリボンと息を吐き観客様はみな鰯咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)とゆあーん ゆよーん ゆやゆよん屋外(やがい)は真ッ暗 暗(くら)の暗(くら)夜は劫々(こうこう)と更けまする落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジアとゆあーん ゆよーん ゆやゆよん 『俺の裡で鳴り止まない詩-中原中也作品集』(1978年)作詩:中原中也 作曲:友川かずき 編曲:J.A.シーザー<曲目> サーカス/臨終/湖上/歸郷/桑名の驛/夏の日の歌/汚れちつまった悲しみに /春の日の夕暮/六月の雨/坊や 戦後日本の代表的な作家であり中也と交流があったことでも知られる大岡昇平を「凄い歌手」と驚嘆させたという。 高校卒業後、日本橋の婦人服卸問屋に就職したが、六ヶ月で退社。秋田訛りがひどく気になり、トイレに隠れて「いらしゃいませ」「ありがとうございました」を練習した。自意識過剰の男が接客に向くはずもなかった。その後、友川かずきと名前を偽って練馬の飯場にもぐり込む。及位という本名を笑われるつらさからだ。現在の芸名、ペンネームは、この時初めて使われた。以後、新聞配達、労務者、旋盤工、喫茶店のボーイ、クラブ歌手と、転々とする。上京後、職を転々とするかたわら、URCレコードでのアルバイトを通し、あがた森魚と知り合い、中津川フォーク・ジャンボリーに参加。その後、故郷に一度帰るも再び上京、そこで恩人・宇崎竜童と出会う。彼の尽力によりシングル「上京の状況」や「生きてるって言ってみろ/人生劇場裏通り」をリリース、これを機に頭脳警察や寺山修二とも親交を深めた。二十歳のころ、行きつけの赤提灯で岡林信康の歌を聴いた。「山谷ブルース」「チューリップのアップリケ」「手紙」.....何かがグサリと胸に突き刺さって涙が出て止まらなかった。友人からギターを譲り受け、それまで作詞した詩作に曲をつけ、歌うようになった。1974年3月「上京の状況」でデビュー。続いて「生きているって言ってみろ」を出すが、ニューミュージック全盛の時代、全く、といっていいほど売れなかった。DVD『ピストル-渋谷アピア・ライヴ 2003』1. ピストル2. サーカス3. 桑名の驛4. あやかしの月5. エリセの目6. 似合った青春7. 訳のわからん気持8. メダカざんまい9. この世を踊れ10. ジャン・ジュネに訊け11. シシャモ12. サトル13. 夏の日の歌14. 死にぞこないの唄15. ワルツ16. また来ん春17. デラシネ(新曲)(ボーナストラック)18. 生きて死ぬという(新曲)友川カズキ(vo, g)、石塚俊明(ds, perc)、永畑雅人(p,mandlin, accordion)3枚目『千羽鶴を口に咬えた日々(1977)』 <飾絵:クマさんこと篠原勝之>『生きてるって言ってみろ』作詞・作曲:友川かずき 編曲:J・A・シーザービッショリ汚れた手拭いを腰に結わえてトボトボと死人でもあるまいによ自分の家の前で立ち止まり覚悟を決めてドアを押す地獄でもあるまいによ 生きてるって言ってみろ! 生きてるって言ってみろ! 生きてるって言ってみろ!淋しさ優しさ苦しさはこの世のせつないメロドラマ屠殺場でもあるまいにヒッピーフーテン乞食の子なげきの喜びいじくって廃人でもあるまいに 生きてるって言ってみろ! 生きてるって言ってみろ! 生きてるって言ってみろ!夢と現実ぶらさげて涙と孤独を相棒にコケシでもあるまいに長髪マンネリいさぎ良さ根っこの太さはどこへやら墓石でもあるまいに 生きてるって言ってみろ! 生きてるって言ってみろ! 生きてるって言ってみろ!オープニングテーマ/生きてるって言ってみろ/殺されたくないなら殺せ 記憶 /どうした /なまはげ /俺のふるさとは犬の中にもある /八竜町の少年達 乱れどんぱん節 /家出少年 /死にぞこないの唄 <編曲:J.A.シーザー >JA(ジュリアス・アーネスト)・シーザー(本名:寺原孝明)1948年宮崎県に生まれ。 ’69年に寺山修司と出会い、彼の主謀する劇団”天井桟敷”に入団。シーザーの音楽は、独学ながら当時のサイケデリックやプログレの要素含んだ中で、複雑なリズムや転調の多用、和楽器を取り入れてエスニックな要素までも引き出し、すでに独自の音楽を完成、寺山修司の世界を音楽面で構築した。’83年、寺山修司の死によって、天井桟敷は解散。劇団”万有引力”を立ち上げる。■後編に続く■
2011年02月13日
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ドミニク・サンダの『初恋(ファースト・ラブ)』DVD発売!ロシアの文豪・ツルゲーネフの「初恋」を“魔性の女”と言われる女優、ドミニク・サンダ主演で映画化。夏を過ごす避暑地で、美しい年上の女性に恋をした少年・アレクサンダー。しかし、アレクサンダーの想いとは裏腹に彼女は彼の心を弄ぶ。 ロベール・ブレッソン 監督作品 『やさしい女 (Une Femme Douce 1969/仏)』「まなざしは 口にされない言葉である」質屋に嫁いできた若い女性の不可解な行動を描いた、ドストエフスキーの短編小説の映画化作品。彼女は、夫の熱愛を受け入れながらも、理由もなく自殺してしまう……。映画をシネマと呼ぶことをブレッソンは否定する。発生の通りにシネマトグラフと呼ぶことに固執し続ける。映画が芝居であることをもブレッソンは拒否する。『抵抗』以来、プロの俳優は基本的には使わない人で、映画に出たことのない新人しか起用しない。そしてそこから密度の濃い崇高な映像の傑作をうみだしてきた孤高の映画作家。ブレッソン初のカラー作品。ドミニク・サンダの映画デビュー作でもある。「やさしい女」の冒頭、キャメラが最初に映し出すのはドアの把手のクローズアップ。ドアの音、靴音、黒い服を着た太った女中の手が把手を掴む後姿、第二のショットはベランダで大きな音をたてて倒れるテーブル。そして第三のショットは空をひらひらと舞う白い布(ストール)。そして次のショットは、路面に横たわる無惨な女の死体。頭部から赤い血が路面に流れ出ている。冒頭からキャメラは部屋からベランダのテーブルに飛び乗り手すりを越えて飛び降りた女の気配のみを忠実に追っていたことがここで初めて判る。一分のすきもない導入部に震える。女の死体が部屋に運び込まれている。窓から投身自殺してしまった妻の屍体を前に過去二年間の二人の夫婦生活をふりかえり、妻の不可解な自殺の原因をつきとめようとする夫.....。その回想がこの映画の全て。一体何が起きたのか?、ブレッソンはすべてを見せず我々の想像力に訴えかける。その演出に一切の虚飾を廃し、ただ在るがまま事象を積み重ねることに終始し、既成概念の「映画」造りを一切拒否したかのように見える。『やさしい女 (Une Femme Douce 1969/仏)』監督 ロベール・ブレッソン 脚本 ロベール・ブレッソン 原作 フョードル・ドストエフスキー 撮影 ギスラン・クロケ 出演 ドミニク・サンダ / ギイ・フライジャン 仏本国でさえも未DVD化。掲載のUSA版VIDEOも廃巻です。しかしながらなんという酷いジャケ!これではまるでアクション映画?!外国の映画ソフトのパッケージ写真のセンスの無さには呆れます。映画の中で彼女が夫を見るまなざしについて、あなたは彼女のすべての感情の前兆となっていると言われるのですが・・・・・、「そうですね、あれは空白でしかありません。映像のフラットさが調和して、演技者の動きを用いないで、というのはそれはしばしば邪魔でしかなから、映像自体の内的な関係によって私が私自身を表現できるのです。私にとって映像とはサインにすぎません。たえずひとつの映像の意味が、それに続くもうひとつの映像の意味を変えていく。私は断絶を追及しているのでなく、映画というものの本質である同時性を追求しているのです。ひとつの映像が、他の映像につながったときに価値が得られるものであれば、それはフラットでなければならないのです。」「まなざしは 口にされない言葉である」「ブレッソンがつくりだす空間というのは、とても奇妙です。ずいぶん不思議なことをさせられました。たとえば、相手役と話をするとき、彼の目でなく左耳の、それもとても厳密に指示された個所を見るようにと言われたことです。それは私にはとても奇妙な体験でした。けれども、そのうちに少しずつ、ブレッソンが私の表面上のあらゆる反応をできるかぎりとり去って、私の内部からにじみでてくるものをみつけたいのだということがわかってきたのです。」ヒロイン、ドミニク・サンダは当時16才のファッション・モデルで、非・女優(ノンアクトレス)志向のブレッソンの目にとまり出演した。ドミニク・サンダにとっても、今でも自分の出演した一番好きな映画としてこの「やさしい女」をあげている。「やさしい女」と同じくドストエフスキー原作の「白夜」の主演女優イザベル・ヴェンガルテンはドミニクサンダと同じモデル出身で二人はとても良く似ている。■ROBERT BRESSON ロベール・ブレッソン■映画史に屹立する孤高の映画作家ロベール・ブレッソン。音とイメージが作り出す芸術・シネマトグラフ。その後継者として、生涯13本の長編作品を残したロベール・ブレッソン。映画の文法を破棄し映画を解体していながらも、その独特の手とまなざしと物の映画は、文学でも演劇でも絵画でもない「裸の映画」とでもいうような純粋なまでの映画世界に到達していた。『スリ(1959年)Pickpocket』1907年9月25日、フランスのブロモン・ラ・モト生まれ。美術学校で絵画を学び画家を目指していたが、20代後半より映画に携わり、シナリオなどを手がけるようになる。1934年には中篇映画「Les Affaires publiques」を発表。その後、第二次世界大戦に従軍し、1940年から一年半ほどドイツ軍の捕虜となり、収容所生活を送る。その時に知り合った司教の依頼で、1943年に修道院を舞台にした初の長編映画「罪の天使たち」を発表。フランス・シネマ大賞を獲得し注目される。1945年には「ブローニュの森の貴婦人たち」を撮った。1949年にはジャン・コクトーらとともに、後の“カイエ・デュ・シネマ”の母体とも言うべき組織“オブジェクティフ49”を創設。真実の映画を追究する自らの作風を“シネマトグラフ”と名付けた。その演出に一切の虚飾を廃し、ただ在るがまま事象を積み重ねることに終始し、既成概念の「映画」造りを一切拒否したかのように見える。しかし、ブレッソンに於いては外的な事柄よりも内的な部分、つまり語られる部分より語られない空白の部分が重要なのである。『バルタザールどこへ行く(1966年)Au hasard Barthazar』1950年には「田舎司祭の日記」を発表。ヴェネチア映画祭で監督賞を受賞する。以後、カンヌ映画祭で監督賞を受賞した「抵抗」、「スリ」、「ジャンヌ・ダルク裁判」、「バルタザールどこへ行く」でその演出スタイルを確立し、遺作となった「ラルジャン」(トルストイ原作)など、傑作を遺した。一切の抑揚や叙情性を排し、フォルムを重視することで映画本来の魅力を引き出す独特のスタイルは、ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちから絶大な支持を得ていたという。”ブレッソニアン”!映画作家ロベール・ブレッソンの信奉者、影響を受けた人をフランスではこう呼ぶという。1999年12月18日ウール・エ・ロワール県の自宅で老衰の為亡くなった。享年92歳。◇ロベール・ブレッソン監督作品リスト◇公共問題(1934年)Les Affairs pubilique罪の天使たち(1943年)Les Anges du pecheブーローニュの森の貴婦人たち(1945年)Les Dames du bois de Boulogne田舎司祭の日記(1951年)Journal d'un cure de campagne抵抗-死刑囚の日記より(1956年)Un condamne a mort s'est echappeスリ(1959年)Pickpocketジャンヌ・ダルク裁判(1962年)Proces de Jeanne d'arcバルタザールどこへ行く(1966年)Au hasard Barthazar少女ムシェット(1967年)Mouchetteやさしい女(1969年)Une femme douce白夜(1971年)Quatre nuits d'un reveur湖のランスロ(1974年)Lancelot du Lacたぶん悪魔が(1977年)Le Daiable probablementラルジャン(1983年)L'argent「映画は撮影された演劇ではないのだ」ロベール・ブレッソン俳優はなし。(俳優指導はなし).役割はなし。(役割の研究はなし).演出はなし。だが生活のなかでとらえたモデルの使用はある。見えること(俳優)のかわりに在ること(モデル).~ブレッソンの著作『シネマトグラフ覚書』(筑摩書房)から。 映画をシネマと呼ぶことをブレッソンは否定する。発生の通りにシネマトグラフと呼ぶことに固執し続ける。映画が芝居であることをもブレッソンは拒否する。『抵抗』以来、プロの俳優は基本的には使わない人で、映画に出たことのない新人しか起用しない。そしてそこから密度の濃い崇高な映像の傑作をうみだしてきた孤高の映画作家。「私は物の映画と魂の映画をつくるつもりです。ですからひとは本質的に手とまなざしを見るでしょう。私は物のクロウス・アップとまなざしのクロウス・アップのあいだに、不変の平衡をもとめます。私はできるだけ現実につきまとい、なにもあたらしくそれにくわえないつもりです。しかし生活の現実と映画の現実のあいだには、一致したズレがあるでしょう。・・・私は「田舎司祭の日記」の方向にむかって仕事をしています。だがもっと大きな純粋さに、もっと大きな皮剥ぎに到達したいと思います。こんどは一人の職業俳優も使いません。そのほうが私はずっと自由です。」(1956年トリュフォーのインタビュー)◇ブレッソンの著作『シネマトグラフ覚書』(筑摩書房)から。◇取るに足らぬ(意味を欠いた)映像の数々に専心すること。雑音が音楽と化さねばならぬ。感情が事件を導くべきだ。その逆ではなく。観念に似た形式(フォルム)。それを真の観念とみなすこと。互い同士の内的な結合をあらかじめ見越している映像たち。運動するものの光景は人を幸福にする―馬、運動選手、鳥。或る芸術が人を強くうつのは、その純粋なフォルムにおいてである。魚を得るために池を干上がらせること。そのゆるやかさと静けさが映画館内のゆるやかさや静けさと混同されてしまうような映画は駄目な映画である。「芸術映画」という内容空疎な観念。芸術映画というのは、芸術をもっとも欠いている代物のことだ。何一つ変更を加えず、かつすべてが違ったものとなるように。*後編は前のページ8/20付け日記に続いております
2011年01月16日
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「二十四の瞳」「浮雲」など数々の名作に主演し、戦後を代表する女優の高峰秀子(たかみね・ひでこ、本名・松山秀子=まつやま・ひでこ)さんが、12月28日午前5時28分、肺がんのため亡くなった。 86歳だった。近親者で密葬を行った。喪主は夫で映画監督の松山善三(まつやま・ぜんぞう)氏。 北海道函館市生まれ。戦前から子役として活躍し、山本嘉次郎監督の「綴方(つづりかた)教室」などに出演。戦後は、1950年代から60年代にかけて、木下恵介、成瀬巳喜男両監督の作品に相次いで主演。「カルメン故郷に帰る」「喜びも悲しみも幾歳月」「流れる」などで、名女優の地位を確立した。79年の「衝動殺人息子よ」まで、数多くの映画に出演。映画以外でも多才ぶりを発揮し、76年の「わたしの渡世日記」で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。 2005/05/30 に発表した『 ALL ABOUT MY 高峰秀子第一夜!』の再録です。第二夜は未完でした。残念でした。 ALL ABOUT MY 高峰秀子、第一夜 。o○松山善三監督作品『名もなく貧しく美しく』『六條ゆきやま紬』 ◇大女優 高峰秀子◇日本映画史上最高の演技派女優・高峰秀子は1924年3月27日、函館市に生まれた。母の死によって叔母の養女になり上京。1929(昭和4)年、5歳のとき松竹蒲田・川田芳子主演『母』の子役に応募。60人のなかから選び出されてデビュー 。以来、400本以上(!)の作品に出演。名子役の名をほしいままにする。名子役は大成しない、というジンクスを覆し、子役、少女役、成人役と、トップスターであり続けたのは、世界でも例をみない。戦後は木下恵介の『女の園』『二十四の瞳』『喜びも悲しみも幾歳月』成瀬己喜男の『あらくれ』『放浪記』『浮雲』など、両名匠の作品に次々に主演。彼女を起用した監督も凄い。木下恵介、松山善三、成瀬巳喜男、小津安二郎、五所平之助、豊田四郎、稲垣浩、野村芳太郎ら時代を代表する名監督の作品に主演を果たし、演じた役も様々で、初々しい新任先生、ノイローゼの女学生、未亡人、聾唖の母、 はては頭の弱いストリッパーまで、演技の幅は実に多彩。卓越した表現力でその役すべてに存在感を与え、多くの傑作に名を残している。不世出の大女優 高峰秀子の軌跡を辿ると、二十世紀最大の大衆文化であった日本映画の黄金期がみえてきます。 ALL ABOUT MY 高峰秀子(MOTHER)『名もなく貧しく美しく』(1961)毎日映画コンクール女優主演賞受賞■監督/脚本 松山善三 撮影 玉井正夫 音楽 林光■出演 小林桂樹 高峰秀子 原泉 草笛光子 沼田曜一 藤原釜足 加山雄三聾学校の同窓会の催しで出会った秋子と道夫は、交際を経て結婚することとなる。聾唖者同士の結婚で、果たして健全な子供が生まれるか、という不安をよそにやがて生まれる子供は元気な赤ん坊で、二人の静かな生活には灯がともった様に明るくなっていく。しかし、耳が聴こえないがためにその子は命を落とすことになり、二人の生活は再び闇の中に迷い込む。しばらくして生まれた第二子を一郎と名付け、彼はすくすくと成長していく。健常者ではない両親を一郎は成長するにつれ疎んじるようになるのだが・・・。戦後、手話通訳もない、何の情報もない時代に差別や偏見の中で生きる聾唖者の夫婦が、終戦前後から戦後の混乱期と苦難の時代に、貧しいながらも、お互いを支えつつ強い夫婦愛で生き抜いた感動の物語。有楽町の街頭で出会った、靴磨きの聾唖者夫婦。彼らの愛情に充ちた姿に強くうたれて筆をとった松山善三が、丹精こめた脚本で、自ら演出した第一回監督作品。松山善三が、恩師の木下恵介のために書き下ろした脚本だったらしいが、木下と意見が合わずに、みずから監督をして作った名作!夫婦二人の会話はすべて手話で、観客にはスーパーを付けるという画期的、文学的手法をとった。(妻・秋子は聾だが、秋子が聾ゆえにうまく発音(発声)できなくたどたどしい日本語を話す。また、この映画では、字幕の台詞を観客が読む時間と合わせる為ゆっくり手話をしています。)高峰、小林が稀有の名演で向きあう手話場面には、電車の轟音、電車車両の窓といった映像を配した演出が素晴らしく、手話を、最も衝撃的に世間の人々にアッピールした作品でもある。二人の手話による演技、林光の音楽が二人の心を通い合うようで素晴らしく美しく、涙を抑えることができない作品です。決して「泣かせ」が先にありき、なのではなく、小林桂樹、高峰秀子演ずるろう夫婦の必死な生き方が、それだけで強く胸を打つ。この作品以降、読唇術から手話への切り替えが進んだそうで、小林さんが街で肩を叩かれて振り向くと、「あなたを映画で見ました」と手話で話しかけてくる聾唖の方が沢山いたそうです。冒頭と最後に登場する影絵による手話がストレートにテーマを訴えかけてくる。タイトルは昨今の韓流純愛ドラマみたいだが、ちょいと役者の桁が百万桁は違うのココロ!今観ても決して色褪せない、むしろ今観ることにこそ、大きな価値のある映画です。 この先も時を経るほど、この作品の価値は重みを増すにちがいない! この映画を愛してやまない!この映画にはラストシーンの全く異なる、正反対の2つのバージョンがあって、秋子の死に終わるヴァージョンはアメリカでは養子とにこやかに抱き合うというシーンに改変させられている。松山さんはハンディキャップを持っている人の映画を多く撮ってきたが、その原点は病に苦しんだ母の姿だという。サリドマイド児を描いた「典子は、今」、ポリオをテーマとした「われ一粒の麦なれど」、老人介護を描いた「一本の手」などの作品もある。■「一本の鉛筆」(松山善三:詩/佐藤勝:曲)■あなたに聞いてもらいたい あなたに読んでもらいたいあなたに歌ってもらいたい あなたに信じてもらいたい一本の鉛筆があれば 私はあなたへの愛をかく一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと書くあなたに夢をおくりたい あなたに愛をおくりたいあなたに春をおくりたい あなたに世界をおくいたい一枚のザラ紙があれば 私は子供が欲しいとかく一枚のザラ紙があれば あなたをかえしてと私は書く一本の鉛筆があれば 八月六日の朝と書く一本の鉛筆があれば 人間のいのちと私は書く◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇-◇知られざる傑作!『六條ゆきやま紬』1965年(S40)/東京映画/白黒/106分■製作:佐藤一郎、椎野英之/監督・脚本:松山善三/美術:小島基司/音楽:佐藤勝/撮影・岡崎宏三■出演:高峰秀子、小林桂樹、毛利菊枝、フランキー堺、神山繁 黒い海が荒れ狂う日本海の貧しい漁村。砂塵に吹きつけられ、よろめくように一軒の家に入ったいねは、“ハハキトク"の電報を握りしめていた。出て来た母は「いね、あげな家には帰るな!」と激しくいねをひきとめた。夫・松山善三監督作品『六條ゆきやま紬』一般的には林芙美子の同名小説を映画化した成瀬巳喜男の「浮雲」が、、高峰秀子の代表作であり、世界の映画史に燦然と輝く名作中の名作と言われていますが、その「浮雲」の完成度には及ばないものの、高峰秀子の演技力に目を見張るこの作品は、高峰秀子の存在感と美しさが圧倒的に作品を支配している隠れた名品です。六條家は、ゆきやま紬に二百年の伝統をもち、六條天皇の血を引く一族で、平家の落人からゆきやま紬の織り方を受けつぎ、今まで来た由緒ある格式を誇る家柄であった。昭和に入り六條家の当主であった九代目久右衛門は、周囲の反対を押し切って、土地の温泉芸者いねと結婚したのだった。だが久右衛門は、戦後の化繊時代に追われ、不況のどん底で自殺をとげた。「綺麗なだけではない雪の表現。白のトーンを四段階に分けた」という岡崎宏三キャメラマン人生の1本。シネスコでロングの構図で岡崎宏三は見事に雪深い土地の閉塞した空気を表した。白と黒のディテールとコントラストに徹底してこだわった岡崎はこの作品と「波影」で数々の撮影賞に輝いた。当初から結婚に反対されて嫁となったいねは、夫の死後、姑の美乃をはじめとする親類一族の中傷を一身に集めたが、いねは夫の遺志をついで“ゆきやま紬"一すじに奔走した。いねの片腕として、陰にひなたに、いねをかばう治郎は、亡夫が拾い育てた孤児であったがその治郎に対しても、周囲の目はいねと結びつけずにはいなかった。だが中傷の中で、固く結ばれた二人の努力は、無形文化財ゆきやま紬を作りあげた。いねはこれを機に六條家を去る決心を固めた。治郎を秘かに慕う職場の娘乃理子は、いねと治郎の噂に悩んだ末、雪の中で、自らの命を断った。六條家の二百年忌法要の日、いねは、六條家の宴席に自分の場所がないことを知り、心がふさいだ。そのいねに追いうちをかけるように、姑美乃から、唄を強要されたいねは涙ながらに“おけさ"を歌う。このシーンの高嶺秀子の演技はとてつもなく素晴らしい。姑からの手酷い仕打ちに耐え続けた女がラスト近くの法事で自分で酌をして、まわりから嘲笑と共に求められたにもかかわらず、爆発した思いで「おけさ」を歌う様はちと震えた。高峰秀子、会心の名演と観た!毛利菊枝の凄まじい姑も凄いぞ!治郎といねの二人は屋敷を出た。だが、治郎は、このままいねとゆくと、噂に敗けたことになると言いながら、雪のホームに飛び降りた。いねを乗せた汽車が、雪の平野に消えていった。名著!『わたしの渡世日記 上・下』(文春文庫・日本エッセイスト・クラブ賞受賞)「人間嫌い」「骨の髄までニヒリスト」 映画と対話するために.....。!U^ェ^U
2011年01月01日
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浅香薫子クリスマ・イブ ディナーショーPf 人見由以日時12月24日(金)17:30開場/18:00~19:00ディナータイム(イタリアンビュッフェ)/19:00開演場所レストラン イル・カンタジロー(宇都宮市上戸祭町3007-22〈日光街道から宮環に入り、宇都宮北道路入口を過ぎてすぐ。カワチ薬品前)料金大人7000円/子供(小学生以下)5000円お問い合わせイル・カンタジロー 電話028-622-1144
2010年11月10日
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アンジェイ・ワイダ DVD-BOX (『世代』『地下水道』『灰とダイヤモンド』の3作品を収録!)!発売予定日は2010年12月22日です。2005年8月25・26日に発表したものの再録です。アンジェイ・ワイダ 監督作品 『灰とダイヤモンド(1958年 ポーランド)』松明のごとくわれの身より火花の飛び散るときわれ知らずや、わが身を焦がしつつ自由の身となれるをもてるものは失わるべきさだめにあるを残るはただ灰と、嵐のごとく深淵におちゆく混迷のみなるを 永遠の勝利の暁に、灰の底深く 燦然たるダイヤモンドの残らんことをチプリアン・カミユ・ノルヴィッド「舞台裏にて」マチェクとクリスチーナが雨宿りのために飛び込んだ教会の墓碑名に刻まれていた弔詩。2虫ケラのように弾丸を浴び、真っ白なシーツに血が滲んで、自分の血の臭いを嗅ぐ・・・ラスト、路傍の巨大なゴミ捨て場の中で、喘ぎながら息絶えるマチェク。ゴミ捨て場で胎児のように身体をまるめての壮絶な悶死……。その克明に描かれるマチェクの空しい死に様は、崇高な悲劇のようであり、観る者を絶句させずにはおかないほどの鮮烈な記憶を残した。光と影のコントラストが鮮やかで、フレームのすみずみまで配慮のいきとどいたモノクロームのスタンダード画面美しく映える。祖国ポーランドへの愛国心に燃えて生きた若者たちの魂に捧げられた金字塔的傑作!<Andrzej Wajda> 「私が何故この二本の映画(『地下水道』『灰とダイヤモンド』)を作り、何故これらの作品が私の最初の映画でなければならなかったのか……という質問を、私自身にも発しているのですよ。(中略)私はワルシャワ蜂起に参加しませんでした。戦後、私はクラクフの美術学校に入学しましたが、そこでの人々は、戦争体験はなく、美術に熱中していました。一方で、私と同じ世代のある人々は、戦争という状況を生き、戦争という悪を見、恐怖の中で苦しみました。私は何も体験していません。そこで私は、何とかして償いをしようと決心しました。私は、私のかたわらを通り過ぎて行った戦争という歴史的事件の体験を、他の人々と共有出来ないことで深く恥じ入っていたのです。私は映画で戦争を追体験することにより、私の個人史の中での空白のページを埋めようと考えました」(アンジェイ・ワイダ)「彼(マチェク)は、例えそれが苦渋に満ちた決断であろうとも、武器を捨てるよりは殺人を選ぶのだ。自分自身を、そして人目につかぬよう隠し持たれた必殺必中のピストルだけを頼りにした世代に典型的な振る舞いだ。私は彼らのような不撓不屈の若者達を愛する。彼らを理解する。私のささやかな映画は、彼らの世代(私もそこに属する)が生きた複雑で困難な世界を、観客の前に開示しようとするものである」(アンジェイ・ワイダ、1958年)1926年3月6日、ポーランド北東部のスワルキに生まれたワイダ氏は、13歳でドイツ軍の祖国侵略にあい、16歳のころから反ナチズム抵抗運動に参加した。解放後はクラフクの美術アカデミーで絵画を学び、ウッジの国立映画大学で演出を学んだ。ワイダ監督をはじめ、アンジェイ・ムンク、ロマン・ポランスキーら、世界的な映画作家を次々と輩出してきた。1954年卒業後、『世代』、『地下水道』、『灰とダイヤモンド』の抵抗3部作とよばれる連作で、戦中戦後の祖国同胞の悲惨な体験に題材をとり、戦うこと、生きることが人間をどのように動かしてゆくかを鮮烈な映像に刻み、世界的な反響をよんだ。これらをリアリズム系列とよぶならば、ワイダ氏はまたロマンティシズムの系列とよぶべき作品があって、『夜の終わりに』、『白樺の林』、『ヴィルコの娘たち』などで青春の傷みや安らぎをうたった。さらにまた、『灰』、『天国の門』、『約束の土地』、『ダントン』等では、時代をさかのぼって人間の欲望と挫折を描いた。以後は文学の映画化や虚空の世界を描くようになるが、81年の戒厳令で映画人協会会長の座を追われ、祖国での映画製作ができなくなり、フランスやドイツの協力で作品を撮りつつ、86年の「愛の記録」でポーランド映画界に復活した。一方、59年から始めた舞台演出も、映画監督と同等の比重を占めている。日本でも、88年にドストエフスキーの『白痴』を舞台化した「ナスターシャ」を坂東玉三郎主演で、90年秋にはクラクフ・スターリー劇場の「ハムレット」が上演されている。87年に京都稲盛財団の第3回京都賞を受賞したワイダ監督は、ポーランドの若者たちに芸術的な刺激を与えたいと賞金4500万円を全額基金にして、クラクフに眠る約一万点の日本美術品の展示場をつくることを提案。その熱い思いに打たれて、日本でも募金に13万人以上が参加し、94年11月、クラクフ日本美術技術センターが完成した。京都賞の他にも世界の多くの賞を受けている。95年日本政府より勲三等旭日中綬章、96年、高松宮殿下記念世界文化賞。98年には、ヴェネチア国際映画祭金獅子賞(名誉賞)を受賞。2000年のアメリカ・アカデミー賞特別名誉賞の受賞は記憶に新しい。【フィルモグラフィー】 1954年 「世代」 1957年 「地下水道」(カンヌ国際映画祭審査員特別賞) 1958年 「灰とダイヤモンド」(ヴェネチア国際映画祭国際批評家連盟賞) 1959年 「ロトナ」 1961年 「夜の終りに」「サムソン」 1962年 「シベリアのマクベス夫人」「二十歳の恋」 1965年 「灰」 1967年 「天国への門」 1968年 「部品の寄せ集め」 1969年 「すべて売り物」「蝿取り紙」 1970年 「戦いのあとの風景」「白樺の林」(モスクワ国際映画祭金メダル賞) 1972年 「ピラトと他の人たち」 1973年 「婚礼」 1975年 「約束の土地」(モスクワ国際映画祭金賞) 1976年 「境なす影」 1977年 「大理石の男」(カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞を受賞) 1978年 「麻酔なし」 1979年 「ヴィルコの娘たち」 1980年 「ザ・コンダクター」 1981年 「鉄の男」(カンヌ国際映画祭パルム・ドール) 1982年 「ダントン」(ルイ・デリュク賞、セザール賞監督賞) 1983年 「ドイツの恋」 1986年 「愛の記録」 1987年 「悪霊」 1990年 「コルチャック先生」 1992年 「鷲の指輪」 1994年 「ナスターシャ」 1995年 「聖週間」(ベルリン国際映画祭銀熊賞) 1996年 「ミス・ノーボディ」 1999年 「パン・タデウシュ物語」<Zbigniew Cybulski> 1927/11/03 - 1967/01/08マチェクを演じたチブルスキーは、1967年、四十歳の若さで早逝。ワルシャワ行きの列車に飛び乗ろうとして、ホームとの間にはさまれた末の轢死であった。■ 愛する(1964) ■ 二十歳の恋(1962) ■ 夜の終りに(1961)■ 夜行列車(1959)■ 灰とダイヤモンド(1957)■ 世代(1954) 後編であります。 映画に愛されるために.....。!U^ェ^U
2010年10月19日
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アンジェイ・ワイダ DVD-BOX (『世代』『地下水道』『灰とダイヤモンド』の3作品を収録!)!発売予定日は2010年12月22日です。2005年8月25・26日に発表したものの再録です。アンジェイ・ワイダ 監督作品 『灰とダイヤモンド(1958年 ポーランド)』松明のごとくわれの身より火花の飛び散るときわれ知らずや、わが身を焦がしつつ自由の身となれるをもてるものは失わるべきさだめにあるを残るはただ灰と、嵐のごとく深淵におちゆく混迷のみなるを 永遠の勝利の暁に、灰の底深く 燦然たるダイヤモンドの残らんことをチプリアン・カミユ・ノルヴィッド「舞台裏にて」マチェクとクリスチーナが雨宿りのために飛び込んだ教会の墓碑名に刻まれていた弔詩。2虫ケラのように弾丸を浴び、真っ白なシーツに血が滲んで、自分の血の臭いを嗅ぐ・・・ラスト、路傍の巨大なゴミ捨て場の中で、喘ぎながら息絶えるマチェク。ゴミ捨て場で胎児のように身体をまるめての壮絶な悶死……。その克明に描かれるマチェクの空しい死に様は、崇高な悲劇のようであり、観る者を絶句させずにはおかないほどの鮮烈な記憶を残した。フレームのすみずみまで配慮のいきとどいたモノクロームのスタンダード画面が美しく映え、光と影のコントラストが実に鮮やか!祖国ポーランドへの愛国心に燃えて生きた若者たちの魂に捧げられた金字塔的傑作!「灰とダイヤモンド」のテーマ曲、オギンスキの「ポロネーズ」の物哀しい旋律が私の頭を駆け巡る。 アンジェイ・ワイダ 監督作品 『灰とダイヤモンド(1958年 ポーランド)』監督・脚本:アンジェイ・ワイダ原作・脚本:イエジー・アンジェイエフスキ出演:ズビグニェフ・チブルスキ、エヴァ・クジジェフスカイエジー・アンジェイエフスキーの同名小説を彼自身とアンジェイ・ワイダが共同で脚色し映画化。二十八歳で監督デビューし、三十歳で映画史上に残る名作「灰とダイヤモンド」をものした。青年の孤独な生と死を通して、戦後ポーランドが辿った過酷な運命を描いた、アンジェイ・ワイダによる戦争3部作の一作。ベネチア映画祭国際批評家連盟賞受賞。1950~70年代にかけ、その社会性と芸術性の高さで欧州映画の中でも異彩を放っていたポーランド映画の傑作群の中でももっとも忘れがたい作品。フランスのヌーヴェルヴァーグ勢同様、世界の映画界に強烈な新風を吹き込んだポーランド映画。アンジェイ・ワイダ、イエジー・カワレロヴィッチ、アンジェイ・ムンク、ロマン・ポランスキーらが著名だが、その中でも、祖国ポーランドにとどまり、徹底してポーランド社会にこだわった作品を産み出し続けた監督が、アンジェイ・ワイダである。アンジェイ・ワイダ 監督はこの映画を彼が青春時代を過ごした「戦争時代を後世に語り継ぐ事」であり、「生き残ったものが死者に対して送るレクイェムであり、責務でもある。」とも語っている。主人公のマチェクを演じたズビグニェフ・チブルスキー!その黒い眼鏡に細いズボンは一世を風靡し「東欧のジェームス・ディーン」と呼ばれた!舞台は、1945年。終戦直後の焦土と化したポーランドのとある町。ナチス・ドイツが撤退した直後のポーランド。まだソ連系共産党の支配を受けていない混沌とした時期である。大戦中は対ナチスレジスタンス運動をしていた主人公マチェク(ズビグニェフ・チブルスキー)は、ワルシャワ蜂起で多くの仲間を失っていた。マチェクは、祖国の自主独立を目指し、ソ連傀儡政府に抵抗する組織の活動員として、政府側の要人シチュカの暗殺という任務を遂行しようとしていた。その一日の午後から次の朝までの時間....一気に語られる悲劇的な愛と暴力の物語。第2次世界大戦末期、右派主導のワルシャワ武装蜂起は失敗に終わった。その挫折感からサングラスをはずさないマチェックは戦後、反共テロの殺し屋に身を持ち崩していた。ところがマチェックは、かつての同志でソ連系共産党地区委員長(労働者党書記)シチュウカの暗殺を実行するが、誤って別の男2人を殺してしまう。マチェックの属する地下組織はさらにシチュウカの暗殺指令を発する。党書記が泊まるホテルの隣室を借り、機会を窺うマチェクは、ホテルのウェイトレスのクリスティナ(エバ・クジジェフスカ)と恋におち、あわただしく、思いもかけない情事をもつ。マチェクははじめて、生まれ変わり、暗殺指令を放棄しようとまで思う愛を発見する。 「生き方を変えたい。今から普通に生きたい。今わかったことが昨日わかっていたら..... 人殺しはもういやだ。生きたいんだ。」マチェクは、クリスティナと夜の町を彷徨います。地下墓地の入り口で雨宿りをする。クリスチーナが木版に彫られた詩を読みあげます。「先が読めないわ」「‐永遠の勝利のあかつきに 灰の底深く さんさんたる ダイヤモンドの残らんことを‐」 マチェックは、続きを暗誦する。「きれいね。灰の底深く、ダイヤモンドの残らんことを。……私たちは何?」「君か? ダイヤモンドさ」地下墓地の奥には天井から逆さづりになった十字架が、わずかに揺れてる。十字架の向こう側には、十字架といっしょに逆さづりになったキリストの頭や手が垣間見える。逆さ吊りのキリストを前にして、マチェクは言います。「あのね。変えてみたいものがある。生き方を変えたい。うまく言えないけど」「いいわ。大体わかる」しかしマチェクには時間がなかった。明朝までに、共産党幹部を暗殺しなければならなかったのだ。<映画の背景となったワルシャワ蜂起>ワルシャワ蜂起とは、第二次世界大戦中ナチス・ドイツ占領下のワルシャワで起こった武装蜂起である。1944年、ソビエト軍によるバグラチオン作戦の成功によりナチス・ドイツは敗走を重ねた。解放地域がワルシャワ付近に及びそれに呼応するような形で8月1日、ワルシャワで武装蜂起が行われた。しかしながらソビエト軍はその進軍を止め、イギリスの度重なる要請にも関わらず蜂起を援助する姿勢を見せず、イギリスによる支援も妨害した。その妨害が除かれた時はすでに手遅れな状態であり、ドイツ軍による懲罰的攻撃によりワルシャワは徹底した破壊にさらされ、レジスタンス・市民約22万人が虐殺され、10月3日鎮圧された。死亡者数の推定は18万人から25万人の間であると推定され、鎮圧後約70万人の住民は町から追放された。生き残った少数のレジスタンスは地下水道に逃げ込み、ソ連軍進駐後は裏切ったソ連を攻撃目標とするようになり、共産政府樹立後も、要人暗殺未遂などしばらく混乱が続いた。ワルシャワ蜂起を題材とした作品は、アンジェイ・ワイダ監督の三部作『世代』『地下水道』『灰とダイヤモンド』をはじめ、ロマン・ポランスキー監督の『戦場のピアニスト』(2002年、フランス・ドイツ・ポーランド・イギリス映画)などが知られる。■後編は、8月25日の日記に続きます。
2010年10月19日
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『フォロー・ミー FOLLOW ME』DVDついに発売!発売予定日は2010年11月26日です。2005年2月12・13日に発表したものの再録です。 ■隠れた名作「カイロの紫のバラ」!映画の妖精!ミア・ファロー■ 「アリス (ALICE 1990)」 ■「カイロの紫のバラ (THE PURPLE ROSE OF CAIRO 1985) 」■監督/脚本■ ウディ・アレン出演■ミア・ファロー/ジェフ・ダニエルズ/ダニー・アイエロ 古き良き30年代、熱心に映画館に通いつめるることで孤独を癒していたウエイトレス、セシリア(ミア・ファロー)に、ある日スクリーンの中から映画の主人公が語りかけてきた。銀幕を飛び出し、現実世界へ降り立ったその主人公は、ウェイトレスを連れて劇場を後にする。30年代のニュージャージーを舞台に映画に生きがいを求める人妻の姿を夢と現実を織りまぜて描き、映画ファンの夢をかなえてくれたウッディ・アレン!自身の出演なしに脚本・監督したファンタステイックなラブ・ロマンスの傑作!30年代半ば、大恐慌の波がまだ鎮まらない不況のニュージャージー。夫のモンク(ダニー・アイエロ)は失業中で、かわって妻のセシリア(ミア・ファロー)が、レストランのウェイトレスをやって生活を支えていた。彼女の夫は仕事もなく、酒を飲んでは暴力をふるうばかりで、満たされない。自らもウエイトレスの仕事では、お客さんの注文を間違える、うっかり皿を割ってしまう……、ウェイトレスの仕事も満足にできないドジな女、ヘマばかりしていつも怒られてばかり...。ぶらぶらと遊び歩いてはセシリアからチップを奪い取ってゆくモンクには何の期待もない毎日だが、彼女には、心の支えとなる楽しみがあった。それは、映画を見ることで、好きな映画は何回もくり返して見ていた。夫に一緒に観に行こうと誘っても断られ、一人映画館へと足を運ぶシシリア。上映中の映画は『カイロの紫のバラ』。 日常生活ではさえない主婦が、映画館の暗闇のなかに逃避して、夢を見る...。映画には、夢のような恋物語が......憧れの俳優と手に手を取っての逃避行...この映画はそんな映画ファンの心理をよく表現してるなあと思いました。.....これって映画のやさしさ? セシリアは、もう、「カイロの紫のバラ」という映画に夢中になっており、登場人物の一人である冒険家トムに一目惚れ!何と今日は5回目だった。そのことに気付いた映画の主役のトム・バクスター(ジェフ・ダニエルス)は、なんと映画のスクリーンから抜け出し、客席のセシリアに語りかけたからさあ大変! 「この映画が好きなんだね。前にも2度来てただろう。」 しかし、そのため「カイロの紫のバラ」はドラマ進行が止まってしまい、失神する観客。 「戻れ!」と叫ぶスクリーン上の共演者はウロウロ、セリフも関係なしに、勝手に言い争いを始めて大混乱になってしまいます。 スクリーンから抜け出してきたトムに「映画は?」と訪ねるセシリア、「もうやめた。2千回も同じ芝居やってらんないよ」とトム。 二人は劇場を抜け出し外に行ってしまいます。 トムが出現した、この場末の劇場は、映画館から主演俳優が暴走し始めちゃうという奇想天外なことになったということで一躍、名所となってしまいます。この、登場人物がスクリーンから飛び出すという発想が面白い。これは、「キートンの探偵学」が元ネタになっていますね。 当のトムは、セシリアの純な心にうたれ、恋をしてしまう。そこへ、トム・バクスターを演じた役者ギル・シェバード(ジェフ・ダニエルス)も現われて、自分のスキャンダルになるからトムにスクリーンの中に戻るよう説得しようと、セシリアの前に現れたものの、彼もセシリアに恋してしまい話はややこしくなる。スクリーンから出てきたトム・バクスターと、彼を演じたギル・シェファードの両方から求愛されて、有頂点の時を過ごすセシリア。ギル「お前は本物の人間じゃないんだぞ。ぼくが創ったんじゃないか、早くスクリーンに戻れよ」トム「いやだ、ぼくは現にここにいる。セシリアと一緒でなきゃどこにも行かないぞ」...セシリアは現実に存在する俳優のギルを選んだのです.....。主演俳優はやはり自分の居場所、スクリーンに帰り、「夢」は終わります。ギルはセシリアにいっしょに旅立とうと誘う。 ギルといっしょに旅立とうと決意したセシリアは家に帰り、ののしるモンクに別れを告げてギルとの約束の場所に向かった。しかしギルはひとり飛び発った後で、残されたセシリアは、まっすぐ家に帰る気になれず、またとぼとぼと劇場に行った。 すでに「カイロの紫のバラ」は終わって「トップ・ハット」に変わってしまっていた。しかし、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの「チーク・トゥ・チーク」のダンス場面、ジンジャーの羽根の衣装、アステアの洗練、2人の夢のようなダンス。踊りを見るうちに、いつしか、またセシリアの瞳に輝きが甦えるのだった。ああ、映画っていいなあ!名場面です!U^ェ^U 映画そのものへのオマージュ、映画への愛を感じる作品。映画を観ている時間ぐらい、観客は<虚>の世界である映画に同化していたいもの。映画と現実は違う、そんなことは百も承知の上。すべての映画ファンの夢を映像という形で見せ、夢の続きへといざなってくれるウディ・アレン。ミア・ファローを愛し、彼女を主演に据えた作品を撮るようになって、かつてみられた神経症的ないらつきが消え、かわってやさしさと穏やかさが見られるようになりました。その映画に対する溢れんばかりの愛情に最敬礼です。映画を楽しむことの原点に立ち返らせてくれる映画です。 心から映画を愛する世界中のすべての人への、ウディ・アレンからのささやかな、それでいて極上のプレゼント。 「世界中がアイ・ラヴ・ユー」!■「ローズマリーの赤ちゃん」(1968・米)■は2/5の日記でご覧下さい。監督:脚本:ロマン・ポランスキー 原作:アイラ・レビン 出演:ミア・ファロー/ジョン・カサベテス/モーリス・エバンス/ルース・ゴードン 映画と対話するために.....。!U^ェ^U ウディ・アレンは1992年、ミアが前夫で指揮者・作曲家のアンドレ・プレビン氏と結婚している時に養女に迎えたスーン=イ・プレビンと関係をもったことが発覚し、夫婦関係は完全に破局した。ミアが偶然、アレンの自宅でスーン=イのポラロイドのヌード写真(足を大きく広げたヌード写真など)を発見したのだ。 ミアがスーン=イに「いつからの関係か?」と問い詰めると、「高校3年から」と答えたという。激怒したミアは彼女に襲いかかり、彼女の顔を殴った。そして、ミアは我が子と永遠の別れをすることになった。親権争いの裁判でアレンは息子の訪問権だけ。ウディとミアの間には養子を含めて3人の子供がいたが、ミアは1992年、アレンが当時5歳の養女ディラン(現在の名前はマローン)に性的虐待を加えたとして訴え、2人の激しい親権争いが始まった。ミアのアレンに対する攻撃は容赦なかった。結局、裁判でアレンは自分の血のつながったただ1人の息子シーマス君(当時の名前はサッチェル)に裁判所命令による監督の下でしか会うことができなくなった。彼は一貫して養女に対する性的虐待を否定したが、彼に対する汚名と不名誉は消すことのできないものとなった。 アレンはスーン=イと1997年に結婚し、養女を迎えているそうな。■映画の妖精!ミア・ファロー(Mia Farrow)■後編は前のページに!■
2010年10月19日
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『フォロー・ミー FOLLOW ME』DVDついに発売!発売予定日は2010年11月26日です。2005年2月12・13日に発表したものの再録です。 ■隠れた名作「フォロー・ミー」!映画の妖精!ミア・ファロー■ 「アリス (ALICE 1990)」Donovan,Mia Farrow,George Harrison,Paul McCartney and John Lennonwith Maharishi Yogi.キャロル・リードの名作「フォロー・ミー」に主演したミア・ファロー。役柄はカリフォルニアでヒッピーの群れに身を投じたこともある娘が、英国の上流階級に属し地位も財産も申し分ない一流会計士チャールズ(マイケル・ジェイスント)と結婚したが、元々自由人のベリンダには、夫の仕事一辺倒の生活には息のつまる毎日だった。馴れない社交や、上流人の生活をのがれて、人間らしいささやかな愛と自由を求めて、浜辺で夕陽を眺めたり、サファリ公園でイルカを見ていたり、イーストエンドのパブで踊ったりしていた.....。掲載写真はミア・ファローが、ドノヴァンやビートルズの面々と一緒にマハリシヨギのアカデミーへ行った時のものです。ドノヴァンのCDのブックレットから転載させていただきました。写真のミアファローの本当に嬉しそうな顔ったらないですね。 ■『フォロー・ミー (1972)』■ 監督: キャロル・リード 脚本: ピーター・シェイファー 音楽: ジョン・バリー 出演: ミア・ファロー/トポル/マイケル・ジェイストン/マーガレット・ローリングス 「第三の男」を監督した名匠キャロル・リードが作った心暖まる佳作にしてじわじわの傑作!脚本は、「アマデウス」「エクウス」のピーター・シェイファー。ピーター・シェーファーが書いた1幕物の芝居の台本を彼自身が脚本化した。なんといまだ未DVD化! 知識豊富な仕事人間で一流会計士のチャールズ(マイケル・ジェイスント)は、妻のベリンダの不可解な行動に疑問を抱いていた。浮気しているのではないか、という疑いにつきまとわれていたからだ。チャールズは私立探偵のクリストフォルー(トポル)に妻の調査を依頼する。 ベリンダは夫チャールズと住む世界の違うことに違和感を感じて、小さな失意を積み重ねていたのでした。ベリンダは日毎に無口になり、毎日朝早くからひとりでどこかに出かけ、夜遅くまで帰ってこなくなったのでした。ベリンダはただ単に、日常の倦怠を散歩によって紛らわせていただけだった。 ジョンバリーの切なく美しい音楽をバックに、妖精のようにロンドンの名所旧跡を自由に歩き回るベリンダの後を追いかけまわす不審な人物、真っ白なコートを着た私立探偵クリストフォルー(トポル)が尾行する。忘れ得ぬ名キャラ、名演!トポロが扮する探偵がいつも食べていたマコロンというお菓子はたまごボーロのようなものらしい。 ベリンダは、探偵の尾行に気づいて以来、最初のうちは彼を気味悪がっていたが、次第に彼のやさしさと愛情にあふれたまなざしに心ふれあうものを感じるようになり、次第に探偵自身に好意を抱いていく……。語ることのない、みつめあうだけの追跡。無邪気な追いかけゴッコの共犯者として日々を重ねるごとに彼ら二人の間に次第に生まれていく心の絆。この件が、素晴らしく、トポルの人懐っこい笑顔と、やさしい眼差しに出会うと、思わず心がなごんでいつになくウキウキしてきます。U^ェ^U 10日後探偵クリストフォルーはチャールズに報告をした。彼女にやましいところがない、だが“恋人"がいるかもしれない、と。その報告を受けたチャールズは、ベリンダを怒鳴った。彼女は“家庭には愛が必要なのにこの家にはしきたりだけしかない。"と悲しそうにつぶやき自分の潔白を語った。“ただ、見知らぬ男が、いつも私をつけてきて、いつか心のふれあいを感じるようになったのは事実だが"と。 ささいな疑惑から夫婦間の危機が生じる様を描く。最後に夫が取った行動とは...。さりげなく、爽やかな幕切れが、非常にここちよい後味を残す。ロマンティックなラブ・ストーリー。 ミア・ファローは、決して美人ではないと思うのですが、チャーミングですよね。どこかしら不思議な雰囲気がある個性派女優で、ある種、ファンタスティックな女優でもあります。ニューシネマの台頭と共に、「風変わり」と表現される女優たちが続々と登場し、その中でミア・ファローはセンセーショナルな話題をまいた「ローズマリーの赤ちゃん」(68)で、スターらしからぬ不安定な顔つき体つきで登場し、一躍有名になりました。「ジョンとメリー」「フォロー・ミー」ウディ・アレンの名作群「カイロの紫のバラ」「ハンナとその姉妹」「ラジオ・デイズ」「セプテンバー」「私の中のもうひとりの私」「アリス」と..あげたら切りがないくらいです。ウディ・アレンと公私にわたるパートナーとなり数々の名作を撮るが、養子への性的虐待、養育権をめぐってトラブル、裁判となり、別離。残念哉!醜悪な修羅場を繰り広げ、裁判はミアの勝訴となる。この顛末は最後尾に掲載しますがTVの芸能ゴシップお好きな方にだけお薦め...夢見る夢子ちゃんは、読まない方が良いかも~です。 非売品ORIGINAL SOUND TRACK『FOLLOW ME』なんと!ジョン・バリー・ファン・クラブ謹製のお宝CD!(private use only)A rare John Barry score, issued in Japan, this soundtrack was taken from the film of Peter Shaffer's stage play starring Mia Farrow and Topol. The music is an interesting blend of easy listening strings and vocals and a harder groovy edge not present in much of Barry's work. The haunting theme is reprised throughout the score. ■映画の妖精!ミア・ファロー(Mia Farrow)■ 1945年2月9日、アメリカ・ロサンゼルス生まれ。父は映画監督のジョン・ヴィリアース・ファロー、母は女優モーリン・オサリヴァン。9歳の時、小児麻痺で病床につくが克服、18歳の時、舞台“The Importance of Being Earnest”で女優デビュー。1964年テレビドラマ・シリーズ『ペイトン・プレイス物語』に出演、注目を集める。同年『バタシの鬼軍曹』で映画デビュー、1968年『ローズマリーの赤ちゃん』が世界的にヒット、 ハリウッドを代表する人気女優となる。 将来は尼僧になりたいと心を固めながら、やむない事情で女優として働きはじめる。そこで出会うフランク・シナトラ、音楽家アンドレ・プレヴィンとの恋。やがて訪れる破局、混乱。逃げるようにしてインドへ旅立ち、ビートルズとの出会い、映画界への復帰、戦争孤児・障害児の養子、ふたたびの恋、そして……。ウディ・アレンとの十年間は、ロマンスから長い悪夢に変わり、養子に性的虐待するウディ・アレンとの裁判沙汰、醜悪な修羅場、ダリ、ビートルズとの交遊……など、映画よりも劇的な半生……。1959年「大海戦史」「バタシの鬼軍曹」1968年「殺しのダンディー」「ローズマリーの赤ちゃん」 「秘密の儀式」1969年「ジョンとメリー」1971年「見えない恐怖」1972年「フォロー・ミー」「ジャン・ポール・ベルモンドの交換結婚」1974年「華麗なるギャツビー」1976年「ジュリア/幽霊と遊ぶ女」1978年「アバランチ/白銀の恐怖」「ウエディング」 「ナイル殺人事件」1979年「ハリケーン」1982年「サマーナイト」1983年「カメレオンマン」1984年「ブロードウェイのダニー・ローズ」「スーパーガール」1985年「カイロの紫のバラ」1986年「ハンナとその姉妹」1987年「ラジオ・デイズ」「セプテンバー」1988年「私の中のもうひとりの私」1989年「ウディ・アレンの重罪と刑罰」「ニューヨーク・ストーリーズ」1990年「アリス」1992年「ウディ・アレンの影と霧」「夫たち、妻たち」1995年「マイアミ・ラプソディー」1998年「エクスタシーをさがして」2001年「ジ・イノベーダー 革新者」2002年「くたばれ!ハリウッド」■2/12の続編■■隠れた名作「カイロの紫のバラ」!映画の妖精!ミア・ファロー■も続けてご覧下さい!
2010年10月19日
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映画『美代子阿佐ヶ谷気分』公開70年代にカルト的な人気を博した「月刊漫画ガロ」などで活躍した漫画家、安部慎一による同名劇画の映画化。後に安部の妻となる美代子と同居生活を送りながら彼女をモデルに発表した作品がヒットするものの、創作に対する焦燥感や絶望感から次第に精神が不安定になっていく作者・安部慎一の姿を描く。安部に扮する水橋研二の繊細な演技が光る。続きを読む監督:つぼた義史出演:水橋研二・町田マリー・本多章一・松浦祐也・佐野史郎・林静一・あんじ■2003年10月9日分を再掲載いたしました。■美代子阿佐ヶ谷気分 - goo 映画惚れられ惚れて早一年経って 若さと馬鹿さ空転りするさヒールが七糎のブーツをはいてぼくを踏み潰して出て行った朝よ塀の上で 塀の上でぼくは雨に流れてみてただけさ(「塀の上で」作詞・作曲 鈴木慶一 はちみつぱい「センチメンタル通り」より) -「美代子阿佐ケ谷気分」-2000.7.3 初版 ワイズ出版 私は三十二歳の頃に分裂病を発病し、以来、十七年間まともな考え方が出来にくくなった。...この十七年間のブランクは、私にとって苦しみの連続だった。妻美代子も三人の子供もよく私を許してくれていると思う。...私と美代子が出会ったのは、高校時代である、もはや、分裂病歴の方が長いほどになった。しかしまだ別れずに居る。美代子は相当に深い愛の持ち主だと思う。...私はいつ死ぬか判らないが、漫画も小説も油絵も死ぬまで画く事になるかも知れない。(「愛を失って--あとがきにかえて」 安部慎一) 阿佐ケ谷で育まれた彼らの愛は幾多の作品にちりばめられ安息をみた。彼らが彼らの人生において最も若く美しい時を迎えている男女であった事の証としてこの傑作「美代子阿佐ケ谷気分」が生みおとされた。彼の妻である美代子さんをモデルにしたマンガは私小説ならぬ”私マンガ”と呼ばれその作風は当時であってさえ異彩を放ち70年代の空気感を悲しいまでに表現していた。 -「悲しみの世代」-2001.5.30 初版 限定サイン本 No.0300/1000 まんだらけ◇著者略歴◇1950年、福岡県田川市に生まれる。1952年、畠中美代子田川市に生まれる。1967年、田川高等学校新聞部に入部してきた畠中美代子と出会い交際を始める。1968年、家出、上京。永島慎二のもとを訪ねる。1970年、一級下の美代子の卒業を待ち、上京。杉並区阿佐ヶ谷北の富士荘二階に住むようになる。美代子を主人公にマンガを描くことを思い立つ。「やさしい人」が「ガロ」に入選。1971年、『美代阿佐ケ谷気分』「ガロ」3月号に発表。1973年、故郷の福岡で畠中美代子と結婚。秋、創作に行き詰まってマンガを描けなくなり、福岡県伊崎へ転居。1982年、妄想型精神分裂病を発病。........................................................1993年、『美代子田川気分』「ガロ」8月号に発表。「美代子阿佐ケ谷気分」...に対するオマージュか...二人が生まれ育ち、出会ったこの田川で二人の愛は小康を得たのか....。1996年、「ガロ」初代編集長、長井勝一 没。200年、旧友の現・まんだらけ社長古川益三がインタビューの為自宅を訪問。20余年ぶりに再会。精神を病んで田舎に引きこもった天才作家、安部慎一は美代子との愛の為に今も尚、病魔と闘い続けている。 -「日の興奮」-2001.5.30初版 ワイズ出版-「天国」-2001.5.1 初版 ワイズ出版 -「迫真の美を求めて 安部慎一混沌作品集 」-2001.12.25 初版 限定 No.0412/1000 青林工藝社-「僕はサラ金の星」-2003.4.25 初版特装版 2500部 青林工藝社 -「愛連の家族/聖書 安部慎一未刊行作品集」-2001.10.25初版 青林堂愛がなくちゃね!
2010年08月14日
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バロック音楽のひととき~王侯貴族たちに愛された音楽~日時 9月5日(日)開場15:30 開演16:30 終演17:00 料金 3,500円(1ドリンク付)レストラン「イル・カンタジロー」 ジローコレクション栃木県宇都宮市上戸祭3007-22 TEL.028-622-1144終演後にビュッフェディナー 1,680円からお楽しみになれます。どうぞ御利用くださいませ。廣海 史帆(バロックヴァイオリン)東京藝術大学音楽学部器楽科を経て、同大学大学院修士課程古楽科を修了。これまでに、佐々木晶子、久合田緑、田中千香士、原田幸一郎、若松夏美、アレッサンドロ・モッチアの各氏に師事。第 54回全日本学生音楽コンクール大阪大会高校の部第 3位。2002年、原村室内楽セミナーにて、緑の風音楽賞受賞。第 22回古楽コンクール〈山梨〉最高位、併せて栃木・蔵の街音楽祭賞受賞。2007、08年、パリ・シャンゼリゼ管弦楽団より奨学金を受け、サント・ヨーロッパ音楽アカデミーに参加。バッハ・コレギウム・ジャパン、オーケストラ・リベラ・クラシカ等の公演・録音に参加している。水内 謙一(リコーダー)東京芸術大学音楽学部楽理科卒業。在学中に音楽学を専攻する傍らリコーダー演奏の研鑚を積む。2003年よりドイツのケルン音楽大学に留学。2008年に同大学ディプロマ課程リコーダー科を卒業し、演奏家ディプロマを取得。その後同大学国家演奏家資格課程にてリコーダーを専攻。同時に古楽アンサンブルを専攻し、2009年に同大学同専攻を卒業。渡欧中はケルンを中心に、ソロやアンサンブルで演奏活動を行う傍ら、リコーダーの指導にあたる。2009年に日本へ帰国。帰国後は各地で活発に演奏活動を行うほか、指導にも力を注いでいる。リコーダーを向江昭雅、ドロテー・オーバーリンガー、カリン・ファン・ヘールデンの各氏に師事。室内楽をライナー・ツィッパリング、ケティル・ハウグサントの両氏に師事。村上 暁美(チェンバロ)上野学園大学音楽学部器楽学科チェンバロ専攻卒業、桐朋学園大学音楽学部研究生古楽器専攻修了。ドイツ・ケルン音楽大学演奏家ディプロマ課程チェンバロ科を最優秀の成績で卒業し、ディプロマを取得。その後同大学国家演奏家資格課程へ進み、ドイツ国家演奏家資格を取得。ケルンを中心に各地でソロやアンサンブル、オーケストラのソリストとして活発に演奏活動を行う。またケルン音楽大学、ヨーロッパ各地の講習会等でコレペティトゥーアとして学生の指導にあたる。2009年から日本へ拠点を移し、各地で活発な演奏活動を行っている。チェンバロおよび通奏低音を渡邊順生、シェティル・ハウグサンの両氏に、またアンサンブルをライナー・ツィッパリング、コンラート・ユングヘーネルの両氏に師事。2009年古楽コンクール(山梨)チェンバロ部門において最高位を受賞。 御予約は :イル・カンタジロー 028-622-1044 CAT-O OFFICE/加藤 080-3583-1203
2010年08月07日
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1月17日 浅川マキさん 逝去 [ 訃報 ] 享年67謹んでご冥福をお祈りします。合掌。浅川マキさん:ホテルで急死 67歳 名古屋公演で滞在中 歌手の浅川マキ(あさかわ・まき)さんが17日夜、公演で滞在していた名古屋市中区のホテルで死亡しているのが見つかった。67歳だった。愛知県警中署によると、病死とみられるという。 同署によると、同日午後7時45分ごろ、ホテル室内の浴室で倒れている浅川さんを事務所スタッフらが見つけた。浅川さんが公演で滞在中で、時間になっても部屋から出てこなかったためスタッフらが様子を見に行ったという。 浅川さんは石川県生まれ。67年「東京挽歌/アーメン・ジロー」でデビュー。翌年、新宿のアングラ劇場、蠍(さそり)座で寺山修司演出の独り舞台に出演し評判となった。山下洋輔さんや坂田明さん、坂本龍一さんらと共演。70年代にかけ、ジャズやソウルに影響を受けた愁いを帯びた声と全身黒ずくめの衣装で歌い「アングラの女王」として、全共闘の若者を中心に人気を集めた。代表曲に「夜が明けたら」「かもめ」など。1/2のマキ...その2 淋しさには名前が...ある?!浅川マキの世界『Darkness』「淋しさには名前がない」{作詞・作曲 浅川マキ}・・・・・そうね気ままに暮らして行こうかな何にも要らないこれからだけどこれでいいのかしらねまた ひとりよ 私あの人のこと恨んでないの男の人はいいものよ何にも要らないこれからは独りの夜はやっぱり長いけどまた ひとりよ 私 寂しさには名前がない・・・・・誰が言ったの何にも要らないこれからはドアを開けたら朝の光がまた ひとりよ 私 血があつい鉄道ならば走りぬけてゆく汽車はいつかは心臓を通るだろうーロング・グッドバイー寺山修司(1935-1983) 『伊勢丹近く、明治通りに面した映画館、新宿文化・ATG(アート・シアター・ギルド)、その地下にある劇場「蠍座」で、わたしは初めてひとり舞台に立つことになった。寺山修司さんの演出で寺山さんはそのために十二曲もの詩を書いてくれた。1960年代も終わりに近づいた寒い夜の公演だった。巷で耳にした言葉はアンダー・グラウンド、いや、アングラである。わたしはアングラ歌手と呼ばれた。』『浅川マキのブルースは、いつもそんなぼくたちが棄てたはずの、棄てられてしまったはずの、「ふるさと」への未練や後悔を歌い続ける。あるとき「ふるさと」は昔愛した男や女であったりもする。そしてぼくらにかわってずいぶん長い言い訳をしてくれたり、「くやしさ」や「さみしさ」を、懐かしい大切なものであったかのように解放してくれる。』(奥成 達「浅川マキCD灯ともし頃」から) 1960年代後半から70年にかけての日本は、ベトナム反戦運動や学園紛争、そして安保闘争など、まさに熱い政治の季節の渦中にあった。昭和40年代(1966~1975)、新宿はフーテン、アングラ劇団、ハプニング、ジャズ、フォークそして新左翼等、前例のない表現・行動が生起した特異な場でした。ATG(アート・シアター・ギルド)による多くの自主制作映画、ユニークな色彩を放つグラフィック・デザイナー横尾忠則、宇野亜喜良、そして演劇では寺山修司の天井桟敷、唐十郎の状況劇場など、60年代後半、時代を変革しようとする文化的試みのおよそすべてが新宿から生まれた。それは<サイケ><アングラ><昭和元禄><ゲリラ><ヒッピー><フーテン>などの言葉とともに、まさに<新宿文化>と呼べるものだった。「ちょうどその頃、アートシアターのあった新宿の街は<新宿ルネッサンス>とでも言うべき時代のさなかで、僕はそこにのめりこんでいたので、仕事と日常が境界を失くし、すべてがごたまぜになった不思議な一時期を過ごしたのである。」宇野亜喜良『僕の個人史』よりそんな時代に黒ずくめの衣装でつぶやくように唄う、一人の異色の女性歌手が新宿にいた。浅川マキである。浅川マキという歌手、未だに現役ですが、浅川マキは全共闘世代に支持されたアングラ歌手で、いつも全身黒装束で歌っていた。その存在を知っている人は本当に少数派だ。長い黒髪にサングラス・黒のコートという黒づくめの女の、深い皺に挟まれた唇から流れ出すのは、全てを飲み込んだゆえの艶がある歌。浅川マキはそのキャリアを銀座のシャンソン喫茶・銀巴里でゴスペル・シンガーとしてスタートさせたが、時代の熱気がカオスのように渦巻く新宿に惹かれて、1968年新宿のアンダーグラウンド シアター「蠍座」でデビュー。その活動の場を新宿に移した。劇団天井桟敷の主宰、寺山修司によって見出され、アルバム『浅川マキの世界』で70年にデビュー。以降、ジャズやブルースに代表される黒人霊歌を日本特有のアングラ色で染め上げた、漆黒の音世界で人気を博した。ダークな艶を帯びた情念の歌唱は強力な磁場を発し、ファンだけでなく一流ミュージシャンをも吸い寄せ、彼女の作品には、つのだ☆ひろ/坂本龍一/山内テツ/山下洋輔といったジャンルに隔てないビッグ・ネームが参加。彼女に触発されてポテンシャル以上の演奏が引き出される。以来、まさに「アングラの女王」にふさわしく今日まで年に1枚という自分のペースを崩さず、ほとんど「OVER GROUND」に出ることなく歌いつづけ、ライヴ活動も精力的に行っている。「かもめ」(寺山修司 作詞 山本幸三郎 作曲)おいらが恋した女は 港町のあばずれ いつもドアを開けたままで着替えして 男達の気を引く浮気女かもめ かもめ 笑っておくれおいらは文無しマドロス バラ買うゼニも無い だからドアの前を行ったり来たりしても 恋した女じゃ手も出ないかもめ かもめ 笑っておくれところがある夜突然 成り上がり男が一人バラを両手一杯に抱きかかえて ほろ酔いで女のドアをたたいたかもめ かもめ 笑っておくれ女のまくらもとにゃバラの 花がにおって 二人抱き合ってベッドにいるのかと思うと おいらの心はまっくらくらかもめ かもめ 笑っておくれおいらは恋した女の まくらもとに飛び込んで ふいにジャックナイフをふりかざして 女の胸に赤いバラの贈り物かもめ かもめ 笑っておくれおいらが贈ったバラは 港町にお似合いだよ たった一輪ざしで色あせる 悲しい恋の血のバラだものかもめ かもめ 笑っておくれかもめ かもめ さよなら あばよ浅川マキには凄い男達が集まる。言うまでもなく寺山修司。ミュージシャンでは山下洋輔、近藤等則、本多俊之、渋谷毅、後藤次利、川端民生・・・・・。 『1970年、二人のジョイントコンサートをした時のこの写真を見て、ある人が「猟犬とむく犬だね。」と言った。確かに午後の陽射しと漆黒の闇、プラスとマイナス、肯定と否定、ことごとく対極に見えた。でもデビューから結婚までの間、彼女は一番近くで私を支えてくれた人だった。シャンソン畑の世界で孤立していた私を舞台のそでにまで来て力づけてくれた。寺山修司の演出と歌詞で黒づくめの浅川マキ像が出来上がるより前、私も彼女もミニスカートの頃だ。それから私はギターとジーンズでメジャーになり、彼女は黒一色の世界でアンダーグラウンドの女王となった。私が結婚したとき、新宿花園神社の縁日で「子持ちヨーヨー」というのを買って送ってくれた。ヨーヨーの中の水の中にもう一つのヨーヨーがプカプカしてるのが「今のお登紀みたいだから」と。娘が生まれてからも時々真夜中に電話があった。電話の途中で娘が泣き出したとき「私に赤ん坊の声なんか聞かせないでよ。」と言ったことを今も忘れない。もちろん結婚はせず、ブルースとジャズとロックの粋を極めた音楽づくりを続け、今も歌っている。誰も年齢を知らず、肉親や家族の一滴の匂いもなく、「マキ」という女から逃げ出すことなく生き続けている。』(加藤登紀子) 「少年2」夕暮れの風が ほほを撫でるいつもの店に 行くのさ仲のいい友達も 少しは出来てそう捨てたもんじゃないさして大きな 出来事もなくあのひとは いつだってやさしいよ何処で暮らしても 同じだろうとわたしは思っているのさなのに どうしてか知らないこんなに 切なくなって町で一番高い丘へ 駆けてくころはほんとに泣きたいぐらいだよ「ディープにしみる アンダーグラウンド.........。」『わたしはそんな若者たちのあいだを、ちょうど慰安婦のように、旅していたのだろうか。』「こんな風に過ぎて行くのなら」浅川マキ 著/石風社刊『幻の男たち/LIVE1984』 VHS TOVF-1212池袋・文芸座(June.30) 京大西部講堂(Sept.29,30) EMI MY LOVE1/2のマキ...その1+2。私の心には二人のマキが棲んでいます。<深夜放送>から流れる二人のマキの唄を聞きながら、まだ見ぬ<東京>を夢想したのでした。 CAT-OYahoo! auctionMAKI
2010年01月18日
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SOLD OUT!ありがとうございました。━JAZZ MEETS BAROQUE!━ 三月に、何とも豪華で贅沢なバロックコンサートを企画しました。会場のオブリガートは、音響にこだわったJAZZのLIVEをスポットですが、今回はなんとリコーダー・ヴァイオリン・チェンバロによるバロックアンサンブルの登場です。 サウンドチェックをしましたがとても音響が素晴らしく、とても感動しました。まさにサロンコンサートと呼ぶにふさわしい”音”を楽しむことができます!お席に限りがございますのでお早めにご予約ください。チェンバロの村上暁美さんは宇都宮ご出身の方です。どうぞ宜しくお願いいたします。『古楽アンサンブル・ムジカ・スピランス コンサート』日時:2010年3月7日(日) 14時開場~14時30分開演会場:Live space 「OBBLIGATO(オブリガート)」入場料:3,500円(1ドリンク付) 全席自由 [45席限定]宇都宮駅東の屋台村に生まれたライブスペース「オブリガート」。OBBLIGATO[イタリア語]オブリガートとは・・《音楽用語》(形)絶対必要な、省けないの意味主旋律と相競うように演奏される「助奏」の意味JAZZにとどまらず、ジャンルにこだわらず時にはパフォーマーも登場・・・・・ 宇都宮のライヴシーンにまた一つ新しいスタイルが生まれる音響とピアノにはこだわりました! スピーカーはJBL、マイクはシュアー58、ピアノはグランドピアノ。屋台村の中にありながら、別空間。そんなオブリガードの素晴らしい音響空間にバロックが初登場!ドイツのお城や教会でバロック音楽の演奏活動を行ってきた「チェンバロ・宇都宮出身の村上暁美」「リコーダー・水内謙一」「バロックヴァイオリン・山内彩香」のバロックアンサンブル「ムジカ・スピランス」の古楽器の本格的な演奏会です。 ムジカ・スピランスは、2007年にドイツ・ケルンにて結成された、リコーダー・ヴァイオリン・チェンバロによるバロックアンサンブル。 コンサートシリーズ"Mai Konzert"をはじめ、ケルンを拠点として活発に演奏活動を行う。2008年4月には、ドイツ国営放送ラジオに出演、ライブ録音が放送され、好評を博す。ケルン音楽大学 国家演奏家資格課程 古楽アンサンブル科に在籍し、2009年卒業。ライナー・ツィッパリング、シェティル・ハウグサンの両氏に師事。2009年より活動拠点を日本へ移す。アンサンブル名の「musica spirans」はラテン語で"息をする音楽"という意味。J.S.バッハ : トリオソナタ ト長調 ヘンデル : トリオソナタ ヘ長調 テレマン : トリオ ヘ長調、トリオ ニ短調 ほか。<HP http://www5.pf-x.net/~musicaspirans> <ムジカ・スピランス>水内 謙一 Kenichi Mizuuchi (リコーダー)山内 彩香 Ayaka Yamauchi (バロックヴァイオリン)村上 暁美 Akemi Murakami (チェンバロ)○水内 謙一 Kenichi Mizuuchi (リコーダー) 東京芸術大学音楽学部楽理科卒業。在学中に音楽学を専攻する傍らリコーダー演奏の研鑚を積む。2003年よりドイツのケルン音楽大学に留学。2008年に同大学ディプロマ課程リコーダー科を卒業し、演奏家ディプロマを取得。その後同大学国家演奏家資格課程にてリコーダーを専攻。同時に古楽アンサンブルを専攻し、2009年に同大学同課程同専攻を卒業。渡欧中はケルンを中心に演奏活動を行う。 リコーダーを向江昭雅、ドロテー・オーバーリンガー、カリン・ファン・ヘールデンの各氏に師事。室内楽をライナー・ツィッパリング、シェティル・ハウグサンの両氏に師事。○山内 彩香 Ayaka Yamauchi (バロックヴァイオリン) 桐朋学園大学音楽学部ヴァイオリン専攻卒業。ドイツ・ケルン音楽大学演奏家ディプロマ課程を2006年卒業。その後同大学修士課程バロックヴァイオリン科で更なる研鑽を積み、2008年修士号取得。同大学国家演奏家資格課程にて古楽アンサンブルを専攻し、2009年同大学同課程同専攻を卒業。ヨーロッパ各地のバロックアンサンブルのメンバーとして録音やドイツ国内外の音楽祭にも数多く出演。その他ドイツ各地でアンサンブルでの演奏活動も行う。日本帰国後は「バッハ・コレギウム・ジャパン」、「オーケストラ・リベラ・クラシカ」などの公演にも参加。 ヴァイオリンを辰巳明子、ゴーヤン・コシュータの両氏に、バロックヴァイオリンをリチャード・グウィルト氏に師事。アンサンブルをライナー・ツィッパリング、シェティル・ハウグサンの両氏に師事。○村上 暁美 Akemi Murakami (チェンバロ) 上野学園大学音楽学部器楽学科チェンバロ専攻卒業、桐朋学園大学音楽学部研究生古楽器専攻修了。2003年よりドイツのケルン音楽大学に留学。2005年にディプロマ課程チェンバロ科を最優秀の成績で卒業し、ディプロマを取得。同大学国家演奏家資格課程へ進み、2008年卒業、ドイツ国家演奏家資格を取得。その後同大学国家演奏家資格課程にて古楽アンサンブルを専攻し、2009年に卒業。渡欧中は、ケルンを中心に各地で演奏活動を行い、ケルン音楽大学、講習会等でコレペティトゥーアとして学生の指導にあたる。 チェンバロ、通奏低音を渡邊順生、シェティル・ハウグサンの両氏に、またアンサンブルをライナー・ツィッパリング、コンラート・ユングヘーネルの各氏に師事。 第23回古楽コンクール(山梨)・チェンバロ部門において最高位を受賞。<お問合せ、ご予約>「musica spirans Konzert /Jazz meets Brocque !」Live space 「OBBLIGATO(オブリガート)」〒321-0953 宇都宮市東宿郷2丁目17番地10号TEL:028-633-4266&CAT-O OFFICE/加藤悦男携帯 080-3583-1203携帯mail: ekatocato@i.softbank.jp
2010年01月15日
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「夜の歌~2つのヴァイオリンとピアノによるコンサート~」in IL.CANTAJIRO2009年3月22日(日)16:00開場 16:30開演渡邊弘子(vn) 渡邊多佳子(vn) 横山博(pf)栃ナビ「夜の歌~2つのヴァイオリンとピアノによるコンサート~ in IL.CANTAJIRO」愛の挨拶 エルガー夜の歌 エルガー朝の歌 エルガーレントより遅く ドビュッシ-美しき夕暮れ ドビュッシ-子守歌 フォーレハバネラ ラヴェルフォーレの名による子守歌 ラヴェルツィガーヌ ラヴェル子供の夢 イザイ母の教え給いし歌 ドヴォルザーク花のワルツ チャイコフスキー私のお父さん プッチーニタンゴ アルベニスツィゴイネルワイゼン (二台Vnバージョン) サラサーテ
2009年02月20日
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「山口理絵Christmas Live in IL.CANTAJIRO」栃ナビ「山口理絵Christmas Live in IL.CANTAJIRO」
2008年12月10日
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2008年08月03日
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2008年04月09日
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Henri Salvador & Boris Vian【追悼】フランス・シャンソン界の大御所アンリ・サルヴァドール逝去2008年2月13日、動脈瘤破裂の為パリの自宅で逝去。享年90歳。心よりご冥福をお祈り致します。遺作となってしまった2007年の「Reverence レヴェランス~音楽よ、ありがとう!」のリリース後、9月に最後の来日公演を行い、12月にはパリで現役最後を告げるコンサートを開いていた。”フランスの国民的エンタティナー!フランス・シャンソン界の長老、巨匠アンリ・サルバドール89歳!”粋、伊達、色男、ダンディ、ヒップ…。いまもなを艶やかな“声”!アンリ・サルヴァドールは太陽のような人。「ひゃーひゃっひゃっひゃっ」笑いで幸福を振り撒くおフランスの花咲爺!世界でいちばんハッピーでラブリーでチャーミングなじいちゃん歌手!フランスの国民的歌手、アンリ・サルヴァドールは1917年7月18 日、ブラジルの北隣フランス領ギアナ・カイエンヌに生まれの89歳の現役歌手。その歌声は常に甘美で、軽やかで、しかしながらしっかりと聴き手の心をつかんで離さない。父親はスペイン系フランス人でフランスの収税官吏、母親は現地人のグァドループ人という、クレオ-ル(混血)として生まれる。7歳のときに一家揃ってパリへ移住。それを知るとなるほど、彼の音楽から感じられる大らかなラテンの血とパリの洗練の融合ぶりに納得させられるものがある。 11歳のとき、デューク・ エリントンとルイ・アームストロングに夢中になり、若くしてドラムとギターをマスター。16歳にしてキャバレーで初舞台を決めた後は、ジミーズ・バーのレギュラー・メンバーにプロの道に入る。アンリはここでジャズヴォーカルを歌いながら、持ち時間のなかにスケッチ(寸劇)を挟むことを思いつく。(例えば、彼の笑い芸のレパートリーの一つ「ジン」は、アメリカ人のアナウンサーがジンを飲んで、どんどん酔っぱらっていくにしたがって、ろれつが廻らなくなる様子を演じたもの。客席の方に向かって吐き出すという絶品芸。)そしてここで、あのギターの名手ジャンゴ・ラインハルト(1910年生まれのジプシー・ギタリスト。)と出会い、雷に打たれたような衝撃を受ける。すぐさま、独学でジャンゴ・ラインハルトのギタ-奏法(ポジション・コードプログレッション・ハーモニーetc)を盗みまくってその奏法をマスターした。彼のグループへ誘われたこともあったという。『リゴロ』個性派ぞろいのフランス音楽界で異彩を放つ国民的歌手,アンリ・サルヴァドール。彼が若かりしころに発表した迷曲・珍曲集。冗談なのかマジなのか!?エスプリをはるかに通り越したラブリーな笑いが満載。「リゴロ/Rigolo」たは「滑稽」とか、「オモシロ」という意味。フランス本国でも未CD化の多い"Disque Salvador"~"Rigolo"時代のレア曲をギッチリと詰め込んだ日本独自の編集によるコンピレーション・アルバム。 1941 兵役を終了、再び音楽の道へ 。レイ・ヴァンチュラの招聘を受けて彼のオーケストラにギタリストとして加入し、そのまま南米へのツアーに旅立つ。しかし、第二次世界大戦は激化し、ナチス・ドイツによるフランス占領の影響で、楽団は3年間もの間、南米に留まる事になった。その間に、アンリはマンボ・カリプソなどのラテンリズムを自分のものとしていった。1945 帰国 。そんな経緯でフランスへのサンバの紹介者となったのも彼だった……。非常に多芸なサルヴァドールだけに、タップダンサー→歌手→作曲家→ギタリストと活躍の場は広いが、彼の作る曲、そして歌声はどれも一貫してロマンティックで慈愛に満ちている。ジャズの基本とボサ・ノヴァの清らかな色香が織り成す、どこか懐かしく深呼吸のできるサウンド。御年80歳を軽く超えていながら(だからこそ?)、惚れ惚れするほどの男っぷりで聴き手を抱擁してくれるのだから、嬉しいではありませんか。1950年、パリのア・ベ・ゼ劇場でのレヴュー "Paris S'amuse"で出演中のある夜、アンリは最前列に座っていたうっとりするほど美しい白い服を着た女性に心惹かれる。彼女ジャクリーヌ・ガラバディアンは毎晩欠かさずやって来た。しかし、一向にサインを求めに楽屋を訪れる気配がない。一週間後、アンリはドアマンのフランソワに、彼女を楽屋に連れてくるよう頼んだ。二人きりになった時、アンリは言った。「あなたを32年間待っていたんですよ」。ジャクリーヌ・ガラバディアンとアンリは1950年1月24日に結婚をする。1976年、四半世紀の長きに渡って公私共に苦楽を供にして来た最愛の妻、ジャクリーヌを亡くす。 『ジャズ! ベスト・オブ・バークレイ・イヤーズ』オリジナル曲の大半を、当時交流の深かったボリスヴィアンが作詩している。 1946年当時のパリのダンス・ミュージックは、いわゆるニューオリンズ・スタイルのジャズで、戦後、パリの解放とともにアメリカ軍がどっと入ってきて、それと同時にアメリカのポップ・ソング/ダンス・ミュージックが流れ込み60年代はR&Bでもってダンスをしていた。アンリは歌手転向後の50年代中頃には詩人でアメリカのハードボイルド小説、SF、ジャズをこよなく愛するボリス・ヴィアンやミッシェル・ルグランらとコミカルなフランス産R&Rを作り、話題を集める。1956年に発表された、フランスで初めて”ロック・アンド・ロール”を冠した「ロック・アンド・ロール・モップス」を発表。バンド名は、ヘンリー・コーディング(アンリ・サルヴァドール)&ヒズ・オリジナル・ロック・アンド・ロールボーイズ!作詞のヴァーノン・シンクレアはボリスヴィアン、作曲のミグ・バイクはミッシェル・ルグラン。 ボリス・ヴィアンはその後も、フィリップス社で音楽ディレクターの職に就き、あからさまな反戦歌「脱走兵」をリリースし、放送禁止にされながらもヒットさせ、また自らも作曲・作詞、しまいにはアンリ・サルヴァドールとのデュオで自作のロックンロール「強烈往復ビンタ」をヒットさせ二人の本格的なコラボレーションが始まる。とにかくフランスにおけるジャズを語るにとってボリス・ヴィアンという存在をぬきにしては語れない。「きれいな女の子との恋愛・・それとニュー・オルリンズかデューク・エリントンの音楽だ。その他のものはみんな消えちまえばいい」(『うたかたの日々』より)という有名な言葉も、ヴィアンのジャズへの憧れを表している。彼はトランペット奏者としてジャズの支持し、またフランスにおいてジャズの鑑定人・紹介者として活発な活動を行なった。アメリカからやって来たジャズは当時最新先鋭なる思想、実存主義によく似合った。ディキシーランド・ジャズからビーパップ、さらにハードバップへと、モダンへの革命期をたどるジャズはフランスのパリ、サンジェルマンでその完熟を果たした。ジャズの持つフリーでヒッピーなパワーがナチスによるパリ占領やその解放のレジスタンスの精神とジャズのインプロヴィゼーションとが根源的に結びついた。Boris Vianボリス・ヴィアン (Boris Vian)『人間、生活の心配がなければ創作するのはやさしいことだ。だが利子生活者でもない以上、精神的売春をする以外、創作だけで生きていけるものではない。それがいやならほかの仕事をすることだ。しかしそうなるとまた、いろいろ不都合が出てくる。数種の職業を持っていると、アマチュアというレッテルがつく。だがしかし、その世間でいうところのアマチュアが、数種の職業においてそれぞれプロであるとこいうこともありえるのだ。』ボリス・ヴィアン(1920年3月10日 - 1959年6月23日)は、フランスの作家、詩人である。ヴィアンは1946年からの約十年間、当時フランスを代表するジャズ雑誌だった“JAZZ HOT”誌に無償で評論、ニュース記事、エッセイ等を書き続けた。セミプロのジャズトランペット奏者としても名をはせ、余技として歌手活動も行った。少女クロエの肺に睡蓮の花が咲いてしまう『日々の泡(L'Écume des Jours 曽根元吉訳)』(または『うたかたの日々』伊東守男訳)は、「現代の恋愛小説中もっとも悲痛な作品」(レイモン・クノーの言葉)と言われて読み継がれている永遠の幻想青春小説、砂漠に鉄道を通す物語『北京の秋』は、ヴィアンによれば「北京」にも「秋」にも関係ないから『北京の秋(L'automne a Pekin)』というタイトルで、前衛的な作風の小説で知られる。1940年代後半に、脱走兵の黒人作家と称してヴァーノン・サリヴァンのペンネームで通俗的で暴力的なハードボイルド小説を執筆していたことでも有名である。ジャズ批評やアメリカ文学の紹介などの分野においても顕著な功績を残した。彼は400曲にものぼるシャンソンを残した。「Le Déserter/脱走兵」という反戦歌を歌って放送禁止になった。ヴィアン自身は、心臓疾患(心臓大動脈弁閉鎖不全症を抱えた病人であった。)のため徴兵を免れる。さすがにセルジュ・ゲンズブールの師匠である。
2008年02月15日
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Henri Salvador & Boris VianCD『ジャズ・ア・サンジェルマン』廃盤フランスVIRGIN制作のクラシック・ジャズのカヴァー集だが、タイトルにサンジェルマン・デ・プレとある如く、50年代のサンジェルマンの実存主義者、ザズー(フランスのビートニク)達が愛好した当時のオールド・ジャズを中心に選曲されている。なんと!ボリス・ヴィアンの歌う「僕はスノッブ」が収録されている!他、曲目リストをじっくりご覧あれ!<曲目リスト> 1. サマータイム(アンジェリック・キジョ) 2. 陽気なブッチャーたち(キャサリン・リンガー&レネゲイド・ブラス・バンド) 3. ラヴァー・マン(CHINA) 4. ウォーターメロン・マン(ディー・ディー・ブリッジウォーター) 5. アイル・ビー・シーイング・ユー(フランソワーズ・アルディ&イギー・ポップ) 6. あとには何もない(ザ・ジャズ・パッセンジャーズwithデボラ・ハリー) 7. ジャヴァネーズ(ジャッキー・テラソン) 8. ブラック・コーヒー(パトリシア・カース) 9. ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド(プリンセス・エリカ) 10. ラウンド・ミッドナイト(レ・ニュビアン) 11. 悩みのたね~愚かなり、わが恋(ジェーン・バーキンwithジミー・ロウルズ) 12. キャラヴァン(ブリジット・フォンテーヌ) 13. ソフィスティケイテッド・レイディ(エリ・メデイロス) 14. 僕はスノッブ(ボリス・ヴィアン) 『サルヴァドールからの手紙』アンリ・サルヴァドール2000年の現役復帰作!なんと!このアルバム『サルヴァドールからの手紙Chambre Avec Vue』はフランス国内では50万枚を超える売上を記録、全世界で200万枚のセールスを記録する大ヒットに!同時に『Victoires de La Musiques(←フランスにおけるグラミー賞)』で、「アルバム・オブ・ジ・イヤー」と「アーティスト・オブ・ジ・イヤー」の2つを獲得している。フランスには“バカンス・ミュージック”というジャンルがあるそうな。 まさにそんな余裕綽々な、ウイットに富んだ名作。聴くものを抱きしめ優しく愛撫するかのような、艶やかな声!かのカエターノ・ベローゾさえもオマージュを捧げている。トゥーツ・シールマンス、フランソワーズ・アルディ(アルディ自身もアンリの大ファン!)も参加。 (左)『PERFORMANCE!~ライヴ・アルバム』 2003年3月にCanal+というフランスのテレビ局のスタジオで行われたライブ録音盤!84歳のアンリが放つライヴ・アルバム。ジャズ、ボサ・ノヴァ、ソウルを渡り歩いた男の歴史がこの1枚に凝縮、楽園のフレンチ・ヴォーカルを聴かせる。ビレリ・ラグレーン、ロラン・ヴルジー、リサ・エクダールがゲスト参加。 (右)『愛しい君との愛しい時間』「私も敬愛するアンリさんの新作は、なんて軽やかでロマンティックなんでしょう。愛とユーモアに満ちた本当に素晴らしい作品です。」小野リサアンリ・サルヴァドールが86歳にして放つアルバム。アンリさん小野リサのアルバム『DANS MON ILE(ダン モニール) 』にもデュエット参加して本国フランスでも話題になりました。2002年、9月27日~29日渋谷・シアター・コクーンで奇跡の来日公演!85歳とは思えないほどの軽快で伸びのある、優しい声。まさに”魔法の粉”をふり掛けられたみたいに観客は魅了されました。輸入DVD『BONSOIR AMIS』2004年11月16日、パレ・デ・コングレで行われたライヴを収録したDVDです。特典として、舞台裏映像、ビデオクリップ収録のお宝盤!「メドラノ劇場に出演していたラムというコメディアンが大好きで、毎日のように通って、客席で他の誰よりも大声を出して笑っていたんだ。そしたらある日、そのラムが私に目をつけて楽屋に呼んでくれた。そして、キミの笑い声は素晴らしい、キミには人を幸せにする才能がある、って言ってくれたのさ」
2008年02月15日
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Henri Salvador & Boris VianDVD『想い出のサンジェルマン』 【原案】 ボリス・ヴィアン「サンジェルマン・デ・プレ入門」 【監督】:ジャック・バラティエ【撮影】:エチエンヌ・ベッケルジャズとシャンソンが出会う街、サンジェルマン・デ・プレに過ぎし日々ーナチスによるパリ占領やその開放により、戦争から解放された人々が自由を謳歌した40年代のパリ6区のサンジェルマン・デ・プレ。ジャズにわき、ジャン=ポール・サルトルやシモーヌ・ド・ボーヴォワール、アルベール・カミュら実存主義者たちがナチス占領下のパリでサンジェルマン・デ・プレに避難場所を求め地下酒場で気炎をあげ、多くの知識人、文化人、ジャーナリストたちを巻き込んで、打倒ファシズムの原動力になっていた。サンジェルマン・デ・プレは自由を愛する者の集まる聖地であった! サンジェルマン・デ・プレ40年代の「うたかたの日々」。その中心地は穴蔵酒場「タブー」。その仕掛け人は”ルネッサンス・マン(万能の人)”ボリス・ヴィアン!1947年、17世紀に造られた地下貯蔵庫(カーブ)を改造して、プライベート・クラブを開店しサンジェルマン・デ・プレを流行の街に仕立てあげたのであった。この店には当時の有名人たちが毎晩のように集まり、飲めや歌えの大騒ぎがくりひろげられていた。タブーには、支配人もいなければ、部屋に敷き詰められた高級絨毯も、夜会服もなかった。ダンスホール全盛の時代。ジャズが聴けるというだけでも珍しく、しけた椅子と机だけがおかれた、がらんとした穴蔵だったけれどもそのそっけなさが受けた。タータン・チェックのシャツにバスケット・シューズといういでたちのエクジスタンシャリスト(実存主義者)と呼ばれる若者(穴蔵のどぶネズミとよばれていた)ばかりが、毎夜、ボリスヴィアンのトランペットに浮かれて踊っていた。 -エド・ヴァン・デル・エルスケン(ED VAN DER ELSKEN)-「セーヌ左岸の恋(LOVE ON THE LEFT BANK)」 ヴィアンは十代の頃から熱烈なジャズ・フリークであり、兄弟たちとジャズ・バンドをはじめ、トランペットに夢中になった。22歳の頃にはクロード・リュテというクラリネット奏者の楽団に入ってジャズに興じた。彼の演奏は十分プロとしてやっていけるくらいでこの映画でも再三、トランペットの演奏シーンが観られる。1949年さらにヴィアンは、もう一つのカーブ「クラブ・サン・ジェルマン」を開店、チャーリーパーカー、マイルスディヴィス、シドニー・ベシェらが素晴らしい演奏を繰り広げられていたのだった。こんな、カーブの喧騒に満ちた風景と、ロックに取って代わられた60年代の同地区と対比させながらつづったジャック・バラティエ監督のドキュメンタリー作品です。戦後のパリの穴倉で、飲んで、踊って、愛し合う…パリの才人、芸術家が集まるサンジェルマン・デ・プレの最も活気に溢れていた時代の当時の映像で構成された貴重なドキュメンタリー。サルトル、ボーヴォワール、カミュ、メルロ=ポンティ、コクトー、ピカソ、クノー、プレヴェール、ツァラ、ブルトン、アルトー、ジュネ、グレコ、バディム、エリントン、マイルス…そしてヴィアン!ジュリエット・グレコは、マイルス・デイヴィスのロマンスも、サンジェルマン・デ・プレ、それは魂の村。戦後のパリを彩ったサン=ジェルマン=デ=プレの狂躁の日々が甦る。 -エド・ヴァン・デル・エルスケン(ED VAN DER ELSKEN)-「セーヌ左岸の恋(LOVE ON THE LEFT BANK)」 「脱走兵」大統領閣下 お手紙を差上げます時間があれば 読んでいただけるでしょう私は今 令状を受取りました水曜日の夜までに 戦地に発て、と大統領閣下 私は 戦争はしたくありません可哀相な人たちを殺すために 生まれてきたからではないからです閣下を 怒らすつもりはありません 閣下に 申し上げなければなりません私は決心しました 脱走しよう、と生まれてから 私は 父の死をみて兄弟たちが出征するのをみて 子供たちが泣いているのをみました私の母は ひどく苦しみ 今では墓の下にいます爆撃も気にせずに ウジ虫も気にせずに私が捕虜だったとき 私の妻を盗まれ私の魂を盗まれました それに 私のいとしい過去のすペてを明日の朝早く死んでしまった歳月に門前払いをくわせるつもりです 私は旅に出ますフランスの道端で 物乞いをして暮しますブルターニュ地方からプロヴァンス地方まで 私は人々に訴えます服従を拒むんだ 戦争を拒むんだ戦争にいってはいけない 出征を拒むんだ血を流さなければいけないのなら あなたの血をどうぞ閣下は 偽善者ですね 大統領閣下私を追跡するのなら 憲兵たちに伝えて下さい私は何の武器ももっていないことをそして 撃ち殺して構わないということを 『墓に唾をかけろ(J'irai cracher sur vos tombes)』(1946年)監督:ミシェル・ガスト 脚本:ボリス・ヴィアン 撮影:マルク・フォサール 音楽:アラン・ゴラゲール 出演:アントネラ・ルアルディ/クリスチャン・マルカン/ポール・ゲール/フェルナン・ルドー/ルナート・ウエールボリス・ヴィアンがアメリカ人黒人作家ヴァーノン・サリバン作として発表した小説が原作。この偽名で売れる小説としてアメリカンポルノを3週間で書き上げる。外見は白人にしか見えないが、その実は黒人の子である主人公の無軌道な日々と、白人のセックス・フレンドたちに自らのルーツがばれてしまい、殺人を犯すまでを描いたスキャンダラスな物語。これが爆発的に売れ、スキャンダルとなり発禁。訴訟にまでなり、公然猥褻罪により10万フランの罰金刑。ボリス・ヴィアンの肩書きを並べてみると…エンジニア技師、家具デザイナー、自動車修理工、自動車レーサー、映画俳優、画家、ナレーター、ジャズ・トランペッター、音楽評論家、文芸評論家、ジャーナリスト、SF研究家、DJ、イベント・オーガナイザー、音楽プロデューサー、レコード会社のディレクター、作詞作曲家、歌手、詩人、小説家、映画監督、オペラ・バレエ・演劇・映画の脚本家、翻訳家、ペテン師、遊び人(サンジェルマン・デ・プレのプリンス)、反権力思想煽動家。数多くの顔を持った男ボリス・ヴィアン。彼が動き回った軌跡はジャンルの壁を越えていた。ただ、ヴィアンは、「私は実存主義者ではない。事実、実存主義者であれば実存は本質に先立つ。私にはその本質がないのだ」という発言にもあるように、サルトルの実存主義とは一線を引き、あらゆる主義、運動から自由であろうとしていたのです。 ルイ・マルは、映画「死刑台のエレベーター」が完成し、さて音楽をどうしようかというその時に、自身のクインテットを一旦解散したマイルス・デヴィスが単身パリに来ているという事を知り、友人であるボリス・ヴィアンに紹介を頼んだのでした。マイルスは49年5月に初めてパリへ渡り、ジュリエット・グレコと激しい恋に落ち同棲生活を送っていた。マイルスは映画の試写を見て「やる気」になり、当時「クラブ・サンジェルマン」で演奏していたヴァルネ・ウィラン以下4人をピックアップして録音する事になったのです。その録音もまた画期的なものでした、スタジオで映画の画面を流し、その画面を見ながら即興演奏し、録音していったのです。映画「死刑台のエレベーター」とマイルスの音楽との完璧なる一体化はこうして実現したのです。マイルスはこの時ジャンヌ・モローにひとめ惚れしてしまったという話です。ヴィアンは長年心臓に欠陥を抱え、不整脈に苦しんでいた。トランペットを吹くことは心臓病を抱えたヴィアンには危険なことだったが、彼本人は意に介していなかった。むしろ自分で「40になる前に死ぬよ」と常々語っており、短命を予感していたようである。1959年6月23日の朝、論争の的になっていた『墓に唾をかけろ(J'irai cracher sur vos tombes)』の映画試写会のため、ヴィアンはシネマ・マルブッフの館内にいた。ヴィアンはプロデューサーと作品の解釈を巡り、何度も衝突してきた。そして、その日もエンドロールで流れる制作関係者名から自分の名を外したがったヴィアンは、この映画を公然と非難した。映画が始まって数分後、伝えられるところによると、ヴィアンはこのように口を滑らせたと言われている。「こいつらはアメリカ人になったつもりなんだろうか?馬鹿にしやがって!」その直後、急な心臓発作に見舞われたヴィアンは座席に倒れ込み、病院へ搬送される途中に息を引き取った。彼は当時僅かに39歳であった。『日々の泡』、『北京の秋』などすぐれた作品を数多く書くが、アメリカ小説の翻訳と称する『墓に唾をかけろ』(46)を公表したことが筆禍をまねき、結局正当な評価を得ることなく短い一生を終えなければならなかった。しかし、死後数年して彼の文学はコクトー、サルトル、ボーヴォアールらによって再評価され、すべての作品が復刊されるとともに、戯曲の上演、劇作集、詩集、の刊行が相次ぎ、若い読者層から圧倒的人気を受けている。そして、この悲劇のヒーロー像が受け、68年に起きた「五月革命」の時に、若者たちに熱狂的に迎えられた。「ぼくはスノッブ J'suis snob」ぼくはスノッブ ぼくはスノッブ ぼくの気に入っている 唯一の欠点みがきあげるのに何ヶ月 らくな稼業じゃないけれど ハイデガルドと出かけると 人目をひくのは ぼくの方ぼくはスノッブ ぼくはスノッブぼくの友達も みんなそうさ ぼくらは スノッブいいもんだぜオーディガンのシャツ ゼビュウ皮のくつ イタリア製のネクタイ虫のくった古めかしい背広 指にはルビー 足の指だぜ!そいつがちがう 爪はまっ黒 小さくて イカしたハンカチスウェーデン映画をみに 映画館にでかける ビストロに寄るウィスキーもたんまりのめる 肝臓なんか悪くない そんなのは もう時代おくれぼくのは 潰瘍さ こいつは ザラにないし 高くつくぼくはスノッブ ぼくはスノッブ名前はパトリックだけど みんなにボブと呼ばれてる 毎朝 乗馬に通うあの馬糞のにおいがたまらない トロンボーンみたいな名前の 男爵夫人としかつきあわないぼくはスノッブ とびきりのスノッブ女を抱くときも 中庭ですっ裸 毎週 金曜日になると 友達みんなが集まってスノビズム・パーティ コーラもあるけど みんな大きらい カマンベール・チーズも 小さなスプーンで食べるんだぼくのマンションは サイコーに イカしてる ダイヤで暖房これ以上の夢はない テレビもあるけど あんなのは退屈後ろ向きにする 後ろなら夢中になれるぼくはスノッブ ぼくはスノッブその菌にすっかりイカれてる ジャガーで 事故をおこす 8月はベッドですごすこういう厳密なことで スノッブかどうかが きまるんだぼくはスノッブ さっきよりずっとスノッブ ぼくが死んだら ディオールの屍衣をかけてくれ
2008年02月15日
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Everyday,Music from The Penguin Cafe Orchestra in the Sunday morning「室内環境弦楽奏団風クールミント不思議サウンド……」◇The Penguin Cafe Orchestra◇ペンギン・カフェ・オーケストラ (The Penguin Cafe Orchestra)イギリスの故サイモン・ジェフス Simon Jeffes(1949-1997)のプロジェクトで、70年代半ばにブライア・イーノの主催するオブスキュアレーベルからデビューして注目を集めました。ヴァイオリン、オーボエ、ヴィオラ、チェロ、ウクレレ、アコーディオンなど、いろいろなアコースティック楽器の組み合わせで心休まる音楽を奏で、その音楽性は「室内環境弦楽奏団風クールミント不思議サウンド……」と称されていました。ミニマルなサロンミュージックともいえるかと思います。サイモン・ジェフスの音楽的好奇心はエレクトロニクス音楽、実験音楽、民族音楽にあったようですがインタビュー映像のなかでクラシック音楽への回帰をほのめかしていました...。サイモン・ジェフスが他界して数年経ちますが、この民族音楽を隠し味にした独特の不思議系サウンドの後継者はいつか現れるでしょうか?秀逸なジャケット集をお楽しみください!Drawing and painting by Emily YoungSimon Jeffes’s gravity-defying ensemble serves up a compilation of 19 tracks dating back to 1976. A great primer for beginners, this includes marvels of wit and construction like "Telephone & Rubber Band" and "Music for a Found Harmonium" (which is also heard here in a version by Celtic group Patrick Street). --Jeff Bateman ペンギン・カフェ ペンギン・カフェそこは ぼくらの人生があるところ ほかには 何もないけれどきみの乾きをいやすものは ちゃんと テーブルの上におかれているきみに それを持ち上げる力があるならばそれは 自ら重さを和らげるだろうそうすれば きみはそれを手にすることができるもし きみに その力が無いのならペンギン・カフェへ いらっしゃい サイモン・ジェフス 1972.6◇Simon Jeffes◇リーダーの Simon Jeffes は1997年12月11日、脳腫瘍のため49歳の若さでこの世を去りました。「MUSIC FOR A FOUND HARMONIUM」 Simon JeffesLD『帰ってきたペンギン・カフェ』ロイヤル・バレエ団 イザイア・ジャクソン指揮コヴェント・ガーデン・ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団I am Penguinist !One more,a cup of coffee !
2008年02月01日
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【AKIRA帰国ライブ : World Travel Session】~★2008年2月6日(水)★~ 19:00 OPEN/19:30 START会場■ 幾何楽堂 TEL 0288-50-1066 出演■ AKIRA (ボーカル) hajime (ピアノ)料金■ 2,500円※予約メールはhajime_showroom@yahoo.co.jpまで
2008年01月22日
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幾何楽堂PresentsAURORA DANCEby RURIKO星景写真家の中垣哲也さんが、最先端デジタルカメラによる連続写真をコンピュータ編集し動くオーロラの映像を再現します。満天の星空や圧倒的な大自然の風景そこに暮らす野生動物たち神秘の光が舞う、極北の壮大で華麗な夜空をお楽しみください。【日時】 2007年12月15日 (土) 18:30/OPEN 19:00/START【会場】 幾何楽堂【料金】 2,000円【 ご予約 ・ お問合せ 】幾何楽堂 TEL:0288-50-1066 MAIL:norimasa@io.ocn.ne.jp※ご予約の際は、お名前・電話番号・人数をご連絡ください。
2007年12月13日
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幾何楽堂Presentshajime Piano Solo LIVE♪by RURIKO 【日時】 2007年12月7日 (Fri) 18:30/OPEN 19:00/START 【会場】 ペンション トロールの森 フィンチホール 住所 : 日光市所野1541-1395 TEL : 0288-53-1007 【料金】 2,500円 [ 要予約/定員36名 ] ※ 駐車場が少ないため、お車でご来場の際は乗り合わせの上お越しください。※ 当日は宿泊も可能です。ご希望の方は「トロールの森」まで直接お問い合わせください。 【hajime プロフィール】札幌とパリを往来するピアノパフォーマー。旅先でしか曲が書けない作曲家。民族音楽の躍動感と印象派芸術の光と影の織りなす美しさの融合を目指す。国内では「Rising sun rock festival 2004」、また海外ではカンヌ「MIDEM 2007」、マンチェスター「In the city 2006」、パリ「Fete de la music 2005」を中心とし、他に20都市にて公演。イギリス国営放送BBCでヨーロッパ全土に向けてON AIRされ話題になる。国内外のライブでの即興演奏やMCにも定評があり、音楽だけでなく彼の人間性も大きな魅力である。2007年6月に1stフルアルバム「butterfly effect」を全国発売。 【 hajime公式HP 】 http://hajime-key.web.infoseek.co.jp 【 ご予約 ・ お問合せ 】幾何楽堂 TEL:0288-50-1066 MAIL:norimasa@io.ocn.ne.jp※ご予約の際は、お名前・電話番号・人数をご連絡ください。
2007年12月03日
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暮秋の名宴!木村俊介ライブ ~音象~@幾何楽堂★2007-11-4 (日)★ ●木村俊介〈笛・能管・津軽三〉/池上眞吾〈箏〉/西田ひろみ〈Vn〉/池田安友子〈Pc・Mrb・カホン〉 ●木村俊介●和楽器奏者(笛・三味線・能管・他)として活動する一方、作曲・編曲を行う。自作曲によるコンサート活動では、心象風景や心の動きをモチーフとした断章的音楽で独自の世界を展開している。 また、日本各地の神楽や祭礼を取材して歩き、その中の旋法・リズムなどを取り入れた新しい音楽を創造している。’02 第2回ADD 三味線コンテスト・グランプリ受賞(弘前)’05 作品集CD「音象」をリリース。’06 アメリカ・カナダ・韓国・イギリス・ネパールなどで演奏。「和の音・コンサートツアー」(オーストラリア3都市) 「Nepal Japan Friendship Eve」(カトマンズ)等世界を股にかける。’06~’07 坂東玉三郎演出・出演、鼓童「アマテラス」(京都南座・歌舞伎座他)に楽曲・詞を提供。 2005年10月にオリジナルソロアルバム「音象(いんしょう)─木村俊介作品集」をリリース。懐かしいぬくもりを感じさせる木村俊介の音世界!誰もが持っている心象風景を邦楽器によるオリジナル作品で奏でる木村俊介の1stアルバム。数多くのライブ経験とさまざまなアーチストの共演から生まれた100曲を越す作品から厳選した10曲を収録。 ●木村俊介〈笛・能管・津軽三〉/池上眞吾〈箏〉/帯名久仁子〈胡・17〉/西田ひろみ〈Vn〉/那須律子〈Mrb・カホン〉/渡辺亮〈Pc〉 ●収録曲●埋み火/灼けたアスファルトの道を/ゆらぎ/あわひ/新撰組/遠い雷/海へ/眩夜行路/糸/夜想〈以上木村俊介〉木村俊介(笛・津軽三味線)<第一部 15:00 START> 【ゲスト】 池上眞吾(箏) 西田ひろみ(バイオリン) 池田安友子(パーカッション)<第二部 16:00 START>早午後4時を回ると急激に冷え込み、刻々と暮れなずんでいく幾何楽堂。空気が冷たく澄んでクリアな空間に笛・三味線・箏の奏でる和の音色と旋律に西洋のヴァイオリンと多彩なパーカッションが生み出す様々なリズムが自由自在に絡み合う。「季節の変わり目の風の香に、夕暮れ時の子ども達の声に、祭りの宵の色彩の渦に、言葉にならない想いが胸を満たす瞬間があります。音を通してそんな瞬間が創りだせたら、遠い記憶や心象風景を描いていただけたら、という想いで曲を創ってみました・・・」 池田安友子(パーカッション)大阪芸術大学演奏学科打楽器専攻卒業。奥村隆雄氏、細田真平氏の両氏に師事。クラシック音楽や打楽器アンサンブルや現代音楽に傾倒しつつオーケストラや吹奏楽のエキストラをぼちぼちやってた頃、たまたまジェンベと出会い、その音色の深さとエネルギーの強さに衝撃を受ける。早速心斎橋にある楽器屋「タムタムカンパニー」の横沢道治氏にジェンベ・コンガの手ほどきを受ける。現在、フリーパーカッショニストとして、ライブ活動のほか、邦楽楽器やスティールパン、中国琵琶との共演やレコーディング参加、小・中・高校のクラブ指導や、音楽鑑賞会など、ジャンルを問わず関西を中心に活動中。ストックホルムジャズフェスティバルや、ロチェスタージャズフェスティバルなど、海外公演も多数参加。<参加バンド・ユニット・サポートバンド>Diez Puntos・port of call・三田村管打団?・Beat JACK・Westerners・bug four・真依子・あかね葉・絲管打座・cause and effect・Chick・Ajara・キヨタツトム・土居康宏・丸山茂樹・うたたね・みんなげんき・バイラコンディオス・TAC・サキタハヂメ・Luz fonte・Arco-Iris・李浩麗・新井深絵… etc. 池上眞吾(箏)筝、十七絃、三絃奏者/作曲家幼少より両親のもとで筝の手ほどきを受け、斎藤牧子、内田克子に師事。89年東京芸術大学音楽学部邦楽科卒業。93年NHK邦楽オーディション合格。アジア音楽会、宮城箏カンパニー・ハワイ公演(91年)、文化庁使節団トルコ遠征参加(94年)、東京インターアーツ・ハノーバー・ベルリン公演(96年)、同シドニー公演(97年)、日中友好"琴"コンサート(2000年)など、世界各国でのコンサート活動を行う。95年から女子美術大学筝曲部講師をつとめる。CD作品として「三絃茶屋」(94年バンブーレコード)、「OCTET」(95年・同)、「五臓六腑」(98年・同)など。テレビ・ラジオ出演も行う。真樹の会主宰。現在、和楽器を使った様々なライブ活動、作曲・編曲、また執筆活動や各地での講演、コンクール審査員なども積極的に行っている。オリジナル曲は公刊譜化され、数多く演奏されている。西田ひろみ&冷水ひとみの微分音ポップグループ「シジジーズ」上野学園大学器楽学科にて、西洋のヴァイオリン奏法と音楽を修める。1995年-1998年、エジプト留学。ヌビアのウード奏者ハムザ・エルディンにウード奏法、エジプトのヴァイオリン奏者アブド・ダギールにエジプト楽派のヴァイオリン奏法と音楽理論を師事。85年に冷水ひとみと微分音ポップグループ「シジジーズ」を結成、CD"43DPO" (90年CAFE disc), "SUMO" (95年・同)等を録音。ハムザ・エルディンCD「ムワシャー」(95年JVC)、モダンチョキチョキズ2nd CD、ムハンマド・ムニールCD「アル・アローン」等に参加。96年からエジブトのSharkiatメンバー、97年からアブド・ダギール・アンサンブル、及びムハンマド・ムニール・アンサンブルのメンバーとしてカイロを本拠地に活動。現在は東京で活動中。好きな食べ物 辛いもの、酒。料理が好き、塩に関心がある。自然療法を好む。 11月3日(土)~7日(水) 襤褸(古布)の収集と作品展OPEN 10:00am~6:00pm<11月4日(日)は、木村俊介ライブのため休み>30点を超える襤褸(古布)のコレクション。博物館でも見られない代物。更に約80点の作品。襤褸(らんる)の杉浦和子さんが、9月初旬に日光にやってきた。今回は打ち合わせ。わずか1分で終了。予想通り 杉浦さんの明るさとパワーは半端じゃない。いやそれ以上かもしれない。作品の創り方とものの考え方、これだけ似ている人は今まで会ったことがない。杉浦さんは日本中で活躍の場を広げ、杉浦さんにしか扱えない生地が集まってくる。全てを引き寄せる力。これも自然の法則。これらを幾何楽堂に飾る。あまりにも豪快すぎる!二部はなんと皆さんお色直しで登場!衣装は幾何楽堂で開催中の襤褸(らんる)の杉浦和子さんの作品です。なんと驚いた事に、木村俊介さんの衣装を杉浦和子さんが提供していた。木村さんの話をしたときの杉浦さんの驚いた顔。そんな奇跡のようなことがあってよいものなのか。また繋がってしまった。これだけ忙しいお二人が会うことすら大変なのに・・・。全く違う方向から入り、同じ時期に幾何楽堂で発表する。恐るべし幾何楽堂!最後は特別ゲストの柚山明子(ゆやまあきこ)さんのわらべ唄。【柚山明子(ゆやまあきこ)さんの紹介】国分寺市日吉町在住。音大を卒業後、ピアノや声楽を教える。幼児期の音楽指導に『わらべうた』を取り入れて、22年間にわたり子ども達やお母さんたちに伝承しています。懐かしくて心地よい、やわらかな歌声が心に響きます。木村俊介さんの端正な風貌に優しいお人柄、凛として音楽に向き合う姿はとても美しく、彼の紡ぎだす音の心象風景=音象(いんしょう)は、独自の世界を展開しています。正に品格を感じさせる暮秋の名演・名宴でありました。
2007年11月06日
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2007年11月05日
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AKIRAラストライブ!★2007-10-28 (日)★ 大ネアリカ展 AKIRA クロージングパーティーライブ本日18:00開演!!!小説家、画家、ミュージシャンとして活躍するAKIRAの言葉が、君の人生を変える。俺たちの「死者と生者の祭」「今日(10月21日)のライブも50人以上がつめかける大盛況だ。 しかも「無料入場者」も多いぞ。だってやつらから金をとろうにも見えないんだからしょうがないじゃん。 息子を亡くしたふみちゃんの両親、1ヵ月前に母親を亡くしたミホ、3ヵ月前に母親を亡くしたアカネ、しかもオレの新曲はほとんどが死者に捧げるレクイエム(鎮魂歌)のような歌だった。 いやいや、正確に言うと、「死者に捧げる」ではなく、死者が「生者に捧げる」歌だ。それは死を嘆くレクイエムではなく、応援歌だ。死者が学ランに鉢巻きで旗を振りながら「フレーフレー母ちゃん!」とか「フレーフレー我が子!」とかやってるようなもんである。 小坂さんがつくった魔法の扉を開けて、死者たちがつぎつぎと無銭入場してくる。 さあ死者と生者が渾然一体となった前代未聞の祭りがはじまるぞ。」(AKIRA)AKIRAの盟友タクヤさんのはディジュリドゥーという楽器で参戦(?)、なんと名曲「家族」をディジュリドゥーでコラボするというはなれ技をやってのけた。*ディジュリドゥ(Didgeridoo またはDidjeridu) は、5~6万年前からオーストラリア大陸で生活していたといわれる先住民アボリジニが今から1000年以上も前 (2~3万年前という説も)から使い始めたと言われる楽器です。シロアリに食われて筒状になったユーカリの木から作られるというかなり原始的なものであるが、その実複雑多岐に渡る演奏方法・使用目的があり、その名を出したり、楽器を見ることさえ禁じられている特殊な儀礼に使われる特殊なディジュリドゥもある。<10/21 SET LIST>1.今日は死ぬのにもってこいの日だ2.心がくしゃみをした朝3.Walking in the rain4.愛のカタチ(ピアノ)5.Body & soul6.雨ニモ負ケテタクヤ:ディジュリドゥー・ソロ7.家族(タクヤ:ディジュリドゥー)8.「神の肉」朗読(ヨシオ・ディジュリドゥー)9.Life is beautiful10.絆11.たったひとつの命12.なんくるないさ(アンコール)13. 祝福の歌(アンコール) さらに飛び入りのヨシオのディジュリドゥーをバックに最新刊「神の肉テオナナカトル」から母親がなくなるシーンをオレが朗読する。購入可能!最新刊『神の肉テオナナカトル』AKIRA(著)ボブ・ディラン、ローリング・ストーンズ、ビートルズ…60年代、多くの巡礼者を呼び寄せた魔法のキノコ、テオナナカトル。明は死んだ父と再会するため、その「神の肉」を求めメキシコへと旅立った…。異色のロード・ノベル。そして新曲「Life is beautiful」を発表した。「Life is beautiful」もう家に帰れないのかなもうドーナツはつくれないのかな力ない指でぼくの手をにぎったままいつもありがとうねって母が笑ったちっぽけな人生だったわつまらない人間だったわそれでもひとつ自慢できるものがあるのそれはあんたを生んだこと母が笑った Life is painful苦しいことばかりそれでもLife is beautiful人生は美しい世界は生きるに値するOf course! Of course!Life is beautifulそれでも人生は美しいそれでも人生は美しいそれでも人生は美しいOf course! Of course!Life is beautiful「 やがて小坂さんの扉から死者たちが手をふりながら帰っていく。こんなたくさんの生者たちに自分たちのメッセージを聴いてもらえたから死者たちも大喜びだ。死者からの応援を受け、涙で顔を洗い直した生者たちも見ちがえるような笑顔になった。 マジでなんどももっていかれそうになったし、こんなすさまじいライブは今までなかったわ。 そして霊界幼稚園と俗界保育園の引率を果たしたオレは、発熱で倒れた。 瀕死の猫のようにひきこもって、断食と「野獣療法」で復活するぞ。」(AKIRA)「絆(きずな)」空の高みからきみが手をふる生きろ!ぼくの分までって笑ってる断ち切れた絆つなぎ直すためもう一度命の意味考えてくれ肉体の衣装を脱いだって魂の旅は終わらないきっと会える 必ず会えるたとえ生と死がぼくらを裂いても赤い糸で結ばれているぼくらの絆は永久に切れない■前のページ10/26の「AKIRAラストライブ!★2007-10-28 (日)★ 大ネアリカ展 AKIRA ART」に続きます!
2007年10月27日
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AKIRAラストライブ!★2007-10-28 (日)★ 大ネアリカ展 AKIRA ART小説家、画家、ミュージシャンとして活躍するAKIRAの言葉が、君の人生を変える。購入可能!『オラ!メヒコ』田口 ランディ(著), AKIRA(著)ぬけるような青い空に原色の街。タコスにテキーラ。セクシーな女といい男。魅力溢れるメキシコに田口ランディが旅立った。目指したのは伝説のシャーマンがマジックマッシュルームを使ったセレモニーをしているという村・ウアウトラ。そしてネイティヴ・メキシカンたちの息吹が生きる太古の都・オアハカ。「死者の祭り」というお盆真っ最中のメキシコで、田口ランディと一行たちが出合い、見たものは?メキシコは精霊たちが見る夢の大地だった。 絶版、初版本!『アジアに落ちる』AKIRA(著)上海の阿片窟、チベットの鳥葬、LSDセッション、ブッダの4大聖地、ヴァラナシの火葬場、インド最大の聖者たちの祭、前世を覚えている少女、カースト制度と暴力、バンコックの殺人鬼と奇形博物館…。鮮やかな生と死が交錯するアジアから戻ったオレを迎えてくれたのは、バラバラに崩れた神戸の町だった―。アジアの「生と死」を見つめる魂の放浪記。 購入可能!待望の再刊!『アジアに落ちる』AKIRA (杉山明)(著)絶版!『風の子レラ』AKIRA(著)東京に育ち、母を亡くした10歳のレラは、祖母と父の住む北海道に引き取られる。人間の大地アイヌ・モシリで命本来の輝きをとりもどしていくレラ。しかし想像を絶する試練が彼女を待ちうけていた。北海道の大自然を舞台に、彼岸までも内包した巨大な生と死の讃歌。作者入魂の一冊。 我々日本人の体の中にはアイヌの血が4分の1も流れているのに、僕たちは自分たちのルーツ、アイヌのことを何も知らない。AKIRA ART WORKS絶版!『アヤワスカ!―地上最強のドラッグを求めて 』AKIRA(著)騙されても、殺されても、探したかったもうひとつの世界へ。究極の幻覚をもたらす植物を求め、アマゾン奥地へ。殺人蚊におびえ、インチキシャーマンに偽物をつかまされた末に出会った「脈絡なくフラッシュする極彩色のヴィジョン」とは。――書下ろし南米紀行。もし君が自分を見失い、生きていることに疑問を持ったら、安直な新興宗教にはまったり、他人に対して刃を振り上げるまえに、アマゾンに来ればいい。アヤワスカは、いつでも誰に対してでも開かれている。(AKIRA)絶版、初版『Cotton100%』AKIRA(著) 購入可能!再刊!『Cotton100%』 ★2007-10-28 (日) 大ネアリカ展 AKIRA クロージングパーティーライブ「輝け!日本ネアリカ大賞」発表! 会場:ACCELL CELL2 南宇都宮駅前 大谷石蔵のギャラリー悠日2開場:17時開演:18時終演:20時料金:当日券2000円 前売り券1800円 ワンドリンク付き南宇都宮から浅草方面最終電車21:10出発 23:26到着2時間16分(乗車2時間9分、ほか7分)運賃:片道1,160円乗り換え:1回南宇都宮21:10~21:39 8駅 東武宇都宮線・栃木行 1,160円新栃木21:46~23:26 25駅 東武日光線区間急行浅草 ACCELL ギャラリー悠日2
2007年10月26日
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流れるな 涙 心でとまれ祈りプロジェクト AKIRAライブ 9月24日LIVEはノンマイクで観客と交流しながらのプライベート型ライブLIVEで、フクロウのカムイをバックにして丸く囲むように椅子を配置、「焚き火を囲んだ部族のように聴いてください 」というAKIRAのオープニングの声でLIVEは始まりました。 「梟のカムイ Camui of Owl」アイヌの「コタンコロカムイ(村の守り神)」であり、世界中の先住民のあいだで知恵の神様と崇められる梟は、羽を広げ、足爪で脳を開いていく。akiramania今回のライブにひとりの女性がきてくれた。 二児の母であり、全身に転移したガンと闘っているヒロミさんがなんと北海道からかけつけてくれました。ヒロミさんは前回の北海道ツアーでも鎮痛剤で痛みを抑え、タクシーで3度もライブに参加されたそうです。左鎖骨上のリンパ節にできた腫瘍のため気管と声帯が圧迫され、かすれ声で話すのがやっとの状態です。一時消えた痛みがまたでているんですと笑っていましたが、北海道から飛行機に乗ってこんな遠方にまで出てこられたこと自体が奇蹟です。 ヒロミちゃんの病歴はすさまじいものだ。彼女から送られてきたメールを抜粋しよう。(AKIRA)私が 体の異変に気付いたのは、今から7年前の2000年の事。本来ならあるはずのない何かが、下着に触れる感覚。恐る恐る手を伸ばすと、豆粒ほどの小さなしこりが左胸に......。当時、2人目の子供の出産をまじかにしていた私は、婦人科の先生による、触診とエコー検査を受ける。私が50歳だったら、乳ガンを疑っていたに違いない先生は、20歳そこそこに見える私を見て、「若い女性に見られる乳腺腫ですね。」...........誤診だった。授乳により広がった乳管をいい事に、我が物顔で広がり続ける細胞。わずか数カ月のうちに、4cmの大きさまで成長していた。2001年、「乳ガンです。」の告知とともに左胸を失う事実を知らされる。あの時の検査で乳ガンと診断してくれれば、この胸を失わずに済んだのにと、やりきれない気持ちで一杯になる。おっぱいしか受付けない7か月の息子が、授乳を断たれ泣き叫ぶ。凄まじく過酷な戦いが幕を開ける。幼い子供達を両親に預け、2か月間の入院生活が始まる。抗がん剤投与により、頭髪は全て抜け落ちる。手術による胸の喪失感、20cmにもおよぶ傷跡。そこにいるのは誰?鏡に映った自分の姿に愕然とする。変わり果てた体と、再発の恐怖を抱えこれからの人生を歩まねばならない。再発の危険が最も高いと言われた2年が無事過ぎる。検診の度、「要注意人物」と言われる私はいつ再発してもおかしくない。3年4年と、何事もなく過ぎてゆく。5年さえ過ぎれば、再発の危険は、ほぼなくなる。2006年、発病から5年が過ぎようとしていた。乳ガンであることなど、頭の片隅からこれっぽっちもなくなったある日、「再発です。」5年の壁が立ちはだかった。体が震え、動揺を隠せない。左鎖骨上のリンパ節に腫瘍が見つかる。2cmの大きさに達したリンパ腫は、声帯と気管の神経を圧迫し、いつしか声と呼吸を奪おうとする。どんなに叫んでも、小さなかすれ声しか出すことが出来ない。7割型しか機能しない気管からの苦しい呼吸。私の体を蝕んでいくガン細胞は、このままおとなしくはしてくれない。ある日、胸に激痛が走る。骨転移だった。胸骨、肩甲骨、骨盤をはじめ、全身数カ所に骨腫瘍が見つかる。経験した者にしか解らない、体を叩き壊されるかのような激しい痛み。歩く度に、激痛が走る左脚を引きずりながらの生活が待っていた。それでもまだまだ、私に試練を与えてくれるガン細胞。これでもか、これでもかとやって来る。2007年、肝臓に3cmの腫瘍が見つかる。こうなったらもう恐い物は何もなし、何でもきやがれ状態だ。ガンは、心の病とも言われる。必ず自分自身に原因が潜んでいる。私が病気になった原因は、きっと子育てだろう。それまでの人生、たいがいの事は器用にこなして来た私にとって、子育ては、生まれて初めて現れた大きな壁だった。誰もが当たり前にしている子育てが、私には苦痛でならなかった。何一つ思い通りに行かない子育てに、不安や苛立ちを感じていた。この子さえいなければと、正直何度思った事か。ひどい母親である。今となっては、『Hello my mom!』の一字一句が胸に突き刺さり、この子達の母親になれた事を、誇りに思える。そう思えるのも、すべては病気になったおかげ。痛みや苦痛と戦いながらの生活は、確かに辛く苦しい。だけど、ガンと言う病気になってまで、教えてくれようとしたメッセージに気付いた。病気を通して、数えきれない程たくさんの事を学んだ。出会えるはずのなかった、多くの人達に今こうして出会えた。病気になる前より、病気になった今の自分の方が、ずっと幸せだって、自信を持って言える。神様は、ガンと言う人生最大の贈り物をしてくれた。心の底から感謝である。「ありがとう!」PS お守り無事届きました。感激です(*o*)/ AKIRAさんとレラさんがいつもそばにいてくれるようで、幸せです。 明日にでも、病気が治っちゃう気分です。 ありがとうございました。(ヒロミ) オレはレラさんが刺繍してくれたマタンプシ(アイヌの鉢巻き)とウイチョル族のお守り袋をヒロミちゃんに贈った。 そこでみんなにもお願いがある。 ひさびさに「祈りプロジェクト」をはじめたいんだ。あさってから1ヵ月間沖縄ツアーのライブでオレは札幌に住むヒロミちゃんに祈る。 みんなもそれぞれのやり方でヒロミちゃんに祈ってくれ。 もう一度ラリー・ドッシー博士の「魂の再発見」(春秋社)という本から、祈りのポイントをまとめてみよう。1,祈り方は自由。2,祈りに距離は関係ない。3,祈る人が対象を知っていた方が効果がある。4,祈りは量に比例する。たくさんの人が祈った方が効果がある。5,指示的に祈るより、指示しない祈りの方がはるかによい結果が出たという。 「ガンよ、消えろ」ではなく、「ヒロミちゃんにとってうれしいことが起こりますように」、「ベストになること」、「最適」なことが起きることを祈ろう。 6,患者に対して「純粋で聖的な意識」を抱くべきだとドッシー博士は言う。 7,祈った側もよくなるという循環の法則がある。akiramania 「祈る人が対象を知っていた方が効果がある」ので、写真をブログに掲載しております。 いちばんまえに座ってもらったヒロミちゃんをみんなに紹介する。ライブに集まってきた観客のなかにもオレのブログでヒロミちゃんを知ってる人がたくさんいて、みんな驚いている。 「みなさんの祈りがとどいてから、不思議と痛みが治まったんです。ブログを読んだみなさんにもありがとうと伝えてください」 祈りプロジェクトは、魔法でも迷信でもない。まず病気になると「なぜわたしだけがこんな不幸を背負わなくてはならないの」と孤独になる。しかし全国から励ましのメールがとどき、「ひとりぼっちじゃない」、「すべてはつながっている」と気づいたとき、自己治癒能力をせき止めていたブロックがはずれる。自分とつながるすべての者に感謝する気持ちが生まれるんだ。『祈りの歌』 「今回のアンコールはこの曲しかないでしょう。 だって本人が目の前にいるんだもの。ヒロミちゃんをステージにあげ、オレの横に座ってもらう。祈りプロジェクトを説明し、会場全員で祈ってもらう。ヒロミちゃんは手を組み、自分ではない他者に祈りを捧げていた。」今夜君は淋しすぎるから居場所を求め ぬくもり求め街をさまよう誰か気づいて わたしに気づいて汚れた体 けがれたお金呪いつづけるおお罪なる者よおお幸いなるかなぼくたちは見てる 君を見てるすでに君は許されてるさあとどけ 祈りの歌君の胸へと突き刺されさあひびけ 祈りの歌慈悲の涙で地を満たせ今夜君はやりきれないから家中の窓を 拳で砕き腕を切り刻む誰か気づいて わたしに気づいて血に染まるシーツ 身にしみる弱さ憎みつづけるおお孤独なる者よおお幸いなるかなぼくたちはいるよ 君といるよすでに君は愛されてるさあとどけ 祈りの歌君の胸へと突き刺されさあひびけ 祈りの歌慈悲の涙で地を満たせ今夜君は終わらせたいから致死量の薬 ヨーグルトに溶きむりに流しこむ誰か気づいて わたしに気づいてうすれゆく意識 消えゆくサイレン悔やみつづけるおお死に急ぐ者よおお幸いなるかなぼくたちは叫ぶ 君に叫ぶすでに君は生かされてるさあとどけ 祈りの歌君の胸へと突き刺されさあひびけ 祈りの歌慈悲の涙で地を満たせ今夜君は苦しすぎるから病院のベッド 点滴のバッグ嗚咽噛み殺す誰か気づいて わたしに気づいて軽すぎる命 重すぎる運命嘆きつづけるおお不幸なる者よおお幸いなるかなぼくたちは歌う 君に歌うすでに君は守られてるさあとどけ 祈りの歌君の胸へと突き刺されさあひびけ 祈りの歌慈悲の涙で地を満たせ「祈りプロジェクトでみんなに祈ってもらった札幌のヒロミちゃんが宇都宮のギャラリーにいるとは、信じられない光景である。 乳ガンからリンパ、全身へ骨転移したガンを抱えるヒロミちゃんは、札幌のライブにも鎮痛剤を打たなければこられなかった。しかし今はひとりで宇都宮にきた。すごいことだよ、マジで。涙がでるくらいありがたいことだ。」 皆さんもほんのひと時、時間を分けてください。ヒロミちゃん!最良なれ!AKIRA「リクエスト」ライブは、10/21と28の日曜日(18~20時)の2回です。2007-10-28 (日) は、大ネアリカ展 AKIRA 「輝け!日本ネアリカ大賞」発表のクロージングパーティーライブです! ご来場をお待ちしております。
2007年10月16日
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AKIRA大ネアリカ展 AKIRA オープニングパーティーライブ ~★2007-09-23 (日)★~ 大ネアリカ展 AKIRA オープニングパーティーライブ会場の大谷石蔵のギャラリー悠日2 ACCELLのCELL2には耳を疑うほどの「美音空間」があった!このまま録音スタジオに使えるほどの素晴らしい音響空間に大谷石の空間がつくりだすあたたかさ、ライブ会場としては最高に魅力的な空間。9/14の幾何楽堂LIVEに引き続いて北海道からハジメさんと小川とーるさんが自主参加!最強のトラベリングバンドでのLIVEとなった。AKIRA「リクエスト」ライブは、9/30、10/07、10/21の日曜日、各日18~20時と続きます。2007-10-28 (日) は、大ネアリカ展 AKIRA クロージングパーティーライブ「輝け!日本ネアリカ大賞」発表です! ご来場をお待ちしております。「ソウルメイト」 はじめて会ったはずなのになぜかきみを知ってたようななつかしいこの気持ちはどこからくるの一秒さえ おそすぎない一瞬さえ はやすぎないきみと出会う準備をしてたそんな気がするソウルメイト 時を越え出会いつづけるふたつの命 ひとつの魂ソウルメイト 空に幾千の星ひときわ輝くきみを見つけた教えて きみと出会ったのは幸せのためじゃなくてもっともっとだいじな痛み学ぶためなの?人は神の怒りにふれ真っ二つに引き裂かれたもうひとりのきみ自身はここにいるからソウルメイト 時を越え出会いつづけるふたつの命 ひとつの魂ソウルメイト 空に幾千の星ひときわ輝くきみを見つけた父や母や祖父や祖母が恋をしてきみを生んだ命の火をそっと抱いて伝えておくれ人は何度も生まれ変わり少しずつ学んでいく許すこと 信じること愛し合うことソウルメイト 時を越え出会いつづけるふたつの命 ひとつの魂ソウルメイト 空に幾千の星ひときわ輝くきみを見つけたソウルメイト ソウルメイトいつもそばにきみがいたねソウルメイト ソウルメイトいつもそばにぼくはいるよ【SET LIST】トラベリング・バンド(AKIRA:ボーカル。ピアノ:hajime。ギター:小川とーる)1.雲のうえはいつも晴だから2.トラヴェリングマン3.青空のむこう4.今日は死ぬのにもってこいの日だ5.祝福の歌6.シャンティー7.ソウルメイト8.Unconditional love9.Be here now10.アゲハ11アラビア組曲第二章(涙のアンコール)12..家族13.マーマレードスカイ ハジメくんソロのピアノもたっぷり聞けたし、とーるのボーカルは凄みを増しているし、今日のお客さんはお得だわ。雷鳴のようなスタンディングオベーションはつづいたが、「また来週きてください」と、アンコールは「マーマレードスカイ」で幕を引いた。 観客のほとんどはオレの歌を聴いたことがない人たちだが、「歌を聴いてはじめて泣きました」という人が続出の幸せなライブだった。 「なんでそんな現象が起こるのか?」疑問に思う人も多いだろうが、こればっかりは言葉で説明できないのよね。やっぱ生で歌を聴いてもらうしかないなあ。 沖縄や北海道から来てくれた人もいるし、どんなに遠くても直感行動に距離はない。巨大ネアリカにかこまれながらライブを聞ける聴ける奇跡のようなシュチエーションは今しかないよ。 move! move! move! つぎのライブは9月30日(日)18時からです。前売り1800円、当日2000円なので「ギャラリー悠日」HPよりメールでご予約ください。 ソロライブだからどんどんリクエストに応えられるよ。 それと東京、益子、江ノ島でもライブがあるのでよろしくです。ライブというのは生き物で、会場の場と観客とミュージシャンがいっしょに共同製作するものだから、毎回ちがったものになるんだ。 akiramania北千住で音楽バーを開くコージさんが特別ゲスト。摩訶不思議なUFO型のメロディーパッカッション楽器「ハング」(スイス製)とホーメイでソロ演奏をしてくれました。AKIRAの新曲「シャンティー」を共演した。9月30日(日)のライブにも出演予定!□ハング□ ハングはスイスにある楽器メーカーPANArt社の楽器製作者である、フェリクス・ローナー、ザビーナ・シャーラー両氏により開発され、1999年に誕生しました。おそらく20世紀に発明された最後の打楽器。音楽に精通した二人の熟練の金属技術者たちは、金属の音響上の質の調査と、スチール・パンやガムラン、ゴング、ガタム、シンギングソーをはじめ、世界中の太鼓やベルなど各種打楽器の研究を積み重ね、高品質の鉄でできた二面の球体(一面はチューニングされた音階があり、反対側の一面は鍵がなく穴がある)の楽器をつくりあげました。 『祝福の歌』「きみ自身のすばらしさに気づいてほしい。なぜなら「すべての命は祝福されて、この世界に在る」から。 きみがきみ自身のすばらしさに気づいてくれるまで、オレはどんなにハードな状況でも、命をけずってでも、きみにむかって歌いつづけるよ。」祝福の歌神様、あんたはとんでもない嘘つきだな砂浜にはいつもオレとあんたの足跡がふたつならんでいただけどオレが悲しみのどん底にあるとき足跡がひとつ消えていたつまりあんたはオレを見捨てたんだな私の子供よ わたしはつねにあなたとともにある私の子供よ 目を開いてよく見るがいいひとつになった足跡が砂に重くめりこんでいるのをそのときわたしはあなたを背負って歩いていたたとえ誰がきみを否定しようともオレは胸をはり君を祝福するよたとえ君が君を信じなくてもオレは腕ひろげ君を祝福するよGods bless the childだめなままでいいGods bless the child弱いままでいいオレはなにもあげられないからさあ受けとっておくれ 祝福の歌正直に告白しよう オレは麻薬中毒でホームレスで泥棒だった正直に告白しよう オレは家族を友を恋人を裏切ったただ地獄の亡者たちが語りかけてくる声なき声があるオレが死ぬまえにどうしてもきみに伝えたいことがあるんだたぶん神様は教会や神社にはいないだろうたぶん神様は空や大地や鳥や花やすべてに宿っているそして君の心のなかにもひとり神様はいるオレはそいつの名前をこう呼ぶ「愛」とたとえ誰が君を馬鹿にしようともオレは胸をはり君を祝福するよたとえ君が君を見下そうともオレは腕ひろげ君を祝福するよGods bless the childだめなままでいいGods bless the child弱いままでいいオレはなにもあげられないからさあ受けとっておくれ 祝福の歌君の君だけの愛はずっときみとともにあった君を君だけをずっと見守ってきたんだいま君の愛はひからびて死にかけている君が愛に顔をそむけてきたから君の眠れる愛を揺り起こすときがきた愛せ愛せ愛せ 君が産み落とされた世界を愛せ愛せ愛せ 君とつながるすべての仲間を愛せ なによりも君自身をたとえ誰が君をあざ笑ってもオレは胸をはり君を祝福するよたとえ君が君を誇れなくてもオレは腕ひろげ君を祝福するよGods bless the childだめなままでいいGods bless the child弱いままでいいオレはなにもあげられないからさあ受けとっておくれ 祝福の歌■後半は9/26の前の頁に続きます
2007年09月27日
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AKIRA大ネアリカ展 AKIRA オープニングパーティーライブ ~★2007-09-23 (日)★~ 大ネアリカ展 AKIRA オープニングパーティーライブ会場の大谷石蔵のギャラリー悠日2 ACCELLのCELL2には耳を疑うほどの「美音空間」があった!このまま録音スタジオに使えるほどの素晴らしい音響空間に大谷石の空間がつくりだすあたたかさ、ライブ会場としては最高に魅力的な空間。9/14の幾何楽堂LIVEに引き続いて北海道からハジメさんと小川とーるさんが自主参加!最強のトラベリングバンドでのLIVEとなった。AKIRA「リクエスト」ライブは、9/30、10/07、10/21の日曜日、各日18~20時と続きます。2007-10-28 (日) は、大ネアリカ展 AKIRA クロージングパーティーライブ「輝け!日本ネアリカ大賞」発表です! ご来場をお待ちしております。『家族』 きみがこの世にやってきた日 ママは命をふりしぼった うめき踏んばり 叫びながら きみを産み落とした パパはおろおろするばかりで ママの手をぎゅっと握ってた きみと家族になれることが うれしくて泣いた くりかえせ かえせ くりかえせる 螺旋の輪 くりかえし かえし くりかえして 学んでく ぼくらは家族だね ぼくらは家族だね 近すぎてきみが見えなかった わかりあえなくても 認めあえなくても 世界できみだけの家族 きみがこの世をうらんだとき ママは自分を責めつづけた 悩み とまどい 家を捨てて きみをおきざった パパは自分が情けなくて いつもお酒に逃げつづけた 愛がねじれてしまうままに きみをなぐってた くりかえせ かえせ くりかえせる 螺旋の輪 くりかえし かえし くりかえして 学んでく ぼくらは家族だね ぼくらは家族だね 似すぎてて君に目をそむけた 許しあえなくても 愛しあえなくても 世界できみだけの家族 ママがこの世を去っていく日 パパもいっしょに 死にたかった 何度わびてもすまないけど ママを愛してた 家族はたがいの人生を 背負い歩いてくさだめなら 重く苦しい旅だったけど きみに会えてよかった くりかえせ かえせ くりかえせる 螺旋の輪 くりかえし かえし くりかえして 学んでく ぼくらは家族だね ぼくらは家族だね ありがとうときみに 言えなかった 傷つけあったけど 憎しみあったけど 世界できみだけの家族 ぼくらは家族だね ぼくらは家族だね ぼくらは家族だね ぼくらは家族だね ぼくらは家族だね ぼくらは家族だね ぼくらは家族だね ぼくらは家族だね きみがこの世にやってきた日 ママは命をふりしぼった うめき踏んばり 叫びながら きみを産み落とした パパはおろおろするばかりで ママの手をぎゅっと握ってた きみと家族になれることが うれしくて泣いた きみと家族になれることが うれしくて泣いた うれしくて泣いた★大ネアリカ展 AKIRA リクエストライブ!★AKIRA「リクエスト」ライブ:9/30、10/07、10/21の日曜日、各日18~20時。会場:ACCELL CELL2 南宇都宮駅前 大谷石蔵のギャラリー悠日2開場:17時開演:18時終演:20時料金:当日券2000円 前売り券1800円 ワンドリンク付き★AKIRAリクエストライブ★過去20年間は美術、10年間は文学を中心に活動してきたAKIRAはここ数年前から音楽活動が活発になり、北海道から沖縄まで全国から呼ばれ、年間100本以上のライブに追われる日々を送っています。通常のライブにくわえ、障害者施設や養護学校、親と住めない子どもたちやハンセン病の施設まで積極的にチャリティーライブをおこなっています。彼の歌は世代を越え、今までふれられたことのない心の深部にとどき、涙を流す人も少なくありません。悠日の倉庫は理想のコンサートホールです。大谷石のもつ柔らかさと凹凸のない壁が、繊細な反響と暖かい音色を生み出します。今回はAKIRAの要望により、「ネアリカにかこまれたこの特殊な場所で、通常のライブでは味わえない観客との親密な空間をつくりたい」ということで、リクエスト・ライブという新しい試みをいたします。AKIRAのオリジナル曲を観客が1人1曲(先着10曲まで)リクエストでき、生歌で聴けます。ステージと客席というボーダーを越え、観客と語り合いながら、一期一会のプライベート型ライブがくりひろげられます。まさに悠日の大ネアリカ展でしか味わえない貴重な体験をお見逃しなく!なお「リクエストライブ」は人数限定のため早めにご予約ください。
2007年09月26日
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AKIRA 大ネアリカ展 & 小坂憲正・創造の扉展 同時開催!<2007/9/20-10/31 ACCELL 悠日2>~★2007-09-23 (日)★~ 大ネアリカ展 AKIRA オープニングパーティーライブ会場:ACCELL CELL2 南宇都宮駅前 大谷石蔵のギャラリー悠日2(開場:17時開演:18時終演:20時料金:当日券2000円 前売り券1800円 ワンドリンク付き) 「家族のカムイ Camui of Family」★ネアリカ★ネアリカとは、メキシコ山岳部に住む先住民ウイチョル族のつくる毛糸絵画です。シャーマンがペヨーテ(幻覚サボテン)を食べて見たヴィジョンを、毛糸を貼りつけて描きます。AKIRAは現地でその技法を学び、自分独自のネアリカをつくろうと思い立ちました。膨大な手間と時間を労するため、インターネットでボランティアを募集すると、北海道から九州、果てはミラノやベルリンまで、たくさんのボランティアがかけつけました。ギャラリー悠日に展示される120号キャンバス(194X130,3cm)のネアリカは、1作品につき、約1ヵ月、約50人の人々が参加し、1年間で10作品、参加延べ人数は560人にものぼります。AKIRAのホームページでも作品は見られますが、毛糸の質感やダイナミックなうねり、作品のスケールは、じっさいに見てみないと伝わりません。大谷石の倉庫に展示される巨大ネアリカはあなたの予想をはるかに上回る驚きと感動の体験となるでしょう。 「鹿のカムイ Camui of Deer」「太陽のカムイ Camui of Sun」 「蝶のカムイ Camui of Butterfly」「牛のカムイ Camui of Cow」 「梟のカムイ Camui of Owl」「羊のカムイ Camui of Sheep」 「死者のカムイ Camui of Dead」「孤独のカムイ Camui of Solitude」 「変容のカムイ Camui of Trans」「水のカムイ Camui of Water」<<魂の守護神・AKIRA 9月14日(金)幾何楽堂ライブ速報!>>雲のうえはいつも晴れだから 心の天気はめまぐるしく変わる。でも雲のうえにはきみの知らないもうひとりのきみが住んでいて、ずっとずっときみを見守っているんだ。それを人は、神、魂、ハイヤーセルフ(高次の存在)、マスター(賢者)などと呼ぶけど、オレはもうひとりのきみ自身だと思う。自分を信じること。それはちっぽけな自我じゃなく、無限の宇宙を永久に旅しつづけるもうひとりのきみ自身を信じるってことだ。最新ソロアルバム「alone 3」1 雲のうえはいつも晴れだから2 マーマレードスカイ3 愛を知らない子どもたち4 祝福の歌5 Beyond the border6 レラ7 終わらないキスをしよう8 老人と星9 Traveling man10 Hello my mom !『マーマレードスカイ』 広島の原爆を歌った曲だが、60年の時を経て現在に至る心の変遷や生活までをもとりこむ壮大な視野が、せつない再会の物語として描かれている。ヒロシマの今を歌った曲は世界でもこの歌しかないだろう。I sow the marmalade skyEverything is melted down inBrilliant brilliant brilliant mournigmarmalade skyso beautiful marmalade skyまるで夢でも見てるようあなたとまた会えるなんて蝉時雨ふる川辺さえなにも変わらないわ紅茶に浮かぶオレンジが深く沈んでゆく不思議ね想い出熟すと甘くなるなんて時はすべてを壊し時はすべてを変えて人は命の火を伝えてくI sow the marmalade skyすべてが光に溶けていった朝the marmalade sky神が泣いた朝おたがい少し年をとりそれぞれの暮らしがあるうまくいかないことばかりそれも人生かなときどきこんな世界など消えてしまえって思うけど守るべき命があればそれで生きていける時はすべてを奪い時はすべてを与え人は命の火を伝えてくI sow the marmalade skyすべてが光に溶けていった朝the marmalade sky神が死んだ朝今度いつまた会えるかな別々の道へ帰る路面電車に手をふる笑顔昔のまま忘れるほうが幸せでも忘れちゃいけないこともある乗り越えられぬ悲しみは誰も選べない時はすべてを許し時はすべてを癒し人は命の火を伝えてくI sow the marmalade skyすべてが光に溶けていった朝the marmalade sky君が目覚める朝9月14日(金)幾何楽堂ライブから1.fareast wind(ピアノ:hajime、クリスタルボウル:鈴木貴子)2.fright(hajime、鈴木貴子)3.即興(hajime)4.アゲハ(hajime)7.アラビア組曲第一楽章(hajime)8.アラビア組曲第二楽章(hajime)10.青空のむこう(hajime、ボーカル:小川とーる)11.Unconditional love(hajime、AKIRA、小川とーる)12.Be here now(hajime、AKIRA、小川とーる)13.家族(hajime、AKIRA、小川とーる、鈴木貴子)アンコールはこの2曲だ。14.butterfly effect(hajime)15.マーマレードスカイ(hajime、AKIRA、小川とーる)ラストの「家族」で会場はもう感涙状態である。ほとんどの人が歌ではじめて泣いたという。さらにさらに延々とLIVEは続いた16.Change the world(hajime、小川とーる)17.だいじょうぶマイフレンド(hajime、AKIRA、小川とーる)18.雲のうえはいつも晴だから(hajime、AKIRA、小川とーる)さらにアンコールの拍手がつづくので、台湾でつくった新曲を発表!19.シャンティー(AKIRA)20.雨ニモ負ケテ(AKIRA)21.ばあちゃんの手(AKIRA)さらにさらに超絶エンターティナーとーるのオンステージだ。22.非常階段(小川とーる)23.外神田(小川とーる)24.自己都合退社(小川とーる)25.My sweet days(小川とーる)26.離れて想う (小川とーる)東京からきてくれた涼子ちゃんが誕生日なので、ラストはみんなでお祝いした。27.Happy birthday(hajime、AKIRA、小川とーる) 全27曲4時間にわたる愛と平和のステージ!「今日の朝まで台湾にいたのに、帰ったとたんにこのお祭だぜ。1日中断食し、酒だけを飲みつづけたオレは昏睡状態で眠りについた。」AKIRAさん!THANKS!『雲のうえはいつも晴れだから』冷たい雨がきみのほほを打つ負け犬のようにきみはおびえてる容赦ない風がきみの髪をなぶる力尽き果てきみはひざを折る雨も風も嵐のときも雲のうえはいつも晴れだから嘆き悲しみ涙落ちても雲のうえからずっときみを見てる 暴れる感情が渦を巻く自分の無力さにきみは吠える理想と現実がきみの肉を裂く神の身勝手さにきみはつばを吐く雨も風も嵐のときも雲のうえはいつも晴れだから嘆き悲しみ涙落ちても雲のうえからずっときみを見てる洪水がきみを呑みこんでいく岸は遠ざかりきみは空を見る流されるままに身をゆだね自分を信じるんだ 泳ぐな浮け雨も風も嵐のときも雲のうえはいつも晴れだから嘆き悲しみ涙落ちても雲のうえからずっときみを見てる雲の隙間から光がさすなぎ倒された木が大地を育む泥水の川に緑が芽生えるそうだいじょうぶきみは生きているきみの心の空高くにはきみの知らないきみが住んでる無限の宇宙を永久に旅するそれがきみの本当の姿雨も風も嵐のときも雲のうえはいつも晴れだから嘆き悲しみ涙落ちても雲のうえからずっときみを見てる
2007年09月19日
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AKIRA大ネアリカ展(メキシコ毛糸絵画のニューウェーブ) 邪悪な父血の涙を流す母触覚を伸ばす兄テレビのような妹家族をつつむ闇うしろから太陽のごとく見守る祖先の目彼らが過ごしてきた出来事が脳の壁面に落書きとなって残るすきま風の吹く家で 掘りごたつを囲みあったかい味噌汁をすすった楽しいことも悲しいこともいつもいつもいっしょだった飲んで暴れる父を泣きながら止める母僕と妹は裸足のまま夜道を逃げた 楽しいことも悲しいこともいつもいつもいっしょだった母が死に父が死に妹が嫁ぎ僕はひとり家族を想う願わくばもう一度彼らのもとに生まれたいと ★ネアリカ★ネアリカとは、メキシコ山岳部に住む先住民ウイチョル族のつくる毛糸絵画です。シャーマンがペヨーテ(幻覚サボテン)を食べて見たヴィジョンを、毛糸を貼りつけて描きます。AKIRAは現地でその技法を学び、自分独自のネアリカをつくろうと思い立ちました。膨大な手間と時間を労するため、インターネットでボランティアを募集すると、北海道から九州、果てはミラノやベルリンまで、たくさんのボランティアがかけつけました。ギャラリー悠日に展示される120号キャンバス(194X130,3cm)のネアリカは、1作品につき、約1ヵ月、約50人の人々が参加し、1年間で10作品、参加延べ人数は560人にものぼります。AKIRAのホームページでも作品は見られますが、毛糸の質感やダイナミックなうねり、作品のスケールは、じっさいに見てみないと伝わりません。大谷石の倉庫に展示される巨大ネアリカはあなたの予想をはるかに上回る驚きと感動の体験となるでしょう。 ★プロフィールAKIRA(杉山明)美術家、作家、音楽家。1982年渡米。アンディー・ウォーホルより奨学金を受け、ニューヨーク、アテネ、フィレンツェ、マドリッドなどで美術作品を制作し、世界50カ国以上を放浪する。93年帰国。「COTTON100%」(現代書林)、「神の肉 テオナナカトル」(めるくまーる)、「アヤワスカ!」(講談社)、「風の子レラ」(青山出版)など著書多数。9月に「アジアに落ちる」が待望の復刊。 ★2007-09-23 (日) 大ネアリカ展 AKIRA オープニングパーティーライブ「輝け!日本ネアリカ大賞」エントリー 会場:ACCELL CELL2 南宇都宮駅前 大谷石蔵のギャラリー悠日2開場:17時開演:18時終演:20時料金:当日券2000円 前売り券1800円 ワンドリンク付き ★「輝け!日本ネアリカ大賞 募集要項」大ネアリカ展の目玉企画はこれです!!AKIRAのネアリカに参加して、自分でネアリカをつくった人もたくさんいます。誰でもかんたんにでき、やりはじめたら楽しくて完成までやめられません。ここでみなさんにAKIRAから夏休みの宿題です!これを読んだあなたは縁だと思って、ぜひぜひ応募してください。出展料は無料、あなたの作品がギャラリーに展示されます!9月23日(日)のオープニングパーティー「輝け!日本ネアリカ大賞」エントリーでは、出品者に作品紹介のコメントを述べてもらいます。10月28日(日)のクロージングパーティー「輝け!日本ネアリカ大賞」発表では、金メダル・銀メダル・銅メダルの3名、AKIRA賞1名が選ばれ、ギャラリー悠日より記念品が贈呈されます。【募集要項】出展料 無料です。サイズ F8号キャンバス(45,5 X 38cm)に限ります。素材 キャンバスに毛糸を貼った作品に限ります。(ビーズやその他の素材を併用は可)作品数 1個人もしくは1グループで3作品以内です。販売 展示期間中ギャラリーでの販売可能な作品に限ります。販売価格 出展者に直接お知らせいたします締め切り 2007年8月31日(金)展示期間 2007年9月20日(木)~10月31日(水)出展方法 送料は出展者個人負担です。返却は着払いにてギャラリーから郵送します。必ず作品タイトル(10文字以内)、郵便番号、住所、本名、電話番号、Eメールアドレスをお書きください。送り先 〒320-0838 栃木県宇都宮市吉野1丁目7番10号 ギャラリー悠日 電話028-633-6285授賞発表 10月28日(日)18時より。クロージングパーティー&ライブにて発表されます。受賞者には、記念品が贈られます。選考方法 金メダル、銀メダル、銅メダル、AKIRA賞に展示された作品に来場者が投票した(1日の来場ごとに投票権3票)上位3作品を決定します。AKIRA賞はAKIRAによる独断と偏見で選ばれます。(賄賂不可) ★大ネアリカ展 AKIRA リクエストライブ!★AKIRA「リクエスト」ライブ:9/30、10/07、10/21の日曜日、各日18~20時。会場:ACCELL CELL2 南宇都宮駅前 大谷石蔵のギャラリー悠日2開場:17時開演:18時終演:20時料金:当日券2000円 前売り券1800円 ワンドリンク付き★AKIRAリクエストライブ★過去20年間は美術、10年間は文学を中心に活動してきたAKIRAはここ数年前から音楽活動が活発になり、北海道から沖縄まで全国から呼ばれ、年間100本以上のライブに追われる日々を送っています。通常のライブにくわえ、障害者施設や養護学校、親と住めない子どもたちやハンセン病の施設まで積極的にチャリティーライブをおこなっています。彼の歌は世代を越え、今までふれられたことのない心の深部にとどき、涙を流す人も少なくありません。悠日の倉庫は理想のコンサートホールです。大谷石のもつ柔らかさと凹凸のない壁が、繊細な反響と暖かい音色を生み出します。今回はAKIRAの要望により、「ネアリカにかこまれたこの特殊な場所で、通常のライブでは味わえない観客との親密な空間をつくりたい」ということで、リクエスト・ライブという新しい試みをいたします。AKIRAのオリジナル曲を観客が1人1曲(先着10曲まで)リクエストでき、生歌で聴けます。ステージと客席というボーダーを越え、観客と語り合いながら、一期一会のプライベート型ライブがくりひろげられます。まさに悠日の大ネアリカ展でしか味わえない貴重な体験をお見逃しなく!なお「リクエストライブ」は人数限定のため必ず下記リンクよりご予約ください。 ★ネアリカワークショップ開催!★ネアリカにおもしろさは、「つながり」を生むことです。昨日まで他人だったもの同士がいっしょに毛糸を貼り、世間話をしながら、気がつくと友人になっています。職場や学校などとちがい、まったく利害関係のない出会いの場が生まれるのです。障害をもっていようが、心に悩みを持っていようが、病気を持っていようが、小学生からお年寄りまで誰でも参加できます。AKIRAの造語でネアリカに参加した人を「ネアリカン」と呼びます。参加者のひとりがガンにかかったとき、全国のネアリカンから励ましのメールや祈りがとどきました。参加者のひとりが亡くなったときは、彼の両親たちと自宅で追悼ネアリカをつくりました。人間の根元的な欲求には「創作の喜び」が初期設定されています。日常のしがらみからのがれ、純粋な創作の時間に心をひたしてみましょう。もちろんほとんどの人が初心者です。AKIRAがていねいに教えますので、気軽にご参加してください。【ネアリカ・ワークショップ】9/23 、30、10/07、21、28の日曜日、13~17時。参加費1000円。1回につき10名を予定。※ビッグプレゼント! ネアリカ・ワークショップに3回以上参加した方の似顔絵をAKIRAが描きます。ギリシアのパルテノン神殿につづく路上で似顔絵屋をしていたAKIRAの似顔絵は貴重です。ぜひぜひ3回以上ご参加ください! ★2007-10-28 (日) 大ネアリカ展 AKIRA クロージングパーティーライブ「輝け!日本ネアリカ大賞」発表! 会場:ACCELL CELL2 南宇都宮駅前 大谷石蔵のギャラリー悠日2開場:17時開演:18時終演:20時料金:当日券2000円 前売り券1800円 ワンドリンク付き南宇都宮から浅草方面最終電車21:10出発 23:26到着2時間16分(乗車2時間9分、ほか7分)運賃:片道1,160円乗り換え:1回南宇都宮21:10~21:39 8駅 東武宇都宮線・栃木行 1,160円新栃木21:46~23:26 25駅 東武日光線区間急行浅草 ACCELL ギャラリー悠日2
2007年09月05日
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及川中監督作品『日本製少年(1995)』親殺し少年と心臓サイボーグ少女がベレッタを握りしめ、世紀末東京を駆け抜ける!監督、及川中(おいかわ あたる)出演、大沢樹生、嶋田加織、鈴木一功、庄司真理、松坂和歌子、他。 父親殺人未遂の過去を持ち、一人アパートにこもる青年・大和と、池袋の駅前でティッシュ配りをする、心臓にペースメーカーを埋め込んだ少女・薫の破滅的な愛と逃避行。孤独と退廃が支配する刹那的時間の中でもがく青年達をペシミスティックに描く青春映画。-オレ、親殺し少年 アタシ、心臓サイボーグ少女-脚本家を経て「オクトパスアーミー シブヤで会いたい」で監督デビューした及川中の映画第2作。撮影の山本英夫には第1回作品となる。主演はもと光GENJIのメンバーの大沢樹生。共演は美貌のAV女優で現在は引退したと伝えられる嶋田加織。(R指定)父親撲殺の過去を持つ少年・田中大和は、ある日街でティッシュ配りのアルバイトをする少女・薫と出会う。強引に薫に近づく大和。二人は一瞬のうちにお互いの心の中にある孤独と絶望を感じ取っていた。薫は心臓の病気で胸にペースメーカーを埋め込んだ体で、そのペースメーカーの電池が間もなく切れるという…。薫が働く事務所に行った大和は、そこの本業が売春とトルエンの売買だと知る。事務所の社長は、その事務所の少女たちを奇妙な家族的雰囲気でまとめており、ヤマトもその「ファミリー」の一員となる。(社長を演じた鈴木一功が出色の出来!!!)仕事を得、ひょんなことから拳銃を手に入れた大和。彼が最初に弾丸をぶち込んだ相手は、同じ年頃の名も知らぬ少年だった。大和はいつ心臓が止まるかもしれない薫を連れて、危険な逃走を開始した・・・。映画「日本製少年」は1995年12月に劇場公開され、R指定映画ですが、95東京国際映画祭アジア秀作映画週間出品、96シンガポール国際映画祭出品、第5回日本映画プロフェッショナル大賞新人奨励賞受賞、(大沢樹生、嶋田加織)、日本インディーズ映画展横浜96参加作品という各方面で高い評価を得た作品です。 『アタシが死んだら、燃えないゴミの日に出してね』と言う薫のセリフが、観る者の心に深く突き刺さる。嶋田加織の存在感が強烈に印象的でした。「人生ラクだ。らくだ。ラクダだよ」なんといってもこの作品の中で主演女優を務めた嶋田加織の、驚くほどリアルな存在感で「薫」を演じきった演技は特筆に価する。未来に夢を持てず、生命維持装置であるペースメーカーの電池交換を拒否する少女という難役を見事に演じきった。戯歌を歌いながら踊るシーンの愛らしさ、可愛らしさ、くわえ煙草でストロー人形を作る時のアンニュイな美しさと、完成したストロー人形をひろげて踊らせる時の無邪気さ、これほど豊かな表情を繰り広げる女優はそうはいない。彼女の仕草や表情のドキリとさせられる天然な美しさは、ヌーヴェルヴァーグ時代のミューズ、アンナ・カリーナの出現を思い起こさせてくれるほど。90年代の青春の肌触りが画面に息づくボーイ・ミーツ・ガールものの傑作! 薫 「どうしてバイト決まらないの?」大和「前科があるからかな」薫 「何したの?」大和「親父とおふくろ殺したの!」 「こんなに気持ちが良いのにドキドキしない。全速力で走ってもドキドキしないの。」と生きている実感が得ることの出来ない心情を吐露する薫。 ■後編■は8/19付けの日記に続きます。
2007年08月20日
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及川中監督作品『日本製少年(1995)』親殺し少年と心臓サイボーグ少女がベレッタを握りしめ、世紀末東京を駆け抜ける!監督、及川中(おいかわ あたる)出演、大沢樹生、嶋田加織、鈴木一功、庄司真理、松坂和歌子、他。嶋田加織(しまだかおり)1976年6月5日、静岡生まれ。血液型はO型、身長 159cm /サイズ:B 81cm /W 56cm /H 82cm 。1994年12月に『Birth~誕生 第3章』(メシア)でデビューし、1996年にかけて10本余のAV作品に出演する。美貌と均整のとれたスタイルをあわせ持ち、一般誌においても数多くのグラビアを飾った。演技力も高く、唯一の主演映画である『日本製少年』(1995年)における演技は各方面から絶賛され、第5回日本映画プロフェッショナル大賞・新人奨励賞を受賞している。女優としての活躍も期待されていたが、突然引退、その後公の場には姿を現していない。引退して5年以上経った今でも高い人気を誇り、今も尚色褪せない人気は、彼女の女優としての資質の高さを証明している。AV出演作は中古市場で高い人気を維持しており、2003年にはアリスJAPAN時代の作品がDVD化された。大沢樹生(おおさわみきお、1969年4月20日 -)は、東京都江東区出身の俳優。光GENJIの元メンバー。 明治大学付属中野高校夜間部中退。 愛称は「ミッキー」。小学校6年生の3学期の時にジャニーズ事務所に入所。同期生は忍者の正木慎也、ジャニーズJr.の石丸志門ら。1983年3月25日、イーグルスというグループのメンバーとしてレコードデビュー。 しかし、同グループは後に自然消滅。 その後は、NHK『レッツゴーヤング』のレギュラーとなり、「サンデーズ」の一員として活動していた。 1987年8月19日、内海光司と共に光GENJIのメンバーとして再びレコードデビューを果たす。 佐藤寛之と共に、光GENJI及びジャニーズ事務所を脱退。脱退後も、ソロでアルバムやシングルを数枚リリースしている。 1996年に女優の喜多嶋舞と出来ちゃった結婚(妊娠3ヶ月)するが、2005年9月20日に離婚。 2006年11月独立。同月14日には「ワールドプレミアムボクシング イーグル京和・長谷川穂積ダブルタイトルマッチ」で国歌独唱。 はじめてオールラッシュを観た時、嶋田加織はずっと泣いていたという。撮影が終わった直後から「もう芸能界の仕事をやめたい」と周囲に漏らしていたから、及川監督にとってこの涙は嬉しい誤算だった。「スクリーンの中の自分の姿に感動して、一転女優という仕事にヤリガイを見出した」と及川監督は思っていた。ところが、「日本製少年」完成後、嶋田加織の行方はようとして知れなかった。及川監督は「行方不明」だった嶋田加織のポケベルを呼び続けていた。その及川監督に、嶋田加織から電話があった。しかし、嶋田加織は及川監督が芸能界復帰という本題を切り出すのに機先を制するようにこう言った。「私、看護婦になるんです」.......。「やさしい人になりたい」嶋田加織はかつてあるインタビューで「将来の目標」を問われてそう答えている。やさしい人になるために生きる。それはなんて美しい目標だろう。(及川中監督)■及川中(おいかわあたる)監督■1957年東京生まれ。平凡出版(現・マガジンハウス)に編集者として勤務する傍ら、脚本を執筆。オリジナルシナリオ「DOOR」が映画化され(監督・高橋伴明 主演・高橋恵子)、脚本家デビューを果たす。同時にマガジンハウスを退社。1990年、「オクトパスアーミー/シブヤで会いたい」(主演・東幹久、つみきみほ)で監督デビュー。以後、1995年「日本製少年」(主演・大沢樹生)、1999年「富江」(主演・菅野美穂)を制作。特に「富江」では、レイトショー公開の動員記録を達成するなどジャパニーズホラー・ブームの一翼を担うヒットを収めた。今年2005年の春には、エロス文芸作「メノット」(主演・藤本綾、国分佐智子、金子昇)と、パワーアップした富江シリーズの新作「富江BEGINNING」(主演・松本莉緒)が共に公開予定。そして「アインシュタイン・ガール」は夏に公開予定と、新作が次々に控えている。
2007年08月19日
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私の最も敬愛する映画監督のイングマール・ベルイマン氏が30日、スウェーデン南部の自宅で死去しました。89歳でした。 慎んでご冥福をお祈りいたします。
2007年07月30日
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高 橋 竹 山 魂が哭き響く -津軽三味線-初代高橋竹山の世界「おらの三味線、くうための三味線だ」 「おらの眼(まなぐ)見えねぐなったのは、なんでも生まれてまだ二つになんねえどき、麻疹にかかった。むかしはいまとちがって、麻疹に風邪ひかせればゴロゴロ死んでしまうという話で風邪を家の中さ入れないようにしたもんだそうだ。おら家でもおらをだいじにして、だいじにしすぎて暖かいもの着せたり、湯たんぽいれたりしているうちに、おらあまりあつくてのぼせてしまったわげだ。眼眠ってしまって、滅多におがしいな、と眼あげてみたらすでにはあ、星かかってるんだ。すぐ医者さつれていったが、いまの医者とちがってむかしの医者だべ。盲腸も切りようしらねでみな死なせた時代だね、ただの眼薬よこして放っておいだのせ。あのころ麻疹で眼みえなぐなったものはずんぶあった、おらだけでねんだね。だからむかしは座頭出はったんだ。眼医者なんて、なも治す法知らねんだもの、なにほど盲あったかわからねえんだ、むかしは。それでとうとうおらは眼見えなくなってしまったんだえ。たいへんなもんであったな、むかしは。腹三日痛(や)んでコロッと死んでしまう人もいた、あれ、いま思うと盲腸せ、それ。盲腸手術する法わからねえんだもの、なにして眼治せるって。入れ歯する法もこのごろできたんだもの、なしに。これで結局われわれのような盲が出はったんだな、むかしは。おらと同じ年に盲になった子供が村に5人も6人もいた。おらはまだ生きてこうしているけど、みんなもう死んでしまったじゃ。川さ落ぢで死んだのもいるし、木から落ぢで死んだのもいるし。」(「自伝 津軽三味線ひとり旅」より著 高橋竹山 発行所 新書館 1975.11.1 初版)高橋 竹山(たかはし ちくざん)1910年(明治43年)6月-1998年(平成10年)2月5日) 高橋竹山は、明治43年(1910)6月、青森県東津軽郡中平内村(現・平内町)字小湊で生まれる。本名定蔵。幼いころ麻疹をこじらせ半ば失明する。近在のボサマ(戸田重次郎)の内弟子となり三味線と唄を習い、東北から北海道を門付けして歩いた。昭和19年(1944青森県八戸盲唖学校に入学し、針灸・マッサージの免状を取得。戦後は津軽民謡の神様と言われた成田雲竹の伴奏者として各地を興行、竹山を名乗る。この間、雲竹、竹山の名コンビにより津軽民謡の数々を発表。(りんご節、鰺ヶ沢甚句、十三の砂山、弥三郎節、ワイハ節、津軽願人節等は二人の作による。)昭和39年に独立、独自の芸域を切り開いて津軽三味線の名を全国に広く知らした。昭和50年、第9回吉川英治文化賞、第12回点字毎日文化賞を受賞、昭和58年には勲4等瑞宝章を受ける。東京渋谷にあった、「ジァンジァン」でのライブは多くの若者の心を捕らえて、全国に竹山の津軽三味線ブームをわき起こした。全国労音の公演他、ロシア、アメリカ、フランス等、海外公演でも高い評価を受けた。ボサマ(盲目の遊芸人)の門付け芸を芸術の域まで高めた陰には、風雪と社会の差別に黙々と耐えた人間的なたくましさ、三味線という楽器の持つ音楽性を愛してやまなかった懐の深さがあった。「風雪院調絃竹山居士」 「びんぼうは、なんもおっかねえもんではなかった。金がないだけで、あたまやむ(あたまがいたくなる)わけでねえし、はらいたくなるわけでもねえ。ただねえ。ひとがいっしょうけんめいやろうというとき、目のまえへでてきて、ばかにしたり、じゃましたりするやつが、いちばんにくかったね。ひとがいっしょうけんめいに生きようとするのをじゃまするものには、けっしてまけない」 日本人の心を震わせた不世出の天才、津軽三味線の名手・高橋竹山は、1998年2月5日、平内町立中央病院において喉頭腫瘍のため、八十七歳でこの世を去った。戒名は「風雪院調絃竹山居士」。 「三味線で苦労するのは音色だ。音色にもいいわるいがある。どうすればいい音がでるかということは、やはり勉強だ。これだけは習ったってできるものでない。手は習うことができてもいい音をだすのはその人の力と、考えと仕事で研究しなければならないことだ。三味線の音色は、自分の気持ちと指でつくっていくものだ。気持ちと指と一致させるのがたいへんだ。音はおなじ師匠から習っておなじ手でも人によってちがう。そこが面白いところだ。師匠から習ったことばかりで、いいというものではない。師匠のいい音色を頭にいれるということは、これは音だから眼でみてわかるものでない。おらの師匠は三味線は下手だったが、曲の筋道ははっきりしていた。師匠はいくら上手でも筋道しか教えられないし、また、上手は習われるものでない。それは自分でやることだ。師匠というものはまちがいのない基本を正しく教えれば、いい師匠だ。」『寒撥 ~高橋竹山魂の響~』 津軽三味線の名人・高橋竹山が有名になるきっかけとなった、青森放送のドキュメンタリー番組をDVD化。脂の乗り切った62歳の撥さばきと、本人が語る人生の軌跡など貴重な映像を収録。タイトルの「寒撥」は“寒い映像”の意が込められている。 津軽三味線。この太棹の三味線ほど、人をひきつけるものは日本楽器の中でもそうあるまい。ある時は腹の底をえぐるような強い撥さばきとなり、またある時は華麗な曲弾きとなり、そして、またある時は繊細な高音部を現出する。糸は太い順から一の糸、二の糸、三の糸と呼ぶ。本来絹糸を用いるが、奏法上非常に切れやすいため、三の糸にはナイロンを用いる場合が多い。色は黄色で、これはかつて防虫効果のあるウコンを染め込んだ名残とされている。竹山の使っている糸は三本とも絹糸。普通に弾いても、一晩の演奏でもう切れてしまう。津軽三味線は特別演奏が激しいので、一晩に二本も三本も糸を切る人もいる。それで、今はみんな三の糸をナイロンにしている。竹山はナイロンの糸は使わない。むかしながらの絹糸だが、その細い三の糸を、二日も三日も使う。それでも切れないのだ。切れなくても、絹糸だから、糸がのびてしまったりバチで激しくこすられてけばだって音が悪くなるから、新しい糸と、とりかえる。古い糸は捨てないでとっておく。糸ばかりでない、どんなものでも粗末にしない。「どんなものにもいのちがある。いのちあるものをそまつにしてはいけない。なにをやるにも、それにたましいをいれろ。いれなければ、生きたホンモノにはならない」 このわずか三本の糸によって緩急自在、力強くたくましい低音部から繊細優美な高音部まで、数多くのバリエーションを伴いながら、津軽独特のリズム感を軸に曲が演奏される。演奏楽曲は、主として津軽三大民謡(津軽三ツ物)、および五大民謡(五ツ物)。三大民謡とは、「津軽じょんから節」「津軽よされ節」「津軽小原節」を指し、五大民謡とはこれに「津軽あいや節」「津軽三下がり」を加えたもの。数ある津軽民謡の中でも特に即興性が高く技巧に富むため、舞台で好んで演奏される。 現代では独奏楽器としての側面が強調され、吉田兄弟、木之下真市、上妻宏光らの若手奏者が独奏主体の演奏スタイルを確立しているが、本来の唄の伴奏が出来ない奏者も多くなってきており、これを憂う声も多く聞かれる。津軽三味線『竹山流』について一般的な三味線の奏法は胴の棹の近くの絃を撥で弾きますが、津軽三味線の場合はおもに胴の中ほどを胴に張ってある皮を叩く様に演奏します。津軽三味線には、大きく分けて2つの演奏法があります。バチを叩く様に弾く「叩き三味線」ともうひとつは、津軽三味線の名手として謳われた『初代・高橋竹山』が奏でた「弾き三味線」。弦の余韻を演奏に生かし、時には強く、またある時には優しく謳うように弾くのが特徴でとてもダイナミックな音がします。また、「前撥」「後撥」と言う奏法があり「前撥」は胴の棹よりを「後撥」は胴の中央を叩くことで音の強弱を付けたりリズムを付けたりして津軽三味線音楽にとっては大事なテクニックの一つです。左手のテクニックもほかの三味線よりもはじいたり、擦ったり指を動かす量も圧倒的に多いのが特徴です。9 「あんまりせづなくて、ボサマやめるじゃとおもって家さかえったことあった。あっぱ(母)はおらこをかわいそがって、やさしくむかえてくれたんだが、じい(父)のほうが、「こご、おめの家でねえ!」まなぐみえねえものがひとりでくっていけげねえんだら、日本中の、まなぐみえねえ人間は、みな死なねばまいねべね。バカこぐな」としかって、家さいれてくれなかった。「なんぼでも、あんまりだ」と、おらはずうっとじい(父)をうらんでいた。が、あとになってじい(父)のあのときのきもち、わかるようになった。もしあのとき、じい(父)がおらば家さいれてくれていたら、おらはいまごろどうなっていたか。 おらば家さいれてくれなかったじい(父)が、おらのことをいちばんしんぱいしてくれてたんだ。がまんづよかったじい(父)は、歯をギリっとかんで、がまんして、おらば家さいれなかったんだべ。 ホイドのなかまが小湊さいったとき、おら家ではじい(父)が、「定蔵も旅でせわになってるべ。どうかゆっくりとまっていってけへ」と、なんにちもとめて、ごちそうしてくれたと、あとで、なん人もの人からきいた。」 津軽三味線の名手、高橋竹山は、1926年十月ボサマとして独り立ちした。十六才だった。ボサマというのは、門付けしながら放浪する盲目の旅芸人のことである。二歳で視力を失った貧しい少年の生きる道は、ボサマになるしかなかったのだ。 近世、盲人音楽家は平家琵琶を専業としていましたが、三味線の輸入に伴い、専従する人も現れ、三味線は近世音楽の代表的な楽器となり、人形浄瑠璃や歌舞伎芝居にも取り入れられ、江戸時代には小歌、端歌など多種多様の様式が生まれては消えていきました。高橋竹山は15才で梅田豊月の弟子である藤沢の戸田重次郎に弟子入りをしています。 2年で独立した高橋定蔵は生きる為の門付け、唄会興行、映画館の楽隊、浪花節の伴奏等をしながら津軽民謡の至宝、成田雲竹に出会いますが、熱狂的な唄会ブームや芸人の荒んだ生活に背を向け一人で門付けを続けます。ところが、戦争のために門付けも不可能となり、浪花節興行に入ったものの一座の座長に偽られ娘の死をも知らされなかったことから、興行での三味線を辞め、35才で八戸の盲唖学校に入学、按摩や鍼灸で生計を立てようとします。■7月14日の日記に続きます。
2007年07月15日
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高 橋 竹 山 魂が哭き響く -津軽三味線-初代高橋竹山の世界【其の弐】「おらの三味線、くうための三味線だ」 戦争が終わり、鍼灸業を始めた高橋定蔵は、戦前には雲の上の人であった成田雲竹に抜擢され、伴奏者として再び三味線を手にしました。 成田雲竹は、唄会興行で見られる派手なだけの節回しや、猥雑な歌詞を嫌い、酒(金と座興)の席では決して歌わず、献身的に津軽民謡の発掘、普及に取り組んだ、まさに津軽民謡の父と言える人です。 高橋定蔵はラジオ青森の民謡教室や雲竹の公演に同行し、昭和30年頃からは成田雲竹のつけた「竹山」の号を名乗るようなりました。 それまでは津軽民謡、津軽三味線といっても、わずか数曲を手を変え、節を変えて演奏していたものでしたが、成田雲竹の専属伴奏者としての約15年の間に雲竹が見いだした津軽の古い唄の数々や雲竹の作曲した唄に三味線の手をつけ、幾多の津軽のうたが津軽民謡として形を整え全国に知られるようになっていきました。昭和39年、竹山は初の津軽三味線の独奏だけのLPレコードを出しました。この年、成田雲竹が引退、竹山は労音を中心に全国を「現代的な門付け」行脚をスタートします。この時から、成田雲竹の最後の弟子、(財)日本民謡協会 日本一を獲得し、名実ともに津軽民謡のトップとなった須藤雲栄が唄い手として同行、目の不自由な竹山を支えて10数年にわたって渋谷ジャンジャンをはじめ労音等によって全国各地での演奏活動を展開しました。ここに空前の竹山ブームが巻き起こっていきました。1986年(昭和61年)にアメリカ公演をし、これが世界に津軽三味線の名を知らしめるもととなった。その存在、演奏は国やジャンルは違うがブルースで言うところのロバート・ジョンソンに匹敵する。晩年は声もほとんど出せなくなっていたが衰えを自覚しながらも現役を退かなかった。1998年2月5日声を失なう原因となった咽頭癌により死去、享年87。 「三味線で苦労するのは音色だ。音色にもいいわるいがある。どうすればいい音がでるかということは、やはり勉強だ。これだけは習ったってできるものでない。 手は習うことができてもいい音をだすのはその人の力と、考えと仕事で研究しなければならないことだ。 三味線の音色は、自分の気持ちと指でつくっていくものだ。気持ちと指と一致させるのがたいへんだ。音はおなじ師匠から習っておなじ手でも人によってちがう。そこが面白いところだ。 師匠から習ったことばかりで、いいというものではない。師匠のいい音色を頭にいれるということは、これは音だから眼でみてわかるものでない。 おらの師匠は三味線は下手だったが、曲の筋道ははっきりしていた。師匠はいくら上手でも筋道しか教えられないし、また、上手は習われるものでない。それは自分でやることだ。師匠というものはまちがいのない基本を正しく教えれば、いい師匠だ。 学校の先生も同じだと思う。先生のように生徒にやれ、といってもできるものでない。基本をしっかり覚えれば、あとはその生徒に頭があれば、先生以上にやりたければやればいい。その筋を忘れないで勉強させれば教わったものは生きた力を出していく。 芸もその通り、師匠の教えた筋、規則を守らないで、早くうまくなろうと思って基本からはずれたり、自分のやりやすいものをやるのではろくなものにならない。そういうのはいつまでたっても同じで、なるほどというところがなにもなくて終わってしまう。 才能のある人は、同じに習ってもたいへんうまく師匠から習った型を生かしてやる。才能のない人は師匠から型を習っても、型を忘れてしまって手前勝手にやる。 こうした人はうんと努力しているのに何年やっても上達しない。どうでも努力すればいいというものではない。」(「自伝 高橋竹山 津軽三味線ひとり旅より」著 高橋竹山 発行所 新書館 1975.11.1 初版) 「三味線は好きだ、でもボサマになって歩くのだけは嫌いだった。あんな事は恥ずかしくて出来ないと思っていた。三味線をやれば皆、あの様に歩かないといけないと思い込んでいた。そうこうしているうちに、友達は小学校を卒業して、みんな町に働きに出る。あの頃は職を習いに奉公に出たものだ。私は何もしていない。私も働かないとと思っても、どこへも行けない。ぐずぐずしていたものの結局、好きでないけど三味線を習いにボサマのところに行くしかないと思うようになった。その頃はまだ少しは見えていた。1人で歩くだけなら見えていたんだ。」~高橋竹山 自伝 津軽三味線一人旅より~ 1973年(昭和48年)12月、東京渋谷の小さなライブハウス「ジァンジァン」を埋めた若者たちは、時には地吹雪のように激しく、時には音も無く降り積もる雪のような、津軽三味線の独奏にはじめて接し、その変幻自在な津軽三味線の音色の世界に酔いしれ、演奏の途中で何回も拍手が起きるという音楽会では異例の興奮に包まれていました。それは三味線一丁、高橋竹山一人だけの津軽三味線演奏会での光景です。特にこの時演奏された「即興曲・岩木」は、三味線という楽器の持つぎりぎりの可能性に挑み、津軽に根付いた音を竹山独特の感性で研ぎすまし、従来の津軽三味線の枠を突き抜けた新しい響きとドラマを生んだものとして、若者たちの心に深く突き刺さっていったのでした。高橋竹山のこの演奏は日本の音楽シーンに“津軽三味線の独奏”という新たなジャンルを切り開いたのでした。そしてこの演奏会を契機に、高橋竹山の名は全国に轟き、津軽三味線の響きが日本の隅々にまで鳴り渡るようになっていくのです。さらにアメリカやヨーロッパ公演も成功させるなど、海外でも高い評価を受けた。『独り語り・三味線は津軽の匂い』津軽じょんがら節/津軽よされ節/津軽中じょんがら節/即興曲「岩木」明治43年、青森県東津軽郡で生まれた高橋竹山は、幼い頃に病気が原因で視力をほとんど失ってしまう。"生きていくため"に三味線と唄を習った竹山は、"門付け"をして東北・北海道を回って歩いた。門付け生活は貧しく辛いものだったが、そこで磨かれたその至芸は戦後になって徐々に評価を高め、'70年代には渋谷ジャンジャンでの演奏をきっかけに空前の"竹山ブーム"を巻き起こす事となった。さらにアメリカやヨーロッパ公演も成功させるなど、海外でも高い評価を受けた。ある時は悲しく、ある時は激しく、そしてある時は優しく…竹山の紡ぎ出す音は人間の五感全てに訴えかけてくる。晩年の竹山の"魂の響き"は、"達人"の境地に達した者だけが持つ何かを我々に感じさせてくれる。その竹山も、1998年2月に87歳で惜しまれながら他界した。本作は、竹山の演奏にインタビュー映像を織り交ぜて収録。彼の演奏と共にその人柄にも触れることが出来る、貴重な映像作品である。『その人生~音は枯野をかけ廻り』即興曲「岩木」/津軽よされ節/津軽中じょんがら節/津軽山唄/津軽小原節/津軽よされ節本作は、竹山の生涯を自らの語りと遺された貴重な演奏映像で綴るドキュメンタリー作品。至高の境地に達した竹山の演奏とその生涯を、じっくりと味わうことが出来る。『名演集・魂が哭き響く』津軽じょんがら節/津軽よされ節/津軽中じょんがら節/即興曲「岩木」/津軽小原節/津軽あいや節/津軽音頭本作は、竹山が生前に残した映像から代表的な名演を集めて収録した貴重な作品。日本の一つの時代が生み出した"至高の芸"を、全ての人々に堪能して欲しい。■其の参は7月13日の日記に続きます。
2007年07月14日
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高 橋 竹 山 魂が哭き響く -津軽三味線-初代高橋竹山の世界【其の参】「おらの三味線、くうための三味線だ」『竹山ひとり旅(1977)』高橋竹山の津軽三味線に賭けた放浪の青春時代を描く。竹山自身が画面に登場するなどドキュメンタリーとフィクションの枠を取り払った意欲作。モスクワ国際映画祭監督賞受賞。■監督:新藤兼人 ■制作: 近代映画協会、ジァン・ジァン■出演:林隆三 /乙羽信子/倍賞美津子/佐藤慶/観世栄夫 「映画は雪の場面が多かったから、撮影は困難を極めた。十三湖の海辺は烈風で空も灰色、怒涛のなかから雪の礫が飛んできた。俳優もスタッフも、風の中に立ちすくんで、一コマ一コマと撮りすすんだ。竹山も、このような中で、一握りの米を恵んでもらうために、家々の門に立って三味線を弾きつづけたのであろうか。竹山はのちに名人と呼ばれるようになったが、名人になるために竹山は三味線を弾いたのではない。生きるために弾いたのだ。 竹山のたくましさは、人生のどん底を覗き見たものの強さだった。映画は竹山の足跡をたどるようにして作ったが、竹山のふところは、いくらはいっても壁というものがなくはかりしれない大きなものを感じた。映画の外でもわたしたちは竹山から多くのものを学んだ。映画「竹山ひとり旅」は。わたしの代表作である。」(新藤兼人「評伝 高橋竹山 魂の音色」松林拓司 著 あとがき より抜粋)『津軽じょんがら節(1973年)』津軽のさびれた漁村の故郷にイサ子は、ヤクザ同士のいざこざで人を刺した男と戻ってくるが・・・流麗な映像で“日本のルルーシュ”と異名をとる斉藤監督が、都会をはじき出された男女の姿を通して、人と風土の関係を描く。荒々しい日本海、高く響く津軽三味線の音色といった土着的な世界と男女の愛の対比も見事。1973年の日本映画各賞を総なめした話題作。■監督 斎藤耕一 ■脚本 中島丈博 、斎藤耕一 ■挿入絵・考証 斉藤真一■音楽 白川軍八郎 、高橋竹山 、若美家五郎 、大瀬清美 、海童道 ■出演 江波杏子 、織田あきら 、中川三穂子 、西村晃 、佐藤英夫斎藤真一 <プロフィール> 1922(大正11)年、岡山県児島郡味野町(現・倉敷市味野)に生まれる。尺八の大師範を父にもち、幼少の頃より芝居、浄瑠璃、浪曲といった日本古来の芸能に興味をもつ。岡山師範で岸田劉生の作風に惹かれてデッサンの勉強に励む。1941(昭和16)年、19歳のとき、上京して川端デッサン研究所に学ぶ。翌年、東京美術学校師範科(現・東京芸大)へ入学。在学中、学徒出陣で海軍に3年従軍する。1948年、東京美術学校卒業。戦後静岡県伊東高校に勤めるかたわら制作をつづる。第4回日展に《鶏小屋》で入選を果たし、以後、岡山、静岡などの学校で教鞭を執る傍ら、日展、光風会へ入選し、画家としての基盤を築きあげる。1959年、パリ留学。ヨーロッパにジプシーなどの芸人を求めて放浪生活を送る。フランス、イタリアを中心に、ヨーロッパを制作旅行し、 藤田嗣治と親交を結ぶ。帰国後、津軽三味線の音色にひかれ、東北地方を旅するうち瞽女(ごぜ)を知る。1960年代から70年代にかけて津軽、北陸を旅して、盲目の旅芸人「瞽女」(ごぜ)に出会い、その後の彼の大きなテーマの一つとなった《瞽女》シリーズを手掛ける。1971(昭和46)年、第14回安井賞展佳作に入賞。越後、信濃に瞽女を訪ね歩き2年目に高田の杉本キクエさんに出会い、多くの瞽女の遍歴した足跡を記録。瞽女の心象の世界を描き続け独自の画境を生む。『瞽女=盲目の旅芸人』(1972年・日本放送出版協会刊)は、第21回日本エッセイストクラブ賞を受賞。『越後瞽女日記』(1973年・河出書房新社刊)は、同年のADC賞を受賞。人人会は5回展で退会。1985(昭和60)年には、明治期に浅草、吉原に生きた遊女の実態を検証し、《明治吉原細見記》を描き、絵画シリーズとともに、『絵草子 吉原炎上』(1985年・文芸春秋刊)を出版し、映画や舞台で広く上演される。1994年9月18日没、享年72才。「ドキュメント日本の放浪芸 小沢昭一が訪ねた道の芸・街の芸」より■瞽女(ごぜ) 瞽女とは、三味線を携え農村・山村を巡る盲目の女性遊行芸人である。ゴゼサン・ゴゼサなどと呼ばれた。「一年のほとんどが旅で明け暮れ、目的の村に着くと<瞽女宿>という泊まりつけの家に荷をおろしては、家々を門付けし、夜になれば、村人が集まり瞽女の本領である段物や口説、民謡などをきかせ、喜捨の米や祝儀が収入となった。」(「新潟県県民百科事典」)新潟県内では、高田瞽女・長岡瞽女が2大組織だが、柏崎近辺では刈羽瞽女とよばれる集団が存在した。 「子供の頃から山は大好きでした。山が好きだとというのは結局小鳥好きなわけですよ、ずいぶんいい鳥いたもんですよ、ツグミ、ルリはいる、カッコー、ホトトギス、ま、たくさんおりました。今、やっぱりどういうわけか鳥はあまり山におりません。私、山へ今もひまみて山へ行きますよ。鳥は余りおりません。何とさみしいような気持ちがします。山へ行っても元のようにあういう鳥はいねえもんだから、もう一回も聞きたいなと思いますよ。鳥の声はいいでっす。あたしは山へ行けば鳥と二人きりでしょう、私と。なんともいえないいいな鳥の声・・・・。」二代目 高橋竹山本名=高橋房子 1955年東京生まれ 幼少の頃に三味線に出会い、11才で稽古を始める。 17才の時、津軽三味線奏者の高橋竹山のレコードを聴いたのがきっかけとなり、18才で竹山の内弟子となる。三味線のみならず、名人とうたわれた故・成田雲竹の格調高い津軽民謡も師・竹山から学びながら、高橋竹与(ちくよ)の名で師・竹山と共に舞台に立つ。内弟子生活6年を経て1979年に独立。翌1980年、初の独演会を東京・渋各ジァン・ジァンで開く。以来、独自の演奏活動を行いながら、師・竹山について日本国内はもとより、1986年のアメリカ7都市公演、1992年のフランス・パリ公演など、海外でも共演している。 基本を大切にしながらも民謡にこだわらず、様々なジャンルの演奏家たちと共演して活動の場を広げながら、独自の音楽表現を模索。伝統にモダンな現代感覚と女性らしい繊細さを盛り込んで精力的にライブ活動を続ける。 1995年、春。師・竹山から独立して15年目を迎えたのを期に、初のCDアルバム「津軽三味線とその試み」(ディスク ジァン・ジァン)をリリース。三味線独奏曲や師・竹山との三味線二重奏曲などの他、天才劇詩人として時代を駆け抜けた故・寺山修司が生前に竹与の為に作詞し竹与自身が作曲した『さらば東京行進曲』『歌のわかれ』『せきれい心中』『紅がすり抄』、北海道民謡「江差追分」とアラブの民謡をベースにした、ヴァイオリンの太田恵資との即興的セッション『北の唄』、三味線とジプシーヴァイオリンが交錯するトルコ舞踊曲『ロンガ・シャーナーズ』などを収録。 1997年 1月、「高橋竹与」改め「二代目・高橋竹山」を襲名。襲名披露演奏会(ゲスト出演=初代・竹山)を渋谷ジァン・ジァンで開く。 「基層文化(文化の生産工場)から出て都市文化の風土に居を移すことによって、新たな文化の領域を創出させることになった例がいくつかある。ジャズがそうである。都市文化に居を移して、能として完成した猿楽、そのシンボル的人物は観阿弥、世阿弥の親子だ。出雲の念仏踊りをもって京都四条河原にやってきて歌舞伎を創始した出雲の阿国も同様だ。個人としてはアフリカ・ガーナの音楽家カラクバ・ドジ、津軽三味線の名人・高橋竹山である。」 (「現代音楽の冒険」(岩波新書)間宮芳生 著)
2007年07月13日
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第12回 つむぎの郷 サウンドフェスタ 2007平成19年7月21日(土) けやき公園 開演16時 料金:入場無料◎宮本貴奈Special Unit/宮本貴奈(p)、吉野弘志(b)、狩野泰一(篠笛) スペシャルゲスト中西圭三(vo)◎TIME FIVE/田井 康夫、野口 鎮男、勅使河原貞昭、吉村晴哉、杉江浩平 etc◎TAK and Friends/鈴木 卓(p)、井上信平(fl)、加藤 真一(b)、仙道さおり(per)◎WOUASSI and OKINI BAND/Vincent Wouassi,Jr(三味線、ds、vo)、松田信男(Key)、佐藤えりか(b)、斎木なつめ(vln)、ナナオ(vo) ○ アプリコット・カフェ ○ ニューフレンズ
2007年06月30日
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○o。女ディランと呼ばれた女!中山ラビ■前編■ 。o○「ディランの歌とか、ビート派の詩とか、私のまったく知らない世界をぱっと見せてくれたの。すごくカルチャーショックだった。何かよく分からないまま、恋に突っ込んでいった」(中山ラビ 特集【OnGen Music Lounge】より) 「人は少しづつ変わる」(中山ラビ)人は少しづつ変わる これはたしかでしょう私を育てた季節が 変わるよに春には芽がふいて 夏にはこんもりみどり濃く秋は枯葉舞い 冬は化石のようそして あなたの心も変わったね石のように冷たいのです人は少しづつ変わる これはたしかでしょうふたりが建てた家が 変わるよにきしむタタミの裏表 にぎやかな茶の間つぎはぎの窓ガラス 雨漏りのトタン屋根そして あなたの心も変わったね訪れる人も とだえたのです人は少しづつ変わる これはたしかでしょう月にうつす川が 変わるよに道ばたに水がわき 岩をまわって流れよどみは泡立ち ひでりの川原そして あなたの心も変わったね「ボブ・ディランは高校の先生が授業で聞かせてくれた。衝撃だった。今まで聞いたことのない歌で、自分のことをちゃんと歌っている人だと思った。ビートルズの来日公演とかも見に行ってるんですけど、そんなにのめりこまなかった。この後、岡林信康を聞いて、ディラン以上の衝撃を受けるんです。なんせ日本語で歌ってるし」(中山ラビ 特集【OnGen Music Lounge】より) 1969年8月、最後のフォーク・キャンプ・コンサートが円山公園音楽堂(京都市東山区)で開かれた。このコンサートに東京から駆けつけ、初参加したのが、女性シンガーソングライターの草分け的存在とされる中山ラビ。日本語に訳されたボブ・ディランの歌などを披露した。東京の高校卒業後中山容氏を追って京都に移り住み、関西のフォークソングコンサートの常連として活躍、岡林信康、加川良等と京都でフォークを歌っていた。ディランのものを中山容の詞でよくうたい、硬派の女性シンガーソングライターとして注目される。中山と言う名前は中山容さんからのもの。<BLOWIN'IN THE WIND /風に吹かれて>どれだけ道をあるいたら 一人前の男としてみとめられるのか?いくつの海をとびこえたら 白いハトは砂でやすらぐことができるのか?何回弾丸の雨がふったなら武器は永遠に禁止されるのか?そのこたえは、友よ、風に舞っているこたえは風に舞っている 何度見上げたら青い空が見えるのか?いくつの耳をつけたら偽善者は民衆の叫びがきこえるのか?何人が死んだら わかるのかあまりにも多く死にすぎたと?そのこたえは、友よ、風に舞っているこたえは風に舞っている幾年月 山は存在しつづけるのか海に洗い流されてしまう前に?幾年月 ある種のひとびとは存在しつづけるのか自由をゆるされるまでに?何度ひとは顔をそむけ見ないふりをしつづけるのか?そのこたえは、友よ、風に舞っているこたえは風に舞っているこれはボブ・ディランが1963年に発表したセカンドアルバム「フリーホイーリン」で、21歳のディランが当時の恋人スージー・ロトロと冬のグリニッジビレッジ西4丁目を歩く姿を撮影した写真です。 『ボブ・ディラン全詩集/1974年版』・『ボブ・ディラン全詩302篇/1993年版』片桐ユズル・中山容 訳<中山 容>1931~1997 翻訳家、詩人。所謂「関西フォーク」と呼ばれた、民衆の歌としてのフォークムーブメントの意志を熱心に説き、日本におけるフォークソング運動の陰の立役者のひとりだった。晶文社からオルタナティブなフィクション、ノンフィクションを多数、翻訳し、(『よい戦争』『仕事!』『ホーボー アメリカの放浪者たち』『就職しないで生きるには』)また、片桐ユズルと二人で、ボブ・ディランの全作品の訳詞集を完成させ、中山ラビをはじめとするフォークシンガーたちに提供したことで知られる。米国の「ビート詩人(Beatnik)」達による自作詩朗読運動の影響を受け、有名な「ビート詩人」達の詩を翻訳したり、また日本で朗読会を企画したりしていた。自身も詩を書く詩人でもあった。 1972年、ポリドールよりアルバム「私ってこんな」(細野晴臣・林立夫・岡林信康という豪華なアーティストが参加)にてデビュー以来、「ラビ ひらひら」(1974年)、「ラビ 女です」(1975年)など、名盤と呼ばれる作品を次々にリリース。 “トランザム”をバック に全国25本のコンサートツァーをこなすなど、発表する作品はもちろん、意欲的なライブ活動においても熱狂的なファンに支持される。永遠性、普遍性を持った数々の作品は当時の音楽シーンにおいて高い評価を受けた。 以降、加藤和彦をプロデューサーに迎えた「MUZAN」(1982年キティ)「SUKI」(1983年キティ)「甘い薬を口にふくんで」(1983年キティ<イタリア・ローマ録音>)など注目作品を発表すると同時に、桃井かおり、梅沢富美男、増田けい子、桂木良子などのアーティストにも楽曲を提供し話題となる。ラビをビッグネームに、、、と、加藤和彦のプロデュースのもと、今迄のイメージを大きく変えるためスタイリスト、メイキャップアーティストをたて女流カメラマンによるジャケット撮影を行ったり、朝倉摂演出のPARCO劇場でのコンサートや、イタリア録音など大掛かりなプロジェクトが実現されたが、結果がついてこなかった。ラビも後戻り出来なかったのだろうか、歌う事をやめた。1987年11枚目のアルバムとなた「BALANCIN'」(CBSソニー)を発表直後、活動を停止、長期に渡る活動休止期間に入る。「挫折したのよ。何の未練もなく、きっちりやめた。やり切ってはないけど、激動の時代、せいいっぱい生きたもの。それが、10年くらいたって、自分が歌うきっかけになった中山容さんが亡くなって、追悼会で1曲歌わざるをえない状況になって、周りから‘昔よりいいじゃない’って言われて・・・。自分でも、アラ、いいじゃないって(笑)。また時代が変わったなって、歌って感じたの。80年代って、私みたいな歌って、逆に現実感がなかったのよ。 挫折があっての今、頭に身体がついたって気がする。今、やっと自 分の歌になったんだって思う」(中山ラビ 特集【OnGen Music Lounge】より) そして97年、彼女に絶大な影響を与えて来た詩人中山容の死去。その追悼コンサートに姿を現わした。女ディランと呼ばれた女!中山ラビ■後編■は前のページ(6/9)にあります。
2007年06月10日
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○o。女ディランと呼ばれた女!中山ラビ■後編■ 。o○「ディランの歌とか、ビート派の詩とか、私のまったく知らない世界をぱっと見せてくれたの。すごくカルチャーショックだった。何かよく分からないまま、恋に突っ込んでいった」(中山ラビ 特集【OnGen Music Lounge】より)2001年5月、14年ぶりのアルバム「RABI」発売。全曲既発表曲。ライブ音源11曲に2曲のスタジオ録音を加えたアルバム。バックにはラビ組を従えパティ・スミスを彷彿させるパワーがビシビシ伝わってくる!『夢のドライブ』ワンピースの森をくぐり コートの谷をとびこえて片手にコーラ 片手にタバコ高島屋の外に出ると 熱いメタンガスが押し寄せああ 風邪をこじらせた人からうしろ指さされ 仕事から追い出されいつまでも売れ残りになってはと人並みのやり方で愛らしくチャンスさえあればしゃしゃり出るそんな自分には どうしてもがまんできなかったふらふら うろつきはぐれ パン屋の前にさしかかるとスポーツシャツの若者が スポーツカーから音を出してドライブにさそった二人の仲間と サングラスがよく似合ってた琵琶湖のロックコンサート 比叡山のビアガーデン涼しいところで汗流そうと 日焼けした手であたしをたぐり寄せ 一気に街を離れ ハイウェイ買い物かごを置きっぱなしで疲れるまで踊りまわり 眠りこけるまで飲み続けいつしか山に城が建ち 湖水に浮かんだヨットは進み赤い林檎も腐り 時はまばたく過ぎていくサイレンが鳴り続け ベッドから転げ落ちるとベッドからころげおちると 水たまりにしわだらけの顔が高島屋で別れた 母の面影暗い空を見あげて こと絶え 山火事は血のように赤かったころがるように坂をおり 焼け焦げの帽子をぬぐとカラスが 飛び去っていく 真新しい塔婆の間をぬってやがて 静かな ぬくもりに包まれ享年19身元不明行き倒れ制服のエレベーターガールが くりこむ善男善女に 最敬礼まばたきもせず 大量殺戮スカートにまつわる その風は最新型エアコンから流される あの文明のため息今でも聴くたびにこの歌の斬新さに感心する、時代を代表した名歌!今でもその歌詞が唇をついて出るサイケデリックな歌詞とアレンジが秀逸な傑作!!!1997年7月、25周年記念の「七夕コンサート」に86年以来の出演。 1999年3月、中山ラビBANDとして西荻窪BIN SPARKでのスズキコージ展のライブにゲスト出演以後、精力的にライブ活動を展開する。 2001年5月、14年ぶりのアルバム「ラビ」発売。全曲既発表曲。 ライブ音源11曲に2曲のスタジオ録音を加えたアルバム。バックにはラビ組というバンドを結成し、かつてのオリジナル曲が再び輝いている。 2002年9月、ライブアルバム「ラビing」を発表。 現在も「ラビ組」によるパワフルなライブパフォーマンスの他、ギターの弾き語りライブなど、東京のみならず各地で精力的にライブ活動をこなしている。 1977年よりオーナーとして経営している国分寺の喫茶店「ほんやら洞」は、おいしいカレー、コーヒーが人気で、夜は音楽が流れ、お酒も楽しめるカフェとして、全国各地から訪ねて来るお客さんもいるほどの有名店である。 『国分寺ほんやら洞』 185-0021 東京都国分寺市南町2-18-3 B09 TEL:0423-23-4400 JR国分寺駅南口を出て左手(線路沿い、新宿方面)約3分の左手。パティ・スミス『ラジオ・エチオピア』photography:robert mapplethorpe今のラビさんには、凄まじい“ロック”のエネルギーが漲っていて、日本のパティ・スミスと呼びたいくらい力強い!ラビさんにはパティ・スミス同様、年齢を重ねて進化していく歌い手の凄さを感じます。パワフルで凄みを感じさせる歌唱力には昔から定評があり、スレンダーで、金髪に、短パン・キャミソールで、ギター一本を抱えて歌うルックスも生き様も魅力的な女性シンガーソングライターだ。森田童子山崎ハコ浅川マキカルメン・マキ友川かずき憂歌団加藤登紀子ネーネーズ中山ラビ with CoverS.SP at BIGAPPLE 2007.05.20<宇都宮城本丸 フォークゲリラ 其の壱>石川竜太郎(Key/Pf)・渡辺真理(ビブランドネオン・Pf)・矢野顕(G)・小野舞(Bass)・おのまん(Dr)*ビブランドネオンという楽器は、アコーディオンを息で演奏するという、大変めずらしい楽器でイタリアの楽器で限定品で日本に3台しかなく、もう手に入らないかもしれないらしい。
2007年06月09日
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5月13日(日)『堀江康子 和傘個展』オープニングパーティー幾何楽堂LIVE (夜の部) ■於:日光霧降 幾何楽堂 <主催:創造の扉 実行委員会>■出演・大石宏子(HIROKO DANCE)・ホッピー神山(ピアノ・シンセ・ヴィジュアル)・原ミドリ(VOICE) 春から初夏にかけて、ヤシオツツジ(県の花)、ヤマザクラ、ヤマツツジ、カタクリ、トウゴクミツバツツジ、ニッコウキスゲ(日光市の花)と霧降高原は様々な花に彩られます。もえぎ色だった木々は日に日に緑を濃くし、霧降滝の水も輝いて見えます。 この大自然が暮れ夜の帳に包まれる頃、夜の部のLIVEがはじまりました。 ホッピー神山のピアノ・ソロとセンサーでピアノに呼応するシンセ(ムーグのピアノバー。生ピアノに置くだけで、演奏情報をMIDI信号に変換)によるサウンドと大石宏子の舞踏-HIROKO DANCE-と原ミドリのVOICE、とのコラボレーション!撮影 具志堅有美 幾何楽堂の壁面にはホッピー神山制作のヴィジュアルが照射されヴィジュアル・エフェクトとリズムのソリッドなグルーヴが絶妙にブレンド、めくるめく音と映像の中で溢れだすかのようなHIROKO DANCEが交感しあい、アヴァンギャルドなパフォーマンスはますますヒートアップ! 終演後、皆、興奮覚めやらず口々に「凄い!凄いものを観た」と我を忘れて興奮!夜の静寂の中で感動の余韻を楽しんでいた。この時のパフォーマンスの写真を日光在住の写真家渡辺祥夫氏の御厚意により掲載させていただきましたのでご覧ください。ホッピー神山(Hoppy KAMIYAMA)Producer, Keyboardist, composer ホッピー神山=国際的な視野をもって多面的な活動を続けるミュージシャン。1983年に、80年代を代表するスーパー・バンドPINKを結成。6枚のアルバムを発表し、ロンドンを含めて何回ものツアーを成功させた。同時に、大沢誉志幸など多くのミュージシャンのプロデュースでも大きな評価を受け80年代を代表する音楽プロデューサー、キーボーディストとしての評判を確立している。90年代にはいると、BUGS,OPTICAL 8など数々のユニットで、その多彩な音楽性を発揮。1991年 初のソロアルバム『音楽王』を発表。1992年 単身NYに渡り、2ndアルバム『音楽王・2』を完成させる。記念すべき初のソロ・アルバム『音楽王』 1994年宮本亜門のミュージカル「サイケデリック歌舞伎・月食」の音楽を担当。ロックからヨーデル、演歌、グレゴリオ聖歌まで、これまでの和製ミュージカルの枠を破る画期的な音楽を制作(サウンド・トラック『月食』としてリリース)、演劇界、音楽界から大評判を呼ぶ。一方で、氷室京介のアルバム『SHAKE THE FAKE』をプロデュースし、チャートの1位にたたきこむ。 1996年 PUGSメジャー・デビュー。 同年3月 テキサス州オースチンでS×SW'96(サウス・バイ・サウスウエスト)に参加。ゴージャスで、グラマラスで、パワフルなロック・サウンドが海外でも注目される。 1997年 PUGSアメリカ・デビュー。 同年3月 全米13ヶ所ツアーを行い、各地で話題沸騰。 同年7月 再度渡米し、ロラパルーザ全米イベントツアーに参加。ジョン・スペンサー、 DEVO等と共演。 1999年には、フランスのレーベルSONOREより室内楽を中心としたアルバム「Juice&Tremolo」を発表。90年代以降、東京のart-noise-punk-funk-alternativeシーンを引っ張る重鎮として君臨!また、1993年には自らの名前を冠した「ゴッド・マウンテン ・レーベル」を設立し、世界中のネットワークを築き上げ、新しい才能を発掘、世界に向けて紹介している。 また戸川純バンドのメンバーであり、戸川純のショーの冒頭部分で毎回のようにJazz Rockセッション披露していたメンバー吉田達也とナスノミツルの3人でインプロでプログレに挑むジャズロックバンド「大文字」を結成している。◇主な海外共演アーティスト:ジョージ・クリントン、ジョン・ゾーン、メシオ・パーカー、ジーナ・パーキンス、エリオット・シャープ、ヒュー・ホッパー、クリス・カトラー、デビッド・アレン、クレイマー、エイミー・デナイオ、ゴッド・イズ・マイ・コパイロット、ゴング、マグマ、ビル・ラズウェル、ゲイリー・ルーカス、ザ・クリチャーズ、エルトン・ディーン、スティーブ・アルビニ、セバスチャン・スタインバーグ、ダギー・バウン ほかHOPPY Kamiyama「A Navel City/No One is there」HOPPY Kamiyama「~意味のないものは、意味がある~A meaningful meaningnessless」「戦略的に狙ったものよりは、ごく自然に意味がないようなものの方が、与えられた者にとっては意味を成すことが多い」(Beckのプロモーションビデオのアニメなどでも話題のアメリカ人アニメーター、e*rockのアニメとコラボレーションしたDVD付 Artworks by Wahon)ホッピー神山最新作!ピアノ・ソロによる即興レコーディング・アルバム「もしもし、ピアノが弾けますよ If I were the piano」大石宏子アメリカ滞在中に玉野黄市と出会い舞踏を学び公演に出演。その後、大野一雄・慶人に師事。共に世界各国を回る。その他、いろいろな舞踏家の公演に出演する。そこにいる人達、自然、音楽とのエネルギーの共感を得ながらあるがまま魂のおもむくままに踊りつづける。 『大野一雄 美と力』『御殿、空を飛ぶ。』 『KAZUO OHNO/監督:ダニエル・シュミット』『大野一雄 95歳 独り舞 日本心中』陳謝、深謝、多謝■おかげさまで、『梁塵秘抄』 または ”わしふぃーるど”が777777アクセスを突破!!いたしました。ご来場くださった皆様に厚く御礼申し上げます。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。
2007年05月23日
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5月13日(日)『堀江康子 和傘個展』オープニングパーティーLIVE (昼の部) ■於:日光霧降 幾何楽堂 <主催:創造の扉 実行委員会>■出演・大石宏子(HIROKO DANCE)・ホッピー神山(ピアノ)・原ミドリ(vo)・高嶋麻由(ビオラ)今回の仕掛け人坂田甚内先生の開催の挨拶 ガテン系アーティスト、扉作家小坂憲正氏と美貌の和傘職人「デニムに和傘」堀江康子さんの開催の挨拶。「山が高うて山中見えぬ~山中恋しや山にくや~ 」原ミドリが亡き父に捧げた入魂の「山中節」組曲は、30分近くの大作となって日光霧降高原に響き渡った!ホッピー神山の純粋音楽ともいえるインプロと、大野一雄氏の愛弟子大石宏子氏の舞踏HIROKO DANCE(BUTOH)のコラボレーションは息を飲む瞬間の連続で観る者の肉体と精神の感性を磨ぎ澄まし、ゆったりと自然の中へ解放し大きな共感が観客の間に拡がっていった。Spank Happy、原緑/*come(ハラミドリスラッシュカムカム)、 吉祥寺三姉妹、原ミドリ&チャンチキズ などで活躍の +midorihaus+ 姫!ホッピー神山ホッピー神山(ホッピーかみやま、1960年2月22日 - )は、日本のキーボーディスト、作曲家、アレンジャーである。1980年にファンキー末吉とともに「爆風銃(バップガン)」を結成するも、末吉との音楽指向の相違から程なく解散。その後PINKのキーボーディストとして1983年にメジャーデビュー。PINK解散後はソロ活動やプロデューサーと活躍している。高嶋麻由(viora)大阪府生まれ。6歳よりヴァイオリンを始める。京都市立堀川高校(現京都市立音楽高校)を経て、東京藝術大学音楽学部器楽科卒業。17歳でヴィオラに転向。これまでに、原村音楽セミナー、CEM音楽道場、別府アルゲリッチ音楽祭、霧島国際音楽祭や、夏木マリの舞台でアヴィニヨン、エディンバラ演劇祭などに参加。また、フリー奏者として、様々なオーケストラへの参加の他、島田歌穂のミュージカル「フレディ」、bird、椎名林檎、斉藤ネコ、島健など舞台やライブのサポートなどジャンルにとらわれない活動を続けている。大石宏子アメリカ滞在中に玉野黄市と出会い舞踏を学び公演に出演。その後、大野一雄・慶人に師事。共に世界各国を回る。その他、いろいろな舞踏家の公演に出演する。そこにいる人達、自然、音楽とのエネルギーの共感を得ながらあるがまま魂のおもむくままに踊りつづける。秋山俊也アートギャラリー自閉症にともなう知的障害(A2)に認定されている、日光に在住の天才画家秋山俊也氏もファミリーで飛び入り参加。夜の部では(後日UP)、なんとHIROKO DANCEにジョイント!「シュンヤ、シュンヤ」コールが観客から湧き上がり、大喝采となってLIVEはますますヒートアップ!!!氏は1986(昭和61)年8月25日生まれの21歳。ご覧の通り、健康体の美しい青年なのですが、病名「自閉症」に早い時期から認定され、現在も知能程度は2~3歳程度という。多いときで一日にスケッチブック(B5~F6)を10冊から20冊、一ヶ月単位では100~150冊くらいを使いまくり、お父さん(秋山俊幸氏は、美術関係者の中ではよく知られた絵画修復家)のアトリエでは週1~2回程度、キャンバス4~20号を10枚くらい、アクリルやオイルスティックで描いています。その創作衝動は凄まじく時には夜中に独りで起きて書き続けることもあります。『堀江康子 和傘個展』開催中!和傘の域を超えた WAGASA<コンセプト-デニムに和傘>5月13日(日)~20日(日) 10時~20時日本人の和の感性に語りかける8日間今 なぜ世界中で『和』がブームなのか?異空間の幾何楽堂と神秘的な和傘の融合―『和』を日光から発信します日光霧降高原在住の扉作家 小坂憲正氏が3年の月日を費やして建てた「幾何楽堂」 (2006年度 第14回 日本ログハウス・オブ・ザ・イヤー 「優秀賞」を受賞) この創造力あふれる建物をギャラリーとして行なわれる展覧会です。記念すべき第一回目の展覧会は、「デニムに和傘」という新しい和傘のイメージをコンセプトにもつ 岐阜県在住の和傘作家 堀江康子氏の個展です。会期中、「糸かがり」の技術を見せてくれるそうです。バングラデシュの大使も訪れました。
2007年05月16日
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『堀江康子 和傘個展』開催!和傘の域を超えた WAGASA<コンセプト-デニムに和傘>5月13日(日)~20日(日) 10時~20時日本人の和の感性に語りかける8日間今 なぜ世界中で『和』がブームなのか?異空間の幾何楽堂と神秘的な和傘の融合―『和』を日光から発信します日光霧降高原在住の扉作家 小坂憲正氏が3年の月日を費やして建てた「幾何楽堂」 (2006年度 第14回 日本ログハウス・オブ・ザ・イヤー 「優秀賞」を受賞) この創造力あふれる建物をギャラリーとして行なわれる展覧会です。記念すべき第一回目の展覧会は、「デニムに和傘」という新しい和傘のイメージをコンセプトにもつ 岐阜県在住の和傘作家 堀江康子氏の個展です。会期中、「糸かがり」の技術を見せてくれるそうです。5月13日(日) オープニングパーティーLIVE ■於:日光霧降 幾何楽堂 <主催:創造の扉 実行委員会>■出演・大石宏子(HIROKO DANCE)・ホッピー神山(ピアノ)・原ミドリ(vo)・高嶋麻由(ビオラ)■開場・15:00 ■開演・15:30■料金・2000円■問合わせ 幾何楽堂 小坂憲正 0288-50-1066 norimasa@io.ocn.ne.jp〒321-1421 日光市所野1543-332追ってLIVEの様子をUPいたします。お楽しみに!
2007年05月13日
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『堀江康子 和傘個展』和傘の域を超えた WAGASA<コンセプト-デニムに和傘>5月13日(日)~20日(日) 10時~20時日本人の和の感性に語りかける8日間今 なぜ世界中で『和』がブームなのか?異空間の幾何楽堂と神秘的な和傘の融合―『和』を日光から発信します於:日光霧降 幾何楽堂日光霧降高原在住の扉作家 小坂憲正氏が3年の月日を費やして建てた「幾何楽堂」 (2006年度 第14回 日本ログハウス・オブ・ザ・イヤー 「優秀賞」を受賞) この創造力あふれる建物をギャラリーとして行なわれる展覧会です。記念すべき第一回目の展覧会は、「デニムに和傘」という新しい和傘のイメージをコンセプトにもつ 岐阜県在住の和傘作家 堀江康子氏の個展です。会期中、「糸かがり」の技術を見せてくれるそうです。 堀江康子「工房 堀江」四日に一度、雨が降るといわれている日本。 そんな日本に ”和傘”があります。 そして、その和傘に日本の心が入っております。 手作りの温もりと共にお届けいたします。 そして、感じてください・・・日光の風の中で。岐阜市生まれ 2000年 ・和傘に導かれるように老舗和傘店に修行に入る。 2006年 ・独立。 2006年6月・鶴岡市、松ヶ岡開墾場内 「ギャラリーまつ」展示会 9月・名古屋市、紙の温度にて個展 10月・岐阜市美術展覧会 入選 12月・全国伝統的工芸産業振興協会公募展 入選 2007年2月・名古屋、桑山美術館 出品 3月・二子玉川・高島屋、坂田甚内氏の「ひとつ窓和傘」製作・展示 3~5月・京都・高台寺、「3つ窓和傘」製作・展示 5月18日・NHK・「美の壺」に和傘提供扉作家 小坂憲正氏とのコラボレーションは、 皆様をきっと新しい「和」の世界へと案内してくれることでしょう。 そして、新緑の日光霧降の大自然と一体化した幻想的な美しさを是非ご堪能ください。 5月18日(金)にNHK教育テレビ午後10時から「美の壺」という番組で堀江さんの和傘が取り上げられますので、ぜひご覧ください。 『幾何楽堂』の意味幾何(学)とは、ものの形や大きさなど、空間に関する学問を意味します。この建物は、家の形・部屋の形・床・天井・各部デザインに至るまで、すべて正方形の重なりによってできています。また、メインルームの40畳は柱がひとつもなく、すべては屋根構造(合掌造り)によって、この建物を安定させています。そして、この建物のメインルームは、ログハウスでは不可能とされる大間口H1800XW5400を、日本建築の構造体により実現させ、家の中にいながら、壮大な自然を見ることができます。幾何楽堂の中心に位置する顔・玄関の一枚ドア(H2200XW1700)が、異次元への入口を意味し、さらに二つ目の杉の一枚板のドアをくぐることによって、宇宙へと広がります。そこで、幾何を楽しんでいただければ幸いです。 幾何楽堂 小坂憲正 問合わせ 幾何楽堂 小坂憲正 0288-50-1066 norimasa@io.ocn.ne.jp〒321-1421 日光市所野1543-332回生への扉!『幾何楽堂』小坂憲正のDOOR曼荼羅!も合わせてご覧ください。 5月13日(日) オープニングパーティーLIVE ■於:日光霧降 幾何楽堂 <主催:創造の扉 実行委員会>■出演・大石宏子(HIROKO DANCE)・ホッピー神山(ピアノ)・原ミドリ(vo)・高嶋麻由(ビオラ)■開場・15:00 ■開演・15:30■料金・2000円■問合わせ 幾何楽堂 小坂憲正 0288-50-1066 norimasa@io.ocn.ne.jp〒321-1421 日光市所野1543-332<プロフィール>大石宏子アメリカ滞在中に玉野黄市と出会い舞踏を学び公演に出演。その後、大野一雄・慶人に師事。共に世界各国を回る。その他、いろいろな舞踏家の公演に出演する。そこにいる人達、自然、音楽とのエネルギーの共感を得ながらあるがまま魂のおもむくままに踊りつづける。ホッピー神山ホッピー神山(ホッピーかみやま、1960年2月22日 - )は、日本のキーボーディスト、作曲家、アレンジャーである。1980年にファンキー末吉とともに「爆風銃(バップガン)」を結成するも、末吉との音楽指向の相違から程なく解散。その後PINKのキーボーディストとして1983年にメジャーデビュー。PINK解散後はソロ活動やプロデューサーと活躍している。原ミドリSpank Happy、原緑/*come(ハラミドリスラッシュカムカム)、 吉祥寺三姉妹、原ミドリ&チャンチキズ などで活躍の +midorihaus+ 姫!高嶋麻由(viora)大阪府生まれ。6歳よりヴァイオリンを始める。京都市立堀川高校(現京都市立音楽高校)を経て、東京藝術大学音楽学部器楽科卒業。17歳でヴィオラに転向。これまでに、原村音楽セミナー、CEM音楽道場、別府アルゲリッチ音楽祭、霧島国際音楽祭や、夏木マリの舞台でアヴィニヨン、エディンバラ演劇祭などに参加。また、フリー奏者として、様々なオーケストラへの参加の他、島田歌穂のミュージカル「フレディ」、bird、椎名林檎、斉藤ネコ、島健など舞台やライブのサポートなどジャンルにとらわれない活動を続けている。
2007年04月29日
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ビクトル・エリセ『マルメロの陽光』アントニオ・ロペス・ガルシア (LOPEZ GARCIA, Antonio, Victor Erice)●マルメロの陽光●EL SOL DEL MEMBRILLO 1992/139分/スペイン/フランス映画社監督・原案・脚本:ビクトル・エリセ 原案:ビクトル・エリセ/アントニオ・ロペス=ガルシア撮影:ハヴィエル・アグィレサローベ/アンヘル=ルイス・フェルナンデス 音楽:パスカル・ゲーニュ 出演:アントニオ・ロペス=ガルシア/マリア・ロペス/カルメン・ロペス/マリア・モレノ/エンリケ・グラン/ホセ・カルテロ<カンヌ国際映画祭審査員賞・国際映画批評家協会賞/シカゴ国際映画祭グランプリ・ゴールド・ヒューゴー賞>●映画史上全く類例をみない、例外的な存在であるがゆえに、「マルメロの陽光」は当惑や混乱にも、探究のまなざしや、最も鋭利な視線にも、ひとしく開かれた作品である。この上なく純度の高い本映画は、今日、かってないほど再生と刷新を必要としているこの芸術、ないし表現手段に対し、新たな、おそらく思いもよらぬ地平を切り開いている。(カルロス・F・エレデロ/西ディアオリオ16紙)●・・・自分の庭でマルメロを描く画家アントニオ・ロペスの、これはドキュメンタリーでありながら、どんなスペクタクル映画よりも豊かなファンタジーとイマジネーションと自由な呼吸が息吹いている。・・・(ダニエル・エイマン/仏・ルモンド紙)●つつましいカメラワークで生み出した、驚くほど魅惑的で密度の濃い作品。精魂を込めたこの作品の純粋さ、そしてゆとりの大きさは、一切の媚びを感じさせないスタイルとあいまって実に貴重だ。(ジャネット・マスリン/米・ニューヨーク・タイムズ紙) ビクトル・エリセ監督の長編第三作。ビクトル・エリセ監督の長編第一作『ミツバチのささやき(1973)』から長篇二作目「エル・スール(1983)」の完成までに10年。それから10年の沈黙後、1992年にようやくエリセが放った、絵画の芸術に関する透明な考察。寡作の映画作家に相応しい静謐なエリセの至福の映像詩です。「一本の樹に森羅万象が集約されている」アントニオ・ロペス・ガルシア マルメロの実が熟す、黄金色の陽光の秋。自分の手で植えたマルメロの木に、今年も実がたわわになり、陽光の中で輝く黄金色のマルメロの実。その陽光に光り輝く黄金色の果実をキャンバスに描きとめようとするのが画家、アントニオ・ロペス・ガルシアの見果てぬ夢。描きたい陽光(ひかり)は天候の良い朝の2時間ばかりの間、あっという間のこと。1960年ごろから毎年描いてはいるものの、なかなか完成させたことのないマルメロの樹の絵。完成したマルメロの油絵は二十代に描いたわずか2点。 主人公アントニオ・ロペス・ガルシアは実在の画家で、ベラスケスを師とあおぐリアリズムの画家。具象に徹して抽象を凌駕し、<マドリード・リアリズム>、あるいは<神秘的(魔術的)リアリズム>と呼ばれて世界の注目を浴びる潮流の中心的存在。アントニオ・ロペス・ガルシアは彼が深く親しみを感じた同じテーマに後戻りし続ける作家である。彼の絵や像は継続して彼の生活や彼の関係者たちを表す。その関係者というのは、祖父母(これは黄色く変色した写真から)、死んでしまった妹、叔父や友人、絵描きのフランシスコ・カレテロ、妻や二人の娘などである。即ち、描く対象との直接的な感動に基づいた描写態度によって、同一作品を十年を越えて描くことが多く、非常に作品が少ない。マルメロは柑橘系に見えるが、花梨(カリン)と同じくバラ科の落葉果樹。言い伝えで、秋のさなかに夏の太陽がぶりかえし、あまりに強いその陽射しから子どもは隠したほうがいい、と言われる<マルメロの陽光の日(9月28日)>の翌日、29日から、撮影は始まる。撮影に入った時点で脚本はなく始まり、エリセが深く敬愛するアントニオ・ロペス・ガルシアの画業を紹介するドキュメンタリーでもなく、ストーリーもありません。ただ、マラルメの陽光を描くべく腐心するアントニオ・ロペス・ガルシアの絵を描く真摯な姿を、90年の9月から12月にかけて、ただ淡々と、実際の撮影の日付を画面に記しながら時系列で追っている作品です。この映画の製作は途中で製作費が尽き、フィルムが手に入れられなくなり、制作の続くアントニオやマルメロの木を撮り続けるために、やむなくビデオで撮った画面が挿入されています。マルメロの樹を前に、画家は自分の立つ場所を印し、縦糸や横糸を貼ってマルメロの実の位置を筆で正確に印していく、雨に濡れないよう、テントを貼る、マルメロに絶妙な陽が当たるわずかな時間を狙って少しづつ、少しづつ描いていきます。マルメロは日々育ってゆき、実の重さで枝が垂れ下がってくる。それに目印をつけながら、はじめに描いていた実の位置を確認して、絵筆を運ぶ。そして、絵を描くことに入魂する彼を優しく見守る愛妻でやはり画家のマリア・モレノ、娘のマリアとカルメン、親友の抽象画家エンリケとのやりとりを織りまぜながら、ロペスの崇高な表現活動を記録していく。聞こえてくるのはラジオからの音楽やニュース、犬の鳴き声、東欧からの出稼ぎ労働者の内装工事、救急車のサイレンといった「暮らしの音」が心地よく、効果的に使われる。ラストのアントニオのモノローグからエンドロールにかぶるフランス人作曲家パスカル・ゲーニュの音楽も素晴らしい。この映画のDVD、サントラCDとも廃盤で高値をよんでいる。実はひと月で成熟に達し、熟しきると、自然の摂理のまま葉むらともども衰退の過程に入り、やがて自らの重みで地面に落ち、腐爛していく。時間の経過が画家の創作にどのように影響してゆくか、創造の秘密も垣間見ることが出来る。もっぱらカメラは対象から距離を置いた位置に三脚を据えての長回しです。画家のリアリズム絵画の手法をエリセのカメラが汲み取ってただただ時間の美しさを思い知らされる純度の高いイマジネーションに満たされ、えもすれば変化に乏しい映像構成ながら絵画と映画は穏やかで慎ましやかな親近感を増して深まっていく。はかなくつかのまの陽光に輝くマルメロの美しさをどうしても描けない画家はこう云う”秋が来る度に、釣竿を持って、木のそばに座る。いくら手を尽くしても、魚はかからない。それでいい、要は、そこにいることなんだよ”この年1990年は、雨が例年になく多く降り、戸外で製作する画家は天候に恵まれなかった。ついにマルメロの実が地面に落ちていることを発見した画家は、残ったマルメロを自ら一個もぎ取り、キャンバスを撤去しマルメロの油彩画の制作を諦め、キャンバスを地下室に運び込む。そこには彫像や、膨大な数の未完の絵が眠っている。そして画家が地下室の蓋を閉じる時、カメラは地下室の内側から撮られている。まさに柩の蓋が閉じられる時の、死者の視点から撮られており、客観描写に徹したエリセのこの思いがけない演出効果があるシーンで、無意識下の密やかな興奮をかきたてられた。地に落ち、朽ち始めるマルメロの実を撮影するカメラ。しばらく中断していたマリの描きかけの油絵のために、黒いコートを着てベッドに横たわるアントニオ。いつしか眠りにおちたアントニオの指の間からこぼれおちるクリスタルの珠。空に浮かぶ満月。月光に青白く照らされるアントニオの寝顔・・・。ほのかな月明かりの中のマルメロの木とそれを見守るようにあるムービーカメラとライト。黒い雲が流れ去り、満月が現れる。映画は、成熟したもののたどる爛熟、頽廃、腐食といったものを画面に漂わせながらゆるやかに幻想の度合いを深めていく。単なる記録映画の域を優に超えて、絵画と映画の出会いを描いて、詩情豊かな映画的感性にみちたエリセ映画ならではの魅力あふれる名作。”ここはトメリョソ。私は生家の前にいる。広場のむこうに、見たことのない木立がある。遠くむこうマルメロの濃い葉むらと黄金色の実が見える。木々の間に両親と私ー。他の人も一緒にいる。語らいの声がー談笑が聞こえてくる。私たちの足はぬかるみに埋まっている。果実は枝についたまま、刻々、しわがより、軟らかくなっている。やがて表皮にしみが広がり、動かぬ空気に醗酵した香りが漂う。私に見えているものを他の人も見てるのだろうか。マルメロの実がー光のもとで熟れて腐っていく。その光は、鮮烈なのに陰を帯び、すべてを鉱物と灰に変える光。それは夜の光でもなく・・・・黄昏の光でもない。夜明けの光でもない。”(アントニオのモノローグ)「樹々がなくては、地上の生活は成り立ちません。恐らくそれゆえ、世界の多くの民族が、生命の象徴として樹のイメージを選んだのです。この樹の枝のひとつに、今から百年ほど前、新たな果実がみのった。その名を”映写機”といい、人類に映画という言語をもたらしました。映画は、まったく独自な仕方で現実を反映することができる、つまり、事物の映像と動きを捉えるばかりか、その持続ー時間ーをも捉え得るのです。このすばらしい言語が、今日、消滅の危機に瀕しています。もしそんな事態が起きたら、生命の樹は、その最もか弱い果実のひとつ、しかしまた、その最もおいしい果実のひとつを失うことになるのです。みんなで力を会わせて、この実を保護しなくてはなりません。皆さんのご協力に感謝します。」ビクトル・エリセ・・・1993年2月12日 東京にて■アントニオ・ロペス・ガルシアの画集の画像を前のページ(4/12)にUPしてありますのであわせてご覧ください。
2007年04月13日
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ビクトル・エリセ『マルメロの陽光』アントニオ・ロペス・ガルシア (LOPEZ GARCIA, Antonio, Victor Erice)●マルメロの陽光●EL SOL DEL MEMBRILLO 1992/139分/スペイン/フランス映画社監督・原案・脚本:ビクトル・エリセ 原案:ビクトル・エリセ/アントニオ・ロペス=ガルシア撮影:ハヴィエル・アグィレサローベ/アンヘル=ルイス・フェルナンデス 音楽:パスカル・ゲーニュ 出演:アントニオ・ロペス=ガルシア/マリア・ロペス/カルメン・ロペス/マリア・モレノ/エンリケ・グラン/ホセ・カルテロ<カンヌ国際映画祭審査員賞・国際映画批評家協会賞/シカゴ国際映画祭グランプリ・ゴールド・ヒューゴー賞>●映画史上全く類例をみない、例外的な存在であるがゆえに、「マルメロの陽光」は当惑や混乱にも、探究のまなざしや、最も鋭利な視線にも、ひとしく開かれた作品である。この上なく純度の高い本映画は、今日、かってないほど再生と刷新を必要としているこの芸術、ないし表現手段に対し、新たな、おそらく思いもよらぬ地平を切り開いている。(カルロス・F・エレデロ/西ディアオリオ16紙)●・・・自分の庭でマルメロを描く画家アントニオ・ロペスの、これはドキュメンタリーでありながら、どんなスペクタクル映画よりも豊かなファンタジーとイマジネーションと自由な呼吸が息吹いている。・・・(ダニエル・エイマン/仏・ルモンド紙)●つつましいカメラワークで生み出した、驚くほど魅惑的で密度の濃い作品。精魂を込めたこの作品の純粋さ、そしてゆとりの大きさは、一切の媚びを感じさせないスタイルとあいまって実に貴重だ。(ジャネット・マスリン/米・ニューヨーク・タイムズ紙) ビクトル・エリセ監督の長編第三作。ビクトル・エリセ監督の長編第一作『ミツバチのささやき(1973)』から長篇二作目「エル・スール(1983)」の完成までに10年。それから10年の沈黙後、1992年にようやくエリセが放った、絵画の芸術に関する透明な考察。寡作の映画作家に相応しい静謐なエリセの至福の映像詩です。「一本の樹に森羅万象が集約されている」アントニオ・ロペス・ガルシア マルメロの実が熟す、黄金色の陽光の秋。自分の手で植えたマルメロの木に、今年も実がたわわになり、陽光の中で輝く黄金色のマルメロの実。その陽光に光り輝く黄金色の果実をキャンバスに描きとめようとするのが画家、アントニオ・ロペス・ガルシアの見果てぬ夢。描きたい陽光(ひかり)は天候の良い朝の2時間ばかりの間、あっという間のこと。1960年ごろから毎年描いてはいるものの、なかなか完成させたことのないマルメロの樹の絵。完成したマルメロの油絵は二十代に描いたわずか2点。 主人公アントニオ・ロペス・ガルシアは実在の画家で、ベラスケスを師とあおぐリアリズムの画家。具象に徹して抽象を凌駕し、<マドリード・リアリズム>、あるいは<神秘的(魔術的)リアリズム>と呼ばれて世界の注目を浴びる潮流の中心的存在。アントニオ・ロペス・ガルシアは彼が深く親しみを感じた同じテーマに後戻りし続ける作家である。彼の絵や像は継続して彼の生活や彼の関係者たちを表す。その関係者というのは、祖父母(これは黄色く変色した写真から)、死んでしまった妹、叔父や友人、絵描きのフランシスコ・カレテロ、妻や二人の娘などである。即ち、描く対象との直接的な感動に基づいた描写態度によって、同一作品を十年を越えて描くことが多く、非常に作品が少ない。レアリスモ(スペインで展開した写実主義)の代表的画家の一人アントニオ・ロペス・ガルシアの画集です(英文翻訳)。50を超える油彩画、素描、彫刻の図版(8割以上がカラー)が掲載されています。日本未発売ですのでごく一部をご紹介いたします。■アントニオ・ロペス・ガルシア /LOPEZ GARCIA, Antonio (1936年~) スペイン、シウダド・レアル県トメリョソ生まれの画家、彫刻家。父方の姓がロペス、母方の姓がガルシア。叔父アントニオ・ロペス・トーレスによって絵画の手ほどきを受け、マドリードのサンフェルナンド美術学校に学ぶ。1957年の官展で絵画賞受賞。翌年、教育省の奨学金などでイタリア、ギリシャへ旅行。1964年ニューヨークの万博スペイン館出品を契機に国際的な活動を始める。1974年ダルムシュタットで受賞、初めて国際的な評価を得る。1977年カッセルのドクメンタVIに参加。1983年スペイン美術界最大の褒賞である美術金賞受賞。1983年「今年の人」としてABC金賞、アストゥーリャ王子芸術賞を受賞。アルバセテ美術館で個展。ブリュッセル近代美術館での“ユーロパリア'85スペイン"に参加。1986年カスティーリャ・ラ・マンチャ金賞を受賞。1989年東京、西武美術館「ピカソ、ミロ、ダリとその時代、スペイン20世紀美術展」に出品。1993年マドリードのレイナ・ソフィア芸術センターにて大回顧展。マドリード在住。
2007年04月12日
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ガブリエル・バンサン Gabrielle Vincent (本名:Monique Martin)ガブリエル・バンサン<1928 - 2000>(Gabrielle Vincent 本名:Monique Martin)「私の気もちは、線と光と影でお伝えするしかないようです・・・」 1928年9月9日、ベルギーのブリュッセルに四人姉妹の三番目として生まれ、首都ブリュッセルの美術学校で絵画を学ぶ。本名はモシック・マルタン。卒業後、デッサンを続け画家として活動しながらも、結婚や成功とは無縁のまま世間に埋もれ、色彩を使わないデッサン、日常的なテーマを描き続けていた。その画業は、「ピータラビット」のポターを中心に、18歳の時に出会った日本の水墨画に学んだという簡潔かつ精緻な描線を見つめるほどに物語が拡がっていく。 ”すべてを描かずその余白から見る人はそれぞれのイメージを受けてとることができる”と水墨画について語り、終生デッサンを怠らなかったという。デッサン絵本、淡彩作品共に、のびやかで静かな迫力を持つ線描の確かさにはいっそうの深みが感じられます。 1960年に初めて、ブリュッセルのシュヴァル・ドゥ・ヴェール画廊でデッサン展を開き評判となる。この成功に自信を持ったバンサンは、やがて、アクリル絵の具やパステル、油絵の具など、色彩の世界にも近づき、『ブリュッセルの天使』『ある犬の一日(のちの「アンジュール」)』『裁判所』『砂漠』の四冊の自分の本を作りあげることが出来ました。以降、アーティストとしての制作は本名のモシック・マルタンで、絵本はペン・ネームのガブリエルバンサンで制作するようになりました。こうして54歳で絵本作家として出発するまでに、三十年もかけている遅咲きの作家ですが、読者へ無限の想像力を与えてくれる1本1本の描線の確かさは、世界的な評価を受けています。絵本の処女作「アンジュール」は絵本の原点ともいえる「字のない単色の絵本」の傑作と言われている。そうして次々と永遠に愛され続ける絵本を生み出したバンサンは、2000年9月24日に癌のためブリュッセル市内の病院で亡くなった。享年72歳。ボローニャ国際児童図書展グラフィック賞、ベルギー文部省年度賞など各国での受賞歴も多く、ベルギーを代表する作家として数々の名作を生んだ。 「無題(1958)」「私は描かなくてはならない。それは出来る。でも、自分なりの個性と、明確な特徴を見出すことは簡単ではない。紙を前にして、最初の一筆を置くこと、それはすごく難しいことだ」 『アンジュール ある犬の物語』 原題はUN JOUR, UN CHIEN - 直訳すれば「ある日、ある犬」といった意味。「アンジュール ある犬の物語」は卓越した絵画がすべてを語る、ガブリエル・バンサンの処女作。捨てられた犬がさまよった挙げ句、1人の少年に出会うまでのストーリーがモノクロのデッサン画的なタッチで見事に表現されています。文字はいっさいない、絵だけの絵本。言葉以外の方法で、物語を、時間を、紙の上に存在させることのできるバンサンの絵を読む喜び。バンサンが18歳の時に出会い手本にしてきたという水墨画の極致をも感じさせる、流れるような流麗な線のそのあじわい深さは、全ページが鉛筆のみで描かれていることを忘れてしまうほど。「アンジュール ある犬の物」は、絵本としては異色であったためか、出版までの道のりは長く、母国ベルギーでも出版されたのは、作品を描き上げてから8年後の1982年のことだった。日本でも1983年、「くまのアーネストおじさん」シリーズ2作が先に発表され、3年後の1986年になってようやく『アンジュール』が出版された。 「アンジュール ある犬の物」は57ページの絵本です。とても抜粋してご紹介するものではございませんが、ご覧になった方々がこの優れた絵本を実際にお手にとってご覧になられることを切に願って掲載させていただきます。一匹の犬が車から捨てられる。走り去る車を犬は全速力で追いかけるが、追いつくはずもなく車はスピードをあげどんどん遠ざかり…消えた。捨てられた犬がさまよった挙げ句、1人の少年に出会うまでのストーリーがモノクロのデッサン画的なタッチで見事に表現されています。文字はいっさいない、文字を読むのではなく、絵を読む絵本。頁の中で走り、たたずむ一匹の犬の描写、姿から、犬の気持ちが胸に迫ってきます。鉛筆の線が、生き生きと躍っています。魔法のようです。絵だけの絵本ながら、一枚一枚の絵を追っていくと、まるで映画の絵コンテでも見ているように、見つめるほどに物語がひろがってゆきます。一枚めくって、2枚めくって、絵を読むことが、めくるほどに、訴える感動の大きくなっていく作品で、まさに言葉を失ってしまう。「Un Jour」 ~ 矢野顕子「gRANOLa」収録陽は沈み 犬が波打ち際を歩くならまして それがひとりぼっちなら 秋の風 犬が麦畑に佇むならまして 遠くに吠えているなら街に出て 犬がパン屋を横切るならまして腹をすかしているならアンジュール アンジュールアンジュール アンシエン労働する犬 この街に この国にこの世界に あふれださんばかりのアンジュールたち 陽は沈み 犬が波打ち際を歩くならまして それがひとりぼっちならwords by Motoharu Sano , music by Akiko Yano「陪審員のみなさん。この世の中では親友でさえあなたを裏切り、敵となることがある。愛情こめて育てた息子や娘も、深い親の恩をすっかり忘れてしまうかもしれない。あなたが心から信頼している、もっとも身近な愛する人もその忠節を翻すかもしれない。 富みはいつか失われるかもしれない。もっとも必要とするときにあなたの手にあるとは限らない。 名声はたったひとつの思慮に欠けた行為によって、瞬時に地に堕ちてしまうこともある。成功に輝いているときにはひざまずいて敬ってくれた者が、失敗の暗雲があなたの頭上を翳らせた途端に豹変し、悪意の石つぶてを投げ付けるかも知れない。 こんな利己的な世の中で、けっして裏切らない、恩知らずでも不誠実でもない、絶対不変の唯一の友はあなたの犬だ。 あなたの犬は富めるときも貧しきときも、健やかなるときも病めるときも、常にあなたを助ける。冷たい風が吹きつけ、雪が激しく降るときも、主人そばならば冷たい土の上で眠るだろう。 与えるべき食物が何ひとつなくても手を差しのべればキスしてくれ、世間の荒波に揉まれた傷や痛手を優しく舐めてくれるだろう。 犬は貧しい民の眠りを、まるで王子の眠りのごとく守ってくれる。 友がひとり残らずあなたを見捨て立ち去っても、犬は見捨てはしない。富みを失い、名誉が地に堕ちても、犬はあたかも日々天空を旅する太陽のごく、変わることなくあなたを愛する。 たとえ運命の力で友も住む家もない地の果てへ追いやられても、忠実な犬はともにあること以外何も望まず、あなたを危険から守り、敵と戦う。すべての終わりがきて、死があなたを抱き取り、骸が冷たい土の下に葬られるとき、人々が立ち去った墓の傍らには、前脚の間に頭を垂れた気高い犬がいる。 その目は悲しみに曇りながらも、油断なくあたりを見わたし、死者に対してさえも忠実さと真実に満ちている。」 ジョージ・グレアム・ベスト「いい絵本ができあがるためにどうしても必要な条件がひとつあると考えています。それは絵を描き物語を書く作者自身の個人的な喜びです。 一冊の絵本が人の心をとらえ、魅力にあふれ、感動的であるのは、そして作者と読者(子供であれ大人であれ)のあいだにコミュニケションが成り立つのは、それが「楽しみ」のために描かれて居るときです。 まず自分自身のために、それも喜びをもって描くこと。子ども(そして読んで聞かせる大人)はこの喜びを感じ取ります。喜びはごく自然に伝わります。」「作者つまり画家が、なによりも自分のために絵を描くなら、その絵本には大人も夢中になるはずです。自分自身が心打たれ感動しているのですから、大人は子ども(あるいは生徒たち)にいっそうじょうずに物語を読んだり話したりして聞かせることができます。そのとき大人は単に子どもや生徒たちを喜ばせるための読み手ではなくなります。 読み手と子どものあいだに美しい連帯意識が生まれ、作者と親と子どもは同列に並んでトリオを作ります。 作者、読み聞かせる大人そして子どもが、喜ぶと「バイブレーション」を共有するのです。 挿絵画家たちは長い間、子どもの気に入るためには彼らと同じように子どもっぽい描き方をすべきだと思いこんでいました。そのほうが子どもにわかりやすいと考えていたのです。 私自身はそのような子どもっぽい絵の絵本が子どもによろこばれると思ったことはありません(子どもは与えられれば何でも受け入れてはくれますが)」
2007年03月09日
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ガブリエル・バンサン Gabrielle Vincent (本名:Monique Martin)ガブリエル・バンサン<1928 - 2000>(Gabrielle Vincent 本名:Monique Martin)「私の気もちは、線と光と影でお伝えするしかないようです・・・」「行かないで」「華麗なる千拍子」「葬送のタンゴ」で知られるシャンソンの革命児ジャック・ブレルが作詞・作曲し創唱した名曲「LES VIEUX」に、バンサンの絵筆が新たな息吹を吹き込んだ。「現代シャンソンの旗手だった、ジャック・ブレルの『老夫婦』に感銘を受けたバンサンが、その歌の世界に渾身の力をこめて挑戦し、絵にした一冊。生きること、老いることと死を、みごとに一冊に籠めてみせる。人生の旅路のはてを描いて、人それぞれに迫る。」今江祥智 『老夫婦』詞 ジャック・ブレル(訳 今江祥智 ブックローン出版)年老いたふたりには、いまはもう話すこともなく、ときおり、おたがいにそっと目をやるばかり。お金があろうとなかろうと、みじめさはかわりなく、もうゆめもなく、思いやりがあるばかり。家にいるふたりは、香辛料とラベンダー、それにこざっぱりしたにおいがしていて、昔の言葉が往き来する。ずっとパリ気質でやってきたつもりなのに、いつのまにやら、もとの田舎者暮らしにもどっていてー昔のことを話すときには、笑いすぎてか、声もしわがれーそれで涙までながしたものだから、まぶたにはまだ涙のしずくがのこる。ふたりが少し身ぶるいするのは、銀の古時計にきづくとき。時計はサロンで、にぶく時を打ち、「ウイ」とも「ノン」とも、「わしはお前らを待っとるよ」とでもいうかのよう。年老いたふたりは、いまはもう夢みることもなく、本も眠気をさそうばかり。ピアノのふたもずっと、閉じたまま。子猫もとっくに死んでしまった。日曜に一杯やって歌うこともなく、ふたりとももう、からだを動かすのも大儀なこと。しわだらけのふたりの世界は、あまりにもせまくーまくらもとから、窓辺まで。ベッドからゆりいすまで・・・。ベッドから、ベッドまで。それでも外出することもある。うでをくんで、威儀を正してーそれというのも、おともらいの列につくため。もっと年老いた男のおとむらいや、もっとみっともない老女のおとむらいの・・・。嗚咽の時間が、あの銀の古時計のことを、しばし忘れさせてくれる。時計はサロンで、にぶく時を打ち、「ウイ」とも「ノン」とも、「わしは待っとるよ」とでもいうかのよう。年老いたふたりは、死ぬのでなく、ある日、眠りに付くばかり。永い永い永遠の眠りに・・・。ふたりはおたがい手をとりあい、あいてに死なれるのがこわいのだがーけれどやっぱり、どちらかが死んで、どちらかがのこる。善いほうか悪いほうか、優しいほうかきびしいほうか、それはもうどうでもよいこと。のこった者がまたこの世の地獄におちるのだから。雨のような哀しみの中、もう長くはないと、自分にいいきかせながら、生き残り、生きのびていく・・・。おしまいのときがくれば、あの銀の古時計の音も、きかなくてすむ。そいつはサロンで、にぶく時を打ち、「ウイ」とも「ノン」とも、「わしは待っとるよ」とでもいうかのよう。そいつはサロンで、のどを鳴らして、「ウイ」とも「ノン」ともいいながら、私たちを待っているのだ。<<私は、絵を描いています。ずっとブレルを聴きながら描いています。「老夫婦」というシャンソンを絵にするーというこの一連のデッサンの仕事は、とても順調に進めています。ブレルの歌を聴かずには、一筆たりとも描いたり塗ったりすることなどありません。レコードに針をおとすためになら、それこそ100回でも手をとめました。….ブレルのシャンソンの何がそんなに心をゆさぶるのでしょうか。ブレルって、どんな人物なのか。その言葉を絵に置き換えながら、私はそこのところを分かろうと努めています。・・・。>> ガブリエルバンサン(友人への手紙より)「あなたの絵をじっくり拝見し、その美しさや、節度や、静謐さ、それに、ありきたりの絵画化を峻拒されているのを分かったうえでも。しかし、こんな表現の出来る人は、生きることの何たるかをご存知だ、とすぐに気がつきました。ぎりぎりの表現に到達するには、愛をこめた凝視が必須のこと。……….あなたのお仕事は余分なものを切り捨てて、品格をもって人間の信実を表現されています。老いたものにとっての哀しみは、外見ばかりにこだわる世間が、老いを醜いとしていることなのに、あなたくらいデリケートに、老いという主題を扱われることの出来る方はいないでしょう。本当にこの世での姿は老婦人であろうとも、心の奥に秘めたるもうひとつの「現実」ではまだ10歳の少女なんですよね」クリスチャン・コンバジャック・ブレル(1929-1978)1929年、ベルギーに生まれる。1953年、パリへ進出、1957年、「愛しかない時」を大ヒットさせ、ACCディスク大賞を受賞、 一躍スターの道を歩み始める。パリの名門オランピア劇場にも出演。全身から湧き出るエネルギーを独特のパフォーマンスで歌い上げるブレルの歌唱法は、革命的な評価を得る。 「華麗なる千拍子」「行かないで」などの大ヒットによって、1965年にニューヨークのカーネギー・ホールでのリサイタルを行い、不動の地位を築く。当時のブレルは1年間に360日ステージに立っていた。翌年音楽界からの突然の引退表明。主な活動場所を、ミュージカルと映画に移す。 1968年12月~翌年4月、シャンゼリゼ劇場でミュージカル「ラ・マンチャの男」に主演、人気を呼ぶ。 1974年パリで肺癌の手術を受け、その後、南太平洋の島での生活を送る。その間に書きためた曲を1977年に発表。フランス国内において200万枚以上のセールスを記録し、世界中がブレルの復活を歓迎したが、1978年10月9日、パリ郊外の病院で49年の生涯に幕を降ろした。 ブレルの曲は、ミルバ、イザベル・オーブレ、デヴィット・ボウイ、ジュリエット・グレコ、セリーヌ・ディオンはじめ多くの歌手がカヴァーしている。<主な映画作品> 1969年 アンドレ・カイヤット監督『先生』 1971年 ブレル監督・主演 『フランツ』 1972年 クロード・ルルーシュ監督 『冒険また冒険』 1973年 ブレル製作 『大西部』など10本の作品に出演(うち2本は監督)<舞台>1968年 『ラ・マンチャの男』主演 (ブリュッセル王立モネ劇場、パリのシャンゼリゼ劇場)『天国はおおさわぎ 天使セラフィーノの冒険』『セレスティーヌ アーネストとの出会い』ちっちゃなこねずみのセレスティーヌとおおきなくまのアーネストおじさんという風変わりな二人の出会い。求めあい、与えあうふたり。ふたりのふたりでいることのよろこび・・・。セピアインクで描いた線画が素朴で美しい、心をうつ名作。バンサンが死の直前まで描き続けた「くまのアーネストおじさん」シリーズ22冊の大作の最初のエピソード。『あの夏』 『テディ・ベアのおいしゃさん』「まったくだ。だれかにとって、なくてはならん人。かんじんなことは、それだ。おまえは、わしにとって、なくてはならんやつさ、ぼうず・・・。」三部作『パプーリとフェデリコ』旅を続けながら、森で暮らす老人パプーリと少年フェデリコの物語。 『たまご』「アンジュール」に続く文字のないデッサン絵本。木炭で描かれており、ちょっとSFチックな迫真力溢れる作品。音楽家としての栄光を目指し、挫折した青年の前に、彼の弾くヴァイオリンを毎日のように聴きにくる男の子が現れる。失意の中から、青年が音楽の喜びを取り戻していくまでの心の動きを簡潔なタッチで描く。日本版オリジナル出版。1991年10月に出版された画集『砂漠』と、2000年4月に発表された絵本『ナビル ある少年の物語』は、印刷技術を駆使した日本オリジナル出版作品。サハラ砂漠とトゥアレグ族の生活を、バンサン自ら彼らのキャラバンに加わって丹念に描いた画集。画集『裁判所にて』ブリュッセルの裁判所に20年通いつめ、法廷というはかりしれぬ人間模様を描いた画集。「みなさんは、人間でも動物でも、彼女が創った絵本の登場人物たちの気持ちをこまやかに感じとっていらっしゃいます。これはまさに彼女が創造の中に込めたかったこと-友情、人を敬う気持ち、出会い、幸福です。また同時に、捨ておかれることや悲しみも彼女は込めました・・・。みなさんがそれらを良く理解してくださったことは、彼女にとって大きな喜びだったと思います。」(バンサンの姉テレーズ・マルタン「日本のみなさんへ」より)
2007年03月08日
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