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2007年07月15日
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高 橋 竹 山

魂が哭き響く -津軽三味線-初代高橋竹山の世界

「おらの三味線、くうための三味線だ」


「おらの眼(まなぐ)見えねぐなったのは、なんでも生まれてまだ二つになんねえどき、麻疹にかかった。むかしはいまとちがって、麻疹に風邪ひかせればゴロゴロ死んでしまうという話で風邪を家の中さ入れないようにしたもんだそうだ。おら家でもおらをだいじにして、だいじにしすぎて暖かいもの着せたり、湯たんぽいれたりしているうちに、おらあまりあつくてのぼせてしまったわげだ。眼眠ってしまって、滅多におがしいな、と眼あげてみたらすでにはあ、星かかってるんだ。すぐ医者さつれていったが、いまの医者とちがってむかしの医者だべ。盲腸も切りようしらねでみな死なせた時代だね、ただの眼薬よこして放っておいだのせ。あのころ麻疹で眼みえなぐなったものはずんぶあった、おらだけでねんだね。だからむかしは座頭出はったんだ。眼医者なんて、なも治す法知らねんだもの、なにほど盲あったかわからねえんだ、むかしは。それでとうとうおらは眼見えなくなってしまったんだえ。たいへんなもんであったな、むかしは。腹三日痛(や)んでコロッと死んでしまう人もいた、あれ、いま思うと盲腸せ、それ。盲腸手術する法わからねえんだもの、なにして眼治せるって。入れ歯する法もこのごろできたんだもの、なしに。これで結局われわれのような盲が出はったんだな、むかしは。おらと同じ年に盲になった子供が村に5人も6人もいた。おらはまだ生きてこうしているけど、みんなもう死んでしまったじゃ。川さ落ぢで死んだのもいるし、木から落ぢで死んだのもいるし。」





高橋 竹山(たかはし ちくざん)1910年(明治43年)6月-1998年(平成10年)2月5日)

高橋竹山は、明治43年(1910)6月、青森県東津軽郡中平内村(現・平内町)字小湊で生まれる。本名定蔵。幼いころ麻疹をこじらせ半ば失明する。近在のボサマ(戸田重次郎)の内弟子となり三味線と唄を習い、東北から北海道を門付けして歩いた。昭和19年(1944青森県八戸盲唖学校に入学し、針灸・マッサージの免状を取得。戦後は津軽民謡の神様と言われた成田雲竹の伴奏者として各地を興行、竹山を名乗る。この間、雲竹、竹山の名コンビにより津軽民謡の数々を発表。(りんご節、鰺ヶ沢甚句、十三の砂山、弥三郎節、ワイハ節、津軽願人節等は二人の作による。)昭和39年に独立、独自の芸域を切り開いて津軽三味線の名を全国に広く知らした。昭和50年、第9回吉川英治文化賞、第12回点字毎日文化賞を受賞、昭和58年には勲4等瑞宝章を受ける。東京渋谷にあった、「ジァンジァン」でのライブは多くの若者の心を捕らえて、全国に竹山の津軽三味線ブームをわき起こした。全国労音の公演他、ロシア、アメリカ、フランス等、海外公演でも高い評価を受けた。ボサマ(盲目の遊芸人)の門付け芸を芸術の域まで高めた陰には、風雪と社会の差別に黙々と耐えた人間的なたくましさ、三味線という楽器の持つ音楽性を愛してやまなかった懐の深さがあった。




「風雪院調絃竹山居士」

「びんぼうは、なんもおっかねえもんではなかった。金がないだけで、あたまやむ(あたまがいたくなる)わけでねえし、はらいたくなるわけでもねえ。
ただねえ。ひとがいっしょうけんめいやろうというとき、目のまえへでてきて、ばかにしたり、じゃましたりするやつが、いちばんにくかったね。
ひとがいっしょうけんめいに生きようとするのをじゃまするものには、けっしてまけない」
  日本人の心を震わせた不世出の天才、津軽三味線の名手・高橋竹山は、1998年2月5日、平内町立中央病院において喉頭腫瘍のため、八十七歳でこの世を去った。戒名は「風雪院調絃竹山居士」。




「三味線で苦労するのは音色だ。音色にもいいわるいがある。どうすればいい音がでるかということは、やはり勉強だ。これだけは習ったってできるものでない。手は習うことができてもいい音をだすのはその人の力と、考えと仕事で研究しなければならないことだ。三味線の音色は、自分の気持ちと指でつくっていくものだ。気持ちと指と一致させるのがたいへんだ。音はおなじ師匠から習っておなじ手でも人によってちがう。そこが面白いところだ。師匠から習ったことばかりで、いいというものではない。師匠のいい音色を頭にいれるということは、これは音だから眼でみてわかるものでない。おらの師匠は三味線は下手だったが、曲の筋道ははっきりしていた。師匠はいくら上手でも筋道しか教えられないし、また、上手は習われるものでない。それは自分でやることだ。師匠というものはまちがいのない基本を正しく教えれば、いい師匠だ。」





『寒撥 ~高橋竹山魂の響~』

津軽三味線の名人・高橋竹山が有名になるきっかけとなった、青森放送のドキュメンタリー番組をDVD化。脂の乗り切った62歳の撥さばきと、本人が語る人生の軌跡など貴重な映像を収録。タイトルの「寒撥」は“寒い映像”の意が込められている。



津軽三味線。この太棹の三味線ほど、人をひきつけるものは日本楽器の中でもそうあるまい。ある時は腹の底をえぐるような強い撥さばきとなり、またある時は華麗な曲弾きとなり、そして、またある時は繊細な高音部を現出する。糸は太い順から一の糸、二の糸、三の糸と呼ぶ。本来絹糸を用いるが、奏法上非常に切れやすいため、三の糸にはナイロンを用いる場合が多い。色は黄色で、これはかつて防虫効果のあるウコンを染め込んだ名残とされている。竹山の使っている糸は三本とも絹糸。普通に弾いても、一晩の演奏でもう切れてしまう。津軽三味線は特別演奏が激しいので、一晩に二本も三本も糸を切る人もいる。それで、今はみんな三の糸をナイロンにしている。竹山はナイロンの糸は使わない。むかしながらの絹糸だが、その細い三の糸を、二日も三日も使う。それでも切れないのだ。切れなくても、絹糸だから、糸がのびてしまったりバチで激しくこすられてけばだって音が悪くなるから、新しい糸と、とりかえる。古い糸は捨てないでとっておく。糸ばかりでない、どんなものでも粗末にしない。

「どんなものにもいのちがある。いのちあるものをそまつにしてはいけない。なにをやるにも、それにたましいをいれろ。いれなければ、生きたホンモノにはならない」



 このわずか三本の糸によって緩急自在、力強くたくましい低音部から繊細優美な高音部まで、数多くのバリエーションを伴いながら、津軽独特のリズム感を軸に曲が演奏される。演奏楽曲は、主として津軽三大民謡(津軽三ツ物)、および五大民謡(五ツ物)。三大民謡とは、「津軽じょんから節」「津軽よされ節」「津軽小原節」を指し、五大民謡とはこれに「津軽あいや節」「津軽三下がり」を加えたもの。数ある津軽民謡の中でも特に即興性が高く技巧に富むため、舞台で好んで演奏される。




津軽三味線『竹山流』について

一般的な三味線の奏法は胴の棹の近くの絃を撥で弾きますが、津軽三味線の場合はおもに胴の中ほどを胴に張ってある皮を叩く様に演奏します。津軽三味線には、大きく分けて2つの演奏法があります。バチを叩く様に弾く「叩き三味線」ともうひとつは、津軽三味線の名手として謳われた『初代・高橋竹山』が奏でた「弾き三味線」。弦の余韻を演奏に生かし、時には強く、またある時には優しく謳うように弾くのが特徴でとてもダイナミックな音がします。また、「前撥」「後撥」と言う奏法があり「前撥」は胴の棹よりを「後撥」は胴の中央を叩くことで音の強弱を付けたりリズムを付けたりして津軽三味線音楽にとっては大事なテクニックの一つです。左手のテクニックもほかの三味線よりもはじいたり、擦ったり指を動かす量も圧倒的に多いのが特徴です。

9

「あんまりせづなくて、ボサマやめるじゃとおもって家さかえったことあった。あっぱ(母)はおらこをかわいそがって、やさしくむかえてくれたんだが、じい(父)のほうが、「こご、おめの家でねえ!」まなぐみえねえものがひとりでくっていけげねえんだら、日本中の、まなぐみえねえ人間は、みな死なねばまいねべね。バカこぐな」としかって、家さいれてくれなかった。
「なんぼでも、あんまりだ」と、おらはずうっとじい(父)をうらんでいた。が、あとになってじい(父)のあのときのきもち、わかるようになった。もしあのとき、じい(父)がおらば家さいれてくれていたら、おらはいまごろどうなっていたか。
 おらば家さいれてくれなかったじい(父)が、おらのことをいちばんしんぱいしてくれてたんだ。がまんづよかったじい(父)は、歯をギリっとかんで、がまんして、おらば家さいれなかったんだべ。
 ホイドのなかまが小湊さいったとき、おら家ではじい(父)が、
「定蔵も旅でせわになってるべ。どうかゆっくりとまっていってけへ」
と、なんにちもとめて、ごちそうしてくれたと、あとで、なん人もの人からきいた。」




 津軽三味線の名手、高橋竹山は、1926年十月ボサマとして独り立ちした。十六才だった。ボサマというのは、門付けしながら放浪する盲目の旅芸人のことである。二歳で視力を失った貧しい少年の生きる道は、ボサマになるしかなかったのだ。
近世、盲人音楽家は平家琵琶を専業としていましたが、三味線の輸入に伴い、専従する人も現れ、三味線は近世音楽の代表的な楽器となり、人形浄瑠璃や歌舞伎芝居にも取り入れられ、江戸時代には小歌、端歌など多種多様の様式が生まれては消えていきました。高橋竹山は15才で梅田豊月の弟子である藤沢の戸田重次郎に弟子入りをしています。
2年で独立した高橋定蔵は生きる為の門付け、唄会興行、映画館の楽隊、浪花節の伴奏等をしながら津軽民謡の至宝、成田雲竹に出会いますが、熱狂的な唄会ブームや芸人の荒んだ生活に背を向け一人で門付けを続けます。ところが、戦争のために門付けも不可能となり、浪花節興行に入ったものの一座の座長に偽られ娘の死をも知らされなかったことから、興行での三味線を辞め、35才で八戸の盲唖学校に入学、按摩や鍼灸で生計を立てようとします。







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最終更新日  2007年07月15日 22時53分10秒
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