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リミックスとか、カバーとか、ただ単にミックスとか、リカバーとかトリビュートとか、用語の意味はようわからんけど、とにかく一度世に出た音をもう1度使って、新しい音楽にしてしまう、なんて現象はむかしからあたりまえで、今でももうびっくりすることもなくなったような感じがします。(昔、シングルのカップリング以降全てが「リミックス」だったとき、はげしく損した気がしたのが懐かしい。なんとかミックス、って小室の得意技だと思ってたです)考えてもみれば、クラッシック音楽だって、つかいまわしだらけだったりするし。「~変奏曲」なんて、現代でいうリミックス集みたいなもんですよね。同じ旋律を生かしながら、違う音楽を作る、音のゲームに近いものもあります。リミックスしてより良くなる曲、昔誰かが歌ってた歌をさらにウマイ歌手が歌ってかえって雰囲気でちゃうパターン、リミックスには「オリジナルを超えてやる」的な気概や男気がけっこう感じられるコトが多く、力入ってるな、とか思うもんです。がしかし、力を入れれば入れるほど失敗するし、どんなスゴイ人が手を加えても、なんと本人達の手ですら、その「オリジナル」を超えることができない楽曲、つまり「伝説のオリジナル」な曲、あります。それは、ビートルズの曲です。世に出されたとたんに、飛ぶように売れて、世界中をとりこにしてしまった彼らの音楽。彼らの歌、彼らのオーラ。もう、取り返しのつかないことです。既に、世界じゅうが彼らを愛しています。どんなピアニストががんばってみても、どんなウマイ歌手ががんばって歌っても、そして本人達が昔やりたかったように出しても、昔に出されたその形、世界中を魅了したその音楽には手が届かない。かなわないのです。(本人達のだけが、かろうじてタッチできるくらい)ひとの声援を吸って、ひとの応援を餌にして、音楽は彼らの手の中で踊るだけに留まらず、世界中に羽ばたいてしまったので、いまさらどうしたって追いつかないのです。残念なことですが、彼らの曲のリミックスほど、「オリジナルを超える」努力が虚しいものはない。出されたものは「超えるぜ」の気概を持ってませんね。かえって諦めるリミックスというのも存在するのかもしれません。そんなわけで今はオリジナルをきいてます。「ストロベリーフィールズ・フォーエバー」「サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツクラブバンド」「ア デイ イン ザ ライフ」「マジカル ミステリー ツアー」こうやって語彙ひとつとってみるだけで、なんて素敵でなんてかわいくて、かっこいいんだろうか、と溜め息をついてしまう。私が物心ついた時にはもうジョンレノンは死んでいたけど、音楽は、いつまでたっても色褪せることはない。・・・なんて月並みな言い方だけど・・・。ICEの曲に「People Ride On」という名曲があって、そこでこのようなコトを歌ってます。核心を突きすぎて、こころからはなれません。もしよければ聴いてみて下さい。「ニュースで知ったことだけど あのロックンロール・スターは もういない 車のシートに横になり涙を流した 夢は消え、歌は残る」ささいなおしらせ※他のプログでも日記始めてしまったので、 ここの日記が毎日更新できないかもしれないです。 でも、ときどきふらっと書いてますので、 たまに遊びにきてください。
February 16, 2005
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「ゆめがかなうてちょう」なるものを買ってしまいました、ついに。なんつうか、この手の本、って、ファンタジーですね。魔法の手帳、奇跡のコトバ、霊が宿る本・・・おっと。なんつうか、最近そのてのものが、20代後半女子の市場に踊りでております。守護霊に祈らないと叶わないような願いなんて、そんなのいいのかしら・・・?ただまあ、神にすがりたい、誰かに救って欲しい、なんてことは私も時々考えちゃうので、いたしかたがないというところか・・・。そう、ゆめがかなうてちょう、っす。これ、普通の手帳としてかなり使いやすく、中の説明部分にも、うさんくさいことばがなかったので、安心して買ってみました。わりといいかんじ。ほんとに。26さい(もうすぐ27さい)という、多感なお年頃をつかまえて、すぴりっちゃだのモテ技だの、いつも君は笑っているのはいいよ、だの、そのままのきみがすてきなんだ、それがきみだから、だの、そんなコトバはむずかゆくって仕方がないぜ。(きみはきみ、って当たり前じゃねえか。)でも、でも、ちょっと前向きにしてくれる、ちょっとしたヒントを仰ぐのは、なかなか悪くないかもしれない。というわけで今年のキィワードは、「まほうの」です。まほうの、なんか、かわいくてファンタジックで、それほど真剣味もないし、シャレにならないわけでもないし、そのささやか加減が丁度いい。「まほうの」見積書「まほうの」企画書「まほうの」プレゼンテーション、なんて、なんか、ちょっとすごそうだったりして。
February 3, 2005
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突然ですが、今、安岡章太郎氏の短編小説に、突然ハマっています。本屋で、村上春樹氏の短編小説を紹介する本があって、その隣に「氏が絶賛」とか書いてたので何気なく買ってしまったのだけど、(何気なく、だったけど文庫本なのに1,100円。高けぇ)これが、本当に面白い。安岡章太郎先生といえば、大作家。買った短編小説はなんと昭和28年とかそんくらいに出されたやつで、時代は戦中戦後だから、出てくる時代も今見ればずいぶん昔ではあるのだけど、文体が、それを感じさせない、つうか、最初は、現代に近いくらいで、時代背景だけが昔なもんだとおもっていたくらい。深く掘り下げて考えてしまうとたぶん終わることがないとおもうので、口当たり、というか、読後感だけで考えると、なんだか狐に包まれたみたいな不思議な感触なのだけど、主人公達の奇妙な境遇、奇妙な体験、そしてじわじわとしみわたるような寂しさだとか、そういうものを活字から皮膚に感じるような、不思議だが引き込まれる感覚。もういっこ、もういっこ、とどんどん読める。買ったのは講談社文芸文庫(高いだけありイイ紙)「ガラスの靴/悪い仲間」オススメは表題作にて代表作の「ガラスの靴」そして「悪い仲間」なんだけど、私は、進学校に通う小学生の男の子の話「宿題」、戦後駐屯軍人の留守宅を預かるハウスガードの仕事をする主人公の話「ハウスガード」戦後の貧乏な3人家族の奇妙な生活を描く、「愛玩」(コレは”うさぎ”編)「剣舞」(これは鶏)などなど、引き込まれてしまう話がいっぱい。もともと読書量が少なく、本屋好きだけど読書家ではない。本を読むのは、うんと遅いし、けっこうすぐ飽きる。(だから読みかけの小説がいっぱいある)そんなわたしでも、1つ1つあっさり読んでいることにびっくりした。飽きもしないし、飽きるほど長くない。この手のミニマムサイズなもの、たとえばオムニバス映画、オムニバスドラマ(1時間に2話とか、または1話完結の連続ドラマ系)、アソートパック、などなど、を、私は愛しているらしい。そういえば村上春樹氏との出会いになる「ねじまき鳥クロニクル」も、話は繋がってるが章ごとに話が切れていて、短編小説風だった。そして短編類もお気に入りだ。(好きな話は「パン屋襲撃」「再襲撃」、「4月のある晴れた日に100%の女の子に出会うことについて」も大好きだし、映画化される「トニー滝田」もいい、超短編のドーナツシリーズも捨てがたい、村上春樹氏の短編小説の話をし出すときりがなくなるのこの辺で。忙しい時代、細切れの時間、そんな時代に、短編小説は注目され始めている、のかもしんない。なんて。飽きっぽい私にはこの量が丁度いいのです。
February 2, 2005
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というか、使う言葉が見つからない、または、私ごときが何か言っていいのかと、戸惑ってしまうような話。そんな大げさな・・・といつもは一蹴することも、今日はなんだか笑い飛ばすこともできない、そういう話。いつものおとぼけ日記(なのか?)では済まないので、イヤな方は飛ばしてください。クライアントの近くにあるため、靖国神社をよく突っ切る。あのでかいけやきとか、偉い方の銅像のとことか、その部分だけなんだけど。巨大すぎる鳥居と空が広い贅沢な作りの参道に圧巻され、なんというか、「日本的」な空気を感じることができる。特に夕方が好きで、新鮮な空気を吸いに通ったりする。ちょっと今日は時間があったので、どうせなら、と参拝してみた。思えば私は一度も境内をきちんとみたことがなく、梅が咲いているという看板を見つけたし、ちょっとぐるっとまわってみるか、的な軽い気持ちで境内を散策し始めた。私はたいがい無知で経験不足であり、本などの知識も乏しいことは重々自覚しているところだが、それでも、私はこのときまで知らなかったのだ。靖国神社にある殆どの木には、寄贈者がいて、そこには、人々の沢山の念や想いや命がこめられている、という事実を。梅の木にも桜の気にも椰子の木にも、すべて当時の軍隊出身の方のや遺族の方の名前が記され、その木には誰の命が込められているか、ということが記されている。社を取り囲む林のすべてが、そのように大切な木。神社をすっぽりつつむ静寂や厳かな空気は、そのような木から生み出されていたのだ。私は知らなかった。知らなかったから、知った時に、知ってしまったんだ、と思った。知ってしまった後は、知らない時には戻れない。そして、60年前の時間と、今の時間、そしてこれからの時間が、同時に流れてるみたいな、不思議な錯覚に陥った。例えば梅の花の匂いを嗅いだ時、私は、今自分が何をしているとか、どこにいるとか、一瞬わからなくなった。ほんの一瞬、だけどね。靖国問題がどうだとか、新聞で報道される度に、たかだが神社に行くのになぜそんなにも?と思っていたのだが、実際行ってみると、なんだか何も言えない。いろいろな人の複雑な想い。それが60年ぶんくらい積み重なり、これからも褪せることなく積もっていく。そんなところに、軽はずみに行く行かない、なんて行ってる場合じゃないじゃないの、なんて、逆に、騒動の軽さに腹が立った。物事はもっともっと大切なことでつまっているから、お忍びとか抜き打ちとかしてる場合じゃないって。どうしろ、とか、うまくいえるものでもないし、それがいいかどうか、とかも勉強不足でよくわからん。だいたい私は逆側の人の立場でみたりとか、詳しくこのテーマについて調べてもいない。ただ、そこに行ってみただけ。それだけ。ただ、重みは重み、積み重なった時間は時間。あの名前のついた桜の木が満開になる時、今まで見てきた靖国の桜とは、たぶん異なって見てしまうことだろう。私は単純で短絡的だから。見てきた、知った、ということはたぶん、そういうことだろうとおもうので、自分の感覚を大切にしようと思う。
February 1, 2005
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