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土曜日の夜、バンドの日。ライブでやる予定の曲を合わせて、あやふやな部分を詰め、なかなか中身のある練習となった。バンド独自の曲とともに、ツェッペリンやクイーンなど70年代・80年代のお気に入りロックの名曲を演奏する予定で、ロックン・ロールに対するオマージュ的な内容となると思う。バンド独自の曲では初おひろめとなる歌詞が3曲あるのだが、これまで散々バンドで合わせておきながら、これといった詞の方向性が決まっておらず、いつも適当な言葉を並べてお茶を濁していた。が、ようやくこれだ!!と思えるような歌詞の方向性を決めることが出来た。何故歌詞を作るのが難しいのか?・・・ちょっと考えてみた。曲のほうが先にあって、その曲調にふさわしい歌詞はどういった歌詞なのか選択するに迷う(選択の幅が無限にある)、過去の作品とダブさせたくない、これだ!と思えるような表現になってない・・・とか、いろいろあると思う。個人の作品では、はじめにこれこれこういった歌詞を書きたいという明確な意志があり、その歌詞に合わせて曲調を決めればよいのだが、バンドで共同で作った曲に歌詞をのせる場合、歌詞についてはいつも満足のいく完成度とはならず四苦八苦する。こんなふうなのがいいだろうと思って決めた歌詞でも、歌っていて自分自身がのめりこめず、もの足りなさを感じてしまうというような・・・。多分、もっと自分を出すなり、個人的な作品を書くぐらいのふっきれた気持ちがあればいいのかもしれない。曲に対してももっと愛情が必要なのだろう。・・・とまぁ、書きながら思考は整理されていく。いつだって最高傑作の歌詞を書きたいと思っているのだ。今作っている歌詞が、これまでにない最高傑作となるであろうことは確信している・・・多分(笑)。まぁ、気楽に安くロックを楽しめそうな場所のようなので、”生N郎♪”に興味がある人は遊びにきてね(笑)2月24日(土)越谷メンフィス(東武伊勢崎線・越谷駅西口 MACS大野楽器越谷店 地図)18:30 OPEN 19:00 START
2007/01/27
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1982年1. OCEAN BEAUTY2. マイ ホーム タウン3. パーキング・メーターに気をつけろ!4. ロマンス ブルー5. 恋に落ちたら6. 愛しい人へ7. DJお願い!8. バックシート・ラブ9. さよならスウィート・ホーム10.凱旋門11.僕と彼女と週末に浜田省吾は昔かなり聴いていた。高校のころFMラジオから流れてきた「八月の歌」や「J・BOY」など、社会的メッセージを備えた歌は、「愛」ばかりでまったく中身のない”J-POP”に相当ウンザリしていた多感期の自分にとって、強烈なインパクトをもって受け留められた。浜田省吾の最大の魅力はラブソングにあるのだが、しかし先に挙げたような社会的メッセージ性を備えた歌がまた浜省の特別な魅力でもある。それ故に、今だに特別なアーティストとして、彼を偉大に思う。その浜省のアルバム群の中でもひときわ異彩を放っているのがこのアルバム『PROMISED LAND~約束の地』だ。コンセプトアルバム的な作りとなっていて、1曲目(インスト)~2曲目~3曲目の曲間がつながっている。そして1曲目のストリングスのメロディーが最期の曲のクライマックスで再び登場してくるのだが、アルバムを作ったアーティストの、アーティストとしての気概がガンガン伝わってくるようなそんな作りが、数ある浜省のアルバムの中でもこのアルバムを特別に評価している理由だ。パワーショベルで削った丘の上、いくつもの同じような小さな家どこまでも続くハイウェイ彼らはそこを名付けた「希望が丘ニュータウン」赤茶けた太陽が工業地帯の向こう沈んでいくオープニングのインストに続く2曲目「マイ ホーム タウン」、視覚的に訴えかけるこんなダイナミックな歌詞が浜省ならでは。これだけの歌詞を書ける人はそうはいないと思う。ジャラシー 嵐のような ジャラシーあの娘がだれか他の男と、街角を腕を組み歩いていた・・・それだけさ続く3曲目「パーキング・メーターに気をつけろ!」のこのフレーズがあまりにインパクトがあり、一度聴いただけで病み付きになってしまう。浜省の曲のなかでも異色曲だと思う。彼女はデパート、俺は町の工場で、働いて帰る夜道日毎に押し寄せる理由のわからない苛立ちが二人の心 引き裂き始めた9曲目「さよならスウィート・ホーム」のこの3行だけを切り取ってみても浜省の歌詞の凄さがわかると思う。たった3行の中にいかに多くのことが語られているか。しかも視覚的であり、かつ深い。N郎♪が歌詞にうるさく、巷に流れている多くの歌詞にフラストレーションを感じてしまう理由は、浜省クラスの歌詞を歌詞の基準と思っているからなのかもしれない。このアルバムの歌詞の魅力について書いているが、中でもっとも戦慄を覚える歌詞、正確には台詞は、アルバム最期の曲「僕と彼女と週末に」の間奏で語られるこの詞だ。週末に僕は彼女とドライブに出かけた。遠く街を逃れて、浜辺に寝転んで、彼女の作ったサンドイッチを食べ、ビールを飲み、水平線や夜空を眺めて、僕らはいろんな話をした。 (中略)あくる日、僕は吐き気がして目が覚めた。彼女も気分が悪いと言い始めた。それで僕らは朝食を取らず、浜辺を歩くことにした。そして、そこでとても奇妙な情景に出会った。数え切れないほどの魚が、波打ち際に打ち上げられてたのだ。この台詞の直後に次の歌が続くいつか子供たちにこの時代を伝えたいどんなふうに人が希望を継いできたか・・・・・・書きながらあらためて浜省の歌の凄さに驚異を覚える。近年の浜省の歌やアルバム、その活動についてはよく知らないが、少なくとも『J・BOY』(1986)までの浜省の、社会的メッセージ性が主体となっている歌は神がかり的な完成度であったと思う。そんな浜省でも、ラブソングに比べて社会的メッセージソングが、その凄さの割りはいまひとつ正当に評価されていないようにも思う。その原因は、それらの社会的メッセージソングを正当に評価できるだけの日本人がいないということにあるのかもしれない。U2やレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンが活躍した世界の基準を見て欲しい。余談であるがこの「僕と彼女と週末に」のメロディーやアレンジは、アバの「ザ・ウィナー」という曲にかなり似ている。サビのメロディーはもうそのまんまだ。多分浜省は「ザ・ウィナー」の影響を受けた・・・悪く言えばパクッたのかもしれない。が、そうであってもこの「僕と彼女と週末に」は、その歌詞と曲構成によって凄まじい曲だと思う。この『PROMISED LAND~約束の地』は、アーティストがアーティストとしてその存在意義をかけて、世に提示するためにコンセプトのある作品を作り、それを残すことができた稀有なアルバムではないかと思う。このようなアルバムがメジャーから出ていたということは日本のロック史の中でも特筆すべきことではないだろうか。・・・今やったっていいんだ。
2007/01/24
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1969年 ATLANTIC1. Good Times Bad Times4. Dazed and Confused9. How Many More Times他週末の夜、部屋のあっちこっちに出しっ放しで散在していたCDを整理整頓した。整理しながら、持っているアルバムの中ではジェフ・ベックが一番多いよな~とあらためて気付く。正確な数は数えていないが、少なくとも洋楽の中では一番多い。そしてジェフ・ベックの次に多いのがレッド・ツェッペリンだ。このブログではロックについてこれまであまり書いてはこなかったが、ツェッペリのファーストアルバムに収録されている「Good Times Bad Times」を久しぶりに耳にし、あらためてその楽曲のよさに感嘆するとともに、ロックの魅力を再認識した。ロックって何よ?・・・そう訊かれたらレッド・ツェッペリの曲のことだと答えるかもしれない。少なくともレッド・ツェッペリがハードロック史上最も偉大なバンドであることは世界の共通認識であり、それと同時に、エアロ・スミスを筆頭とし、ガンズ・アンド・ローゼスやレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンなど、超メジャー級を含めて、ツェッペリの楽曲に影響を受け、ロックのエッセンス引き継いでいったバンドの数は計り知れないと思う。レッド・ツェッペリの最高傑作アルバムについては意見が分かれるところだが、N郎♪的視点で述べると、最高傑作はまさにこのファーストだと思う。「Good Times Bad Times」「How Many More Times」「幻惑されて」(Dazed and Confused)など、ライブ向きで、これぞまさに「ロック」というような楽曲が含まれていることが大きい。「天国への階段」や「ロックン・ロール」、「胸いっぱいの愛を」「移民の歌」「レイン・ソング」など、ツェッペリを代表する楽曲は後続のアルバムに収録されているのだが、先にあげたファーストの曲には、ロックの楽曲として、それらの超名曲以上の魅力があると思っている。特に「幻惑されて」は、ツェッペリのライブを真似てエアロ・スミスが「スウィート・エモーション」と絡めながら自らのライブの中で使っていたように、ライブ向きの傑作曲だ。CDを聴いているだけではその凄さはわからないのではないかと思うが、大音量でのロックライブで、もしその曲が演奏されているのを体験したとしたら、N郎♪が定義している「ロック」とは一体何を指して言っているのか、きっとわかってくれると思う。そんなツェッペリであるが、昔からよく聴いていたというわけではない。最高傑作と一般的に言われている四枚目のアルバムを一番最初に聴いて、ロバート・プラントのボーカルが今ひとつ好きになれなかったり、ジミー・ペイジのギターの音も古めかしく感じ、ちょっと敬遠していたのだが、今は亡きロック好きの兄や、バンドのギターのケンちゃんから薦められ、このファーストを聴いてみた。その結果ツェッペリへの評価はガラリと変わり、「Good Times Bad Times」や「How Many More Times」のとっつきやすさ、ロックとしての楽曲のよさ、構成やフレーズのカッチョよさにすっかりはまってしまったのだ。「ロック」とは一体どういった曲のことを本来言うべきものであって、どういったところが魅力なのか初めて理解したように記憶している。そういった意味でもこのファーストとの出会いは衝撃的であった。・・・ツェッペリについてはまだまだ書きたいことはあるが、機会をみつけて書いていくことにしよう。
2007/01/20
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土曜の夜はバンドの練習日。渋谷アピアでのカルカンエコーのライブを観た後、その足で戸田公園のスタジオへ行こうと計画していた。が、急遽バンドの練習は中止となる。おかげでアピアのライブを最期まで観ることができた。土曜の夜にアピアに行くのは初めてで、また、アピアでライブを観るのも数ヶ月ぶりとなる。久しぶりに足を踏み入れたアピアは相変わらず内装がよく、アジアやアフリカの写真や織物の装飾品を眺めながら、後ろの方の席でライブが始まるのを待つ。BGMにはジャズの女性ボーカリストの曲が流れ、ブルーに照らされた開演前のステージが見える薄暗らがりの中、缶ビール片手にとてもここちよい雰囲気だ。イマジネーションってこういった場の雰囲気で広がっていくんだな~と思わされる。年末のカウントダウンシリーズで2006年のベストライブパフォーマンスに挙げた昨年2月のカルカンエコーライブ。今夜はトップで出演。客はまばらであったが、ビジュアルイメージに磨きをかけ、カルカンエコーの世界を展開してくれる。照明の効果もあり、デジカメを持ってこなかったことを後悔するほど、そのパフォーマンス姿は絵的に美しかった。「神仏不在のアリア」「泣き止みのワルツ」そして「メサイア」と、様式的にはポピューラーというよりクラッシクに近く、詞的には難解な曲がこのアーティストの持ち味だ。「メサイア」でのギターパフォーマンスがよく、ライブの中で一番の聴き所ではないかと思う。この曲をトップに持ってきてもいいかもしれない。カルカンエコーその人は、とても腰が低く、謙虚で人なつっこくて誰からもかわいがられそうな人なのだが、前述したそれらの曲を演奏中の彼(彼女)は、新興宗教の教祖様というべきか(笑)、常人とはかけ離れたカリスマ的オーラを存分に放っている。あれだけのリアルなカリスマ性をそなえたアーティストはそういないのではないか。本人はわかっていないかもしれないが、そのカリスマ性をどう活かし、昇華させていくか。新しい展開、新しい曲に期待しよう。2番手の出演者、てらし優一郎は最期の曲がよかった。その曲のように、詞曲として成り立っている曲を何故全面にもってこないのだろうかと思う。表現という面ではいい面を持っているだけに、残念ではないか。3番手のS・リューシンは井上陽水の「傘がない」を演奏していて、その日聞いた詞の中では、この詞が一番いいと思った。最初「傘がない」だとは気付かず、この人なかなかいい言葉を使っているな~と思った。1972年の歌だが、そのころはきっとまだ日本人が日本人としてまともに社会のことを考え、アウトプットする時代だったのかもしれない。「傘がない」は、そんなことより”傘がない”ことのほうが問題だと歌っている歌なのだが、そうでありながらも詞の中には社会の様相が切り取られていて、インスピレーションを刺激される。井上陽水のセンスはさすがだと思ったのと同時に、どこのライブハウスへ行っても思うのだが、詞については毎回毎回フラストレーションがたまって仕方がない。これはっ!と思えるような詞にはほとんど出会ったことがない。・・・ライブの目的は人の感性を開放することにあると思うのだが、弾き語りのような音楽では詞がもっとも重要だと、昔思っていたことを改めて思わされた日でもあった。そして最期は4人組のグループ北南(ほくなん)のバンド演奏。実はアピアのライブの後、バンド系のライブハウスのどこかに行こうと思っていたのだが、思いがけずもアピアでバンドのロックを聴くことが出来た。北南の連中は音楽をよくわかっている連中で、カッチョイイ曲を連発してくれてN郎♪的には大満足。60年代ロックを彷彿させるような曲調で、曲調のメリハリが素晴らしい。変拍子やブレイクが効果的に使われており、観ていてニヤリとさせられてしまった。アピアはライブスペースの隣がパブスペースとなっており、エキゾチックなその場所で呑むことが出来る。ライブの後、カルカンエコーと北南のボーカル兼ギタリストの人と一緒に呑みながら本日のライブについて音楽談義をすることが出来た。北南の彼は、N郎♪の彼らに対する音楽的評価にいたく感激していたようだが、曲が難解だとか言われたり、ロック系のライブハウスでは他のバンドとちょっと音楽的に違うんじゃないかと思ったりもしていると話していた。U2のボノを尊敬しているようで、U2のMCでは社会的なことをバンバン話すとも言っていた。なかなかイマジネーションとインスピレーションを刺激される談義となり、面白かった。カルカンエコーは今週1月19日(金)に小伝馬町プードル(ダイニングバー)で演奏し、渋谷アピアでは2月10日(土)に出演する。北南は2月24日(土)に同じく渋谷アピアに出演し、3月7日(水)には渋谷屋根裏に出演する予定とのこと。ついでに宣伝しておくと、ウチのバンドは2月24日(土)埼玉・越谷のメンフィスというところで演奏する予定。アピアを出た後、渋谷TSUTAYAへ向かう。土曜の夜のハチ公前交差点は、平日とはニュアンスの異なる活気に満ち溢れていた。TSUTAYAのCDレンタルフロアは若い女性が多く、みんな音楽を探し、その音楽とともに週末を過ごすのだろう。ちなみにCDレンタルフロアは地下2階から地上3階へ移動していた。ボブ・ディランの武道館ライブ(1976年)とスウィング・アウト・シスターのベストアルバムを借りてTSUTAYAを出る。埼京線に乗りながら、今夜は相当久しぶりに充実した時間を過ごすことができて、かなり気持ちいい夜だと思った。インスピレーションが湧き、アウトプットへの内的衝動に駆られた。アピアとその出演者たちに感謝。そして今宵の貴重な一人の時間に感謝。ありがとう。●リンク:渋谷アピアホームページ●リンク:カルカンエコー・僕の行くトコロ<自ブログ関連>● カウントダウン2006(ライブ編) ● 渋谷・TSUTAYA
2007/01/13
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1977年 東宝監督:市川崑原作:横溝正史出演:岸恵子 石坂浩二 若山富三郎 北公次 他遅ばせながら新年初投稿となる。フジテレビ・稲垣吾郎の『悪魔が来たりて笛を吹く』でも、石坂浩二のリメイク版『犬神家の一族』でもなく申し訳ないが、年末年始に改めてDVDで観た金田一映画、77年東宝『悪魔の手毬唄』について書こう。■映画の観どころこの映画、出演者では岸恵子が最も注目されたと思うのだが、多くの人が評しているように、一番の役者は若山富三郎だと思う。タバコをふかしながらの演技が絶妙で、たまらなく上手すぎる。相当な演技研究家だったのではないかと推測してしまう。プロフェッショナルな役者とはああいった演技をする人のことを言うのだろう。素晴らしいセンスだ。若山富三郎の他にも出演者は演技派ぞろいで皆芸が細かく、そんな演技を見ているだけで十分楽しめる。医者役の大滝秀治の傍若無人な態度、特に火鉢に足を突っ込んでいるところや、野津刑事役の辻萬長がメモを確かめながら調査結果を読み上げるシーンなど、ホントに芸が細かく、おもしろい。役者の演技を楽しみたい人にはたまらない映画でないかと思う。そして石坂浩二の、あのとぼけた金田一役の演技は、稲垣吾郎の金田一の演技とは雲泥の・・・な~んてもんじゃないと思う。稲垣ファンには申し分けないが、そう言わざるおえないほど金田一耕助役としての演技がはまっていた。出演者のこの絶妙な演技の連発は市川マジックのなせる業なのだろうか。同じ市川監督の映画でも96年の東宝『八つ墓村』には首を傾げたが、目標としたのは『悪魔の手毬唄』だったのかもしれない。斬新なカットや映像のつなぎなど『悪魔の手毬唄』は市川映像絶好調で、田舎のひなびた温泉宿や土蔵、放庵の庵など、舞台となる場所の映像も実に素晴らしい。よくまあ、あれだけ古ぼけた日本の民家を再現できたものだと感心する。役者の演技とともに、そんな映像を観るだけでも十二分に価値ある映画だと思う。■音楽村井邦彦・田辺信一の音楽は角川『犬神家の一族』での大野雄二の音楽的趣向を引き継いでいてよかった。しかし、主題曲の「哀しみのバラード」はいい曲ではあるのだが、日本的土着文化を舞台とした「悪魔の手毬唄」の世界とはちょっと違うのではないかと思う。主題曲には「鬼首村手毬唄」を持ってくるべきではなかったか。また、本編で使用されていた音楽より、DVDに収録されていた映画の予告編の音楽の方がエキサイティングでインパクトが強く、好みだった。MBS横溝正史シリーズの音楽に近い感じで、音楽的趣向はああいった感じのほうがよかったと思う。どこかに収録されていないだろうか?■横溝映画の最高傑作・・・について(ネタばれ注意)この映画、横溝映画の最高傑作と評判が高い。確かに完成度は高く、役者の演技も素晴らしい。しかしこの映画が横溝映画の最高傑作・・・というのは松竹『八つ墓村』の映画評で触れたように、ちょっと違うんじゃないかと思う。岸恵子が事件の真相を語るところからの情緒的シーンがウケたせいなのか、東宝の後続『獄門島』では原作と犯人を変え、原作にはない犯人の情緒的な生い立ちをクライマックスに持ってきている。が、『獄門島』でのその改変は安っぽいドラマを連想させ、失敗ではなかったかと思う。あの作品はドライに終わらせるところが格好いいのだ。『悪魔の手毬唄』もそこまではっきりとは言えないが、岸恵子の告白を中心とする情緒的なシーンが今ひとつのめりこめない。そういった部分が逆に殺人事件の動機に疑問を呈する結果となり、そんな評価が散見される原因ともなっているのかもしれない。ただ、母親の死を知った歌名雄の悲劇には、作り物とわかっていてもせつなさを感じざるおえなかった。横溝映画の最高傑作となるためには・・・『悪魔の手毬唄』の後半に、鬼首村手毬唄を口ずさみながら人喰い沼を別所千恵子が歩くシーンがある。そのシーンに続いて人形が手毬をはじめる怪奇幻想的シーンがあるが、あのイメージをもっと全面にうちだし、映画全体のモチーフとしていればより凄い映画になっていたのではないか・・・横溝作品が横溝作品である魅力、原作者が一番強調したかったところ・・・そんな部分をあともう少し強調していれば・・・そう思うのだ。そんなことを思いながら原作者・横溝正史の怪奇娯楽探偵小説家としてのセンスとサービス精神にあらためて感心させられてしまった。そしてその原作のエッセンスを、ユーモアを交えながら見事に映像化した市川崑の力量にも同時に感心させられた一作であることは間違いない。●関連記事一覧:金田一耕助についてうんちく 映画&音楽
2007/01/05
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