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絶好調という言葉がありますが、拙僧は只今絶不調状態!? このブログを更新する気力が失せていますので、読者の皆様にはご無沙汰いたしております。何故かといえば、(1)年末年始の疲れ(飲み疲れ?)が出た、(2)多忙を極めている、(3)花粉症シーズンを前に早めに飲み始めた抗アレルギー剤の副作用か般若湯との飲み合わせが悪い、(4)仮面鬱病的症状あるいは(5)単純にボケが始まった、というところでありましょうか。加えて先週末から風邪気味で昨日朝から声が出なくなり、慌てて医者に行きました。内視鏡をのんで検査の結果は、声帯がだいぶ腫れているとのこと。お経の読みすぎでないことだけは確かなので、不摂生のそしりは免れません。6種類の薬をもらって回復に努めています。清貧にして清浄なる菩薩道を歩むためには健康第一! 本日から心を入れ替え頑張ります。何?見え透いてるって? ナム~~~。
2008年01月30日
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今年最初のラジオデイズ落語会はてえとこちらも大入り。一押しの柳家喜多八、柳家小ゑん両師匠の登場です。開口一番、鈴々舎わか馬さんのネタは「鷺とり」。捕まえた鷺を腰の帯にはさんでおいた男、鷺たちが羽ばたき空へ? メルヘンチックな馬鹿馬鹿しさが堪らない噺です。続いて小ゑん師匠が登場、ご隠居に俳句を教わる八五郎、へんてこな俳句や川柳がポンポン飛び出すネタは「雪てん」、近頃はサゲまでやらない「雑俳」という演題で知られています。仲入り前は喜多八師匠、昔懐かしい近所の悪ガキ共が商売人をおちょくる「いかけや」で会場を爆笑の渦に。こまっしゃくれた子供達といかけやや鰻屋の親父とのやりとりでテンションが高まっていくのが面白い。仲入り後も喜多八師匠。ネタは「近日息子」。少し間の抜けた倅を気遣いながらも小言の多い親父、惚けた息子は死んでいない親父の葬式まで出そうとする。師匠は粗忽者をすこぶる優しく演じて見せます。トリは小ゑん師匠、ネタは代表作のひとつ「レプリカント」。酔っぱらうと何でも持ってきてしまう男、目覚めた時に眼前にあったものは?ありそうな日常から出発して有り得ない世界に引きずり込むのが小ゑん流。古典も新作もたっぷり落語が楽しめた土曜の昼下がりでした。
2008年01月28日
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平成二十年のオリンパスシンクる寄席、柳亭市馬と三遊亭好二郎、初春に相応しいネアカ系ご両人で始まりました。いつものお江戸日本橋亭も超満員で華やかさが違います。 初めは好二郎さん、ネタは「だくだく」。上方では「書割盗人」という粋な泥棒の噺。何もないので寂しいと家財道具の絵を描いてもらった男が寝ていると泥棒が侵入、仕事にかかるが壁に描いた絵だと気付く。このまま退散は詰まらぬと盗んだつもり。気付いた男も泥棒を退治するつもりと芝居づく。何とも言えない心の余裕がうれしい噺。続いてイヨッ!市馬師匠。立派な侍が贔屓の道具屋を訪れ掛け軸の絵などを話題に煙管で一服、立派な袴に火玉を落とすが動じない。師匠の侍はいつもカッコイイ。見ていた間抜けな男、侍の真似をするが様にならずに爆笑を誘う。ネタは先代小さん直伝「普段の袴」。生来の明るさがほんと爽やかな市馬師匠、素敵です。仲入り後も好二郎さん。さびしい独身OLの部屋、もしも観葉植物たちがしゃべり出したら?ネタは新作「アロエヨーグルト」。植物の種類で異なるポーズと考え方が笑わせるが、音声だけでも大爆笑請け合います。このしと、フツーッぽい噺家のくせにダダ者ではないぞ。トリは市馬師匠。ネタは「こんにゃく問答」。こんにゃく屋の親父扮する大和尚と旅の雲水の禅問答が圧巻。何を訊いても無言なのでジェスチャーで質問する雲水に、何も知らない親父がジェスチャーで返し大勝利!もちりん音声だけでも笑いながら仏教の神髄が学べる何度聴いても有り難い噺。極楽在住の先代小さんを正月から思い出す。宗旨は違うがナムアミダ。いやー落語は面白い。
2008年01月14日
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愚かな者は知識が生じても、ついには彼には不利なことになってしまう。それは愚か者の好運(しあわせ)を滅ぼし、彼の頭を打ち砕くであろう。(『感興のことば ウダーナヴァルガ』第13章2 中村元訳 岩波文庫より)愚か者とは、馬鹿な人のことを言うのではありません。真理を体得していない我々普通の人のことを言うのです。人は知識を身に付けるほど、自己を過信し始めます。優秀な人ほど知識を拠り所にして自己を偉い者と思い始め、やがてそれが当然のこととして感じられ他人に対しても振る舞うようになるのです。しかしお釈迦様や先師たちが悟った真理からすれば、人の知識など猿知恵に毛が生えた程度のものかもしれません。優秀なエリート官僚や大企業・老舗経営者たちが犯した罪、堕ちていった姿を見れば、前述の言葉の意味を理解することができます。まして我々凡人は生半可な知識を得たからといって過信してはなりません。あなたに仏の智慧が顕れますように!ナムブッダ観学院称徳
2008年01月13日
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信(まこと)は人の最高の財である。徳を良く実行したならば、幸せを受ける。真実は、実に諸の飲料のうちでも最も甘美なものである。明らかな智慧によって生きる人は、生きている人のうちで最もすぐれた人であると言われる。(『感興のことば ウダーナヴァルガ』第10章3 中村元訳 岩波文庫より)偽り多き世の中だからこそ、信、誠は人の最高の財産です。信は、信仰という意味もあり神仏に対する畏怖と信じる心を持っているということでもあります。そういう人は自己に偽り無く、人にも社会にも偽ることはありません。そうした人には自ずと徳が備わるものです。真実に生きる人は、最も甘美なる幸せを受けるのです。これは明らかな智慧が、お釈迦様のような智慧が顕れているからに他なりません。昨年まで繰り返された不祥事。それを引き起こした経営者たちや官僚たちに徳のかけらも感じられず、彼らの言動そのものに偽りが顕れているのを見る者誰もが感じてしまったということは、現代人にもまだ正邪を見抜く力、とりもなおさず智慧が残されていることの証拠でしょう。そうした信無き人、偽りの人が悪いところへおもむくとは、原始仏典にも多数記されているところです。悪いところとは地獄のことですが、信のある人にはこの世が浄土になるように、地獄もこの世にあることは当人達が今、一番感じているところでしょうね。人は毎夜死んで毎朝また生まれてきます。昨日の自分と今日の自分は同じではないからです。細胞レベルでこれが真実であることは証明されていますし、記憶レベルでは実感できることです。輪廻とは本来こうしたことを言うのでしょう。明日の幸せは、あなた自身がつくるのですよ。信(まこと)は人の最高の財である。徳を良く実行したならば、幸せを受ける。ナムブッダ合掌 観学院称徳
2008年01月09日
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そのままに生まれながらの心こそ 願わずとても仏なるべし (『一休和尚法語』の道歌より)よく眼は心の窓だといいます。子供たちの眼は澄んでキラキラ輝いています。子犬や子猫、子パンダや子ライオンなど動物たちの子供の眼も澄んで可愛いですよね。それなのになぜ人も動物もものごころつき大人になると眼から輝きが無くなり曇ってしまうのでしょうか。生きるために身につけていく汚れが眼の輝きを、生まれながらの心、仏の心を覆ってしまうのです。でも心配することはありません。一休さんが歌に残してくれたように、生きとし生けるものは願うまでもなくそのままで仏なのですから。たとえ汚れにまみれた人生をおくってきた人であっても、ただ一心に人智の及ばない神仏を想うことで汚れは消え去り、生まれながらの心を覆う雲を晴らしてくれるのですから。雲に遮られているからといって太陽や月が無くなることがないように、あなたの生まれながらの心、仏の心もけっして無くなることはありません。一般には自力門と考えられている禅宗だって、日本曹洞宗の宗祖道元禅師が心身脱落して自我を虚しくした瞬間に仏がやってくると言われているのですから。自力での修行は大切だけど最後の最後は他力なのです。仏教はもともと自他不二=絶対平等という考え方です。自力も他力も、あなたも私も、仏もあなたもみんな同じということですから、一時でも神仏に心身を投げ出し自我から自由になった時、あなたはそのまま「願わずとても仏なるべし」ということになるのです。スリランカやタイなど南方上座部仏教の人々が挨拶がわりに合掌し合うのは、この人の心に在る仏さまに手を合わせているのです。仏になったあなたには、もはや不安はありません。こだわり続けた自我も消え去り、自然と慈悲をいっぱいにたたえた心を持っていることに気付くはずです。それは喜びですらあります。正しい坐禅や瞑想はそのための手助けになるでしょう。時には生まれながらの心、仏の心を思い出すこと。精神衛生上これほど有益なことはありませんよ。ナムブッダあなたに悟りの光が訪れますように!合掌 観学院称徳
2008年01月04日
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浄土すなわち遠からず、この身すなわち仏なり江戸時代に人気のあった白隠禅師の創られた「坐禅和讃」の言葉です。弘法大師の開かれた真言宗と同様に禅宗は坐禅によって自ら悟りを目指します。即身成仏が当面の目標なのです。我が国では平安末期の末法思想から浄土教の影響が大きく成仏と言えば往生成仏、阿弥陀様の西方極楽浄土に逝ってしまうこと、一巻の終わりをお陀仏と言うようになってしまいましたが、お釈迦様の根本仏教では即身成仏が当たり前だったわけです。何故ならばそれは悟れば終わりではなく、お釈迦様がそうだったように、それから残された人生を衆生救済に費やし、あの世ではなく今生きているこの世を汚れのない善い世界に変えて行かなければならないからです。阿弥陀様の浄土は素晴らしいところだと思いますが、死んでからしか救われないというのは拙僧には手遅れだと思うのです。勿論、生きることそのものが苦しいという状態になって死ぬ方が楽だと思う時もあるかもしれませんので、南無阿弥陀仏も有り難いことに変わりはありません。しかし、大乗仏教の流れにありながら仏教の根本である釈迦仏教への回帰を希求した達磨大師の禅宗と、インド仏教最後の華を咲かせた密教が、共に即身成仏を当面の目標に掲げたことには意味があると思います。冒頭の白隠禅師坐禅和讃の言葉はまさにこのことを表現しているのですね。「一切衆生悉有仏性」。我々の心の底には仏になるべき性質が隠されている。煩悩の汚れを捨て去り空に等しき鏡のような曇りのない心を取り戻すことで自ずとこの身すなわち仏となる。仏となれば浄土は十万億土の彼方にあるのではなく、この世がすなわち浄土なのだということなのです。何故なら仏となった人々は、自らは戒を保ち、他には慈悲を施して、自ら在る世界を浄土にしていくことになるからです。一人ひとりが身近なところから浄土を創る。ここに真のお釈迦様の仏教の意義があるのです。生きとし生けるものが幸せでありますように!ナムブッダ合掌 観学院称徳
2008年01月02日
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新年明けましておめでとうございます。今年のテーマは「楽笑」縁ある方々、生きとし生けるものがみんな仲良く楽しく笑って暮らせる一年でありますように!ラジオデイズもそのお役に立てますように!合掌九拝観学院称徳
2008年01月01日
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