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フランスのベルサイユ宮殿のマリー・アントワネットの部屋です。ドイツ女帝マリア・テレジアの娘マリー・アントワネットは、14歳の時、政略結婚でフランスの王太子ルイ(後のルイ16世)と結婚しました。マリー・アントワネットは幼い頃からハープを弾いていました。タングル城へ幽閉された時も、ハープを持ち込んで弾いていたそうです。 マリー・アントワネットのハープ(1774年)[モーツァルト 6才]さて、モーツァルトが6才の時、マリア・テレジア女帝の王宮シェーンブルン宮で御前演奏をした時、6才のマリー・アントワネットに出合い「大きくなったらお嫁さんにしてあげる」と言ったそうです。おませさんですネ。モーツァルトは、ここでの演奏の途中で、宮廷作曲家のワーゲンザイルを呼び、彼の曲を弾くために譜めくりを頼んで言ったセリフは、「ぼくは、音楽のわかってくれる人に聞いてもらいたい」 自信たっぷりの豆演奏家ですネ。 ピアノに布をかけたり、1本指でピアノを弾いたりするはなれわざは、宮廷の人々を驚かせました。 100ドゥカーテンの礼金(父レオポルトの1年分の給金と同額)をいただき、皇女と皇子の礼服を送られました。 姉ナンネルと共に誇らしげに着ていました。皇子の礼服を着たモーツァルト「フルートとハープのための協奏曲」モーツァルト作曲のハープ曲 22歳の時、パリに旅行した折に 音楽好きの貴族の父娘のために作曲されました。≪フルートとハープのための協奏曲≫ ハ長調 K.299 Mozart 1756~1791 (Fl)ジャン=ピエール・ランパル(仏) (Harp)リリー・ラスキーヌ(仏) (cond)ジャン=フランソワ・パイヤール(仏) パイヤール室内管弦楽団 2023年10月には文化庁主催の「文化芸術による子供の育成事業」により加西市の小学校でハープコンサートをさせて頂きます。学校関係のかた、お問い合わせください。http://erikaharp.com/ 15弦 クリスハープです。「マーメイド伝説Vol.1 Love」の音楽配信しています。是非、お聴きください↓マーメイド伝説 LOVE by 川下笑里歌 | TuneCore Japan (linkco.re)♪文化庁の文化芸術による子供の育成事業♪英国チャールズ皇太子御用達ロイヤルハーピスト アリスさんと姫路城♫♪神戸教室・加西教室 ハープ1Dayレッスン 生徒募集中☆♪ハープセラピー♬パーソナル ハープ ヒーリング コンサート♪タカラジェンヌのハープレッスン♪作曲家 黛敏郎先生と ♪日野原重明先生と ♪青山繁晴さんと♪デュ―ク更家さんと 8月の神戸ハープレッスンは6日(日)神戸芸術センタースタジオBです。体験レッスン、1dayレッスンをご希望の方は是非どうぞ、ご連絡ください。*************************************ハープ演奏個人宅、学校、幼稚園、福祉医療関係イベント、コンサート、結婚式、各種セレモニーでハープ演奏をさせていただきますお気軽にお問い合わせ下さいhttp://erikaharp.com/*************************************文化庁「文化芸術による子供育成事業」 に申請をされれば 小学校、中学校、高校での芸術観賞ハープ演奏にお伺いできます。 お気軽にお問い合わせ下さいませ。*************************************県民交流広場 兵庫県コミュニティ応援隊 派遣講師に登録してます❤ 兵庫県内の文化、福祉、子育てサークルにハープ演奏を是非どうぞ♫ ~お気軽に^^♪*************************************ハープ教室「エリカハープアカデミー」生徒募集中 神戸教室 神戸芸術センターhttp://www.art-center.jp/kobe/ 加西教室 兵庫県加西市北条町 http://erikaharp.com/lesson/オンラインハープレッスン生徒募集中1dayハープレッスン・体験レッスン承りますタカラジェンヌのハープレッスンエリカハープアカデミーレッスン風景ハープを習ってみませんか?優しく、ていねいにお教えします。体験レッスンから是非どうぞ 初心者大歓迎です第1回 ハープミューズフェスティバル第2回 ハープミューズフェスティバル第3回 ハープミューズフェスティバル第4回 ハープミューズフェスティバル第5回 ハープミューズフェスティバル第6回 ハープミューズフェスティバル 会場 神戸芸術センターショパンホール************************************* ギリシャ神話よりインスピレーションを受けて作曲したハープCD「マーメイド伝説」シリーズ 好評直販中ですマーメイド伝説 Vol. 1 第1曲~第20曲 ギリシャの英雄誕生~恋する人を救い出し結婚~ Vol.1ご試聴YouTubeマーメイド伝説 Vol.2 第21曲~第40曲 ギリシャ神話の人物が色々登場しますヨ。 Vol.2ご試聴YouTubeマーメイド伝説 Vol. 3 第41曲~第60曲 ドラマチックな情景です。 Vol.3ご試聴YouTube マーメイド伝説 Vol. 4 第61曲~第80曲 天界のファンタジーです。 Vol.4ご試聴YouTubeマーメイド伝説 Vol. 5 第81曲~第100曲 ギリシャに繁栄をもたらす場面の曲です。 91曲~100曲は天界の瞑想曲になっています。 Vol.5ご試聴YouTubeマーメイド伝説・スペシャル版 「マーメイド伝説」vol.1~vol.5より選んだ 珠玉の18曲が入っています。「マーメイド伝説」シリーズ好評直販中ハープCDは直販の〒代引きでお送りしています。(直筆サイン入りCDをお送りします)ご試聴ご注文星よみのひとりごと 宮本ゆかりさんのブログに「マーメイド伝説」のご紹介をいただきました。ありがとうございました*************************************ブログランキング参加中Official web siteMy spaceFacebookTwitterYouTube
2023.07.23
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【サン=サーンス フランスの作曲家、ピアニスト、オルガニスト1835年10月9日パリ生~1921年12月16日アルジェリア没】[2才]生後まもなく父を失いましたが、母方のおばから2才半ばの頃よりピアノの手ほどきを受けました[3才]ピアノ曲を作曲しました。絶対音感の持ち主は、音楽史上ではモーツァルトとサン=サーンスくらいだったといわれるように、非常に高度な音楽的能力の持ち主でした。(ただしこれは、絶対音感が作曲家に必要な能力というわけでないことも逆に示しています)[10才]ピアニストとして演奏会デビュー[13才]パリ音楽院に入学[20才]マドレーヌ教会のオルガニストになりました。その即興演奏を聞いたフランツ・リストは「世界一のオルガニスト」と絶賛しました。[36才]フランス音楽普及のために、フランク、フォーレらとともにフランス国民音楽協会を設立し、フランク、シャブリエ、ドビュッシー、デュカス、ラヴェルらの作品を初演しました。[40才]19才の花嫁を迎えましたが、2人の子供を相次いで失うなどの不幸があり、家庭生活は破綻しました。[86才]旅先のアルジェリアで客死しました。マドレーヌ協会で国葬が行われ遺骸はモンパルナス墓地に埋葬されました。晩年には保守的傾向を強め、ドビュッシーに否定的態度を示したりしました。彼の音楽はその生きた時代にしては保守的でドビュッシーのように新しい世界を切り開いた作曲家ではありません。しかし流麗な旋律美でフランス的な洗練と明るさを表現した作品の数々は高い人気を博しています。組曲『動物の謝肉祭』、交響曲第3番『オルガン付き』、交響詩『死の舞踏』、オペラ『サムソンとダリラ』、ヴァイオリン協奏曲第3番などが有名です。ハープ曲では、「ファンタジー」という美しい曲があります。私もこの曲は大好きで、よく演奏しますよ。組曲『動物の謝肉祭』の13曲目「白鳥」は特に有名ですネ。YouTube 白鳥http://www.youtube.com/watch?v=Rxv8rAfP_B4*************************************【ハープコンサートのお知らせ】西村光司さんのディナーショーでスペシャルゲストとしてハープ演奏をします。とき :2011年11月13日(日) pm6:00~ところ :ホテルニューオータニ鳥取(鶴の間)ディナー券:20,000(税込)お問い合わせ 西村光司音楽事務所TEL (0858)35-2181**********************************エリカハープアカデミー加西教室のレッスン風景2才よりヴァイオリンを習われていた方で、ハープも弾きたいと、新大阪からレッスンに来られています。とても音楽センスの良い方です。ハープレッスン「エリカハープアカデミー」神戸教室 神戸市灘区赤松町加西教室 兵庫県加西市北条町http://erikaharp.com/lesson/ 1日限定ハープレッスン承ります タカラジェンヌのハープレッスン*************************************ハープ演奏個人宅、学校、幼稚園、福祉医療関係イベント、コンサート、結婚式、各種セレモニーでハープ演奏をさせていただきますお気軽にお問い合わせ下さい*************************************YouTubeMy space Facebook癒しのライブ公演.comヒーリングタイム
2011.08.11
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【フランツ・リスト ハンガリーのピアニスト、作曲家1811年10月22日ライディング生~1886年7月31日バイロイト没】[15才]父が死去し、僅か15歳にしてピアノ教師として家計を支えますが、経済的に困窮することはありませんでした。パリ上流階級の子女たちがこぞってピアノを教えてもらいたがったからです。 超絶技巧も軽々とこなすピアノの腕前に加えて、生来利発、端正な容貌が人気に拍車をかけます。生活費を稼ぐために多くの生徒にピアノを教え、数年間は演奏も作曲もほとんどしていません。 ゲーテやバイロンなどの詩を読みふけり、一時は僧侶の道に入ろうかと考えたといいます。[19才]また、音楽の活動をはじめ、同時代のベルリオーズやショパンらと交流、互いに影響し合いながら成長しました。初恋の相手は、弟子の一人カロリーヌで、これは破局に終わります。[22才]6つ年上の伯爵夫人で作家のマリー・ダグーと、スイスに駆け落ちするという事件を起こし、約10年間同棲し、3人の子供が生まれます。(その一人がワーグナーの2度目の妻コジマです)[36才]彼女と別れた後、ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と恋に落ち、同棲します。彼女の夫はドイツ系ロシア貴族で、決して離婚に応じなかったため、夫人はローマで神と生きる道を選びます。悲嘆にくれたリストもまた教皇のもとで宗教生活を送る事を決め 55歳の時には大修道院長の称号を得て、生涯独身で過ごしたのです。リストの一生(左から少年期・青年期・壮年期・老年期) リストはピアノの超絶技巧、交響詩、現代のピアノリサイタルなど後世に続くさまざまなスタイルを開発しました。リスト作曲の有名な「愛の夢」は、ハープでも弾きますよ。 大好きな曲です。 YouTube愛の夢 ピアノ演奏 フジ子ヘミングYouTubeラ・カンパネラ ピアノ演奏 フジ子ヘミング・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・The ESSENCE RADIO SHOW Host Kara Johnstad JANUARY 16, 2011This week's artists! Craig Urquhart, XD WEI, MJ Hummingway, David M. Bailey. Ariel Kalma, Renaud Garcia-Fons, Erika Kawashimo, Peter Weniger, Marcomé, the Unknown Poet, Vladiswar Nadishana, Deva Premal, Christian Lindquist, Jason Damato, Vanilla Moon, Jon Balke, Renee Olstead, Chris Botti, Dechen Shak-Dagsay, David Hyams, Till Brönner, Beto & Kara, Emilie-Claire Barlow, Sounds Like Sol, Shirley Bassey, Mehmet Ergin, Rolf Zielke, Tina Malia, Masato Matsuda, Michael Vetter, Sheila Chandra, Amir Baghiri, Mari Boine, Whitney Houston, Barbara Genoveva Myuki, Barbara J. Hunt, Harmonics of Frequency Modulation, Pierre Barouh, Laurent Hestin & Emmanuel Binet, No Blues, Rigor Gustafson, and many more....JOIN ME ON 1.16.11 and celebrate 5 hours every SUNDAYGLOBAL MIND, GLOBAL HEARTour true essenceTIMES 10 pm TOKYO Tune in at http://www.globalvortexradio.com/************************************ハープの音色で世界中の人々を癒したいマーメイドの風ハープCD「マーメイド伝説・スペシャル版」好評直販中です(直筆サイン入りCDをお送りします)「マーメイド伝説」CD試聴ギリシャ神話よりインスピレーションを受け作曲したハープCD『マーメイド伝説・スペシャル版』が「癒される~。毎日聴いています。細胞が活性化する。子供の心が落ち着く。赤ちゃんの夜泣きが治った・・」と大評判そよ風のようなハープの音色を聴いて優雅なひと時を持たれませんか?YouTube にコンサートの動画を投稿しました 「The Essence Show」(海外インターネットラジオ)で「マーメイド伝説」の曲が流されています(ハープ曲は99分30秒のところから始まります) プログラムはこちら*************************************マーメイドの竪琴1日限定ハープレッスン承りますティーを飲み、お話をしながら楽しいハープレッスンを受けられませんかお気軽にご連絡くださいませタカラジェンヌのハープレッスン*************************************マーメイドの愛個人宅、学校、幼稚園、福祉医療関係イベント、コンサート、結婚式、各種セレモニーでハープ演奏をさせていただきますお気軽にお問い合わせ下さい*************************************マーメイドの夢全国の小・中・高校に「マーメイド伝説・スペシャル版CD」をお昼休みに流して差し上げたいいじめのない学校のために、ご協力をお願い申し上げます*************************************1day 1click thank you ! ブログランキングに参加中応援ありがとうございます 人気blogランキング My space 癒しのライブ公演.comヒーリングタイム
2011.01.16
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【フランツ・リスト ハンガリーのピアニスト、作曲家1811年10月22日ライディング生~1886年7月31日バイロイト没】フランツ・リストは1811年、ハンガリーに生まれました。ショパン(1810年生)と1才しか違いません。2人とも上流階級の婦人たちの人気をさらったピアニストですヨ。祖父の代からハンガリーのエステルハージ侯爵家に仕えていました。この侯爵家は、祖父の時代にはハイドンを召し抱えていた音楽好きの名家です。リストの父もエステルハージ侯爵の執事として仕え、ヴァイオリンやピアノにも長じていました。ハンガリーの首都 ブタペスト 国会議事堂「ドナウの真珠」といわれる美しい街!ドナウ川が街の中央を南北に流れ、西岸のブダ(歴史的建造物が多い)と東岸ペスト(近代的な街並み)から成ります。[6才] 父の手ほどきでピアノを学びはじめます。[9才] ハンガリーの数都市で公開演奏会を開催し好評を博します。[10才] 貴族たちに才能を認められ、学資を得て、父と共にウィーンに移住します。チェルニーにピアノを、サリエリに作曲を習い始めます。ブタペスト 漁夫の砦[12才]ウィーンでの演奏会にはベートーヴェンも来席しました。 その冬、父子でパリに向かいます。パリ音楽院に入学するためでしたが、外国人の入学を認められず実現しませんでした。しかし、リストは演奏会を開き、パリの社交界でデビューを飾ります。ショパンがパリに来る8年も前のことでした。 そのピアノ演奏で聴衆をうならせ、「かわいい奇跡」ともてはやされ、瞬く間にパリ音楽会の寵児になりました。マーチャーシュ協会[14才]リストの父が急死しますが、経済的に困窮することはありませんでした。パリ上流階級の子女たちがこぞってリストにピアノを習いにきたのです。ピアノの腕前に加え、端正な容姿が人気に拍車をかけました。数年間は、演奏も作曲もせずに、多くの生徒にピアノを教える生活をしていました。 父は亡くなる直前に、「お前のことを思うと、女のことが気がかりだ」という言葉を残したそうですが、リストの人生はその後、数々の恋愛で彩られていきます。リスト作曲の有名な「愛の夢」は、ハープでも弾きますよ。 大好きな曲です。 YouTube愛の夢 ピアノ演奏 フジ子ヘミングハープコンサートのお知らせ日時: 2010年11月27日(土) 開場:午後6:30 開演:午後7:00会場: イゲハウス 滋賀県長浜市南浜町1103-3会費: 2000円 ご予約は以下までお電話下さい。 Tel 0749-72-3138(イゲハウス)************************************マーメイドの竪琴1日限定ハープレッスン承りますティーを飲み、お話をしながら楽しいハープレッスンを受けられませんかお気軽にご連絡くださいませタカラジェンヌのハープレッスン*************************************マーメイドの愛個人宅、学校、幼稚園、福祉医療関係イベント、コンサート、結婚式、各種セレモニーでハープ演奏をさせていただきますお気軽にお問い合わせ下さい*************************************マーメイドの夢全国の小・中・高校に「マーメイド伝説・スペシャル版CD」をお昼休みに流して差し上げたいいじめのない学校のために、ご協力をお願い申し上げます*************************************マーメイドの風ハープの音色で世界中の人々を癒したいギリシャ神話よりインスピレーションを受け作曲したハープCD『マーメイド伝説・スペシャル版』が「癒される~。毎日聴いています。細胞が活性化する。子供の心が落ち着く。赤ちゃんの夜泣きが治った・・」と大評判そよ風のようなハープの音色で優雅なひと時を持たれませんか?好評直販中です(直筆サイン入りCDをお送りします)「マーメイド伝説」CD試聴YouTube にコンサートの動画を投稿しました 「The Essence Show」(海外インターネットラジオ)で「マーメイド伝説」の曲が流されています(ハープ曲は99分30秒のところから始まります) プログラムはこちら*************************************1day 1click thank you ! ブログランキングに参加中応援ありがとうございます 人気blogランキング My space 癒しのライブ公演.comヒーリングタイム
2010.10.28
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【フレデリック・フランソワ・ショパン】 ポーランドのピアニスト、作曲家 ピアノの詩人1810年2月22日(または3月1日)ワルシャワ生まれ~1849年10月17日パリ没パリに到着した翌年に行った演奏会は一応、成功しますが、金銭的にはだんだん苦しくなっていきましたしかし、ショパンは再会した同郷の貴族ラジヴィル公爵の紹介によりパリ社交界へのパスポートを手に入れます彼の繊細なタッチの即興演奏に魅了された上流階級の婦人たちは次々とピアノの弟子になっていきましたお抱えの仕立て屋から香水屋まで持つようになったショパンは一躍、パリ社交界の有名人になりましたショパンの恋の相手として有名な女性は2人一人は16歳で彼のピアノの弟子マリア・ヴォジニスカです彼女とは本気で結婚を考えていましたが 一介のピアニストとの結婚を伯爵は許しませんでしたショパン25歳から26歳にかけてのエピソードですジョルジュ・サンドもう一人は、男装の麗人としてパリ社交界で知られていた作家ジョルジュ・サンドですショパンよりも6歳年上です肺結核に冒されたショパンの病気療養かたがたマジョルカ島に1年間共に住みます帰国後もサンドの領地のあるノアンとパリを行き来しながら同棲を続けましたやがて、9年続いたこの恋も破局を迎え、ノアンの館を出たショパンは2度と戻ることなく肺結核の悪化で世を去りました 39歳の生涯でした遺体はパリに葬られましたが、心臓だけは取り出され、ワルシャワの聖十字教会に眠っています聖十字架教会の壁にショパンの心臓が埋められていますYouTubeワルツ 作品34-3スタニスラフ・ブーニン(ロシアのピアニスト)現在は半年間は日本に住み、日本人の奥さんとの間に18歳の息子さんがおられ父子でコンサートをされることもあります紀州の梅 新潟の酒、そして日本が大好きだそうですヨノクターンはハープでも演奏しますよ************************************マーメイドの竪琴1日限定ハープレッスン承りますティーを飲み、お話をしながら楽しいハープレッスンを受けられませんかお気軽にご連絡くださいませタカラジェンヌのハープレッスン*************************************マーメイドの愛個人宅、学校、幼稚園、福祉医療関係イベント、コンサート、結婚式、各種セレモニーでハープ演奏をさせていただきますお気軽にお問い合わせ下さい*************************************マーメイドの夢全国の小・中・高校に「マーメイド伝説・スペシャル版CD」をお昼休みに流して差し上げたいいじめのない学校のために、ご協力をお願い申し上げます*************************************マーメイドの風ハープの音色で世界中の人々を癒したいギリシャ神話よりインスピレーションを受け作曲したハープCD『マーメイド伝説・スペシャル版』が「癒される~。毎日聴いています。細胞が活性化する。子供の心が落ち着く。赤ちゃんの夜泣きが治った・・」と大評判そよ風のようなハープの音色で優雅なひと時を持たれませんか?「マーメイド伝説」CD試聴YouTube にコンサートの動画を投稿しました 「The Essence Show」(海外インターネットラジオ)で「マーメイド伝説」の曲が流されています(ハープ曲は99分30秒のところから始まります) プログラムはこちら*************************************1day 1click thank you ! ブログランキングに参加中応援ありがとうございます 人気blogランキング My space 癒しのライブ公演.comヒーリングタイム
2010.09.15
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【フレデリック・フランソワ・ショパン】 ポーランドのピアニスト、作曲家 ピアノの詩人1810年2月22日(または3月1日)ワルシャワ生まれ~1849年10月17日パリ没2010年はショパン生誕200年世界各地で関連イベントが行われますノクターンは「愛情物語」の映画音楽としても有名でハープでも演奏しますヨ19歳でウィーンに渡り、ウィーンでの初めての演奏会は大成功でした1度ワルシャワに戻り、翌年、再びウィーンにやってきますがまもなく、オーストリア帝国からの独立をめざしたワルシャワ隆起が起こり二度と故郷に戻ることが出来なくなってしまいましたパリに向けて出発する途中、シュトゥットガルトでワルシャワ陥落を知りワルシャワに残った家族や友人たちのことを思い、気も狂わんばかりにピアノに向かって悲しみを吐き出しましたその時に作曲された曲が「革命(エチュード)」ですコンサートでも人気の曲ですネYouTube革命エチュードスタニスラフ・ブーニン(ロシアのピアニスト)の演奏で19歳の時のショパンコンクールで優勝した時の演奏です素晴らしいですよホームページをリニューアルしましたエリカハープファンタジーハープCD「マーメイド伝説」のご試聴もどうぞ♪************************************マーメイドの竪琴1日限定ハープレッスン承りますティーを飲み、お話をしながら楽しいハープレッスンを受けられませんかお気軽にご連絡くださいませタカラジェンヌのハープレッスン*************************************マーメイドの愛個人宅、学校、幼稚園、福祉医療関係イベント、コンサート、結婚式、各種セレモニーでハープ演奏をさせていただきますお気軽にお問い合わせ下さい*************************************マーメイドの夢全国の小・中・高校に「マーメイド伝説・スペシャル版CD」をお昼休みに流して差し上げたいいじめのない学校のために、ご協力をお願い申し上げます*************************************マーメイドの風エーゲ海の風~ハープの音色で世界中の人々を癒したいギリシャ神話よりインスピレーションを受け作曲したハープCD『マーメイド伝説・スペシャル版』が「癒される~。毎日聴いています。細胞が活性化する。子供の心が落ち着く。赤ちゃんの夜泣きが治った・・」と大評判そよ風のようなハープの音色で優雅なひと時を持たれませんか?「マーメイド伝説」CD試聴YouTube にコンサートの動画を投稿しました 「The Essence Show」(海外インターネットラジオ)で「マーメイド伝説」の曲が流されています(ハープ曲は99分30秒のところから始まります) プログラムはこちら*************************************1day 1click thank you ! ブログランキングに参加中応援ありがとうございます 人気blogランキング My space 癒しのライブ公演.comヒーリングタイム
2010.06.04
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【フレデリック・フランソワ・ショパン】 ポーランドのピアニスト、作曲家1810年2月22日(または3月1日)ワルシャワ生まれ~1849年10月17日パリ没2010年はショパン生誕200年世界各地で関連イベントが行われますショパンは 19世紀、ポーランドの作曲家ですノクターン、別れの曲、英雄ポロネーズ、幻想即興曲、子犬のワルツ、革命のエチュード、雨だれの前奏曲、華麗なる大円舞曲、軍隊ポロネーズなど数々の名曲を作曲し、ピアノの詩人と呼ばれましたノクターンは「愛情物語」の映画音楽としても有名でハープでも演奏しますヨショパンは、1810年ポーランドのワルシャワ近郊の町に生まれ誕生日は2月22日あるいは3月1日の、2つの説があります父はフランス人、母はポーランド人4歳の頃から母にピアノの手ほどきを受け、即興演奏が巧みで、7歳で最初のピアノ作品を作曲していますワルシャワ音楽院で学び、卒業し19歳でウィーンへ赴き演奏会は大成功20歳で2つのピアノ協奏曲を作曲していますショパンの若き頃の野心、感性が溢れるピアノ協奏曲不思議なことにショパンはこの2曲しかピアノ協奏曲を作っていませんしかし、ショパンのピアノ協奏曲は他に類を見ないほど魅力に溢れていますいったいどうやって二十歳前後の若者がこれほどの傑作を2曲も作曲することができたのでしょうYouTubeピアノコンチェルト第一番ホ短調スタニスラフ・ブーニン(ロシアのピアニスト)がショパン国際コンクール(開催地ワルシャワ)で優勝したときの演奏です(19歳のとき)ブーニンフィーバーが起こり日本のTVコマーシャルにも登場しましたネ************************************マーメイドの竪琴1日限定ハープレッスン承りますティーを飲み、お話をしながら楽しいハープレッスンを受けられませんかお気軽にご連絡くださいませタカラジェンヌのハープレッスン*************************************マーメイドの愛個人宅、学校、幼稚園、福祉医療関係イベント、コンサート、結婚式、各種セレモニーでハープ演奏をさせていただきますお気軽にお問い合わせ下さい*************************************マーメイドの夢全国の小・中・高校に「マーメイド伝説・スペシャル版CD」をお昼休みに流して差し上げたいいじめのない学校のために、ご協力をお願い申し上げます*************************************マーメイドの風エーゲ海の風~ハープの音色で世界中の人々を癒したいギリシャ神話よりインスピレーションを受け作曲したハープ組曲「マーメイド伝説100曲集」より18曲収録のハープCD『マーメイド伝説・スペシャル版』が「癒される~。毎日聴いています。細胞が活性化する。子供の心が落ち着く。赤ちゃんの夜泣きが治った・・」と大評判そよ風のようなハープの音色で優雅なひと時を持たれませんか?「マーメイド伝説」CD試聴YouTube にコンサートの動画を投稿しました 「The Essence Show」(海外インターネットラジオ)で「マーメイド伝説」の曲が流されています(ハープ曲は99分30秒のところから始まります) プログラムはこちら*************************************1day 1click thank you ! ブログランキングに参加中応援ありがとうございます 人気blogランキング My space 癒しのライブ公演.comヒーリングタイム
2010.03.14
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【アントーニオ・ヴィヴァルディー】 イタリアの作曲家1678年3月4日ヴェネツィア生まれ~1741年7月28日ウィーン没ヴェネツィア出身のカトリック司祭、バロック末期の作曲家理髪師でヴァイオリニストの父親からヴァイオリンを学び10歳より教会付属の学校に入り、25歳で司祭に叙階されました赤毛であったことから「赤毛の司祭」と呼ばれました司祭になった年にヴェネツィアのピエタ慈善院付属音楽院 でヴァイオリンを教えはじめますヴァイオリン協奏曲《四季》(春・夏・秋・冬)はヴィヴァルディーの代表作品です各曲に素敵な解説が付いています四季~秋第1楽章 アレグロ(小作農のダンスと歌) 小作農たちが収穫が無事に終わり大騒ぎ ブドウ酒が惜しげなく注がれる 彼らは、ほっとして眠りに落ちる第2楽章 アダージョ・モルト(よっぱらいの居眠り) 大騒ぎは次第に弱まり、 冷たいそよ風が心地良い空気を運んで来て すべての者を無意識のうちに眠りに誘う チェンバロのアルペジオに支えられて ソロヴァイオリンは眠くなるような長音を弾く第3楽章 アレグロ(狩り) 夜明けに、狩猟者が狩猟の準備の為にホルンを携え、 犬を伴って叫んで現れる 獲物は彼らが追跡している間逃げる やがて傷つき獲物は犬と奮闘して息絶えるYouTubeで四季~秋をお楽しみ下さいネ秋の味覚、キウイと柿をたくさんいただきました 寒くなってきますネお風邪を引かれませんように「マーメイド伝説」CD試聴YouTube にコンサートの動画を投稿しました ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1day 1click thank you ! ブログランキングに参加中 応援ありがとうございます人気blogランキング音楽人気急上昇ランキング My space 癒しのライブ公演.comヒーリングタイム
2009.10.25
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モーリス・ラヴェル フランスの作曲家1875年3月7日低地ピレネー地方シブール生まれ1937年12月28日パリ没 享年62歳音楽好きの父の影響で、7歳でピアノを始め、12歳で作曲の基礎を学びましたパリ音楽院に入学した年の春、パリ万国博覧会で出会ったカンボジアの寺院、タヒチ島の人々の踊り、インドネシアのガムランなどは、その後の作曲活動に大きな影響を与えました(ドビュッシーも同様でした)ラヴェル事件音楽院の14年の間、ガブリエル・フォーレの下で学んび有名なローマ大賞を勝ち取ろうと試みますしかし作品のクオリティーを認められながらも年齢制限により最終選考から外されるなどしましたその落選理由の不純さは波紋を呼び、フォーレをはじめ、ロマン・ロランらも抗議を表明 パリ音楽院院長のテオドール・デュボワは辞職に追い込まれる事態となりましたこれは「ラヴェル事件」と呼ばれていますラヴェル博物館晩年を過ごしたイヴリーヌ県モンフォール・ラモリにあるラヴェルの最後の家は、現在ラヴェル博物館となっています浮世絵を含む絵画や玩具のコレクション、作曲に用いられたピアノなどが展示されていますこの家で有名な「ボレロ」が作曲されましたバレエ曲「ボレロ」(1928年)たった2つのメロディーが延々と繰り返されどんどん大きくなり、最後は怒涛のような強音に達しますラヴェルはこの曲を、楽器の使い方を練習するために創ったと言われています奇病との闘い52歳の頃から軽度の記憶障害や言語障害に悩まされていましたが、57歳のとき、パリでタクシーに乗っている時、交通事故に遭い、これを機に症状が徐々に進行していきました「亡き王女のためのパヴァーヌ」を聴いて「この曲はとてもすばらしい。誰が書いた曲だろう」と言ったという話もあります「亡き王女のためのパヴァーヌ」(1910年)パリ音楽学院の学生だった24歳の頃に作曲したピアノ曲です若い女性に大好評で、サロンで競って弾かれるようになりましたそして人気が高まるにつれて、「亡き王女とは、ルーブル美術館にあるベラスケスの肖像画に描かれた王女マルガリータに違いない」という噂も流れました この曲は35歳のときに管弦楽曲に編曲していますベラスケス作 「マルガリータ・テレサ」ルーブル美術館蔵「亡き王女のためのパヴァーヌ」はハープでも良く弾きますヨ舟に揺られるような、優雅でラヴェルらしい繊細さを持つ美しい小品ですネ序奏とアレグロ(1905年)ハープとフルート、クラリネットおよび弦楽四重奏のための七重奏曲ですエラール社ペダルつきハープの普及のために、同社より依嘱された室内楽曲ですクロード・ドビュッシーがハープと弦楽合奏のために作曲した《神聖な舞曲と世俗的な舞曲》とほぼ同時期の作品ですドビュッシー←clickラヴェルはドビュッシーと並び印象派を代表する作曲家といわれますしかし両者の作品にはそれぞれの個性の違いが見て取れます東洋やヨーロッパ中世の音楽に関心があったドビュッシーは、全音音階や不協和音を用いて、独特の不安定な曖昧模糊とした世界を築きましたかたやラヴェルには輪郭のはっきりとした曲が多く、発想は独創的でもそれを古典的な均整のなかに構成することを好みましたラヴェルの作品でバレエ曲「ダフニスとクロエ」 ピアノ曲「水の戯れ」「クプランの墓」も有名ですネ「マーメイド伝説」CD試聴YouTube←クリックして観てくださいネ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1day 1click thank you ! ブログランキングに参加中 応援ありがとうございます人気blogランキング音楽人気急上昇ランキングMy space癒しのライブ公演.comヒーリングタイム
2009.09.01
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クロード・ドビュッシー フランスの作曲家1862年8月22日パリ近郊サン=ジェルマン=アン=レー 生まれ1918年3月25日パリ没 享年56歳彼の才能を最初に認めたのはヴェルレーヌの義理の母モーテ夫人でショパンにピアノを学んだこともある彼女の尽力により10歳でパリ国立音楽院に入学がかないました学費を稼ぐ必要があったドビュッシーはピアノを教えたり、時には雇われピアニストの仕事もこなしましたが、そんな彼の雇用主の一人が、チャイコフスキーのパトロンとして有名な富豪メック夫人です牧神の午後への前奏曲(1894年初演 32歳)ドビュッシーの周りには、画家や詩人、文学者などさまざまな芸術家も集まってきました象徴派の詩人マラルメの長い詩「牧神の午後」に共感を持った彼は、その詩に対する前奏曲としてこの作品を書きました1912年にヴァーツラフ・ニジンスキーのバレエ振り付けを伴って 『牧神の午後』(L'après-midi d'un faune) の題名で上演されました バレエ『牧神の午後』を演じるニジンスキーの衣装ペレアスとメリザンド(1902年初演 40歳)「青い鳥」で知られるメーテルリンクの「ペレアスとメリザンド」という物語をオペラにしましたこれによって、40歳のドビュッシーの名声は高まり、翌年には政府からレジョン・ドヌール勲章を与えられました海(1905年初演 43歳)この作品は1903年の夏に着手されましたこの頃ドビュッシーはブルゴーニュ地方にある妻の実家にいましたこの年の9月12日付の手紙でアンドレ・メサジュ宛に、自分が今いるブルゴーニュから海は見えないが、記憶の中の海の方が現実よりも自分の感覚には合っていると述べています 「海の夜明けから真昼まで」 (De l'aube à midi sur la mer) 「波の戯れ」 (Jeux de vagues) 「風と海の対話」 (Dialogue du vent et de la mer) 『海』は以上の3つの部分で構成されています 1905年に出版された「海」のスコアの表紙には、葛飾北斎の浮世絵である冨嶽三十六景「神奈川沖浪裏」が使用されましたこれはドビュッシーの、あるいは当時のパリの東洋趣味を象徴するものとしてよく知られていますドビュッシーの曲「月の光」「亜麻色の髪の乙女」「アラベスク1,2」はハープでもよく弾きますヨ海の風のように軽やかなドビュッシーの音楽は素敵ですネYouTube←クリックして観てくださいネ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1day 1click thank you ! ブログランキングに参加中 応援ありがとうございます音楽人気急上昇ランキング人気blogランキング 「マーメイド伝説」CD試聴My space癒しのライブ公演.comヒーリングタイム
2009.07.01
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クロード・ドビュッシー フランスの作曲家1862年8月22日パリ近郊サン=ジェルマン=アン=レー 生まれ1918年3月25日パリ没ドビュッシーは世紀末から第一次世界大戦に至るパリに生きました彼の音楽には、世紀末という時代の持つ退廃的で、どこか不確かな気分パリの持つ一種独特のエスプリがあります 「海の声が聞こえますか。海、これが音楽といえるもののすべてだ」と語ったように、彼の音楽には、波のざわめきのように、あいまいに無限につづいていく感じが漂っています ドビュッシーは貧しい陶器商の子として生まれ母は子供好きではなかったようで伯母クレマンチーヌに育てられました4才まで育ててくれたこの伯母は、当時絵画の収集家でもあった裕福な銀行家アローザの愛人でした アローザはゴーギャンとも親交がありました click clickゴーギャン 「タヒチの女」 薔薇、ポール・ゴーギャンドビュッシーは幼児期の多くの時間を、伯母の家や アローザの館で過ごし、そこでドラクロアやクールベなどのいろいろな絵画に出会いました click clickドラクロア「La Havane」 ドラクロア「春」 click クールベ「エトルタの海岸」 伯母がカンヌに移ると、ドビュッシーもカンヌを訪れ長い間滞在することもありました家の前を通っていく線路と水平線まで続く海が6歳のドビュッシーの中に心象風景として深く刻まれていきました フランス カンヌの海岸彼にピアノのレッスンをはじめさせたのも、伯母、クレマンチーヌでしたドビュッシーの曲「月の光」「亜麻色の髪の乙女」「アラベスク1,2」はハープでもよく弾きますヨ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1day 1click thank you ! ブログランキングに参加中 応援ありがとうございます音楽人気急上昇ランキング人気blogランキング 「マーメイド伝説」CD試聴My space癒しのライブ公演.com
2009.04.01
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リムスキー=コルサコフ Rimsky-Korsakov1844年3月18日 - 1908年6月21日 ロシアの作曲家 ロシア五人組の一人です(バラキレフ、ムソルグスキー、キュイ、リムスキー=コルサコフ、 ボロディン)チャイコフスキーと同時代の作曲家です軍人貴族の家庭に生まれ、幼児期より楽才を顕しますが12歳でサンクトペテルブルクの海軍兵学校に入学しロシア海軍に進んで艦隊による海外遠征も体験しました15才からピアノを始め、17才の時にバラキレフと出会って、ようやく真剣に作曲に打ち込むようになりますバラキレフは、リムスキー=コルサコフが航海演習のない時に作曲の指導をして、励ましてくれましたバラキレフとの出会いによって後の「五人組」の同人となる他の作曲家とも面識を得ました交響組曲≪シェエラザード≫44歳の時に作曲した彼の代表作ですこの曲のタイトルとなっている「シェエラザード」はアラビア文学を代表する「アラビアン・ナイト(千夜一夜物語)」に出てくるヒロインの女性の名前ですコルサコフは総譜の序文に次のように書いています『シャリアール王は、女を虚偽と不実のかたまりだと信じて妻に迎えた女をことごとく、初夜を過ごした後に殺してしまおうと誓いましたしかし、王妃になったシェラザードは、毎夜、王に興味のある物語を聞かせ、千一夜のあいだ命をながらえました王はその話のおもしろさにひかれて、妻を殺すことを1日1日と延ばし、ついにむごい決心をすててしまいました王妃シェエラザードがシャリアール王に語ったのは世にも不思議な物語りばかりで彼女はそのなかに、詩人たちの詩句や、民謡の歌詞をおりまぜていっそうおもしろいものにしたのです』シャリアール王のテーマと、美しいハープの伴奏に乗って甘美な独奏ヴァイオリンで演奏されるシェエラザードのテーマが全楽章を通じて出現し不思議な物語の気分をよく表現しています第1楽章 海のシンドバッドの船第2楽章 カレンダー王子の物語第3楽章 若い王子と王女第4楽章 バグダッドの祭り。海。船は青銅の騎士のある岩で難破。終曲1day 1click thank you ! ブログランキングに参加中 応援ありがとうございます音楽人気急上昇ランキング人気blogランキング 「マーメイド伝説」CD試聴47stringsMy space癒しのライブ公演.com
2008.09.08
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フェーリクス・メンデルスゾーン ドイツの作曲家1809年2月3日ハンブルグ生~1847年11月4日ライプチッヒ没父は裕福な銀行家、祖父は哲学者カントと懸賞論文を競ったほどの秀才叔母はパリで知的サロンを開き、そこには多くの知識人、文化人たちが集っていましたメンデルスゾーンは当時の音楽家達に比べて、文化的にも金銭的にもとても恵まれた環境で育ちましたピアノを巧みに弾く母は、姉ファニーが4歳になるとピアノ教育を開始し、生まれたばかりのフェーリクスにとっては姉フェリーのレッスン曲が子守歌でしたブルジョア・インテリの両親が息子に授けた教育は尋常ではなく父は数学とフランス語、母は文学、美術、ピアノを担当しましたドイツ語、イタリア語も学び、画家や詩人の教えも受けて画才と文学的才能にも恵まれました9才の時にはピアニストとして公開演奏も行われ11才で50曲以上の作曲もしています12才の時ゲーテを訪問し即興演奏をしましたがゲーテは少年の天才ぶりに仰天し、神童モーツァルトに譬え私宅に2週間滞在させ、毎日6時間その演奏に耳を傾けたそうです12才で喜劇を書き、オペラも作曲しています真夏の夜の夢イギリスの劇作家シェークスピアの作品の感動し17歳の時に序曲を書き、16年後に全曲が完成しましたいたずらものの妖精パックを中心に繰り広げられる恋愛騒動を描いた喜劇ですこの中には有名な「結婚行進曲」も含まれています20才の時、世の中から忘れられていたバッハの「マタイ受難曲」の初演100年記念復活演奏を指揮しその名はヨーロッパ中に広がりましたヴァイオリン協奏曲ホ短調 ベートーヴェン、ブラームスと並ぶ 三大ヴァイオリン協奏曲に含まれる交響曲第三番≪スコットランド≫交響曲第四番≪イタリア≫ピアノ曲≪無言歌集≫歌曲≪歌の翼≫ モーツァルトには5才年上の姉マリア・アンナ(ナンネル)がメンデルスゾーンには4才年上の姉ファニーがいました職業音楽家とすべく過度に緊張を強いられていた子供にとって先に音楽を学んだ姉の存在がどれほど救いになったことでしょう父(1835年)母(1842年)の死はメンデルスゾーンを悲しませましたが創作活動には影響を与えていませんしかし、1847年に姉の死の報せを聞くと、彼はショックのあまり失神しそれは、彼が初めて味わった真の絶望でしたメンデルスゾーンが38歳の若さで他界したのは姉の死から半年後でした1day 1click thank you ! ブログランキングに参加中 応援ありがとうございます音楽人気急上昇ランキング人気blogランキング 「マーメイド伝説」CD試聴47stringsMy space癒しのライブ講演.com
2008.07.20
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ピュートル・チャイコフスキーロシアの作曲家 1840年5月7日ヴィトキンスク生~ 189311月6日サンクトペテルブルグ没交響曲第六番 ロ短調「悲愴」 53才作曲チャイコフスキーが、「この交響曲の核心は人生です」と語り、しばしば涙にくれながら筆を進めたという≪悲愴交響曲≫はその深い悲しみとともにロマンティックで美しい旋律によって広く親しまれています1893年10月28日にチャイコフスキー自身の指揮で初演された時には、期待していたような成功は得られず、その数日後、生水を飲んだのが原因でコレラにかかり11月6日に53歳の生涯を閉じてしまいました作曲者の死の直後にこの曲がペテルブルグで演奏された時には人々の間から感に耐えぬようにすすり泣く声が聞こえたといいます「悲愴」というタイトルは初演の後、文学者の弟モデストが、その曲のイメージから付けたものですこの交響曲には、長年にわたる経済的なパトロンであり心の支えでもあったメック夫人から突然援助を打ち切られた、チャイコフスキーの苦悩と孤独が、大きな影を落としているようにも感じられますメック夫人も、チャイコフスキーの死のわずか3ヶ月後に、その後を追うように亡くなっています♪「マーメイド伝説」♪47strings♪My space♪癒しのライブ♪講演.com
2008.04.24
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ピュートル・チャイコフスキーロシアの作曲家 1840年5月7日ヴィトキンスク生~ 189311月6日サンクトペテルブルグ没「ピアノ協奏曲 第一番」 35才作曲 「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調」 38才作曲音楽家として波に乗り出した36才のときにチャイコフスキーに、幸運がやってきました裕福な未亡人ナジェジダ・フォン・メック(45才)が、簡単な編曲の仕事に法外なお金を支払ってくれたのを手始めに、その後14年間、6000ルーブルの年金を与えてくれるようになり何ひとつ不自由のない日々を過ごすことができましたその翌年には、チャイコフスキーはモスクワ音楽院を辞職し作曲に専念します援助の条件は「純粋に音楽のため。お互いの身分を考えて逢う事なしで行きましょう。」ということでした二人の間の連絡はすべて手紙により交わされた手紙の数は合計1211通にも及びました状況報告、悩み相談から、やがてプラトニックラブのような内容になっていきましたその翌年37歳の時に結婚問題が起きますモスクワ音楽院時代の教え子アントニーナ・ミリューコヴァが突然手紙をよこし、愛を告白うっかり返事を書いたことからエスカレートして、遂には「結婚できないなら、今すぐに自殺します」と迫られ、仕方なしに結婚しますしかし、ミリューコヴァは低俗で無神経繊細で知的なチャイコフスキーとはまるで合わず後悔した彼は、病気(肺炎)にでもなれば別れられると考えて9月のモスクワ川に入水しかし、風邪も引かずに失敗してノイローゼになります結局3ヶ月足らずで離婚しました幸運と不運が一度に訪れましたネ♪ERIKA HARP ♪47strings♪My space♪癒しのライブ♪講演.com
2008.02.03
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ピュートル・チャイコフスキーロシアの作曲家 1840年5月7日ヴィトキンスク生~ 189311月6日サンクトペテルブルク没裕福な官吏の家に生まれ、当初は法律家となるべく学びました家庭教師として雇われたフランス人女性は、4歳だった彼を「白磁のように」繊細な子供だったといっています14歳の時に母を失ってからは音楽に専念するようになりました23歳で法務省を辞職してペテルブルグ音楽院で学び、25歳で卒業と同時にモスクワ音楽院の教師として招かれます28歳の時バラキレフと知り合い、当時ロシア音楽界を代表する音楽家たちのグループ「五人組」と交遊するようになりました 「五人組」♪バラキレフ、♪ツェザリ・キュイ、♪ボロディン ♪ムソルグスキー、♪リムスキー・コルサコフ ロシアの民族的な音楽の確立を目指していたグループチャイコフスキーの三大バレイ 「白鳥湖」「眠りの森の美女」「くるみ割り人形」「白鳥湖」今でこそ、一番人気を誇る作品ですが27歳の時のモスクワ初演は大失敗をしています傷つきやすいチャイコフスキーはひどく落胆しそれから10年以上もバレイ音楽を作曲しませんでした初演の舞台は、演出を初め、衣装や装置もおそまつで、主役のオデットを踊ったプリマも全盛期を過ぎていましたそれまでのバレイ作品は、バレリーナの曲線美や優雅なポーズを見せることが中心で音楽は単なる伴奏であり、単純な舞曲が多かったのです「白鳥湖」の様にしっかりしたストーリーを持ちまた音楽だけでも十分成立する画期的なバレイ作品に聴衆たちはついていけなかったのかもしれません結局、「白鳥湖」はチャイコフスキーの生前には評価を得ることはなく、死後の追悼公演で大成功を収めましたチャイコフスキーはバレイ音楽の芸術的価値を高め、それをクラシック音楽の一分野にしました内気で傷つきやすく、繊細な性格のチャイコフスキーだからこそあのロマンチックなメロディーが書けたのかもしれませんネ♪ERIKA HARP CD試聴♪47strings♪My space♪癒しのライブ♪講演.com
2007.12.21
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トルバドゥール(Troubadours)が歌の伴奏に使った小型ハープです395年のローマ帝国の東西分裂後、経済や政治が混乱していた暗黒時代が過ぎ、社会や生活が安定してくると人々は余暇や娯楽に興じるようになりました1170~1270年頃、フランス南部ではトルバドゥールといった宮廷仕えの歌手が登場します小型ハープなどの楽器をもって歌っていました身分も高く、戦いに出ると立派な騎士で女性にもとてももてたといいます詩と旋律の両方を作る、今で言えばシンガーソングライター吟遊詩人です彼らのパトロンは、宮廷や都市の裕福な貴族たちで音楽は貴族を楽しませる娯楽のひとつでしたトルバドゥールたちは一年中、貴族の館から館へと旅をしていましたまず会話で人々を惹きつけ、主人にアピール場が盛り上がってきたところで、歌を披露します歌や詩が上手に出来る力だけでなくウィットのきいた会話やコミニュケーション能力も必要だったようです トルバドゥールの歌曲の内容は「ロマン」と呼ばれる中世に人気のあった愛と冒険の物語が多く騎士道と信仰、宮廷風恋愛が2つの大きなテーマでした当時は十字軍の大遠征が続いていた頃で特に騎士道精神は人々の人気の的でした「アーサー王物語」もトルバドゥールの一人が残した物語ですトルバドゥールは南フランスから生まれましたが北フランスではトルヴェールと呼ばれます♪ERIKA HARP♪癒しのライブ♪講演.com
2007.10.22
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A.D.900年頃の不思議な楽譜中世の聖歌は初め一つの旋律でできていましたが、デコレーションをつけて壮麗な雰囲気を出したり一つの旋律を二人で歌うことがありました『ムジカ・エンキリアディアス(音楽提要)』という音楽入門書がありこの中にギリシャ文字を変形した記号のようなもので記載された聖歌が残されています不思議な絵のような楽譜ですネ左端に目盛りのようなものが入った柱これが音の高さを表わしていますそして同じようなラインを描きながら動く二つの旋律があります一つは主声部の聖歌の旋律もう一つが付加声部あるいはオルガヌム(オルガンの意味)と呼ばれ主声部の下に位置しています二つの旋律の幅は5度に決められ、並行して動いていますこの本は900年ごろ、ヨーロッパ北部の修道院で記されましたこれが、多声音楽が記された最古の文献です***********************************************************7月22日(日)は加西市民会館でハープコンサートがありますコンサート後に無料体験レッスンをしますよ主催 加西市民会館 0790-43-0160 ハープ曲試聴できます→ ケアホームのお医者様が4/30のハープコンサートの写真コメントを載せて下さいました♪ http://www.biwako.ne.jp/~hatano/2007/2007-04-30.html音楽講師として講演.comに登録しました♪http://kouen.com/product_info.php/products_id/792http://kouen.com/product_reviews_info.php/products_id/792/reviews_id/242
2007.07.18
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交唱を記譜させる教皇グレゴリウス1世(左)グレゴリオ聖歌古代ギリシャの後15世紀までの1000年にわたる中世では、音楽の中心は教会や修道院にありました 教皇グレゴリウス1世(在位590~604)が、聖霊から霊感を受けて創り、編纂し体系化したといわれているグレゴリオ聖歌は、カトリック教会の典礼聖歌として中世以来伝承されてきたものです現在もカトリック教会で歌われているラテン語のグレゴリオ聖歌は男声だけで同じメロディーを歌うシンプルな響きが心を和ませるのか、今も人気がありCDも多く出ています395年のローマ帝国の東西分裂後、西ローマ帝国は、他民族の侵入が相次ぐ暗黒時代で、各地の教会ではそれぞれ違ったスタイルの儀式と聖歌が発達しましたグレゴリオ聖歌の他にモサベラ聖歌、ガイア聖歌、ミラノ聖歌、ビザンツ聖歌があります初期のころから教会の儀式において、歌うことは重要な位置を占め1人、あるいは数人のカルトルと呼ばれる先唱者と会衆によって、儀式は歌を交えながら行われましたやがて、聖歌はシンプルなものからだんだん複雑に、芸術的にも豊かなものになり始め、聖歌の担い手も、会衆からプロの歌手たちに代わっていきます聖歌は口承伝達によって代々受け継がれましたが、複雑なメロディーや新しい聖歌が増えてくると、記憶を助ける覚え書きとして、9世紀に記譜法が生まれ始めました47弦の詩人
2007.05.26
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ギリシャの壷に描かれたハープ(リラ)古代ギリシャ時代の楽器はハープが中心でした【学問としての音楽】古代ギリシャの時代、音楽は神話と密接な関係がありまた、体育と並んで人間形成に大きく影響を与える学問と考えられていましたプラトンやアリストテレス、ピタゴラスなど多くの哲学者達も音楽について研究し、持論を展開しました ピタゴラス B.C.6世紀 エーゲ海のサモス島に生まれます ギリシャの黄金時代です(東洋では釈迦や孔子が活躍していた頃) ・数学者として有名です ピタゴラスの定理(三平方の定理が有名) 無理数の発見、三角形の内角の和は180度、正5角形の作図 ・哲学者でもあり、宗教家でもありました 霊魂の不死と転生輪廻を信じ、宗教的な教団も組織しました ・20代でエジプトに留学し、哲学や天文学を学び、 エジプトの音楽や楽器の多さにも興味を示しました ・ピタゴラス音階の発明 「数」で音楽を説明できないかと考えていたピタゴラスは ある日鍛冶屋の前を通りかかりハンマーの音の響きに注目 心地よい音を響かせる4本のハンマーの重さを測り 自分で作った1弦琴で音を出す実験を行い ピタゴラス音階を生み出しました (弦の長さを半分にすると1オクターブ高くなるなど) これは中世の音律理論の基礎となりましたプラトン B.C.5世紀 ・哲学のあらゆる問題は、すでにプラトンによって論じ尽くされている といって過言ではありません ・ソクラテスの弟子です ソクラテスは、「自分の無知を悟り、知識を求める大切さ」を 対話を通して、青年たちに説きました[無知の知] 知者を自認する多くの人々反感を買い、やがて裁判にかけられ 死刑になります 71歳のソクラテスが毒ニンジンをあおり、刑死した時、 プラトンは29歳でした 若きプラトンにとって、最も敬愛する師の刑死は許し難いものでした ・彼は、在りし日のソクラテスを後世に伝え、堕落したアテナイ社会に 報いようと、次々に著作を編み出していきました 『ソクラテスの弁明』『パイドン』『饗宴』『国家』など、 プラトンの作品は、ソクラテスを主人公とする「対話篇」です ・音楽をスポーツとともに初等教育の二大科目としました この音楽には文学や文法も含まれていました 音楽は魂を浄化し、教育的な効果があると強調しましたアリストテレス B.C.4世紀 ・ギリシア古典哲学者 研究分野は 形而上学、自然科学、詩学、倫理学、政治学、他多数 ・プラトンの弟子です ソクラテス、プラトンと共に、西洋最大の哲学者の一人とみなされるほか、 その多岐にわたる自然研究の業績から、「万学の祖」とも呼ばれます またアレクサンドロス大王の家庭教師であったことでも知られています ・広い意味を持つ音楽から文法その他の教科を分け 音楽・文章・体育・図画の4科を基本教科と提唱しました 6世紀にはローマで基本教科は7科に分けられ 音楽はローマ帝国末期から中世を通じて 僧侶の必須7教科の1つになります
2007.05.05
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音楽競技会のあったデルフォイ(ギリシャ)クラシック音楽は主としてヨーロッパで発展した芸術音楽で起源は古代ギリシャまで遡りますピタゴラスもプラトンもアルストテレスも音楽についての考察を残していますネ古代ギリシャの若者の理想的な姿は、スポーツができる逞しい体と音楽ができる繊細な感性を兼ね備えていることでした「強く勇敢ではあっても、決して無骨であってはならない自ら竪琴(ハープ)で伴奏しながら、歌を披露できるくらいでなければ」と哲学者プラトンも説いていますヨ音楽は成長する上でその感覚や思考に良い影響を及ぼすものと考えられていたので、男の子たちは必ず音楽を学ばされましたスポーツの祭典オリンピックは、古代ギリシャに端を発しますが古代オリンピックのルーツとなった四つの競技大祭の一つピュティア競技祭がデルフォイで行われていましたそこで音楽の競演会「音楽の競技会」も行われました音楽の神アポロン神をたたえて竪琴(ハープ)を即興演奏しその音色を競い合い、戦死者の霊を弔ったといいますその後、スポーツ競技が加えられたといわれますヨ竪琴の伴奏で歌う技術を競うことからスタートした競演会は舞踏や拳闘が加えられ、さらには合唱や悲劇が加わり次第に大掛かりになっていきました当時、合唱団はアマチュアの市民で構成されていたので、競演会はだんだんと、自分たちのポリスの威信をかけた音楽の戦いの様相を呈していったようです海外から著名な芸術家が呼び寄せられたり歌の形式や楽器の演奏スタイルが新しく生み出される競演会を通じて古代ギリシャの音楽や思想はヨーロッパ全土に広がっていきました 竪琴=リラ、あるいは、キタラと呼ばれます 小型のハープです************************************************ハープコンサートのお知らせ「七りん館コンサート」滋賀県 浅井歴史民俗史料館 T/F 0749-74-01014月30日(月)11:00~、13:30~ 2回公演です 要予約最新作の「マーメイド伝説・スペシャル版CD」とびきり天国的なハープCDですロマンチックな47弦の詩人のハープ生演奏/トークのご用命くださいネご希望の方は直筆サイン入りでお送りしますHPで視聴できます→
2007.04.19
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古代ギリシャのハープを弾く女性 音楽(music)の言葉はギリシャ語の「ムシケー」という言葉からきていますムシケーとはギリシャ神話の9人のムーサ(英語読みはミューズ)が司るものという意味で、音楽だけでなく、文芸(詩)、舞踊も含みます古代ギリシャ人にとって「音楽的人間」=「教養深い人間」であったように音楽は彼らにとって、技術的なことより、はるかに人間の根幹に関わる神秘的なものとして捉えられていましたそれは音楽が人間の倫理(エトス)と深く結びついているとともに創造的なこと、霊的な力(ポイェーシス)を本質的特徴とすると信じられていたからですこのギリシャの理論を継承し、中世の理論に大きな影響を与えたポエティウス(480~524)というローマの音楽理論家は『音楽の三分法』という音楽理論を出しました音楽を・宇宙の音楽(ムシカ・ムンダーナ)・肉体的調和の音楽(ムシカ・フマーナ)・楽器の音楽(ムシカ・インストゥルメンタース)と三つに分けた理論ですヨーロッパにとって音楽とは、技術的なことだけでなく感覚を刺激するものであると同時にどこまでも精神や倫理(エトス)の宿るものでした************************************************ハープコンサートのお知らせ「七りん館コンサート」滋賀県 浅井歴史民俗史料館 T/F 0749-74-01014月30日(月)11:00~、13:30~ 2回公演です 要予約最新作の「マーメイド伝説・スペシャル版CD」とびきり天国的なハープCDですロマンチックな47弦の詩人のハープ生演奏/トークのご用命くださいネご希望の方は直筆サイン入りでお送りしますHPで視聴できます♪
2007.04.11
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【アントーニオ・ヴィヴァルディー イタリアの作曲家1678年3月4日ヴェネツィア生まれ~1741年7月28日ウィーン没】バロック音楽の巨匠 バッハ、ヘンデル、ヴィヴァルディーヴァイオリン協奏曲集《四季》で有名なヴィヴァルディーは司祭と作曲家の二足のわらじを履いていました[ヴィヴァルディー 35才]ヴェネツィアでは多くのオペラ劇場が競い合っていました養育院の教師ヴィヴァルディーも《離宮のオットーネ》を発表しオペラ作曲家の仲間入りをしましたしかし、司祭なのにミサをあげず、劇場に入り浸る生活に人々は眉をひそめました 懲りない彼は興行師となって地方巡業を始め ついには歌手アンナ・ジローと同棲して 生臭坊主のレッテルを貼られてしまいました[ヴィヴァルディー 52才]自分の作品を売り払って姿を消し翌年ウィーンで亡くなりました 享年53才ヴィヴァルデーが埋葬された墓地の跡にウィーン工科大学が建てられその外壁に「1742年7月28日ここに埋葬された」と刻んだ銘板が掲げられています 器楽曲と協奏曲だけで550曲以上宗教曲とカンタータも100曲以上オペラも50作以上作曲した多作家でした彼が速筆だったことは、苦労して協奏曲を写譜する人に向かって「君が写している間に新作を書いてあげよう」と言ってすらすら作曲したそうです ヴァイオリン協奏曲《四季》(春・夏・秋・冬)「春」はよく知られていますネ軽快で明るいメロディーは春の訪れの喜びに満ちています************************************************ハープコンサートのお知らせ「七りん館コンサート」滋賀県 浅井歴史民俗史料館 T/F 0749-74-01014月30日(月)11:00~、13:30~ 2回公演です 要予約最新作の「マーメイド伝説・スペシャル版CD」とびきり天国的なハープCDです官学産医農宗に音楽協力させて頂いていますヨロマンチックな47弦の詩人のハープ生演奏/トークのご用命くださいネご希望の方は直筆サイン入りでお送りしますHPで視聴できます♪
2007.04.03
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【アントーニオ・ヴィヴァルディー イタリアの作曲家1678年3月4日ヴェネツィア生まれ~1741年7月28日ウィーン没】バロック音楽の巨匠 バッハ、ヘンデル、ヴィヴァルディーヴァイオリン協奏曲集《四季》で有名なヴィヴァルディーは司祭と作曲家の二足のわらじを履いていました[幼少期]サン・マルコ大聖堂ヴァイオリニストの父から音楽の手ほどきを受けました[ヴィヴァルディー 25才]15才より聖職者となる教育を受け25才で司祭に就任しすぐにピエタ養育院のヴァイオリン教師になりました ピエタ養育院 当時ヴェネツィアには孤児や捨て子を引き取る慈善施設が4つあり そのうちのひとつです ここでは生まれてすぐの捨子と親のいない幼児が収容されました 女児は幼いうちに声の美しさや音楽の素質で選別され 適正のない子は刺繍やお針子で自活できるよう職業教育され 音楽向きの子供には成人に達するまで専門教育が施されました毎週一回、彼女たちが行う公開演奏は、素晴らしい楽器演奏と天使のような歌声でヴェネツィア名物となっていましたヴィヴァルディーが大量に作曲した室内楽や協奏曲もそうした演奏会のために書かれました演奏会は養育院の女子たちが外部に顔をさらす唯一の機会で見初められて求婚者が現われれば結婚が許されました求婚者のいない娘は成人すると、修道女として生涯を送りました ヴァイオリン協奏曲《四季》(春・夏・秋・冬)「春」はよく知られていますネ軽快で明るいメロディーは春の訪れの喜びに満ちています************************************************ハープコンサートのお知らせ「七りん館コンサート」滋賀県 浅井歴史民俗史料館 T/F 0749-74-01014月30日(月)11:00~、13:30~ 2回公演です 要予約最新作の「マーメイド伝説・スペシャル版CD」とびきり天国的なアルファ波調は赤ちゃんの安心睡眠にいいですよご希望の方は直筆サイン入りでお送りしますHPで視聴できます♪
2007.03.29
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【ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル ドイツ生まれ~イギリスに帰化1685年2月23日ドイツのハレ生まれ~1759年4月14日ロンドン没】[ヘンデル 56才]一番有名な作品「メサイヤ」を書き上げましたメサイヤの中のコーラス「ハレルヤコーラス」の部分で臨席した時の国王ジョージ二世が思わず立ち上がったことから、このコーラスが始まると聴衆が立ち上がるという習慣がありますメサイヤ(救世主)オラトリオ キリストの生涯を描き、全三部53曲 「予言の降臨」序曲と21曲 「受難と贖罪」23曲 「復活と永遠の命」9曲ハープ協奏曲 変ロ長調 唯一のハープ曲です 三楽章まであり、とても華麗な曲です 私のお得意の曲です[ヘンデル 67才]視力が衰えバッハを失明させたやぶ医者の手術により完全に視力を失います[ヘンデル 74才]「できるだけ内々のお葬式を 亡骸はウェストミンスター寺院に葬ってほしい」言い残しこの世を去りましたしかし葬儀には3000もの人が駆けつけました彼は生涯独身でしたが、多くの人に見守られながら、イギリスのウェストミンスター寺院に葬られましたヘンデルはときに自己破産すれすれまでいっても強い意志と投資家らしい眼力で常に苦境を乗り切り晩年は富と名声に包まれました成功者として満足して死を迎えた、稀有な作曲家なのですネ************************************************3月25日(日)岡山、玉野「くらび舎」にてハープコンサートがあります詳しくは3月10日の日記をご覧下さいネ新作CD「マーメイド伝説・スペシャル版CD」大好評通販中ご希望の方は直筆サイン入りでお送りしますHPで視聴できます♪
2007.03.23
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【ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル ドイツ生まれ~イギリスに帰化1685年2月23日ドイツのハレ生まれ~1759年4月14日ロンドン没】イギリスに渡ってからのヘンデルの人生は浮き沈みの激しいものでした当時の作曲家は、今でいうプロデューサーでもあったのでヘンデルもオペラを書き、出演者と契約交渉を行いお金の計算までしたのです彼が設立の参加し、音楽監督となったロイヤルアカデミーは国王の保護のもとにイタリア・オペラを上演する営利団体でしたが倒産に陥っていますイギリスでは貴族は資産にあぐらをかく遊び人ではなく株式投資で富を増やす実業家でしたヘンデルのオペラを上演すべく設立されたロイヤル音楽アカデミーも出資額に応じて配当を支払う株式投資会社なのですその背景には異常なバブルの投資ブームがありました[ヘンデル 52才]ヘンデルの生涯はバブルの株価の様に乱高下しオペラの当たり外れも極端でした三つのオペラの上演に失敗したヘンデルは卒中の発作を起こして倒れてしまいます一時期は右手が麻痺し、記憶が不確かな状態も続きましたしかし元から頑丈な彼は、温泉療法ですっかり元気になりこの年の11月には新しいオペラの作曲を始め1ヵ月半で書き上げました************************************************3月25日(日)岡山、玉野「くらび舎」にてハープコンサートがあります詳しくは3月10日の日記をご覧下さいネ新作CD「マーメイド伝説・スペシャル版CD」大好評通販中ご希望の方は直筆サイン入りでお送りしますHPで視聴できます♪
2007.03.18
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ロンドンのロイヤル・アルバート・ミュージアムにあるヘンデル像です ハープを持っていますネ【ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル ドイツ生まれ~イギリスに帰化1685年2月23日ドイツのハレ生まれ~1759年4月14日ロンドン没】ドイツ生まれでイギリスに帰化した作曲家(英語名 ジョージ・フリデリク・ハンデル)オラトリオ「復活」の作曲でローマで成功を手にした23才のヘンデルは、同年の夏にはナポリ、翌年秋にはヴェネツィアを訪れ、自作を上演しています特にヴェネツィアで上演されたオペラ「アグリッピーナ」は大人気を博し、27回も再演され、毎回ヘンデルは舞台に呼び出されました[ヘンデル 25才]ヴェネツィアで、故郷ドイツのハノーヴァー選帝侯の甥と知り合いハノーヴァー宮廷楽長の仕事の話を持ちかけられそろそろ故郷に帰りたくなったのか華やかなイタリア音楽界からドイツの地方都市の宮廷楽長へと転身しますしかし、宮廷楽長就任から3ヶ月もしないうちにロンドンに渡りますロンドンでオペラ「リナルド」の大成功を収めた彼は、いったんハノーヴァーに帰るものの翌年にはまたロンドンに渡ります当時60万人の人口を抱える大都市ロンドンでは、オペラはもちろん、公開演奏会も盛んで、多くの音楽愛好家が存在していましたイギリスの音楽界は、ヘンリー・パーセル以降、大作曲家に恵まれず優れた音楽家を待ち望んでいたのですまた、ほかのヨーロッパ都市よりも、作曲家や演奏家に支払われる報酬は高かったのです若いヘンデルがロンドンを選んだのも当然でしょうその後、定住し、イギリス国籍を取っていますイタリア→ドイツ→イギリスとヘンデルは国際人ですネ************************************************とびきり天国的なハープ生演奏のご依頼受け付けていますNEWS 神戸北野町でハープレッスンを始めますレッスンを受けたい方は御連絡くださいネ新作CD「マーメイド伝説・スペシャル版CD」大好評通販中ご希望の方は直筆サイン入りでお送りしますHPで視聴できます♪
2007.03.12
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【ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル ドイツ生まれ~イギリスに帰化1685年2月23日ドイツのハレ生まれ~1759年4月14日ロンドン没】ドイツ生まれでイギリスに帰化した作曲家(英語名 ジョージ・フリデリク・ハンデル)友人マテゾンの協力でオペラ「アルミーラ」の上演に成功します[ヘンデル 21才]ヘンデルはひっそりとイタリアに渡りますハンブルグを訪れたトスカーナ大公の息子ジョバンニ・G・メディチと知り合い、フィレンツェの宮廷に招待されたのでしたイタリアはオペラの本場ヘンデルは希望を胸にフィレンツェに赴きましたしかし、トスカーナ大公は音楽にまったく興味がなく頼みの綱のジョバンニも宮廷に寄り付かず、彼の兄が音楽を愛好していましたがアレッサンドロ・スカルラッティなどイタリアのメジャーな作曲家が仕えており、ヘンデルにはまったく活躍の場がありませんでしたとりあえずオペラの作曲依頼を一つ手にしてイタリア音楽の中心地の一つであるローマに向かいます到着してすぐ、聖ジョバンニ教会でオルガンを弾いたヘンデルは拍手喝采を浴び、数ヶ月でローマの貴族社会で人気者になりました[ヘンデル 23才]初期の傑作とされる『復活』は、一流の歌手と指揮者が集められ特別にあつらえた劇場で上演されましたローマ音楽界の話題をさらったこの台本は、1500冊発行されたと記録されており、当時にしては驚異的な数字でした************************************************とびきり天国的なハープ生演奏のご依頼受け付けていますNEWS 神戸北野町でハープレッスンを始めます(アイリッシュハープ)レッスンを受けたい方は御連絡くださいネ新作CD「マーメイド伝説・スペシャル版CD」大好評通販中ご希望の方は直筆サイン入りでお送りしますHPで視聴できます♪
2007.03.06
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ヘンデル記念館【ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル ドイツ生まれ~イギリスに帰化1685年2月23日ドイツのハレ生まれ~1759年4月14日ロンドン没】ドイツ生まれでイギリスに帰化した作曲家(英語名 ジョージ・フリデリク・ハンデル)少年時代に作曲の技法や音楽全般の知識を身につけていきます[ヘンデル 17才]父の意に沿い、ハレ大学で法学の勉強を始めます[ヘンデル 18才]翌年には、オペラ伴奏のオーケストラのヴァイオリン奏者の職を見つけ、大都市ハンブルグに移住しました法学の道はきっぱりと辞め、音楽家として生きていこうと決断しましたハンブルグで、ヘンデルは生涯の友となるヨハン・マテゾンに出会います彼は著述家・批評家としても有名でヘンデルについてもいろいろと書き残しています2人とも気性が激しく、音楽や演奏に対して自分なりの強い思いを持っていたので、決闘騒ぎまで起こしたこともありますしかし、ヘンデルは、マテゾンによってハンブルグのオペラ劇場で最初のオペラ「アルミーラ」を上演する機会を得、成功しています************************************************NEWS 神戸北野町でハープレッスンを始めます(アイリッシュハープ)レッスンを受けたい方は御連絡くださいネ新作CD「マーメイド伝説・スペシャル版CD」大好評通販中ご希望の方は直筆サイン入りでお送りしますHPで視聴できます♪
2007.02.28
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【ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル ドイツ生まれ~イギリスに帰化1685年2月23日ドイツのハレ生まれ~1759年4月14日ロンドン没】ドイツ生まれでイギリスに帰化した作曲家(英語名 ジョージ・フリデリク・ハンデル)大バッハと並ぶバロック音楽最大の作曲家とされ、バッハの「音楽の父」に対しヘンデルを「音楽の母」とうキャッチフレーズで呼ばれます(男性ですが)大バッハより1ヶ月早く生まれたヘンデルは生涯ドイツで過ごしたバッハと違い、ドイツからイタリアを経て、ロンドンで音楽家として活躍しましたヘンデルが生まれたのは、中部ドイツのハレです父は外科医で、息子を弁護士にしようと決めていましたしかしヘンデルは小さい頃から音楽に異常な興味を示しあまりの異常ぶりに、父は、息子が遊びでチェンバロを弾くのを禁じたといわれています禁じられれば余計に弾きたくなりますヨネヘンデルは父の目を盗んでチェンバロを引き続けすっかりテクニックをマスターしてしまいました【ヘンデル 7才】ヘンデルはハレ公の前で演奏しましたその才覚を認められ、ハレ公のはからいで父親を納得させハレの著名な音楽家ヴィルヘルム・ツァハウの指導を受けることになりました************************************************ハープコンサートのお知らせ2007年2月23日(金)午後6時開演大阪朝日新聞本社 アサコムホール【200名をご招待】詳しくは2月1日の日記をご覧下さいネ************************************************新作CD「マーメイド伝説・スペシャル版CD」大好評通販中ご希望の方は直筆サイン入りでお送りしますHPで視聴できます♪
2007.02.19
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アイゼナハのバッハ記念館前の立像【ヨハン・セバスティアン・バッハ ドイツの作曲家1685年3月21日アイゼナハ生まれ、1750年7月28日ライプツィヒ没】バロック音楽の輝ける金字塔バロック音楽とは、近代の音楽の基礎となった1600~1750年代のヨーロッパの音楽をバロック音楽といいますリュリ、クープラン、ビバルディ、バッハ、ヘンデルなどが活躍しました[バッハ 44才]音楽に対して非常に厳しいバッハはライプツィヒでも市や聖職者会議といろいろな衝突を起こしたようです「コーヒーカンタータ」バッハはコレギウム・ムジクム(ライプツィヒ大学の学生を中心とする演奏団体)の指揮者も務め「コーヒー・カンタータ]などの自作も演奏していますバッハの「コーヒーカンタータ」はまさにコーヒーショップの音楽会のために書かれたものですドイツでは教会でもコーヒーショップでも宮廷同様、優れた音楽を楽しむことが出来ました[バッハ 62才]バッハはポツダムを訪れ、フリードリヒ大王を訪問しましたフリードリヒ2世(大王)は自らフルートを吹く音楽通でした大王はバッハに主題(メロディー)を与え、バッハはこれに6声のフーガを即興演奏して人々をあっと言わせましたフーガとは、一つの声部の旋律を他の声部が追いかけるようにくり返す音楽を言いますライプツィヒに帰ってから、大王の主題をもとに作曲をしなおし「音楽の捧げもの」として大王に献呈しました[バッハ 64才]子供の頃、月の光で写譜をしたり、ろうそくの光で勉強したせいかだんだん視力がおとろえてきます[バッハ 65才][フーガの技法] この大曲の作曲中に失明し未完ですバッハはこの大曲の中で主題をさまざまに変化させ音楽の実験を行っています 目の手術が失敗し失明します失明後は楽譜を書けなかったので、旋律を口で伝え弟子に書き取らせました卒中の発作がおこり65才の生涯を閉じました ************************************************ハープコンサートのお知らせ2007年2月23日(金)午後6時開演大阪朝日新聞本社 アサコムホール【200名をご招待】詳しくは『2月1日の日記』までどうぞ♪************************************************新作CD「マーメイド伝説・スペシャル版CD」大好評通販中ご希望の方は直筆サイン入りでお送りしますHPで視聴できます♪
2007.02.09
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ライプツィヒの聖トーマス教会【ヨハン・セバスティアン・バッハ ドイツの作曲家1685年3月21日アイゼナハ生まれ、1750年7月28日ライプツィヒ没】バロック音楽の輝ける金字塔音楽に厳しいバッハはさまざまな衝突を繰り返しながらオルガ二スト、宮廷楽長、音楽監督と転身していきました[バッハ 38才]ケーテンで一生を終えるつもりだった、と語っていたにもかかわらず、1723年に大都市ライプツィヒの聖トーマス教会のカントル(音楽監督)に転身します理由はケーテンの主君の夫人が音楽嫌いでバッハの音楽熱が冷めたためといわれていますカントルの仕事は膨大でしたライプツィヒにある2つの大きな教会では日曜日ごとに交互に大きな礼拝が行われクリスマスや復活祭では、オラトリオや受難曲が両方の教会で必要とされました1723年に就任したバッハは、説教の前に歌われるカンタータ(声楽曲)を年間50~60曲書き同時に「ヨハネ受難曲」や「マタイ受難曲」などの大曲を書きましたこれが5~6年続きました現存する約200曲のカンタータのうち、約180曲がこのライプツィヒ時代の初期に書かれています「ヨハネ受難曲」「マタイ受難曲」「ミサ曲ロ短調」 以上は古今東西の宗教音楽の傑作です バッハ自身、敬虔なドイツ・プロテスタントの信者 宗教改革者ルターのドイツ語の宗教歌をはじめ 音楽を大切にするドイツ・プロテスタントの教えを 根底に持っているバッハの宗教音楽は 雄大でとても心に迫ってきます「主よ、人の望みの喜びよ」カンタータ第147番 200にのぼる膨大な教会カンタータの中で一番有名な曲です************************************************ハープコンサートのお知らせ2007年2月23日(金)午後6時開演大阪朝日新聞本社 アサコムホール【200名をご招待】詳しくは2月1日の日記をご覧下さいネ************************************************新作CD「マーメイド伝説・スペシャル版CD」大好評通販中ご希望の方は直筆サイン入りでお送りしますHPで視聴できます♪
2007.02.03
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バッハが宮廷楽長を務めたライプチッヒ郊外ケーテン城、鏡の間【ヨハン・セバスティアン・バッハ ドイツの作曲家1685年3月21日アイゼナハ生まれ、1750年7月28日ライプツィヒ没】バロック音楽の輝ける金字塔音楽に厳しいバッハはさまざまな衝突を繰り返しながらオルガ二スト、宮廷楽長、音楽監督と転身していきました[バッハ 23才]ミュールハウゼンという町でオルガニストとして1年ほど勤めた後、23才のバッハは再びワイマールに戻ります宮廷オルガニストとして9年間勤めここで多くのオルガン曲を書きました『トッカータとフーガ ニ短調 BWV565』 バッハのオルガン曲の中でもっとも有名な曲です[バッハ 32才]ワイマールの辞職でもめ、彼を手放したくない領主により3週間の軟禁状態にあったバッハですがやっとワイマールから開放されケーテンの宮廷楽長に就任したケーテンの領主は自らいろいろな楽器を演奏し音楽に対して良き理解者だったのでバッハの才能を高く評価し前任の倍の年俸を支給したといいますこの幸せなケーテン時代に彼は室内楽や協奏曲、鍵盤楽器の曲も多く書いています『ブランデンブルグ協奏曲』全6曲から成る合奏協奏曲集でブランデンブルク辺境伯に献呈していることから この名で呼ばれています曲や楽章によって活躍する楽器がいろいろ入れ替わる、素晴らしい傑作です『インベンション』長男 ウィリアム・フリーデマンの練習用に作曲されました『平均律クラヴィーア』第2巻を含めてこの曲集はバッハの最高傑作の1つにあげられますもともと音楽を学ぶ人の 教育を目的として作曲されたものですが芸術的価値の高い作品ですケーテンの宮廷はベルリンから1719年にバッハ自身の設計により発注されたチェンバロを購入していますが、この楽器がバッハのクラヴィーア作品の創作意欲を大いにかきたて多くのクラヴィーア作品が作曲されましたその中の作品の頂点にたっているのがこの曲集です全24曲で構成されています第1曲ハ長調の前奏曲はのちにグノーが作曲した「アヴェ・マリア」の伴奏に使われており、とても美しい曲です***************************************************************新作CD「マーメイド伝説・スペシャル版CD」大好評通販中ご希望の方は直筆サイン入りでお送りしますHPで視聴できます♪
2007.01.27
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【ヨハン・セバスティアン・バッハ ドイツの作曲家1685年3月21日アイゼナハ生まれ、1750年7月28日ライプツィヒ没】バロック音楽の輝ける金字塔音楽に厳しいバッハはさまざまな衝突を繰り返しながらオルガ二スト、宮廷楽長、音楽監督と転身していきました[バッハ 15才]北ドイツのリューネブルク教会付属学校の給費生になります聖ミヒャエル教会付属学校ですはじめは、聖歌隊で美しいソプラノを歌っていましたが変声期になり、合奏団に所属して報酬を得ていました父に習ったヴァイオリンやヴィオラの演奏にも優れていました[バッハ 18才]卒業後、ワイマールのヴァイオリニストになりますが6ヶ月で辞め故郷のアインシュタットに出来た新教会のオルガニスト(オルガン奏者)に転職します ここでの給料はワイマールの時よりもずっと高かったようですここでは、礼拝のための音楽を創り、伴奏をしました合唱は地元のラテン学校の生徒達ですもっと高度な音楽を導入しようとしたバッハと訓練の足りない、行儀の良くない学生たちとの間にはかなり確執があったようですバッハの音楽に対する追求心や高度な技術の要求はアインシュタットの教会には合わなかったのでしょう結局、何度も聖職者会議にかけられたバッハはアインシュタットを離れますその決定的なきっかけは、後にバッハの妻になるマリア・バルバラを聖歌隊の席で歌わせた事件でした当時、教会の聖歌隊の席に女性を入れることは禁じられていたのです***************************************************************新作CD「マーメイド伝説・スペシャル版CD」大好評通販中ご希望の方は直筆サイン入りでお送りしますHPで視聴できます♪
2007.01.22
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【ヨハン・セバスティアン・バッハ ドイツの作曲家1685年3月21日アイゼナハ生まれ、1750年7月28日ライプツィヒ没】バロック音楽の輝ける金字塔ドイツのアイゼナハに生まれたヨハン・セバスティアン・バッハの家系は100年以上続く音楽家の一族でした5世代前の粉屋のファイト・バッハが音楽一族バッハ家の始まりとされハンガリーからドイツ中東部のチューリンゲン地方に移り住みパン屋を営みましたパンの粉を水車小屋でひきながらツィター(弦楽器の一種)を演奏したといわれています 16世紀末のことですその息子はやがて音楽を専業とするようになり、以後、一族は町や宮廷の楽師やオルガニストとして活躍しました17世紀半ばから18世紀半ばにかけては一族のうち50人を下らない人物が音楽家として活躍しましたJ・S・バッハはその時代の中心人物で、4人の息子も音楽家として活躍しました[バッハ 9才]バッハの父もアイゼナハの宮廷楽師でした末息子として生まれたバッハは9才の時に母を、続いて翌年には父も喪い近くの町でオルガニストとして独立していた長兄の家に引き取られましたそこでラテン語学校に通い、兄にオルガンとクラヴィーアを習いました***************************************************************イベントでのハープ演奏を、お気軽にお声がけ下さいネ新作CD「マーメイド伝説・スペシャル版CD」大好評通販中ご希望の方は直筆サイン入りでお送りしますHPで視聴できます♪
2007.01.15
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【ヨハネス・ブラームス ドイツの作曲家1833年5月7日ハンブルク生まれ、1897年4月3日ウィーン没】シューマンの妻クララを支え続けた音楽家[クラリネット五重奏曲] 58才作曲聴くと寂しくなる曲なのですが、孤独を感じた時や何かを考える時に聴くといい曲です全体に漂う淋しげな雰囲気が、同質の原理的な魅力があります数あるクラリネット五重奏曲の中でもモーツァルトと共に人気の高い名曲です知り合ったクラリネット奏者に刺激されて書かれましたこの時期、ブラームスはすでにブレスラウ大学をはじめ、プロイセン国王、オーストリア皇帝などから名誉学位や勲章を受け故郷ハンブルグ市では名誉市民になっていました社会的には充分ともいえる地位を手にいれていましたが、両親はすでに亡く、忍び寄る老いや病気に対する不安から精神的には弱気となり、実は遺言書を書いていたそんな心の反映がこの曲にあるのかも知れません[ブラームス 64才]親しくしていた友人達が次つぎとこの世を去っていく中彼も肝臓がんに冒されました追い討ちをかけるようなクララの死この1896年に、聖書の言葉を歌詞とする「4つの厳粛な歌」を書いています翌年4月、クララの死から1年もたたないうちに彼はこの世を去りました 享年64才その遺体は、盛大な葬儀のもとウィーン中央墓地のベートーヴェンとシューベルトの近くに葬られました***************************************************************イベントでのハープ演奏を、お気軽にお声がけ下さいネ新作CD「マーメイド伝説・スペシャル版CD」大好評通販中ご希望の方は直筆サイン入りでお送りしますHPで視聴できます♪
2007.01.09
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「赤いハリネズミ」に向かうブラームス【ヨハネス・ブラームス ドイツの作曲家1833年5月7日ハンブルク生まれ、1897年4月3日ウィーン没】シューマンの妻クララを支え続けた音楽家1872年(39才)ウィーン楽友協会の芸術監督に就任し、3年間務めましたハンブルグ名誉市民となり、オーストリア皇帝から授勲されるなど数々の栄誉に輝きますブラームスは社交的な性格ではありませんでした慎重で内気、気難しくても癇癪持ちではありませんベートーヴェンの様に80回も引越しすることはなく1871年にウィーン楽友協会の近くのアパートに住居を定めると、終生そこに住みましたまた旅行好きで、夏はバーデンなど保養地に出掛け創作活動に励みました普段は朝5時に起きて自分でいれたコーヒーを飲みプラーター公園まで往復6キロの散歩をし昼食と夕食はレストラン「赤いハリネズミ」でとりました好物はレバー団子入りスープでしたブラームスに会おうと思ったらこのレストランに行くのが一番と言われていました[ハンガリー舞曲集]ブラームスが、ピアノ4手(連弾)用に作った曲集。ブラームスはハンガリーの旋律の採集を始め、21曲のハンガリー舞曲を作曲後には、ブラームス自ら最初の10曲をピアノ独奏用に編曲して出版しましたリストの「ハンガリー狂詩曲」ブラームスの「ハンガリー舞曲」などハンガリー風のリズムや音楽を、当時の音楽家は好んでいました***************************************************************新作CD「マーメイド伝説・スペシャル版CD」大好評通販中ご希望の方は直筆サイン入りでお送りしますHPで視聴できます♪
2006.12.27
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ウィーンにあるブラームス記念室(ハイドン記念館の2階)【ヨハネス・ブラームス ドイツの作曲家1833年5月7日ハンブルク生まれ、1897年4月3日ウィーン没】シューマンの妻クララを支え続けた音楽家[ドイツ音楽の3B]バッハ、ベートーヴェン、ブラームス、姓がBで始まるこの3人を称してドイツ音楽の「3B」と言いますいずれもドイツ音楽を代表する巨匠であり、オペラを除くほとんどのジャンルの曲を作曲して、数々の傑作を残している点でも共通しています[交響曲第1番 ハ短調 Op68] 43才ブラームスはベートーヴェンをたいへん尊敬していてベートーヴェンの交響曲に匹敵するものができるまで発表しないと語り、実際に彼の交響曲第1番は作曲に着手したのは22才の時で、初演は43才の時でしたベートーヴェンの第9交響曲に続くものという意味で指揮者ビューロが「第10交響曲」と呼んだ作品です結局生涯に交響曲を4曲しか作曲しなかったのですがベートーヴェン以後最大の交響曲作曲家といわれています[交響曲第2番 ニ長調 Op73] 44才ブラームスの『田園交響曲』と呼ばれましたこの曲は、避暑に訪れたアルプスに囲まれた静かなペルチャッハという村で、書き始められましたのどかな田園の雰囲気を反映して、温和で聞きやすい曲です[交響曲第4番 ホ短調 Op98] 52才敬愛するベートーヴェンの向こう側にブラームスが見ていたのはバッハで、第4交響曲の終楽章にバロック時代のシャコンヌが使われていることは、バッハへのオマージュともいえましょう***************************************************************新作CD「マーメイド伝説・スペシャル版CD」大好評通販中ご希望の方は直筆サイン入りでお送りしますHPで視聴できます♪
2006.12.22
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ウィーンのレッセル公園にあるブラームス像【ヨハネス・ブラームス ドイツの作曲家1833年5月7日ハンブルク生まれ、1897年4月3日ウィーン没】シューマンの妻クララを支え続けた音楽家[ブラームス 21才]ブラームスは、シューマンが投身自殺をして失敗、入院した後クララとその子供たちの面倒をよく見ています13才年上の彼女に恋愛に近い感情を持っていたといわれますが1856年にシューマンが亡くなると、彼はその感情を友情に変えます強い意志も持ち主であるブラームスらしい行動ですそして死ぬまで彼女と深い信頼関係を持ち続けましたブラームスは恋愛もいくつかはありましたが、生涯独身でした[ブラームス 24才]デルモルトという小さな公国の宮廷指揮者の職に就きましたが、2年間務めただけで、3年目は断っていますあまり1つの職に就くことを好まなかったようです演奏旅行をしたり、仲のいいいい友達達の家を訪ねて話をしたり大好きな自然のたくさんある保養地で骨休めをしながら音楽を作るのが好きでした[シューマン 29才]ハンブルクからウィーンに転居その頃のウィーンはシュトラウス一家のワルツが一世を風靡していましたがブラームスの音楽もやがて認められ翌年にはジングアカデミーの指揮者にも迎えられますがこれも長居せず1年で辞めています[ブラームス 32才]最愛の母が亡くなりますこの母への思いも込めて、数年前から書き始めていた『ドイツ・レクイエム』を完成させましたブラームスの代表作です(初演は3年後大成功でした)***************************************************************新作CD「マーメイド伝説・スペシャル版CD」大好評通販中ご希望の方は直筆サイン入りでお送りしますHPで視聴できます♪
2006.12.19
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【ヨハネス・ブラームス ドイツの作曲家1833年5月7日ハンブルク生まれ、1897年4月3日ウィーン没】シューマンの妻クララを支え続けた音楽家音楽家として駆け出しの20歳の彼は、肩までの髪が柔らかそうな繊細な青年で、ショパンやリストよりもずっと貴公子然としています人生はそれほど波乱万丈なわけではなかったのですが彼の思考や音楽のスタイルは、年と共に着実に歩みを重ね円熟していった感がありますたっぷりとした顎鬚を蓄えた貫禄のあるブラームス像がよく知られていますネブラームスほど顔が変化した作曲家も珍しいのではないでしょうかヨハネス・ブラームスは1833年、北ドイツの大都市ハンブルグで生まれました父は町の劇場の楽団でコントラバスを弾いており、生活はとても苦しかった[ブラームス 10才]父から音楽の手ほどきを受けた彼は10才で公開演奏会に出演13才の時より家計を助けるために酒場などで深夜までピアノ弾きのアルバイトをしていました[ブラームス 20才]ピアノの個人レッスンや編曲をしながら生活していたブラームスに幸運が訪れます有名なヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムと出会い意気投合した二人はドイツ各地を巡る演奏旅行に出ますそして、ヨアヒムにシューマンとその妻クララを紹介されたブラームスは自作のピアノ曲を披露しましたそして、シューマンによって音楽界に紹介されいくつかの作品を出版することができました***************************************************************近日のハープコンサートのお知らせ■ 2006年12月17日(日) PM2時兵庫県姫路市 南風会サロンにて(詳細は『11月24日の日記』、もしくは『Erika Harp Fantasy』までどうぞ♪)新作CD「マーメイド伝説・スペシャル版CD」大好評通販中ご希望の方は直筆サイン入りでお送りしますHPで視聴できます♪
2006.12.13
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1981年に再建されたライプツィッヒのゲヴァントハウスシューマンの交響曲第1,2,4番はゲヴァントハウス管弦楽団が初演しました【ロベルト・シューマン ドイツの作曲家1810年6月8日ツヴィッカウ生まれ、1856年7月29日エンデニヒ没】[シューマン 30才]シューマンはクララと結婚したこの年にドイツ歌曲を代表する傑作群が生まれました歌曲 《ミルテの花》・《リーダークライス》 《詩人の恋》・《女の愛と生涯》 [シューマン 31才]結婚の翌年、人生の春に喜びを感じるシューマンは第1交響曲のスケッチを4日間で完成させていますまさに天才業です「春の交響曲」と呼ばれます作曲家としての円熟度を増すシューマンは、家庭でも8人の子供に恵まれ人生はそのまま幸せに続くかに見えましたしかし名高いピアニスト・クララはシューマンにとって女神でもある反面、重圧でもありました彼女の収入は、シューマンの収入を上回り、その名声も彼より高かったのですロシアを含むヨーロッパ各地をクララの演奏旅行に夫は同伴を余儀なくされ、心理的な疲れは旅の疲れとあいまって、だんだんと精神を病んでいきましたライプツィッヒ音楽院での音楽教師や、デュッセルドルフでの音楽監督も程なく折り合いが悪くなり辞職しています[シューマン 42才]精神の発作がひどくなり、2年後には罪悪感に苛まれたり、幻覚症状が現れてきて、自ら精神病院に入ります[シューマン 46才]食事を摂ることを拒否した彼は、やがて衰弱し、46才の生涯を閉じます最愛の妻クララは夫の死後40年間生き続け、活躍しましたが生涯独身を貫きました彼女を支え続けたのは、シューマンがその評論の中で、天才と呼び音楽界に紹介したブラームスでしたシューマンはピアノ曲や交響曲の中で音楽と詩・言葉が呼応しあう新しい世界を作り上げていきましたシューマンは後世「音詩人」と呼ばれました**************************************************************新作CD「マーメイド伝説・スペシャル版CD」大好評通販中ご希望の方は直筆サイン入りでお送りしますHPで視聴できます♪
2006.12.04
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ピアノの前のシューマン夫妻【ロベルト・シューマン ドイツの作曲家1810年6月8日ツヴィッカウ生まれ、1856年7月29日エンデニヒ没】近代音楽批評の基礎を作り、名ピアニスト、クララを妻にした天才でしたが、精神を病み、病院で一生を終えました[シューマン 27才]シューマンのピアノの師ヴィークの反対を押し切って、ヴィークの娘クララと婚約しました父ヴィークの猛反対が、二人の仲を一層深いものにしていきました当時すでに名高いピアニストになっていたクララが生む高収入がなくなることを恐れたのか将来のはっきりしないシューマンが娘の結婚相手にふさわしくないと思ったのかあるいはシューマンのメランコリーの病気を見抜いていたのか…確かな理由はわかりませんが、ヴィークは裁判所に訴えてまで二人の結婚に強靭に反対していますこの間にシューマンはクララとの結婚の成就を夢見ながら、ピアノ作品の傑作を次々と生み出していますクララに会えない苦悩を、作曲に傾けたのでしょう親しみやすく、多くの人に愛されている『子供の情景』もこの時代の作品です『子供の情景』の中の第7曲は有名な「トロイメライ」です[シューマン 30才]最後には、異常性格、飲酒癖があるとシューマンに対して人身攻撃まで行ったヴィークは、裁判で負けましたシューマンとクララは裁判所から、父親ヴィークの同意がなくても結婚が成立するという許可を得て、1840年、彼女の21才の誕生日の前日に晴れて結婚しました**************************************************************新作CD「マーメイド伝説・スペシャル版CD」大好評通販中HPで視聴できますご希望の方は直筆サイン入りでお送りします
2006.12.01
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シューマンのツヴィッカウの生家【ロベルト・シューマン ドイツの作曲家1810年6月8日ツヴィッカウ生まれ、1856年7月29日エンデニヒ没】近代音楽批評の基礎を作り、名ピアニスト、クララを妻にした天才でしたが、精神を病み、病院で一生を終えました[シューマン 22才]手の故障でシューマンのピアニストの夢はついえ作曲に専念し、評論などの執筆活動も始めますライプツィッヒ音楽新聞に初めての評論が掲載されましたショパンのことを書きました「諸君、帽子をとりたまえ、天才だ」と称えたその文章は無名だったショパンを一躍、有名にしました父が出版業を営み、物書きとしての才もあったシューマン家にはたくさんの蔵書がありましたそんな家庭環境の中で、シューマンの音楽雑誌の編集の手腕や文才が養われたのでしょう[シューマン 23才]作曲家と音楽評論家の道を歩み始めたシューマンは秋に最初のメランコリーの発作に見舞われます自殺衝動に駆られた彼は、下宿を5階から2階に移したというエピソードも残っていますしかし彼の場合は、不安な精神と積極的な行動が一体となって動いていきます筆によって、真の芸術の擁護をしたいと、新しい音楽雑誌の創刊に力を注ぎ始めました[シューマン 24才]『音楽新時報』という雑誌を創刊、その後10年間、事実上彼は編集長兼主筆として活躍しますこの雑誌は世紀を超えて現在まで存続しています***************************************************************新作CD「マーメイド伝説・スペシャル版CD」大好評通販中HPで視聴できますご希望の方は直筆サイン入りでお送りします
2006.11.27
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【ロベルト・シューマン ドイツの作曲家1810年6月8日ツヴィッカウ生まれ、1856年7月29日エンデニヒ没】近代音楽批評の基礎を作り、名ピアニスト、クララを妻にした天才でしたが、精神を病み、病院で一生を終えました[シューマン 8才]ドイツのザクセン地方のツヴィカウに裕福な書籍商の6人兄弟の末っ子として生まれました8歳の頃から音楽の手ほどきを受け、9歳で作曲を始めました詩人ジャン・パウルに傾倒する文学少年でもありました。[シューマン 18才]ライプツィヒ大学で法律を学びますが、この時期にベートーヴェンの連続演奏会に接しまた、当時、独自のピアノ教授法で名声があったフリードリヒ・ヴィークとその娘クララにも出会っています[シューマン 20才]法律を学びながらも、ピアニストの夢を捨て切れなかったシューマンはクララの父ヴィークののもとに入門、住み込みの内弟子になりますヴィークの娘クララは、9歳にして名高い天才少女ピアニストでした[シューマン 22才]クララの父ヴィークも「自分の指導に従うなら、3年以内に現代最高のピアニストの一人に育ててみましょう」とシューマンの母に請け合ったのだが、指を訓練するための器具が原因で手を痛め、ピアニストの夢はついえ、作曲に専念します彼の処女作「アベッグ変奏曲」が出版されます***************************************************************新作CD「マーメイド伝説・スペシャル版CD」大好評通販中HPで視聴できますご希望の方は直筆サイン入りでお送りします
2006.11.22
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ハイドン博物館の内部【フランツ・ヨーゼフ・ハイドン オーストリアの作曲家1732年3月31日生まれ、1809年5月31日ウィーン没】ハイドンの作曲した中でもっとも有名な曲はオーストリア国歌「皇帝讃歌」≪神よ、皇帝フランツを守りたまえ≫です神聖ローマ帝国フランツ2世の生誕を祝って1797年に作曲しました弦楽四重奏曲「皇帝」の2楽章はこの旋律を主題にしています美しいメロディーですネきっと聴いたことがありますヨ他に「セレナード・へ長調」「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」オラトリオ「天地創造」など有名ですネ交響曲≪驚愕≫、交響曲≪時計≫は、小学校で習ったことがあるかも知れませんネ1809年5月10日、ナポレオン率いるフランス軍がウィーンに迫りましたハイドンは恐怖に震える召使たちを鼓舞しましたが、ほどなくウィーンは陥落。これを境に彼の体調は悪化しましたしかし、23日には自分でも驚くほど感情を込めて皇帝讃歌をピアノで弾くことができました同日夕刻、彼は頭痛と悪寒に襲われ床に就き、1週間後、息を引き取りました。交響曲の父として、宗教音楽の大家として弦楽四重奏曲の完成者としてハイドンは音楽史上に偉大な功績を残しました享年77歳でした***************************************************************新作CD「マーメイド伝説・スペシャル版CD」大好評通販中ご希望の方は直筆サイン入りでお送りしますHPで視聴できます
2006.11.14
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【フランツ・ヨーゼフ・ハイドン オーストリアの作曲家1732年3月31日生まれ、1809年5月31日ウィーン没】29歳から58歳までの30年間をハイドンはエステルハージ侯爵家の音楽家として過ごしましたがハイドンの真の独創性は、彼が仕えた4人目のエステルハージ侯が宮廷楽団を解散させた後で発揮されますときにハイドン58歳男性の平均寿命が40歳の時代なので楽隠居しても良かったのでしょうが彼はそうしませんでしたドーバー海峡を渡り、ロンドンに新天地を求めたのでしたそれは、30年間甘受したお仕着せ生活への反動でもありました宮廷音楽家時代の終わりにハイドンが友人に向かって吐露した心情ほど、悲哀に満ちたものはありません「いつも召使でいるのは本当に悲しいことです私はみじめな生き物だったのです!」(ゲンツィンガー夫人宛の手紙1790年)ここからがハイドンの第二の人生生涯に作曲した千数百曲のうち傑作といわれる作品の大半はこの後半生で創りだされましたすでに100人の弟子を持っていたこの大家にしてこの様な心情があったのですネ夢は持ち続けることですネ*****************************新作CD「マーメイド伝説・スペシャル版CD」は11月中旬完成です
2006.11.09
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【フランツ・ヨーゼフ・ハイドン オーストリアの作曲家1732年3月31日生まれ、1809年5月31日ウィーン没】正確さと形式を重んじた≪古典派≫を代表する音楽家はモーツァルト、ベートーヴェン、そしてハイドンですハイドンはモーツァルト、ベートーヴェンの先生になりますパパ・ハイドンと慕われ、100人近い弟子がいましたモーツァルトより24才年上で、モーツァルトの没後も18年間生き、最晩年まで旺盛に作曲活動を続けました77年という生涯で100曲を超える交響曲を作曲し「交響曲の父」とも言われます【ハイドン 8才】ウィーンの聖シュテハン大聖堂の少年聖歌隊員となり歌の才能を認められましたが、変声期を迎えると作曲を独学しました【ハイドン 25才】続いてボルボラの下で音楽を修めて、25才でボヘミアのモルツィン伯爵家楽長となります【ハイドン 29才】エステルハージ侯爵家の副楽長になります 34才には楽長になり58才までの30年間を宮廷音楽家としてここで過ごし、膨大な作品を書き、楽譜出版によって国際的な名声も得ました侯爵家ではかつらか、辮髪を着用し、飾りのついた鮮やかな色の制服を身に付け白い靴下を履くように義務付けられました報酬は高かったが、いわゆる奉公人で、主人の意向は絶対でした主人の意向に沿って、毎日多くの音楽を作曲しましたしかし、ハイドンの真の独創性は、エステルハージ侯が宮廷楽団を解散させた後で発揮されます****************************************************** 1stアルバム「マーメイド伝説セレクション版CD」好評発売中!残数わずかです↑HPにjampしていただくと、試聴でき、通販もしていますヨ。 2ndアルバム「マーメイド伝説スペシャル版CD」制作中只今、ジャケット印刷に取り掛かっています
2006.10.25
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シューベルト公園にベートーヴェンの旧墓と並ぶシューベルトの墓(右)【フランツ・ペーター・シューベルト1797年1月31日ウィーン生まれ 1828年11月19日(31歳)ウィーン没】未完成交響曲 交響曲 第7番 ロ短調 1822年 25才作曲シューベルトは交響曲を8曲作曲していますがこの「未完成交響曲」は有名ですネ同名の映画もありました美しい曲ですが、その名の通り未完成で第一楽章と第二楽章しかありませんシューベルトの死後37年間友人の机の引き出しにしまってありました冬の旅 1827年 30才作曲作曲されたのは死の前年ですすでにその頃シューベルトは、無茶と不摂生から病気がちで体力が衰え、また経済的な安定もないまま、友人たちの間を渡り歩くボヘミアン的生活に疲れて、精神的にもそうとうまいっていましたそんなときに読んだミューラーの詩が彼の心をとらえ自分と重ね合わせて作曲する気になったのでしょういずれにせよ、絶望し孤独に陥った青年の姿を見事に浮き上がらせたシューベルト最大の傑作であることは間違いありません全体を覆う暗さについて、シューベルト自身は「いずれ良さはわかってもらえるだろう今まで書いたどの曲よりも気に入っている」といったそうですシューベルト死去 1828年11月19日 31歳ロマン派の音楽家 シューマン ショパン リスト ワーグナーにシューベルトの与えた影響は計り知れませんまだ、豊かな可能性を秘めたままシューベルトの生涯は「未完成」のうちに終わったのです墓は、ウィーンの中央墓地のベートーヴェンの隣にあります****************************************************1stアルバム「マーメイド伝説セレクション版CD」好評発売中!残数わずかです↑HPにjampしていただくと、試聴でき、通販もしていますヨ。 2ndアルバム「マーメイド伝説スペシャル版CD」制作中只今、ジャケットの印刷に取り掛かっています
2006.10.20
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シューベルト歌曲CDのジャケットの絵ですシューベルトは10代の頃より、死を意識しており曲もそのような曲が多いですネ 少し暗く、不気味な絵ですネ【フランツ・ペーター・シューベルト1797年1月31日ウィーン生まれ 1828年11月19日(31歳)ウィーン没】弦楽四重奏曲 第14番 ニ短調 D810 ≪死と乙女≫シューベルトの現存する17曲の弦楽四重奏曲の過半数は彼が、神学校に在学中であった15才のときから、父の経営する私立の小学校の助教員をつとめる18才の頃までに作曲されましたシューベルトはまだ10才前の少年であった頃から、彼の家で父や兄達と一緒に二重奏、三重奏、四重奏などの演奏を行いやがて自ら弦楽四重奏曲を作曲して家族そろってその演奏を興じました18才を過ぎる頃から、シューベルトの音楽サークルは家族から友人へと変わっていきました第12番から第15番までの4曲は、公開の音楽会を想定して作曲した力作でなかでも第14番の≪死と乙女≫はシューベルトの弦楽四重奏曲を代表する名作です<死と乙女>と同名の歌曲をシューベルトが20才の時に書いていますマティアス・クラウディウスの詩によるその歌曲は「私はまだ若いのです、ほっておいて」と死への懸命な抵抗をこころみる病床の少女を「美しい優しい娘よ、わたしはあなたの友達だ、こわがることはない、私の腕のなかで安らかに眠らせてあげよう」と言葉巧みに誘う死神との対話体による曲です死にたいする恐れと、死は眠りであり安らぎであるという悟りはシューベルトの偽りのない心境でしたこの歌曲を書いた7年後に同じ題名でこの弦楽四重奏曲≪死と乙女≫を書いています第二楽章に歌曲のメロディーが出てきます秋に聴くにはピッタリの名曲ですネ****************************************************1stアルバム「マーメイド伝説セレクション版CD」好評発売中!残数わずかです↑HPにjampしていただくと、試聴でき、通販もしていますヨ。 2ndアルバム「マーメイド伝説スペシャル版CD」制作準備中只今、ジャケットデザインに取り掛かっています
2006.10.13
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シューベルト作曲の「野ばら」詩 ヨーハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ少年が1本の薔薇を見付けた、荒野の薔薇を、薔薇は生き生きとして朝のように美しく、少年はもっと近くで見ようと走り寄って、とても喜んでそれを眺めた。薔薇よ、薔薇よ、赤い薔薇よ、荒野の薔薇よ。 少年は言った、「おまえを手折るぞ、 荒野の薔薇よ!」 薔薇は言った、「おまえを刺しますよ、 あなたがいつまでも私を忘れないように、 私は我慢するわけにはいきません。」 薔薇よ、薔薇よ、赤い薔薇よ、 荒野の薔薇よ。そして乱暴な少年は手折った、荒野の薔薇を、薔薇は逆らって刺したが、悲鳴も絶叫も役立たず、結局我慢する他はなかった。薔薇よ、薔薇よ、赤い薔薇よ、荒野の薔薇よ。歌曲「野薔薇」のゲーテの詩の直訳ですわんぱく坊やが美しい薔薇の花を手折ってしまいましたネ♪誰にでもある少年期の一こまですネゲーテは恋の悩みを野薔薇に託して書いたそうですシューベルトが18歳の時に作曲しました 童は見たり 野中の薔薇 清らに咲ける その色愛でつ あかず眺む 紅(くれない)におう 野なかのばら (日本語の歌詞)****************************************************1stアルバム「マーメイド伝説セレクション版CD」好評発売中!残数わずかです↑HPにjampしていただくと、試聴でき、通販もしていますヨ。 2ndアルバム「マーメイド伝説スペシャル版CD」制作準備中只今、ジャケットデザインに取り掛かっています
2006.10.10
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