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千葉の柴山古墳群(殿塚・姫塚とはにわ博物館)へ行って来ました。
もしこれを読んで行く場合は事前にバスや電車の時刻を調べて地図を持っていくのが大事です。
まずバスは2時間に1本のペースと思った方が良いです。
車で行くなら地図が大事です。迷います。
柴山古墳群は昭和31年に早稲田大学の調査により詳しく調べられて有名になり、
特に姫塚は初めて明確な埴輪の葬送儀礼の埴輪列が確認され、
地元の協力も有り、今に至るまで大事に保存されている古墳群です。
例により僕の理論である、
神社の裏山に古墳が有る場合にはその神社は古墳の主を守る施設から発展したものである。
と言うのが立証されそうな古墳です。
ここには付近に柴山仁王尊が有り、古来から信者が集まり儀礼が行われてきました。
下の方で仁王尊の写真を載せていますが、本尊は11面観音様なのに「仁王尊」と呼びます。
表向きの理由(仁王門に祀られた仁王尊が火事除け泥棒除けで有名だから)とは別に
隠れた理由が有り、観音様は元の施設ができた後に追加されたもので、
元はこの辺の首長(千葉市の祖先?)を祀った古墳を守る施設から発展したのではないでしょうか?
ここの古墳から出土した埴輪等は仁王尊のすぐ脇にある「はにわ博物館」に展示されています。
看板に「ふるさと創生事業」と「1億円」と書いてありました。(確か1988~1989年)
1億円では事業全体には少ないので一部だとは思いますが、
国が全国の地方自治体に、1億円をやるから自分達で使い道を考えて使えと配ったもので、
成功したものもあれば失敗して倒産した事業も有り、何ともいえないものがありますが、
ここの事業はもうかっているとは思いませんが、非常に有効に使われていると思います。
そもそも文化事業は予算がつきにくく、また儲かる物ではありませんが、
地域の大事なものを守り地元の若者が自分のふるさとの誇りを持つには大事なものなので、
ここの使い方は良かったのではないかと思います。
入口はよく考えており、古墳の羨道(石造りの石室入口)を模してあります。
雰囲気はばっちりです。ちょっと汚いけれど。
僕がここに来る目的の一つが、田中英道先生が「ユダヤ人」と主張する埴輪です。
田中英道先生を弁護する訳ではありませんが、確かに日本人離れしています。
髭は日本人でも伸ばしていたかもしれません。
美豆陵(みずら:耳の脇の毛を束ねたもの)は粘土の性質のせいで表現がこうなった?
この2つはそう考えれば日本人にもみえないことはありません。
この御二方を見ても違和感は有りません。問題は帽子です。
埴輪博物館の説明では、この埴輪は「髭の長い武人」なのだそうですが変です。
同じこの博物館に飾られた埴輪でも「武人」は短甲を装備して兜をかぶっています。
短甲とはこれです。
鉄製で胸と腹を守り、鋲で留めており、粘土で上手く鋲を表現しています。(下の方に写真有り)
もしかすると両者は時代が違うのかもしれませんが、
博物館の説明では、姫塚(ユダヤ人?埴輪)が6世紀後半から7世紀の造営で、
烏山2号墳(短甲埴輪)はこの短甲:横矧板鋲留短甲 (よこはぎいたびょうどめたんこう)が
流行したのが5世紀後半なのでその頃の造営だと言うこと。つまり逆で姫塚の方が新しい。
とすると兜じゃなくて帽子なので「武人」ではなく「貴族」だったのだと思う。
烏山2号墳は円墳で、姫塚とは違い出土品も実際の武具が多く、
前方後円墳である姫塚が国造の一族だったと考えるとその部下だったと思われる。
近くには経僧塚と言う円墳も有り、ここも武具が多く出土しており部下の墓と考えられる。
同様に矢の先端につけられる鉄鏃。
このことから博物館の説明では、
「古墳は、名前の示すとおり古い墳墓と言う意味ですが、
正確には3世紀の中頃から7世紀までの古墳時代の首長などの
支配層や有力家族のお墓しか、古墳とは呼びません。
古墳は、単に死んだ人を埋葬するお墓と言うだけではなく
古墳時代を象徴する
政治的・社会的記念物(モニュメント)なのです」
と書かれている。
つまり烏山2号墳や経僧塚は「古墳」ではないと言う主張である。
いつの時代の考古学?なのかと思う。皇国史観そのものである。
1億円をもらったので仕方ないとは思うけれども、ちょっと違うのではないかと思う。
大和王権に敵対した種族の王の墓でも、また国造の部下の墓(円墳)でも古墳だと思う。
税金で造った施設を(入場料で一部を賄っているにしても)運営しているのだから、
偏った考えはよくないのかなと思う。
ヤマト王権のお墓以外は認めないと言う政治的・社会的記念物を主張したいのならば、
「ヤマト王権派古墳」と呼んで区別すべき。
まぁ、1億円をもらったので仕方ないのなら仕方ないので次へ進む。
話は戻って「ユダヤ人?埴輪」は「武人」ではなく「貴族」だとすると帽子は何だろう。
同じ博物館の埴輪の中には「兜」と分かるものをかぶった埴輪もあるので、
武人ではなく貴族ならば「帽子」だろう。
同じ博物館のこの埴輪は明らかに武人である。
鎧には粘土で鋲を表現しており、鉄製の短甲であるのが明らかである。
頭には「帽子」ではなく「兜」をかぶっている。
では「ユダヤ人?埴輪」の帽子はなんだろう?
過去に田中英道先生の主張を研究した時に先生の「ユダヤ人埴輪」は誤りであると書いた。
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その時に僕は彼ら(この柴山古墳の主)は朝鮮からの渡来人に違いないと書いた。
この写真は 「宮廷女官チャングムの誓い」の時代なので、日本で言えば室町時代なのだが、
ユダヤ人埴輪そっくりである。
この帽子は韓国では「カッ」とか「笠子帽」と呼ばれる帽子で、
李氏朝鮮時代には位の高い人だけがかぶるものとされて服装で身分を示すものだったらしい。
なので一般的には19世紀位の韓国の帽子とされているが、
上記で書いたように、この写真は「宮廷女官チャングムの誓い」の中の画像なので、
朝鮮王朝第10代国王燕山君(ヨンサングン)の時代(1476年~1506年)である。
つまり19世紀の帽子と言うのは正確には誤りである。
もっと調べると起源は三国時代(高句麗、百済、新羅4~7世紀)にまでさかのぼるらしい。
官職者が正式に利用するようになったのは、
高麗末期・恭愍王(コンミンワン:)16年(1367年)のことなのだそうだ。
後年黒笠(フクリプ:흑립)と呼ばれるものだ。
とするとここ千葉の柴山には朝鮮から来た渡来人の一族がいて、この辺を支配していたのだ。
絵空ごとではなく、根拠が有る。
白村江の戦いでは日本は百済を助けて(無理を承知で)朝鮮半島に兵を送ったが、
日本の西半分(中臣氏等)は百済、東半分(蘇我氏等)は新羅と縁が深く渡来人がいた形跡が残ってる。
(だから百済系の中臣鎌足はアホな中大兄皇子をだまして乙巳の変で曽我の入鹿を殺して、
負けるのが分かっているのに白村江の戦いに打って出たのか?)
時代はこの古墳よりも後になるが、桓武天皇の母親は百済の王朝の一族の出で、
桓武天皇の子孫が東国に数多く下って来ているのは日本の書物にも残っている。
例えば三浦半島には桓武天皇の孫娘が2人、地方役人として下って来ている。
天皇の子孫が増え過ぎて財政困難になり、相続争いに敗れた者が下ったと思うけれども、
それらが何の身寄りも無い場所に来るはずは無い。
何らかの縁が有って下ってきたのだと思う。
白村江の戦で負けたあとには10万人単位の朝鮮人が日本へ逃げて来たらしいが、
その前の高句麗が新羅や百済を攻めた時にもたくさん逃げて来たらしい。
なので、朝鮮に近い九州や近畿だけではなく関東にも来ていたのだろう。
(白村江後に来た人々は7世紀半ばなのでこの古墳の主ではないが、
3国の争いの中で逃げて来た人はこの古墳の主と時代が合う。)
そこで桓武天皇の子孫たちのうち百済系の人達は関東の渡来人を頼ったのかもしれない。
そう考えればこの埴輪の形状にも説明がつく。
ユダヤ人埴輪ではなく「百済人埴輪」だったのである。
ただ、周囲に住む数千人の倭人の中で暮らすには倭人に溶け込む必要が有り、
彼らは医療や土器や鉄製品に関する知識を伝え、比較的好意的に迎えられたのであろう。
なので経僧塚と言う名前が残ったし、その墓から渡来系の技術に係る出土品が出て、
柴山古墳からは「百済人埴輪」が出たのであろう。
はにわ博物館に行くには松尾駅又は柴山千代田駅から柴山ふれあいバスに乗り、
「柴山仁王尊」で降りるが、バス停の前には3体の埴輪が有り迎えてくれる。
この埴輪の右手に山中古道と言う小径が有り、そこを登って行くと柴山仁王尊が有る。
仁王尊に至る手前を左に行くとはにわ博物館なのだけど、
せっかくなので有名な柴山仁王尊にも行きたい。
柴山仁王尊と言うので本尊は仁王様なのかと思ったら、寺は天台宗で本尊は11面観音様。
ただ寺の門がものすごく立派で大きな草履が飾ってある。中に仁王様がおられるのかな?
境内には立派な三重塔が有る。
はにわを見に来るだけではなく、ここで観音様にもお参りした方が良いと思う。
柴山ふれあいバスはJR松尾駅と柴山千代田駅(成田空港の隣駅)を結ぶコミュニティバス。
1台のバスが両駅間を往復しているので、概ね2時間に1本しかない。
時間を知らないとたいへんなので今日現在の時刻表を載せる。コロナの事情で変わるかも?
このバスを「柴山仁王尊」で降りて歩くのだけど迷う。
それで不安にならないように上記の3体の埴輪を載せて、柴山仁王尊の記事を載せた。参考に。
なお、足の強い人は上の地図にも書いたように空港シャトルバスが2.6km離れた
「横芝中台(殿塚・姫塚)入口」にも停まるので、
ここで殿塚・姫塚を見てはにわ博物館まで歩くと言う方法も有る。でも暑いと大変。
バスの今日現在の時刻表を載せる。海水浴場へ行くバスでもあるので時期で変わるかも?
出発点が成田空港第2バスターミナルなので時間が合えば便利。
殿塚・姫塚はこのはにわ博物館ができた原点。
上に書いたように昭和31年早稲田大学の調査により姫塚で埴輪の葬送行列が見つかり、
全国的に有名になったもの。
パンフレットを見ると典型的な前方後円墳で、それが造られて主を埋葬する際の儀礼が分かる。
ちょっと気になるのが僕の理論の証明につながるもの。
学者先生の中には方墳部は「埋葬部である円墳部につながる経路」から発展したものと言うが、
そもそも関東の古墳にはこの古墳に見られるように埋葬部である石室が方墳部に有る場合がある。
「経路」に主を祀ってはいけないし、方墳部の方が「高い」のは「経路」ならばありえない。
学者先生の主張は近畿地方でだけ通用する理論なのだと思う。
だから僕は前方後円墳は、中国の「天円地方」、
もっと言えば「封禅」に基づいた形状だと思っている。
邪馬台国はどこにあったか(その28)前方後円墳とは? | 日本を征服だ! - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)
世の中に前方後円墳の形状や変遷の事を書いた人は少ないが、
僕はこのような理由で前方後円墳は「かぎ穴」みたいな形をしているのだと思っている。
さて殿塚・姫塚は横芝中台(殿塚・姫塚入口)」バス停から奥に入り泥道を10分で着く。
殿塚も姫塚も登れるが、草が深いので夏は無理かも?姫塚の円墳部から方墳部を見る。
姫塚は奇麗な前方後円墳の形状である。
殿塚も綺麗な前方後円墳の形状だけど木々や草がすごくて形状がよく分からない。
なので補助線を描いてみた。
周囲を二重の周濠が取り巻いているのがはっきりと分かる。貴重である。
そんな感じで殿塚・姫塚及びはにわ博物館の見学に行ってきたのだけど、暑くて疲れた。
多分事前に調べて行かないと迷うので、御参考に。