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December 19, 2025
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カテゴリ: カテゴリ未分類
熊本県立装飾古墳館はお勧めな所ではあるが、アクセスがものすごく悪い。
これが便利な場所に有ったら、今の100倍はお客さんが居て、
全国的にも有名になると思うんだけれども、
まぁ逆に言えば、そんな場所だから現地の古墳なんかも保存されて来たんだと思うので仕方ない。
そう、博物館ではあるんだけれども、同時に古墳群の中に立っているのである。

入口と言うか正面玄関がどこなのか分かりにくい博物館である。
バスなどの公共交通機関が不便なので、車の駐車場から入るのだけれども、
そのせいで「裏口みたいな小さな開口?」から入ることになる。


装飾古墳館のパンフレットから訪問される方の利便を考えてお借りして載せた。

でも、設計者の名前を聞いて納得した。
安藤忠雄である。
「立派な建築の為ならば利用する人も我慢するべきだ」と堂々と言い切る人である。
まぁ、元々は建築家ではなく「ボクサー」なんだから仕方ない。

もっとも、元々バスなどの公共交通機関の利用は考えていないのかもしれない。
僕も訪問するのには、ものすごく苦労した。
当日は江田船山古墳→山鹿市立博物館→チブサン古墳(他)→県立装飾古墳館と回ったので、
ここまではタクシーで来た。
時間をかせぐにはある意味正解で、1泊追加するよりも安いから。1400円だった。

もしバスを使うならば、玉名駅-山鹿バスセンター間のバスが2系統有り、
そのうちの1系統が通るバス停があり、そのバス停の名前が「装飾古墳館前」。


道に迷いやすい方には絶対にお勧めしない。バスも1日に3本しかないし。

まぁでも、それだけ苦労しても来て良かったと思った。
「裏口みたいな小さな開口?」をくぐって、さぁ入館しようかなと思った時に、
左手を見たら、いくつかの遺跡が見えた。
そしてその向こうに、たくさんの古墳群が有るのが見えたから。



もうこれは装飾古墳館よりもこっちが大事だと思って、さっそく見に行った。
まずは装飾古墳館の中にも、古墳館を造る際に見つかった古墳の跡が有る。
上の地図で言えば装飾古墳館の左の壁の付近で有る。
装飾古墳館は少しよけて作ったらしい。


元円墳だった遺構もある。


そして「向こうの方にも古墳が」と言うのが、本命の「双子塚古墳」その他である。
大きい。上の岩原古墳案内図を見て頂くと分かるが、装飾古墳館の2倍以上ある。
まずは、一番近い神原古墳。


この円墳だって普通の場所だとメインをはれそうな大きさで興味深い。
ここは後から行く双子塚古墳と言う前方後円墳をはじめ、
めぼしい物だけでも8つほどの円墳が有り、地元では「四十八塚」と呼ばれていたらしい。
岩原古墳と言う名前は単独の古墳名ではなく、それら全体の古墳群の名前である。

寒原古墳の左手に谷間を通ってバス停に向かう道が有り、
ここに元は他の地区に有った古墳を、九州自動車道の建設によって破壊されるので、
保存していたものを、装飾古墳館建設に合わせて24年ぶりに移設復元した古墳がある。
横山古墳である。

いや出土品や石室なんかも立派で、他の場所なら立派なメインの古墳として展示できると思う。
そしてここは装飾古墳館にお願いすると、担当者が案内して説明してくれる。(中も入れる?)

元の道に戻って塚原古墳。


目立たない古墳だけれども、これだって30-40mは有る。頂上に祠が有る。
そして岩原古墳群で一番大きい双子塚古墳。


全長107m、後円部直径57m、高さ9mの前方後円墳である。国指定遺跡。
上に登れる。カップルやお姉さん達がみんな登っている。
前方部から登って、後円部を眺めてみた。


後円部に登っているお姉さん?と比べると大きさが分かると思う。
子供達の遠足にちょうどいいなぁ。
僕は古墳に登るのが一番の楽しみなので、もう大満足だった。

そしていよいよ装飾古墳館に入る。
入ってすぐに目につくのが中央吹き抜けに飾られた装飾画と好太王碑文。


装飾古墳は意外にたくさんある。
でも半分以上が九州で、その九州の半分は熊本。この辺(菊池川流域)だけで131もある。
上の装飾画を見ると分かるのだけれども、
何らかの実際の人間や景色等を描いたものと、抽象的な幾何学模様の物が有る。
また装飾を施した場所も石棺や石室の壁など様々である。


この説明文はちょっとわかりづらい場所に有って、もっと中心的な場所に置けばと思った。
装飾画の持つ意味なんかも説明してあった。


なお、写真を右クリックして出るメニューから「新しいタブで画像を開く」を選択すると、
別タブで新しい画像を開け、右上の設定メニューから拡大率を選び拡大できるので字が読める。
なお、見終わったら元の100%に戻しておかないとびっくりすることになる。

そして好太王碑文なんだけど、何でここにと言う感じではある。


説明文を読むと、
山鹿市菊鹿町の古関三博氏と言う方が1996年に現地調査をされた際に入手したもので、
装飾古墳と言う同じ文化を持つ高句麗と菊池川流域の文化を理解する上で役にたつと言うことで、
ここに飾っているのだそうだ。

そう言えば高句麗と百済は同じ民族の「扶余」の子孫だとされ、
扶余と言う国が古代中国の東北部に有り、
扶余の建国以前には濊(わい)族が住んでいたらしい。
そしてこの濊の言語は非常に日本語によく似ていたらしい。
その後の濊の行方は分からないのだが、
その関係で高句麗・百済と倭(九州)は密接な関係に有り、
例えば百済の武寧王は九州で生まれており、
武寧王陵の木棺は朝鮮半島に自生しないコウヤマキ製で作られていた。
白村江の戦いで滅びた百済からは多数の王族が日本に渡ってきており、
桓武天皇のお母さんは百済の王族のお姫様である。
だから高句麗・百済とこの菊池川流域に住んでいた人達には何らかの関係が有ったのだろう。

もう一つ気になるのは神功皇后の伝説である。
神功皇后は三韓征伐を行ったことで知られており、
それが好太王碑の碑文に書かれた百済と新羅に倭が侵入し、
「百済と新羅が高句麗に朝貢しなくなった」と言う碑文の記事に関係が有るとされている。
なので、神功皇后はこの菊池川流域に居た人達と関係が有り、
この辺を攻めようとした仲哀天皇とケンカになって、仲哀天皇を殺したのかもしれない。
この辺は根拠のない僕の妄想だけれども、他にもこの説を支持する人達は大勢いる。
神功皇后が日本に帰って来た後に応神天皇を生み、
近畿に攻め上って仲哀天皇の子等(麛坂王、忍熊王)を殺して、天下を治め、
応神天皇を天皇にして、以降応神天皇の系統が日本を治めることになったのを考えると、
案外正しいのかなと思う。

装飾古墳館のメインに入る。
ここの特色は(レプリカだけれども)付近の古墳を再現しているところに有る。
まずは鴨籠石棺。


鴨籠古墳は不知火町長崎に所在しており、
宇土半島の尾根から長崎地区の水田地帯に続く標高40メートル程の丘陵の南端部に在ります。
盗掘を受けて原型を失っており、石室を構成する石材が露出しています。
石室が残存する高台は、東西約23メートル、南北約13メートルの大きさであるため、
墳丘を復原すれば直径約25メートルほどの規模を持つ円墳になるとされています。
石室は、巨大な板状の砂岩4枚を組み合わせた長方形の竪穴式石室です。
長さ約3.5メートル、幅約2.5メートル、深さ約1.5メートルの箱型で、入口は欠失しています。
写真の石棺はくりぬき式の船形石棺で、
石棺石材は、宇土市網津町で取れる阿蘇溶結凝灰岩、通称馬門石(まかどいし)です。
長さ約1.64メートル、幅約0.66メートルの石棺の内部は、赤色顔料で赤く彩色されており、
遺体の頭部が安置される位置は、枕になるよう一段高く加工されています。

馬門石(まかどいし)は12月16日の記事にも書いている通り、
応神天皇の話は事実であり、継体天皇は応神天皇の子孫であり、
それは継体天皇のお墓である今城塚古墳の石棺が、
この馬門石と岡山の竜山石及び二上山の3つからできていることから
熊本の勢力が近畿に攻め上って皇室の祖先になったと言う僕の説の根拠になっている。
それは継体天皇のお墓である今城塚古墳の様子を見ると分かるのである。
邪馬台国はどこにあったのか>(その12)
(中央付近)

中の古墳のレプリカを順不同で載せる。
順不同なのは順序を忘れてしまったから。申し訳ありません。
まずは井寺古墳。


詳細は分からないが入口付近は赤い装飾が施されている。
次は永安寺東古墳。


いつも思うのだが、熊本の古墳で使われている石はしっかりと加工されている。
関東の古墳だとここまで綺麗ではなく自然石が多い。
次は小田良古墳。ここは横穴ではなく堅穴。


次は千金甲1号墳。

この古墳は大きな石ではなく小さな石をレンガのように積み重ねている。韓国の古墳みたい。
そして丸い紋が多用されている。
うーん、そう言えば肥後(熊本)藩主の細川家は「九曜紋」だな。丸い紋が似ている。
ただ細川家は、元々は清和源氏の足利氏系で、熊本じゃないはず。


うーん、そう言えば高松塚古墳をはじめとした近畿の後年の古墳の天井には「星宿図」が書かれ、
古代にはそう言う北極星や色々な星座を信仰する面が有ったらしいな。
日光の陽明門も、近くから見ると夜は上部で北極星を中心に星が円を描くと言うし。
装飾古墳の円の模様は魔よけの目の模様だと思っていたけれど、星の場合も有るのかも?

次は大坊古墳。


最後は弁慶が穴古墳。


おぉー!入口付近に人の線刻が有る。右側の赤で描かれた絵は何だろう?
近寄って見ると「船」だった。奥の絵は馬だ。


そう言えば大伴氏や久米氏は海人族だったんだよな。
中国の史記に書かれた徐福は1回目に日本へ来た時は「鯨に襲われた」と書いている。
この鯨は実は倭人で、徐福は対抗する為に2回目の時は多数の若者を連れて行っている。
古代の倭人は勇敢な船乗りだったんだ。

そして魏志倭人伝には倭国には牛はいないと書いており、馬も居なかったらしいのだが、
菊池川流域の古墳の時代には既に馬がおり、馬具なども出土している。


色々な本で調べてみると、日本の馬は小さくて上に描かれているように体高130cm位しかなく、
源平合戦で有名な畠山重忠がひよどりごえで馬を担いで降りたと言うのも、
本当なのかなと思ったりする。

装飾古墳館に飾られている展示は古墳のレプリカだけではなく、
付近で発掘された石人なんかもある。


有名な臼塚石人である。レプリカだけど。
石人は筑紫の磐井の墓だとされる岩戸山古墳が有名だけど、熊本も多い。
九州の石人の分布図が有ったので載せる。


そして、時代がある程度進むと、古墳だけではなく横穴墓が増える。
これは関東なんかもおなじで、吉見百穴などが有名である。


熊本の場合は横穴墓にも装飾が施されている。


これなんか文化や生活や戦争の歴史を知る上では大事なんだと思うな。

鏡なんかも多数展示されている。中国鏡が多く、確かに三角縁神獣鏡は無い。
三角縁神獣鏡は国産鏡なんだと思う。


そして装身具。


えー!卑弥呼や台与なんかもこの辺にいたのかも?
いや魏志倭人伝によればここ熊本は狗奴国のはずだから、ここではなくこの南に居たはずだよな。

最後に全国の装飾古墳の分布と、そのうちの熊本の装飾古墳の分布地図を載せる。


その中の熊本部分の分布図。


おぉーっと大事なのを忘れていた。
ここにはチブサン古墳のレプリカも有ったんだ。


こうして有意義な熊本県立装飾古墳館の見学は終わった。
もう夜も更けて歩くのが辛い。
足はマメだらけ。
明日は「女王の墓」向野田古墳に行く。





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最終更新日  December 19, 2025 03:20:45 AM
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