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Puukkosep?n kirja 2.painosアルマ・フェンニカ社発行『プーッコセパン・キルヤ2パイノス』。Arma Fennica Oyhttp://www.armafennica.fi/
2008年02月29日

MONGIN - YATAGAN 8 CMhttp://couteaux-courty.com/cgi-bin/wv2k/panier.cgi?langue=fr&database=base&action=view_product&productID=0511&category=14水牛の角をハンドルに使用したヤタガン(刃長6cm、ハンドル長8cm)です。飴色のホーン・ハンドルは甘~い印象がありますが、黒い水牛角はひき締まって見えるのでかっこ良い。刃長6~8cmのモデルはとても使い易いサイズで、自分も入手しようとしていた矢先、日本国内では品切れになってしまいました。(大型のものはまだ国内在庫があります)Couteaux Courtyhttp://couteaux-courty.com/index.html
2008年02月29日

Ahti-puukko Korpihttp://www.perhokolmio.com/PERHOKOLMIO OYhttp://www.perhokolmio.com/
2008年02月28日

MONGIN - PIC-NIC 3 PIECEShttp://couteaux-courty.com/cgi-bin/wv2k/panier.cgi?langue=fr&database=base&action=view_product&productID=1112&category=14日本では見かけないジャックモンジャンのピクニック・3本セットです(どこかで見たような気もするのですが…)。ワイン・オープナーもしっかりついているところはさすがフランス製です。ところで、昨年こちらのブログで紹介したコルク(栓)抜き付きのオピネルが欧米では今年はじめから出回っているようです。(1月にはスパイダルコのフォーラムでも話題になっていました。早い… http://spyderco.com/forums/showthread.php?t=31394 )Couteaux Courtyhttp://couteaux-courty.com/index.html
2008年02月25日

ランスキー・シャープニング・システムは、自分が使っている道具の中では数少ないアメリカ製品です。(日本でも、楽天市場や某オークション等で アメリカでの定価と同じ価格帯で購入できるようになりました)クランプにナイフの刃を固定して、砥石のついたコース Coarse を使って研ぐわけですが、コツさえ掴めば、あっと言う間に良い刃がついてしまいます。発想としては、手動式の鉛筆削り器みたいなもんでしょうか。画像は、今使っているアーカンサス砥石セットと同じものです。合成砥石は削り粉が大量に出ますし、ダイヤモンド・セットは荒目が多いので中砥、仕上げ砥、ブラックアーカンサスの3本セットを購入しました。いつも使っている道具は刃の硬度が低い(鋼材名も知らない…)ため、上記のセット+ダイヤモンド・ミディアムで楽に研ぎ上げることができます。砥石の目詰まりは、付属のオイルを使わずに水道水でジャバジャバ洗っています。ただし、アーカンサス砥石の当たり外れはやはり避けがたく、手元にあるセットでは、中砥#300よりも仕上げ砥#650の目が粗いようです。大きな砥石を何種類も使って、丁寧に研ぎたい本格派には向きませんが、シャープニングが苦手な人や手早くメンテナンスしたい人にとっては朗報と言える便利グッズです。多少邪道っぽい気もしますが(笑)。ランスキー・システムの紹介ページでは、ナイフなどの刃を直接クランプに挟んでいますが、この方法ではクランプが接触する箇所にキズがついてしまうので、写真のように布テープを貼ってマスキングしておくとよいです(クランプの固定が少し甘くなってしまう欠点もあります)。テープの長さや幅などは、研ぐ刃物のサイズに合わせて臨機応変に。Lansky Sharpenershttp://www.lanskysharpeners.com/
2008年02月21日

アメリカのアクション映画は数回観ると飽きてしまいますが『レオン』は幾度観たことでしょう。マチルダ役のナタリー・ポートマンは『スターウォーズ』のアミダラ女王役のイメージが強くなってしまい、この人を見ると『ジェダイの復讐』(最近は『…帰還』になってる!)のラストシーンで、ヨーダさんとオビ=ワン、アナキンがニヤニヤ笑ってる姿を連想してしまう。あちらの世界へ逝ってしまったレオンも笑っているのでしょうか。『レオン』完全版と通常版、DVD2枚組の「ダブル・パック」をいつでも手に入るだろうと高をくくっていたら、とうとう買い損ねてしまいました。『ニキータ』などのDVDとセットになった、「リュック・ベッソン監督作品集DVD-BOX」は現在入手可能ですが、『フィフス・エレメント』より『サブウェイ』を収録して欲しかった。ラストの伏線にもなっている“リングマジック”のシーン。「完全版」を観ると重要なシーンがかなりカットされていたことがわかります。Sting - Shape of my Hearthttp://fr.youtube.com/watch?v=KX4jAplZb0Y
2008年02月15日

『名人伝』中島敦 http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/621_14498.html紀昌という弓矢の名人の物語。弓矢の道を極めた紀昌は、師匠の元を去り自宅に帰ってきても弓を手に取ろうとさえしない。人々はそんな彼の噂をする。「毎夜三更を過ぎる頃、紀昌の家の屋上で何者の立てるとも知れぬ弓弦の音がする。 名人の内に宿る射道の神が主人公の睡っている間に体内を脱け出し、 妖魔を払うべく徹宵守護に当っているのだという。 彼の家の近くに住む一商人はある夜紀昌の家の上空で、 雲に乗った紀昌が珍しくも弓を手にして、 古の名人〓(げい)と養由基の二人を相手に 腕比べをしているのを確かに見たと言い出した。 その時三名人の放った矢はそれぞれ夜空に青白い光芒を曳きつつ 参宿と天狼星との間に消去ったと。 紀昌の家に忍び入ろうとしたところ、 塀に足を掛けた途端に一道の殺気が森閑とした家の中から奔り出て まともに額を打ったので、覚えず外に顛落したと白状した盗賊もある。 爾来、邪心を抱く者共は彼の住居の十町四方は避けて廻り道をし、 賢い渡り鳥共は彼の家の上空を通らなくなった」紀昌はその後も射を口にすることもなく、弓矢をとることもなく煙のように世を去った。老後の彼については、ひとつの妙な話しか残っていない。「その話というのは、彼の死ぬ一二年前のことらしい。 ある日老いたる紀昌が知人の許に招かれて行ったところ、 その家で一つの器具を見た。 確かに見憶えのある道具だが、どうしてもその名前が思い出せぬし、 その用途も思い当らない。 老人はその家の主人に尋ねた。 それは何と呼ぶ品物で、また何に用いるのかと。 主人は、客が冗談を言っているとのみ思って、 ニヤリととぼけた笑い方をした。 老紀昌は真剣になって再び尋ねる。 それでも相手は曖昧な笑を浮うかべて、客の心をはかりかねた様子である。 三度紀昌が真面目な顔をして同じ問を繰返した時、 始めて主人の顔に驚愕の色が現れた。 彼は客の眼を凝乎見詰める。 相手が冗談を言っているのでもなく、気が狂っているのでもなく、 また自分が聞き違えをしているのでもないことを確かめると、 彼はほとんど恐怖に近い狼狽を示して、吃りながら叫んだ。「ああ、夫子が、 古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや? ああ、弓という名も、その使い途も!」 その後当分の間、邯鄲の都では、画家は絵筆を隠し、楽人は瑟の絃を断ち、 工匠は規矩を手にするのを恥じたということである」一度その道を極めてしまった人は、もう何も語ることはないということだろうか。むしろ自分たちは知らないことについて喋りすぎるようである。デカルトは言う。「われわれが明晰判明に知られたものだけに同意を与えることにするなら、 偽なるものを真なるものとして承認することは けっしてないであろうことは確実である。 (中略) また、われわれがよく知らないところのなんらかの理由に同意する時は、 われわれは誤るか、ただ偶然に真理に出会うかであり、 したがって、われわれが誤っていないと知ることすらできぬ、ということも確実である。 しかし、われわれに知られていないとみずから気づいているものに 同意するなどということは、きわめてまれにしか起こらない。 というのも、認識されたものについてでなければけっして判断すべきではないと、 自然の光がわれわれに教えているからである。 けれども、われわれは多くのものを、かつてわれわれが認識したものだと思いこみ、 本当はそれらのものをけっして知ってはいないのに、 記憶にたよって、あたかもすっかり知られているものかのように、 それらに同意しがちであって、このゆえに実にしばしば誤りに陥るのである」 (「哲学の原理」/中央クラシックス『方法序説』所収) もし本当に道を極めたもの、あるいは名人の心を持つものなら、真なるものを真なるものだと言うことはあっても、けっして偽ものを真なるものとは言わないであろうし、私欲や金銭目的で、作為をもって世間にふれ回ることはしないだろう。それは名人ではなく「ペテン」というものだ。自分自身の知らないことは、たとえマスコミ媒体を利用して業界内の有名人や自称「大御所」が発信した情報であっても、安易に同意してはいけない。策略的に捏造された、偽情報があまりに多すぎるからだ。
2008年02月13日
「如何すべきと思はれける処に、或る者申す様、 「筑前国三笠郡土山といふ処にこそ異朝より鉄の細工渡りて数年侯ふなる。 彼を召さるべく侯ふやらん」 と申しければ、則ち彼を都に召し上せ、太刀を多く作らせて見給へども、 一つも心に称はず。空しく下るべきにてぞありける。 彼の鍛冶思ひけるは、 「我筑紫より遙々と召されし甲斐もなく罷り下りなば、 細工の名を失はんこそ心憂けれ。昔より今に至るまで、 仏神に申す事の叶へばこそ祈祷といふ事もあるらめ」 とて、八幡宮に詣でつつ、 「帰命頂礼八幡大菩薩、願はくば意に称ふ剣作り出ださせてあたへ給へ。 左様ならば大菩薩の御器と罷り成るべし」 と、願書を進らせて至誠心にぞ祈りける。 七日に満ずる夜の御示現に曰く、 「汝が申す所不便なり。疾く罷り出でて六十日の際、 鉄を鍛うて作れ。最上の剣二つ与ふべし」 と分明に夢想ありけるが、細工悦びて社頭を出でにけり。 その後好き金わかし、鍛ひ撰びて六十日に作りたり。 実に最上の剣二つ作り出だす。 長さ二尺七寸、彼の漢の高祖の三尺の剣ともいひつべし。 満仲大きに悦びて、二つの剣にて有罪の者を切らせて見給ふに、 一つの剣は、鬚を加へて切りてければ、「鬚切」と名附けたり。 一つをば膝を加へて切りければ、「膝丸」とぞ号しける。 満仲、鬚切・膝丸二つの剣を持ちて天下を守護し給ひけるに、 靡かぬ草木もなかりけり。」〈前回までの「剣の巻」 源の姓を賜った多田満仲公は、天下を守る者として、 心にかなう刀剣を鍛冶に打たせたがよいものができない〉どうしたものか、と思案に明け暮れていたところ、ある者が、「筑前国三笠郡土山というところに異国から鉄(くろがね)の細工師が渡来して 数年になります。彼を召されてみてはいかがでしょうか」と提案したので、さっそくその細工師を都に呼び寄せ、太刀を作らせてみたものの、ひとつも納得できるものはなかった。鍛冶は、このままでは都に召し上げられた甲斐がなく、細工の面目も丸つぶれだ、と八幡神に詣で、願書寄進し祈祷していたところ、神仏が示現され、細工に語りかけた・・・(以下略)能『小鍛冶』では、三条宗近は稲荷神社のお狐様に鍛刀を手伝ってもらったという。フィンランドの大叙事詩『カレヴァラ』でも鍛冶は神の仕事だ。細工の腕かなわず、追いつめられた鍛治師が神託を受けた記述を、現代人はどう受けとるだろうか。最近流行のスピリチュアル系なら、ハイアーセルフの現れとか、守護霊や守護天使からの伝言と説明するかもしれないし、異常心理学の権威○田晋先生あたりは精神病の一種にしてしまうかもしれないし、ストレスによる妄想だと切って捨てるかもしれない。しかし、昔の人びとはそうは思わなかった。神仏の詞を聞き、我を忘れ、私心を捨てた結果、罪人を打ち首すれば、髭を加えて切り落とし、膝を切断し、鬼や物の怪すらをも斬る、神威が宿った太刀が完成したと信じていた。満仲公や多くの武士たちもそうした背景を感じ取って太刀を佩いたのだろう。満仲公が天下を守護するために太刀を持とうとしたのに対して、現代の愛刀家や刀剣マニアの思考回路はとても複雑だ。よい銘の刀を持とうとし、また値段が上がることを大っぴらに期待する。その雑念たるや、まるで笑い飯の面白い漫才のようのだ。「武士の魂である刀を手に入れるなら、名刀を買わないとあかんな。 虎徹とか、正宗が手入ったら自慢できるし、きっと将来高い値で売れるやろな? ・・・あかんあかん、武士の魂、売ったらあかんがな、売ったら! 武士の魂を買って、大切な家宝にせなあかんがな。 果報は寝て待て、っていうぐらいやから高い値で売れるかな? ・・・あかんあかん、売ったらあかん、売ったら!! 見てみい、この沸(にえ)! 将来2円じゃなくて2千万円で売れるがな。 ・・・売ったらあかん、売ったら!! 見てみい、このええ投資。投資ちゃうがな、帽子やがな! ええか、武士は喰わねど高うなる投資や。投資とちゃうわ!! おっさん、将来高うなる刀剣売れや~~~!!!」「雑念だらけやないか、カネ大事にせえよ!」自分は“一時的な所有”と“交換の手段”とするなら、刀剣よりも流通性の高い通貨や金地金の方が便利だし、余計な雑念や恨みつらみが生じなくてよいと思う。それに、道具は必要な状況になれば、絶妙のタイミングで手に入るものだ。「上代4千万円の刀剣と、2千万円相当の金地金どっちかやる」といわれたら、自分は2千万円も損しちゃうけれど(我ながら馬鹿だな~、笑)、迷わず隠れた可能性のある金地金を選びます。“L'essentiel est invisible pour les yeux .”「ものごとの本質は目に見えない」『星の王子さま』で王子さまが大喜びした羊の絵は、「箱の中に入った羊」だったけれど、剥き出しの白刃や、借り物のこれ見よがしの「武士道」とやらが、いかに世の中を殺伐とさせ、人びとを生き辛くさせていることか。
2008年02月11日

雪が広野を 白く変えるただひたすらに 降り続けるもう一度 抱き寄せて大地のような その胸に時は運命さえ 連れ去ろうとしてる凍えた 白い私の手をあなたは 頬に引き寄せるあなたを いつも守って来た指輪そっと 外し唇に押し当て 私に握らせたあぁ 私の名前は カレリアあなた呼ぶ声が 聞こえるでしょうあぁ 歴史がふたりを 隔ててもかわらぬ想いで あなたと生きてるあなたの幻が 帰って来るの浅い夢に 目覚めた眠れぬ長い時を越えてそう 私の名前は カレリアあなた呼ぶ声が 聞こえるでしょうあぁ 歴史がふたりを 隔ててもかわらぬ想いで あなたと生きてる六月の沈まぬ 太陽のように私は あなたを照らし続ける凍てついた 冷たい唇にもう一度 触れたい愛でとかしたい(フィンランドで録音された、 工藤静香さんのアルバム『カレリア』に所収)
2008年02月11日

「悪霊はその真の名前を呼ぶと、たちまちに退散消滅してしまう。 同様に微力な人間の力のまえでは、思うがままにふるまう〈それ〉の世界も、 その正体を見破る者にたいしては、おのずから帰服する。 ときには人間にとって偉大でおそろしい母神のようであるが、 しかしいつも慈母のような〈なんじ〉はその実在の豊かな流れに触れると、 地上の一切のものを〈なんじ〉に変える力をもっている。 だが〈それ〉の世界は、われわれをこの〈なんじ〉から引き離し、 〈なんじ〉を異質化しようとするのである。 しかし、 心の奥底で非現実化された“自我”の幻影がうずくまっているひとにとって、 悪霊の真の名前を呼ぶ力はどうしてもち得よう。 たえず活発な幻影が廃墟を踏み固めているところでは、 存在の中に閉じ込められている〈なんじ〉をよみがえらせるべき関係の力を いかにしてもつことができるだろうか。 空虚な世界で分裂してしまった自己欲望の追求に駆り立てられているものが、 どうして自己を集中することができよう。 法恣(ほうし)な生活をしているものが、いかにして自由を悟ることができようか。 自由と運命が対をなしているように、勝手気儘な我意と宿命は対をなしている。 しかし自由と運命は相互に誓いを交わし、意味を包括し合っている。 ところが、魂の幻影である勝手気儘な我意と世界の悪霊である宿命とは、 同居しながらも、互いに身を避け、結び合うことも、触れ合うこともなく、 無意味のうちに契約を交わしている。 ときどき両者は視線を交わすと、一瞬、うろたえおびえ、眼と眼をそらし、 救われがたさに嘆息が漏れるのである。 今日、こういった状況を避けたり、隠れたりするために、 弁舌巧みに技巧をこらした知性をいかに用いていることか。 自由な人間は、我意なくして意思する人である。 彼は現実を信頼している。 すなわち、〈われ〉と〈なんじ〉のもつ二重性の真の結合を信じる。 彼は運命を信じ、運命が彼を必要としていることを信じている。 運命は彼を束縛するのではなく、運命が彼を待ち受けている。 彼は運命のもとへ行かねばならぬことをよく知っているが、 しかし運命がどこで待ち受けているかを知らない。 彼は全存在をあげて出ていかねばならぬということをよく知っている。 彼が欲しているようにはならないかもしれぬことを知っている。 しかし、みずから意志し得るものを自己が決断するとき、 運命と出会うのである。 彼は物質的で衝動的なものに支配されるがままになっている小さな意志、 不自由な意志からはなれ、必然性や必然的存在から遠ざかり、 運命の大いなる意志に自己を捧げなければならぬことを知っている。 このような境地において、彼はもはやなにものにも干渉されることなく、 しかも、ものごとがいたずらに生起することを黙認しない。 彼は自己をとおして生成するものや、世界の存在の道にじっと聴きいる。 それによって彼は支えられるためではなく、 それが必要とするままに人間の精神、行為、生死をかけて、 みずからの道を実現するのである。 自由な人間は運命を信ずるとわたしがいったのは、いいかえれば、 自由な人間は出合いに自己をささげるということである。 勝手気儘な我意の強い人間は、運命を信ぜず、出合いに生きることもない。 このような人間は、〈なんじ〉との結合を知らない。 彼はただ外にある熱狂的な世界と、 これを利用しようとする猛烈な快楽だけしか知らない。 彼はただ利用するものに古めかしい名前をつけさえすればよいのだ。 それでけっこう神々となるのである。 彼が〈なんじ〉というとき、 〈なんじわが利用できるものよ〉と想っているのであり、 彼が自己の運命などといっているものは、 実は自己の利用の能力の美化であり、聖化にすぎない。 事実、彼は運命などもち合わせてはいない。 たかだか事物や衝動の命じるままに、 自己誇示の感情をふりまわして勝手なことを行なうのである。 彼は大いなる意志に出合うことなどとうていありえない。 彼が認めるのは恣意のみである。 彼も人並みに犠牲的行為について口にするかもしれないが、 このような行為にはまったく無能である。 こういった人間は、けっして具体的に物事を実現する力はないのだということを、 あなたははっきりと認識すべきである。 彼はたえずものごとに干渉し、ある目的のために〈事を起そう〉とする。 彼はあなたに、 どうして運命に手助けしていけないのだろうか、自己の目的を追求をするのに、 必要な手段として利用してはいけないのだろうか、という。 彼は自由な人間さえも、こんな考えで見る。 彼は自由をこれ以外のものとして見ることができない。 しかるに自由な人間というものは、 目的をもたず、目的のために手段も持たない。 彼の知っていることはただひとつ、 彼は繰り返し運命に近づこうと決意していることだけである。 自由な人間は決意し、人生の岐路に立つごとにこの決意を新たにする。 自己の決意が大いなる意志の決意に達せず、 手段に支えてもらわなければならぬなら、 いっそ生きていない方がよいとさえ彼は信じている。 彼は出合いを信じている。 ところが恣意的な人間は骨の髄にまで不信がしみ込んでおり、 不信と我意、目的追求、工作手段のほか、なにも認められない。 犠牲もなければ、恵みもない。 出合いもなければ、現存もない。 目的と手段を求める世界が彼の世界であり、それ以外はなにもない。 この世界がいわゆる宿命なのである。 かくて、彼は自己の世界のみせかけをすべて、 まったく縺(もつ)れて解きほぐしようもない非現実的なものの中に 巻き込んでしまっているのである。 彼といえども、自分のことをよく考えてみるならば、 この事実がわかるはずである。 いや、それだから逆に、反省するのをおそれ、 醜い考えを隠そうとして、自己の知性のもっともすぐれた部分を悪用するのである。 しかし、 現実から遠ざかった〈われ〉と真の〈われ〉という堕落の状態を深く反省するならば、 また人間が絶望と呼ぶ腐葉土にこれらすべてを埋めてしまい、 自己否定と復活から新たに出発し直すならば、 そこから転換の萌芽が生じてくるかもしれない。 『シャタパタ・ブラフマーナ』の書にいう、 かつて神々と阿修羅とが争ったことがあった。 そのとき、阿修羅は〈われわれは供え物をどの神にささげようか〉といった。 彼らはその供え物をみな自分の口に入れてしまった。 しかるに、神々は供え物を互いの口に入れ合った。 主神プラジャーパティは、神々の行為をよしとして神々にまかせたという。」(岩波文庫『我と汝』P.74~78)
2008年02月09日

MONGIN - MODERNE 12http://couteaux-courty.com/cgi-bin/wv2k/panier.cgi?langue=fr&database=base&action=view_product&productID=0123&category=14ハンドル長12cmのジャックモンジャン・モデルン(モダン)。日本でもホーン・ハンドルの製品を入手できますが、ヤタガンより形が地味なので、使っている人は少ないようです。自分は刃長57mmのものをデスクナイフとして使っています。Couteaux Courtyhttp://couteaux-courty.com/index.html
2008年02月08日

LAATUPUUKKO PUUKKOVESURIhttp://www.hapenet.com/laatupuukko/puukkovesuri.php?language=finnishラートゥプーッコ社の鉈型プーッコ “Puukkovesuri” です。まるで映画『ランボー 最後の戦場』に登場するプロップのような無骨なデザインですね。LAATUPUUKKO OYhttp://www.laatupuukko.fi/
2008年02月08日

「沛公(はいこう)は貴坊(きぼう)が属鏤(しょくる)を伝へ、 白蛇の霊を切りて、天帝の名を出だす事を得たり。 始皇、荊軻(けいか)が匕首(ひしゅ)を取りて、 燕使の命を断ちて、聖明の運を出だす事を全うす。 凡そ白旄黄鉞(はくばうくわうゑつ)の徳、弓馬矢石の勢、 五戈の計、四義の品、皆これ治国の術、保位の基なり。 尤も賞翫せらるべきは刀剣の類なり。 抑々日本に多くの剣あり。所謂宝剣、十柄・鬚切・膝丸・小鴉なり。 鬚切(ひげきり)・膝丸(ひざまる)と申す二つの剣の由来を尋ぬれば、 人王五十六代の帝をば、清和天皇とぞ申しける。皇子余多まします。 中にも第六の皇子をば貞純親王、御子経基六孫王、 その嫡子多田満仲上野介、始めて源氏の姓を賜はつて、 天下を守護すべきの由、勅宣を蒙りてけり。満仲宣ひけるは、 「天下守るべき者、好(よ)き太刀を持たでは如何せん」 とて、鉄(くろがね)を集め鍛冶を召し、 太刀を作らせて見給ふに、心に称ふ太刀なかりけり・・・」 (『新定 源平盛衰記』第一巻より)『平家』諸本には清和源氏伝家の刀剣の由来が収録されている。いわゆる「剣の巻」である。沛公は『三国志』でもおなじみの劉邦の別称。荊軻のくだりは映画『始皇帝暗殺』『HERO(英雄)』を観ると解りやすい。白旄黄鉞(白毛の総と黄金で装飾された斧)、弓馬矢石、五戈(刀、剣、矛、戟(げき)矢)の計、四義(武人のとるべき四つの道)の品は、国を治める術、保位の基礎となるものだが、その中でももっとも賞玩するべきものは、刀剣の類だという。清和天皇の子孫である多田満仲上野介は、はじめて源氏の姓を天皇より賜って(実際は父・経基の代)、「天下守るべき者、好(よ)き太刀を持たでは如何せん」と鉄を集めて鍛冶を呼び寄せ、太刀を打たせたが心に適うものはなかった。ここでよく読んでおくべきは、満仲公の言葉である。「天下守るべき者、好き太刀を持たでは如何せん」。自分のためにではなく、天下を守るものがよい刀を持たないでどうしようか、と言うのだ。昨今では刀は投資の対象であったり、また愛蔵品であったりする。関係団体や協会のきな臭さは少し刀の知識を集めるといやでも目につく。自分のエゴや金銭、自己顕示のために刀を買っている。命令好きで支配欲旺盛な王さま、数量ばかり数えている商売人(実業家)、他者からの賞賛の言葉を求める自惚れ屋、机の上で知識を集めるだけの地理学者(インテリ)。これらはすべて『星の王子さま』に登場する人物だけれど、かんじんの星の王子さまはというと、王子さまの星のバオバブの芽を食べさせるために、「私」に羊の絵を描くよう頼んでいる。彼の星には大好きな一輪の薔薇が生えているからだ。満仲公が天下を守るものとして求める「好き太刀」も、王子さまが星を守るために描いて欲しい「羊」もなかなか出来上がらない。一体何が足りないのか?(続)
2008年02月07日

iittala teema mukihttp://www.iittala.com/teema.htmlhttp://www.iittala.fi/web/iittalacom.nsf/pages/C544474873E55CDFC2256FF0004BA452?opendocument〈=fi&prodtable=1#フィンランドのイーッタラ(イッタラ)製カイ・フランク Kaj Franck デザインのお洒落~なマグカップ(ムキ)です。0.31と0.41、2サイズあります。iittalahttp://www.iittala.fi/
2008年02月06日

Puukkopaja Liukko Kyhttp://www.liukkopuukot.fi/フィンランドのプーッコパヤ・リウッコ社のHPです。
2008年02月04日

LAATUPUUKKO OYhttp://www.laatupuukko.fi/フィンランドのラートゥプーッコ社のHP。
2008年02月04日

Laguiole Aveyron Renard 11cm plein manche ganevrier PRIX 283.00EUROhttp://www.laguiole-aveyron.fr/laguiole-renard-plein-manche-genevrier-p-271.html “Qu'est-ce que signifie apprivoiser ?”(「アプリヴォワゼ ってどういう意味なの?」)どこの国でも、普段使う持ち物に名前をつける人がいる。自分の知り合いもバイクやラコタ・ナイフ、PCにニックネームを付けている。身近な品物を仲間と思って大切にするのだから、きっとよいことだろう。一方、自分は名前も何にもつけない方で、ヒドい場合は製造メーカーやモデル名さえわからないものもある。今回のラギオールは『星の王子さま』にも登場する狐(キツネ)の飾り。ブレードのロック・バーにキツネの足跡がマーキングされています。「ラギオール」を現地の方言「ライヨール」と発音して、ブランドを個別化するため商標としているメーカーもあるのでややこしい。そこまで言うと「フランス」も「フワンス」に聞こえるし、「プチ・プランス」も「プティ・プワンス」に聞こえる。茨城の人に向かって「いばらぎ」と言うと、憤慨するのとはちょっと違う。・・それで、「アプリヴォワゼ」ってどういう意味だろう?(次回、「剣の巻」(1)に続きます)Coutellerie Laguiolehttp://www.laguiole-aveyron.fr/
2008年02月02日
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