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集談会の仲間が20代のころ水谷先生に面会されたときのことです。その方は神経症の為に仕事をされていませんでした。水谷先生は、一通り話を聞かれた後で、「すぐに仕事を始めなさい」「君は自覚が足りないな」と言われたそうです。神経症を治すための具体的なアドバイスを期待していたので拍子抜けしたそうです。水谷先生が言われた「自覚」とは何でしょうか。自覚とは自分の心身の状態を正しく理解することだと思います。自分の心身の状態が全く自覚できていないことが極めて多いのが現状です。また井の中の蛙状態で、間違って解釈している場合も多々あります。独りよがりの自覚では、世間から浮いてしまいます。神経症者は神経症があるから日常生活が維持できない。神経症があるから仕事や人間関係や子育てがうまくいかないなどと考えます。日常生活の悪循環や仕事に行けないことを、神経症のせいにしています。神経症を克服してから、行動に移ろうとする傾向が強いのです。これは認識の間違いです。つまり自覚が足りないということになります。水谷先生は、神経症を治すよりも、まず社会人として一人前の仕事をすることのほうが大事だと言われています。どんなにとらわれが強くても、規則正しい生活習慣を身に着けて、日常茶飯事を丁寧にこなしていく。どんなに辛くても「月給鳥」になったつもりで仕事に行く。神経症で苦しくても普通人として生きていくことを説明されています。森田理論では、形を整えるようにすれば、時の経過とともに、悩みは解消していくといいます。靴がそろえば、心がそろう。これは集談会で聞いた言葉ですが、まさにその通りだと思います。こういう自覚ができて、実際に行動できるようになることが大切です。自覚を深めるためには、森田理論学習によって認識の誤りを学習することです。神経症の成り立ち、神経質性格のプラス面、感情の法則、行動の原則、不安の特徴と役割、不安と欲望の関係、「かくあるべし」弊害、事実本位の生き方、生の欲望の発揮、治るとはどういうことかという学習で自覚を深めることができます。一人で学習するよりも仲間と学習することで理解が深まります。自覚を深めるためには、他人に自分のことを分析してもらうことが有効です。自分のことは自分が一番よく知っているというのは、一面ではあたっていますが、必ずしもそうとは言えない面が多々あります。たとえば自分の身体の健康状態は自分ではよく分かりません。他人から客観的に見てもらうことで自覚が深まります。精神的な問題も自分なことなのに肝心なことほど自分ではよく分かりません。正しいと思っていることが、森田理論に照らし合わせてみると間違いだったということはよくあります。森田理論に詳しい人から認識の間違いを教えてもらうことは大切です。そのために集談会や生活の発見会のSNS(JUPITERなどのZOOM学習会)を活用した学習会・交流会に定期的に参加されることをお勧めいたします。
2024.04.20
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森田先生の言葉です。遊び事と仕事とは、事柄そのものではない。その人の心の置きどころによって、どっちともなるものである。人がもしその職業に対して、いつも興味がなく、不快と苦労を感じて、大工は左官、鍛冶屋は氷屋、学者は芸術家、医者は弁護士とかいうように、互いに他の職業を羨むようならば、その日常の仕事に対する苦痛は、誠に気の毒なものであるが、人がもしおのおのその職業に興味をもち、それを工夫し、研究し、発展させて、楽しんでゆくならば、その仕事はいつも遊び事である。われわれも職業は職業のために、活動は活動のために、人生は人生のためにやってゆくというふうであれば、遊び事はすなわち仕事、仕事はすなわち遊び事である。だから人が職業や人生を、勤めとか仕事とか思えば苦労であるが、これを遊び事と思えば道楽であり、幸福である。(生活の発見誌 2024年1月号 50ページ)仕事を給料を稼ぐための手段に過ぎないと考える人はつらい人生を歩んでいることになります。それはやりたくないことをやらされているという気持ちが出てくるからです。森田先生が言われているように、仕事が遊び事、遊び事が仕事と考えられるようになると、生きていることが楽しくなります。そのためには、仕事に取り組む中で、問題や課題、改善点や改良点を見つけだすことが欠かせないと思います。問題点を見つけて、何とか解決したいと思ったとき、意欲が生まれてきます。行動に移すと積極的、生産的、建設的、創造的な生き方ができるようになります。遊んでいるときは工夫や発見、アイデアが次々に生まれている状態です。遊びに取り組んでいるとはずみがついてきます。森田理論の行動の原則のなかに「見つめる、感じる」というのがあります。これに取り組むことで、仕事と遊び事は区別がつかなくなります。
2024.02.15
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4スタンス理論を生み出した廣戸聡一氏のお話です。腰痛、ひざ痛、肩こり、首のこりなどに悩まされている人が多い。もう治らないものとあきらめている人も多い。でも簡単にあきらめるのはまだ早い。身体にとって一番無理のない、自然な「立ち方」「座り方」「歩き方」を身に付けることができれば痛みから解放されることがあると言われている。人間は重力に逆らって二足歩行をしています。意識していませんが、バランスをとるために相当身体に負担をかけているわけです。その負担を和らげるために、身体の軸をきちんと作る必要があります。軸とは首の付け根、みぞおち、両股関節、両膝関節、足裏(土踏まず)です。軸のある状態とは、この5つのポイントが重心線上に正しく並んでいることです。軸を作ることで肝心な脳を安定させることができます。重心の取り方ですが、人によって4つのタイプに分かれるという。血液型と同じように人それぞれだという。ですから自分の重心のとり方を他人に教えても、同じタイプならよいが、違うタイプの人には全く合わない。野球やゴルフの場合全く成果が出なくなる。まず土踏まずの前側でバランスをとっている人(A)と、後ろ側でバランスをとっている人(B)に分かれます。次に足の内側でバランスをとっている人(1)と足の外側でバランスをとっている人(2)がいる。この組み合わせによってA1、A2、B1、B2の4つに分類されるという。人それぞれなので、自分はどのタイプなのかを見極める必要がある。自分のタイプの見分け方はYou Tubeチャンネルに分かりやすいものがあった。「はじめてのゴルフ ゴルフを始めるなら○○を覚えよう」です。3分10秒過ぎからの動画をごらんください。すぐに分かります。自分のタイプを見極めて、それに合わせた正しい「立ち方」「歩き方」「座り方」を心がけていけば、無理がないので首、肩、腰、膝の痛みは解消される。そのためのエクササイズ(1日わずか10分でできる)も紹介されている。興味のある方は次の本を参照してください。その他参考図書はたくさんあります。これはあらゆるスポーツに応用されているそうです。特にソフトバンクの藤井康雄コーチの話は目からうろこです。(超バッティング理論 日本文芸社 78ページ)
2024.01.15
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イチローさんのお話です。首が痛いとき、首だけを見ていてもダメで、本当は腰が悪かったということ、よくあるじゃないですか。あれと同じで、表に見える狂いがあったり、どこかにズレを感じていたとしても、では、どこの意識を取り戻せばそれが直るのかということに気づかないといけないんです。それが「内側の感覚」なんですね。(イチロー哲学 児玉光雄 東邦出版 146ページ)イチローさんは、問題が生じて、その部分だけに注目して、対症療法を行った場合、事態の深刻化を招いてしまうと言われています。ガンになると手術、抗がん剤治療、放射線治療が必要になります。その治療がうまくいって一旦がんが治ることがあります。しかし、そこで安心していると再発する場合が多くなります。遺伝子研究の村上和雄氏は、ガンになる遺伝子は誰でも持っていると言われています。その遺伝子のスイッチがオンになるとガン細胞が増殖する。その遺伝子のスイッチをオフにしておけばガン細胞の増殖を抑えることができる。遺伝子のオン・オフの切り替えは、環境との相互作用によるそうです。つまり生活習慣、食生活、不安やストレスなどの環境の影響を強く受けている。どこに問題があるのかを分析して、生活スタイルや考え方の偏りを見直すことが必要になります。神経症的な不安に対して、不安を取り除く、不安から逃げまくるという対応はまさに対症療法です。確かに即効性はあります。しかしいつまでも薬物療法でしのいでいると、薬物の量が増え、甚大な副作用で苦しむことになります。不安は欲望の裏返しとして湧き上がっているという森田理論を応用して、不安やストレスの対応方法を変更していく、あるいは問題のある生活習慣や食生活を見直す方向を目指したいものです。
2023.07.30
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和田秀樹氏のお話です。適応障害とは、生活の様々な場面で生じる日常的なストレスにうまく対処することができずに精神状態や行動面において支障をきたす病気のことを言います。(適応障害の真実 宝島社新書 14ページ)適応障害は適応不安が悪化したものです。適応障害になると生活に支障をきたし、精神障害をもたらします。そうならないためには、適応不安への対応が大事になります。長谷川洋三氏は生活の発見誌の2月号でこの適応不安について説明されています。困難な事態に直面したとき感じる不安を適応不安と言います。はじめてのことに取り組むとき誰でも適応不安を感じます。みんなが適応不安を感じるのに、神経症になる人とならない人がいます。それは性格の問題というよりも、人間性に対する無知からきている。例えば、卒業して仕事を始めるとき、社会の荒波の中でうまく溶け込んでやっていけるだろうかと誰でも不安になります。自分だけがことさら強く感じるというわけではありません。自分だけが不安になって苦しいというのは認識の誤りになります。このことを高良武久先生は「劣等感的差別観」と言われています。劣等感的差別観とは、自分だけが外界からの刺激に対して、特別に抵抗性が弱いとか、一般人と異なって自分が精神的に、あるいは身体的に弱点を持っていると、劣等感的に他人と自分を差別することです。これにとらわれると、心身の弱点や欠点、心配事、劣等感、ミスや失敗を受け入れることができなくなります。適応不安の身近な例では、土曜、日曜日の休み明けの仕事のことを考えると、気が重くなり、仕事に行くことが辛いので、仮病を使って休んでしまう人がいます。しかし気分本位になってホッとできるのは最初だけです。会社に行っても、普段の仕事モードになるまでにしばらくかかります。だいたい昼くらいまではかかるのではないでしょうか。それを我慢して仕事をしていると、そのうち調子が出てきます。仮に仮病を使って休むと、次の日にそのような状況を体験することになります。周りの人がすでにフル回転している時に、自分はまだ始動状態にあるのです。気おくれした気持ちになり、下手をすると自己嫌悪に陥ります。森田理論の学習の要点には、「初めての行動には不安はつきもの」とあります。森田では「不安は安心のための用心である」であるといいます。はじめての行動で、不安を感じるのは当然であり、不安があるからこそ、慎重に行動して、それを乗り越えれば成功体験を味わうことができます。
2023.04.14
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風呂のタイルにつく黒いカビ、皮膚につくカビ、味噌作りのときにつくカビ、餅やパンなどにつくカビなどはイヤなものです。不潔さ、食品の変質、真菌中毒症、アレルギー症、感染症などを引き起こして、人間の生活に多大な悪影響を及ぼす悪いカビはたくさんあります。その他、カビの中には、発がん、嘔吐、下痢、悪心、造血機能障害、肝臓や腎臓の機能障害を起こすものもあります。その反面、私たちの生活を豊かに彩ってくれているカビもたくさんあります。コウジカビは、清酒、焼酎、味噌、醤油、鰹節などの製造に使われています。酵母は、パン、ビール、ワイン、清酒の製造に使われています。青カビは、チーズの製造だけではなく、抗生物質である「ペニシリン」の生産に役立っています。これらのカビがいなければ、人間の生活は味気ないものになっていたかもしれません。カビは気持ちが悪いもの、取り除く相手だと一方的に決めつけていると、生活を豊かに彩ってくれている側面に気づかなります。森田でいう両面観のものの見方、考え方が大切になります。両面観については、生活の発見誌平成5年6月号にそのヒントがありました。1、見方を変えてみる。2、他人のアイディアを借用する。3、意味、形、色、動作、音、匂いなどを新しいものに変えてみる。4、大きく、多く、長くしてみる。ほかの成分を加えてみる。5、もっと小さく減らして、低く短くしてみる。6、構成分子を入れ替えてみる。7、反対にしてみる。逆にしてみる。8、結合してみる。混ぜてみる。私は両面観を意識するためにいくつか写真を持っています。たとえば、2019年11月30日投稿の写真です。この写真は見方によっては若い女性に見えます。でも視点を変えるとおばあさんに見えます。どこに目をつけるかで物の見え方はまるっきり変わってきます。田原総一朗氏の「朝までテレビ」では、まったく見解の違う論客に喧々諤々の議論をしてもらっています。それを見ていた視聴者は、客観的で妥当な考え方を持つことができます。両面観の考え方をとらないと、間違った方向に流されてしまいます。
2023.03.09
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腸の研究をされている藤田紘一郎氏のお話です。美肌のカギは「細菌」が握っています。私たちの肌に棲んでいる「皮膚常在菌」が、肌のコンディションキープのために欠かせない働きをしています。皮膚常在菌には、表皮ブドウ球菌、黄色ブドウ球菌、アクネ菌など、約10種類の細菌があります。これらの菌たちは、皮膚表面の脂肪を食べて脂肪酸の膜(皮脂膜)をつくり、皮膚を弱酸性に保っています。これにより、皮膚にとりつこうとする病原菌をシャットアウトしてくれているわけです。この皮膚常在菌がつくり出す皮脂膜は、いってみれば「天然のクリーム」のようなものなのです。皮脂膜は、肌を乾燥から防ぎ、肌のうるおいや柔軟性を保つ働きをしています。ところが、清潔好きの女性の多くは、このクリームを洗い流してしまっているのです。石鹸で洗ってしまうと皮膚常在菌の90%が失われてしまいます。石鹸でごしごし洗いでもすれば、皮脂膜も簡単に壊れてしまいます。しかも、いったん壊れてしまうと、なかなか元に戻りません。皮膚常在菌が元の状態に戻るには、若い人でも12時間、年をとってくれば20時間もかかるとされています。つまり、いつも洗顔石鹼やボディーソープなどで顔や体を丹念に洗っている人は、かえって肌のコンディションを悪くしてしまっている可能性大です。皮膚常在菌の力を落とすほど洗ってしまってはいけません。お風呂で体を洗う場合、石鹸で洗うのは2日か3日に1回にするといいでしょう。しかも、軽く泡立てて、サッと流してしまうくらいで十分。ごしごし洗うのは禁物と心得るようにしてください。(腸にいいことだけをやりなさい 藤田紘一郎 毎日新聞社 151ページ)コロナ感染防止のためにどこに行ってもアルコール消毒を徹底しています。藤田氏の話ですと、皮膚常在菌を殺菌すると、自分の皮膚を守ってくれている皮脂膜が破壊されるという。その結果様々な弊害が出てくると警鐘を鳴らしておられます。神経症の人では手洗いが止められない。トイレでトイレットペーパーのワンロールを全部使う人がいます。お風呂から何時間も出てこない人もいます。その他電車の吊革が握れない。他人の使ったものを触ることができない。「ついてくる娘の手にはファブリーズ」という川柳があります。まさにこんな状態です。これらは、ばい菌が自分の体に取りついて、命に係わる病気になることを恐れているわけです。藤田氏の話によると、皮膚常在菌は悪い細菌から守ってくれていると言われています。不安に振り回されて、すっきり晴れ渡った青空のような状態を追い求める態度は、自分の身体と精神状態を窮地に追い込んでいくのではないでしょうか。これから抜け出るには、第一には藤田氏が指摘されている皮膚常在菌の働きを知る。次に、森田理論学習によって不安と欲望の折り合いのつけ方を学ぶことが必要になると思います。ここでの要点は、神経症的な不安は欲望の裏返しとして発生しているものですから、不安だけを問題にしていると心身ともに痛めつけることになるのです。
2023.02.23
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白か黒か、100点か0点か、0か1かのデジタル思考、全か無か、成功か失敗か、○か×か、上手か下手か、合格か不合格か、プラスかマイナスか、親友か赤の他人か、というような極端な考え方をする人は、二分法的な思考方法をとっています。0点と100点の間には、10点、20点・・・80点、90点という点数もあるのですが、中間の点は認めないというのです。10点から90点はすべて0点とみなしているのです。90点という高得点でも0点と判定しているのです。この考え方は100点と0点の2つしかないということになります。二分法的な立場に立つ人は、完全欲、完璧主義の傾向が際立って強く、「かくあるべし」を自分にも、他人にも情け容赦なく押し付けています。人間関係は絶えず対立関係にあります。自分が会社で誰もがやってしまうようなミスや失敗をしたとき、自分は何をやってもダメ人間だ。もうこの会社で自分の居場所はなくなってしまったと思いがちです。責任をとって辞めるしかないなどと大げさに考えてしまいます。自分の人生は終わったも同然だなどと短絡的に考えるのです。第3者から見て、とるに足らないミスや失敗が、あっという間に自分の一生を左右するような大問題に発展してしまうのです。この考え方が他人に向けられると、小さなミスでも重箱の隅をつつくように責めたてます。決して容赦しないので人間関係は悪くなるばかりです。白か黒という二分法的な見方・考え方は、自他ともに窮地に追い込みます。早急に修正していかなければなりません。どんな道があるのかを考えてみましょう。この問題の解決のヒントを玉野井幹雄氏が次のように教えてくれています。二分法的な思考をしている人は、現状をよくするためには、悪い部分を取り除けばよいと考えているようです。決して善いものを増やそうとは考えない。あくまでも悪いものを減らすことによって、結果的に善い状態になろうとしているのです。努力しないで、楽をして幸せをつかもうとしているのです。そういう意味では消極的な生き方をしているのです。実に虫のよいことを考えているのですが、その願いが叶うことはありません。これに対して積極的な考え方をする人がいます。問題を解決するためには、悪い部分はそのままにして、善い部分を積極的に増やしていけばよいと考えているのです。善いものを手に入れるためには、どんなに苦労してもよいと考えています。二分法的な考え方をとっている人とは、思考方法が180度違うのです。彼らが全く思いつかないようなことを考えているのです。(いかにして悩みを解決するか 玉野井幹雄 自費出版 252ページ参照)白か黒かという思考をする人は、白でない場合は、すべて黒とみなしています。グレーというのは存在しないと考えています。そして黒の部分を非難、否定し、自分の身の周りから排除し、不快感を払拭しようとしています。それが実現すれば、当然幸せを手にできるはずだと考えているのです。それに対してグレーを認めることができる人は、そんな理屈を押し通すのは無理がある。不快感をなくするよりも、別のやり方のほうが確実に幸せをつかむことができるじゃありませんか。つまり黒を否定するのではなく、白に近づくことで幸せを手に入れようとしているのです。幸せは山の向こうにあるのではなく、自分でつかもうとしなければ手に入らない。エネルギーの消耗を招いても、多少苦労をしても、努力して白を手にすれば幸せをつかむことができる。黒を否定するくらいなら、白を手に入れる努力をした方が先決だと考えているのです。こういう人は多少不平不満があってもグレーときちんと向き合っている人だと思います。
2022.12.15
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ひすいこたろう氏のお話です。日本ではちょっとエッチな色ってピンクですよね。ピンク映画と言いますし。でも、これ、国によって違うんです。アメリカではエッチな色は青、ブルーになります。だから「ピンク映画」は「ブルーフィルム」下ネタは「ブルージョーク」と言います。スペインでは緑がエッチなるそうです。中国では黄色がエッチ。だからアダルト映画は「黄色電影」です。インドでの「イエス」のジェスチャは、日本の「ノー」のように首を横に振って、「ノー」のジェスチャは、日本の「イエス」のようにうなずきます。(常識を疑うことから始めよう ひすいこたろう サンクチュアリ出版)日本で常識とされていることは、世界では非常識とされている場合があります。私はシンガポールへ旅行したことがあります。驚いたことは日本で寒い冬がありますが、シンガポールでは1月2月でも30度の暑さです、その汗臭さを消すために、人の集まるところに行けば、香水の匂いがします。ホテルから外出する時はベットメイクをしてくれる人の為に、枕元に必ずチップを置いておく必要があります。これを忘れると大変なことになる。ガムを噛んでいて道端に吐き捨てると逮捕される。当然のことですが、自動車の通行は日本とは反対です。時間帯によっては通行制限があり、自由に乗り回すことは出来ない。その車が異常に高価だという。中古車でも日本の新車並だと聞きました。誰でもが手にすることは出来ないそうです。ほとんどの家には、主にインドネシア国籍のメイドがいるという。洗濯物は、物干し竿を家の窓から外に伸ばして使うのが常識である。日本のように夜一人で自由自在に出歩くことは危険である。シンガポールでは日本では考えられないことがあるのです。海外旅行に行くときは事前に予備知識を学習する必要があります。知らなかったでは許してもらえないことがあるからです。日本の常識を振りかざしても馬鹿にされるだけです。常識を過度に信頼するのは考えものだと思います。たとえば時代が変われば、全く通用しなくなることがあります。戦時中の日本人は、戦争反対を唱える人は非国民と言われていました。特高警察に逮捕されて拷問を受けていたのです。言論の自由が憲法で保障されている現代では考えられないことです。森田先生が講演される集会には特高警察が張り付いていました。もう少しのところで逮捕されそうになるところでした。森田先生は太平洋戦争が始まる前に亡くなられました。もし開戦後まで生存されていたとすれば、特高によって逮捕されていたかもしれません。本を出版しようとしても、検閲で削除される。出版を引き受けてくれる会社が見つからないなどということがあったのです。今現在常識とされていることは、国や時代が異なれば、非常識とみなされる場合があるという意識を持っておいた方がよいということだと思います。常識に振り回されていると、「かくあるべし」人間になってしまいます。
2022.12.03
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アインシュタインは次のような言葉を残している。常識とは18歳までに培った偏見のコレクションである。ハッとする言葉である。なかなか鋭いことを言っている。この言葉は森田理論に関係する話だと思う。日本でいえば18歳は選挙権を与えられて、大人の仲間入りをする年齢である。18歳になると、責任ある大人として行動することが求められるということです。生まれてから18歳までのさまざまな学習や体験を通して、自分の行動パターン、思考パターン、信条、一般常識、普遍的で役に立つ知識、社会でのマナーやルール、人間関係のコツなどを身に付けていく。目の前に起きてくる問題や課題に対して、これらを活用して対応していく。過去の膨大なデータ記憶に基づいて、自動的に行動方針を打ち出している。アインシュタインはこの行動や思考パターンに疑問を投げかけているのである。そもそも個人体験に基づく行動パターン、思考パターンは、人によって大きく違う。ある人は右と言っているのに、別の人は左というようなことは日常茶飯事である。また人間は多かれ少なかれ認識や認知の誤りを犯す生き物である。同じようなパターンというけれども、以前と全く同じケースということはあり得ない。それなのに、人間は事実確認を怠り、長期記憶を信頼して行動方針を立てている。常識、先入観、決めつけ、早合点で意思決定し、事実誤認が発生した場合、そこに投入した資金や労力は無駄になるのではないか。また、否定的、ネガティブ、マイナスに判断して逃避した場合、チャンスをみすみす取り逃してしまうということが発生するのではないか。人間関係も悪化してきますし、メリットよりはデメリットが多くなります。このアインシュタインの考え方は、森田理論と同じです。森田理論の基本的考え方は、人間は大脳が高度に発達して、観念優先で事実を無視ないし軽視する傾向があるという。「・・・であるべきである」「・・・であってはいけない」という「かくあるべし」を自分、他人、自然に押し付けている。その結果、観念と事実の間には大きな溝が生まれている。その溝を埋めるために、観念を事実に合わせるという人は少ない。反対に事実を観念の世界に無理やり引き上げようとしている人は多い。そして葛藤や苦悩を抱えて苦しんでいる。事実の世界を第一優先順位にして、観念の世界は補助的に活用するというやり方に変える必要があるのではないか。森田先生の唱えられた「事実唯真」という言葉は、観念優先の態度から事実優先の態度に180度転換することを目指しています。そこでは人の話を鵜呑みにしたり、世間の常識や世論をそのまま信用したりすることはなくなります。また常識、先入観、決めつけ、早合点で将来の行動を選択することもなくなります。ある程度予想できることでも、今一度自ら足を運び、自分の目で確かめる。観察を徹底し、よく分からなければ、実験をして真相を確かめることになります。事実を正確につかむことができると、高い確率で正しい行動を選択できるようになります。森田理論学習での「事実唯真」の考え方は普遍的な真理だと思います。
2022.11.21
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人間は誰でも、ミスや失敗や失言をします。挑戦することに恐れをなして、逃げてしまったこともあるでしょう。自己中心で思いやりの欠けた態度をとってしまうこともあります。神経質性格に生まれたことを後悔する人もいます。紛争や戦争の絶えない国に生まれたことを後悔する人もいます。部下を育てることができなかった。グループのリーダーとしての職責を果たすことができなかった。他人を事故に巻き込んでしまった。適切な助言ができなくて、他人を窮地に追い込んでしまった。親に反発ばかりして冷たい態度をとってしまった。子どもをきちんと育てることができなかった。配偶者と喧嘩ばかりで、楽しい思い出がない。身体の疾患を抱えて、治療ばかりに明け暮れた人生だった。貧乏でその日食べていくのがやっとの人生だった。特に歳をとるとそれらが蓄積されて悪夢としてうなされることもあります。もう一度やり直すわけにはいかないだろうかと考えることもあります。これらの後悔は不安と同じように不快なものです。イヤなものですから、できたら自分の記憶から消してしまいたい。この態度は上から下目線で、自分の過去の不祥事を非難・否定している態度だと思います。観念中心で自分に「かくあるべし」を押し付けているので苦しくなっているのです。後悔することをそのように考えて、敵対していると、自分の人生は益々散々なものになるのではないでしょうか。反対に過去のミスや失敗や失言を、自分を成長させてくれる食料のようなものだと考えるのは如何でしょうか。あるいは勲章のようなものだと考えるのです。後悔の数が多ければ多いほど、たくさんの勲章をいただいたと考えるのです。それらは次の行動に移る時に、注意して行動をしなければいけませんよと教えてくれています。後悔を次に活かすことができれば、それは宝物に変わります。例えば、ワンクリック詐欺があります。あるいは、現在通販のクレジット決済の口座が停止されています。至急更新してくださいというメールが毎日のように届いています。現在すべて迷惑メールに隔離するようにしています。私は最初まんまとこの悪質メールに引っ掛かってしまいました。一晩のうちに多額の決済がされていました。クレジット会社が早めに気づいてくれて、支払いを停止してくれたために難を逃れることが出来ました。それがなかったら預金はすべて持ち出されていたことでしょう。後悔してもしきれないということになります。この経験が元になって現在どんどん送り付けられる悪質メールに引っ掛かることはありません。小さなミスや失敗の経験は、大きな後悔を防止する役割を果してくれていたということになります。エジソンは電灯のフィラメントを開発するのに5000回も失敗をくり返したといいます。最後は京都から取り寄せた竹で成功したと聞きました。もしエジソンが失敗だらけの試験の途中で自己嫌悪、自己否定で投げやりになっていたらどうでしょうか。失敗を次に活かすことができなくなりますので、永遠に成功することはなかったでしょう。失意の人生で幕引きとなっていた可能性が高い。後悔を嘆く必要は全く無いのです。自分に与えられた勲章なのですから。人生を楽しく彩ってくれたイルミネーションだととらえるようにすれば、悪夢でうなされることは避けられるようになります。ミスや失敗は自分を否定するために使ってはいけません。次の局面の参考材料として活用するという姿勢が大切になると思います。沢山の小さな失敗は、将来成功の基になると考えていれば、いくら失敗しても構わないはずです。そういう経験は貴重な宝物になるはずです。今まで順風満帆できて、初めての失敗が人生を左右するような重大な局面だったという人は悲惨なことになると思います。それこそ後悔してもしきれないということになります。ミスや失敗だらけの自分を、貴重な経験ができて、今の自分があると考えるようにしたいものです。
2022.10.22
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昨日の続きです。私たちが行動する時は、蓄積されたエピソード記憶を引き出してきて検討している。そのエピソード記憶は、8割くらいは、うまくいかなかった、失敗して恥をかいた、後悔した体験で占められている。そういう悲観的、ネガティブな記憶をもとにして検討しているために、「ダメだ」「無理だ」「難しい」「できない」「どうせまた失敗する」「恥をかくだけだ」などと結論づけて、前向きな行動を回避している。行動しないで、傍観する態度では、生きがいとは無縁な生活に甘んじることになります。ではどうすればよいのか。これは私たちの思考には「認知のバイアス」がかかっているということです。つまりバランスが悪い。片寄より(偏り)があるということです。これをしっかりと認めて行動することが大切になります。人間は何もしないとネガティブな長期記憶に振り回されるということです。これが認識できれば、今後の対策が立てられます。これは、裏を返せば、人間には成功や達成や喜びの体験もたくさんあるのですが、長期記憶として固定されていないのです。そこで、生まれてから今までの沢山の体験の中から、成功体験を思い出して書き出し、整理して固定化することが大切になります。誰でも成功体験はあると思います。ところがきちんと保存されていないので、記憶として引き出すことができない。2021年11月27日にソフトバンクの孫正義さんのエピソードを紹介しました。福岡でアルバイト社員2人を雇い会社を立ち上げました。そのときにみかん箱の上で、将来はこの会社を世界一の会社にしてみせると挨拶されたそうです。普通に見ると、誇大妄想のような発言ですが、アメリカにわたり数々の成功体験を積み重ねていたことがその根拠になっていたということでした。もし成功体験をしっかり意識していなかったとしたら、絵に描いた餅になっていたことでしょう。私の場合もささやかながら成功体験を持っています。いくつもの国家試験に合格したこと、トライアスロンで完走できたこと、集談会でのいろいろなイベントを成功させたこと、心の健康セミナーを成功させたこと、会社の移転のプロジェクトを成功させたこと、老人ホームでの慰問活動を続けていること、いろいろな一人一芸を身につけたこと、家庭菜園で立派な野菜を作れるようになったこと、福助(大菊作り)で大輪の花を咲かせたことなどです。つぎに私たちは、雑多な社会体験が少なく、そもそも成功体験を積み重ねていないことが考えられます。この場合は今からでも遅くはありません。日常生活の中で小さな成功体験を積み重ねていくことが大切です。それを日記などに書き留めていく。そして小さな自信をつけていくことです。小さな自信に支えられて、自己肯定感が獲得できることを信じる事です。集談会に参加している人でしたら、幹事や世話役になって運営に参加することで、いくらでも成功体験を増やすことができます。エピソード記憶にはバイアスがかかっているので、普通に考えると積極的で前向きな方向には向かわないことを意識してもらいたいと思います。特に神経質性格者の場合は、石橋を叩いても渡らない傾向がありますので要注意です。この点に関しては、2021年12月22日に投稿したネガティビティ・バイアスも参照してください。
2022.05.31
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柏木哲夫医師はホスピスで多くの患者さんを看取られました。その中で、多くの庶民を看取られたそうだ。庶民というのは、言い換えれば「普通の人」である。「普通の人の死」は素晴らしいと言われる。それはなぜなのか。いわゆる庶民と言われるような人々は、辛いことを何回も乗り越えてきている。言い換えると、庶民は「小さな死」の体験者なのである。小さな死というのは、例えば、手に入れようと思った何かが手に入らなかったりしたということです。失恋、失業、倒産、病気、仕事上の問題、家族の問題、会社の人間関係なども「小さな死」と考えれば、人間は「小さな死」をたくさん経験しながら、「本当の死」を迎えるのである。ずっとこの「小さな死」を体験してきた人、つまり「小さな死」で訓練を積んできた人は、自分にとって一番不都合な「大きな死」である「本当の死」をそれなりに受けいれられる。ところが、「小さな死」を体験したことがない人は、「大きな死」も受け入れにくい。実に困ったことになる。ずっとエリートコースを生きてきた上場企業の企画部長さんを看取ったことがあるが、大変だった。行きたい学校へ行き、地位と名誉と財産を築きながらも、初めてうまくいかなかったのが、自分の命が57歳くらいの若さで亡くなるということだったのです。普通の人も死を受けいれることは大変ですが、挫折の経験がほとんどない人は、それ以上に大変なことになるのです。(人生の実力 柏木哲夫 幻冬舎)小さな挫折を数多く味わいながら、それでもなんとか65歳以上まで生きた人は、合格点がもらえる人生だと聞いたことがありますがまさにその通りだと思います。私は神経症で言葉では言い表せないほどの苦しみを味わってきたのですが、その体験は今振り返ると決して悪いことばかりではなかったと思います。神経症で苦しんだおかげで森田理論に出会うことができました。森田理論学習は神経症から解放させてくれたばかりでなく、神経質者の生き方を教えてくれました。これは望外の喜びをもたらせてくれました。そして、森田の魅力をブログを通じて発信するという生きがいも授けてくれました。森田理論学習が私の人生を実りあるものにしてくれたのです。神経症には、薬物療法、認知行動療法をはじめ様々な精神療法があります。森田療法にたどり着く前にいろんな療法を漁りました。その過程で運よく森田療法に出会うことができました。不思議な縁があったとしか言えません。神経症は森田理論に引き合わせるきっかけ作りだったのでしょうか。しかし最初の頃は、それが素晴らしい宝物だとは気が付きませんでした。生活の発見会の集談会で世話活動を続けながら、森田の原石を磨いているうちにいつの間にか光り輝く宝石に変化してきたように思います。今考えると神様が私には神経症という難問を出されたように思います。その難問をなんとか解いてみようとしているうちに、人生の視界が大きく開けてきたという気持ちがしています。神経症という挫折は私にとっては人生最大の福音でした。
2022.05.09
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私のところには、明らかに詐欺のようなメールが毎日届きます。Amazonや楽天やメルカリ、ETC、銀行やクレジットカードを装ったようなメールです。妻のスマホには、偽の宅配業者を語ったメールが届いています。私は以前うかつにもAmazonを装った詐欺に引っ掛かり、大変な目に遭いました。現在は怖くてAmazonではクレジット決済することはありません。コンビニ支払いか手数料がかかっても代引きにしています。現在この手のメールは迷惑メールに振り分けるようにしています。そのままにしておくと14日すれば自動で削除されます。それにしても、新手の詐欺メールがどんどん増えています。油断しているとまんまと引っかかってしまいます。詐欺メール業者の手口は、だいたい決まっています。現在あなたの登録情報、アカウントに問題があり使用できない状況です。至急更新をお願いします。普通はそのような状態が続くと困ります。何とか使えるようにしたいと思う。ここが落とし穴なのですが、詐欺にあったことのない人は気づきません。詐欺業者はここにあるURLをクリックして登録の変更をしてくださいと指示する。そこにアクセスして指示された個人情報などを書き込むと一巻の終わりです。その日の夜中にクレジットカードから現金が引き落とされてしまいます。頭が混乱している時に行われるのでどうしようもありません。これはオレオレ詐欺とよく似ています。滅多に会わない孫を装った人から、不祥事を起こしたので、現金が必要になった。何とか助けてほしいと電話がある。子どもには厳しい親なのに、孫のことになると、目に入れてもいたくないという人が多い。何とか力になってやりたいと思う。現金で済むことならとつい詐欺話に乗ってしまう。騙された人は、まさか私がそんな詐欺話に騙されてしまうことはないと思っている。まだそんなにもうろくはしていないという。いざとなると気が動転してまんまと詐欺に引っ掛かってしまうのか現実なのです。クレジットカードで始末に悪いのは、個人情報が拡散されてしまうことです。詐欺の場合はクレジットカードをすぐに使用不能にするしか手がありません。クレジット会社も悪徳詐欺業者はある程度は把握しているようです。次の日に電話がかかって来て、クレジットカードの不正使用が確認されると、なんとか引き落としは防ぐことができます。しかし、日ごろから不審な電話は出ないことにしていると、かなり厄介なことになります。もしその間隙をぬって引き落とされることがあると、気づかないうちにすべて持って行かれます。全てを抜き取られて決済されると後の祭りです。不安や恐怖に振り回されやすい神経質者は特に注意が必要です。これは悪徳新興宗教の洗脳手法と同じようなものです。食事制限をする。狭い部屋に何日も隔離する。厳しい修行をさせる。家族から引き離す。日常生活の楽しみを根こそぎ奪う。孤独に追い込んで、楽しみや生きがいは新興宗教と教祖様だけという状態に追い込んでいく。そのやり方で精神的なダメージを与えておいて教祖様が救いに入る。そして時々教祖様からご褒美をいただく。次第にのめりこんで、財産のすべて奪い取られ、教団に奉仕することで自分は救われるという気持ちになってしまう。普通に考えると異常なことですが、それが正しい選択だと思ってしまうのが怖いところです。日々症状と格闘していると、生活の中に潜んでいる危険やリスクには疎くなります。ウクライナ問題などは対岸の火事でその原因に関心を寄せることもなくなります。森田理論学習の中で、あらゆるところにアンテナを張り、精神を緊張状態に保つ生活が大切であると学びました。こういう話が集談会の中で共有されることも必要だと思っております。
2022.03.07
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岡田尊司さんがよくありがちな「認識の誤り」5つを紹介されている。(ストレスと適応障害 岡田尊司 幻冬舎新書 85ページ参照)これをもとにして、神経質者の認知の誤りについて考えてみたい。1、自己否定どんなに優れた長所を持っていても、自分の欠点に注意を向けて、自分を否定的に見ている。それが思い込みだということに全く気づかず、本当のことだと固く信じている。自己否定を抱いている人は、そこからさらに否定的な思考に広がっていく。自分は無価値なので、誰からも愛されない。誰も自分なんか助けてくれない。自分がいても迷惑をかけるだけだ。そう思い込むことによって、結果的に行動が萎縮し、実際に否定的な結果しか生み出せず、自己否定を裏づけてしまうことになる。2、完璧主義完璧主義は「かくあるべし」と結びついている。完璧であるうちはよいが、少しでも問題点があると、そこに注意を集中して、批判や否定をしてしまう。できている点や問題がない点は、当たり前であるので評価に値しないと考える。完璧主義は、白か黒、全か無かで物事を判断してしまう。二分法的思考である。90%問題がなくても、10%の問題点があれば、すべてがダメだと決めつけてしまう。加点主義ではなく、減点主義の考え方になり、苦悩でのたうち回るようになる。どこまで行っても自己肯定観に繋がらない。他人とは敵対するので人間関係が悪化する。3、自己無力感と依存的思考自分一人では何もできないし、何も決められないと思い込んでいる。実際には行動すればできることも多いのだが、いつもしり込みしてしまう。それよりも誰かに指示され、それに従った方が気が楽だという気持ちが強い。自分が主体性を発揮して、自ら責任を持つ方が人間本来の生き方であるが、そういう気持ちは毛頭ない。その方が安全・安心だと思っているが、自分の人生に積極的にかかわらないので、自分の人生を生きているという感じがしない。特に生の欲望が強い神経質者の場合は深刻である。森田でいう運命を切り開くというイメージから外れている。4、過度な一般化と過剰反応森田でいうところの劣等感的投射、部分的弱点の絶対視に近い考え方のことである。ちなみに劣等感的投射とは、自分が自分の欠点や弱点を気にしている時、他人も同じように自分の欠点や弱点に対して重大な関心をもっていて、自分に対して反感、軽蔑、嫌悪の気持ちを抱いているに違いないと思い込むこと。実際には、他人は自分のことで精一杯で、他人のことは関心の度合いが極めて薄いことが多い。部分的弱点の絶対視とは、自分が抱いている弱点や欠点を、自分の一生を左右するような決して見逃すことのできない一大事とみなして取り扱うこと。誰でも持っているような小さな不安がすぐに、会社に残るか退職するか、あるいは生死に直結するかのような大問題として取り扱う。5、混同思考(自分と他者/事実と感情の混同)自分が考えていること、自分の気持ち、自分の欲求は、他人もほぼ一致していると信じてしまうこと。このような認識の誤りを持っていると、相手の話に耳を傾けなくなる。自分の「かくあるべし」を強引に押し付けてしまう。相手が間違った言動をとった場合は、非難や否定をする。人間関係が対立的になり、しだいに孤立するようになる。観念優勢になり、観念で事実をねじ伏せようとする。すると頭で考えたことと事実、現実、現状の間に乖離が出てくる。それらがお互いに自己主張を始めると、森田では「思想の矛盾」で苦しむようになるという。森田では、事実唯真、事実本位の立場です。「かくあるべし」を抑えて、事実優先の立場に立つことができると、対立、乖離、溝が解消されるので、それだけで葛藤や苦悩が少なくなるといわれている。認知療法では、うつ病の人は事実に基づかない思い込みが激しいといわれている。これらの5つの認識の誤りは、認知療法や森田理論学習によって修正できます。今までの森田理論学習では、認知の誤りは大きく取り上げられているわけではありませんが、一つの学習単元として取り上げるべき内容が含まれています。自己肯定感の養成、観念優先の態度を事実優先の生活態度に変更することの意味が理解できると肩の力が抜けて楽な生き方ができるようになります。
2022.02.04
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みなさん、次のように思い詰めてしまうことはありませんか。職場で何か小さなトラブルがあった時、それがあっという間に、いっそのこと会社を辞めてしまいたいと思い詰める。友だちと言い争いになった時、すぐに絶交だと思い詰めてしまう。結婚を前提として交際中に、言い争いが発生すると、すぐに婚約解消を考えてしまう。夫婦であれば、性格不一致だと判断すれば、すぐに離婚に踏み切ろうとする。子どもが親に反抗的な態度をとると、「今後は親子の縁をきる」などと口走ってしまう。友人でいえば、付き合って得になると思えば、べったりと引っ付き、役に立たないと思えば全く寄り付かなくなる。自分でいえば、一つでも欠点や弱みがあると、自分はすべてダメで、生きている価値や資格がないと考えてしまう。周りの人は気にしていないのに、弱みや欠点、失敗やミスがすぐに自分の一生を左右する一大事に膨れ上がってしまう。こういう考え方をする人は、二分割的思考、二極化思考に陥っている人です。物事を白か黒、0か100、全か無、善か悪、デジタル思考といった見方をする人です。完全欲が強い人の特徴として説明している人もいます。極端にどちらかに自分の態度を決めつけてしまう。中間という考えがないのです。物事には、例えば白と黒の間には無限のグレー部分が存在しているのですが、それを受けいれることができない。完全主義に凝り固まっていて、ほどほどのところで妥協する、相手に譲るという考え方をとることができない。自分がどちらかに態度を決めてしまい、それ以外の立場や考え方は一切受け入れないというかたくなな意地を押し通そうとしているのです。こういう態度の人は、自分自身や相手と常に摩擦を起こします。そしていきなり感情的になって、極端で破滅的な行動に走ってしまいます。後悔しても、後の祭りという最悪の結果で苦しみます。このやり方はどうしたら改善できるのでしょうか。この方法を採用している人は、森田の両面観の見方ができない人です。次に、自分の見方・考え方を自分や相手に押し付けて、意のままにコントロールしようとしています。強力な「かくあるべし」を押し付けようとしているのです。小さなミスや人間関係のトラブルで、すぐに会社を辞めようと考えている人は、両面観の思考方法を身につけることが大切です。辞めれば小さなミスや人間関係のトラブルは確かに帳消しになるかもしれません。一旦は精神的にも楽になります。でも退職すれば生活のために新たな就職先を探さないといけません。今の社会状況では、職を探すのは難しいです。たとえ見つかっても、今よりも収入が下がることが予想されます。では独立開業しますか。資金や資格や特技がない場合はこれも難しい。自己都合の退職では、失業手当は3ヶ月の待機期間があり、しかもわずかしか出ません。その間の生活費はどうするのですか。家族の生活はどうして守るのですか。また、退職したからと言って、住民税、国民年金、国民健康保険料は免除されません。年収が多い人ほど、これが家計費を圧迫するのです。これらのことを考えたうえで、確かな裏付けを持って退職するならまだ救いがあります。基本的にこの問題は、自分一人では解決してはいけない問題だと思います。でも現実問題として、両面観の考えができない人は、配偶者、両親、親しい人、カウンセラー、集談会の仲間の意見を聞いてみることです。二分割的思考が身についている人は、両面観の思考ができない人なので、人生の重要な決定は単独で行ってはいけません。後で必ず後悔します。次に、自分で考えたことを、思うがままにコントロールしたいという気持ちが強いという問題があります。「かくあるべし」を自分にも、他人にも押し付けてしまうのです。その弊害は森田理論で十分に学習されたと思います。観念で考えたことと現実、現状、事実の間には大きな溝があります。それを観念主導で、事実を変更しようとするのは無理があります。また事実を観念の世界に引き上げようとすると、摩擦が発生します。それよりも、どんなに理不尽で受け入れがたいと思っている事実に寄り添っていく方が、葛藤や苦悩が遠のいていくという真実があります。ここまでは森田理論で理解されている人が多いと思います。でも事実本位の態度がなかなか身につかないという段階で、足踏みされている人が多いのでないかと思っております。これはすぐに切り替えることは難しいです。その手がかりは昨年7月11日から22日に「観念中心の態度を事実優先の生活に切り替えるために」と題して詳しく解説しましたのでご参照ください。1年ぐらいの期間で取り組めば大いに改善できると思います。二分割的思考は、摩擦と苦悩をもたらし、後で取り返しのできない事態をもたらします。これを改善するには、森田理論を学習して応用していくことが大事になります。
2022.01.28
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ネガティビィティ・バイアスという言葉はあまり聞いたことがないと思います。今日はこの言葉と脳の関係について説明してみたいと思います。人間の脳は、ポジティブな成功体験よりも、ネガティブで悲観的な記憶の方をより多くため込んでいるそうです。その比率は2対8くらいになると聞いたことがあります。それは極端としても、ネガティブな長期記憶には、より多くのバイアスがかかっているのです。つまり、長期記憶として蓄積しているものの大半は、過去のミスや失敗、危険な目に遭ったこと、虫けらのように扱われたこと、苦しかったこと、恥をかいたこと、悲しかったこと、後悔したことが圧倒的に多いということです。たとえば、歳を取って、寝ている時に、親不孝をした、離婚した、子育てに失敗した、親しい人が亡くなった、倒産した、リストラされた、大きな不祥事を起こした、災害に巻き込まれたなどの記憶が次々に思い出されてうなされてしまうということがあります。反対に成功したことや楽しい思い出は夢には出てきません。これは太古の昔、他の肉食獣との戦いに明け暮れていた名残が今に至っても残っているということです。絶えず警戒していないと、命があっけなく途絶えていたのですから無理もありません。ですから、人間という生き物は、ネガティブで悲観的な記憶との親和性が高いのです。現代の日本では、安全性はある程度確保されていますので、それが前面に出てきて、行動が抑制されているというのが問題になります。森田理論の中に精神拮抗作用というのがあります。欲望や欲求、夢や希望が湧き上がった時に、不安や恐怖が自然に湧き上がってくるというものです。ネガティビィティ・バイアスの存在は実に厄介ということになります。行動を起こす時には、過去の長期記憶を引っ張り出してきます。それをもとにして頭の中で成功確率をシュミレーションしているのです。そのときに、過去の成功体験が長期記憶として残っていれば、「よし、今度も大丈夫だ」「思い切って挑戦してみよう」という気持ちになりやすいのです。しかし長期記憶の多くが失敗体験に埋め尽くされているとすると、「どうせだめだ」「無理に決まっている」「もう二度と失敗は繰り返したくない」「能力も才能もない」などという気持ちになってしまうのです。本音の世界では、完全に腰が引けているということになります。脳の仕組みでいうと、積極的、生産的、創造的な報酬系神経回路が休眠状態になります。そして内向きで、消極的、消費的、刹那的快楽を追い求める防衛的神経回路が活性化してきます。この状態で自分や他人がいくら叱咤激励して奮い立たせようとしても無理です。本音の部分がお尻をまくって一目散に逃げようとしているのですから効果はありません。ではあきらめるしかないのか。一つだけ明るい提案があります。私たちには誰でも、成功体験は数多く持っています。それを幼少期から時代を区切って調べてみることです。この手法は内観法のやり方とよく似ています。内観法は、対象ごとに、「していただいたこと」「してさし上げたこと」「御迷惑をかけたこと」をできるだけ思い出すようにします。それを1週間くらい続けていると自然と感謝の念が湧き上がってきて、涙が止まらなくなるのです。これを応用してみる手があります。ネガティブな長期記憶にバイアスがかかっていて、行動を抑制しているのならば、あえて成功体験を思い出して整理することが有効なのではないかと考えたのです。明日は私の体験で、成功体験を振り返ってみたいと思います。
2021.12.22
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今日は森田理論でいわれている「幼弱性」について考えてみたいと思います。大人なのに、赤ちゃんのような振る舞いをするということです。これは自分では、その意識が希薄ですが、他人があの人は箸にも棒に掛からない人だと思っているわけです。一旦そうみなされると、要警戒人物として周りの人に知れ渡り、しだいに孤立してゆきます。ストレスがたまり、それを解放するためにさらに幼弱性に拍車がかかります。幼弱性の強い人は、仲間内から毛嫌いされますので、社会的には死んだも同然です。幼弱性の全くない人は、可愛げもなく、近寄りがたい人になりますが、これも程度問題だと思われます。森田理論でいう「幼弱性」とは、観念的、依存的、自己中心的のことだと言われています。観念的とは、観念や思考を優先する態度です。自分の考えに固執する人のことです。自分の意見、気持ち、主張、要望を相手に押し付けることです。他人だけではなく自分自身にも押し付けてしまいます。観念的の反対は、事実本位です。事実、現実、現状のことです。この二つの関係ですが、本来は事実本位が主導権を発揮して、理知の力を補助的に使い、バランスを維持しなから、生活すれば問題は起きません。ところが、幼弱性の強い人は、観念最優先で、事実、現実、現状は眼中にないという状態です。観念優先で、事実を観察しようという気持ちが希薄です。観念の世界で、事実はいくらでも修正可能だと考えているのです。これでは、森田でいう思想の矛盾で葛藤や苦悩を抱えてのたうち回るのは自業自得となります。依存性とは、本来自分ですべきことを放棄して親や他人に肩代わりしてもらうことが習慣化している人のことです。たとえば3度の食事を用意することは、人間としてあたりまえのことです。献立を考える。買い出しに行く。下ごしらえをする。料理を作る。家族で食卓を囲む。食べ終わったら後片づけをする。ゴミ出しをする。自家用野菜をつくる。加工食品を作る。デザートをつくる。これが面倒だといって、外食に頼る。デリバリーを利用する。ファーストフードで済ます。いつもスーパーの惣菜に頼る。食材の宅配を利用する。これが習慣化すると、栄養のバランスが崩れて、健康の維持は難しくなります。さらに問題なのは、日々の課題を無視することによって、暇を持て余すようになります。その隙間を刹那的、享楽的、刺激的な娯楽で埋めようとするようになります。生きがいとは無縁な生活になります。依存体質の強い人は、無為の人生と親和性があります。依存の反対は自立です。基本的に自分のことは自分でするということです。経済的に余裕があろうがなかろうが、自分のやるべきことは自分ですることが大切です。「凡事徹底」という言葉がありますが、そのような心掛けで生活している人が、人生を謳歌しているのです。自己中心的とは、自分さえよければ他人がどんなに悲惨な状態になろうが意に介さないという態度のことです。人間は長生きして子孫を残したいという動植物の命をいただいて、延命を図っている生き物です。つまりある程度、自己中心的でない人は、生き延びることはできません。ですから自己中心を否定するわけではありませんが、その欲望が暴走してしまうことは大きな問題です。人類史は欲望の暴走の繰り返しだったと言っても過言ではありません。自己中心の反対は何でしようか。私は、森田理論でいう「物の性を尽くす」をあげたいと思います。他人、他の動物、植物に至るまで、自分の能力を最大限に活用して、生き尽くしたいという気持ちを持っています。その気持ちを汲んで、相手に寄り添う気持ちが大切になると思います。自分の私利私欲を前面に打ち出して、相手を虫けらのように取り扱うことは慎むことだと思います。2つの関係でいうと、まず「物の性を尽くす」ことを最優先することだと思います。自己中心性は、誰でもその方向に流されてしまいますので、この際抑制するくらいの気持ちで取り扱うのです。そうなりますと、お互いの人間関係、自然との付き合い方が好循環を始めると思います。現実は自己中心性が独り歩きし、しかも暴走気味なのでとても友好な関係にはなれないのです。このような生き方で一生を終わることは、いづれ後悔することになると思います。
2021.09.13
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森田先生の言葉です。「世の中に我というもの捨てて見よ、天地万物すべて我がもの」この「我を捨てる」ということはどういう意味があるのか、またどうすれば我を捨てることができるか、なかなか難しい。ちょっと思い違えると、途方もない事になり、野狐禅などにもなるのである。世間では、「我を捨てる」ということを、他人の物をうらやみ・我物を惜しむとかいうような、他と我との区別をやめるとか、あるいは惜しや・欲しやとかいう我欲を捨てる事かという風に解釈しがちである。しかし、それは人間本来の感情であるから、それを否定することは不可能である。これを抑制したり・捨てたりする事も、当然なかなか難しい事に相違ない。(森田全集 第5巻 660ページから661ページ)私も森田先生と同意見である。「我」というのは、「欲望」と置き換えてもよいかと思う。欲望を持たないと生命体として生き続けていくことはできない。それは身体面、精神面の健康維持にとって大切なものになります。身体面では、他の生命体の命をいただいて、自分の命を延命させているのが実態です。他の生命体の命を無理やり奪うというのは、自己中心の塊のように見えるが、それが生きとし生けるものの宿命である。そんなことは忍びないので、一切食べる事を拒否するいう風に考えて実行した瞬間に命は絶えてしまう。むごいようだが人間は宿命に従って生きていくしかない。そうしないとむしろ自分の命を粗末に扱っているということになる。せっかくいただいた命を大切にしていくことが人間の宿命である。自己中心的な面を抑圧している人は、人間に与えられている課題を放棄しているともいえる。それを「我」「欲望」というのなら、謙虚な気持ちで素直に従うしかない。さて、欲望というものは、先ず本能的な欲望が存在する。でもそれはごく一部である。それ以外の欲望も大切なものである。人間は、目にするもの、行動したことに対して、気づきや発見、問題点や課題、改善点や改良点を見つけ出したときに目標、やりがい、生きがいを見つけだす。それを見つけだして、熟慮を重ねて、実行に移すことが人生の醍醐味となる。このことを森田理論では、「努力即幸福」という。それが精神面、身体面の健康維持に役立っていることを忘れてはならないと思う。森田先生も欲望のない人は哀れであると言われていたように記憶している。欲望の存在は、人間が活き活きと生活するうえでなくてはならないものである。しかし、欲望の持つ特徴として、絶えず暴走の危険にさらされているということである。人類の歴史は、悲惨な差別、紛争、戦争の繰り返しであった。力や財力で勝った人や国家が、それらを持たない人や国家、あるいは動植物や自然を力でねじ伏せ、征服して奪い取るという歴史を繰り返してきた。欲望はむやみに暴走させてはいけない。理性を持って抑制する必要がある。森田先生は精神拮抗作用の説明の中で、人間にはある欲望が発生すると、その欲望の暴発を防止する考えも同時に湧き上がるように作られていると述べておられます。その役割を認識して、調和を求めて行動することが肝心であると言われています。自動車でいえばアクセルを踏み込まないと前進しない。前進しないと行きたいところに行けない。これを人間でいえば、まず行動するということが大切だということです。しかしいったん行動を開始したら、ブレーキを臨機応変に活用して、そのスピードをコントロールしていくことが肝心です。ブレーキの壊れた自動車は大変危険です。欲望を前面に打ち出しながら、欲望に合わせて自然発動する不安や恐怖を活かしてバランスをとっていくことが肝心なのです。まとめると、「我」は捨ててはいけない。また捨てられるものでもない。「我」「欲望」は貪欲に追い求めるに越したことはない。しかしそれらを野放しにして暴走させはいけない。人間の創造主は、欲望が暴走しないような仕組み(精神拮抗作用)を人間にあらかじめ持たせているわけですから、そのことの意味を今一度再確認して、調和を目指した生き方を目指すことが肝心になるわけです。
2021.06.08
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「自己実現的予言」という言葉を聞かれたことがあるでしょうか。三橋貴明さんは次のように説明されています。先入観、思い込み、決めつけ、人の話を鵜呑みにする、流言飛語、「かくあるべし」などによって、事実とはかけ離れたことを、間違いない事実として信じ込んで、対応してしまうと大問題が起きてしまうというものです。その間違った認識に基づいて行動を開始した結果、間違って信じていたことが、現実のもとになって目の前に現れてくる。実に恐ろしいことが起きる。その時は多くの人がパニックになって混乱してしまうのです。たとえば、2020年のコロナ禍初期に「トイレットペーパー不足」が起きました。国内で流通しているトイレットペーパーは、97%が国産であり、外国との交易が途絶しても、品切れになることはなかったのです。それにもかかわらず、人々が買いだめに走り、運送サービスの「供給能力の限界」により、品切れ状態が起きたのです。「トイレットペーパーが無くなる」という、誤った状況認識により、多くの日本国民が買いだめに走り、結果的に本当に店頭からトイレットペーパーが消滅してしまったのである。私たちは森田理論学習によって、事実こそが真実であると学びました。事実に基づかないで、安易に、先入観、思い込み、決めつけ、人の話を鵜呑みにする、流言飛語、「かくあるべし」などを優先してしまう態度は、その後の展開を間違った方向に誘導してしまう。九州に行こうとして、東北新幹線に乗ってしまったような様なことになります。100%間違いないと思っても、念のためにこの目で確かめてみる。現地に飛んで行って事実の裏付けをとる。あるいは、両面観を応用して、あえて反対の立場から検討してみる。このようにして、できるだけ真実に近づこうとする態度を堅持する。この態度は森田理論の核心部分だと思います。そこで事実を正確に見極めると、間違いのない問題解決や目指すべき目標が明確になるのです。先入観などに基づいて行動した場合と比べると雲泥の差がついてきます。そういう態度で取り組んでも、真実には届かないかもしれません。何しろ真実を知られると困るという人は真実は知らせない。隠すわけです。捻じ曲げられた真実をニュースとして流して、世論を操作する。アメリカの大統領選挙ではそれが堂々と行われました。とても見苦しい光景が全世界に知れ渡りました。こういう操作が頻繁に行われていて、真実を知るという国民の権利が侵害されているのです。私たちは、国際情勢、政治、経済、外交、歴史につしても、真実を求めて行動していかないと、将来に禍根を残すことになると思います。子孫に対して問題を先送りすることになります。また国会で法律を成立させるときは、あえて反対意見を述べている人の話に耳を傾けてみる必要があると思います。数の論理で法律をすんなりと通すことは問題です。ショックドクトリンに乗じて、十分な議論がなされないまま、悪法が可決されることは忍びないことです。反対意見が一つもでないような法案は、議論が尽くされていないわけですから、廃案にすべきではないでしょうか。
2021.05.29
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ロバート・マートンという社会学者が、「予言の自己実現」という話をしている。最初の誤った考え方や予想に基づいて、実践や行動をすると、結果的に最初の誤った考え方や予想通りのことが現実の世界で引き起こされてしまう。何の説明をしているのか、具体例を挙げてみよう。今回の新型コロナウィルスの影響で、一時的に店頭からトイレットペーパーや紙オムツなどが消えました。食料の大量買いをする人もいました。後で分かったことですが、国内で流通しているトイレットペーパーは、97%が国産で、中国との貿易が途絶えても、品切れになることはありませんでした。それにもかかわらず、人々が買いだめに走り、品切れ状態になってしまいました。これは、「トイレットペーパーが無くなる」という誤った状況判断が拡散し、多くの人々が買いだめに走り、結果的に本当に店頭からトイレットペーパーが無くなった。品薄になるという事態が現実になったのです。テレビなどで大量買いしている人が映し出されると、つい自分もそれに影響を受けてしまうのです。商品の供給は問題がなかったにもかかわらず、流言飛語に振り回されたのです。このことを、森田先生は、森田全集第7巻の315ページから340ページに、「関東大震災時における流言飛語の心理」と題して詳しく説明されている。よくないうわさが町中を駆け巡り、人々が疑心暗鬼になり、右往左往している状況が詳細に書かれている。これを見ると、事実の確認の取れないものを、先入観や決めつけによって間違いのない事実として取り扱う事の弊害は計り知れないという事が分かる。ばかばかしい事なのですが、人間は事実とは反対の行動をとる生き物なのです。事実の取り扱いについて知りたい人はぜひ読んでみてもらいたい。「生の欲望」という本にも、一部分取り上げられています。事実を捏造して、それに基づいて行動をすると、事態は解決するどころか、ますます混迷の度を深めていく。他人の話をそのまま信じるのではなく、果たしてその話は間違いないのか事実の裏付けをとる態度が欠かせない。森田では「かくあるべし」を少なくして、事実に立脚した生活態度の養成をお勧めしています。その際事実を自分の目で観察する。自分で実験をして、間違いのない事実なのかを確認することから始める必要があります。事実の裏付けの取れないものは、安易に妄信してはならない。これだけのことを実行するだけで、「事実本位」の生活にかなり近づいていきます。
2020.06.28
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森田先生のお話です。私が患者を救済しようとする心は、ちょっと変形すると、容易に宗教的の気分になりやすい傾きがある。それ故に私は患者に対して、常にそうならないように防いで、患者をして、常に科学的に物を正しく見るようにする事を忘れないようにし、事実唯真をモットーとするように導くのである。(森田全集第5巻 208ページ)ここでいう宗教的とは如何なることを言うのだろうか。事実に裏付けされない観念の世界で作り上げたものを真理や理想として打ち立てて、多くの人に啓蒙し普及する活動のことだろうと考えます。真理や理想を生きるための指針とすると、不安定だった精神状態が、目指すべき方向性が定まり、安定してくる。いいことずくめのように思えるが、事実によって検証されていないので、真実かどうかは分からない。ただそれを真実だと思い込ませているのである。観念的なものを絶対的で普遍的なものとみなすことは大変危険である。観念と事実に乖離が起きる。観念で事実をコントロールしようとするので、自己否定、他人否定、現実否定が起きる。観念を優先して、事実を軽視する考え方をとってはならない。森田では観念よりは、事実を最優先する考え方なのである。森田先生は、森田理論が宗教的になってはならないといわれている。森田先生は、森田理論は科学的な裏付けをとる姿勢を忘れてはならないといわれる。演繹法ではなく、弁証法で発展させていく必要がある。森田療法の原型が完成したのは1919年といわれている。それまで森田先生は神経症の治療のためあらゆることをされた。催眠療法、精神分析、禅、神道、岡田式静座法、易占い、生活正規法、説得療法、遊戯療法、薬物療法などである。それらの多くは役に立たなかった。その失敗を基礎にして、森田理論は完成しているのである。また、森田先生は自ら不安神経症で苦しんでいた経験を持っておられたことが役に立っていた。こうしてみると、盲目的に森田理論を宗教的に崇め奉ることは問題だということになる。森田理論が果たして正しいのかどうか、実践や応用によって検証していく姿勢を持つことが大切である。・不安を持ったままなすべきことをなす。・「かくあるべし」を自分や他人に押し付けることをやめて、事実を素直に認めて受け入れる。この2つが森田理論の眼目もといえるが、これが神経症の克服に本当に役立つのかどうか、実際の生活の中で確かめてやろうという姿勢で取り組んでみてもらいたいものである。そうなったとき、森田理論は観念の世界から離れて、事実に裏打ちされた科学としての輝きを放つようになる。
2020.05.02
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高良武久先生は、認識の誤りについて次のように説明されている。対人恐怖症の人に「あなたは社交的か非社交的か」とテストをしてみると、私が見て普通にやっている人が非社交的のところに三重丸をつけたりしている。ところが面白いことに、統合失調症の人は、人と交渉することを極端に嫌うのに、必ず社交的であるというところに丸をつけているのです。どこから見ても非社交的な人たちなのです。このような認識のずれはどうして起きるのだろうか。対人恐怖症の人は、人から嫌われないために、他人の嫌がる言動は抑制しています。だから他人とは表面上険悪な関係にはなりにくい。それを第三者から見ると、その人は人間関係をぶち壊さないように配慮しているとみるのです。そういう人は、社交的か非社交的かと聞かれれば、社交的な方に分類するわけです。対人恐怖症の人は、自分の言動を、相手がどう受け取るかという事に意識が向いています。自分のことを批判、否定、無視、からかい、軽蔑されるようなことがあってはならない。そうなると仲間はずれにされて、社会から孤立してしまう。自分一人では生きていけないわけだから、死ぬしかないだろう。そうした状況は何とか避けなければならない。そのように判断して、自己主張を抑圧して、他人の言動に振り回されているのです。将棋でいえば、攻めることを忘れて、防御ばかりしているようなものです。勝利をつかみ取るという目的は、蚊帳の外になり、負けなければよしとする考え方です。ところが防御ばかりでは、いずれは敗北してしまいます。敗北したときに、自分の人生は一体何だったのだろうか。他人の言動に振り回されてばかりで、自分の人生を生きてこなかった。後悔することになります。その時点ではもう遅いのです。つまらない、味気ない、やるせない人生だった。人間に生まれてこなければよかった。神様から、もう一回人間に生まれ変わらせてあげようといわれたら、絶対にお断りしようと考えるようになります。もう二度とこんな思いはしたくない。防御することは、本来大事なことだと思います。それを無視すると足元を掬いかねません。しかし、専守防御よりも、もっと大事なことがあります。それは自分の人生を生き切るという事です。攻めの姿勢を持って生活するということです。日常茶飯事、自分の考えたこと、やりたいこと、問題点や課題、夢や希望に向かって努力するということです。自分が主人公になって主体的に生きるという事です。さらに自分の考えや気持ちは、相手に説明して打ち出していくことです。自己主張して自分中心に生きることです。そうなれば、他人とは対立するようになるでしょう。人間はもともとお互いに分かり合えない生き物だということを認識して、その溝を埋めていく生活態度が大事になります。妥協や合意を目指して努力するのが、まっとうな人間のやることです。夢や希望などを目指していると、必ず障害物が現れてきます。人の助けを得ながらでも、なんとか乗り越えていくしかないのです。努力しながら、力尽きたとしても、それはそれで立派に生きたといえると思います。それが人間に生まれた私たちの宿命だと思います。森田理論では、「生の欲望の発揮」がとても大事だといいます。森田理論の核となる考え方です。しかしそれを際限なしに追い求めることは戒めています。欲望と不安という単元では、欲望を第一に押し出しながらも、必ず不安を活用して、欲望の暴走を抑制する必要がある。つまり、調和やバランスを意識しない「生の欲望の発揮」は、いずれ自分と周囲の人を不幸のどん底に突き落としてしまうと教えてくれています。パラドックスのような話ですが、これが真理なのです。対人恐怖症の人は、「生の欲望の発揮」を第一に押し出していけば、しだいにバランスがとれてくるものと思います。他人への配慮はしつこいぐらいに身についていますから、この際無視していてもよい。それよりも「生の欲望の発揮」に邁進していくことに注力していく必要がある。そうしてバランスを取り戻していくのです。これが肝心です。そのために真っ先に取り組むことは、日常茶飯事に対して手を抜かないで、ものそのものになって取り組むということだと思っています。「凡事徹底」ということです。
2020.04.15
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形外会で立川さんという方が次のように発言されている。私も雑誌を読んでおりましたが、読むと入院当時の症状を思いだしてくるので、かえって悪いと思い、(雑誌の購読を)お断りいたしました。また倉田百三先生の「絶対的生活」という本を読むと、物が回るという事が書いてありますが、私も先ほどから(森田先生の名札を指しながら)この森田先生という字が何百回となく回転しています。これはまだ治っていないのでしょうか。これに答えて、森田先生曰く。然り、治っていないのです。しかし読まなければ治らない。それを治すのは何でもない事であります。(森田全集第5巻 151ページより引用)このような事例は集談会の中でよく聞きます。例えば、電車に乗れないという不安神経症の人の話を聞いているうちに、自分も電車に乗れなくなった。鼻の先が視界に入り気になって仕方がないという人の話を聞いているうちに、自分も気になりだした。髪の毛が少なくて悩んでいるという人の話を聞いているうちに、自分も気になりだした。私は、どもりで電話が取れなくて、仕事に支障があるという人の話を聞いているうちに、実際にどもりになってしまった。会社で電話に出れなくなった。意識や注意が電話にばかり向けられて、仕事の中身のことに向かなくなった。他人の神経症が伝染してくるのである。こんなことがあると、集談会に参加しない方がよかったと思う人が出てくるのは当然だ。集談会で自分とは違う症状で悩んでいる人がいて、それで刺激を受けて自分も同様にとらわれるようになったということだ。どうしてそんなことが起きるのか。我々はちょっとしたことに影響を受けて、意識や注意が固定しやすいという特徴を持っている。だから一つの症状が治れば、また別のことが気になりだして、別の症状と格闘することになりやすい。根治しないと、症状との格闘は、一生涯続いていくとみたほうがよい。神経症の症状は、火山の噴火によく似ている。火山の下には、大きなマグマだまりがある。それが地表の弱いところを見つけて、地上に出てきて、マグマを吹きだして開放する機会を狙っている。弱いところを見つけると、思っても見ない、あらゆるところから噴火が起きてくる。だから神経症になりやすい人は、森田百貨店という人もいるが、いろんなことにとらわれやすいという特徴を持っているのである。これを防ぐことは困難であると覚悟を決めたほうがよいのだ。これを治すには考え方の誤りを根本的に変えないといけない。とらわれやいという神経質の性格特徴を理解することである。とらわれやすいという特徴は神経症に陥りやすいという特徴も確かにある。ところがあらゆることにとらわれやすいことは、感性が豊かというプラスの面もある。高性能のレーダーやソナーを標準装備しているという認識を持つようにしたほうがよい。それを日常生活、仕事、他人への思いやり、芸術鑑賞、小説、音楽、絵画、書道などの創作活用に活用していく方向に進む。こう考えれば、何事にもとらわれやすいという事は自分の最大の長所であるという事がわかる。それは仲間同士で集まっての森田理論学習によって可能となる。神経症の成り立ち、感情の法則、神経質性格の特徴、認識の誤り、不安の役割、不安と欲望の相関関係、生の欲望の発揮、「かくあるべし」の弊害、事実本位の生き方、神経症が治るとはどういうことか、人間関係のありかたなどを森田理論に沿って理解する。そして生活面に応用して検証を積み重ねる。森田的な生活を続ける。それを積み重ねていくと、神経質性格者としての生き方が分かってくる。つまり人生観がまるっきり変わることによって、副次的に神経症が根こそぎ治るという状況が訪れるのです。他人の症状が移るのが恐ろしいと逃げ回っているようでは、自分が気にしている症状一つも治癒することはできないであろう。
2020.04.08
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「ケンタッキー・フライド・チキン」のカーネル・サンダース氏は元々レストランのオーナーでした。25年間にわたってレストランを経営していました。65歳の時、レストランのある国道から少し離れた場所に、新しいハイウェイができ客が激減しました。そしてついに倒産しました。そのレストランは競売にかけられ、店を失いました。それどころかすべての財産を失い破産寸前にまで追い詰められました。絶体絶命の立場に立っていたのです。こんな状況に追い込まれれば、誰でも自分の不幸な境遇を呪います。自殺を考えても不思議ではありません。ここでカーネル・サンダースは逆転の発想をしました。ここが普通の人とは違うところです。「店舗がない」ということは、「自由に動ける」ことだと考えたのです。店舗に縛られないので、自由に他の店舗に営業に行き、「フライドチキンのレシピを売る」商売へ転換したのです。レストランを経営しているだけだったら、その運営に忙殺されて、チキンのレシピを売る、という発想は思いつかなかったでしょう。この短所を長所に変える発想により、全世界で1万店舗を超える「ケンタッキー・フライドチキン」が誕生したのです。この方法はセブンイレブンを始められた鈴木敏文氏の発想法に似ています。店舗は自分では持たない。店舗はそれぞれのオーナーのものです。セブンイレブンは、販売手法に特化してそのノウハウを開発して販売しているにすぎません。もし、自分が自前で店舗を持ち、その店を増やしていくという手法ではすぐに行き詰るでしょう。店舗をもないで、店舗の運営、品ぞろえ、物流に特化するという自由な発想は従来にはありませんでした。店舗がないのに、どうして商売ができるのだという先入観で凝り固まっていたのです。短所を長所としてとらえる逆転の発想がどうしても必要になるのです。これはパソコンの販売を手掛けているデルも同じです。工場を持たない。販売網も持たない。そんな状態で成功した会社です。パソコンの基本設計を行い、それを格安で組み立ててくれる提携工場を世界中で探す。つまり製造はすべて外注に出しているのです。そして注文はインターネットで世界中から直接受ける。だから販売する店舗は要らないのです。そういう仕組みを作り上げたのです。だから格安のパソコンが出来上がってくる。従来は自前で工場を持ち、販売チャネルを整備して初めて商売が成り立つと考えられてきたのです。デルのような販売方法は、欠点を長所に変える逆転の発想です。今までのやり方で競争してみると、価格面で大きな差が生まれて、従来の強みは逆に足かせとなって経営の足を引っ張ることが分かりました。しかし、組織が大きすぎて今までのやり方をすぐに変更することはできない。つまり今まで最大の長所と考えられていたことが、逆に最大の短所になってしまう現象が起きたのです。短所と長所は、コインの裏表のような、すぐに入れ替わってしまうような関係にあるということを再認識していただきたいと思います。短所の陰にはきっと素晴らしい長所が隠れていると信じることです。カーネル・サンダースの営業は、最初からうまくいったわけではありません。カーネル・サンダースは、2年間、アメリカ中を回って営業活動をしましたが、全く契約は取れませんでした。断られた回数は連続1009回です。そして1010回目に初めて契約がとれました。普通はあきらめてしまうところですが、どん底を味わったカーネル・サンダースは背水の陣で決してあきらめなかったのだと言います。失敗についてエジソンは、「私は失敗したのではない。数千回、数万個もの成功できない方法を発見しただけのことだ」と言いました。失敗した方法とは別のやり方を考えて試作、実験を繰り返せば、最後には成功すると考えたのです。食いついたら決して離さないというすっぼんのような粘り強い営業が最後には勝利したのです。(人を動かす質問力 谷原誠 角川新書 参照)
2020.01.24
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このイラストはよく見かけますのでご存知の方も多いでしょう。初めて見る方にお尋ねします。後から見た若い女性に見えますか。それとも物悲しい表情のお婆さんに見えますか。私は最初若い女性に見えました。お婆さんに見えるなんて、目が悪いのではないかと思いました。お婆さんに見えるという人の説明を聞いて、「そういえばお婆さんに見える」と納得できました。若い女性のあごにあたる部分が、お婆さんの鼻にあたります。若い女性のネックレスがお婆さんの口にあたります。これは事実の見方に問題提起をしていると思います。いったん「こうだ。間違いない」と思ったり考えたりすると、他の事実は見えなくなってしまう。そして、自分が決めつけた見方に固執してしまう。他を排除するようになる。それが昂じると喧々諤々言い争いが始まります。宗教戦争なんでそうですね。私たちは、森田理論学習によって事実は軽々しく扱ってはいけないと学びました。先入観や決めつけで事実を見誤って行動するととんでもない方向に進んでしまいます。できるだけ事実に近づくことができれば、仮に方向性が間違っていても被害は最小限で済みます。また、一つの考え方に固執しなくなりますので、柔軟性が出てきます。人間関係の軋轢から逃れることができます。そのためには、自分の考え方に反発する人や異議を挟む人は、貴重な存在です。自分の固執した考え方を見直す機会を提供してくれているからです。反発したくなるでしょうが、まず相手の考え方をよく聞いて理解することです。そしてその違いを把握するように努めることです。つぎにその溝を埋めることができないか考えてみることです。そのためには、自分の気持ちや考え方を相手に伝えなければなりません。冷静に話し合いをしていけば、もう一段階高い新しい考え方ができるようになります。別の考え方を加味して新たなステージに立つことができるのです。途中で喧嘩になりそうなときは、しばらく冷却期間をおいて、論点を整理して話し合うとよいでしょう。なかには自分のことを毛嫌いして、反対のための反対意見を述べている人もいるかもしれません。そういう人は少し話を聞いただけですぐに分かります。自分の意見というものがないのです。そういう人とはすぐに距離をとるようにしましょう。
2019.11.30
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次のような考え方のクセを持っている人はたくさんいます。一部分の事実をすぐに自分の人生すべてに影響を与えてしまうかのように大風呂敷を広げてしまう人です。一般化のし過ぎと言われています。部分を全体に広げることが習い性になっている人です。それも悲観的、破滅的に拡大してしまうのです。例えば、上司に仕事のミスを指摘されて叱責され時に、すぐに自分の仕事に対する能力はゼロだ。この会社での居場所はなくなった。自分は何もやってもダメだ。同僚たちは自分のことを馬鹿にしているに違いない。誰でも経験のあるような単純なミスなのに、自分の人格否定にまで発展してしまっているのです。こうなると、自分の将来をネガティブに考えてしまいます。意欲や熱意は持てず、悲観上手になってしまいます。また一度恋愛に失敗すると、これからも恋愛はうまくいかないだろうと決めつける。私は何度お付き合いをしても、最後には相手から嫌われる運命にあるのだと思ってしまう。こういう考え方をとっていると、将来は暗澹たる暗闇のような世界で、希望を持つことができなくなってしまいます。もう決して恋愛なんかしないと決めてしまう。自己否定するのですから、生きていくことは苦しみの連続となります。こうした人たちがよく使う言葉があります。みんながそう言っている。いつも悪い結果で終わる。自分にはよいところなんて一つもない。やることなすことほとんど失敗してしまうはずだ。何をしてもすべてだめに決まっている。これまでうまくいったためしがない。この先もずっとうまいかないはずだ。この人たちは目の前の出来事や事実に向き合っていないと思います。向き合おうとうしていないようです。すぐに観念や思考の世界に入り込むことが習慣になっているのです。そこがとても居心地がよいのでしょうね。問題は、ポジティブに受け取れればよいのですが、ほとんどネガティブに結論づけてしまうのです。一つの些細なマイナスの出来事から、自分の人生を左右するような大きなマイナスの問題に拡大する名人のようなものです。このような人は自分で自分を苦しみのどん底に突き落としているのです。これを改善するには事実にきちんと向き合うということが欠かせません。そのためには事実を具体的に観察して、事実をよく見ることです。そして事実に沿って見たままを詳細に話すということに取り組むことです。「みんなが言っている」というのではなく、だれとだれが言っているのがはっきりさせる。「いつも悪い結果で終わる」は、いつどんなことが思惑が外れた結果に終わったのか、具体的に考える。「やることなすことほとんど失敗してしまう」は、失敗した具体的な出来事を問題にする。「何をしてもすべてだめだ」すべて失敗ばかりしている人はいません。成功体験や楽しい体験もたくさんしてきているはずです。抽象的な思考をするのではなく、事実に基づいた具体例を取り扱うことが大切です。「これまでうまくいったためしがない」失敗だらけの人は生きていけません。失敗と同じ数の成功体験も持っているはずです。失敗の事実だけに意識や注意が向いて、問題視しているだけのことです。実にバランスに欠けた考え方をしておられるということです。「この先もずっとうまいかないはずだ」将来のことを不安視する前に、今現在の課題や問題点に取り組むほうがより重要です。
2019.11.11
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2019年9月号の生活の発見誌に、「何かを選択するときに、間違えて不幸になるのではないかという気持ちが起きて、恐ろしくて決めることができない」という相談が寄せられています。何か月も延々と調べたり、何回も下見に行ったり、誰か他の人に決めてもらいたいと思ってしまいます。例えばどこの歯医者にすればよいのか選択ができないそうです。これは20代で失敗や挫折が何度かあり、それまで持っていた人生に対する楽観的な信頼が崩れてしまい、不安が強くなり、気分が落ち込むようになったそうです。この方は自分が考えて決断・実行したことは、1度のミスや失敗も許されないという信念を持っておられるようです。そうなると、実践や行動することは、ミスや失敗を誘発することになるので、次第に手も足も出なくなってきます。仮に行動するにしても、ビクビクハラハラして、いつも逃げ腰になります。すると気分的にはいつも憂鬱で、漠然した不安感が付きまといます。生きていくことが苦しくて、楽しいことなんか何もないと思うようになります。森田理論では、不安の裏には、必ずそれと同等の欲望があるという考え方です。この方の欲望は、自分が決断、決定することはすべて間違えないようにしたいということだと思います。この欲望自体は問題ないと思います。そういう欲望を持っている人は、慎重の上にも慎重であるために危険な目に遭うことがない。また取り返しのつかないミスや失敗を起こすことも少なくなります。仕事などもやりっぱなしにしないで、自分のやった仕事を振り返ってみて、間違いがあれば、事前に修正することもできます。森田先生も完全を目指さない人にろくな人はいないといわれています。完全を目指す人はそんなにいませんので、貴重な人材だといえます。ですから完全欲が強いという特徴は、これからもどんどんと鍛えて伸ばしていく方がよいと思います。では不安に押しつぶされて苦しい状態はどうすればよいのか。これはまず森田理論の「かくあるべし」の弊害をよく学習してもらいたいと思います。完全を目指すことはよいのですが、自分はいつも完全無欠でなければならないと考えることは百害あって一利なしです。「かくあるべし」を掲げて、現実の自分を見下しているとどうなりますか。問題点、欠点、弱点ばかりが目に付くようになります。そして自己嫌悪、自己否定するようになります。理想と現実の乖離による葛藤や苦悩が発生してくるのです。これが強迫神経症の原因となっているのです。実際には、少しずつ「かくあるべし」という考え方をゆるめていくことです。「かくあるべし」少なくしていくと言い換えてもいいでしょう。そのために、森田理論では、事実本位の生き方を目指していくことになります。現実、現状、事実を素直に認めて受け入れていくということです。誰でも実践、実行、行動した後で「あんなことをしなければよかった」「あんなことを言わなければよかった」ということは、日々何度もあります。取り返しがつかないと後悔することもたびたびです。でも普通の人はそんな自分を毛嫌いして見捨てていると思いますか。問題行動をした自分を「あの時はこの選択が一番よいと思ったんだ」と納得させていますね。それはその現実を素直に認めて受け入れているということです。そして今度同じような出来事があったときの教訓として活かしているのではありませんか。これは「かくあるべし」で自分を徹底的に痛めつけているのではなく、問題行動を起こした自分に寄り添って自分を許してあげているということなのです。自分は自分の一番の理解者となっているのです。間違った選択をして不幸になるのではないかと悩むよりも、間違った選択をした自分を許して受け止めてあげる自分に変身することがより重要だと思います。この事実を素直に認めていく態度を実践によって少しずつ身につけていくのが森田理論なのです。
2019.10.14
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今日は、ネガティブな信念をポジティブな信念に置き換える方法について考えてみたい。例えば、小さいときに、凶暴な犬が歯をむき出して吠えて自分を威嚇した。そのうち自分に向かってとびかかってきて、身体のあちこちを噛み始めた。自分を助けてくれる人が近くにいなかった。死ぬ思いを経験した。こういう経験は一度でも体験すると、トラウマになる。フラッシュバックが起きる。乖離現象が起きて、記憶が飛んでしまうかもしれない。このような衝撃的な体験は、言葉と結びついて、脳内に強く記憶されてしまう。そして次に犬を見たときに、その記憶をすぐに呼び出してしまうのだ。つまり目の前いいる犬は、以前自分を襲った犬ではないが、その犬も以前の犬と同じように自分に危害を加えてくるに違いないと考えるようになるのだ。これがネガティブな信念である。客観的に観察すれば、犬には人を襲うような凶暴な犬も確かにいる。しかし大半の犬は、人間に親しみを持ち、好意的に近づいてくる。自分のつらさを分かち合ってくれる親友のような犬も多いのである。あるいは介助犬、麻薬の検知犬、被災地で人命救助で役だっている犬もいる。このようにネガティブな信念をポジティブな信念に転換できれば、これからの人生にとってよほど意義がある。どうすればポジティブな信念に転換できるか。まず、公園などに行って、小さな子供たちが犬とじゃれ合っている様子を観察させる。ペットショップに行って、生まれて間もない子犬を見せる。あるいは飼い主にかいがいしく尽くしている盲導犬を観察してみる。被災地で生きている人はいないかと懸命に捜索している犬を観察させる。人間に替わって、羊の群れを決められた方向に誘導している犬を見せる。この経験によって、犬の中には人間になついてくるかわいい犬もいるのだなと思うようになるだろう。このような経験を数多く繰り返していくとどうなるだろう。たしかに以前のトラウマは頑固に無意識の部分に心の心象現象としてこびりついている。これは取り除くことは極めて困難だ。別の方法を考えてみよう。その際参考になるのは信念の持つ特徴である。信念はよく考えてみると、まず心にダメージを与えた衝撃的な体験がある。この体験が言葉と結びついて、別の機会に自由に取り出せるものとして脳内に記憶されている。それを呼び出して、その時々の対応を決めているのだ。ここで大事なことは、ネガティブな信念にしろ、ポジティブな信念にしろ、信念には行動を促すエネルギーを持っているということだ。エネルギーを持っているということが、ネガティブな信念を、ポジティブな信念に転換できる方法となるのである。つまり、先に見てきたようなポジティブな体験を繰り返して積み重ねていく。するとネガティブな信念の中にあるエネルギーは少しずつ勢力を失っていくのである。反対に犬に対するポジティブな見方や考え方が少しずつついてくる。ネガティブな信念の中に、ポジティブな見方や考え方が入ってくるということである。最初のうちはネガティブなエネルギーの勢力が圧倒的であろう。ところがそれを打ち砕くような行動を繰り返すことで、ネガティブな信念のエネルギーは次第にその勢力を失ってくるということなのだ。考えてみてほしい。その2つの持つエネルギーの勢力が同等になったとき、その人はいつまでもネガティブな信念に振り回されているだろうか。多分そのネガティブな信念の中にある、行動を促すエネルギーは骨抜きにされているのではなかろうか。勿論、無意識の部分には、べったりとネガティブな信念が残っているだろう。でも、その信念は、ポジティブな信念によってエネルギーを吸い取られているために、実際の行動として表面化してこなくなるのである。心の中の混乱ぶりが、実生活に多大な悪影響を与え続けるという事態を招くことがなくなったのである。こういう状態はネガティブな信念に振り回されなくなったといえる。ポジティブな信念に完全に転換されたというよりも、実際の生活が普通の人と同じようにできるようになったということである。犬の例でいえば、警戒心一杯ではあるが、時には犬とじゃれ合う子供たちの輪の中にいることができるようになったということである。ここで大事なことは、ポジティブな見方や考え方を身につけるためには、そのための実践や行動が極めて大切あるということだ。それが習慣になるまで続ける。そのために、自分で努力することが欠かせない。また周りの人も温かくサポートする必要がある。そうは言っても、新しいことに取り組むことは大変が壁が立ちはだかっている。ましてや習慣化するまで継続できることはもっと難しい。それは人間に備わっているホメオスタシス(恒常性維持機能)がチャチャを入れて実行を困難にしてしまうからである。しかし人間には生の欲望の発揮という機能も同時に兼ね備えている。生の欲望の力がホメオスタシスに打ち勝っていったときに、ネガティブな信念はポジティブな見方や考え方、実践、行動へと切り替わっていくのである。ネガティブでつらい人生を余儀なくされている方は、その信念を変えていけば楽な生き方ができるようになることを忘れないでもらいたい。
2019.09.18
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目を正面の一点を見える状態にしてボールペンなどを視野の端から徐々に中央へ動かしていくと、あるところで急にボールペンが見えなくなってしまいます。これは盲点といわれています。これと同じように、人間の場合は、先入観や決めつけで凝り固まっていると、「視野狭窄」という現象が現れます。「かくあるべし」思考の強い人が陥りやすい現象です。見たいものだけを恣意的に見ようとする。見たくないものは無意識的に排除してしまう。これでは客観的で妥当性のある見方ができなくなります。それを自分や他人に押し付けてしまうので、変な人、融通の利かない人、包容力のない人になってしまうのです。ですから森田でいう両面観の考え方、見方を身につける必要があるのです。例えば、大都会に住むことが一番だと思っている人は、都会のいいところばかりに意識が向いています。交通の便がよい。車がなくても生活できる。文化的施設などがたくさんある。お店がたくさんある。美味しい店が多い。刺激が多い。人が多くて活気がある。スズメバチ、イノシシ、蛇などがいない。隣近所との共同作業に出なくてもよい。葬儀の手伝いをしなくてもよい。そういう人は都会に就職して、都会に家を持ち、都会で子育てをするようになります。すると、水がまずい、毎日たくさんのお金がかかる。そのためあくせく働く必要がある。アスファルトやコンクリートばかりで緑が少ない。日常的に自然に接する機会がない。家が狭い、家賃が高い、子供を自由にのびのびと育てられない。ごちゃごちゃとして息が詰まりそうだ。アクシデントに遭遇する危険性が高い。人間関係が煩わしいなどと言ったことは取り立てて問題視しなくなります。「それが何か問題でもあるの」などと言います。反対に、田舎暮らしが一番だという考え方を持っている人は違います。自然が豊かで心が癒される。野菜つくりができる。花のある暮らしができる。犬や猫を飼える。庭つくりを楽しむことができる。池を作って鯉を飼える。工芸、加工食品が作れる。自然相手の楽しみが四季折々に楽しめる。ゆったりと時間が流れる気がする。自給生活が楽しめる。自然の中で子供をのびのびと育てられる。水がおいしい、空気がおいしい。そんな人にスーパーやコンビニや外食に行くのに車が必要だ。夜になるとあたりが真っ暗で心細くなる。よい病院もない。図書館もない。映画も見れない。刺激がなくてつまらないでしょう。スズメバチが巣を作る。蜘蛛がいる。虫が多い。雑草だらけになる。蛇がいる。イノシシや熊が出てもいいの。などと指摘しても、「それがどうした」「問題はない」などと一蹴される。つまりどういう考え方をとっているかによって、物の見方が片寄ってしまうということなのです。自分の信念に沿って都合のよい情報だけを収集するようになってしまうのです。そして都合の悪い情報は、無意識のうちにシャットアウトしてしまうのです。プラスの面とマイナスの面をまんべんなく見つめて、客観的で妥当性のある見方はしたくでもできないのが普通の人間なのです。森田理論では、両面観、多面観のものの見方をお勧めしています。これはできないこともないのですが、一人では大変難しい。学習仲間の意見を聞いてみることで修正できます。ここに集団学習の意味があります。
2019.08.29
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ポジティブな感情とネガティブな感情は、別々の場所から発生しているそうです。リチャード・デビットソン博士は、左前頭葉はポジティブな感情と強いつながりがあり、右前頭葉はネガティブな感情と関係していることを突き止めました。彼は左右片方の頸動脈に麻酔薬を注射して、片方の脳の新皮質を麻痺させる実験を行いました。すると、右側に麻酔をかけると、笑ったり、幸福に満ちたポジティブな感情を引き起こし、左側に麻酔をかけると、泣いたり、怒ったりというネガティブな感情が現れたのです。しかもそれは、生後10ヶ月の赤ちゃんでも認識されたと言うのです。同じ状況に置かれてもポジティブな要因に強く反応する人とネガティブな要因に過剰に反応する人に分かれます。それが忠実に脳に記憶され、悲観的な人間と楽観的な人間をつくりあげるのです。それでは、具体的にネガティブな要因を抑え込み、ポジティブな要因をたくさん取り込むにはどうすればよいでしょう。これには「書き換えスキル」とよんでいる能力を高められばよいそうです。例えば「商談がまとまらない。私はこの仕事に向いていない」というネガティブな感情があるとします。これをポジティブな感情に置き換えると、 「完璧な準備をすれば、次の商談は必ずうまくいく」になります。(イチロー 試練からの夢実現力 児玉光雄 星雲社 152頁より引用)神経症やうつになると、「やってみれば何とかなるかもしれない」とは考えられなくなります。「どうせやっても失敗するに決まっている。やるだけ無駄だ。もし失敗して他人に軽蔑されると、立ち直れなくなるだろう」などと考えます。そうなりますと、目の前の問題や障害に対して、回避することばかり考えるようになります。行動を起こしていかないと、元々持っている鋭い感性が自分を責める道具になります。。また感動する力が弱まり、気づきや発見する力が減少してきます。それが進行すると、脳が廃用性萎縮現象を起こし、認知能力自体衰えていきます。最悪若年性認知症のような症状が起きてきます。そして意識は常に内省的に働き、自己嫌悪、自己否定感が強くなってきます。ネガティブ思考が常態化している人はその改善に乗り出すことが必要です。それを防止するために、ここでは「書き換えスキル」を身に着けることを勧めておられます。これは認知療法、論理療法で行われていることです。簡単に言ってしまえば、考え方の片寄を見直す作業のことです。やり方としては次のような方法をとります。1、不安や不快のもとになった出来事、事件について詳しく書きだす。2、それに対して、自分のものの見方、感じ方、考え方の癖についてありのままに書きだします。3、次に自分の認識や認知の片寄りや誤りについて検討していくのです。その時に手がかりになるのは次のような視点です。a、事実を無視したり、軽視していることはありませんか。b、先入観で一方的に決めつけていることはありませんか。c、論理的な整合性はとれていますか。とるに足らないようなことを、大げさに考えてはいませんか。d、よいか悪いか、白か黒か、0か100かといった二分法的な思考方法をとっていませんか。e、第一の感情、森田でいう「初一念」「純な心」を活用していますか。f、「かくあるべし」という視点から見ていませんか。g、完全主義、完璧主義、理想主義で見ていませんか。h、悲観的、ネガティブ一辺倒な見方になっていませんか。i、気分本位になって、やるべきことからすぐに逃げ出したり、あきらめてはいませんか。j、弁解、自己擁護、自己否定、他者否定、社会批判をしていませんか。これらを一人で出来ればよいのですが、とても難しいと思います。カウンセラーなどと取り組むのが一般的です。私たちは、集談会があるわけですから、参加者の意見を求めることができます。その際、素直になって、私には認識や認知の片寄りや誤りを持っていると認めることが大切です。指摘されたことに対して、いちいち反発していては前に進みません。またこれは1回で終わりというのではなく、普段の生活の中でストックを貯めておいて、集談会の体験交流の場で適宜発表する癖をつけることが大切です。認識や認知の誤りは、玉ねぎの薄皮をはがすように少しずつ修正されていくものと考えています。集談会に集まる人が、そういう共通認識を持って取り組むことができれば、相乗効果が起きてくるはずです。
2019.04.11
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生活の発見誌2月号に長谷川洋三氏に次のような記事がある。言葉というものは、不都合なものであります。「自分は初めての人に会うと胸がドキドキしてものが言えないことがある」と言えば、ある条件下のある状態のことでありますが、 「自分は対人恐怖だ」と言えば、自分イコール対人恐怖ということで、全人格的なレッテルとなります。しかし、事実はどちらかと言えば、当然前者、ある条件下のある状態であります。そして、この事実は全く自然なことで、少しも異常ではないのであります。だから、私はあまり簡単に「私は対人恐怖だ」とか「私は不眠恐怖だ」とか「私は雑念恐怖だ」とか、レッテルを貼るような言葉を自分で言わない方がよいと思います。言うときには、もっと事実を具体的に言った方がよいと思うのです。知らず知らず、言葉の魔術に引っかかってしまうからです。これは集談会の自己紹介の時によく見かける光景である。「私は対人恐怖症です」「私は不安障害です」「私は疾病恐怖」ですと一言で自分の症状を紹介する人がいる。自分のことを「対人恐怖症者」などとレッテルを貼っているのだ。これでは初めて参加した人にとって、全く理解不能である。参考にならない。そのように自己紹介している人にとっても、神経症の克服には結びつかないのではないか。自分をそのように決めつけていては、いつまでも人間関係に振り回されて、生きづらさは解消できないのではないでしょうか。レッテル貼りの弊害はあらゆるところに及ぶ。例えば仕事でミスをすると、「自分は何をやってもダメだ」「自分の人生はもう終わったようなものだ」「会社を辞めてしまいたい」などと極端に飛躍して悲観的に考える。誰もがしている小さなミスが、自分の人生を左右するような大きな問題になるのだ。楽器の演奏を間違えたとき、スポーツで負けたとき、カラオケがうまく歌えなかったときも、自分の全人格がダメだと決めつけてしまう。実際にはその一部分がダメなだけであって、全人格に波及するようなものではない。10の弱みや欠点があれば、10の強みや長所があってつり合いがとれているのが人間なのだ。だから対人恐怖症の人は、どんな場面で、どんな相手から、どのようなことを言われて、不安になったとかイライラしたという風に、事実を具体的に赤裸々に紹介する必要がある。そうすれば、相手にもよくわかるし、自分にとっても、対人恐怖症の改善に結びつく可能性が出てくる。レッテル貼りをする人は、自分の弱みや欠点が相手に知られることを恐れていて、できるだけ隠そうとしているのかもしれない。だから抽象的であいまいなままにごまかしているのかもしれない。しかし事実に真剣に向き合うことを避けているので、ますます「かくあるべし」が強化されて思想の矛盾で苦しむようになるのである。そういう態度では、神経症を克服して、生きづらさを解消することはどだい無理な話である。事実は、隠したり逃げたりしないで、具体的、赤裸々にを心がけるだけで事態は好転する。
2019.03.08
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生活の発見誌1月号に次のような記事がありました。症状に苦しんでいるときは、自分は意志が弱いからこうなったんだと、自分を責めたりします。また、人にも訴えたりします。しかし考えてごらんなさい、意志の弱いものが、 10年も20年も、症状と悪戦苦闘しますか。実際は意志の強い努力家なんですね。ただ、努力方向を誤ったのですよ。なぜ誤ったのかといえば、端的に言えば、人間性に対する無知なんですね。例えば、社会経験の少ない青年は、だれでも、大勢の人前に出ると緊張します。多少経験のある大人だって同じですよ。緊張しない人は、まずいないでしょうね。特に、若い人の場合、緊張して、顔がほてる、声が思わずうる。膝がガクガクするといった事は、当然のことなんですね。それが人間性なんです。ところが、それが当然のことと知らない、こんなことでは、 人から軽蔑される、つまらん奴だと思われると、緊張感を重大な弱点のように思い込んでしまいます。それで、緊張感、あるいは顔がほてる、声が思わずうる感じを、意志の力で取り除こうとかかります。ここにも大きな誤りがあります。感情や気分は、意のままになるのだという考え方です。意のままになると考えているから、意のままにしようと努めるわけですね。私たちは初めから不可能だとしている事は、努力しないものです。川の流れを自分の念力で逆流させようなどとは、誰も考えません。誤った考え方に導かれた方向の誤った努力ですね。ここで言われている「人間性に対する無知」というのは、 「かくあるべし」で現実を否定することと、自然現象を自分の意のままにコントロールしようとすることだと思います。「かくあるべし」は、生まれてこの方、親、学校、社会からしつけや教育と称してどんどん刷り込まれてきました。森田先生は森田全集第5巻の最初に、「教育の弊は、人をして実際を離れて、いたずらに抽象的にならしむるにあり」と言われています。道徳、社会規範、ルールなどの多くは「かくあるべし」に含まれます。それらは便利で不可欠なものではありますが、問題は、それらが人間の自由を奪って、生きづらさを抱えて、身動きのできない状態にしてしまっていることです。観念主義、理想主義、完全主義、完璧主義、目標達成第一主義、自然を征服すべき相手とみなす考え方は、現実、現状、事実を軽視し、否定する考え方に陥ります。これが問題なのです。これが反対になればよいのです。どんなに問題を抱えていても、現実、現状、事実をよりどころとして、そこから出発して目標を目指していくという考え方です。これは、自然に沸き起こってきた感情に対しても、自分に対しても、他人に対しても、あるいは台風や地震などの自然現象などに対しても同様です。森田療法理論の大きな柱は2つあります。 1つは、不安や恐怖に対する対応方法です。そしてもう一つは、 「かくあるべし」を少なくして、事実を出発点として生きていくという考え方です。この2つを視野に入れて森田療法理論の学習を進めていけばよいのだと考えています。このような考え方が身に付いてくれば、自然は敵対する相手ではなく、自然と共存し、共に繁栄を目指す相手だと認識することができるようになります
2019.02.06
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レイノルズ先生が、自らみじめな状態を招き、苦痛でがんじがらめになってしまうケースについて説明されている。これに沿って私の意見を述べてみたい。 (建設的に生きる 創元社 36ページ参照)1 、他人と自分を比較するということ。他人の優れたところと、自分の劣っているところ比較して嫉妬する。嘆き悲しむ。比較するときは、自分の中の弱みや強みを把握するのにとどめるほうがよい。そして自分が持っている能力や強みを活かしていくようにする。比較するということは、理想と現実を比較するということもある。この場合、理想主義の立場から現実を否定すると、思想の矛盾で苦しむことになる。現実から出発して、夢や理想に近づこうとすると「努力即幸福」を味わうことができる。昔の裕福で何不足なく生活していた頃と生活するのがやっとの現実を比較することもある。昔の良かったころの時に重点を置いて考えていると、現実は我慢できなくなり、投げやりになってしまう。現実から出発して、これから先の生活に視線を向けることが大切である。2 、事実の流れに逆らう。時間の経過とともに自然に収まることを、無理矢理解決しようと急いではなりません。例えば離婚や別居、職を解雇された直後は、誰でも激しい絶望感や怒りを覚えるものです。こうした感情は蒸し返すようなことをしなければ、時が移るにつれて次第に消えていくのが事実です。ところが、不快な感情を早く消そうと、安定剤などの薬物やアルコールに頼ってしまう人たちがいます。また、仕事上の取引で多少の損失があった場合でも、強い自責の念は、時間と共に薄れていきます。現状を変えたいと急ぐあまりに本来のペースを無視すると、かえって悪影響を及ぼします。3 、自分のことばかりに焦点を当てる。自分勝手で利己的な人、愛情にさめた人、他に依存ばかりしている人は、自ら苦痛を招く傾向にあります。自己内省性という特徴が、いびつな形で表出しているものと思われます。普段の生活の中で、人のために役に立つ行動を心がける必要があります。挨拶をする、笑顔を心がける、小さな親切を心がけることから始めてみましょう。4 、目的のない生活。目的のない生活は味気なく苦痛を招きます。普段の生活の中で、なすべきことを丁寧に行う。まずはこれに尽きるでしょう。それから発展して、自分が興味が持てるもの、趣味等にも取り組んでみる。そうすると意欲がみなぎり、豊かな人間関係が広がってくることでしょう。最終的に大きな夢や目標が持てるようになれば、幸せな人生を送ることができるでしょう。5 、不規則な生活態度。早寝早起きを心がけ、規則正しい生活を送ることが心身ともに健康で長生きができるコツです。同じ時間に同じ行動をとるというリズム感のある生活を心がけたいものです。6 、物事に対して悲観的な人。うつ状態になると、ネガティブで悲観的なことばかり考えるようになります。物事を先入観で悪いほうに決めつけがちになります。考えることが無茶で大げさで、論理的に飛躍しすぎています。物事を両面観で考えることができなくなっています。認識の誤りが自分を苦しめていますので、認知療法、論理療法などで考え方の過りを自覚することが必要になります。7 、感謝や感動を忘れている。人間は人の助けなしに生きていく事は出来ません。人によって生かされているわけですから、自分も何らかの面で身近な人や社会に貢献することが大切です。内観療法を受ければ、身近な人たちからいかに助けられて生きてきたかが分かり、感謝の念が湧いて来ると言います。長谷川洋三先生は、 「感謝即幸福」と言われていました。自分の身の回りの出来事から感動を受ける事はたくさん存在しています。生活の中での小さな発見、人から受けた親切、音楽や芸術、路傍に咲く花を見ても感動します。その感動は心身に好影響をもたらし、生きる勇気がもてるようになるのではないでしょうか。
2018.12.04
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相田みつをさんの言葉に、 「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」と言うのがある。森田理論学習をしていて思うことは、人によって物事や出来事に遭遇して受け取り方が大きく違うということを強く感じている。特に神経質者の場合は、普通の人から見るととるに足らない小さいことを、すぐに自分の一生を左右するような大きな問題にしてしまう。次に、楽観的に考えることが少なく、取り越し苦労ばかりする。マイナス思考、ネガティブ思考一辺倒である。現実、現状、事実を無視して、 「かくあるべし」から出発している。完全主義や完璧主義者である。事実を受け入れるということが少なく、他人に責任を転嫁したり、自己否定に陥ってしまう。予期不安が沸き起こってくると、それに翻弄されて目の前の仕事や日常茶飯事が手につかなくなる。不安や恐怖に対して、しばらく持ちこたえて、耐えたり我慢するという気持ちが薄い。普通の人は、ミスや失敗があると、すぐに必要な処置をとる。上司や得意先に正直に報告して、すぐに事後処理に走る。気分本位になってミスや失敗をやりくりしたり隠したりしない。私たちのようにミスや失敗にとらわれて自分を追い込んでいくという事が少ない。私たちは小さなミスで自分の将来が全てダメになったように拡大してしまうのが得意である。私たちの注意や意識は、 「ひょっとしてまたミスや失敗をするのではないか」という方面に向かっており、目の前の仕事や物事に向かっていないので、思いがけないところでミスを連発してしまう。それがますます自己嫌悪につながり、生きること自体が苦痛になってくる。私達の意識は、うまく行ったときのことは蚊帳の外になっている。ミスや失敗のことだけが頭の中を占めている。マイナス思考、ネガティブ思考一辺倒なのである。これではバランスが悪い。両面観で考えると全くバランスがとれていない。このような人は、「かくあるべし」という理想という視点から、現実、現状、事実を見ているのである。そして理想とは程遠い現実を見て、批判や否定を繰り返しているのである。そのような考え方をする人は、生きていくことそのものが苦痛となってしまう。その反対の考え方をすることができる人は、苦しい時がたくさんあっても、人生そのものが苦痛の塊であるという事はない。これらは認識の誤りから起きている現象である。これを打開する方法としては、認知療法、論理療法、森田療法がある。森田療法では、劣等感的差別化、部分的弱点の絶対視、劣等感的投射、防衛単純化等について学んできました。しかしそれだけでは不十分だと思う。その他に、認知療法で指摘されていることも学習する必要がある。全か無かの思考方法、一般化のしすぎ、心のフィルター、良い出来事を悪く考える、結論の飛躍、拡大解釈と過小評価、自分の感情を根拠に決めつける、 「かくあるべし」という思考、レッテル貼り、自分のせいにするなどである。これらは自分ひとりで学習してもその誤りについてはほとんど理解できない。集談会のような学習の場で具体例を取り上げて、相互学習が有効である。認知療法では、まず落ち込みの原因となった出来事を具体的に書き出します。次に落ち込んだ時に湧き上がってきた感情を書き出します。そして、学習仲間と一緒になって、その感情について認知の誤りがないかどうかを検討していきます。森田理論学習では、認知の誤りや認識の誤りはもっと掘り下げて学習する必要があると思う。
2018.05.22
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森田先生のお話です。最近、朝日新聞に、五重奏ということが出ていた。それは本を読みながら、会話をし、字を書き、計算をするとか、同時に5種類のことをするということです。聖徳太子は1度に8人の訴えを聴かれたとのこと、すなわち八重奏である。私どもも平常、2つや3つの仕事は同時にやっている。たとえば、病院などでも、患者の家人に面接しながら机上の雑誌を読み、一方には看護婦に用事を命令するとか言うようなものである。 三重奏である。我々の日常は、だれでも、同時にいくつもの方面のことを考えているのは普通のことである。強迫観念でも、苦しみながら何でもできるものである。神経質の人の考え方の特徴として、それを自分で出来ないことと、理論的に独断してしまうのである。(森田全集第五巻 99ページより引用)観念的に考えると、物事は集中して行わないと間違いだらけになると考えやすい。プロ野球でも、いくら大観衆がいてもピッチャーはバッターを牛耳ること一点に注意を集中しているではないか。それが逆に、自分の投球動作が気になる。監督やコーチのしぐさが気になる。あるいは、自分のピッチングの組み立てを解説者がどう話しているだろうかと気になる。そんなことにとらわれていては、相手打者に対する強い闘争心が分散されて、力が入らなくなり、微妙なコントロールに狂いが出てくるのではないか。バッターだってそうだ。自分のバッティングフォームが気になる。あるいは自分の名前を連呼されて大声援を受けて、そちらのほうに気をとられていては、バッティングに集中できない。大声援が耳に入らないぐらいに、バッティングに集中していないと、 140キロを超えるような速球やキレのある変化球には、とてもではないが対応できないはずだ。森田理論では、こういう態度のことを「部分的弱点を絶対視」、あるいは「防衛単純化」とも言います。これらは認識の誤りであるといいます。「部分的弱点の絶対視」とは、神経症に悩んでいる時、自分の苦しい症状一点に注意を集中させて、これさえなければ、私の人生はうまく回転していくはずだと思っていることです。そして、何とかその苦しみから逃れようと格闘を続けているのです。しかしその多くの努力は不毛に終わります。努力すればするほど苦しみの加速度は増してゆきます。そして蟻地獄の底に落ち込んでいくのです。森田理論学習では、症状のみに注意が向いて、主観の世界にどっぷりと使っていた状態から、注意の外向化を目指してゆきます。そして活動的で前向きな生活態度に転換を図ってゆきます。この態度を森田理論では「無所住心」といいます。周囲のこと全てに気が付いて、しかも何事にも心が固着しないで、水が流れるごとく 、心が自由自在に流転してゆく有り様であります。谷川を勢い良く流れる小川を連想されるとよいと思います。鴨長明が方丈記の中で、「行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ 消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し」といっています。森田理論そのものの考え方を示しています。不安一点に注意を集中させ、精神交互作用で神経症に陥らないためには、この言葉を机の前に貼って戒めとしておきたいものです。「防衛単純化」は、不安の要因は無数にあります。それらのすべてに対処することは非常に困難であるように思われます。そこで、その中から最も自分が気になっていると思われる不安、恐怖、違和感に対して焦点を絞っていく態度です。これさえなければ、十分に自分の能力を発揮できると感じて、この障害と思われることに専念していく態度のことです。少し考えただけでも、容易に神経症の蟻地獄に陥ってしまいます。私たちの日常生活を見ていると、たくさんの不安や違和感に取り囲まれています。それらに一時的にはとらわれたとしても、どうすることも出来ない不安や違和感は、それらを抱えたまま次の仕事や家事、課題や問題点に取り組んでいくという態度が大切なのではないでしょうか。
2017.12.23
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以前の森田理論学習のノートを見ていたら、神経質者は幼弱性が強いとあった。幼弱性は3つある。観念的である、依存的である、自己中心的であるということである。観念的になると、「かくあるべし」が強く、事実に基づいた柔軟な考え方ができない。融通性がなく意固地である。また考えているばかりで実行力が伴わない。次に、依存性の強い人は、自分でやるべきことに自分で手をつけないで人に依存してしまう。楽に生きているように思えるかもしれないが、やることがなくなって暇を持て余すようになる。その結果、生きていくことが苦痛になる。人生に対して投げやりな気持ちになってしまう。次に、自己中心的な人は、気分本位になりやすく、他人を思いやる気持ちがなく、独りよがりな言動が目立つ。また注意や意識が内向化してくる。例えば、自分だけが身体や心が特別に弱いとか、他人と違って自分には放っておくことができない弱点があるとか、自分だけが外界の刺激に対して、特別に抵抗力が弱いなどと思いこんでしまう。これらを放置すれば、生きていくことが味気なくなり、人間関係がいつもギクシャクしてくる。その結果、本来は温かい人間関係の中で暮らしたいにもかかわらず、人と関わりあうこと避けるようになる。また、自分自身も砂を噛みながら生きているようなもので、生きていくこと自体に意義を見いだせなくなる。ですから、この3つの幼弱性は出来るだけ修正していかないと、閉塞状態に陥っていく。まず「かくあるべし」を少なくするということですが、これは事実や現状を出発点にして物事を考えられる態度を養成していくことです。これは森田理論の核心的な考え方であり、このブログで何度も取り上げているとおりである。今日は2番目の依存的態度の修正について考えてみたい。例えば、お金に不自由してないからといって、 3度3度の食事をすべて外食に頼っているとどうなるか。その時々で見れば、煩わしい料理から解放されて、しかもプロの職人が作る美味しい料理を堪能できる。それは対人恐怖症の人が、人と接触するといつも不愉快な気分にさせられるので、人を避けているようなものである。逃避した瞬間は、不愉快な気分にならなくてよかったと思える。そんなことを続けていると、他人も自分を避けるようになる。最終的には人間関係がどんどん狭まり、孤立して、南海の無人島に1人で暮らしているような状態になる。もともと人間は1人で生きていけるようにはできていない。そのような生き方は、本来の人間性に反する生き方であると思う。共依存という言葉があるが、これは例えば、酒飲みでいつも様々な問題を起こす夫に、 「どうしようもない主人だ」と愚痴をこぼしながらも、いつも寄り添ってかいがいしく世話をやくようなような関係の夫婦のことである。夫は自分で何をしなくても、すべて妻が解決してくれるので、ぐうたらな生活に甘んじていつまでも自立するということができない。妻は夫の世話をするということが、唯一最大の生がいになっており、そんな生き方はどこかおかしいという疑問が湧かなくなっている。つまり共依存は、夫婦のどちらにとってもメリットはないのだ。それどころか、 2人してアリ地獄の底に落ちていくようなものである。森田理論では基本的には、自分の出来る事は自分で手をつける。特に、日常茶飯事については肝に銘じておく必要がある。人に依存することなく、自分で丁寧に日常茶飯事に取り組んでいれば、少なくとも神経症に陥ってのたうちまわるという事は避けられる。森田理論は、安易に人に依存するのではなく、自立して生きていく方向を目指しているのである。そして自分のできないことだけは、人に甘えて依存してもよいという態度を堅持していく必要がある。依存させてもらかわりに、自分も何か人に役に立つことをしてお返しをしていかないとバランスが崩れてくる。森田理論はバランスとか調和というを大事にしている。バランスが崩れてくると、自己の存在自体が揺らいでくるということを忘れてはならない。
2017.09.09
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資格試験などを受けていると一定の時間を過ぎると、できた人は答案用紙を伏せて退席しても結構ですといわれる。すると早速退席する人がいる。その時自分が半分もできていないと焦ることがある。もうあの人はできたのか、自分はまだまだまだだ。どうしよう。焦りまくって問題に集中できなくなることもある。でもこの場合、彼には難しすぎてやる気がしなくなったんだなという受け取り方もある。このように受け止めれば、かえって落ち着いて、集中できることもある。でも実際の事実はどうなのかは彼に聞いてみないと分からない。自分勝手に推論して、判断を下すというような問題ではない。それなのにあえて結果を類推するということは、闇夜に鉄砲を放つようなものである。めったに目的物に当たることはないだろう。仮に当たればまぐれだ。それでも我々はこういう先入観による決めつけをよくする。警察で誤認逮捕ということがある。わずかな証拠を基にして捜査を行っていると、無実の人を犯人に間違いないと思い込んでしまうのです。少し前にはインターネットのサーバー攻撃の誤認逮捕があった。普通の刑事さんは早期に犯人を挙げて事件を解決したいものです。だから最初から黒だときめつけて捜査をするし、事情聴取をする場合は自白を得るために、あれやこれの手を使う。このように明らかに推測の域をでないにもかかわらず、決めつけで対応する場合があるのです。でも先入観によるきめつけや断定は、弾みがついてきて、ますますその決めつけや断定を強化していく。後からその人が犯人でないということが分かると、取り返しのつかない、大変な不祥事という結果になる。人間にはそうした決めつけという行動をとりがちだ。神経質者の場合は、このきめつけという行為が多い。事実を無視して、決めつけでもって行動の選択や方向性を作り上げていくのである。それは往々にして、自ら間違った分析をして、それを元にして一人相撲をとっているのである。ある刑事さんは「白の捜査」をするという。「この人は本当はホシではないのではないか」という前提で捜査をしていくのです。本人が自白しても、にわかに信じないで事実だけを積み重ねていく。本当のホシなら最終的に白にはならない。そうなって初めて逮捕する。ホシではないという可能性を一つずつつぶしていくのが捜査だというのです。そうすると先入観や思い込み決めつけに引きずられることなく事実と向かい合うことになる。神経症の悩みは事実を誤認して、その結果、苦悩や葛藤を抱えていることが多いものです。神経質者も決めつけかなと思った場合は、一旦それを保留にして、事実の裏付けをとるようにすることが必要です。そのためには、いかに自分は事実を無視して、決めつけや先入観で物を見る傾向が強いということを自覚することが必要です。時間をおいて改めて考えてみる。第3者の意見を素直な気持ちになって聞いてみる。などの態度が欠かせません。
2017.07.17
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フロイトは心の領域を意識、前意識、無意識の3つに分けている。これを氷山に例えている。意識は海面に浮いている。前意識は海面に浮いたり、沈んだりしている。無意識は完全に海面下に沈んでいる。意識は本人が、頭の中でいろいろと検討している知覚、思考、意思などである。前意識とは、普段は意識されていないが、注意を向ければ、抵抗を受けずに容易に意識化できる部分である。思いだそうとすればすぐに思い出せるような記憶である。無意識とは意識しようとしても意識されないものである。でもこの無意識は、その人のものの考え方や行動の仕方にとても大きな影響力を持っているものです。フロイトは不快で意識するのに耐えられない感情は、無意識の中に閉じ込められていると考えている。この無意識は、欲望が発生したときや、困難な状況に出会った時に自然に出てくると考えている。次にユングはこの無意識を2つに分けている。個人的無意識と普遍的無意識である。この個人的無意識は思い出そうとしても意識に浮かびあがってこない願望や感情などがある。それは個人の性格、資質などと深い関係がある。一方普遍的無意識とは人類が共通して持っている無意識のことである。または成長過程での両親、学校、社会の教育によって形作られるものと考えている。。この無意識はその人の体質のようなものだ。無意識が問題になるのは悲観的、ネガティブ、マイナス思考に陥っている場合である。森田でいう認識の誤り、認知行動療法でいう認知の誤りの部分であろう。人間は不快、不安、不満な状態に陥った時、それを解消するために様々な意識活動をする。代償、抑圧、投射、転移、昇華、反動形成、否認、同一視、合理化、逃避、補償、知性化、白昼夢、攻撃機制などがあるという。これらは心理学で説明されている内容だ。それらの行動が葛藤や苦しみを深めていることが多い。フロイトはこのネガティブでマイナス思考の無意識を意識化すれば、精神的苦痛は取り除くことができると考えている。これが精神分析と呼ばれている手法である。催眠療法やベッドに横たわって時間をかけて分析が行われる。これは私たち森田理論学習の立場からいえば、認識の誤りを自覚していくことだと思う。認知行動療法や論理療法では認知の間違い、認知の偏りを引き出して(いわゆる自動思考)反駁して修正していくということではないかと思う。これはコラム法を使って行うが、それを集談会などの場で、みんなで行うことが有効である。認知療法はベックという人が、うつ病患者を観察していて、悲観的、ネガティブ、決めつけ、先入観などに支配されて、事実を捻じ曲げたり、事実を観察しようとしない行動パターンを見つけ出したことから始まっている。神経症に陥っている人は多分にその傾向が強い。私は神経症に陥っている人は、認知療法は必須であると考えている。また森田理論学習のプログラムの中に一つの単元として、「認識の誤りとその修正」という単元を設けるべきであると考えている。
2017.06.05
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神経症で苦しんでいる人は完全主義という「かくあるべし」を持っている人が多い。完全主義が強いと「全か無かの二分法的思考」に陥りやすい。物事を見る場合、良いか悪いか、白か黒か、正しいか間違いか、プラスかマイナスか、といった両極端なものの見方をすることになる。やることなすことが100点満点であれば問題はないが、現実問題としてそういうケースはほとんどない。二分法的思考の特徴は、 99点から1点までの間はすべて0点と判定するのである。つまり中間的、灰色、ファジィを許容するゆとりは持ち合わせていないのである。ものの見方が100点か 0点の2つしかしかないのである。これはデジタル思考の考え方である。こういうものの見方や生活の仕方は精神面にとても深刻な問題を引き起こします。このような思考方法をとると、自分が弱点や欠点と思うことは決して見逃すことができなくなる。また、楽器の演奏やスポーツ、自分に与えられた役割や仕事などでミスをしたり、失敗をしでかすことも寛容な態度で許す事は出来なくなる。弱点や欠点があったり、ミスや失敗が発生すると、自分自身をダメ人間と判定して、 0点に評価してしまうのである。そうなると普段の注意や意識はミスや失敗にばかりに振り向けられるようになる。ちょっとしたミスや失敗に神経が過敏に反応するため、生きていくことが苦しくてならなくなる。仮にミスや失敗をすると、自分で自分を責めるようになる。自己を肯定することができなくなり、自己嫌悪の固まりとなる。さらにまずいいことに、自分のみならず、自分の周囲にいる人に対しても執拗に完璧を求める。自分の理想から外れていると嫌悪感をもたらし、相手を攻撃するようになる。その結果、相手との人間関係はどんどん悪化してくる。「全か無かの二分法的思考」に陥りやすい人は大きな特徴がある。例えば、インテリアの卸会社でお客様から注文を受けて、メーカーに発注する仕事をしていたとしよう。オーダーカーテンの注文を受けて、パソコンで加工して工場に発注する。数日が経って出来上がった商品がお客様のところへ届く。ところが届いたその商品が寸足らずで、柄も色も違っていた。当然、お客様は腹が立ち不平不満を発注担当者にぶつける。発注担当者はとても動揺する。このような場合、普通の発注担当者はお客様に対し、丁寧にお詫びをすると同時に、できるだけ早く再発注をかけて被害を最小限に留めようと最大限の努力する。ところが「全か無の二分法的思考」をとる人は、そのような対応ができなくなることがある。例えば、お客様からの注文書のファックスの数字が曖昧であったなどの言い訳をする。自分の責任をなんとかして逃れようとしたりするのである。その時点でお客様の立場に立った対応ができないので、ますますお客様の怒りに油を注ぐことになる。それと、もっと大きな問題が発生する。カーテンの誤発注というミスをしたという事実に対して、意識や注意が自分を責めて自己否定の方向に向かうのである。そのことばかり考えるので、どんどん加速して増悪していく。この仕事は自分に向いていないとか、自分は何をしても大きな失敗をしてみんなに責められる。自分にはいいところは何もない。もう会社での自分の居場所はなくなった。上司や同僚たちは、きっと自分のこと軽蔑しているだろう。解雇されるかもしれない。これをきっかけにしてきっと人間関係も悪化するだろう。こんな居心地の悪い会社は辞めるしかない。会社を辞めて楽になりたい。これでも自分の会社人生は終わったも同然だ。こんな自分が生きていてはいけないのだ。生きていくことが、こんなに苦しいのなら死んだ方がマシだ。・・・等々。商品の発注の仕事をしている人で、誤発注をして落ち込んだ経験はほとんどの人が持っている。その時、普通の人はすぐに先方に謝り、始末書を上司に提出して、早急に事後処理を行っている。ところが「全か無の二分法的思考」をとる人は、だれでも避けて通れないミスを、自分の将来の人生を左右するような大問題にまで膨らませてしまうのである。自分で自分の首を絞めているようなものである。これでは仕事をすること自体、予期不安でいっぱいになり、いつもビクビクして苦しいばかりである。自分は苦しむために生きているのだろうかと疑心暗鬼になる。生きていくことは苦しいことばかりである。完全主義や「全か無の二分法的思考」は何としても解消していかなくてはならない。そのためには、自分の欠点や弱み、実際にしでかしてしまったミスや失敗を自分の能力のなさや人格の未熟さ等にまで拡大しないことである。私たちはたった1つの不完全な自分自身を見つけると、それをすぐに敷衍して、自分の性格や人格、能力や意欲にまで拡大して、自分のすべてを否定してしまう。あまりにも拡大解釈している。不完全な点が1つでもあると、他の面では多くの長所や今までの実績があっても、それらを含めてすべてを0点判定してしまうという特徴がある。これでは自分がかわいそうではないか。このことをしっかりと自覚する必要があると思う。
2017.05.03
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今日は認知の誤りについてテストをしてみましょう。全く当てはまらないは1。あまり当てはまらないは2。ややあてはまるは3。かなりあてはまるは4で判定してください。1、 証拠もないのに、自分に不利益な結論を出すことがある。2、 何か友だちとトラブルがあると、「友だちが自分を嫌いになった」と感じてしまう方である。3、 根拠もないのに、悲観的な結論を出してしまうことがある。4、 ちょっとした小さな失敗をしても、完全な失敗だと感じる方である。5、 自分に関係ないと分かっていることでも、自分に関係づけて考える方である。6、 他人の成功や長所は過大に考え、他人の失敗や短所は過小評価する方である。7、 物事は完璧か悲惨かのどちらかしかない、といった具合に極端に考える方である。8、 自分に不利なことは、些細なことでも、気になる方である。9、 何かよい出来事があっても、それを無視してしまっていることがある。10、 何か悪いことが一度自分に起こると、何度でも繰り返しておこるように感じる方である。11、 たったひとつでも良くないことがあると、世の中すべてそうだと感じてしまう。12、 わずかな経験から、広範囲のことを恣意的に結論してしまう方である。13、 物事を極端に白か黒かのどちらかに分けて考える方である。14、 根拠もないのに、人が私に悪く反応したと早合点してしまうことがある。15、 自分の失敗や短所は過大に考え、自分の成功や長所は過小評価する方である。16、 ちょっとした小さな成功をすると、完全な成功だと感じる方である。17、 たったひとつの良くないことにこだわってしまい、そればかりクヨクヨと考える方である。18、 何か悪いことが起こると、何か自分のせいであるかのように考えてしまう。19、 根拠もないのに、事態はこれから確実に悪くになると考えることがある。判定が終わったら19項目すべての点数を足す。平均点は46.1だそうだ。私は最大点数76点中61点だった。かなり認知の誤りを抱えている。やっぱりそうかという感じだった。続いて次の項目に従って分析してみた。1、 恣意的推論 根拠もないのに悲観的なことを考えてしまう。項目の1、3、14、19を足す。私は16点満点中15点だった。2、 選択的注目 些細なネガティブなことだけを重視してしまう。8、9、17を足す。私は12点満点中11点だった。3、 過度の一般化 わずかな経験から、広範囲のことを恣意的に結論してしまうこと。2、4、10、11、12、16を足す。私は24点満点中15点だった。4、 拡大解釈と過小評価 物事の重要性や意義の評価を誤ってしまうこと。6、16を足す。私は8点中6点だった。5、 個人化 自分に関係ない出来事を、自分に関係づけて考えてしまうこと。5と18を足す。私は8点中6点だった。6、 完全主義的・二分法的思考 ものごとに白黒をつけないと気がすまないこと。7と13を足す。私の場合は8点中5点だった。私の場合は考え方がいかに悲観的、ネガティブな方向に振れやすいかということである。それで自分自身も苦しくて葛藤を抱えているし、他人にも多大な迷惑をかけているのだろうと思う。バランスが悪く、仮にサーカスの綱渡りの場合、向こう岸に着く前にいつも地上に落下している状況である。しかしこれは自分一人ではなかなか気が付きにくい。そういう自覚のもと、行き詰まった時は集談会の学習仲間から考え方の誤りを指摘してもらうようにしたいと思う。指摘に対しては謙虚に受け入れて、バランスを取り戻すようにしてゆきたいと思う。持ちつ持たれつでゆきたい。(ネガティブマインド 坂本真士 中公新書 173ページより引用)
2016.09.20
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認知(受け取り方)の偏りや誤りは、感情、身体、行動に悪影響を与える。例えば訪問営業の仕事をしている人が、ほとんどのお客さんは冷たく断ってくる。そのせいで自分のプライドや自尊心はいつも傷つけられる。などと受け取っていると、感情面では得意先に訪問することが不安や恐怖になってくる。身体面では顔が引きつり、明るさが失われ、会話がぎこちなくなる。行動面では次第に仕事をさぼるようになる。このように負のスパイラルが雪だるま式に加速してしまう。誤った認知のせいで、悲惨な結果を招いてしまう。ただこれとは逆に、認知(受け取り方)の偏りや誤りがプラスに働くこともまれにある。普通の子どもなのに、担任の教師に、「この子はまれにみる知能指数の高い子である」と暗示をかけておく。すると担任の教師は、その子に特別に目をかけて指導するようになる。教師も力が入り、それに応えて子どもも意欲的になり実際に成績が伸びるということがある。これは、「ピグマリオン効果」といわれている。ただこう言う、プラスの認知の誤りはよいが、めったにない。神経症で苦しむ人は、マイナス、ネガティブな認知で実態以上の問題を抱えて苦しんでいる。これを対人関係で見てみよう。異性から見た自分自身に自信のない人は、「自分はどうせモテないだろう」とか、「うまくいっても、どこかで嫌われてしまうだろう」といったネガティブな受け取り方をする。そのような予期を持っていると、異性に対する行動も不安の多い、消極的な行動になってしまう。たとえば、男性Dさんには、彼女にしたい女性がいた。そろそろ彼の胸の内を告白すべきかと思っていた。しかし、彼は「男としての魅力が自分にないのではないか」という考えに悩まされていた。つきあってくれなんて言ったら、笑われるに決まっている。「友だち同士のつもりでいたの。恋人としては付き合えないから、もう合わない方がいいかもね」そんなふうに言われるに決まっている。会えないくらいなら、友だちでもいいから一緒にいたい。Dさんはネガティブな予想を立ててしまった。これに対して彼女の方はどうだったか。決して男性的とは言えないがいろいろと細かい気遣いのできるDさんに、相手の女性は好意をもっており親密なつきあいを望んでいたが、Dさんが何も言ってこないことが次第に気になってきた。「この人、私に優しく接してくれていい感じの人だけど、好きともなんとも言ってこない。これは私に気があるんでも何でもなくて、きっと人がいいだけで、別に相手が私でなくてもよかったのかも」結局、Dさんはその女性に打ち明けることができなかった。その女性もDさんのことをいい人だと思いながらも、特に気になる男性とは思わなくなってしまい、次第に会う機会を減らしていった。実に残念な結果である。読者の皆様も思い出すことがあるかもしれない。これは一つの事例ですから、この反対のケースももちろんあり得る。でもこれは自分勝手な思い込み、先入観、決めつけで相手の気持ちを推測しているだけで終わってしまっている。真実は闇に包まれたままである。このようなやり方では、自分も相手もみすみすチャンスを逃してしまう。そして将来、その時のことを思い出しては後悔の念で嘆き悲しんでしまう。この場合、事実をつかむための努力はできなかったのだろうか。彼女に彼氏がいるのかどうかは手をまわして調べればすぐに分かるはずである。それならまだあきらめもつく。友だち付き合いはしているのだから、彼女に結婚についてどんなことを考えているのかぐらいは聞けるのではないだろうか。結婚したいという願望があるのか、結婚相手の性格とか、どんな家庭を築きたいのか。それらが自分の希望と似通っていれば、あとは見切り発車でよいのではなかろうか。自分で言うのが難しかったら周囲の友だちなどに協力を仰ぐ手もある。何も自分ひとりで立ち向かわなくても方法は他にもある。第三者から「彼があなたのことを好きらしい」というのは、相手に好感を持ってもらえると思う。森田ではチャンスの神様は、前髪はあるが後ろ髪はないと言われる。前髪をつかみ損なったら、もう自分にチャンスは巡ってくることはないと思っていたほうがよさそうである。(ネガティブマインド 坂本真士 中公新書 129ページ参照)
2016.08.15
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元気をなくすセルフ・トークの代表例が紹介されていました。1、 私って、ダメなヤツ(最低、最悪)2、 私には、いいところなんて1つもない。3、 私は、何もできない。4、 私って、まるでバカ(頭が悪い)。5、 私って、まぬけ(ドジ、のろまなど)だから、どうせ何もうまくできるわけない。6、 バカみたいに思われるから、私は何も言わないほうがいいんだ。7、 私って、全然カッコ悪い。8、 自分なんて、嫌いだ。9、 私はだれにも愛されていない。私ってかわいそう。10、 私なんか、生きていてもしょうがない。死んだ方がいいんだ。11、 私には、酒(あるいはタバコなど)さえあればいい。そうしたら、あとはどうでもいい。12、 すべて○○(例えばあいつ)が悪いんだ。いつか仕返ししてやる。(生きる自信の心理学 岡野守也 PHP新書 85ページより引用)これらは、自己嫌悪、自己否定、決めつけ、先入観、事実誤認、ネガティブ、マイナス思考、責任転嫁のオンパレードである。森田理論でいう「かくあるべし」も強い。うつや神経症の人が陥りやすい思考パターンである。こういう人は、基本的に減点主義の思考パターンに陥っており、マイナスのセルフ・イメージが次々と悪循環を招いている。生きることは苦しみの連続であり、極端な人は生まれてこなければよかったと思っている。しかし世の中には、頭の中にプラスのセルフ・イメージが次々に浮かんできて、好循環を呼び込んでいる人もいる。こういう人は基本的に加点主義の人である。そういう人は、客観的な事実に基づいて自己肯定、自己承認、自己受容ができている。他人に比べてどうしても追いつかないところもあるが、他人に比べてよくできることもある。プラスとマイナス面の両方を過不足なく見ることができる。また自分の存在は家族や世の中に役に立つ存在であると思っている。自分にはある程度の力もあるし、生活能力、経済力、仕事遂行能力もあると自信を持っている。マイナス思考の人は、少しでも、プラス思考の人の考え方を取り入れたいものである。どんなところに気をつけたらよいのでしょうか。1、 まず性格の見直しである。森田では、神経質性格にはマイナス面ばかりではない。マイナスが10あるとすれば、プラス面が10備わっているという。今はマイナス面ばかりに注意を向けて、10のところを15にも20にも拡大している。バランスがとれていない。今やることは神経質性格のプラス面の見直しである。バランスをとるためには、この際、マイナス面は見なくてもよい。プラス面ばかりを拡大してみることによって、やっとバランスがとれてくる。では、どんなプラス面があるのか。まず感受性が豊かであるということである。普通の人が気がつかない細かいことによく気が付く。感性が豊かなため音楽、絵画など芸術作品をより深く味わうことができる。他人の気持ちもより深く察することができる。次に神経質者は粘り強い。一度取り組み始めると、簡単にはあきらめない。目的や目標を達成するまで頑張る傾向がある。さらに好奇心が強い。多方面にいろんなことに興味や関心を示して取り組んでみるという人が多い。学習意欲も強く、細かく分析する力もある。自己内省力があり、反社会的な行動はとらない。人を傷つけることも少ない。何よりも向上発展欲が強く、努力家である。2、 他人と比較するということに関しては、他人と比較して自分の現状や状態をしっかりと見極めることを勧めている。事実を事実としてしっかりと認めることを勧めている。他人が持っていて自分にないものがあると、発奮して能力や技術の習得に情熱を燃やす動機づけになればそれでよし。自分の持っていない他人の能力や技術に対して、尊敬して敬意を示すのもよし。あるいは自分は別の分野の能力に磨きをかけていく道を選択してもよい。一番問題なのは、相手のよいところと、自分の悪いところを比較して劣等感に苦しむことである。反対に相手の悪いところと自分のすぐれているところを比較して優越感を感じるのも問題である。事実をそのままに認めるだけにすることが大切である。決していい悪いと是非善悪の価値判断をして自己否定に走ってはならない。3、 「やっぱり」「どうせ」というのを「決めつけ」という。「いつも」「何をやっても」というのを、「過度の一般化」という。「最低」などというのを「極端化」という。「○○すべき」というのを「かくあるべし」思考という。これらは認識の誤りです。認識の誤りはまだまだあります。認識の誤りの特徴は、a,考えることが無茶で大げさであり、論理的に飛躍しすぎている。b,マイナス思考、ネガティブ思考一辺倒である。そして自己嫌悪、自己否定に陥っている。c,事実を無視して、実態から遊離して勝手に決めつけをしている。d,完全主義、「かくあるべし」思考に陥っている。これらは森田理論学習の中で修正していくことが大切です。
2016.07.22
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私たちは症状で苦しい時は、なんとか苦しみから逃れようとはからいを始める。心理学では、不快、不安、不満がある状態は「不適応状態」にあるという。その不快、不安、不満な気分を解消するための意識活動や行動を「適応機制」という。「適応機制」は14通りある。難しい言葉だが、「機制」とは、それによって一時的な安心を得ようとするものである。普通の人間なら誰にでも起こりうるものである。森田理論学習ではこのことを特に「やりくり」「はからい」「逃避」といわれるものである。どんなものがあるか見てみよう。1、 攻撃機制 不快、不安、不満に対して直接相手に攻撃を加えることで解決を図ろうとする。2、 昇華 性的欲求不満や腹立たしさなど、社会的に容認されない欲求を、音楽やスポーツなどに打ち込むことによって発散させようとすること。3、 補償 自分の欠点や弱点、劣等感などを感じている部分に対して、他のすぐれている部分で優越感を感じることで心理的安定を図ろうとすること。たとえば、運動が苦手という人が、数学や物理などで頑張ろうとするようなこと。4、 代償 目標や衝動が満たされないときに、他の人や、動物、物、別の目標に置き換えて不平・不満を解消させようとすること。たとえば酒を飲みたいときに、ノンアルコール飲料のビールで代用するようなこと。5、 転移 家庭で溜まったストレスを、学校で弱い者いじめで発散するようなこと。6、 逃避 うまく適応できない状態からたまらずにすぐに逃げてしまうこと。病気を口実にしてやるべきことからの逃避。仕事をさぼって喫茶店やパチンコなどをする。勉強をしないでテレビや漫画を見たり、ネットゲーム等をすること。7、 否認 受け入れたくない欲求や現実、不快な体験から目をそらすこと。そのものを確かめようとしない。絶対に受け入れることができないと、最初から目をそむけている。8、 抑圧 不満や葛藤などの原因となる欲求や動機を無意識の領域に押し込む機制。しかし抑圧された欲求は解決されたものではないため、夢や失錯行為などの症状に現れる。9、 白昼夢(空想) 「自分は本当はもっとすごいことができるのだ」などと思って傷ついた自尊心を癒そうとしているようなこと。10、 合理化 言い訳をして自分を納得させようとすること。大型バイクが欲しいのに、買うお金がない。そこでバイクで事故を起こすと死亡事故につながる。死亡事故に遭わないためには原付の方がいいのだと自分を納得させようとする。11、 投射 ある人に結婚を前提にお付き合いしたいと思っている。でも断られるのが怖い。そういう受け入れがたい感情を自分が認めることは大きな不安がある。そこであの人はもともと、自分のことは何とも思っていないのだと勝手に否定的な決め付けをおこなう。12、 反動形成 受け入れがたい衝動や欲求が抑圧されて、それとは反対の行動で現れること。本当は好きでたまらない異性にいじわるばかりをする。13、 知性化 本能、衝動、欲望などをコントロールするために、社会規範や道徳、社会的ルールを持ち出して、抑えつけようとすること。観念や思想から出発して、本来の欲望を押さえつけること。14、 同一視(摂取、取り入れ) 森田理論学習でいうように不快、不安、不満等の感情は反発しないでそのままに受け入れる。その感情を十分に味わい「やりくり」「はからい」「逃避」などはしない。こうしてみると1から5までは、エネルギーの旺盛な人で不快、不安、不満をなんとか解消しようと積極的に立ち向かっている人である。2、3、4は生の欲望の発揮に通じる。1、5は、本人はストレスは発散できるかもしれないが、人に迷惑がかかるものでありお勧めはできない。6と7は、私のような回避性人格障害の人がとる方法である。情けない自分を自分で攻撃して自滅するタイプである。この傾向のある人は人生そのものが悲惨である。8から13までは、自分の気持ちをごまかして無理矢理納得させようとしているものである。いろいろなごまかしの方法があることが分かる。これが神経症に苦しむ道につながるものである。森田理論学習で目指しているのは14の道である。
2016.07.01
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大野裕氏は「不安症を治す」という本の中で、対人緊張の強い人は次の3つの思いこみが強いといわれている。1、 パフォーマンスに対する思い込み・・・「人の興味を引くようなことをいつもいわないといけない」「知的で魅力的に見えるように行動しなくてはならない」「なんでも完璧にこなさなくてはいけない」というように、自分のパフォーマンスに対する期待値を非常に高く設定する。2、 自分の行動の帰結に対する思い込み・・・「相手に同意しないとイヤな人間だと思われる」「スムーズに言葉が出てこないとダメな人間だと見られてしまう」「黙っていると、つまらない人間だと思われるだろう」「私のことがわかってくれば、その人は私のことをきっと嫌いになる」などと、自分の行動がよくない結果を引き起こすと思いこむ。3、 自分に対する思い込み・・・なんの根拠もないのに「私はダメな人間だ」「つまらない人間だ」「誰にも受け入れられないんだ」自分自身の人間性を否定する。この3つは対人恐怖症の間違った思い込みそのものです。森田理論学習でいえば、1は「かくあるべし」で自分や他人を縛っていることだ。2は人の思惑に翻弄されて実に味気ない、砂をかむような人生を送っている対人恐怖症で苦しむ人の姿だ。3は自己嫌悪、自己否定していて、自分という一人の人間の中に相対立する二人の人間を抱えて葛藤を繰り返し、自信が持てない対人恐怖者の姿である。大野氏は、こういう思い込みを持っている人は、「自分がきちんと行動できているかどうか」ということだけが気になって、周囲に目が向かなくなっています。エネルギーの大部分が「自分」に向かってしまうのです。周りのことを気にしているのに、実際には自分のことだけを考えるようになるわけですから、ある種矛盾した状態ともいえます。またこのようなときには、自分にとって「よくないこと」ばかりに目が向くようになります。一般的に、危険を回避するためには、危険を芽のうちに摘まなくてはならないと考えるものですが、不安が強くなるとちょっとした危険も見逃さないようにしようとするからです。森田理論では不安は欲望があるからこそ発生するものだといいます。生き方としては、欲望の発揮を前面に押し出して、不安で制御しながら慎重に前進していく姿勢が理にかなっているわけです。不安を解消するためにエネルギーの大半をつぎ込むことになると、神経症になります。欲望の説明は範囲が広く難しいものですが、とりあえず、自分の意欲ややる気が出てきて、モチュベーションの高まるものとしましょうか。対人恐怖症で苦しみ、回避性人格障害を抱えている人は、そちらの方面にほとんど手がつけられていません。それでは生きていくのが苦しいので、一時的な刹那的な快楽主義に陥ったり、対人的に破れかぶれな行動をとって危機を回避しようとしているのです。すべて自分を守るための行動です。観念的に否定的で投げやりになり、それとともに行動面でもどんどん悪循環のスパイラルに落ち込んでいます。こういう人にとって森田理論学習は福音です。欲望と不安の関係の学習。生の欲望の発揮の学習。私たちが陥りやすい認識の誤りの学習。とくに「かくあるべし」の弊害。事実に服従する態度の養成。等の学習をして理解を深め、日常生活の中で行動・実践することで解消の糸口はつかめます。是非とも対人恐怖症の人は森田理論学習によって自由で楽になる生き方を身につけてほしいものです。(不安を治す 大野裕 幻冬舎新書 76ページより一部引用)
2016.06.28
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高垣忠一郎氏は、今の学校や教師の子どもに対する評価が、「ある部分によって全体を否定してしまう」ような評価になっていると指摘されている。「戦後の教育基本法では、教育の目的は、それぞれの子どもの人格の完成、つまり、一人ひとりの子どもの人間性を伸ばすということだったと思います。ところが今は、教育の目的が、企業や会社の役に立つ「人材」を育てるというふうにねじ曲げられてきてしまっています。学校や教師が思い描く、こうあってほしいという「良い子像」があり、その「良い子像」に合わないような部分的な特徴をとらえて評価しています。「宿題を忘れるダメな子ども」「勉強の出来ないダメな子ども」「決まりを守れないダメな子ども」そういう評価や言葉が口から出ることが少なくありません。それは、考えてみると、「子どものある部分によってその子全体を否定する言葉」です。決まりを守れないとか、勉強ができないとか、宿題をやってこないというのは、その子の部分的な特徴なのですが、それによってその子全体を否定するような言い方についなってしまいます。本当は、「あなたに勉強のできないところがある」「あなたには決まりを守れない弱いところがある」とか言うほうが、まあ正解でしょう。それが、頭から子どもをばかにし、見下げたようないい方であるなら論外です」(共に待つ心たち 高垣忠一郎 かもがわ出版 84ページより引用)ここで高垣さんが指摘されていることは、森田理論に関係があります。森田では、どんな人でも強みがあれば弱みも持っている。その人の容姿、性格、学力、能力、立場、地位、財力等の一部分を他人と比較して、その人全体と見たことにしてしまってはならない。それらは全体としてみればプラスマイナスゼロ。バランスがとれている。だから他人長所とその人の劣っている一部分だけを比較して、その人の人格をダメだと判定してはならないのだ。まるごとの全体としての人間を見ないと、その人を見たことにはならないといっています。両面観でその人の全体を見なければならない。それなのに一般的には、会社では仕事のできる人、マネージメント力のある人、学校では勉強のできる人、運動の出来る人以外は見向きもされないような風潮にあるのではなかろうか。まずもって、その人の存在価値を評価することが重要なのではなかろうか。それなのに他人が自分を評価するだけではなく、自分が自分自身にも厳しい評価を下しているということが生きづらさを招いている原因になっているのではなかろうか。ネガティブ、悲観的な側面からばかりでなく、プラス面も評価して、自分の持っているものを活かして生きていくことが肝心なことだと思う。
2016.03.17
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将棋の加藤一二三先生は対局中に立ちあがって、実際に相手のむこうに回り込んで、仁王立ちで相手の背中越しに盤をにらむことをされるそうです。マナー上どうかと思いますが、そうまでしても客観的な目を欲しがっておられるのです。将棋では勝とうという気持ちと同時に、防御も大切です。そのバランスをとりながら、相手とせめぎ合うことにならないと勝てる勝負も負けてしまいます。そのためには自分勝手な指し手ばかり考えていてはダメだということです。客観的で妥当性がある指し手を求めていくということになります。我々神経質者は、先入観、思いこみ、決めつけが強いというのが特徴です。森田理論学習では「認識の誤り」といいます。これは円錐形の物体を真下や真上から見て、これは丸い物体であるといっているようなものです。あるいは、真横から見てこの物体は三角の物体であるといっているようなものです。これは本当に実態を反映したものではありません。上からも、横からも、斜めからも見ていくとすぐに円錐形であることに気がつくはずです。一つの視点だけで決めつけたり、思いこんだりすることはとても危険なことなのです。それ以外にも、我々の特徴として、考えることが無茶でおおげさである。論理的に飛躍しすぎている。マイナス思考、ネガティブ思考一辺倒である。事実を無視して観念的である。「かくあるべし」で物事を見てしまう。等があります。その悪循環から抜け出すためにはどうするか。まず集談会に参加して、自分の考え方の誤りを仲間から教えてもらうことです。その作業を繰返すことです。そして自分は普通の人とは違った思考方法をとりやすい人間であると自覚することです。自覚できれば悪循環から抜け出す出発点に立てます。つぎに森田理論学習では「両面観」の学習を深めることです。行き詰まった時は、別の視点でみてみる。逆な面からみていく。選択肢を増やして考えてみる。紙に書き出して考えてみる。一歩退いて見てみる。時間を置いて見てみる。他人に相談してみる。「かくあるべし」から事実本位の態度でみてみる。等のテクニックがあります。いずれにしろ、誤った認識のもとで行動すると、行動そのものが大きくずれてしまいます。認識の誤りの修正、認知行動療法でいう「認知の誤り」は神経症の克服にとっては避けて通ることはできません。
2016.02.24
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2月16日の報道ステーションの「松岡修造コーナー」が面白かった。フェンシングの太田雄貴さんとの対話だった。太田さんは一度引退していたが、あることがきっかけで、再び現役選手に復帰したそうだ。そして、2015年モスクワでの世界選手権フルーレ個人戦でアメリカのアレクサンダー・マシアラス選手を破り見事優勝した。日本人としては初めてであるという。リオネジャネイロのオリンピックでも有力な優勝候補の一角である。スポーツ選手で一度引退した選手がカンバックを果たすことはまれである。さらにそんな選手が世界の頂点に立つことは常識では考えづらい。太田選手のカンバックのきっかけとなったのは、2013年9月の東京オリンピック招致のプレゼンであったという。プレゼンではカリスマ的プレゼンテイタ―のスティーブ・ジョブズをイメージしていたという。ところがプレゼンの予行演習をビデオに撮ってみると、もじもじしているばかりでインパクトは全く感じられなかったという。それは他の人からも指摘された。自分はスティーブ・ジョブズに成り切ったつもりだったけれども、実際に客観的に見ると似ても似つかない。自分の主観的な考え方は問題だらけだと気づかれたのです。そこからアドバイザーの助言を取り入れてプレゼンを一から見直していったという。そしてあの見事なプレゼンに結実したのです。そのことをヒントにして、自分のフェンシングを見直してみた。それまではスピードとパワー中心に練習をして試合に臨んでいた。それが試合に勝つための、唯一絶対条件であると考えていた。でもそれは自分で勝手にそう思っているだけではないのか。客観的に第三者の立場からみると、自分がまだ手をつけていない部分があった。それは柔軟な筋肉の使い方、試合相手の研究、ジャッジをする人の傾向などであった。それらを練習に取り入れ、対戦相手の研究をしていった。また、それまでは、時間を惜しんで個人的な練習ばかりだった。それ以降は、自分の練習時間をさいて、小中学生、高校生、大学生、一般の選手に指導する時間をとった。太田雄貴杯でのアドバイスもするようになった。指導するためには、しっかりと理論を言葉で伝えなくてはならない。そのためには、どう伝えていくか一度自分なりに整理しておかないと指導できない。この作業は他の選手の為に行っているようではあるが、実際には自分の頭の中を整理していたということに気がついた。そのことが自分の技術を見直したり、技術の向上につながっていったそうである。森田理論学習では両面観ということを言う。神経症に陥った時は、物事を悲観的、ネガティブ、否定的にとらえやすい。また事実を確かめないで、先入観で決めつけてしまうことも多々ある。その結果行動はどんどんゆがめられ萎縮してしまう。太田氏の考え方は、物事は偏ってしまうと、将来に対する別の可能性を殺してしまうということを言っているのだと思う。
2016.02.18
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「他人がこわい」(紀伊国屋書店 クリフトフ・アンドレ&パトリック・レジュロン)より認知の誤りについてみてみよう。1、 情報を偏って選別する。たとえば、自分が話をしているときに、真剣に話を聞いてくれている人のことを見ようともせずに、あくびをしている人、よそ見をしている人、難しい質問や批判をする人のことだけが気になってしまう。ものの見方がマイナス面、悪い方に偏っている。ものの見方はプラス面、よい面も見なければいけない。森田でいう両面観で見なければならない。2、 根拠のない結論を下す。事実や証拠もないのに、先入観でそうに違いないときめつけてしまう。事実を実際に確認しなければならない。事実を確認しない場合間違いが多発する。3、 自分のせいだと思い込む。自分の周りで起きたことに対して、「よくないことはすべて自分のせいだ」と思い込んでしまう。失敗やミスはすべて自分の責任だと思って落ち込む。事実を主観的にばかり見ている。客観的にも見なければならない。4、 よいことを過小評価し、悪いことを過大評価する。よいことは誰か別の人のおかげで、悪くいかないのはすべて自分のせいだと思い込む。マイナス思考、ネガティブ思考である。物事を否定的に見る癖のある人は、肯定的にばかり見る癖をつけないといつまでたってもバランスのとれた考え方ができない。5、 たった一つの結果をすべてだと思い込む。会議で誰かが時計に目をやっただけで「ぼくはみんなを退屈させている。」と思い込んでしまう。たった一つの出来事、たった一つの結果を、すべてだと考えてしまいがちなのだ。そして些細なごくわずかな失敗をすぐに人生を左右するような大きな問題にしてしまう。6、 オールオアナッシングと考える。善か悪か、成功か失敗か、0か100か、白か黒かの極端な決めつけをしてしまう。現実にはありえないようなことに執着する。中間、灰色、中庸という考え方がない。認知の誤りは、認知行動療法で言われていることだが、是非理論的に整備して森田理論学習にも取り入れたい学習項目である。
2015.11.01
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事例3森田先生の入院生の実例です。ある方がウサギの世話をしておられた。ウサギに餌をやりに小屋に入った時、突然猛犬が飛び込んできて一羽のウサギをくわえて逃げ出し、噛み殺してしまった。誤った考え、行動その方は、これは入口の作り方が悪いからこんなことになったと弁解された。自分のせいではない。だから自分のことを叱責しないでほしい。寛大に許してほしい。問題点この方は、目の前でウサギがかみ殺されて、ぞっとした戦慄が走ったことだろう。でも次の瞬間、そんな目を覆いたくなるようなおそろしい感情は無視しました。そして、責任転嫁して自分が叱責されたり、軽蔑されたりすることから身を守ろうとされました。どうすればよかったか事実から目をそらさない。そして事実から湧きあがってくる感情と向き合う。自分の不注意によってウサギが命を落とした。かわいそうなことをした。無念だ。ここに焦点を合わせるべきだった。すると、今度こんなことが起こらないように内鍵をとりつける。森田先生に報告する。陳謝する。殺されたウサギの処理。野犬対策について取り組むことになるかもしれない。言い訳ばかりしていると、自分が許してもらいすればよい。後のことは、どうなってもかまわない。自分の関知するところではない。そして、もう二度とこんな目に合わないように、ウサギの世話は一切しないという態度になってしまう。事例4一旦停止の場所に車で通りかかった。でも車がきていないようだったので、徐行しながら通り過ぎた。すると、パトカーがけたたましい警報音を鳴らして、「そこの車すぐに停止しなさい」といって停止させられた。誤った考え方、行動極悪な犯人扱いされて、無性に腹が立った。人の弱みに付け込んで許せない。警察は他にやることはないのか。切符を切って検挙件数を競い、人に経済的負担をかけて、平気でいられる神経が分からない。またいい訳をする人もいる。私は確か一旦停止した。間違いないと言い張るのである。でもよく考えると悪意で事実を捻じ曲げる警察官がいるだろうか。南米ではともかく、ここは日本なのだ。問題点自分が交通法規違反したという事実は蚊帳の外になっている。警察が監視しているからこそ、抑止力が働き、交通事故が防げている。そうした面は全く考えていない。自分の不快な感情のみを問題にして、そのイライラ感を払しょくすることにばかり神経を向けている。どうすればよかったか。事実を直視すること。事実を素直に認めれば、反発する理由はなくなる。いい教訓として、今後の運転に活かせれば、安い授業料を払ったようなものだ。一旦停止するところは分かっていた。それを車がいないので事故は起こらないはずだ。勝手に決めつけていた。またこういうところは警察が重点的に警備を強化しているという考えが抜けていた。ここでは初一念から出発すべきであった。「しまった。うっかりしていた」自分を否定することはない。車を常時運転している人で、交通違反キップを切られた事のない人は極めてまれなケースだという。初一念から出発すれば次に活かせる。気分本位になると、警官に悪態をつく。なかには違反キップを丸めて投げ捨てたりする人もいる。すると公務執行妨害で警察署まで出頭しなければならなくなるのである。
2015.07.10
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