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とは、自分の人生でどれだけ有名になったか、お金を儲けたか、大きな仕事をしたかではなく、どれだけ人に愛を尽くしたかだという。最終的にはやはりそれしかないだろう。
2002.11.30
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僕は囲碁は、ルールを知っている程度なのだが、面白いと思ったことがあったので、今日の話のタネにしてみたい。囲碁は2人で交互に石を置いていき、最後により多くの陣地をとった方が勝ちなのだが、大別して2つの戦い方があるようだ。一つは、石と石がぶつかり合う局地戦で勝ち続けていれば、最後に相手より多くの地を得ることが出来るという戦法。そして、もうひとつは、ある程度石と石がぶつかり合ったらそれをケンカさせ続けるのではなく、少し離れたところに石を置いておくという戦法である。目先の戦いには役に立たないような石が何手か後になってすごく効いてきて、相手の動きを封じてしまうということもある。後者の戦い方の方がやっていて面白いと思う。
2002.11.29
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という言葉が使われるようになったのは、いつ頃からなのか。ここ2~3年位の間なのだろうか。家の中に閉じこもって社会との関わりを避ける人たち。中年やお年寄りで「引きこもりになった」というのはあまり聞いたことがないから特に若い世代に対してなのだろうが、この言葉は「病気」までには至らないが、かなりそれに近いニュアンスで使われている様に思う。なぜ、引きこもってしまうのか。大人になってからだと、世の中には色んな人間がいて、色んな感情や思いがあるということを知っているから、自分が多少心を傷つけられても、それを自分の中で相対化して解釈しなおし、回復することができるが、思春期に心を傷つけられてしまったといった体験があると、外の世界に対して容易に心を開けなくなるということはあるだろう。引きこもっている人が、「そんなことしていないで、外の世界に出ておいで。外の世界は面白いことや、楽しいことがいっぱいあるよ。」といった言葉を聞かされたとしたら、とても無責任で嘘臭いと感じられるかもしれない。言っている人は善意なのだろうが、言われている人にとってはとても辛いことなのかもしれない。人間は、人との関わりなしには生きられない。どんな人間でも必ず人との関わりを何らかのかたちで求めている。人に自分を認めてもらいたいというのは人間のとても強い基本的な欲求だろう。でも、外の世界に合わせようとするあまり、自分のパワーがなくなってしまうとか、自分の心が分断されるとか、自分の姿が見えなくなってしまうといったことは誰にでもあることだ。そんなときには、誰でも一人きりになって、パワーを充電するとか、じっくりと自分を見つめ直すとかといったことをやりたいと思うのも自然な心理だろう。「山ごもり」というのはどうか。今はそんな人も殆どいないだろうが、昔の武芸者は技を磨くために外との関わりを断ち切って山にこもって修行した。芸術も結局、自分の内面に深く向き合うことによってしか生まれないと思う。全く外界と遮断されたところで、自分の世界だけに集中する時間を持つというのはとても大事なことだ。むしろ、そうした時間がしっかりと誰にとっても確保されているという方が、健全な社会になる気がする。
2002.11.28
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が月に行ったのはデッチあげだったという話は結構昔からある。この間も「これマジ」という番組で、本当にアポロが月に行ったのかという検証を行っていた。映像を見てみると、宇宙飛行士の動きなどにどうも地球上のセットで撮影したようなフシがあるということであったが、確かに言われてみるとそんな気もする。地球上を取り巻く原爆何万発分もの放射能帯をどうやって抜けたのかとか確かに疑問な点は残る。僕が前にアルバイトで塾の講師をしていたとき、その塾長からこの件について「今から20年以上も前(当時)でしょう。それなら今火星くらいに行っていていいんじゃないの。何でスペースシャトルなんかでまだ地球の近くを飛び回っているの」と言われて、なるほどなと思ったことがあった。でも、もしこれがデッチあげだったとしたら、それはそれですごいことではある。全世界の人を巻き込んだ、史上最高の大ウソ、大ハッタリというべきだが、でもこれがウソだというのもやっぱり無理があるよなあ。「これマジ」に出ていたデヴィ婦人(宇宙飛行士オルドリンの友人)も「やっぱり(月に)行ったと思いますよ。その後行かなかったのは、行っても何もないからじゃないですか」と言っていた。これも、納得のいく理由ではある。さて、真偽のほどはともかくとして、誰だったか忘れたがアポロの宇宙飛行士の言葉で印象に残るものがある。月から地球を見た彼の感想だが、「結局のところ殆どの人は、地べたに縛り付けられながら存在している」といった類の言葉であった。確かに、われわれは3次元の世界に住んではいるが、でもものを見る視点は地上からのものである。地球は丸いと頭で知ってはいるが、でも現実はやっぱり地表、2次元の世界に住んでいるといってもいいだろう。アポロ飛行士の様に地表からではない、宇宙からの視点を持つことが出来れば、きっといろんなものの見方が変わってくることだろう。
2002.11.27
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世に「プラス思考」だの「ポジティブ・シンキング」だのと言った言葉がある。何事も前向きに考えようということなのだろうが、この思考方法の事例としてこんな話がある。靴をつくる会社のセールスマンが、未開の土地に靴を売りに行った。あるセールスマンは、その土地の原住民の姿を見てがっかりし、ため息をつき、こう会社に電報を打った。A)「誰も靴を履いているものがいない。売り込みは絶望的だ」しかし、同じ光景を見た別のサラリーマンは跳び上がって喜び、会社にこのような電報を打ったのであった。B)「誰も靴を履いているものがいない。いくらでも売れる!」と言うわけで、物事は何事もプラスに考えましょうという話なのだが、この話はとりあえずここで終わっている。しかし、敢えてここから先に話を進めてみよう。こうした考え方は「成功哲学」などとも呼ばれることがあるが、はっきり言ってこんな考えは「哲学」の名に値しない。結局は自分の利益しか考えていないからである。プラス思考やポジティブに考えるといっても、自分に都合のよい考えを正当化するものでしかないとしたら、本当に価値のあるものとは言えないと思うがどうか。大体何でもかんでもポジティブに考えようとする事や、しゃにむに人に先んじ、「成功」ばかりを追い求めようとする事自体ある種の病気であるといっていいかもしれない。というわけで、未開の原住民をみた靴のセールスマンはこう自分に問いかけてみたとしたらどうだろう。C)「ここには誰も靴を履いているものがいないが、ここで靴を売ることに果たしてどんな意味があるのだろう」この問い自体は、ポジティブでもネガティブなものでもない。勿論サラリーマンはモノを売るのが商売だから、最終的には会社の利益の上がる方へと動かねばならない。現実的にはB)の考え方が役に立つということは確かにあるだろう。でも、C)の問いを真剣に考えた事のあるセールスマンは同じ事をやるのでもきっと何かが違うはずだ。そして、最後に大きな満足を手にするのもきっとそんな人なのだ。
2002.11.26
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と言えば、ダ・ヴィンチと並んでイタリアのルネサンスを代表する芸術家だが、あるとき一人の少年が創作中のミケランジェロに向かって尋ねた。「おじさん、なぜその岩を叩いているの?」それに対してミケランジェロはこう答えたという。「中にいる天使が外に出たがっているからさ」
2002.11.25
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最近三菱自動車のCMで「まじめ まじめ まじめ COLT」というコピーがある。まじめに考えて作ったということをウリにしている。まじめはとても大切なことだ。先日の日記で書いた『自分の力を信じる思想』にもあったが、「まじめ」であることが何か鈍くさい、ダサい、融通が利かない、敬遠すべきものであるというものの見方がある。僕も人から「あなたはまじめだから」見たいなことを言われたときは、何だか妙な劣等感を感じたこともあった。でも、何の分野にせよ、何をやるにしても、何かの進歩をもたらすとしたら結局まじめであること以外にはありえない。言い方を変えれば「真剣にやる」ということだ。
2002.11.24
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最近読んだ『「自分の力」を信じる思想』(PHP新書・勢古浩爾著)と言う本で、著者はオリンピック等のスポーツ中継を見るのが好きで、殆ど欠かさずTVで見ているということだそうだ。そして、著者の勢古氏がどういう観点でその中継を見ているかというと、ただ「自分が自己ベストを出せたかどうか」なのだそうだ。予選で落ちようが、決勝まで進んでメダルを取ろうが関係ない。とにかく、自分がベストを出せたかどうかということにしか興味関心がないという。メダルを取るというパフォーマンスは素晴らしいものだし、それまでの努力も正当に評価されてしかるべきなのだろうが、でもメダルを取ることにしか価値がおかれないとしたら殆ど全ての人間の努力や営みが無に帰してしまう。人間にとって本当に自分の力になるのは「自己ベスト」を出した、自分はここまで成長したという「実感」だろう。他人の評価ではない。勿論他人の評価は自分の力の指標となるものだが、真に自分の力になりうるのは自分でその力を「実感」したときだけなのである。結局、最後は自分の目の前にあることをどれだけ一生懸命にやったかというその一点に尽きるだろう。世に競技や競争というものが存在する限り、全ての人間がそれで勝利する等ということは絶対にありえない。仮に予選で落ちたとしても、どんなに下手くそだったとしても自分のベストを出しきったものであるならば、そこには希望がある。
2002.11.23
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今日の夕方、町でみかけたカード屋さんにフラッと入ってみた。紅葉の絵はがきやクリスマスカードや来年の年賀状等が店内に並んでいた。もう今年も終わりだなとそんなことを考えながら、カードをいろいろ見ているうちに、アポロ17号が撮影したという地球の全景写真の絵はがきを見つけ、なんだかじっくり見たくなり買ってしまった。宇宙に浮かぶ地球をじっくり見ているととても不思議である。なぜこんなものが存在しているのだろう。何が不思議かといったら、何といっても青いこと、そして丸いことである。この青さは、宇宙の中で地球にしかない青さだ。生まれたばかりの恒星は青白い光を放つが、それとも違うし、惑星でこれだけ青いのは観測可能な範囲ではきっと地球しかないだろう。初めて宇宙を飛んだガガーリンの第一声が「地球は青かった」だったのはとてもうなずける話だ。そして丸い。見事に丸い。もうちょっといびつな形をしていてもよさそうなものだが、なぜこんなに丸いのだろうか。とても美しい形をしている。そして、やはり素晴らしいことには地球には生命が住んでいるということである。他の惑星に生命がいる可能性があるという話もないわけではないが(それはそれですごい話ではあるが)。でも、地球に存在する生命の豊かさにはとうてい及ぶべくもない。それにしても、なぜこんなものが存在しているんだろう? どうやって出来たんだ? もう頭の中が???だらけだ。宇宙のチリが集まって出来たとか、太陽から別れて出来たとかそんな話を聞いたことがあるが、でも、それは現象の一面を取り出した説明に過ぎないだろう。単なる偶然でこれだけのものが出来るはずは絶対にない。何かこんなものをつくろうという意志があったのか。だとしたらそれを神というのか。等々いろいろ考えたらキリがないのであった。今日はもう寝ます。
2002.11.22
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川まで連れていくことはできるが、川の水を飲ませることはできない」ということわざがある。至言だと思う。結局全ての教えというものも、馬を川に連れていくことまでしか出来ない。川の水を飲むかどうかを決めるのは、最後は自分の意志次第なのである。
2002.11.21
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ドラマなどでよく、主人公がにっちもさっちもいかない様な状況に追いつめられたところで、布団やベッドからガバッと上半身だけ起きあがり「夢か・・・」というシーンが出てくる。実際には、あんなふうに上半身が跳び上がるように起きるということは、そんなにないだろう。身体はそのままで目だけ覚めるというのが普通拿と思うが、それにしても怖い夢というのは、現実生活の中では解決しにくい問題をその夢を見ることによって自分の中で解決しようとしているのだそうだ。悪い夢も決して無駄なものではないようだ。
2002.11.20
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そんなとき、「エネルギーの変容」というものは、できないものだろうか。こういったときは、エネルギーの絶対量自体は凄くある状態だと思うのだ。ただ、それを自分ではどうにも制御できないということなのだろう。それを否定して鎮めてしまうというのも、なんだか勿体ない気もする。それよりも、そのエネルギーの質を変容して、量を維持したまま、自分にとってもっと建設的なエネルギーに変えていくということは、できないものか。そんなことをちょっと思った。
2002.11.19
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ここのところ、アコースティックギター1本でのインスト(歌のないメロディだけの音楽)を聴いている。僕のiMacのCDプレーヤーにCDを入れていて、Macを立ち上げると自動的に演奏され、BGMになる。押尾コータローというギタリストのSTARTING POINTというCDを買ってきて聴いてみたが、とても素晴らしい。久しぶりにいい音楽を聴いたという感じだ。ちょっと聴いてみたところ、ギター何本かで演奏しているか、多重録音しているように聞こえるが、たったギター1本で弾いているのだという。この表現の奥深さはすごい。アコースティックとは「生の」という意味だから、音を電気で処理するエレキの反対の概念ということなのだが、一般にアコースティックギターというと、金属弦の生ギターのことをいう。クラシックギターは、ナイロン弦だから、音色が金属弦とは異なる。アコースティックギターは、歌の伴奏として使われることが多かったが、単独で演奏するものとしてもナイロン弦とは違ったシャープな音色がし、とても魅力のある楽器だ。音楽に人の数とか楽器の数とか音の数とかは、関係ないと思った。大きなオーケストラでやるのもよし、一人でやるのもよし。演奏のスタイルが違うだけで、そこに優劣はない。むしろ音の数が少ないシンプルなものの方が、深い表現ができるかもしれない。俳句も五・七・五のたった十七音で勝負する。そのなかにとてつもなく大きな深淵を読み込むこともできる。
2002.11.17
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ヒーリング・ミュージックというジャンルの音楽がある。最近は時代の流れなのか、社会にも浸透してきている様だ。さだまさしが面白いことを言っていた。「僕の音楽は『癒し系』だというけど、でも『癒し』でない音楽なんてあるの?」ヒーリング・ミュージックの対局にあるのは何だろう。一見ハードロックとかパンクとか、そんな音楽の様な気がするが、でも、社会の理不尽さに対する怒りとか、自分の中にある魂の叫び声を思い切りぶつけるというということは、結局大きな癒しにつながりはしないか。「バカヤロー」と本当に心から叫べるならば、それはとても美しいことなのだ。表面的な表現方法の違いではなく、どれだけ本気なのかということの方を見ていきたい。
2002.11.16
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ここのところよく小説を読んでいる。前に日記にも書いたが、斎藤孝氏の『読書力』にも影響を受けたところもあるかもしれない。小説や物語というものは、直接役に立つ知識が書いてある訳ではない。でも、読んで何か深く感じるところがあったりするものもある。それは、人間の感性の幅を広げ心を豊かにするものだ。直接役に立つ知識だけを追い求めるのは空しい。もっとも、小説を読むのには結構時間がかかり、長時間かけて読んでもたいして響いてこないものもある。これは、本当に時間をドブに捨てるようなものだが、でもそういった無駄も覚悟しなければ本当にいいものに巡り会うこともないだろう。さて、物語を読んで思うのは「生き方のボキャブラリー」が増えるということである。英単語も多く知っていれば、より多くの表現が可能になる。沢山の人物像に触れてみるということが、自分の生き方やものの見方の幅を広げる気がする。
2002.11.15
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「想像力は知識よりはるかに重要である」(アインシュタイン)アインシュタインほど、この言葉の重みが分かる人もいなかったと思う。何か新しいものを発見したり作り出したり、考え出したりするには、知識を集積するだけではどうしても足りないものがある。ないものを作り出す為には人間の想像力はとても重要な鍵になる。想像力というと、頭の中で画像を思い浮かべるという視覚的なイメージが一般的かもしれないが、それだけではなく聴覚、嗅覚、味覚、触覚、そして身体内部より感じられる身体感覚と人間の全ての感覚にとても深く関係しているものだ。
2002.11.13
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「継続は力なり」という言葉がある。何かの分野で大きな仕事をしたり、一定の成果を挙げたりするには「継続する」ということがどうしても必要になる。仕事であれば、気の進まないこともやらざるを得ないが、仕事と関係ない自分の趣味なんかだとついつい放っておいたりということもある。そんなときは、どうすればよいか。「とりあえず触ってみる」ことが、以外に効果を発揮する。ギターを弾きたいと思っても難しい曲に挑戦するのは何かおっくうだとか、空いた時間に本を読もうと計画していてもいざその時間になってみるとちょっと抵抗があるということは、誰にでもあることだが。そんなときは、何も考えずまずギターに触ってみる、本も触って何ページかめくってみる。そうすると次第に気持ちが乗ってきたりする。
2002.11.12
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来年から巨人の松井がメジャーリーグに行く。サッカーでも、中田や小野、稲本などが活躍しているし、優秀な選手が海外に行くという流れが出来つつある。大きな舞台で自分の力を試してみたいと思う気持ちは当然のものだろう。それにしても、日本のスポーツ界はこのままいったらレベルがどんどん下がってしまいそうだ。世界中から「絶対日本に行ってプレーしてみたい」という人が集まってくるようにはできないものか。メジャーリーグや外国のサッカーの試合を見て「やっぱ世界は違うなあ」と言っているだけではダメだ。何の分野であれ、気持ちだけでも、いつか世界の一流と対等に渡りあってやるというものを持っていたいものだ。
2002.11.11
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新約聖書でキリストが言っている有名な言葉。では「先に行く者」、「後に行く者」とはどんな人なのだろう。実に色んな解釈があるだろうが、一つ僕が思ったのは、焦って「先に行こう」という姿勢そのものが人間の欲であるということだ。何故に生きるのを急ごうとするのか、何故に人に先んじようと骨を折るのかと考えてみると、人間の欲というものが見えてくるのではないか。大事なものを手に入れようとするときこそ、ゆっくりゆっくり近づいていくことだと思う。道ばたで咲いている小さな花、雲一つない抜けるような晴天、何気ない木漏れ日の絶妙な光加減等々、身の回りをよく見てみれば美しいものにあふれている。焦って先を急ごうとすると見えてこないものばかりだ。種をまいて大事に育てていけば、それが芽を出し、大きくなり花を咲かせる。花には咲く時期というものがあり、焦って咲かせようとしてもダメなのである。自分で自分に種をまいてそれを大事に育てていけばよい。結局、そういう生き方をした人が、最後には前にいる人を追い越して、大事なものを手に入れるのだと思う。
2002.11.10
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☆ ☆ ☆似たような例は、華族で、若いときは大変なお嬢さん育ちだった人が、落ちぶれて長屋に住んだ時に、「毎日がキャンプのようだわ」って言ってね、その貧しい暮らしを楽しんで晩年は、すごくかわいらしいおばあさんになっていったので、長屋の皆に大事にされて幸せに亡くなったそうです。(『武術の新・人間学』・甲野善紀著より)☆ ☆ ☆いわゆる「いいところのお嬢さん」にも色んな人がいて、中には、漫画の世界から飛び出してきたような本当に鼻持ちならない人もいるものだが、でも、こういうお嬢さんはとても素敵だ。
2002.11.09
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極真空手の創始者である大山倍達という人がいる。ある日門下生が大山氏に「まわし蹴りが上手くなるにはどうしたらいいんですか」と聞いたところ、技術のことは全く言わずひとこと「親孝行しなさい」と答えたそうだ。その話を聞いたときはよく分からなかったが、今になってみるとなぜ彼がそう答えたのかよく分かる気がする。
2002.11.07
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↓昨日は皆さん、どうもありがとうございました。暇を見つけては、僕も見て、読んで、泣いてみたいと思います。ストーリーに持っていかれるということがある。『アルジャーノン』にしてもそうだし、『十二番目の天使』も結構派手に「涙があふれて止まりませんでした」みたいな宣伝をしていたから、ホントかなと思って読んでみたが、確かに最後は電車の中で泣けてきてしまった。持っていかれたという感じだった。美しいストーリーは心の栄養になる。日常生活で純粋な美しいストーリーを生きることはやっぱり難しいからね。因みに、さだまさしがライブで「僕は何を見ても感動して泣いてしまうんです。水戸黄門で泣いてしまいますから」と言っていた。水戸黄門で泣けるというのもすごいなあ。
2002.11.06
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最近、思わず泣いてしまった本、映画、その他の作品etcを集めてみました。こんな作品があるよ、という方はぜひ教えて下さい。☆本 ○アルジャーノンに花束を(ダニエル・キイス著 早川書房) ○十二番目の天使(オグ・マンディーノ著 求龍堂)☆映画 ○パッチ・アダムス ○ペイ・フォワード
2002.11.05
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「己れだけが自分じゃなく、向こうから迫ってくる運命というのも、自分自身なんだ」(岡本太郎)突然大事故に遭うとか、信頼していた人から裏切られるとか、思わぬ大病を患うとか、「何でこんな目に遭うんだろう」と思うようなことも人生には沢山あります。逆に思いも寄らなかった幸運のニュースが飛び込んでくることもあります。「人生における偶然は全て必然」というけど、最近その意味が段々と分かるようになってきました。人生で起きる出来事も結局は全部自分が選択し、そうなるように招き寄せています。外界で起きる出来事も自分の状態と無関係に存在するわけでは、決してありません。自分が変われば、起きる出来事も変わってきます。
2002.11.04
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マラソンランナーになってレースを走っている自分をイメージしてみて下さい。今、35キロ地点。マラソンでは最も苦しいと言われているところです。道も「心臓破りの丘」でちょっときつめの上り坂。息はゼーゼー、足はガクガク、もう今にも倒れ込みそうなところですが、でもゴールは近い。さあ、あともう一頑張りというところ・・・さて、そのイメージに次のイメージを加えてみましょう。(1)沿道の人達が旗を振って一生懸命あなたを応援しています。「頑張れー」「負けるなー」「もうすぐだぞー」。沿道の人達の声援を受けながらその大歓声の中を走ってみましょう。(2)今度は、同じく沿道の人たちなのですが、あなたに徹底的にありとあらゆる罵声を浴びせかけています。「ボケ」「カス」「死ね」「世間に顔向け出来んのか」「人間として恥ずかしくねーのか」等々(笑)・・・あなたにモノを投げつけてくる人もいます。冷たい視線を投げかけてくる人もいます。さあ、その中を走ってみましょう。(3)今度はこうです。沿道の人は誰もいません。あなたは一人です。前を走るランナーも一人も見えなくなってしまいました。不気味なように何もない静かなところです。さあ、走ってみましょう。どうでしたか。(1)だと不思議にもう少し頑張れる気がしませんか。沿道の人からパワーをもらってゴールまで走れるような気がします。(2)はどうか。(1)に較べると圧倒的に苦しさが増す気がしませんか。人によってはこれを「何くそ」とパワーに変えられる人もいるかもしれませんが、少なくとも僕はダメですな。そして(3)。これが、一番苦しいと言えるかもしれません。そもそも走り続けること自体にも意味があるのかとかそんなことまで考えてしまいます。では、あなたの心の中はどうでしょう。沿道で応援してくれる人はいますか。そしてもし、あなたが沿道の人だったら、走っているもう一人のあなたに何と言葉をかけてあげるでしょうか。
2002.11.03
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「はじめて自分で自分を褒めてあげたいと思います」(有森裕子・アトランタ五輪マラソン銅メダルの後で)有森さんのこの言葉は本当に素晴らしい一言だった。自分に高いレベルのものを要求しながら何度も悔しい思いをし、ようやくたどりついたとき心の底から出てきた言葉。でも、自分で自分のことを褒めてあげることは、実は結構難しいことではないか。自分を褒めるということは、自分を甘やかすということとは違う。自分のいいところと悪いところとか、以前と較べて何処が伸びているかとか自分のことをしっかりと分かっていないと出来ないことではないか。でも、これまでもずっと一緒に生きてきたし、これからも一緒に生きていくのは他でもない自分というもの。たくさん褒めてあげた方がいいよね。
2002.11.02
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↓昨日の日記は文体を変えて書いてみたのだが、読んでみるとなんだか恥ずかしいねぇ。さて「教育する」「学習する」ということを改めて考えてみた。教科書に書いてあることを教師が生徒の前で教えるというのは、一般的な構図だが、そこで生徒は教師から果たして何を学ぶのか? 先日、近くの心理カウンセラーの先生のお宅でいろいろと話をしたときに、この話になった。例えば物理学や化学の法則などは、本来自然の秘密を解き明かしたいという大きな夢と情熱を持った人によって発見されたものである。だが、それを教えている教師はどうなのかというと、その人からその情熱や感動がちっとも伝わってこない。だから、生徒に取ってみれば勉強が面白くなくなるのは当然のことだ。聞いていて面白くない人に教わっていれば、生徒は「この教科は面白くない」ということを学習するから、苦痛になるのも無理もない話なのだ。教師が目を輝かせて、本当に楽しそうに、面白そうに教えていれば、生徒も「これを学ぶとこんな人になれるんだ」と思うから、興味を持って学ぼうとするだろう。ただの知識の伝達であれば、教科書を読むだけで出来る。ものを教えるときに、教わる方の出来が悪かったら、教わる方のせいにされやすいが、教える方にも間違いなく責任があるのである。いや、教わる方よりももっと責任は重いと言えるかもしれない。教師の立ち方、話し方、表情、言葉の使い方、しぐさ等々あらゆるものから、その人の存在全てから生徒は学んでいる。教科書の知識などは伝達する情報のほんの一つにすぎない。結局は「人間が人間を教える」、「人間から人間が教わる」ということだ。
2002.11.01
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