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アメリカ東部時間2004年12月31日午前9時。15時間で2005年を迎える。日本はあと1時間。シドニーは一時間前に新年を祝ったのをテレビのニュースで見た。盛大にあがる花火に2005年がそんな年になって欲しいと思う気持で一杯だった。LILY@MAさんの日記で今年が「災」という一字で表されると言う事を知った。長引くイラク戦争、新潟震災、ハリケーン、洪水、津波・・・ 天災が次から次へと襲って来た一年だった。津波の救済においてはアメリカの救済に対して国連がStingy(ケチ)と批判して、それに対してアメリカも今後も救済は続くとコメントしたが、途上国とアメリカ人一人の命の重さを考えさせられた。 被災国がイスラム教徒の国である事から、アメリカは躊躇しているのではないかという懸念がされている。その上スマトラはインドネシアから独立しようとゲリラ活動が活発な地域ならしい。インドネシア政府からの援護・救済を快く受けるかどうか、それも問題だという。生きること。生きていく事。難を逃れても、途上国の人々達にとても厳しい試練が待ち受けている。が、きっと生きていく。年越しで心に重いニュースが続くことは残念だ。だが、楽天日記仲間が祈りを捧げている。ネットで人と人が繋がるように、祈りによって意識の世界で人と人が繋がる。その声が天に届くかもしれない。ある講読している精神世界のメルマガで、この天災のお陰で第3次世界大戦が阻止されたと読んだ。既に阻止されていたと思っていたが、人類の未来がそこまで進んでいたのか!と驚きで一杯だった。これもブッシュの再選によって引き起こされた事なのか。ブッシュ政権はあと4年続く。一国、世界の中心となるこの男は究極の自己中。自分の利益だけしか考えない人。そして正々堂々とクリスチャンと名乗る。イエス・キリスト様は自分を犠牲にして人類を救ったのではなかったのか。テクノロジーは進み、豊かな国はより豊かになり、物が飽食している。心も感覚が麻痺して来ているのかもしれない。その中で祈りを捧げ、世の為にと活動をしている人たちがいる。その人達の意識がもっと浸透していく事を祈りたい。世の為に祈るとそれが自分へ返ってくる。2年間のどん底からやっと這い上がれた3年目の今年。私にとっての転機だった。出会いがあり別れがあった。笑って、泣いて、怒って、走って、愛して、愛されて。生きてるっていいな。今、心の底からそう思う事が出来る。この大宇宙のこの地球にひとつのいのちとして生きている。生かされているのだ。神様に感謝。新しい年が明けたら、色々な活動の予定が入っている。希望という光に向かって進んで行こう。私の大好きな湯川れい子さんの言葉を机の上のボードに貼ってある。天命とは人事を尽くしてこそ知るもの。花すべて自分自身のために咲く。自分の為に咲いて、世の為に咲いて行きたい。もう日本は2005年。明けましておめでとうございます。2005年が素敵な年になりますように。日記を読んで下さって有難う御座います。今年もよろしくお願いします。そして繰り返し言いたい。これが私の願いであり、祈りだから。。。願 平和 ☆ PEACE ON EARTH
Dec 31, 2004
「残酷な日本人」と言われてあなたはどう受け止めますか?私がシングルトンのバイブルとして大好きな「ブリジット・ジョーンズの日記」がある。イギリスを舞台にした30代前半の独身女性の話。もともとはコラムから本になって映画化された。それに対抗したように?アメリカ版は日本でも流行っているらしい「セックス・アンド・ザ・シティ」略してSATC。大きな違いは、サラ・ジェシカ・パーカー扮するキャリー・ブラッドショーはニューヨークで自由に生きる女性。彼女を取り撒く親友達も男勝りで性に対してとても攻撃的。その反面、イギリスのブリジット・ジョーンズはちょっぴり太め、たばこも酒もたしなみ、親友達も割と普通。ちびまるこちゃんがイギリス人で大きくなったらこんなになるんじゃないかなぁ、と思わせるようなキャラクターを持つ。私はこのブリジットが大好き!なんとなく自分と投影してしまう。たばこは吸わないが、ちょっぴり太め、酒は飲んで潰れ、結婚夢見る独り者。「シングルトン」(未婚の女性の意味)という言葉も「ブリジット・ジョーンズの日記」でよく使われるイギリス英語だ。映画「ブリジット・ジョーンズの日記」の最初5分くらいに、日本人が描写されている。ブリジットがニュー・イヤーで実家に帰った際、彼女のお母さんが、「マーク・ダーシーが来てるわよ。奥さんと離婚したんですって。日本人。残酷な人種。」という台詞がある。英語ではVery Cruel Race。私は「残酷」というより「冷酷」がニュアンス的にも合う気がするのだが。この発言があった為、映画公開当時、日系アメリカ人達が抗議した記憶がある。そしてその後友達のサンクス・ギビングディナーで出会った日系人女性もそうだった。「許せないわ。私メールを送ったの!」映画の他愛無い話をしていて、話題が「ブリジット・ジョーンズの日記」になった時、突然彼女の表情が変り息巻いたのだ。映画のジャンルはコメディー。イギリスのジョークやパロディーが一杯詰まっているらしい。私はイギリス文化・風習等は残念だが解からない。が、面白いのには変らない。そして私の「残酷な人種」に対する反応は、「イエ~イ! 中国人じゃなくて日本人がハリウッド映画に取り上げられた!」だった。移民の多い中国系アメリカ人はハリウッドで活躍している。有名日系アメリカ人となるとやはり数が少ない。だからちょっとでも「日本」が出れば快挙と思うのだ。まして映画はコメディー。笑いの心を持って見なければ面白くない。これはスタンドアップ・コメディーをしている時でもそうだった。いわゆる、日本人はこう、アメリカ人は、ユダヤ人は、黒人はなどとジェネラリゼーション、一般論をあげていた。100%の人が同じとは言わなくても、多くの人がする行動、言う事、それを面白おかしく話す。客席の客に向かって言ったりもする。一緒にノッテ笑いの種になってくれるお客さんもいれば、いきなり怒り出してしまう人もいる。結構、アジア人の女性に多い。こういう人に限って黒人のジョークやユダヤ人のジョークを笑っているのに、アジア人が的になると許せなくなってしまうのだ。「ここはコメディークラブだよ。ユーモアのセンスが無いなら、コメディークラブなんかに来なきゃいいのに。」中にはそう思わずにはいられない人もいる。勿論、そんな事は舞台の上からは言わないが。自分の出番が終わり、ショウーが終わると大抵笑いのネタにされた人は喜んで、話し掛けて来る。コメディアン達も、Thanks for being a good sport! (「一緒にノッテくれてありがとう!」)そう、必ずと言ってよい程そのフォローをする。それが東西関係ない「お客様は神様です」のショービジネス魂。ネタにされた人は、そのコメディアンのファンになってまた訪れたりする。お金を払って笑いに来る人達。ジョークを受け止め方を心得ている。「ブリジット・ジョーンズの日記」の「残酷な人種=日本人」もそう思って観ればいい。受け止め方一つで、コメディーがより楽しく見れる。ポジティブに、大きい器の視野を持ちたいものだ。
Dec 29, 2004
午後5時。4連休の後の仕事は身が入らない。待ってました、とばかりにオフィスを飛び出した。今週は3日間の出勤でまた3連休となる。日系企業だからやり取りのある日本側は今日で仕事納め。そしてアメリカ側では年内に休暇を焼却しようとこの時期にお休みを取る人は多い。休み明けの今日の職場は更に静かだった。私の部署も半分が休暇中。なのに会社のクリスマス・パーティーで両脇にいた私の隣に座る同僚二人はしっかり出社している。私用電話したくても、声が響いて出来なかった。ビルの外に出ると、白いものが舞っていた。「あっ、雪だ。」朝、冷え込んでいたから防寒はばっちり。マフラーの位置を直して帽子を深く被り直す。きっと降り出したばかりなのか、積もってはいなかった。もう既に暗くなっている中で、雪とホリデーシーズン様のライトだけが光っている。足早に通り過ぎるビジネス・マンもいつもより数少ない。5時半に予約を入れてある。約10ブロック、パーク・アベニューを私も早足で歩く。1ブロックも歩かないうちに雪がコートに被っていた。赤信号で足を止めた時にその雪を軽く払う。そして車が来なければ赤信号を小走りに渡る。赤信号をじっと待っているのは観光客だけ。そういえばJ-WALK(赤信号無視)して、ワシントンDCのホームレスに怒鳴られたっけ。そんな事を思い出しながら歩いていた。私はこの時期のパーク・アベニューが大好きだ。もともとパーク・アベニューは道路の仕切りが花壇のようになってアップタウンまで続いている。クリスマス・シーズンはここにクリスマス・ツリーが毎ブロック植えられる。飾りのないライトだけなのだが、それが何ブロックも続くと起伏の加減でとても綺麗なのだ。ふと、どこからか鐘の音が聞こえて来た。パーク・アベニュー沿いにある教会からだった。雪、クリスマス・ツリーのライト、そして教会の鐘の音色。何故か急に胸が絞めつけられる感覚を覚えた。「恋がしたい!」前から歩いてくる投資銀行に勤めている風の格好良い男性をぐいと引っ張って抱擁してしまいたいような衝動をぐっと堪え、また歩き出した。恋をしている時のあのウキウキ・ワクワク、ジェットコースターに乗っているような気持ちになったのはもう随分前の事。最近この平穏な毎日に飽きてきた。燃え尽きてしまうような恋愛はもう沢山。普通の恋愛がしてみたい。仕事を終えてお決まりのレストランで待ち合わせをする。馴染みのウェイターやウェイトレスと歓談しながら彼の来るのを待つ。息を切りながら彼が入って来るのを見て、手を振って合図する。彼の笑顔を見て、私もつられてにっこり。彼は手袋とマフラーを外しながら、Hey, Babe!そう言うと高背をかがめて私に軽くキス。ウェイトレスがやって来る。「いつもの?」YUP! そう言って彼女にウィンクする。お決まりのレストラン、お決まりのテーブル、お決まりのドリンク。So, how was your day?一日に起こったとりとめのない話をする。テーブルの向こうに座る彼は私の手を取って、私の話に聞き入っている。ヘーゼル色の目から優しさと私に向けられる思いが伝わってくる。愛されてる幸せもう何を話しているかどうでもよくなる。ふと会話が途切れる。幸せの光に包まれて、一杯の愛情を彼に向ける。目と目が出会った瞬間同時に、... love you...と呟く。クスっとまた同時に笑う。そんな一瞬が永遠に続く事を願う。。。はっ、と我に返るともうビルの前まで来ていた。時計を見ると丁度5時半。間に合った。またコートが白くなっていた。雪を払ってビルのブザーを鳴らす。ドアを開け階段へ2階まで登る。シャンプーというより、パーマ液の独特の匂いが廊下まで漂っていた。未だ見ぬ君にいつ出会ってもいいように、いつでも綺麗でありたい。EYEBROW WAX = $$25.00$$恋に恋するシングルトン、女道をゆく。 (笑)
Dec 28, 2004
マクドナルドのフライド・ポテトは世界一美味しい!ちょっとオーバーな言い方かもしれないけれど、私も友達もそう言っている。最近はマクドナルドや他のファースト・フードをあまり食べる事は無くなったが、郊外に住んでいる時にはよくドライブ・スルーで買っていた。仕事から遅く帰ってもそれから夕食を作るエネルギーもなく、帰り道にはマクドナルド、ウェンディーズ、ケンタッキー・フライドチキン、タコ・ベル、バーガーキングとアメリカを代表するファーストフード・チェーンが連なっていた。だからついつい車を向けてしまっていた。ニューヨークに来てからは、一人用に出来上がったものがスーパーで沢山売られ、またレストランのテイク・アウトやデリバリーが簡単に出来る為、余程の事が無い限り、ファースト・フードに足を運ぶ事は無くなった。今、4人に一人のアメリカ人が毎日ファースト・フードレストランに行く。マクドナルドでは、マクドナルドの常食者を Heavy Usersと呼んでいるそうだ。なんとなく、ドラッグ(麻薬)の常用者のように聞こえるのは私だけ?このマクドナルド、アメリカのファーストフード業界の43%のシェアを占めているそうだ。マクドナルドの商戦は巧みだ。バスケ界のヒーロー、マイケル・ジョーダンがコマーシャルに出たり、ハッピー・ミールと呼ばれる子供様のセットにおもちゃをつけたり、またチャッキー・チーズと呼ばれる子供の遊び場を持つ。ドナルド・マクドナルド(英語では Ronald McDonald)の絵を見せれば、小さい子供でもそれがドナルドだとすぐ解かる。それだけマクドナルドはアメリカの生活の一部になっているのだ。その反面、マクドナルドを食べて肥満になった人がマクドナルドを相手に訴えた。日本にいたら考えられない事かもしれないが、アメリカの肥満は今後も大きな社会問題となって行くだろう。去年のニュースで、旅客機に乗る体重計算を一人当たり10ポンド(約5キロ)多く計算するようになったと聞いた。そして旅客機の席も昔より幅広く作られるようになった。極めつけはあの世へ行く為に入る棺桶。肥満の人が多く、普通のサイズでは入らない。もっと大きなサイズが作られるようになった。安心して死ねなくなった位、深刻な問題なのだ。私が子供の頃、ケンカする時に「お前のかあさん出ベソ!」 「百貫デブ」という言葉が使われたが、地方に行くとその「百貫デブ」の人達が沢山いる。両国の相撲部屋の人達顔負け。もっともっとお尻の大きいお姉さんやオバサンが存在する。アメリカ3大ネットワークの有名お天気オジサンもその一人だった。そしてGastric Surgery と呼ばれる胃を切り取る手術をして減量を行った。テレビで見ても確実に小さくなっている。この手術、最近はよく聞くのだが、やはりリスクは伴い、お金が無いと出来ない。肥満は低所得者、黒人・ヒスパニック系に多い差別ではなく、事実。ファースト・フードは安くて手軽に食べれる。が、後で払う代償はあまりにも大きい。今週末借りてみたフランスのアニメ “The Triplets of Belleville” に出てくるアメリカ人は皆肥満の人ばかり。アメリカに対しての風刺が入っているのだろう。その中にHOLLYFOODも出てきた。だから今日のタイトルをそう付けた。日本も客観視出来ないのではないだろうか。日本のマクドナルドの店舗数は既に5千店を超えている。やがて日本の子供達もアメリカの子供達のようになって行くのではないか。そんなマクドナルドに挑戦した一人がいる。ドキュメンタリー映画 “Super Size Me” を監督・主演・プロデュースした モーガン・スパーロック( Morgan Spurlock)だ。彼が毎日3食マクドナルドを一ヶ月食べてどうなるかを撮ったドキュメンタリー映画。軽いタッチで描かれているが、内容を知れば知るほど恐くなった。最近、楽天日記で作った食事の写真やレシピを載せている仲間が多く、少し感化されてきている。先日白身の魚、TILAPIA(ティラピア = たらのいとこ)を買って来て、ちゃんと料理が出来た。映画を観て益々、自炊しなければと痛感した。何故って、世界一美味しいマクドナルドのフレンチフライをジャーの中に2ヶ月放置しても、腐りもせずそのままそんなのを見たら、もう二度と食べないと心に誓う。世界一美味しいものは世界一体に悪いものだった。小さいお子さんのいるママ達へ、出来るだけファースト・フードは避けましょう。1ヶ月に1度ならまだ良いらしいですが、出来るなら絶対食べない方が良いみたいです。そしてふと思う。アメリカを車で旅行したら食べるもの無いな。HOLLYFASTFOOD天国、アメリカ。☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★【クイズ 問】 アメリカで一番食べられている野菜は何でしょう?答えは↓ ↓ ↓ ↓ ↓
Dec 27, 2004
今日は楽天日記100回目記念の日記。楽天日記は今年8月から始めたのだが、私が最初に日記を書き始めたのは小学校1年生の時。6月1日だった。6月1日は横浜港開港記念日。次の日、6月2日は開校記念日でお休みだったのを覚えている。母が一冊の日記をくれた。母も日記を書いていたようだった。そして私の祖母は「日誌」と呼んで書いていた。その祖母の夢はいつかその日記を出版する事だった。武士の娘としての誇りを持ち、また教育者だった。私が子供の頃、田舎の祖父母のところへ行くと中年になった教え子達がいつも訪れていた。その祖母は政治や精神世界の事に大変興味があったようだ。祖母の日誌には当時のアメリカ大統領、ケネディーの事が記されている。日本の政治とアメリカの政治の違いを祖母の鋭い感覚で書いている。祖母はその頃ある若い政治家を後援していた。その政治家は大臣までなったが、数年前に多くの政治家と共に失脚している。祖母が亡くなって随分経つが、天国で祖母はそれをどう受け止めただろうか。祖母は私が小学校2年生の時、突然のように亡くなった。まだ若く65歳だった。おしどり夫婦と言われた祖父母だったが、もともと口数の少ない祖父は一変してしまった。私は祖母の事をあまり知らない。が、祖母の意志を私が継いでいるとスピリッチャル・リーディングに行く度に何人ものサイキックに言われた。そして必ず祖母はそのサイキック(占い師)と交信し、私にメッセージを送ってくれる。そんな私の一つの願いは母と共同でその祖母の日誌を出版する事。日記は自分の為に書くものだ。が、実は読んでもらう為に書いている、と言った昔の有名な作家がいる。名前は忘れたが、中学の国語授業で勉強した作家だ。だから祖母の意志をいつか果たしたいと思っている。それに一歩近づいたのが今年夏。知り合いの某日系雑誌編集長が取材に行ける記者を探している、というのを知って連絡を取ったところ、あれよあれよという間にフリーライターになれた。そして私は祖母の名前を少し変えて私のペンネームにして記事を書くようになった。おばあちゃんの名前をちょっと変えて書いてるよ!祖母の写真を見る度にそう語り掛ける。実際に活字になって自分の名前が載った時の嬉しさは何とも言えない。そんな私を見て、母も応援してくれた。取材に行くのに、どうしてもデジカメが必要となった。経済的に余裕の無い私を見て母がこう言った。「おばあちゃんの宝石を売ろうと思ってるの。それでデジカメ買ったらどう?取材に使うのだったら、おばあちゃんもきっと喜ぶわよ。」そうして私はデジカメを購入する事が出来たのだ。だから私が取材に行く時は祖母も一緒と思って頑張る。祖母の叶えられなかった夢を私が実らせる。いつかライフワークのひとつとして出来たら。。。それは私の夢。毎日オフィスに通い、何年も勤めるのはどうも性に合わないとつくづく感じる。日記を書いて自分を見つめ、対談する事で人生変って行く。そう思っている。楽天日記は公の日記である。読んでもらう為に書いている。私は今、このネットを通じての新しい手段のコミュニケーション法を楽しんでいる。コメントの書き込みを毎日していると、会った事は無いのに昔からの知り合いのような感覚を持ったり、ワクワクしたり、先日はオフ会をして実際に会う事が出来た。人と人の繋がりが本当に有り難く思える。いろんな人生を歩んでいる人間が好き。日記からいろんなドラマを垣間見ると、まるでテレビや映画を見ているようだったり。より良い世界を目指して活躍されてる方がいたり。その楽天仲間二人が最後の日記を書いた。楽天日記からの卒業だ。卒業式は英語でGraduationと言うのだが、Commencementとも呼ばれる事も多い。CommencementにはA Start; Beginning = 始まりという意味がある。これは日本の短大を卒業した時、今は亡き恩師が教えてくれた事だ。卒業するということはこれから新しい事が始まっていく事。だから日記閉鎖はその人の人生の過程での新しい始まり。とても残念だが、大きく手を振って、Von Voyage!と見送りたいと思っている。小学校1年生の6月1日から始めた日記を、私は15年間毎日書き続けた。さて、この楽天日記はいつまで続けていけるか?とりあえず、今日は・・・祝!! 100回目!!
Dec 26, 2004
クリスマスの日に持つ感情はその年の神様からの贈り物。イエス・キリスト様の誕生を祝うこの日に感じる事、体験する事を大切にしようとこの数年心がけている。勿論、365日、毎日同じ様に生きていなければならないのだが、12月25日という日にあえて拘っている。心が動く何かを感じるかもしれない。そんな期待を少し持って、溜まっているビデオを見ていた。日本のビデオ屋さんから借りた「プロジェクトX ~挑戦者たち~」。 初めて見る番組だ。日本の半分報道・半分ドキュメンタリー風のこのような番組は大好きだ。「情熱大陸」や終わってしまった「ZONE」はあれば必ず見ている。その為、同僚の間では、ゆーみんはスポ根好きと笑われている。だからビデオ屋さんも私の為に取って置いてくれたり、おススメ番組を教えてくれる。私は常に感動を求めている。相田みつをさんの『一生感動 一生青春』という言葉が大好きだ。相田さんは「理屈では人間は動かない」と言っている。本当にそのとおりだと思う。《人間を根底から動かすものは、難しい理論や理屈ではなくて、全身(いのち)の感動であり、腹の底からの納得であると思います。理論や理屈では、人間は本気では動きません。・・・感動こそ、人間が人間として生きている証(あかし)だと私は思っております。戸籍上の年齢には関係なく、毎日何かに感動し、心のときめくこと、それを、私は青春と呼んでおります。》~相田みつを 『一生感動 一生青春』 よりまさにその言葉どおりの人、「炎の料理人立つ」~オリンピック舞台裏の闘い~ 帝国ホテルの料理人、村上信夫さんの話だった。今でこそ日本人の生み出す料理が世界中に知れ渡り、「料理の鉄人」がアメリカのフード・チャンネル(料理専門のケーブルTV)で大人気となり、来月1月からはアメリカ版「料理の達人」が出来る程。でもその原点を作ったのは、もしかしたらこの村上信夫さんだったのかもしれない。私の生まれる前に行われた東京オリンピックが日本にもたらしたものは、本当に凄いものだと思った。オリンピックと聞けば、ただ単にスポーツしか思い浮かばない私にとって、当時、世界中の選手たちに出す食事をどうするかと翻弄した人達がいたなんて、露知らずだった。昭和34年、当時の日本の姿は囲炉裏端で食べる米に味噌というような質素な食事をする国民と見られていた。各国の選手に混じって、料理人も一緒に来日、厨房に入って来たと言う。それを村上さんは国の誇りをかけて全国から集まった調理人たちと一緒にその技術・味を見せ、最終的には選手達からも「美味い!」と言われたそうだ。中にはメダルを持ってきて、「このメダルはあなたの作ってくれた食事のお陰です。ありがとう。」そう言ってくれた選手もいたという。その東京オリンピック以来、日本のフランス料理は外国から訪れる客人達にも受け入れられるようになって行った。そこに村上信夫さんの努力と人柄があったからこそ、成功したのだろう。村上さんは12歳から料理を始め、帝国ホテルに入り、35歳の時、フランスのリッツホテルに修行に行った。話しかけてくれる同僚フランス人コックがいない中、笑顔を絶やさず働き続け、その真意を見たコック長がフランス料理の全てを伝授してくれた。帰国し、東京オリンピックの料理人リーダーとなった村上さんはその秘伝ソースのレシピを惜し気も無く、選ればれて来た調理人達に伝授した。日本のフランス料理のレベルがあがる人に与えることの出来る人は器が大きい。そしてその人に返っていくものも大きいのだと番組を通じて改めて感じた。80歳を越えてもまだ厨房にオフィスを構えている村上さんにとって料理することは命。「愛情込めて作る。仕事は楽しい。だから美味しく食べて貰える。死んで生まれ変わってもまた料理人になって生まれてきます。」笑顔はまるで甲子園野球児のようだ。自分だけの夢でなく、日本という国の未来のビジョンを持っていた。そして努力人。料理人という情熱があって、それが認められた。そして世界が動いた。イエス・キリスト様も人類の為に、十字架を背負った。メル・ギブソン監督の映画のタイトルは“The Passion of the Christ”熱く生きたい。
Dec 25, 2004
今、アメリカはクリスマス・イブの夜、そして日本はクリスマスの朝。日本にいる皆さん、サンタクロースは来ましたか?アメリカにいる皆さん、明日の朝が楽しみですね。このところ、忘年会、ホリデー・パーティーと飲んで食べて帰宅して、なかなか日記を書く事が出来ませんでした。遅ればせながら、皆さんへ・・・メリー・クリスマス!!前の日記にも書きましたが、クリスマスはイエス・キリスト様の誕生を祝う日。アメリカも日本も商戦に負けて、本当のクリスマスの意味を忘れがちになっているように思えます。私の通った幼稚園はキリスト教系の幼稚園。そこで覚えた聖書の一節を今でも覚えています。『恐れるな。見よ。すべての民に与えられる大きな喜びをあなた方に与える。今日、ダビデの町にあなた方の為に救い主がお生まれになった。この方こそ、主なるキリストである。』 ルカによる福音書2:10-11幼稚園のクリスマスのイベントでこのキリスト誕生の劇を毎年行っていました。私は髪の毛が長く、マリア様の役になり練習をしていたのに、当日はマリア様ではなく天使の役!とても悔しかった事を覚えています。その事は大人になってもずっと引きずっていました。でも何故か今は天使で良かったと思えるようになりました。神様のお使いの天使。より多くの人に神様の愛を運ぶ天使。私は笑いを通して、書く事を通して、神様のお使いになれたらいいなと思ってます。勿論、マリア様のような女性になりたいとも思います。皆さん、素敵なクリスマスをお過ごし下さい。そして平和な世界がいつかきっと来ます様に。。。
Dec 24, 2004
女の子だったろ誰もがいつまでもパパの可愛い娘でいたい。そう思うだろう。私もそうだった。けれども父に可愛がって貰った記憶は私が2-3歳の頃の事しかない。私と父は仲が良くなかったのだ。父が私を可愛がってくれたのは私がまだ赤ちゃんだった頃。ちょっと太り気味の父のお腹の上でよく遊んでいたと母が教えてくれた。というより、父がお腹の上に私を乗せていたようだ。だからかもしれない。私は痩せている男性より、ちょっと太めの人の方が好きだ。父は私が2歳くらいになるまで一度も怒らなかったという。私が初めて怒鳴られた時、驚いて硬直して立ったままオシッコを漏らしたと聞く。3歳年下の弟が出来てからはよく怒られた。私は弟が可愛くて抱っこしたくて抱っこする。けれど3~4歳の私の腕の力がそれ程無いのと、弟の頭が大きくて重たかったからよく落としてしまったのだ。頭が重いから頭が先に落ちた。すると父に頭をひっぱたかれた。父は私が子供だからといって容赦はなかった。子供の頃の写真を見ると、そんな思い出が蘇る。家族旅行で阿蘇山へ行った時。弟の七五三の時。楽しい思い出よりも、ここで殴られた、そう思い出すのだ。私の父は昭和一桁生まれ。当時の満州で産まれた。満鉄で働いていたらしい私の祖父にあたる人は財産もあったようで、父は生まれた時からお手伝いさんや使用人が沢山いて贅沢に暮らしていたようだ。ただ祖父が病弱っだった為、祖母がその看病につきっきりで、その間父は親戚中をたらいまわしにされた。戦後引揚げて来て、また病弱であった祖父が他界してから全てが変った。祖母が事業に失敗し、財産全てを無くしてしまったのだ。祖母にしてみれば女でひとつで父を育てていかなければならず、仕方の無い事だったのだろう。成績は良かったという父は大学進学を諦める事が出来ず、社会人となって働いてから大学へ戻った。だが希望校へは進めず、友達を見て悔しかったのだろう。父はあまりにも自尊心が強く、また本番に弱い性格が左右するようになった。地方公務員となった。そこで私の母と出会い恋愛結婚をした。当時はお見合いの多い時代。両親がどんな大恋愛をしたか興味があった。母曰く、父は母の豊胸に惹かれただけだと言った。約10歳も年上の父を何故母が選んだかは、もうすぐ6年前になる父の葬式の日まで理解出来なかった。母は4人姉妹の3番目。とても控えめな人の気持を察する事の出来る人。だから子供のいない叔父・叔母のところへ養女として行った。自分の親ではないから我侭も言えず、我慢を沢山したのだろう。甘える事も出来なかっただろう。その事を思うと今でも涙が自然に出てしまう。小学校の頃から母の話を人にすると涙ぐんでいた。母の生い立ちを思うと、その頃読んでいた「赤毛のアン」や「小公女」のような主人公を思ってしまったのだ。私が小学校低学年の頃、祖母が病気になり亡くなると、祖父の世話をする為に横浜と田舎を良く行き来していた。留守中は父と私と弟の三人。母が食事を作り置きしてくれた時もあったが、父が料理をした時も多い。その食事が不味いのだ。だが父が怒るので食べなければならない。更に食事が不味く感じた。私と弟が大きくなると、二人でボイコットした。それからは吉野屋の牛丼等を買って来て食べる事になった。父は食べる事とお酒が大好きだった。毎晩のように飲んだ。ビールを飲んで、焼酎。一升ビンはすぐなくなる。そしてお酒が入った時に怒られるのが嫌だった。木のハンガーで殴られたり、足で蹴られたり。内臓破裂で死んじゃうんじゃないか、って本気で思った事もある。弟が中学生になった頃、私と父がやりあうと私の肩を持って代わりにやりあってくれた。父も弟には手が出し易い。取っ組み合いの喧嘩も頻繁になった。ダイニングの壁に穴が長い間空いていた。それはその時に出来たものだ。高校時代、半年くらい口を利かなかった時がある。会話はすべて母を通して行った。私は反抗期にあり、そして頑固だ。母にとってもこ憎たらしいティーンエージャーだったと思う。留学してからは、父に何年も会わない時が続いた。また父に会いたくない為に、たとえ10日間でも帰りたくなかったのかもしれない。就職して、久しぶりに日本へ一時帰国する事になった。父に会うのがとても不安だった。その頃には私も大人なのだから、父と和解しなければならないと思っていた。そしてそんな私を励ましてくれる友達がいた。「お父さんを友達と思えばいいのよ。」そう言ってくれた友達は既にお父様を亡くされた人だった。もう一人の友達は、「お父さんが変らなくても、ゆーみんが変ればいいんだよ。大人なんだから出来るよね。」そう言われると意地を張る事など出来なかった。日本へ帰って4年ぶりにあった父の姿を見て、影で密かに涙を流した。パパ、年取っちゃたなぁ。私と父を結ぶ唯一の話題。それは映画。日本で公開済みのアメリカ映画の話や女優・俳優のゴシップなど、この手の話題ならば会話が出来た。3歳から私を宝塚観劇に連れて行ってくれて、映画もよく連れて行ってくれたからこそ、私が演劇好きになったのだ。私がスタンドアップ・コメディーを始めて直ぐに亡くなったので私の舞台姿はバレーの発表会しか見た事が無い。もし見ていたらどう思っただろう。私の潜在意識の中には、父に好かれたいが為に舞台に立ちたいと思っているところがあるかもしれない。私の帰国の日。朝、父が出かける前に私の部屋に来た。「頑張ってな。はい、握手。」私と父は握手で別れた。それが精一杯だった。それ以来、毎年一度帰国した。父が定年退職して間もなく入院の知らせを聞いた。ガンだった。本人は気づいていたかもしれないが、父には知らせなかった。大手術をしてお腹を大きく開いて閉じた。その傷痕を見た私は胸がつかえた。父の最後のクリスマスとなった年、私は神様からのプレゼントのように、使ったと思っていたマイレージがそのまま残っていて、それを使って帰る事が出来た。ヤンキースの濃紺のTシャツとラスベガスの写真集をプレゼントした。それが一緒に祝った最後のクリスマスとお正月になった。私はある事を心に決めていた。アメリカへ戻る日、父がまた私のところへ来た。軽く会話をした後、「じゃ、チューして」そう、私はパパにキスしてあげようと思っていたのだ。どう切り出そうか悩んでいた。それが父から歩よってくれたのだ。パパの頬っぺたにチューしてあげる。「ありがとう。じゃ。」父に気づかれないように出てくる涙をぬぐった。それから数ヶ月後、5年前の3月初旬、再入院するという電話を貰った。私は数週間後に帰国する予定を立ててた矢先だった。それが父と交わした最後の電話になるなど、その時は夢にも思っていなかった。私の帰国予定の2-3日前、母から電話があった。声がいつもと違った。危ないらしい、と。出来るだけ早く帰って来て欲しいという電話だった。仕事の都合1日だけ早めて帰った。16時間のフライト中はただ涙が止まらなかった。成田空港に着いて母と連絡を取った。「駄目だった。」1日間に合わなかった。父は私の帰るのを楽しみにしていたという。そしてお見舞いに行っていた義妹を見て、「ゆーみんか、ゆーみんか」と何度も言ったそうだ。父の中では私が帰国したと思ったのだろう。家族が帰って間もなくして父は息を引き取ったそうだ。お葬式の前、家族で父の体を洗った。大きかった父の体が小さくしぼんでいる。「パパ!」と呼んだら、「おう、ゆーみん帰ってきたか。」と応えてくれそうなのに、何も言ってくれない。私は父の足を丹念に洗った。この足で蹴られたんだ愛情を受けずに育ったから、私や家族を愛する事の出来なかった父。可哀相だったんだな、と大人になってやっと理解出来た。お葬式父の同級生達に会って話しをする。私の知らない父の顔を改めて知った。ウンチクが好きでおしゃべり、宴会には欠かせない人だと言われた。それ、私と同じ。私にも父の血が流れている。それを自覚した瞬間だった。そして沢山の花に包まれて笑っている父の写真に向かって言った。パパ、アイ・ラブ・ユー!数ヶ月前、「ゆーみん」と父の声を一瞬聞いた。父が亡くなってから始めての事だ。そして、その頃行ったサイキック・セッションで父からのメッセージがあった。あの時の手術は辛かったと。今はあちらの世界から私を見守っていると。パパ、ゆーみんはいつでもパパのダディーズ・リトルガールだよ!Twinkle, twinkle, little star, How I wonder what you are!
Dec 21, 2004
恋に落ちてしまった。それもフジTVのドラマ「ラスト・クリスマス」の主人公に! 架空の人物であってもテレビを見ている時は、私も同じ空間の中にいる。夢に描いたようなパーフェクトな男性像。それに織田裕二の魅力が加わって、ブラウン管に吸い込まれていきたい願望へと変る。毎週日曜日の午後6時(ニューヨーク放映時間)が最近待ち遠しくてたまらない。この1年くらい、私は日本人男性に惹かれる事が良くある。今まで自分の生活の中にいなかった人達なので、ちょっと新鮮に思えるのと、やはり「あ・うん」の呼吸で物事が分かり合えるのが良い。例えば見て育ったテレビ番組や流行していた事など、世代が近ければ「あ、そうそう」とすぐ理解して貰える。また私は横浜で育ったので、横浜や東京を知っている人だとこのニューヨークに居て、小さい商店街の裏道にある焼き鳥屋の話で盛り上がったりしてしまうのだ。その反面、日本人以外の男性だとそういう話題は出来ない。どちらが良いというのではない。私は幸い兄貴分の友達が何人かいるので、たまに日本人同士で集まる事がある。その時はアメリカ人のボーイフレンド、ガールフレンドはお留守番という事もある。集まる場所は大抵が居酒屋。自分のオーダーは自分のもの、というアメリカ人のオーダーの仕方は日本人が集まると難しい。残念ながら兄貴達は兄貴であって、決して春木健次にはならないのだが。日本人男性とお付き合いする事になって困るのが呼び名。最初は「春木さん」 「青井」と苗字で呼び合っていても、何時の間にか「健次」 「由希」と呼び合う。私はその境目が解からない。英語なら、最初っからTOMはTOM、BILLはBILLと呼びあう。だから苗字から下の名前で呼ぶようになるとこっ恥ずかしい。そしてTOMやBILLには私の下の名前を呼び捨てにされても、何とも思わないのに、日本人男性から言われると何故か関係が近くなるような錯覚に陥る。気がつくと3歩後ろを歩いていたり?! TOMとBILLではそのような事にはならないのに。春木健次は皆に優しい。時に優しすぎで青井由希はよく平気だな、と思う事もある。優しいから好きであっても、そこは大きい心を持って信頼するしかないのだろう。大きな愛で包まれれば、きっと安心していられる。恋する二人が同時にメールを送ったり、電話を掛けようと思った時に掛かってきたり、シンクロする事がよくある。私もそういう経験がある。そんな時思うのは、目に見えない線で結ばれているのだと思っている。一度私が相手にプレゼントしようと思ったものを私の誕生日に貰った事がある。たまたま私の誕生日が数週間程早く来た為に私が先に受け取ったのだが、貰った途端笑ってしまった。考えている事が同じ。なんとなく嬉しい感情が産まれる。それが真面目で、仕事も出来て、優しくて、母親思いで、頼り甲斐があって、格好好い男性とだったら、絶対一緒に居たくなるだろうな。そして扉一つ隔てたところに住んでいたら、どうしても気になってしまうだろうな。そしてアメリカのドラマと違うのがとても健全な事。アメリカのTVは規制があるが、売れる条件の中に、SEX SELLSが入っている為、映画では必要項目7つの内の一つに入っている。それが日本のテレビにはない。だからもしかしたらそれは一種のチラリズムかもしれない。それが私には新鮮に映るのだろう。キスしたり抱擁したりエッチしたりしない日本人カップル像が出来上がってしまう。ただ最近は日本へ帰国した時に若者が街でキスしたりするのを見るようになったので、ドラマはドラマなんだと解かっているが。クリスマスの次の日の来週で最終回。それまで年甲斐も無く春木健次に恋していよう。WANTED!! 春木健次!!★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★日本にいる皆様、来週まで結末はヒミツにして下さい。なんとなくどうなるか予想はつくけど。。。
Dec 19, 2004
昨夜、会社のクリスマス・パーティーが行われた。デート相手の無い私は勿論ゲスト無しで出席。私と同じ部署の同僚たちも彼女のいない男達なので、ゲスト無しで出席。なんとなく一緒に居たくなかったけれど、殆どがゲストと一緒の参加だった。やはりアメリカだなぁ、と改めて思った。オープン・バーが5時半から始まり、社長の挨拶が6時半から始まるという段取りだった。ただあまりにも早く行きたくはなかったのだが、5時ごろ女子トイレにいると凄い光景を見てしまった。鏡に向かって化粧をする日本人女子社員達の列。あるアメリカ人女の子はヘアー・アイロンでカールを巻いている。トイレのドアにはロングドレスが掛かっている。あまりの烈しさに私は圧倒されてしまった。昼間、違う部署の女の子が、「皆、気合入れてるよ。ランチの時、爪塗ってたもん。」ふ~うん、そうなんだ。それが私の反応だった。格好良い男性社員がいたり、華やかな業種の会社のホリデー・パーティーならまだ理解出来るが、ここは日系商社。DJが来る事を会場に着いて始めて知った。日本人男性上司がフロアで躍る姿は、正直な所あんまり見たくない姿だ。フリー・フード、フリー・ドリンクだから出席するそういう同僚二人と私は一緒に座った。メインのフロアーは既に満席。結局、私達は2階のバルコニーに座った。視界に入らないだろうと思っていた所が、いろんな人に見つかり、手を振られてしまった。男性同僚二人を両脇に座る私は、人の目にどう映ったのだろう。私の上司は、噂話も好きなのでまた勝手な事を思っていたかもしれない。私がこのパーティーで一番会いたかった人は、上司の奥さんだった。もともとは同じ会社だったという奥さん。とっても興味があった。2階のバルコニーから部長と上司が同席し、その隣に座る綺麗な日本人女性がいた。え???あの上司の奥さん???遠くから見ても、とても感じのよさそうな人だった。ビュッフェスタイルだったので、プレートを取りに行った後に軽く挨拶に行った。とても可愛い人だった。マラソンを走って数日前打ち上げをした駐在員の方達が話しているのを見つけて、挨拶に行くと近くのテーブルに座っている日本人女性の肩を叩き、「うちの家内です。」私は失神しそうだった。とっても綺麗で可愛い人だった。もう一人の駐在員の奥様も素敵な人。周りを見渡してみる。いつも廊下ですれ違うだけの日本人駐在員たち。そのとなりに座る奥さん達は本当に綺麗で素敵な人ばかり!あとから同僚に聞いたところによると、入社時、この会社は「顔で決めていた」そうだ。今も同じか知らないけれど、仕事で忙しい商社マンの出会いは会社が考慮していくれている時代だったのだ! その駐妻の方達は世代も私と前後するくらいに人が多いのだろう。一瞬、自分の人生を振り返ってしまった。そういえば短大2年になった時、周りの友達が大変身したの思い出した。就職活動の為髪を切り、ジーパンは一切履かず、スカートを履き、お化粧も始めたのだ。入学式の時から卒業したらアメリカ留学する、と言っていた私は変らずジーパンにTシャツ。化粧といってもアイライナーとマスカラだけ。ファンデーションなんて持っていなかった。当時の就職は、バブルが弾ける前の引く手あまたの時代。世間からは「お嫁さんにしたい短大卒」の中に入っていたらしく、就職活動した友達が最初の説明会で最後まで残った話を聞いた事があった。実家にもたくさんの会社からメールが来た。それには一切目も通さず、「本当にいいの?」と母に聞かれた事があった。当時の私にはアメリカ留学しか頭になく、試しに受けてみる、そんな考えさえ浮かんで来なかった。大変身した友達は、スチュワーデスや商社に入るのを目指していた。20そこそこで、将来をしっかり考えていたのだとしたら、凄いなと思う。商社 → 商社マンと結婚 → 海外赴任 = 将来の幸せ = 家庭 + 安定収入そういえば、旦那さんについてアメリカ西海岸にいるクラスメートがいる。同じに海外にいるとしても、私とは生活が全く違う。お給料 - 生活費 = 残高ナシ + 勿論、 貯蓄ナシ 大学卒業後、就職してすぐの頃、ニュージャージーにあった当時のヤオハン(現在のミツワ)に行った時も、私はカゴを使用、そして駐在家族は大きなカートに好きなものを値段も見ずにぼんぼん入れていた。私は値段と睨めっこ。結局いつも買っていたのは、大好きなカールとおせんべい、カレーの素(ハウスやバーモントカレー)くらいだった。駐妻たちにまた目をやる。とても幸せそうだ。いや、きっと幸せなのだろう。そして旦那である駐在員達も綺麗な奥さんできっと自慢なのだろう。許せなくなった。私の部署は日本人は上司、同僚、私の3人だけ。女は私ひとり。たまに「お客さん」や出張者と食事の後、どこのキャバクラに行くか上司が電話で話しているのを聞く。「たまにね」 「息抜き」なんていうが、それだったらマラソンでも走って根性あるところを見せて欲しい。私は秘書でないのが上司にとっては幸いだ。阻止してしまう事があるかもしれない。オフ会に来ていた杏0520さんもご主人が駐在員だと聞いた。前はアムステルダムの駐在だったそうだ。自分や自分達の意志ではなく、あちこちに、それも海外に住む苦労はそれはそれできっと大変なんだと思う。お子さんがいる人達は子供の事を一人で世話をし、日本と事情が違ってどこに行くのも車で送り迎えをしなければならない。キャバクラにゴルフの旦那達より強くなるのは意外にも駐妻たちかもしれない。私が就職する道を選び、結婚し、子供がいて、旦那の転勤で海外という道を歩んでいたらどうだっただろう。幸せな生活を送っているだろうか。Nah.色んなことを体験しないと気が済まない性格と、住むところを自由に自分で決められない生活は、私にとって意外に窮屈なものかもしれない。お疲れ気味の土曜日に好きな時に起きてぐーたら出来るこの自由。とても有り難く思える。大切にしよう。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆【追記】駐在員でもキャバクラに行かれない方もいらっしゃると思うし、それにキャバクラが悪いところだと思っているのではありません。その辺のご理解、よろしくお願い致します。それと駐妻という呼び方はNYStreetさんに教えて貰ったばかりの言葉です。決して中傷ではありません。※ それからこの話は私が見た事であって、全ての駐在員や奥さん達がそうという訳じゃなく、また時代や場所にによって全く違うと思います。ニューヨークのような住み易い場所であるのと、発展途上国での違い、また70年代、80年代、90年代と今とまた違います。先駆者達が頑張ったからこそ、今が築きあげられたんですよね。時代はまだ日本人や日本企業がアメリカ社会に受け入れられていなかった時代だと、その苦労は駐在員もご家族も相当だったと思います。日記はあくまで30代~40代半ばの私の会社の駐在員の事なので、ご理解下さい。☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆思い出したので・・・【追記2】「冬ソナ」好きがいるのは知ってましたが、社長の挨拶の後、いきなりテーマ曲が流れた時は、思わず「止めて~」と叫びそうでした。
Dec 18, 2004
第一回楽天NYオフ会を行った。毎日の日記で会話をする“お隣さん”に会いたいと思ったのは、私だけでなかった。都合がつかなくて参加出来なかった人もいたが、総勢6人集合。会話をするのには丁度よい人数だったと思う。そして、この2-3日冷え込むニューヨークに最適の鍋料理。それもお店自慢(?)の豆乳鍋。ウェイトレスのお姉さんが、「お肌もつるつるになりますよ~」その一声で皆合意! 豆乳鍋の食べ放題! プラス飲み放題! 7時から始まるというので、始まる5分前に着くと、既に女性一人が来ていると聞いた。ひまわり娘さん2216さんと直ぐに思った。実はお店に予約を入れる際の名前に困った。私は「楽天NY」と入れようと NY Street さん に連絡したところ、「名前を変えましょうよ!」と言われてたのを思い出し、結局は私の楽天ハンドルネーム、「ゆーみん」で入れた。それにしても、ちょっと変な集団だったかもしれない。店の掲示板には会社名のところに「ゆーみん」と書かれてあったのだから。2階の座敷へと案内されると、ひまわり娘さんがいた。「ひまわりさん? こんにちは、ゆーみんです。」そう挨拶をした。フルネームの自己紹介は全員が揃ってから。それまではハンドルネームで呼び合っていた私達。そして次に到着したのが、アメリカへ来てまだ2ヶ月という 杏0520さん。 杏(あん)さんは、大好きだという手作りのお菓子のクッキーを参加者ひとりひとりに持って来てくれた。ひとつづつラッピングされたクッキー、帰ってから食べたのだが、とっても美味しい! でもそれ以上に彼女のそんな心遣いが嬉しかった。仕事で少し遅れて来たのが、グーさん。 人が増える度にドキドキ、わくわくしていた。CalebNYさんがその後到着。その直前、私達はCalebさんの名前について話し合っていた。殆どの人が、「Cableさん」と思っていたようだった。ひまわり娘さんが、「私、言われちゃった。Calebさんが、『前々から言おうと思っていたけど、僕の名前はCalebでCableじゃないんだ。』」と言った。後に本人にCalebっていう名前の由来を聞いてみると、ユダヤの名前で意味は$#!@ と言う事で、皆大爆笑!本当、可笑しかった。NYStreetさんが仕事で遅くなると連絡を受けていたので、飲み放題が始まった。杏さんも、グーさんも、Calebさんもお酒は強くないと言った。「ゆーみんさんに潰されない様にしなきゃ!」と言ったのは、CalebNYさん。日記からは飲めそうな雰囲気だったのに。なんて、そんな事は解かる筈もない。私のペースがゆっくりだとと、「遅いよ」なんて言われたり。そうしているうちにNYStreetさんが到着。サイトに写真をアップしている唯一人のメンバー。だから違和感はあまり無かった。ツアーガイドという事もあり、NYStreetさんの軽妙トークに益々笑いに拍車が掛かった。仕事途中で抜け出して来てくれたグーさん。ちょっと前にご家族が日本からいらしゃって、大変そうだけど幸せそうでした。豆乳鍋はとても美味しく、何度も豚肉のお替わりをした私達。本当に良く食べた。最初はイーストビレッジの居酒屋での開催を考えていたけれど、年齢層にも最適のミッドタウンのこのお店で行った事は正解だったと思った。話題の一番は勿論楽天日記の事。共通のリンク先の人達の事やこれからのNYオフ会の事。ツアーガイドのNYStreetさんがいるだけに心強い。OOO行きましょうよ、と簡単に言われると、アレンジも簡単に出来そうな気がする。皆それぞれ違った世界で生きる私達。楽天日記という輪で繋がり、こうやって実際に会う事も出来た。日本に参加しなかったかもしれないオフ会。ニューヨークという場所にいるから可能になったのかもしれない。実際、ここニューヨークの日系社会は狭いのだ。今までもどこかですれ違っていたかもしれない。そう考えるとますます不思議。一人だけ遠くに住まわれる杏さんが、一足先に帰宅した。彼女が作ったクッキーは高級洋菓子店で求めるような本当に美味しい味。違う種類のクッキーがそれぞれ小さい袋に入っていて、食べるのが少し勿体無い気もした。絶対また食べたい!帰りは私は逆方向になりながらも、皆と一緒にタイムス・スクエアまで歩いて記念撮影。いかにもニューヨークという一瞬をひまわり娘さんのカメラに収めた。楽しくて時間があっという間に過ぎてしまった今日のオフ会。メンバーの中では、クリスマス・パーティーと呼ぶ人もいれば、オヤジ系の入った私は最初っから忘年会と呼んでいた。今度は温泉旅行かもしれないし、春にセントラル・パークで家族も一緒にピクニックをするかもしれない。これからも楽しい事が一杯の予感。会えて本当に良かった。皆さん、今日のご参加有難う御座います!そしてこれからもよろしくお願します!
Dec 16, 2004
幼い頃の記憶には、サンタクロースが私にプレゼントを持って来た事が無い。お兄さんやお姉さんのいる友達からサンタクロースがいない事を聞いたのはまだ幼稚園の頃だったのかもしれない。それを3つ年下の弟に言う事を両親から硬く禁じられていたのだと、この前遊びに来た母から聞いた。両親との約束を守って迎えたクリスマスの朝。私の枕元には両親の買ってくれたノートブック・バインダーが置かれ、弟のところには散歩して歩く事の出来るダックッスフンドのおもちゃがプレゼントされた。団地住まいで本当のペットを飼う事の出来ない私たち兄弟にとって、犬の散歩は夢のような事。特に弟は動物が大好きだった。直ぐにおもちゃのダックスフンドの散歩に出かけた。雨上がりでアスファルトが濡れ、そこに朝日が照り返す光景を今でも覚えている。早朝で未だ誰も起きている気配もなく、私と手を繋ぐ弟が嬉しそうにおもちゃのダックスフンドをガラガラと音を立てて歩かせた。冷たい空気を浴びながら、弟にサンタクロースがいない事を話さなくて良かったと密かに思った。それが私の楽しかった最後のクリスマスの思い出。物心がついた頃、私は父と折り合いが良くなく、父は私にプレゼントをくれなかった。弟がクリスマスの朝起きると枕元にはプレゼントがあったのに、私には無かった。それを見た叔母が、「ハンカチの一枚でも包んでくれたらいいのにねぇ。」私は枕を見つめ、涙がこぼれないように必死で堪えた。ポツ。大きな滴が枕に跡を残した。父の職場関係の子供の施設で毎年父は子供達のサンタクロースだった。体が大きく職場で一番最適だったのだろう。そのサンタクロースは実の娘のサンタクロースではなかった。年頃になり、親よりも異性にプレゼントを貰いたくなる年頃になった10代後半。初めて出来た彼と最初にお祝いしたのがクリスマス。空気で膨らます大きな風船の雪だるまを貰った。私をいくつだと思っているんだろう。その他に何かプレゼントして貰ったかもしれないけれど、あの大きな白い雪だるましか覚えていない。今思うと彼も私も可愛く思える。あの雪だるまは昨年甥のりんりんに渡されたと聞いた。きっと雪だるまも喜んでるに違いない。そして昨年のクリスマスはある人と一緒に教会に行った。その事はもう閉ざしたの扉の向こうにある思い出。きっと時が経って忘れていくのかもしれない。そして今年。少し早いサンタさんがやって来たかな、と感じたのも束の間それは幻だった。10年という年月を経て変ったこと、変らないもの。たった一夜の数時間では解からないものがはっきりと見えた。今まで私は「こだわり」を捨てられずに砂漠の中の蜃気楼を追っていたのかもしれない。不思議な事に嘆く事もなく、悲しくもない。何かが心の中でふっきれた気がする。思い出が、こだわりが無くなって行く分だけ心にスペースが出来ていく。新しい“気持”が生まれた時の場所がちゃんとある。ギュウギュウ詰めになっては入れるものも入って来難くなるだろう。2000年前、砂漠を3人の博士たちが東方で見た星に導かれて馬小屋に辿り着いた。幼稚園の時に覚えた一節を今でも空で言う事が出来る。『恐れるな。見よ。すべての民に与えられる大きな喜びをあなた方に与える。今日、ダビデの町にあなた方の為に救い主がお生まれになった。この方こそ、主なるキリストである。』 ルカによる福音書2:10-11私もこの寒いニューヨークの空を見上げよう。そして私の星を探そう。もう迷わない。サンタクロースはいつか来る。きっと来る。そう信じて。。。★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆明日、12月16日は楽天NY第一回オフ会開催です!いきなり冷え込んだNY。鍋の食べ放題で心まで暖かくなるといいな。飲み放題なので、お酒はほどほどに・・・出来るかな! (笑)
Dec 15, 2004
彼の誕生日から連絡が再開した元彼がちょうど3ヶ月目の昨日、本当にやって来た。別れて丸10年。結婚しているカップルなら伝統的にはTinかAluminum、現代風にはDiamondsをプレゼントするそうだ。ダイアモンドというのがちょっぴり気に掛かる。実は去年もこの時期、一日だけ会っている。その時も会うまでは電話で数回話したり、インターネットのチャトで会話をしていた。彼の滞在先はNYにアパートを持つ友達の家族、彼の母親のいるニュージャージー、そして父親のいるニューオリンズだった。ただNYへは計1週間程の滞在だったので、私は1度ではなく2-3度は会いたかった。だが、会って次の日に連絡があってからそれっきりとなった。だから去年の年末年始にかけて、自棄酒飲んでいた。もう二度と会わない。二度と連絡なんてしない!そう心に決めて今年を迎えた。毎年必ず彼の誕生日には「おめでとう」のメールを入れていた。今年9月8日。どうしようかと悩んだ。気が付くと別れて丸10年。これも記念と思って、「お誕生日おめでとう。あれから10年経ったわね。」それだけ書いてメールを送った。彼からは長いメールが返ってきたが、そのままにしていた。そうしているうちにインスタントメッセージでまたチャットが始まったのだ。彼は私の2つ下。この10年の間、もし彼が30歳まで結婚していなくて、私が独身だったら結婚しよう、と冗談半分に言われた事がある。そして私も結婚しなければ、子供は欲しいから協力してね、と数度笑いながら話した事もある。半分冗談、半分本気。どうして私がそんな彼とくされ縁を続けているのか。それは初めて会った時の衝撃にも近い何かが私の中を駆け巡ったからかもしれない。当時私にはアメリカ大陸の反対側にボーイフレンドがいた。私達の関係は終わりに近かった。どんなにお互いが好き会っていても、どうしても結婚では結ばれないと思っていた。プロポーズも受けたがそれを断ったのだ。そんな時、彼が現れた。大学のルームメートの彼の高校時代の同級生が彼だった。彼は高校を卒業して2年制のコミュミティーカレッジを卒業後就職し、私の通っていた大学に編入が決まっていた。彼がルームメートの彼と私達の寮のアパートに訪ねて来た時、私は食器の洗い物をしていたと彼は言う。何故か私は覚えていない。でも初めて目が合った時、彼の視線が体の奥まで突き刺さるようだった。その時のことは彼も鮮明に覚えているという。目は心の扉そうよく言われるが、彼の緑色の目には彼の心の優しさが見えるのだ。例え彼が私を傷つけているのを知りながら行動をとったとしても。あれから1年。本当に彼はやってきた。親友の助言で、会う場所をグランド・セントラル駅の時計の下に決めた。「ロマンチックよ!」そんな彼女の言葉に私はとても緊張していた。会社を早退し、グランドセントラルへ向かう私はまるで初めてのブラインド・デートにでも出かけるような気分だった。高鳴る胸が弾けそうになりながら、グランドセントラル駅のホールを急ぎ足で歩いた。すると、階段近くに彼の後ろ姿を見つけた。ドキドキの一瞬。Hey!呼び声に振り返る彼は、あの日初めて会った時と同じ瞳をしていた。軽くハグして挨拶して、タクシー乗り場へと歩きだした。これから一週間の滞在。喧嘩ばかりしていた事を笑いながらきっと過ごせる。背伸びしようと一生懸命だった彼はすっかり大人の男になっている。クリスマスを前に、サンタさんは私のお願いを聞いてくれるかしら。サンタさん。今年、ゆーみんはいい子でした。☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★ということで、日記はしばしお休みします。
Dec 9, 2004
あっという間に楽しい10日間が終わってしまった。帰国前夜から明日帰ると察したのだろうか、3歳の甥っこ、りんりんは私の言う事を良く聞き、優しくしてくれた。チューのサービスもいつもより一杯してくれた。遊びに来た最初の頃は、“Kiss me please”と言っても、落ちそうなほっぺを出してくるだけだったのに、次第にちゃんとお口にチューしてくれるようになっていた。それだけで私はメロメロになってしまう。こんなに愛しく思える子供がいる弟夫婦はとても幸せだ。りんりんはパパの名を滞在最後の方でしか発しなかったのに、義妹が「ママの方がパパがいなくて、ちょっと淋しいわ」と一週間を過ぎた頃に言っていたのが印象的だった。弟も電話を頻繁にかけて来た。結婚して初めてひとりで過ごす10日間。『りんりんがいれば、勉強なかなかできないな~なんて思っていたのだけど、いざ一人でポツンとしていると妙に寂しくなったりして。お姉ちゃんはいつも一人で頑張ってるのに、情けないね~(笑) オイラも少し強くなったかな??』こんなメールが届いていた。喧嘩もよくしていると母に聞いているが、こんな弟夫婦が可愛く思える。二人が愛し合って幸せだから、りんりんも愛情一杯受けて幸せなんだな、と。ちょっぴり羨ましい。毎日我が子を家に置いて、朝仕事に出かける弟やお父さん達。後ろ髪を引かれる思いで仕事をし、家族を養っているんだな、とパパの気持も少し理解出来た気がする。だから仕事も頑張れるのだな、と。りんりんがアメリカ体験したと同じに私は貴重なママ体験をさせて貰った。結局会社は一日だけお休みを貰っただけで、毎日出社したのだけれど頭の中はりんりんの事で一杯だった。お昼休みに家に電話をかけると、りんりんが受話器を奪って私に10分話し掛けてくれた。言っている事の殆どは解らなかったけど、りんりんに私の存在がはっきりした事が嬉しかった。義妹の希望でグランド・ゼロにも行ってきた。そこに行くまでははしゃいでいたりんりんも、何故か大人しくなって、橋の上からツインタワー跡地をじーっと眺めていた。りんりんの生まれる一ヶ月ちょっと前にあったテロ。義妹はなるべくTVを見ないように努めていたと聞いている。「りんりん、ここでね、たくさんの人が死んじゃったの。戦争は嫌だね。戦争がなくなるといいね。」「う~ん」解っているのかいないのか、それは解らない。りんりんの目には何が映っていたのだろう。そして何を感じていたのだろう。その後はメーシーズのサンタさんに会いに行った。義妹は日本のサンタさんより年取っていて、太っているから本物見たいと笑っていた。りんりんはそのサンタさんの膝の上に座って、何が欲しいか言えたのだ。勿論私が少しヘルプしているけれど。I know you’ve been a good boy. What would you like for Christmas?I wanna train..蚊のなくような声で、でもちゃんとそう答えたのだ。自分がいい子か悪い子かも知っている。いい子にしている時は、私が訊ねると、「りんりん、いい子~」と元気よく答えるのだが、愚図っている時は訊ねても首を振る。悪い子だと自覚しているのだ。それが私には可愛くてならない。「りんりん、いい子?ゆーみんとお約束しようね。 Promise!」そう言って、いつも指きりげんまんをしていた。義妹はクリスマスのリクエストに応えるため、機関車トーマスの電車とレールのセットをToy’s R Usで購入した。帰国する日の朝のりんりんの機嫌はとても悪かった。もともと朝の機嫌が悪く、前の晩遅くに寝たので睡眠時間が短かった所為だろう。愚図っていた。帰ることが解っていたようだ。空港では私がずーっと抱っこしていた。母と義妹が免税店で買い物中、一緒に遊んでいたのだが、そのうち私の膝の上に座り、頭を肩にもたらせていた。これが母が子に抱く、Unconditional Loveなのだろうか。愛で包み込まれた感覚を味わった。これで当分お別れそう思った私の方が辛くなってしまった。次に会う時はもっと言葉を喋り、反抗期になっているだろう。男の子なだけに、いつまで甘えてくれるかも解らない。でもこの瞬間は永遠の宝物。さよならと言うと泣いていたりんりんに教えた言葉はSee You! また会う日まで。 私の側にずっといたりんりん。なかなか動かないりんりんは、義妹に「早くしなさい!ゆーみんとこにいるの?」と怒られて、「うん」と答えた。義妹には悪いが嬉しかった。ゲートに入る前にまた最後のチューをしてくれた。母がそのまま行きそうになったので、「ママ、私にハグしてくれないの~?」こんな注文をしたのも初めてだ。いつもは10日間の滞在中、必ず喧嘩をする私と母。原因は私にあるのだが、今回はその喧嘩も母に怒られる事も無かった。母とちゃんと話した感覚も無かった。いつもは、Mom, I love you very much, but it’s time for you to go home!そう言って別れるのだが。勿論、ちょっぴり淋しい気分で涙しそうになるけれど。3人の姿が見えなくなるまで、私はそこで見送っていた。帰りのバスで、疲労感がどーっと沸き起こった。楽しかったが大変な毎日だった。それを世のお母さん達は24時間、7日、毎日しているのだ。脱帽する。家族が帰って、一息いれたいところだが、明日から元彼がやってくる。本当に来るのだ。大人の時間に戻って楽しもうと思っているけれど、不安も一杯。わたしたち、どうなるのかな???☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★【追記】今日は日本がパールハーバー攻撃して63周年目。時差があるので、アメリカでは12月7日にあたる。当時の生存者も今では80歳以上の方たちになる。先日、友達の結婚式に参加して隣に座ったのがそんなおじいさんだった。20歳の時、進駐軍の一人として銀座に行った事があると言っていた。私より、主に母と話していたのだが、日本語の単語をまだ覚えているようで一生懸命に母と話をしていた。20歳という若者が経験した戦後の日本。目を細めて私達を眺める彼の目に映っていたのは、遠い昔の思い出なのだろう。友達の父親は沖縄本土で戦った事のあるアメリカ兵士。土産として恐ろしいものを持ち帰り、箪笥の中にしまっているらしい。小さい頃、そんな父親が見せるその恐ろしい物が怖かったと友達は私に話した事がある。いつしか日本で戦った事も口にしなくなったという友達のお父さん。心はずっと癒されずに年を老いているのかもしれない。8月6日、9日、15日と同じに少し緊張する今日、12月7日。初めて渡米した15年前よりもその緊張度が緩やかになった気がする。そして12月8日、ジョン・レノンの命日。恒例となったストロベリー・フィールドへ行って歌って来ようと思っている。And so this is Christmas War is over For weak and for strong If you want it For rich and the poor ones War is over The world is so wrong Now And so Happy Christmas War is over For black and for white If you want it For yellow and red ones War is over Let's stop all the fight Now A very merry Christmas And a happy New Year Let's hope it's a good one Without any fear願 平和
Dec 7, 2004
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