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一日がかりのツアーになる、エル・ユンケ熱帯多雨林(Rain Forest)やポンセ行きをやめて、半日ツアーのオールド・サン・ファン観光に参加した。天候も考慮した上、また自分たちでも観光出来るけれど、ガイドからの説明が聞けること、またプエルトリコの主要産業のひとつであるラム酒、バカーディ(Bacardi)工場見学にも行けると言う事で参加した。もちろん、サービスでラム酒が飲めると知っていたから。もちろん、これに乗り気だったのは母ではなく、もちろん私だった。 ラム酒で作るカクテルにはいろいろあるけれど、代表的なのがピナコラーダ(Pina Colada)、ダイキリ(Daiquiri)、マイタイ(Mai Tai)、最近の流行はモヒート(Mojito)、そしてプエルトリコではバカーディ&コーク(コカコーラ)。工場見学の時、バーテンの説明がありウィスキーと同じようにラム酒にも3年もの、5年もの、・・などがあると説明してくれた。その時、「ラム&コークとオーダーすると・・何が出てくる?」「ブランドじゃない、ハウスで一番安いラム酒とコーク。だからバカーディと使命して!」そんな簡単なカクテル豆知識も披露してくれた。もちろん、バーテン学校に通ったことのある私は知っていたけれど。その時のインストラクターが何度も繰り返し言っていたのが分量ということだった。もちろんバカーディやアブソルート、ブランド名も関係するだろうけれど、カクテルは数種類のお酒やジュースと混ぜる。だから正しい分量がだと安いラム酒、ジン、ウォッカでも美味しいお酒が出来るのだと。工場見学が始まる前と後にたとえプラスチックのカップに入ったカクテルでもタダ(無料)というのはさらに美味しく感じだ。何故か持ち歩いていた柿の種が良いつまみになるなんて夢にも思っていなかった。 このラム酒、実はプエルトリコの歴史に無くてはならない存在のものなのだ。 ラム酒を作るのにはサトウキビが必要。そのサトウキビをクリストファー・コロンバスがプエルトリコに持ってきたことに始まる。ラムの主原料となるのは砂糖を製造する際にでるさとうきびの副産物モラセス(糖蜜)と呼ばれるもので、さとうきびの汁が沸騰し結晶になった後に残るとろりとした黒いシロップ。モラセスを発酵させ、蒸留し、樫樽で熟成させる。ライトでドライなプエルト・リコのラムは、培養イースト菌を使って、通常以上に速く発酵を進め、1-4年熟成させるという。 けれどこのサトウキビ畑の労働力として連れてこられたのがアフリカの奴隷たち。アメリカ本土だけでなく、カリブの島の黒人の歴史というのを改めて知った気がした。ラム酒は当時イギリス領地のアメリカに送られていたとネットでさらに調べてみると出ていたのだけれど、この奴隷売買や大英帝国が貿易商に膨大な課税をしようとしたこともアメリカ独立戦争になった要因のひとつでもあるとあった。 バカーディ工場の終わりには最近のコマーシャルがガンガンにかかる音楽と共に、クラブで踊るセクシーな人たちがバカーディを飲むシーンが巨大スクリーンに映し出されたのだけれども、その一滴になるまでの歴史を思うと何故か違和感を感じた。 次にバーに行くときはバカーデイラム酒のカクテルを頼もう・・・【ピナコラーダのレシピ】1 1/2oz. ラム酒(バカーディにしましょう 笑)2 oz. パイナップルジュース1 oz. ココナッツミルク1/2 バナナ1/2 氷上記全てをブレンダーにいれて20-30秒かける。パイナップルの実を付けて出来上がり!
Jan 28, 2006

私がプエルトリコと出会ったのは10年以上前の東海岸に着いた初日の事だった。 2年半程住んだシアトルを後にして、私はニュージャージー州の大学に編入することになった。不安な気持ち一杯、ダンボール数箱を持って着いたニューアーク空港。どんよりした雲と冷たそうな東海岸の人たちに囲まれ、私の不安はいっそう増すばかりだった。大学からバンを運転してくれたアメリカ人の学生がスウェーデン人の留学生二人と私を乗せて寮まで連れて行ってくれた。スウェーデン人は男子学生と女子学生。二人ともバンの中では全くといって良いほど口を開かなかった。 大好きな彼を置いて一人乗り込んだ東海岸。その初日から後悔してしまいそうなくらい心細くなっていた。寮にはまだ一般の学生は戻って来ていなく、冬休みも寮に残っているほんの一握りの学生しかいなかった。バンを運転してくれた学生は私たちをその日のディナーに招待してくれた。私が入った寮は、寮といってもアパート式のキッチンやバスルームが付いていた。ルームメートになる人たちもまだ来ぬ寮で一人だった私はそのディナーが楽しみだった。 夕方、彼のアパートを訪ねると、ひとりの女の子が既に来ていた。とても明るく、親しく私に話しかけてくれた。私が日本人だと知ると、「私の名前はSです。」そう日本語で挨拶した。彼女はプエルトリコ大学の4年生で1セメスターだけの留学生だったのだ。そして彼女はプエルトリコで日本語を勉強していたという。私に会ってとっても喜んでいた。彼女の陽気で気さくな性格は後から集まったアメリカ人、酔わないと話出さないスウェーデン人の学生たちまでも魅了した。もちろん、私も彼女が大好きになった。 アメリカ人や日本人の友達とは違い、ラテン系の女友達は心が大きく、温かく、思いやりがあり、そのうえとっても美人でセクシー。当時は20歳そこそこだった彼女は本当に若さが弾けて美しかった。その彼女は日本についていろいろ私に質問してきた。と、同時に私にプエルトリコについて色々と教えてくれた。 常夏のプエルトリコから来た彼女は1月の東海岸の冬が寒く、いつもジャケットを2枚着込んでいた。その代わり、彼女の部屋はヒーター全開、プエルトリコにいるようにいつも暑かった。だから部屋ではいつもTシャツやタンクトップ姿でいた。そしてサルサ音楽はもちろんのこと、どんな音楽がかかっていようとも、その音楽に合わせて歌い踊っていた。その自由奔放さ、根っからの陽気さをもつ彼女は私が今までに会ったことの無いタイプの人だった。私たちはいつしか「ベスト・フレンド」となっていた。 その彼女は帰国し、大学を卒業した後同じプエルトリコ大学の同級生と結婚した。私は彼女の結婚式に呼ばれた。それに合わせてスペイン語も習い始めていた。結婚式の数日前というのに、彼女とフィアンセとベスト・マンを勤めたフィアンセの親友が空港まで迎えに来てくれ、結婚式の前の日までいろいろとプエルトリコを案内してくれた。 彼女の実家は首都サン・ファンから約20分程のところにあるバヤモンという街。そこを拠点に、首都サン・ファン、古都オールド・サン・ファン、島の反対側にある町ポンセ、そしてカリブで唯ひとつという熱帯多雨林(Rain Forest)のエル・ユンケを観光した。首都のサン・ファンは海岸沿いにホテル群が立ち並び、観光客はここで休暇を楽しむ。その井出達から観光客か、ローカルの人か一目でわかる。 オールド・サン・ファンはコロンバスが2度目のアメリカ航海した時にプエルトリコを発見したことに始まり、その大部分を砦、城壁に囲まれている。町並みはヨーロッパを思わせるたたずまいで、南国のカラフルな色彩の建物はまるでサルサでも踊っているようだ。ポンセはちょっと寂れた感じがしたが、1883年にあった大火災から町を守ったというこで、当時の古い消防舎が今は博物館として残っている。エル・ユンケはRain Forest というぐらい、いつも雨が降っているらしい。私が行った時も小雨が降っていたのに遠くに見える海岸は晴れているのがはっきりわかった。 そんな昔の思い出を手探りしながら、母との4日間をどう過ごそうかと私は貰ってきたガイド小冊子と睨めっこしていた。プエルトリコの主要産業のひとつ バカーディー ラム酒工場
Jan 27, 2006

母が3週間程遊びに来ていた。何度もニューヨークに遊びに来ている母は冬ということもあり、あまり観光らしいことはせずに近所へ買い物へ行ったりするだけの、のんびりした時間を過ごしていた。昨年12月にリタイアしたばかりの母は今回の旅行目的は普通の生活をすることだと言っていた。私にとっては朝ごはん、お昼のお弁当、夕食の三食ともバランスの良い美味しいものであったのが本当に有り難かった。そんな母と近場の暖かい場所へ旅行しようと計画を立てた。本当ならばバミューダあたりにゴルフしに行きたかったのだけれども、残念ながら母はゴルフをしない。ビーチでのんびり・・と思ったけれど、太陽には肌をさらさない母なので、プエルトリコに行くことに決めた。プエルトリコならば私も一度行ったことがあり、観光出来る場所があったからだ。それに親友が私たちの訪れた2週間前にバケーションで行っていて、飛行機・ホテル、現地情報などをいろいろ教えてくれた。朝、7時の飛行機に乗って時差一時間のプエルトリコには午前11時45分に着く予定だった。丸々半日フリーとなり、着いた直後は曇っていた空もホテルに着いた頃には青空へと変わっていた。心配していたことのひとつは天候だった。事前にネットで調べた時には滞在予定の4日間とも雨マークだったのだ。母は晴れ女で雨季のタイに5日間旅行中、一度も雨に降られずにガイドさんにまで「不思議ですねぇ」と言われた経歴がある。私の普段の行いよりも母に賭けていた。暖冬でニューヨークも暖かいかったけれど、サン・ファン空港を降りてすぐにじわっと南国特有の暖かい風が肌にあたりとても気持ちが良かった。ホテルに向かうタクシーの中で、私は10年前に訪れたこの地をもう一度思い出していた。前回は大学時代に知り合った友達の結婚式で訪れ、滞在も彼女のご両親の家だった。だから観光客が行くようなところというより、一般プエルトリコ人の生活に溶け込み、飛び交う会話もスペイン語だった。このプエルトリコ、あまり日本では知られていないかもしれないけれど、実はアメリカ自治領。プエルトリコ人はアメリカのパスポートを持っているけれども選挙権がなく、Federal Tax(連邦税)は払っていないと二日目に参加したツアーガイドさんが説明してくれた。パスポートのことは知っていたけれど、連邦税を払っていないというのは知らなかった。よく見るとレストランで食事しても税金は含まれていなかった。その代わり、サービスは良くないのにしっかり20%のチップ代を書き込まれていた。アメリカのパスポートがあることで、プエルトリカンはアメリカに自由に行き来出来る。だから近隣のカリブの島の人たちはプエルトリコに来たがっているというのも聞いたことがある。そうすれば、アメリカ本土に行き易いからだというのだ。またある時期、ニューヨークに多く出稼ぎに流出したようで、今でも多くのプエルトリコ人が住んでいる。今では2世、3世となった人たちもいるが、ニューヨークとプエルトリカンをかけて、Nuyorican(ニューヨリカン)と呼んでいる。その多くはスパニッシュ・ハーレムやブロンクスに住んでいる。そんなニューヨリカンで有名になった一人がJ.Loことジェニファー・ロペスだ。彼女の旦那で歌手のマーク・アンソニーもニューヨリカン。私が行った時、ちょうど二人は映画撮影でプエルトリコに来ていた様子。ロケ現場にも出くわした。多くの人だかりがあったので、聞いてみたのだけれど、プエルトリコ人はプエルトリカンとしての誇りがとても高い。だから世界的スーパースターとなったJ.Loをきっと誇りに思っているに違いない。ホテルにチェックインした母と私は早速ホテルのある近辺の散策へと出かけた。私にとっては初めての場所だったけれど、親友も同じホテルに泊まり、また彼女は5年前にも同じところに滞在したのでその付近の変わりようを良く覚えていた。「前行った時は何にもなかったけど、今はカルティエやフェラガモのお店も出来て、随分変わったわよ」歩いて5分くらいのところにカルティエをはじめ、5店舗ほどのブランド・ショップが並んでいた。どうも免税店にもなっているようだった。中を覗いてみるとお客は私たち以外にはいなくて、ちょっと居づらい雰囲気に包まれてしまった。私たちの泊まっていたホテルにはカジノがあり、またその一帯のホテルにもあるようだった。きっとそこで儲けた人が買い物するのかな、と思った。というのもプエルトリコ人の平均収入はとても低い。ガイドさんの話によるとざっと日本円にして年収160万から180万だという。その代わり、物価が安い。もちろん、私たちのような観光客は観光客相手の場所へ行くために、あまり安いと感じないけれど。カリブの緑色ともライト・ブルーともいえる海沿いに面してはホテルが立ち並んでいた。けれどその多くが立て直しか取り壊しがされていた。もしかして、昨年のハリケーンでダメージがあったのではないかと思ったので、ホテルのコンシェルジェに聞いてみると、その辺り一帯は多くのホテルが倒産したという。けれどまた最近、そこが買われて再建されているのだと聞いた。次に訪れることがあれば、きっとそこはさらに賑わっているかもしれないと思った。 ・・・ 続くホテルからの眺め
Jan 26, 2006
春の陽気のようだった土曜日から、また気温の下がった日曜日の午後、今年初めてセントラル・パークへ走りに行った。その間、日本から遊びに来ている母は家でお留守番。気温が下がったと言っても例年のこの時期に比べてとても暖かい。着いたセントラル・パークでは多くの人が走ったり、散歩したり冬のひとときを楽しんでいた。今年のNYCマラソンを走る決意をした親友と私は前より頻繁にジム通いを一緒にするようになった。走る事の目的の一つは減量すること。そして昨年の冬から蓄えこんでしまった脂肪を無くす事、そしてジムでウェイト・トレーニングすることで筋肉をつけて贅肉を削ぎ落とそうと試みているのだ。とは言ってもなかなか思うように減量出来ない。20代の頃は食事をちょっと減らすだけですぐに2-3キロ痩せることが出来たのに、やはり30代になるとそうはいかない。それは親友も同じ様だった。ほんの2年前は私も彼女もヘソ出しルックで出歩いていたのに、今では隠す事ばかり気に掛けている。これではボーイフレンドも出来ないハズ、と一ヶ月前ぐらいから気を入れ直したのだ。ジムのランニングマシーンで走るのと、アスファルトの路上を走るのでは全く違う。特にセントラル・パークは意外と起伏が激しい。いつもジムで30分から45分走っているけれども、路上は久しぶりになるのでゆっくりと走り始めた。私は彼女と走るのが好きだ。それはペースが一緒だから。走り始めの平坦な道を走っている時はお喋りしながら走る。もちろん、話題はオトコ関係のことが多い。最近レポートすることの何も無い私は、彼女の話を聞いていた。すると彼女がこう言った。「喜んでいいわよ。私、元カレAのこと、スッキリ、スッパリ吹っ切ったわよ。」息を吐きながら、チャンピオンみたいに両手をあげてポーズまで見せてくれた。元カレと言っても、くっついたり離れたりを繰り返していた。でもその期間が約10年近くになる。私も似たような経験をしているので良くわかるのだ。「よかったね。これで新しい恋も始まるよ!」「あ~、アイツのせいで私の20代は台無しだった!くやしい~~!」走っていると、何故か自分に不思議パワーが加わり「何でもかかって来い!」というような力が湧き出るような気がする。私も走って失恋を乗り越えたことが何度あったことか・・・。彼女にもそのパワーが漲っているようだった。そんな勢いだったせいか、いつもちょっと苦しくなる上り坂をいとも簡単に駆け抜けてしまった。きっとひとりで走っていたら意思が挫けて歩いていたかもしれないと思うと走るパートナーがいることがとても有難かった。一昨年前までは彼女の妹と一緒に走っていたのだけれど、妹の方が背が高く、つまり足が長くてペースが速い。その反対に親友は私と同じ位の身長、体重も似たり寄ったりで、ペースが同じ。だからレースの時は妹と走ると良い記録が出るのだと二人に言ったたことがある。それを聞いた姉妹は笑っていた。でもこれからは時間ではなく、完走する事を目的にしようと思っている。約30分のランニングを終えて帰路に着いた。今はまだ裸の木々たちも、走りこみするようになる頃にはきっと緑の葉を大きく精一杯に広げて雄々しく風になびいていることだろう。せっかちな私は春の訪れが待ち遠しくてたまらない。
Jan 22, 2006
ネット仲間がニューヨーカーは実はとっても優しいのだということについて日記を書いたその日、私にもシンクロするような事があった。 日本から訪ねて来る母が私のアパートに着く頃に私も家に帰れるように歯医者の予約を入れていた。そうすれば会社も正々堂々と早退出来る。けれどそんな時に限って、帰宅間際にあれだこれだと舞い込んで来るのが常。昨日もそんな感じで慌てて退社した。 昨日のニューヨークは暖かいのだけれど、霧雨のような雨が降り、私のいる36階の窓からはたった1ブロック先のビルも霧のような白いモヤの中に隠れて全く見えないような天気だった。 ビルを出ると霧雨のように見えた雨は結構激しく降っていた。持っていた折り畳みの傘を広げ、タクシーを拾おうとパークアベニューに向かった。 4時半という時間は微妙な時間で、OFF DUTYと書かれた任務終了のタクシーの量が実は多い。でも私の経験からアップタウンに行きたいと言うと乗せてくれるタクシーもよくある。そんな事を期待していた。 時間に追われ、雨に濡れながら手をあげていた。なかなか捕まらない。少し歩いてみるが、こんな日に限ってOFF DUTYのタクシーは知らん顔で通り過ぎていく。 手と口でアップタウンを意味するジェスチャーと86丁目の8と6を手で描いても、ドライバーには私やタクシーを捕まえようと必死になっているビジネスマン達は眼中にないようだった。 すると、近くにタクシーが停まっているのを見つけた。中から降りてくる人がいるようだった。 「やった!」 と思って駆けつけると、そこには既に30代ぐらいのビジネスマンが傘をたたみながら立っていた。私は思い切って聞いてみた。 「すみません、どこまで行くんですか?」 私の目的地を通ってより先に行く事がわかった。 Get in! 乗せていってくれることになった。他愛無い会話を交換し、私が降りようとしてお財布からお金を渡そうと思った時、 「いいよ。」 そう言って受け取らなかった。 「どうせ通り道だったんだし・・・」 私は丁重にお礼を述べ、彼の好意に甘える事にした。お陰で歯医者の予約にもギリギリで滑り込むことが出来た。 よく日本の下町人情という言葉を耳にするけれど、ここ、ニューヨークではニューヨーカーの心意気と言ったところだろうか。 ギブ・アンド・テイク それを良く心得て実行出来るようになった時、きっと胸を張ってニューヨーカーになったと言えるのじゃないかと思う。 私もそんなカッコいいニューヨーカーになりたいと思う。
Jan 12, 2006
末広がりの切り番88888をゲットされた方がいましたら、私書箱までご連絡ください。最近、なかなか日記が更新出来ないでいますが、いつも読んで下さって有難う御座います。今日から約3週間、母が遊びに来ます。新しいラップトップも数日後には来る予定なので楽しみがいっぱいです。今後は写真ももっと掲載していきたいと思ってますのでご期待くださいネ!
Jan 11, 2006
(注:映画『ブロークバック・マウンテン』のネタバレあり)1960年代のワイオミング州。壮大な大自然の中で生まれた愛の行方は?日本で公開されるのかわからないけれど、Golden Globeやオスカー候補と言われている『Brokeback Mountain』を観てきた。監督はアン・リー。『クラウチン・タイガー』の監督だけれども、私にはジェーン・オースティン原作のイギリス映画『いつか晴れた日に』(原題:Sense and Sensibility)の監督としての印象がとても強い。中国人でありながら、19世紀イギリスを見事に描き出しているというのはホントに凄いと思ったのだ。その監督がこの作品で、1960年代のワイオミング州で出会ったカウボーイ2人を見事に描いた。同性愛者であり、お互いに結婚し子供を持っても相手に変わらぬ愛を持ち続ける姿は異性愛者間の愛をも越える感動するものだった。でも時は1960年代。約40年経った今もその息も止まるような美しい自然はその頃ときっと変わらないだろう。そしてそこに住む人たちも余り変わってはいないと思う。今でもアウトローと呼ばれるような人たちが人と接するのを嫌って住んでいるように思えるのだ。ほんの十年程前にシアトルに住んでいた頃、ワシントン州とアイダホ州境で黒人がリンチされたニュースが入って来た時は身の毛がよだつような思いをしたことがある。留学中だった私は進路を決めなくてはいけなくて、シアトルを離れて近辺の州の田舎に行くか、思い切って東海岸に行くか迷い、結局、東海岸へ来る事にした。頭の中に「恐い」という観念があったからかもしれない。どんな天候になるか、どんな野生動物に出会うかわからない大自然の中で、数ヶ月も一緒に生活していればその人がたった一人の人間であったら尚更の事、性別を越えて芽生えていく情や愛というのがあるのかもしれない。家庭を築いた二人が、自分を騙し、家族を騙してダブルライフを送りながらも約20年にも渡って年に数回会い続けた。涙が零れた。きっとこんな2人が以外にも多く実在し、人知れず歴史に埋もれていったような気がしてならない。けれど私もオンナだからもし結婚相手に私に隠れて数十年来の同性の相手がいたと知ったら???60年代から80年代にかけて、もしその2人がニューヨークにいたとしたら?テーマが同性愛というのが誇張されているけれど、愛、背信・・本当にいろいろ考えさせられる作品だった。スクリーン一杯に映し出されるワイオミングの山を見ながら私が初めてアメリカの土を踏んだ時に見たグランド・ティートンの山並みを思い出した。複雑な問題を抱え込む人々がいても、自然がその存在までも打ち消してしまうようなアメリカ。Go west! 私の中で西への思いがまた騒いでいる。
Jan 4, 2006
明けましておめでとうございます。皆様が健康で毎朝を笑顔で迎える一年となりますように!* * * * * * * *私の年末は大片付けに追われていたのだけれども、大晦日の日ギリギリで終わりました。ガラクタを捨てるのは風水的にも良いことのようで、スッキリした気分で新しい年を迎えることが出来ました。今まではパーティーに行ったり、大騒ぎしたニューイヤーズイブを過ごしていたけれど、最近は親友とディナーに出かけて近くのバーでタイムズ・スクエアのカウントダウンをバーのテレビで見て年越し・・というのがお決まりになってます。今年もそうでした。良き友達がいるというのが本当に有難く思います。2006年はまたチャレンジの年にしていきたいと思います。昨年走れなかった4度目のニューヨークシティマラソンに挑戦します!嬉しい事に親友も走ると決めたので一緒にトレーニング出来そうです。ゴルフはもっと上手になりたいので、頑張りたいと思います。マラソンのトレーニングとゴルフ、上手いバランスで出来るといいなぁ。それから新たに生まれたやりたい事や夢に向かって一歩ずつ歩いて行こうと思ってます。そして、やっぱり素敵な人との出会いのある年にしたい!!皆様もご家族が健康で幸せで、夢を追って叶えて、笑って、踊って・・・素晴らしい一年となりますように!今年も宜しくお願いします!By ゆーみん
Jan 3, 2006
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