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あとりです。今年もよろしゅうに。 ■第十七章 蜘蛛の巣間切り■ 昨年末の更新で桜さんからいただいたバトンをアップしたところ、 旭陽さんからいただいたコメントで気持ちが一気に盛り上がったので、 今回、ぜひあらためて考察させてください! 旭陽さん、卒論脱稿おめでとうございます☆ 軽~い気持ちで読み流そう! 【男子の品格─育ちのいい男についての考察v─】 まずはチェック項目☆ これだけは譲れない!【DNAのいい男の三つの条件】 1:性格がいい。 2:タフで賢い。 3:もちがいい。 男だったら1と2は軽く備えていてほしいなv ただし、3まで完備となると、やや難しい。 コンディションのイイ状態が一過性のものではなく、 ずーっとキープできている人が“DNAのいい男”だ! 「隠しても隠し切れない“育ちの良さ”の見抜き方v」 ↓まずこれをチェック! 【ビジュアルチェック項目】─“もちがいい”についての考察─ 1:肌がきれいである。 育ちのいい男は、不思議と肌がきれい。 徹夜が続いてクマを作っていても、体力をなくしてやつれていても、 肌そのものには不思議とくだびれた印象がない。 肌のきめと張りのいい男は、つまり容貌のもちがいい男。 育ちのいい男は、10代~40代までの外見がそんなに著しくは変化しない。 2:いい目をしている。 育ちのいい男は、いい目をしている。 目には度量も知性も思慮もぜーんぶ現れている。 ひるんだような自信なさげな目をする男は論外! 3:首が据わっている。 痩せていても肩幅がしっかりしていて首が動かない男。 首が据わっていない男は将来性がない。 首が据わっているということは、見えないバックボーンがあるということ。 【メンタルチェック項目】─“性格がいい”についての考察── 1:人懐こい 男女の別なく、人間全般に妙な垣根を持たず、 「だいたいの人=僕に優しい」と根拠なく脳にインプットされている。 通りすがりの掃除のおばさんだろうが、すべての人は自分によくしてくれる 味方なのだと無邪気に信じ込んでいる。 2:急がない 育ちのいい男は落ち着いている。我慢ができる。ダイエットができる。 何に関しても腹八分が守れる男は育ちがいい。 頭の冴えてる男はがっついていない。 エレベーターで「開」を押し、自分は最後に降りるのが育ちのいい男。 自分の価値がわかっているから、君子危うきに近寄らず。 スピード違反のキップを切られるようでは、育ちのいい男とはいえない。 3:気前がいい 気前がいい=プライドの持ち方がいい=性格がいい、ということ。 プライドとは自尊心を守るヨロイではなく「第三者が感じる自分への手ごたえ」 であることを自然に身に着けている。育ちの良い男はお高くとまっていない。 むしろ、自分の才知や得た糧を、周囲に分配しようとする意思を持っている。 男の性格の良さなんて、けちけちしているかいないか、 それだけで判定できるというもの。 【言動チェック項目─言葉編─】 1:挨拶ができる ウェイターや店員さん、バスやタクシーの運転手さんなどに横柄な男は、 本心では思いやりのない、いわゆる“おさとの知れる”男。 公園掃除、駅や社内のトイレ掃除をしている人に、 自分から「おはようございます」と挨拶のできる男、 コンビニのレジで「お願いします」と言っている男は育ちのいい男。 2:お礼が言える 他人の親切に対して、「どうも」や「すみません」などの一言で片付けない。 育ちのいい男は、ものを拾ってもらったり、ドアを開けて待っていてもらったら 「ありがとうございます」と感謝している。 3:省略しない 育ちのいい男は、流行語、省略語などを多用しない。 デジカメを「デジタルカメラ」、留守電を「留守番電話」、 「せまっ」「はやっ」など「い抜き言葉」なども省略せずにきちんと言う。 ちなみに「やばい」はやくざ言葉なので絶対に使わない(⇔「まずい」)。 省略語や流行語を意図して使う場合もあるので、それを見抜くのも一興。 【言動チェック項目─行動編─】 1:テレビは消えている。 育ちのいい男の脳は、テレビを消すことでスイッチがオンされる。 ブラウン管から得る受け身の知識が好きではない男は育ちがいい。 2:歪んでいるものを揃えられる。 スリッパを揃えることができないのは、自分の心が歪んでいるから。 玄関先でみんなのスリッパや靴をさりげなく揃えている男は育ちのいい男。 片付けるまでしなくてもいい(育ちのいい男は案外片付けが苦手)。 ただし、歪んでいるもの、落ちているものをそのままにはしていない。 服が床に落ちていたら、拾って軽くたたんでソファの肘にかける。 目の前にゴミが落ちていて、近くにゴミ箱があるならば拾って捨てる。 電車の座席にゴミが落ちていれば、ひと目につかない端に寄せておく。 あるべき姿に戻す助力を惜しまない男は、心の真っ直ぐな育ちのいい男。 3:お風呂好き。 風呂に入ることは、禊をすること。 毎日お風呂に入っていれば、自然と心も身体も洗練されていく。 風呂嫌いな男は、育ちのいい男ではないどころか、霊に取り憑かれている。 【持ち物検査項目】 1:ひとめでわかるブランド品は身に着けていない。 育ちのいい男は、時計などにはスイスの駅員さんが愛用する シンプルでもののいい実用品を使っていたりする。 家柄のいい男はブランド品などで虚飾したりしない。 なぜなら、自分自身がブランドだから。 2:財布がきれい。 育ちのいい男は、持ち物も温故知新。くたびれた持ち物は買い換えている。 ボロボロのストラップ、薄汚れた財布、埃っぽい靴、擦り切れた鞄を見て、 「古い物をを大切にしている人だ」と感心する人はいない。 清潔感と物持ちの良さのバランスをわきまえている。 3:携帯は見せない。 育ちのいい男は、携帯を操作している姿を見せない。 秘密主義というわけではなく、マナーとして、誰かといるときや家の中では 携帯を操作しない。携帯はあくまでビジネス上のツールだと認識している。 いつも穏やかに微笑んでいても、いざというときに毅然としたストイックさを 見せる男が育ちのいい男。ちなみに、育ちのいい男は絵文字は使わない。 イタイ男ほどメールがラブリー。 ───。 (↓ココ重要!) じゃあ、品格に優れた人だけがイイ男なんだ、と考えがちではありますが、 品格のある男こそ、専門性、個性にあふれた大編成の友人たちと行動を共に している場合が多いものです。 育ちのいい男の男友達は、自分の個性とは別種で、しかもキャラが濃い人が 多いのです。いつもイイ子ちゃんモードではなく、 ときには予想を裏切ったりしてくれるのが、育ちのいい男のヨユーなのです。 さらに言うなら、金持ちケンカせず。 ほかの男は気にしないのが、品格ある男子。 どうしてもほかの男が気になるなら、いいところを学ぶようにしている。 また、「品格ある男」とつるむと、知らずに品格が身についてくるものです。 逆にモテない男同士でつるむほど、幸薄い男になってしまう。 「モテない病」は伝染するのです。 女子の皆さまへ── 今すぐに、身の回りにイイ男が見つからなくてもいいんです。 出会った彼を「少しでもイイ男にしよう」的に、あなたが “男のトップブリーダー”として目覚めるのもいい。 なによりも、私の大切なお友達に楽しんで読んでいただけるように祈りながら、 一生懸命チェック項目考えました☆ こっちにもDNAのイイ男いるかもよ^^ ■第十七章 蜘蛛の巣間切り■ ◆応援ありがとうございます! 次回更新は2月1日(日)●水争い●です。お久しぶりの快長さんが大活躍! 日記のテーマは「お坊ちゃまに学ぶ、男子の品格言葉大研究」です☆ お坊ちゃまがアレを言いたいとき、どんなふうに婉曲して言うの??? お坊ちゃま同士の無難な会話から、真意と本音を探ります! (ひーたんはきちんと読むように!)
2009年01月15日
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皆さま、新年明けましておめでとうございます ──いや重け吉事── 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます 箱根駅伝とともにご一読くださいませ──■第十六章 権現のいらえ■ わが友、透子さんが詣でてくださった箱根権現の現在はこちら。 透子さんの画像の湖側からの様相はこちら。 四半世紀の時を超え、映像の妙です~☆ ありがとうございます透子さん。 第五章の日記にもリンクさせてください! 年頭にあたり──抱負など さて、日本人は「走る民」なのだと気づいたのは最近のこと。 Qちゃんしかり、元旦に日本中が熱狂する箱根駅伝しかり。 騎馬民族でもなく、農耕民族でもない、「疾走民族」である日本人について、 私はこの一年をかけて考察してみたいと思います。 皆さま。どうか箱根駅伝をご覧になってください。 アナウンサーが毎年一度は「芦ノ湖」「箱根用水」について触れてくれます。 その時、この小さなブログの物語を思い出していただければしあわせです。 217.9キロの箱根駅伝のルートこそ、与一が友野与右衛門がその昔、 芦ノ湖と江戸を往復した路程に他なりません。 そして、選手たちの飛ぶような足取りこそ、風の民、山渡る者たちのスピード そのものであることを、ぜひ目撃してください。 箱根権現は特定の者に微笑むことはありません。 むしろ、これはと目をつけた者にむごい仕打ちをする。 前の年に優勝した順大が途中棄権する──去年の“惨劇”も箱根路では、 まま起こり得ることです。 今年箱根権現はどの選手に目をつけ、運命の撹乱を仕掛けてくるのでしょう。 女神の食い入るような目を振り切って大手町の結界まで逃げ切れたチームが 今年の優勝者となるのです。 さて、一年の計たる日記、今日も今日とて小難しくてごめんなさい; 【元旦に寄せて─辺界の輝き─】 汝も神ぞや 遊べ遊べ 君も神ぞや 遊べ遊べ ─神楽歌の一節─ かつて日本には、士・農・工・商の身分制度から外れて生きる「辺界の人々」がいました。彼らは人里を離れ、深山を回遊しつつ豊穣たる文化を育んできたのです。 この人々は独自の知識を持ち、たまさかに里に下りては地付き衆にそれを伝えていました。誰にどのようにして伝えるかは、すべて「常民ではない人々」が決定したことでした。 いわば、回遊民に接触する積極的権利は、常民の方に持たされていなかったのです。 さて、これまで日本の文化史については、たくさんの業績が発表されてきましたが、まだまだ空隙があることは確かです。 特に大和王朝の正史で「遊部(あそびべ)」と呼ばれた職能集団──その起源や中世以降の歴史、今日に至るその文化の流れも、充分に明らかになっていません。 しかしながら、遊ぶ民、あるいは回遊する民の問題は、日本人起源論というか、日本民族形成史論と深く関わっているともいえるのです。 あらためて言うまでもありませんが、日本人は中国大陸や朝鮮半島はもちろんのこと、北方や南方から運ばれてきた様々な文化の流れに乗って形成されました。 文化の流れとは、人の流れのこと。アジアの各地からやってきた人々が、列島のいわゆる「常民」が主軸となった文化を生成していきました。 一方で、そこから意図的に隠された者の系譜もあるはず。 古代の文献資料である『古事記』『日本書紀』『風土記』に出てくる国栖(くず)、土蜘蛛、隼人などがそれです。 土蜘蛛は八束脛(やつかはぎ)とも呼ばれました。足が長いという意味です。『日本書紀』でも土蜘蛛は「身短くして足長し」とされています。ここから、彼らは明らかに縄文系の先住民とは系統を異にしている血脈であることがわかります。 土蜘蛛と呼ばれた人々は、また別の名に「稀人(まれびと)」とも称されました。稀人とは、大和詞で来訪神のことを指します。 古代の遊行神人こそが、回遊する民の系譜であったと考えていたのが、折口信夫です。 「山に生き山に死ぬる人びとあり。これ山民なり。里に生き里に死ぬる人びとあり。これ常民なり。山と里のあわいに流れ、旅に生まれ旅に死ぬるものあり。これ一所不住、一畝不耕の遊民なり。 山人は骨なり。常民は肉なり。山と里の間を流れる遊民は血なり。血液なき社会は、生ける社会にあらず。遊民は社会の血流なり。生存の証なり。遊民をみずからの内に認めざる社会は、停滞し枯死す。かれらは永遠の遊民として社会を流浪し、世に活力と生命とをあたえる者なり。遊行神人の意義、またここに存す。山は彼岸なり。里は此岸なり。このふたつの世の皮膜を流れ生きるもの、これ遊民の道なり。かれらは統治せず。統治されず。一片の赤心、これを同朋と常民の志立てるものに捧ぐ。されど人の世、歴史の流れのなかに、遊行の遍路、為政者の思惑にいれられざることあり」 さて、折口が唱えた遊行神人論は、回遊民について考察する上でも大変興味深い。 たとえば、万歳・春駒・大黒舞というのは元旦の寿ぎの門付け芸ですが、これは士農工商に入らない人々が担っていました。言い換えれば、士農工商の身分にある者は、万歳ができないわけです。回遊民だけが「新春の門開き万歳」が許されている。普段は山中深く隠れ棲んでいる遊行の人々が、元旦にのみ、神仏の代理人として門口に登場するわけです。 現在、新春のハレの日に万歳の祝詞を唱えることをしているのは、天皇だけです。 不思議ですよね。天皇と山中深くに隠れ棲んだ稀人だけが、元旦に言霊をさきわう──このふたつの系譜が、互いに関連があることを暗示しているかのようです。 今でも、皇室最高の儀式である御大典(ごたいてん:即位の礼)の度、京都以西の山で白い煙が立ち上るというのは有名なエピソードです。柳田國男は大正天皇の即位の礼の際、それを実際に目にして、「あれはいにしえに朝廷から隠された土蜘蛛たちが、この度の御大典を寿ぐ徴ではないか」述懐しています。回遊民の世界にずっと近づいていくと、天皇制というものとどこかで繋がるのではないかと、柳田は考えていたようです。 その鍵となるのが、アマテラスは実は男神であった、という仮説です。巫女オホヒルメが神を代行するうちに神自体と誤解された。では、そこで原アマテラス的なものはどうなったか。 それを体言したのがスサノオです。この神の運命が示すように、カミアソビはこれ以降、貴種流離の形を取ることになりました。それが人界による遊びの原型となります。 さすらう貴種の系譜は、ヤマトタケルや隠岐に流された後鳥羽院、後醍醐天皇、ずっと下って一休宗純へ、あるいは虚構世界である『伊勢物語』の「をとこ」や光源氏へと続きます。 流謫(るたく)、さすらいと一体化した遊びは、旅に死んだ西行、宗祇、芭蕉、そして、放浪する芸能者、山渡る回遊民たちのものでもありました。 話は戻りますが、万歳の祝詞というものはなかなか難しいもので、小一時間ほどかかります。回遊民は文字を持たないため、全部口伝で覚えているのです。 「明けましておめでとう」とか「今年もよろしく」と短く言うのではなくて、川の流れるように小一時間も寿詞(よごと)を唱える。それだけでも、回遊民の姿はある種の畏敬の念を抱かせたでしょう。おそらくは常民にはない超人的な霊力の持ち主とみなされたことでしょう。いわゆる神事呪能の担い手というわけです。 回遊民は得体が知れないが、彼らがやってくると在地の集落に新しい刺激をもたらす。いわば混沌の世界からの使者なのです。彼らの訪れは、既存の日常性を破る「異化効果」があったと考えられます。 柳田國男は『遠野物語』の前書きで、こう述べています。 「国内の山村にして遠野より更に物深き所には 又無数の山神山人の伝説あるべし。 願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」 願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ── 私は柳田の言う、その戦慄を感じます。 箱根用水を囲む、鬱蒼とした深山の裡に。 ■第十六章 権現のいらえ■ 箱根権現豆知識: お正月に飾る鏡餅は、とぐろを巻く白蛇をかたどったものです。 ◆応援ありがとうございます! 次回更新は1月15日(木)●蜘蛛の巣間切り●です。 「くものすけんきり」と読みます。 現代でも解明されていない、箱根用水を代表する工法の秘密に迫ります。 日記では「育ちのいい男を見極める実践的チェック項目」をお楽しみに☆
2009年01月01日
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