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親友の葬儀で、釧路管内標茶町へ行っていた。23日午前10時に家を出て、戻ったのは25日午後3時。長く、つらい3日間だった。
故佐藤敏幸さんは、標茶高校の1年後輩。大学へ入って、同級生になった。二人が選んだベースキャンプは、ともに「北海寮」だった。北海道出身の大学生ばかりが、120名で共同生活をした。
出身地が同じであり、彼の彼女は新聞局の後輩でもあったので、敏幸さんとは自然に親しくなった。私が失恋したとき、彼は旅行に誘ってくれた。「おれ、金がないけど」と私。「金はぼくが出すから、ヤマは元気を出せ」と彼は言った。
南紀を1週間かけて1周した。それ以来、家族みたいなつきあいが40年間も続いた。腎臓を悪くした敏幸さんは、東京の有名漢方店に望みをかけた。山のような薬袋を抱えて、我が家に泊まった。
「会社の礎を築いてくれた、おやじやおふくろのためにも、この薬で元気を取り戻す」
「苦労をかけた淑子(奥さん)に楽をさせてやりたい。だから、この病をこれで止める」
「こどもたちや標茶(地元)には、まだまだ遣り残していることがある」
「会社を順調な状態で、長男に譲りたい。病には、絶対に負けない」
佐藤敏幸さんは、涙を浮かべながら、私にそう言った。にもかかわらず、彼は透析を受けざるを得なくなった。
11月3日。北海寮の仲間が22人、札幌に集まった。敏幸さんもいた。彼を元気づけることが目的だった。楽しいひと時を過ごし、彼は私とツインの部屋で寝た。シングルを2つ取ればいいのだが、どうしても彼といっしょに過ごしたかった。
たくさんの過去と現在と未来を語り合った。私が小用で戻ったとき、彼はベッドのなかから言った。「ヤマ、小便の音が不規則だぞ。心配だから、一度病院に行けよ」
そして、彼は12月20日に逝った。葬儀には500人ほどの人がきていた。北海道新聞には、友人代表として、私の名前が載っていた。涙で、何も見えなかった。