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山崎朋子『サンダカン八番娼館』(文春文庫)近代日本の底辺に生きた海外売春婦「からゆきさん」をたずね、その胸深くたたみこまれた異国での体験と心の複雑なひだとをこまやかに聞き出す。底辺女性史の試みに体当りした感動的な大宅賞作品(アマゾン内容紹介)◎2人の先達 新装版が出ましたので、再読してみました。書棚の旧版はヤケがひどく、一度は再読を試みましたが断念しました。古い読書メモには、「遠慮しつつ踏みこむ描写に感心」とだけ書いてありました。今回はその点を丹念に読むことにしました。 旧版の扉にあった写真が、新版では表紙を飾っていました。『サンダカン八番娼館』(文春文庫)は、ノンフィクション作家・山崎朋子(ともこ)の代表作です。本書では明治時代、天草から「からゆきさん」としてボルネオのサンダカンに渡った一人の女性にフォーカスをあてています。からゆきさんとは、明治から大正中期まで、社会の底辺で育った娘が海外へ渡り、自らの肉体を商売にする婦女子のことです。 著者の山崎朋子は、平塚らいてうと山川菊栄を尊敬しています。2人とも婦人運動家として著名な人です。2人について山崎は、次のように説明しています。――平塚らいてう、雑誌『青鞜』を創刊し、マニフェスト「元始、女性は太陽であった」を発表して近代日本のフェミニズムの最初の旗をかかげた人で、八十五歳の命を終えるまで女性運動のシンボルでありつづけた方である。そして山川菊栄、らいてうの市民主義的な思想を労働者、農民階級の立場から批判し、フェミニズム運動を一歩進め、初代の労働省婦人少年局長の座に着かれた方であった。(山崎朋子・文、文藝春秋編『私たちが生きた20世紀・下巻』文春文庫P493) ちなみに『青鞜』創刊号からの代表作は、講談社文芸文庫に所収されています。タイトルは『青鞜小説集』です。山崎朋子は2人の先達の背中を追いかけるように、底辺女性の研究をはじめます。きっかけは26歳のときに結婚した児童文化研究者の上笙一郎による影響です。◎おまえは何者なのか? からゆきさんから話を聞きたい。強い思いを抱いて山崎朋子は天草へと向かいます。しかし老人に「からゆきさんをご存知ありませんか?」と投げかけると、態度を一変させ露骨に嫌な顔をされます。山崎は取材の困難さに気づきます、 天草に着いた山崎は。偶然にも一人の老女と出会います。それが物語の主人公・サキでした。山崎はサキと同道し、彼女の住まいへ行きます。そこは廃屋同然の家でした。――座敷の畳はほぼ完全に腐りきっているとみえ、すすめられるままにわたしが上がると、たんぼの土を踏んだときのように足が沈み、はだしの足裏にはじっとりとした湿り気が残るばかりか、観念して坐ったわたしの膝へ、しばらくすると何匹もの百足(ムカデ)が這い上がって来るので、気味悪さのあまり瞳を凝らしてよく見ると、何とその畳が、百足どもの恰好の巣になっていたのである。(本分P34) 山崎はサキと同居し、何としても話を聞きたいと思います。そして山崎は夫と娘(8歳)の了解を得て、後日サキとの同居を敢行します。サキの家にはトイレも風呂もなく、たくさんの猫が出入りしています。食事も粗末なものです。朝食場面を引いておきます。――米と押麦を半々にまぜた飯と屑じゃが芋に味噌と塩を入れて煮たもの(本文P52) 共同生活は三週間に及びます。おサキさんは、山崎に対して「おまえは何者なのか?」とは問いません。山崎は遠回しに、サキへ質問を繰り返します。『サンダカン八番娼館』はこうして聞き取った、サキを中心としたからゆきさんの実態に迫った一冊です。サンダカン八番娼館については、あえて触れないでおきます。山崎朋子が再びサキの住まいを訪れる場面が、二人の信頼関係を象徴しています。紹介させていただきます。――常識からすれば、わたしが何のために今頃ここへ来たのか、来てどうするつもりなのか、いや、それよりも、そもそもわたしがどこのどういう人間であるかを問わずにはいられないはずなのに、彼女は、そのいずれについても訊かないのだ。(本文P49)◎生き地獄 サキがボルネオへ渡ったのは10歳のときです。父は亡くなり、母は再婚して家を出ました。サキは兄の矢須吉と小さな畑を借りて生計をたてていました。しかし生活は困窮し、サキはからゆきさんとして外国へ行く決心をしたのです。300円と引き替えに、サキは兄が新しい畑を買い、家を建て、幸せな結婚をしてくれるように願いました。 山崎朋子はおサキさんから、長い苦難の人生をたんねんに聞き取ります。読者は短く語るおサキさんの傍らにいるかのような、錯覚におちいります。山崎が語り言葉で表現しているために、読者は固唾を飲んでしまうのです。 読み終えて、震えがきました。震えのなかから、生き地獄という単語が浮かんできました。若者にはぜひ読んでいただきたい一冊です。もしあなたが今を絶望しているなら、おサキさんの生涯に耳を傾けてください。自分の幸せが見えてくるはずです。(山本藤光2017.06.26)
2017年06月28日
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19歳のオレと39歳のユリ。恋とも愛ともつかぬいとしさが、オレを駆り立てた——「思わず嫉妬したくなる程の才能」と選考委員に絶賛された、せつなさ100%の恋愛小説。第四一回文藝賞受賞作(内容紹介より)山崎ナオコーラ『人のセックスを笑うな』(河出文庫)◎ストレートでフラット 山崎ナオコーラは本名の山崎直子を、大好きなダイエットコーラになぞらえた、人を食ったようなペンネームです。そして文藝賞に輝いた『人のセックスを笑うな』(河出文庫)も、あんたに笑う資格があるのかという、挑発的なタイトルです。恋愛はごく個人的なものであり、他人がとやかくいうべきではない。これが著者の真意なのは、本書を読めばわかります。タイトルはちょっと力みすぎていますが、ユニークさを評価したいと思います。 筆名とタイトルとで軽い作家と思われがちですが、村田紗耶香と並ぶ期待の新鋭なのです。2016年下半期の芥川賞は、4回目の候補でした。今回も逃しましたが、今いちばん芥川賞に近い作家と断言できます。 山崎ナオコーラは、発表作にばらつきがあります。芥川賞候補には、2004年『人のセックスを笑うな』(河出文庫)、2008年『カツラ美容院別室』(河出文庫)、2011『ニキの屈辱』(河出書房新社)、そして2016年『美しい距離』(文藝春秋)と、4、5年おきに名を連ねています。 山崎ナオコーラ作品の多くは、2人の関係が縮んだり伸びたりするさまを描いています。近作『美しい距離』は、癌に冒された妻とそれに寄り添う夫の話です。『ニキの屈辱』は、雇い主と使用人の話です。そしてデビュー作『人のセックスを笑うな』は、美術専門学校男子学生と女性講師との話となっています。 本書の読みどころについて、書かれた文章があります。2つだけ紹介させていただきます。――ホントに若い女性が書いたのか、と一瞬疑われるくらい、語り口はいまどきの若い男の子のものとして違和感がなく、どこにでも転がっていそうなストレートでフラットな会話、何気ない生活の描写の中に、なぜか風が吹きわたっていくようなやさしさと淋しさの入りまじる気配のようなものが、そこはかとないユーモアをまじえながら漂っている。(丸谷才一・池澤夏樹『分厚い本と熱い本』毎日新聞社P9-10) ――短めの文章で、余計なことは書かず、小気味よい。読者は、シンプルに起こったことを次々にスケッチしていく文体によって、想像力を掻きたてられる。つまり、わかるようなわからないようなところで寸止めされ、歯がゆい思いをさせられながら、こういうもんだと納得してしまう。そんな小説だ。(佐藤勝・監修『新時代作家ファイル100』明治書院P195)◎お礼はたくあん 主人公の「オレ」(磯貝みるめ)は、美術専門学校に通う19歳。彼は同校の講師である猪熊サユリから、「私、君のこと好きなんだよ。知ってた?」と告白されます。彼女は「ユリちゃん」と呼ばれている、間もなく40歳になろうという既婚者です。彼女は口紅をちょこっとぬるだけで、まったく化粧気のない太っちょです。学校では生徒から人気があり、飲み会にもよく誘われます。 20歳も離れた2人は、「好きなんだよ」というアルコール混じりの告白で、たちまち進展してしまいます。遠くにあった2人が接近しますが、ぎらぎらした関係にはなりません。山崎ナオコーラは、短い文章と会話を用いて、炭火に火種ができるような頼りなさで、恋の進行を表現して見せます。 ある日ユリちゃんは、「オレ」に絵のモデルになってもらいたいとお願いします。アトリエと呼ばれているユリちゃんのアパートへ、「オレ」は何度か足を運びます。しかし2人の関係は、タイトルに暗示されるようにはなりません。そしてやがて、その日を迎えます。ユリちゃんは、モデルのお礼だといってたくわんを渡します。また「オヤジの履くようなくつ下」をプレゼントしたりします。 こうした笑いたくなるユリちゃんのセンスは、本書の随所に出てきます。料理にも化粧にも衣装にも無頓着な、ユリちゃんの背後には物語に登場していないダンナの存在があります。ダンナは小説の最後に、「オレ」と遭遇します。「オレ」が2度目に、ユリちゃんの自宅を訪問したとき、ダンナと初めて鉢合わせをします。1度はダンナが不在時に、2人で年越しをしています。3人は何事もないように、いっしょに食事をします。ダンナはとてつもなく、かわいいタイプの男でした。 山崎ナオコーラに『かわいい夫』(夏葉社)という結婚エッセイ集があります。みつはしちかこのカバー装画もいいのですが、まるでユリちゃんのダンナ・猪熊さんと重なるような「かわいいい夫」が描かれています。 そしてユリちゃんは、突然学校を辞めてしまいます。それ以来、2人は会うことがありません。別れてから電話でのやりとりはありますが、『人のセックスを笑うな』はあっけない幕切れで物語を閉じてしまいます。 山崎ナオコーラは、炭火がおこるまでをたんねんに描き、一挙に水をかけてしまいました。なんだこれ、という読者もいるかもしれません。しかし山崎ナオコーラが選んだ物語は、線香花火のような世界だったのです。大いに才能を感じさせてくれた、ピュアな物語は映画になっているようですが、ぜひ活字でご堪能ください。(山本藤光:2010.10.10初稿。2016.07.27改稿)
2016年08月01日
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山本藤光『仕事と日常を磨く人間力マネジメント』(医薬経済社)求められるのは、仕事と日常を磨くワンランク上の人間力だ!(内容紹介より)◎対(つい)をつなぐ本日は書評家・山本藤光が、自著を紹介することになります。山本藤光『仕事と日常を磨く人間力マネジメント』(医薬経済社)は、10冊目にあたり、これまでの著作の集大成のつもりでいます。著者は北海道の標茶町で、受験勉強とは無縁の高校生活を送りました。その後大学へ進学しますが、4年間を「北海寮」で過ごしています。ピンは東大からキリは中大まで、北海道出身の大学生120名が共同生活をしていました。北海寮は現在個室になり、60名ほどの定員になっています。ここで徹底的に「人間力」が鍛えられました。「人間力」とは、「対(つい)をつなぐ」力です。そのために最も大切なことが「共感力」となります。明るく前向きな場をいかに作るかの能力が人間力の根幹なのです。最悪なのは、仕事バリバリ家でゴロゴロなる世界です。これは仕事と家庭という対(つい)がつながっていない状態を表しています。著者は対(つい)の概念を、きわめて大切だと考えています。夫と妻。親と子。上司と部下。平日と休日。自宅と近所。大人と子ども。男と女。たくさんの対が存在していますが、これらを的確につなぐのが人生の極意です。◎業績格差は人災である就職先は日本ロシュという外資系製薬会社でした。本人は営業職を希望したのですが、配属先は営業とは真逆の総務部購買課でした。著者は毎年の自己申告のたびに、営業への配置転換を求めました。そして10年目に、それが実現しました。購買課長のタイトルを投げ捨て、1MR(営業マン)として33歳のおじさんは新人MRといっしょに研修を受けました。まったく売れませんでした。ところが趣味の世界が仕事に活きることを知りました。読書好きの医師はたくさんいます。おじさんMRは、休日返上で図書館通いをし、あらゆる新聞や雑誌の書評欄をコピーしました。それを編集して、希望する医師に配布したのです。仕事バリバリ家でゴロゴロ。それ以外の日常は、さんたんたるものでした。営業リーダー、支店長と遅ればせながら昇進しました。北海道の責任者になったときは、全国で最下位の支店でした。それを1年でトップにしました。用いたのは「人間力」だけでした。部下を支えてくれる、家族にフォーカスをあてたのです。この体験は、シナリオ『最下位営業チームがトップになった・ビリーの挑戦』(医薬経済社、初出2006年)として発表しています。業績格差はまぎれもない人災である。著者の山本藤光はそう断言しています。上司が替われば、どん底チームでも飛躍的に伸ばすことができます。上司はいかに部下のモチベーションを上げるのか。そのすべてが『仕事と日常を磨く人間力マネジメント』で紹介されています。◎部下の家族にフォーカスをあてる営業企画部長として、全社の営業組織を担当しました。このときに、全営業マンを集めた全国販売会議にメスをいれました。受賞者の家族を、丸ごと招待する表彰式に変えたのです。夫の晴れ姿を見て、奥さんたちは号泣していました。懇親会では幼いこどもたちが社長に抱かれて、記念写真を撮っていました。これが著者の「人間力」の原点です。その後、著者はSSTプロジェクトを立ち上げます。暗黙知に特化した伝説のプロジェクトとして、雑誌に大きくとりあげられました。詳細については、『暗黙知の共有化が売る力を伸ばす・日本ロシュのSSTプロジェクト』(プレジデント社、初出2001年)をお読みください。本書は、「日本ナレッジマネジメント学会研究奨励賞」を受賞しています。また本書は、小説にもなっています。山本藤光『同行指導の現場』(プレジデント社、初出2008年)は、苛酷なプロジェクトとそれを支える家族のものがたりです。現役の会社員が丸ごと会社のノウハウを書いてしまった、と話題にもなりました。仕事バリバリ、家でゴロゴロがますますひどくなっていました。そんなある日、尊敬していた先輩と出会いました。定年後のその人は、まるで空気の抜けた風船みたいでした。ああなってはいけない。著者は一念発起しました。午後9時就寝午前3時起床をスタートさせました。50歳を目前にしたときです。本を読み、思いをつづりつづけました。それが現在へとつながっています。突然日本ロシュは、中外製薬と合併することになりました。著者は34年間勤めた会社を辞めることにしました。営業リーダーのレベルアップに特化した、コンサル会社・株式会社コラボプランを立ち上げました。現在は若い人に譲渡して、著者はそこの顧問をしています。◎ああなってはいけない著者が一念発起してからのことをまとめたのが、山本藤光『仕事と日常を磨く人間力マネジメント』(医薬経済社)となります。帯にはこんな文章があります。人間力のある人には意欲がある意欲のある人には夢がある夢のある人には目標がある目標のある人には努力がある努力のある人には失敗がある失敗のある人には反省がある反省のある人には経験がある経験のある人には智恵がある智恵のある人には人間力がある本書はこれらの言葉の意味を、豊富な実例をベースにわかりやくく説明しています。現役のサラリーマンはもとより、著者と同年齢のシルバー世代へも「知」を磨くことの大切さを訴えています。もっと日常を磨こう。そうすれば仕事に大きなプラスが現れる。あるいは充実した人生となる。最悪なのは仕事バリバリ家でゴロゴロ。著者は自戒をこめて、熱くそう断言します。ぜひ読んでください。山本藤光が推薦する本に、はずれはありません。ぜひアマゾンでご注文ください。一般書店には並んでいませんので。(山本藤光:2016.07.25)
2016年07月26日
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50歳の少年が見たニッポン。本書は矢作俊彦氏が構想に15年以上、雑誌連載開始から6年を経て生れた待望の最新長編です。主人公は、1968年の学生運動で殺人未遂に問われ中国に密航した男。山に閉ざされた中国の村で生活から脱し、30年ぶりに帰還した彼は、一体未来世紀の東京に何を見たのでしょうか。60年代後半に青春を謳歌した世代から、今のTOKYOを形作る若い世代まで幅広く楽しめる作品だと思います。(出版社からのコメント)矢作俊彦『ららら科学の子』(文春文庫)◎鴎外、荷風の衣鉢つぐべき資質 矢作俊彦(やはぎ・としひこ)は、困った作家です。なかなか新作を発表してくれません。矢作は1950年生まれですので、まだ老け込むには早すぎます。最近では、『スズキさんの休息と遍歴』(新潮文庫、初出1990年)『あ・じゃ・ぱん』(角川文庫、初出1997年)を読んだ後、今回とりあげる『ららら科学の子』(文春文庫、初出2003年)以外に目立った発表はありません。 あの独善的な辛口の書評家・福田和也は著作のなかで、矢作俊彦について次のように書いています。――戦後生まれで「偉大な作家」と呼ぶに値する唯一の、いや村上春樹とならぶ作家である。しかしまた、同時に彼ほど読者を落胆させ、裏切り続けてきた作家はいないだろう。 福田和也はさらに次のようにつづけます。――矢作は、鴎外、荷風の衣鉢をつぐべき資質と才幹をもっており、そのキャリアは輝かしい一群の作品で飾られるはずだった。(以上は福田和也『作家の値うち』飛鳥新社P108) 矢作俊彦の代表作は、断然『ららら科学の子』(文春文庫)です。本書は前掲の2作品の延長線上にあります。矢作俊彦は映画を手掛けていた経験から、ディテールにこだわり、細かなエピソードにも執着します。その点では、同じ経験をもつ阿部和重と似ています。 矢作俊彦『ららら科学の子』(文春文庫)は、壮大な「対(つい)」のしかけを施した物語です。本書は単行本で読んでいますが、文庫での再読をしました。10年以上前に読んだときに感じた新鮮さは、まったく色あせていませんでした。◎団塊の世代にお薦め 1968年、日本は学園紛争に揺れていました。主人公の「彼」は、機動隊に対する殺人未遂の嫌疑がかけられ、追われる身となります。「彼」は文化大革命の中国へと渡りますが、下放(事実上の国内流刑)により南部の山奥へと追いやられます。「彼」はそこで現地の女と結婚し、貧しい生活を送ります。妻は都会に出稼ぎに行ったまま、戻ってきません。「彼」は日本へ戻る決心をし、借金して資金を調達します。 逃亡してから30年を経て、「彼」は日本へ舞い戻ってきます。マフィアの密航船で、「彼」は秘かに入国します。行き場のない「彼」は、友人の志垣に公衆電話で連絡をとります。志垣は裏企業の社長をしていました。電話に出た志垣は、渋谷にホテルを用意してくれます。そして部下の傑(ジェイ)を案内人につけてくれます。「彼」は30年ぶりの、都会の喧騒を目の当たりにします。原色の看板に戸惑います。歩きながら携帯電話で話す人群れに驚きます。短いスカート丈の、セーラー服姿に目を奪われます。地べたに座り込む若者に違和感をおぼえます。そこは中国の山奥とは別世界でした。 彼は中国に、妻を残してきています。残してきたというより、妻は田舎暮らしを嫌って、単身で上海へ出て行ったのです。日本には、「彼」の妹が住んでいます。妹探しがはじまります。 中国と日本。山奥と都会。妻と妹。過去と現在。そして公衆電話と携帯電話。それぞれが対となって微妙な役割を担っています。これらについて矢作は、実に丹念に描いてみせます。 タイトルの意味は、明かさないでおきます。本書の表紙には、鉄腕アトムのイラストがついています。本書を読んでいて、安部公房の『砂の女』(新潮文庫、「山本藤光の文庫で読む500+α」推薦作)を思い出しました。巣ごもると飛び立つの「対のしかけ」を思い出したのです。。 日本を追われ、中国でも追い出され、日本に戻った「彼」を待っていたのは、大きく様変わりしていた日本でした。「彼」は妹をみつけられたのでしょうか。中国に残してきた妻への未練は、ないのでしょうか。 最後の「彼」の決断は、どんなものだったのでしょうか。団塊の世代の物語として、本書は非常に優れています。学園紛争に揺れた時代と現在を重ねて、じっくりとお読みいただきたいと思います。(山本藤光:2003.12.09初稿、2015.12.30改稿)
2015年12月31日
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極貧の家に生れた愛川吾一は、貧しさゆえに幼くして奉公に出される。やがて母親の死を期に、ただ一人上京した彼は、苦労の末、見習いを経て文選工となってゆく。厳しい境遇におかれながらも純真さを失わず、経済的にも精神的にも自立した人間になろうと努力する吾一少年のひたむきな姿。本書には、主人公吾一の青年期を躍動的に描いた六章を「路傍の石・付録」として併せ収める。(「BOOK」データベースより)山本有三『路傍の石』(新潮文庫)◎教養小説の代表作 山本有三『路傍の石』(新潮文庫)は、何度も中断を余儀なくされた未完の長編小説です。主人公の愛川吾一は小学生6年(旧・高等2年)で、中学への進学を夢見ています。彼は学業成績もよく、運動神経も抜群で、クラスでも人気者でした。 吾一の家は13代も続いた旧商家でしたが、明治維新ともに没落してしまいました。しかし父親の庄吾は気位の高い人で、損料目当てに訴訟を起こしたり、まともに働こうとはしませんでした。母親のおれんは、袋はりをしながら細々と生活を立てていました。 頭のよくない金持ちの級友たちが、中学への進学を決めます。ところが父親は、吾一の中学進学の夢を断ちます。近所のいなば屋の主人が、吾一の進学の援助を申し出ますが、父親は頑なに拒絶します。 そんなある日、仲間が集まって肝試しをすることになります。吾一は鉄橋の枕木につかまり、列車が通り過ぎるまで耐えて見せると宣言します。ところが吾一は失神してしまい、列車運行妨害で大きな事件となります。 吾一は、中学進学を決めた級友の家・呉服屋の伊勢屋に奉公に出されます。本書はこのあたりまでは、山本有三の自伝的な小説となっています。しかしこれ以降はドイツの教養小説の影響を受けた、完全な山本有三の創作となります。その点については、新潮文庫の解説で、高橋健二が触れています。ここでは触れません。◎大人たちの弁舌ぶり『路傍の石』には、途中で「ペンを折る」という章がはさまれています。その点について、斎藤美奈子は次のように書いています。――いま読んでもおもしろいのは吾一を取り巻く大人たちの弁舌家ぶりである。自由民権運動あがりで口だけは達者だが生活力ゼロの横暴な父。小学校の担任で文士志望の次野先生。文選工仲間で社会主義者の得次。彼らがまー自らの人生論や国家論を語る語る。この国家論の部分が当局の検閲にひっかかったのは想像にかたくない。(斎藤美奈子『名作うしろ読み』中央公論新社) 呉服屋の丁稚になった吾一は、「五助」という名前をつけられます。つらく絶望的な奉公の日が続きます。そんななかで、突然母親が死亡します。上京している父親は、葬式にも顔を出しません。 東京へ行って人生をやり直そう。そう決心した吾一は、着の身着のままで上京します。父の住まいを訪ねますが、行方知れずになっていました。ここから先については、触れないでおきます。 本書には貧困のなか、時代の荒波にもまれながら、吾一が成長していく過程が描かれています。印刷工場で働き始めた吾一。そして父親との再会。物語は未完のままになっていますが、日本の近代文学のなかでは大切な作品だと思います。(山本藤光:2013.12.11初稿、2015.11.05改稿)
2015年11月06日
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マネジメントの父と呼ばれるウィーン生まれのピーター・ドラッカー(1909~2005)は、オーケストラに<未来の組織>を見ていた。なぜドラッカーはオーケストラという組織に注目したのか?さまざまな楽器を受け持つプロの演奏家集団が、指揮者のもとで高度にマネジメントされた組織になったとき、一人の巨匠演奏家の限界をはるかに超えた音楽を作り出すことができる。そのことをドラッカーは理解していた。指揮者の役割、リハーサルの舞台裏、各地のオーケストラの歴史や新しい試みなどからマネジメントの本質が浮かび上がる意欲的な論考。(「BOOK」データベースより)山岸淳子『ドラッカーとオーケストラ組織論』(PHP新書)◎指揮者のいないオーケストラ 拙著のなかで、何の抵抗もなく「営業リーダーは知のコンダクターにならなければいけない」と書き続けてきました。あるとき、友人から「おまえは指揮者やオーケストラについて、どのくらい勉強しているんだい?」と質問されました。断定形で私が書いていることに、抵抗を感じているようでした。 リーダーと指揮者を重ねたのは、ドラッカーの著作からの受け売りでした。大いに恥じ入り、指揮者に関する、何冊かの本を読みはじめました。・山岸淳子『ドラッカーとオーケストラ組織論』(PHP新書)・セイフター・ハーヴェイ/エコノミー・ピーター『オルフェウスプロセス―指揮者のいないオーケストラに学ぶマルチ・リーダーシップ・マネジメント』(角川書店)・桜井優徳『リーダーに必要なことはすべて「オ-ケストラ」で学んだ』(日本実業出版社) 3冊を読み終えて、「リーダーは指揮者でなければならない」を改めるべきである、と結論しました。指揮者のいないオーケストラの存在があったからです。◎ドラッカー18著作のダイジェスト版 ドラッカーを読みはじめたのは、野中郁次郎先生との出会いからです。ナレッジマネジメントの世界的な権威である野中先生は、ドラッカーの知識社会論の継承者といわれています。野中先生の著作とドラッカーの著作は、同時並行的に読んでいました。新しい著作が出るたびに、前作の理論が膨らんでいます。 岩崎夏海『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』(ダイヤモンド社)が話題になったことがありました。「もしドラ」という言葉が生まれたほど、本書は売れまくりました。私も読んでみました。実践書にはほど遠いものでした。タイトルのユニークさで売れたのでしょう。 山岸淳子『ドラッカーとオーケストラ組織論』(PHP新書)は、2013年に新書として上梓されました。こちらは「ドラッカーはオーケストラから学んだ」とのコピーに、魅せられて読んでみました。 結論から申し上げると、ドラッカーがフィールドワークとして、オーケストラから学んだという記述はありませんでした。ただしドラッカーは、オーケストラに自論を重ねて見ていたことは事実です。山岸淳子はドラッカーの18著作から、オーケストラにまつわる単語を引用してみせます。――経営管理者は、部分の総計を超える総体、すなわち投入された資源の総計を超えるものを生みださなければならない。例えていうならばオーケストラの指揮者である。(P26、ドラッカー『現代の経営』からの引用)――明日の組織のモデルは、オーケストラである。二五〇人の団員はそれぞれが専門家である。それも極めつけの専門家である。しかし、チューバだけでは演奏ができない。演奏するのはオーケストラである。(P51、『ポスト資本主義社会』からの引用) そういう意味で、ドラッカーの幅広いダイジェスト版として、楽しく読むことができました。ただしオーケストラの歴史や舞台裏の記述が多く、オーケストラに興味のない方にはお薦めできません。 ドラッカーは「比喩」として、オーケストラを用いています。しかしオーケストラの本質に迫った、記述はありません。『ポスト資本主義社会』では、確かに経営管理者と指揮者を重ねて表現しています。いっぽうドラッカーは指揮者のいないオーケストラに、未来組織を見てもいるのです。◎オルフェウスプロセスとは セイフター・ハーヴェイ/エコノミー・ピー)ター『オルフェウスプロセス―指揮者のいないオーケストラに学ぶマルチ・リーダーシップ・マネジメント』(角川書店)は、1972年に創設されたオルフェウス室内管弦楽団をマネジメントと重ねて書かれたものです。山岸淳子も「指揮者のいないオーケストラ・オルフェウス室内管弦楽団」という章(P146)を設けて触れています。また桜井優徳も「オルフェウスプロセス」という章(P49)に言及しています。――わずかなテンポを速めて緊張感を高めた次の瞬間、ふとゆるめるといった横の流れ(揺らぎ)の表現を、指揮者なしで自然に合わせるのは困難です。(桜井優徳『リーダーに必要なことはすべて「オ^ケストラ」で学んだ』日本実業出版社、P52) オルフェウス室内管弦楽団の登場までは予言していませんが、ドラッカーは著作のなかで次のように書いています。――今後二〇年のうちに大企業の管理階級は、今と比べて二分の一以下になり、管理者の数は三分の一くらいになるだろう。(ドラッカー『未来型組織の構造』初出1988年) ピラミッと型組織の崩壊という予見はオルフェウスの登場で、現実になったと話題になりました。オルフェウスには確かに指揮者は存在しません。しかしオルフェウスには「8つの原則」があり、全員が指揮者という意識があります。オルフェウスプロセス8つの原則1. 権限移譲2. 責任の自覚3. 役割の明確化4. リーダー役の交代5. 横のつながりの強化6. 「聞く力」「話す力」の強化7. コンセンサスの追求8. 熱意と目標 つまりこれらの原則をわきまえて、オルフェウスは全員が指揮者となっているのです。ただし桜井優徳が指摘しているように、多人数を要する曲や戸外での演奏は、指揮者なしでは実現できません。 オーケストラとドラッカー。「もしドラ」同様に、ドラッカーの著作を身近なものにしてくれた意味で、山岸淳子の著作は有効でした。ドラッカーを学んでみようと思ったら、やさしい解説本はたくさん出ています。そんなニーズにオーケストラという立ち位置で書き連ねられた、本書も加えたいと思います。「山本藤光の文庫で読む500+α」では、ドラッカー関連本として、望月護『ドラッカーの実践経営学』(PHPビジネス新書)を紹介予定にしております。(山本藤光:2013.04.11初稿、2015.09.27改稿)
2015年09月28日
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動物には数がわかるのだろうか。また、私たち人類の祖先はどのように数を数え、その時、手足の指はどんな役割を果たしたのだろうか―。エジプト、バビロニアにおける数字の誕生から、「数学の神様」といわれたアルキメデス、三角形の内角の和が180度であることを独力で発見したパスカル、子供の頃は「落第ぼうず」と呼ばれたニュートンの功績など、数学の発展の様子をやさしく解説。数学の楽しさを伝え続けるロングセラー。(「BOOK」データベースより)矢野健太郎『数学物語』(角川ソフィア文庫)◎アラビア数字はアラビアで生まれたのではない 小川洋子『博士の愛した数式』(新潮文庫。「山本藤光標茶六三の文庫で読む500+α」推薦作)のヒットで、がぜん庶民的になった数学の世界。この本がなければ、「文庫で読む500作品+α」の「知・古典・教養ジャンル」に数学の本を選ばなかったと思います。 矢野健太郎は、著名な数学者であることは知っていました。しかしわざわざ、著作を買い求める気にはならなかったと思います。『数学物語』の改訂版(角川ソフィア文庫)が出たのは2008年でした。小川洋子『博士の愛した数式』が文庫化されたのは2005年ですから、そのころから数学ブームははじまったのでしょう。 構えて読みはじめた私の肩を、矢野健太郎『数学物語』はやさしく押しもどしてくれました。実にわかりやすく、数学の歴史や数の不思議がまとめられていました。人間以外の動物は、数がかぞえられるか。こう前置きされた文章から読者は、巧みな船長のあやつる遊覧船で、未知なる世界へと誘われます。 つづいて数学の起源は、4大文明にあるとの文章があらわれます。読者は学校で習った4大文明を、再確認することになります。エジプト、バビロニア、インド、中国と紹介されます。そして川のある肥沃な土地に、文明が栄えたと結ばれます。ナイル河、チグリス河とユーフラテス河、ガンジス河、黄河……。これらの話がなぜ「数学」なのか、と思わずつっこみたくなるほど、矢野健太郎の文章はゆったりと流れます。 川は氾濫します。氾濫すると、もとの区画がわからなくなります。そのために、測量技術が必要だったのです。幾何学は英語で測量を意味しています。ゆったりとした流れから、やっと原風景が広がってきます。見事な筆さばきです。 本書は数学の博物館、ともいえる様相です。なんでも陳列されています。どれもが一度は聞いたことも、見たこともある陳列物です。しかしだれもが、くわしく知っていないことばかりです。アラビア数字は、インドで生まれました。知りませんでした。アラビア数字は、インドの隣国・アラビアで発明されたものだと思っていました。 ふだん疑問に思ってもみなかったものが、ちょっとお耳を拝借のような感じで説明されています。肩をはらずに、寝そべってでも読むことのできる数学の本。それが矢野健太郎『数学物語』でした。わずか200ページほどの本です。知らなくてもいいのですが、知っていると数字をみるのが楽しくなります。◎三角定規を用意する 私の手もとに、矢野健太郎『数学のたのしさ』(新潮文庫)があります。日焼けがひどく、黄ばみは活字を侵食するほどまでせまっています。1976年発行ですからムリもないと思います。カバーには柳原良平のイラストが描かれています。今回紹介している『数学物語』とちがい、この本は数字のクイズというスタイルになっています。 多湖輝『頭の体操』(「標茶六三の文庫で読む400+α」では『頭の体操BEST』光文社新書を推薦)の第1弾が世に出たのは1966年ですから、その流れにのったのだと思います。「数学」という堅物は、直球勝負では絶対に売れません。硬い数学を柔らかく解き明かす。矢野健太郎は、そうした活動にも熱心でした。『数学のたのしさ』は絶版になっています。せめて『数学物語』で、遠くにあった数学を身近なところまで。ひきよせてもらいたいと思います。『数学物語』のなかに、「直線定規と三角定規を用意してください」(P96)というくだりがあります。 これには赤面させられました。一般家庭で、三角定規を常備しているところがあるのでしょうか。うちには30センチの直線定規があるだけです。数学を庶民に親しんでもらいたいのなら、こんな「常識」を要求するべきではありません。残念ながら、三角定規を常備しておく必然性までは、訴求されていませんでした。 だいいち「直線定規」なる言葉も、一般的ではありません。定規といえば、世間では直線にきまっているはずです。広辞苑を引いてみました。「定規」を確認しました。各種類が載っていましたが、「直線定規」なる単語は「定規」の説明にはいっていませんでした。 本書のなかには、退屈すぎる章もありました。数学は得意な科目であり、いまでも暇なときには中学生の問題集を開いたりしています。正解のない世界でビジネスをしているので、正解のある数学問題集はストレス解消になっているのです。 本書にはたくさんの数学者の生いたちが紹介されています。アルキメデスやニュートンの逸話は、そうだったのかと感心させられました。数学者の多くは、物理学者でもあり、天文学者でもあります。その広範な「知」の秘密も、本書で学ばせてもらいました。 専門性って、どのくらい周辺知識を磨いているか、ということなのでしょう。そんなことも実感させられました。一気に読みつらぬく本ではありませんが、少しずつページをくくってもらいたいと思います。(山本藤光:2010.01.21初稿、2015.07.07改稿)
2015年07月08日
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不思議なほど父を嫌っていた母は、死の床で「おとうさん」とかすれかかる声で云った──。精神を病み、海辺の病院に一年前から入院している母を、信太郎は父と見舞う。医者や看護人の対応にとまどいながら、息詰まる病室で九日間を過ごす。戦後の窮乏生活における思い出と母の死を、虚無的な心象風景に重ね合わせ、戦後最高の文学的達成といわれる表題作ほか全七編の小説集。(文庫案内より)安岡章太郎『海辺の光景』(新潮文庫)◎落ちこぼれの人生 安岡章太郎は1920年、高知で生まれています。そして2013年に亡くなりました。文壇的には「戦中派」または「第3の新人」として、くくられています。「第3の新人」は山本健吉の命名したもので、吉行淳之介(推薦作『夕暮まで』新潮文庫)、小島信夫(推薦作『抱擁家族』講談社文芸文庫)、庄野潤三(推薦作『プールサイド小景』新潮文庫)、遠藤周作(推薦作『沈黙』新潮文庫)、島尾敏雄(推薦作『死の棘』新潮文庫)、三浦朱門、近藤啓太郎などが該当します。 安岡章太郎のデビューまでの人生は、落ちこぼれの連続でした。父親が陸軍獣医だった関係で転校をくりかえし、1年浪人して慶大文学部予科へ入ります。しかし落第したまま、召集されます。そして肺疾患のために戦地から送還され、その後脊椎カリエスで療養生活をします。 その間に書いた「ガラスの靴」が芥川賞(1951年)の候補となり、1953年「悪い仲間」と「陰気な愉しみ」によって芥川賞を受賞します。この3作品は講談社文芸文庫『ガラスの靴/悪い仲間』で読むことができます。 これらの作品には軍隊でおった傷や、その後の病気の影響が色濃くあらわれています。安岡章太郎作品は、〈恥の文学〉などといわれたりもします。しかし重い足かせをはめたまま、文壇の評価は高まりました。屈辱におびえつつ、下から上をみつめる新しい感覚というのが評価のポイントです。 新潮文庫旧版の『海辺の光景』の解説は、平野謙が書いています(新版は四方田犬彦)。平野謙は安岡章太郎自身の言葉を、次のように紹介しています。――現にいまから十年前に、自分の体のなかには、「何か良くない虫」が一匹住みついていて、その虫のせいで、入学試験や入社試験には必ず落第し、恋愛をすれば必ずヘマな失敗をし、と著者自身が語ったことがある。(新潮文庫旧版、平野謙の解説より) もうひとつだけ、安岡文学に切りこんだ論評を紹介させていただきます。――自己嫌悪が自己愛を意味し、肉親への軽蔑が肉親への愛を意味する。むろんこの逆説は自身がつくりあげ自身が選びつづけた方法の必然的な帰結というほかはないが、安岡章太郎はここでその事実に正面から向き合っているといってよい。(三浦雅士『メランコリーの水脈』福武文庫P174より)◎安岡章太郎の代表作『海辺(かいへん)の光景』(新潮文庫)は1959年に発表され、野間文芸賞を受賞しています。私は安岡章太郎の代表作だと思っています。冒頭の文章は、物語を暗示する巧みな風景描写になっています。――片側の窓に、高知湾の海がナマリ色に光っている。小型タクシーの中は蒸し風呂の暑さだ。桟橋を過ぎると、石灰工場の白い粉が風に巻き上げられて、フロント・グラスの前を幕を引いたようにとおりすぎた。(冒頭より) 主人公・浜口信太郎(30歳半ば)は父・信吉(元陸軍獣医)とともに、母・チカが収容されている精神病院を訪れます。母は郷里である高知の、海辺の精神病院で危篤状態になっています。本書は母の死を看取るまでの、9日間を描いています。引用した冒頭部分は、1年前に器質性痴呆症の母を入院させるために見た風景です。そのときは寝具などを運ぶために、古い大型車を利用しています。この冒頭部分を、安原顕は誤読しています。――主人公信太郎と父信吉は、老耄性痴呆症になった母浜口チカを病院に入れに行く。これはその冒頭シーンである。(『星々峡』2000年6月号より) 冒頭部分で乗っているのは「小型タクシー」で、回想部分のものは「古い大型車」です。どうしてこんな誤読をしたのか、不思議でなりません。『星々峡』連載をまとめた単行本『乱読すれども乱心せず』(春風社)でも、修正がなされていませんでした。『海辺の光景』は「回想小説」である、とだれかが書いているのを読んだことがあります。出典を探したのですが、みつかりませんでした。母危篤の知らせを受け、母の死を看取る。いわゆる2枚のパンにはさまれた、サンドウィッチの具材は母の狂気への回想となっています。 母チカには獣医として外地を転々としていた、夫信吉の存在は希薄なものでした。息子信太郎と2人だけの日常のなかに、帰還兵として夫信吉がもどってきます。それまで支給されていた棒給がとまり、生活はたちまち困窮します。――母親にとって戦前、戦時下は、夫が家庭にいない夫不在の二十数年であり、戦後は夫は家庭にいながら夫不在の状態がそのままつづいた二十数年だった。母親には夫がただ無為な人生失格者のようにしか見えない。単純な生活とは、一個の生のなかでだけ確立する倫理であって、妻や子供にさえ理解を求めるものではない。『海辺の光景』の母は、はっきりと父親を拒否する。(川西政明『死霊からキッチンへ』講談社現代新書P71より) 母に狂気の影があらわれます。それからいろいろあって、夫婦は故郷の高知へと都落ちすることになります。行きたくもなかった夫の郷里で、母チカの痴呆症はさらに悪化してしまいます。 帰郷してからの父信吉は、献身的に妻チカを介護します。そして嫌悪していた夫信吉に、妻チカは心を許しはじめます。戦中と戦後。夫と妻。親と子。健康と病。生と死。安岡章太郎は回想のなかに、これでもかといわんばかりの、具材をつめこみます。『海辺の光景』については江藤淳が、『成熟と喪失』(講談社文芸文庫)で「母の崩壊」の象徴的な作品としてとりあげています。本書については別途、「山本藤光の文庫で読む500+α」で紹介させていただきます。ここではふれません。◎干潮のとき 病院での信太郎は、母の病室にいるか、海辺を散歩するかしか選択肢がありません。海辺で、親切な男の患者と出会います。眼前に見える島について、信太郎は男に問いかけます。男は「あれは無人島だが、ときどき病院の患者が島へ渡っている」と答えます。それから先の展開について、本文を引用させてもらいます。結末へとつながる、たいせつな部分だからです。(引用はじめ)「しかし、どうやって渡るのだろう? 泳ぐのかな、それともそのボートにでも乗って……」「どうやって渡る? それはいろいろでしょう。大昔は島とこちらの陸地とが、ひっついちょったそうで、いまでも干潮のときウマく行けば歩いても渡れるといいますがねえ」「へえ、こうやってみると随分深そうだがな」「いまは深いですよ。潮がこんで来よるから……。干潮のときは杙が下から見えてきますよ。真珠貝の養殖をやりよるんですワ」「真珠?」(引用おわり、本文P113より) 男の話では、島は観光会社に買い取られていて、観光客目当てに「男女縁結びの神」がまつられているとのことでした。世間から隔離されている病院のある陸地と、観光客目当ての無人島、そして真珠貝の養殖。これらが干潮になればつながるという設定は、じつに象徴的で巧みです。そしてこの場面はみごとにエンディングにつながります。 島は信太郎が母とだけ過ごした、時期の象徴でもあります。そこは引き潮のときだけ、渡ることができます。安岡章太郎はていねいな筆運びで、信太郎と母とが暮らした世界を、祠のある島にたくしました。 母は引き潮にもっていかれたように、あっという間に亡くなります。そして信太郎は、見なれた光景を目にします。――岬に抱かれ、ポッカリと童話風の島を浮かべたその光景は、すでに見慣れたものだった。が、いま彼が足をとめたのは、波もない湖水よりもなだらかな海面に、幾百本ともしれぬ杙が黒ぐろと、見わたすかぎり眼の前いっぱいに突き立っているからだ。(本文P165より) 真珠貝養殖のための杙を、信太郎は「墓標のようだ」と感じます。母の看病のために幽閉されていた病院は、いま新たな世界とつながったのです。(山本藤光:2013.11.15初稿、2015.06.19改稿)
2015年06月20日
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国立大学の医学部第一外科助教授・財前五郎。食道噴門癌の手術を得意とし、マスコミでも脚光を浴びている彼は、当然、次期教授に納まるものと自他ともに認めていた。しかし、現教授の東は、財前の傲慢な性格を嫌い、他大学からの移入を画策。産婦人科医院を営み医師会の役員でもある岳父の財力とOB会の後押しを受けた財前は、あらゆる術策をもって熾烈な教授選に勝ち抜こうとする。(「BOOK」データベースより)山崎豊子『白い巨塔』(全5巻、新潮文庫)◎そこまでやるのか 若いころはMR(医薬情報担当者)として、大学病院を担当していました。したがって、大学病院の構造は熟知しています。教授の仕事は多岐にわたります。優れた業績をあげること、研究費を集めること、関連病院を拡充すること、患者さんから信頼されること……。 優れた業績をあげるためには、有能な医師を育てなければなりません。医師を支えるスタッフ(看護師など)も確保しなければなりません。画期的な論文を発表し、学会での地位も高めなければなりません。患者さんの評価も得なければなりません。 医局運営を円滑にするためには、病院からの補助金だけでは足りません。製薬会社や臨床試験会社からは、さまざまな依頼が舞い込みます。新薬を生むためには、臨床実験は必須です。当然謝礼をもらいます。優れた業績がなければ、これらの依頼はきません。学会での地位を高めるのも、優れた業績がなければ実現しないことです。 大学病院の医局は、教授、准教授、講師という3層になっています。教授は病院の教授会で、選ばれるのが普通です。『白い巨塔』(全5巻、新潮文庫)の主人公・財前五郎は准教授(以前は助教授といわれており、本書では助教授と表記されています)の地位にあります。野心家であり、手術の腕も高く評価されています。当然次の教授のポストをねらっています。 舞台は国立浪速大学病院の第一外科です。財前准教授は食道噴門癌の手術を得意としています。評判を聞いて、当然たくさんの患者さんが集まります。また有力者からの特別診察依頼も殺到します。財前五郎の鼻はますます高くなります。第一外科教授・東貞蔵はもうすぐ引退ですが、財前を快く思っていません。 国立浪速大学病院の第一外科の次期教授をめぐり、さまざまな思惑がうごめきはじめます。東教授は財前ではなく、他大学から候補を選ぼうとします。教授会のメンバーである他科の教授たちにも、それぞれに強い思惑があります。 財前には産婦人科医院を開業している、義父・又一がいます。財力と人脈を駆使して、彼を熱烈に支援します。山崎豊子はどろどろした世界を、みごとな筆さばきで読者に突きつけてみせます。このあたりについてふれている、文章を紹介させていただきます。――財前君の周囲は、財前君を教授にするために、えげつない票集めに奔走する。札ビラ切りまくりだ。もちろん財前君本人も、部下を使って裏工作に余念がない。「そこまでやるか!」と読んでいていっそ快感を覚えるぐらい人間関係がねっとりしている。(三浦しをん『三四郎はそれから門を出た』ポプラ文庫P132より) 財前との対極として配置した、第一内科准教授教・里見脩二は研究一筋の男で、出世欲とは無縁です。後半では影のような存在だった里見准教授にも、スポットがあたるようになります。山崎豊子は里見准教授を、陽のあたらぬ主人公として設定しています。――りっぱな医学者の人間像を、私は、小説の中の里見助教授に投影したつもりであるが、(中略)権力と名声に包まれた財前教授のような医者の心の中にある醜い欲望や冷酷さは、小説という形の中でしか強烈に描き出せない。それで私の心の中にある主人公は里見助教授でありながら、あえて財前五郎を強烈に描いた。(『作家の使命私の戦後・山崎豊子自作を語る・作品論』新潮文庫P156より) 書類審査の結果、教授候補には財前をふくめた3人が選ばれます。そして投票が実施されますが、いずれも過半数に達しません。上位2名の財前と葛西の間で決選投票がおこなわれることになります。葛西は徳島大学教授で、財前のまえの准教授だった人です。ここからは、自民党や民主党の党首選挙と同じ展開となります。落選した候補の、票のとりこみが激化するのです。なりふりかまわぬ、という言葉がこのためにあるのか、と思わせられるほど財前派は暗躍します。 結局、僅差で財前は浪速大学病院第一外科教授となります。物語はまだまだ先へと続きます。しかしストーリーを追うのは、このあたりまでとさせていただきます。ここまでが前編にあたる部分です。山崎豊子は自著のなかで、全編のエンディングのイメージを次のように語っています。――『白い巨塔』の前編も、財前教授は悪辣な方法をもって教授選に当選して栄光の座につき、里見助教授は大学の裏門からボロ屑のように吐き出されて出ていく。そういうシーンが最初に頭にあるわけです。(『大阪づくし私の産声・山崎豊子自作を語る・人生編』新潮文庫P116より)◎猛反発と取材拒否 山崎豊子は1924年に、大阪で生まれました。現在の京都女子大を卒業して、毎日新聞大阪本社に就職します。調査部から学芸部に異動したとき、上司になったのが副部長の井上靖(推薦作『天平の甍』新潮文庫)でした。井上靖の芥川賞受賞(1950年『闘牛』新潮文庫)に刺激をうけて、山崎豊子は33歳のときにデビュー作『暖簾』(新潮文庫)を発表します。本書は生家(老舗の昆布商店)をモデルにしたものです。 そして34歳のときに、『花のれん』(新潮文庫)で直木賞を受賞しています。こうなることを、上司だった井上靖は見通していたようです。部下の山崎豊子は熱心な取材をしますが、筆が遅すぎるきらいがありました。したがって井上靖は、時間がかかってもよい特集記事を担当させることにしました。また小説を書きたいという夢についても、身近な世界なら1つぐらいは小説になるとアドバイスしています。(『山崎豊子自作を語る』新潮文庫を参考にさせてもらいました) 山崎豊子が社会派作家と呼ばれるようになったのは、1963(昭和38)年から連載を開始した『白い巨塔』がきっかけでした。大学病院の現実を描いた作品は、大きな話題となりました。その後『白い巨塔』は、田宮二郎主演で映画化やテレビドラマ化されました。今回執筆にあたり再読しましたが、どうしても財前五郎が田宮二郎と重なってしまいました。 本書は阪大医学部をモデルにしたものではないかと、とりざたされました。そのために多くの病院から、取材拒否にあいました。このあたりの苦労については、『作家の使命私の戦後・山崎豊子自作を語る・作品論』(新潮文庫)にくわしく書かれています。『白い巨塔』の後編には、誤診裁判の模様がつづられています。これについても、医学界からの反発はすさまじいものだったようです。『白い巨塔』は取材魔といわれたほどの、山崎豊子以外には書けない作品です。医学界からの猛反発と取材拒否。専門用語の多い作品を、一般の読者にわかりやすい表現に改める。とんでもない連載は、1年9カ月もつづきました。山崎豊子の執念が書かせた、金字塔こそ『白い巨塔』なのです。――私の取材は、ただ直腸ガンの手術はこんなふうな順番でやるとか、そういうことではないんです。その主人公がメスを持ってるときでも、思い入れがあるでしょう。性格の反映があるでしょう。(中略)メスの持ち方一つでも性格が現れていなければ、その作品は多くの人をうたないし、読まれないんじゃないですか。(『大阪づくし私の産声・山崎豊子自作を語る・人生編』新潮文庫P122より) 引用させていただいた著作(人生編)の最後に「こぼんちゃん・おわりに」というエッセイがあります。船場育ちの山崎豊子は、幼いころに「こぼんちゃん」と呼ばれていたようです。大阪弁では「小さなやんちゃな男の子」という意味です。そしてこんな言葉で結ばれています。――『白い巨塔』あたりから、メディアに〈社会派作家〉なる肩書をつけられるようになったが、弱い立場の人を見過ごせない、不条理を許せないという元来の性格が、たまたま社会的テーマに広がっただけである。/私の小説家としてのルーツは、長らく気づかなかったが、〈こぼんちゃん〉時代にあったようだ。二〇〇九年十一月。 自信を持って、山崎豊子『白い巨塔』を推薦させていただきます。(山本藤光:2012.09.14初稿、2015.06.15改稿)
2015年06月16日
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もう神様にお願いするのはやめよう。―どうか、どうか、私。これから先の人生、他人を愛しすぎないように。他人愛するぐらいなら、自分自身を愛するように。哀しい祈りを貫きとおそうとする水無月。彼女の堅く閉ざされた心に、小説家創路は強引に踏み込んできた。人を愛することがなければこれほど苦しむ事もなかったのに。世界の一部にすぎないはずの恋が私のすべてをしばりつけるのはどうしてなんだろう。吉川英治文学新人賞を受賞した恋愛小説の最高傑作。(「BOOK」データベースより)山本文緒『恋愛中毒』(角川文庫)◎主人公が「僕」から「私」に イントロダクションでの主人公は「僕」でした。別れたいと思っている恋人の、執拗な追っかけに悩んでいます。住まいを移し、仕事も変えました。「僕」が新たに勤めたのは、芸能人・創路(いつじ)功二郎の事務所でした。その事務所に、水無月という45、6歳くらいの女性スタッフがいました。 ストーリーが次の章に進むと、突然主人公が「私」に変わっています。読み間違ったのかと思って、ページを戻したほど意外でした。いくら読み返してみても、主人公は水無月美雨になっています。 私には、主人公が入れ替わる必然性が理解できませんでした。創路という名前も、最後まで読むことができませんでした。面倒だからルビがないときは、釧路と馴染みの呼称におきかえていたほどです。 水無月は離婚して、弁当屋でアルバイトをしていました。そこに創路が、買い物にやってきます。水無月は創路のファンでした。創路の求めに応じてアルバイトを辞め、いつの間に創路の愛人兼秘書兼運転手兼雑用係になっていました。 小さな創路のオフィスには、陽子と千花という女性事務員がいました。彼女たちは「羊ちゃん」と呼ばれ、求めに応じていつでも創路と寝ていた経歴を持っています。創路は勝手気ままな男であり、先妻と別れていまは若い奥さんと暮らしています。水無月がはじめて創路のオフィスを訪れた日、陽子と次のような会話をしています。以下引用させていただきます。(引用はじめ)「先生の新しい恋人なんでしょう?」 まったく何でもないことのように彼女は聞いてきた。私はすかさずそれそ否定した。「違います」「いいのよ別に。先生は公私混同が好きだから」「だから違いますって」「先生は馬鹿だから、一回やると愛着が湧いちゃうのよ」(引用おわり)◎純文学の衣を着たミステリー「僕」が「私」に変わることについては、あえてふれません。作品の最後で私は、「なるほど」とうなってしまいました。それまでは、意味のない構成だと思っていたのです。 山本文緒はいやらしい女性を描く、天才なのかもしれません。水無月は職場の後輩にたいしても、ていねい語を用います。ていねい語というのは、相手をうやまって用いるのが普通です。でも水無月の場合は、違います。同化したくない、というきっぱりとした意識の表出が、ていねい語となってしまうのです。 最初のうちは誰もが、組しやすい相手だと心を開いてしまいます。しかし少しずつ、一風かわった本性が透けてみえはじめます。離婚した元夫、友人であり編集者である荻原、事務所の同僚たち、創路の元愛人、創路の後妻、前妻の娘、創路の前妻、そして創路功二郎にまで、それがおよびはじめるのです。 山本文緒は、この作品でブレイクしました。多くの評論家は口をそろえてそう言います。コバルトの延長線上に、飛躍の踏み台があったのでしょう。山本文緒は自らのHPに、次のような文章を掲載しています。 ――別居期間中コバルトの大先輩だった唯川恵さんと親しくなって受けた影響は、すごく大きかった。(中略)たくさんお酒おごってもらったし、ホテル代とかタクシー代がないから何度も泊めてもらったし、本当にご迷惑をかけ、かつ助けてもらいました(笑)」 創路先生のモデルは、唯川恵だったのです。作品を読んでいて、筒井康隆のイメージがついてまわったのですが、この一文にめぐりあって、胸のつかえが消失しました。 作品の性格上、あらすじには触れません。ぜひ水無月の本性を、しっかりと堪能してもらいたいと思います。本書は純文学というよりも、ミステリー小説のはんちゅうに入れるべきなのかもしれません。純文学という衣を着たミステリー。怖い小説です。 ◎ちょっと寄り道 江國香織(推薦作『号泣する準備はできていた』集英社文庫)は、唯川恵(推薦作『肩ごしの恋人』集英社文庫)の小説を「アフォリズム」に満ちていると書いています。アフォリズムとは、簡潔鋭利な表現、警句、謹厳、箴言(しんげん)のことです(「広辞苑」より)。つまり説教じみていない、すばらしい表現力の持ち主と評価しているわけです。 山本文緒は1988年(26歳)のときに結婚し、コバルト文庫で小説の腕を上げていきました。したがって本格的に小説デビューしたのは、30歳になってからです。当初の作品には、まだコバルト色が残っていました。そういう先入観で、読むためかもしれませんが。1999年、『恋愛中毒』で吉川英治文学新人賞受賞。2001年には『プラナリア』で直木賞を受賞しています。その後うつ病治療のため、執筆活動を中断していた時期があります。現在は再婚しています。 山本文緒と村山由佳は、非常に経歴が似ています。村山由佳は山本文緒の2歳下ですが、本格デビューするまでは「ジャンプ・ジェイブック」を活動の場にしていました。1993年『天使の卵』に改題)で小説すばる新人賞。2003年『星々の舟』で直木賞受賞を受賞しています。離婚経験も同じです。 2人の併走を楽しみにしています。(山本藤光:2009.07.14初稿、2015.06.15改稿)
2015年06月15日
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山村修『増補・遅読のすすめ』(ちくま文庫) 読書は速度か? 読書は分量か? ゆっくりでなければ得られない「効能」が読書にはある。本を読むこと本来の「快」を取り戻すための、反速読〉・反〈多読〉術。「読むリズムが快くきざまれているとき、それは読み手の心身のリズムと幸福に呼応しあっている。読書とは、本と心身とのアンサンブルなのだ。」文庫化にあたり、単行本未収録エッセイを大幅増補。(「BOOK」データベースより) ◎お世話になった狐の書評 私が35歳の現役ばりばりのころ、毎週水曜日にタブロイド版夕刊紙「日刊ゲンダイ」を買い求めていました。お目当ては、「狐」が執筆している書評でした。当時製薬会社の営業マン(MR)として、大学病院や市立病院を訪問していました。医師の多くは読書家で、私は雑誌や新聞に掲載されている書評を、自分なりにまとめて提供していました。いまでは医師にたいする便益供応として、問題視されるサービスかもしれません。 「狐」は匿名の書評家で、正体はあきらかにされていませんでした。「日刊ゲンダイ」の書評は1981年に開始され、1188回もつづけられました。ちょっぴり硬派の本が、とりあげられていました。 「狐」の正体を知ったのは、2006年に発行された山村修『〈狐〉が選んだ入門書』(ちくま新書)でした。狐こと山村修が、亡くなる直前での公開でした。私は山村修という著者が、「狐」のことをとりあげているのだとばかり思って買い求めました。最後のページ「私と〈狐〉と読書生活と――あとがきにかえて」を読んで、おどろきました。 ――「日刊ゲンダイ」での毎週の連載は、二〇〇三年七月末、二十二年半で終了しました。毎回、深更におよんで、なんとか原稿を書きおえたあと、その末尾に〈狐〉と記すときのえもいわれぬ解放感はわすれられません(山村修『〈狐〉が選んだ入門書』(ちくま新書) 〈狐〉はずっとサラリーマンでした。本を読み、800字の原稿と闘う毎日をつづけました。頭がさがります。 山村修の死を知ってから、手にした本は山村修『書評家〈狐〉の読書遺産』(文春新書)でした。巻末に中野翠は、「さようなら〈狐〉」という文章を寄せています。山村修からの手紙で、自分は遠縁にあたることを知ったというエピソードにそえて、思わず目頭が熱くなる弔辞が捧げられていました、 ――山村修さんは幸せな五十六年を生きたと思う。たくさんの書物をはじめ、愛するものを、そして自分のいのちを、誰よりも深く味わって生きたのだから。さようなら<狐>。私はもうしばらくこの世に残って、〈狐〉好みの青空を探す。(『文学界』二〇〇六年十月号) ◎山村修VS福田和也 山村修は1冊の本を、「1ページ1秒、ちょっと遅くても2、3秒」という読書を完全否定しています。これを実践していると豪語する2人の評論家を、冒頭でばっさりと切り捨ててみせます。福田和也『ひと月百冊読み三百枚書く私の方法』(PHP文庫)や立花隆『僕が読んだ面白い本・ダメな本 そして僕の大量読書術・驚異の速読術』(文春文庫)にたいして、眉に大量の唾をつけて笑いとばしてみせます。 そのうえで「遅読」の価値を、こんこんと説いてみせます。速読では絶対になしえない発見が、遅読では可能です。 フローベール『ボヴァリー夫人』(新潮文庫)の終りのほうに、つぎのような文章があります。この箇所は「山本藤光の文庫で読む500+α」の、フローベール『ボヴァリー夫人』(新潮文庫)でも披露しています。 以前に愛しあっていたエマ(ボヴァリー夫人)とレオンは再会をはたし、辻馬車に乗りこみます。馭者に命じてひたすら馬車を走らせつづけます、馬車の窓かけはおろされ、平坦な道でも馬車は激しく揺れます。 ――馬車の古ぼけた銀の側灯に陽の光が照りつけていたころ、野原のまんなかで、小さな黄色の窓掛けの下から、手袋をはめない手が一つでてひきちぎった紙きれを投げた。それは風に散って、その向こうに今を盛りと咲いているレッドクローバーの畑へ、白い蝶のように舞い降りた、(新潮文庫P337) 山村修は3度目の遅読で、この文章のなかのある単語に目をとめました。もちろん私は、まったく気づかずに本を読み終えています。山村修が目をとめたのは、引用文のなかの「紙きれ」という単語でした。この単語に山村修は、官能のニュアンスを感じとったのです。まさに指摘のとおりでした。じっくりと読み直してみると、「紙きれ」がなんであるのかが、くっきりと浮かびあがってきました。 サラリーマン生活をしながら、毎週「日刊ゲンダイ」に書評を連載していた山村修。さぞかし大量の本を読んでいたのだろうと思っていました。しかし彼のつぎの文章を読んで、安堵しました。 ――月曜日の朝、新しい本を開く。通勤電車のなかである。/新しい本は月曜日の朝にこそふさわしい。本のなかにはあたらしい人間たちがいて、あたらしい風景がある。これまで知らなかった関係性の世界がある。その一冊は、帰りの電車のなかでも読み、帰宅してからは自室で読み、そして週末までに読みおえる。つまり私の読書は週単位である。一週間に一冊、したがって月に四冊から五冊ということになる。(本文P109より) 福田和也に『作家の値うち』『作家の値うちの使い方』(ともに飛鳥新社)という著作があります。代表的な作家の作品を、100点満点で評価をしています。評価基準はつぎのとおりです。 90点以上:世界文学の水準で読み得る作品80点以上:近代日本文学史の歴史に銘記されるべき作品70点以上:現在の文学として優れた作品60点以上:再読に値する作品50点以上:読む価値がある作品40点以上:何とか小説になっている作品39点以下:人に読ませる水準に達していない作品29点以下:人前で読むと恥ずかしい作品、もしも読んでいたら秘密にした方がいい 私が「山本藤光の文庫で読む500+α」でとりあげている作品の評価をならべてみます。数字は福田和也がつけた点数です。 93小島信夫『抱擁家族』91河野多恵子『後日の話』82大江健三郎『万延元年のフットボール』80宮部みゆき『火車』79東野圭吾『秘密』75北村薫『スキップ』70山崎豊子『白い巨塔』69桐野夏生『顔に降りかかる雨』66天童荒太『永遠の仔』66丸山健二『夏の流れ』58新保裕一『ホワイトアウト』51浅田次郎『鉄道員』51小池真理子『恋』50花村萬月『ゲルマニウムの夜』32井上ひさし『吉里吉里人』29藤原伊織『テロリストのパラソル』 私は藤原伊織『テロリストのパラソル』を高く評価しています。福田和也は「1ページ1秒、ちょっと遅くても2、3秒」の読書で、「人前で読むと恥ずかしい作品、もしも読んでいたら秘密にした方がいい」と評価しています。 ちなみに最高点96点を獲得したのは、古井由吉『仮往生伝試文』、村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』、石原慎太郎『わが人生時の時』でした。最低点(20点以下)は、7件のすべてが船戸与一作品で(『蝦夷地別件』など)でした。 私は本書を読んで、思わず破り捨てたくなりました。あまりにも独善的すぎるのです。そんな背景がありましたので、山村修『増補・遅読のすすめ』(ちくま文庫)を読んだときに、拍手喝采しました。「1ページ1秒、ちょっと遅くても2、3秒」の福田和也の評価は、無視すべきものだと得心したわけです。「遅読」の応援歌を1つ紹介させていただきます。 ――速読法の目的は、不要な本を早めにとりのけて、ゆっくり読むべき本を発見することにあるのであって、読書の根本は、「遅読」にある。(花村太郎『知的トレーニングの技術』ちくま学芸文庫) 本はじっくりと、楽しみながら読むべきものです。山村修の書評は、けっして過激にはなりません。それはじっくりと著者と同道する、読書法から生まれたものです。「狐」こと山村修は、偉大な読書のナビゲーターでした。(山本藤光:2014.10.25初校、2017.12.02改稿)
2015年03月29日
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百年の月日を越え、語り継がれ読み続けられている不朽の名作『遠野物語』。柳田国男が言い伝えを採集し流麗な文語でまとめた原文を、今日の読者にわかりやすく味わい深い口語文に。大意をそこなわずに、会話を遠野方言であらわしながら再構成していく冒険的な試み。丁寧な注釈も付す。原典への橋渡しとして。(内容紹介より)■柳田国男『口語訳・遠野物語』(河出文庫、佐藤誠輔訳)◎100年たっても色あせない 柳田国男『遠野物語』は一度、角川ソフィア文庫で読んでいます、今回『口語訳・遠野物語』(河出文庫、佐藤誠輔訳)と京極夏彦『遠野物語remix』(角川文庫)が出ましたので、読み直してみました。3冊の本をくらべてみます。――土淵村山口に新田乙蔵といふ老人あり。村の人は乙爺といふ。今は九十に近く病みてまさにしなんとす。年頃遠野郷の昔の話をよく知りて、誰かに話して聞かせおきたしと口癖のやうに言へど、あまり臭ければ立ち寄りて聞かんとする人なし。(角川ソフィア文庫『遠野物語』十二より)――土淵村山口に新田乙蔵という老人がおり。村の人たちは、親しみをこめて「乙爺」と呼んでいました。乙爺は「おれも、もうすぐ九十になるし、病気も持っているがら、いつ死ぬがわがんね。おれは、ほんとうのごどいえば、遠野の里の昔の話をいっぱい覚えでるのよ。それを今のうちに、だれがさ聞かせたいもんだが」と、口癖のように言っていました。しかし、乙爺は風呂にも入らず、不潔で、あまりにも臭いものですから、だれも立ち寄って聞こうとする人がありませんでした。(河出文庫、佐藤誠輔訳『口語訳・遠野物語』)12より)――土淵村山口に、新田乙蔵という名の老人が住んでいる。村の人々は皆、乙爺と呼んでいる。今はもう九十に近い高齢で、しかも病気がちであり、死期も近いと謂われているようである。この人は遠野郷の昔話を能(よ)く知っていて、自分が生きているうちに誰かに話しておきたい、伝え残したいと長年口癖のように言っている。自らの寿命が尽きかけているのを悟ったのか、近年益々その思いを強くしているのだという。(京極夏彦『遠野物語remix』十二より) 私には3つに、大きなちがいを認められません。ただしせっかく口語訳が出たのですから、こちらを種本として筆を進めたいと思います。『遠野物語』は100年以上も前の1910(明治43)年に自費出版されたものです。柳田国男が文学仲間で遠野出身の佐々木喜善(鏡石)から聞きとった話を、説話集としてまとめました。序文には「鏡石君は話上手ではありませんが、とても誠実な人です。私も彼の話をもとに、一つ一つの言葉を大事にあつかい、私自身が感じたことを文章にしました」とあります。原文もそえておきます。――「此話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞来たり。昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分折々訪ね来り此話をせられしを筆記せしなり」 これが評判となり、単なる説話集というよりも、文学的な価値を高く評価されました。当時19歳だった芥川龍之介は、親友に宛てた書簡に「此頃柳田國男氏の遠野語と云ふをよみ大へん面白く感じ候」と書きつづっています。(この部分はウィキペディアを参照しました) おそらく佐々木の東北なまりの強いぼくとつとした話を、柳田国男は苦労して流れるような文章にしたのだと思います。録音機があった時代なら、佐々木の肉声を聞いてみたいところです。『口語訳・遠野物語』(河出文庫、佐藤誠輔訳)には、119話が所収されています。いっぽう『遠野物語』(角川ソフィア文庫)には「遠野物語拾遺」がついて299話が網羅されています。京極夏彦『遠野物語remix』(角川文庫)は、順番をばらばらにした編集になっています。それ以前(初出1976年)には、井上ひさしが『新釈遠野物語』(新潮文庫)というパロディ版を上梓しています。 何度も笑ってしまいました。冒頭だけ引いておきます。――柳田国男にならってぼくもこの『新釈遠野物語』を以下の如き書き出しで始めようと思う。「これから何回かにわたって語られるおはなしはすべて、遠野近くの人、犬伏太吉老人から聞いたものである。昭和二十八年十月頃から、折々、犬伏老人の岩屋を訪ねて筆記したものである。犬伏老人は話し上手だが、ずいぶんいんちき臭いところがあり、ぼくもまた多少誇大癖があるので、一字一句あてにはならぬ事ばかりあると思われる」(井上ひさしが『新釈遠野物語』新潮文庫より)『遠野物語』は自費出版直後から今日まで、延々と読み継がれている稀有な本です。いまなお、まったく色あせていません。新潮文庫『遠野物語』のあとがきには、田山花袋、島崎藤村、泉鏡花の感想が収載されています。芥川龍之介のように、もろ手をあげてとはゆきませんが、興味深い内容です。◎「民俗学」の開祖 朝日新聞夕刊(2011.11.01)に「日本人理解助ける『遠野物語』」という記事がありました。米国の日本研究家、ロナルド・モースの講演記事です。『遠野物語』には、三陸地方の津波をめぐる話も収められているとありました。記憶にありませんでしたので、さっそく調べてみました。『口語訳・遠野物語』(河出文庫)の第99話(P184)に「大津波」という見出しがありました。新聞記事のほうで紹介してみます。――三陸の大津波で妻を失った夫が、月夜の晩に海岸で妻と、やはり津波で死んだ村の男と会う。2人はかって心を通わせた仲で今は夫婦になったという。夫に子どもがかわいくないのかと問われ、泣き出す妻。去りゆく2人を、夫は途中で追うのをやめる。(新聞からの引用) モースは講演のなかで「99話を改めて読むと、津波をきっかけに浮き彫りにになった妻の秘密や、それを知った夫の喪失感、妻と男が死者となって遂げた思いの切なさなどが重層的に描かれ、物語の深みを感じた」と語っています。『遠野物語』にはほかにも、地理や地形、家の盛衰、魂の行方、行事、昔話、動植物、神々、怪異霊力などの話が、ふんだんにもりこまれています。「小古事記」とか「小風土記」などと称する学者もいるほどです。そのあたりの評価について、紹介させていただきます。――特に作者(註:柳田国男)が心をこめて記録したのは、河童や天狗、ザシキワジジなどの小さな神々である。時代のイデオロギーに追われ、水底や山蔭に隠れ住むささやかな存在を、作者は新しい学問の光で親しげに優しく照らし出している。(栗坪良樹編『現代文学鑑賞辞典』東京堂出版より) 柳田国男は「民俗学」の開祖といわれています。しかし他の民俗学者は、冷ややかでした。柳田国男は序文でつぎのように書いています。――このような書物は、現在の流行でないことはわかっています。どれほど印刷が容易だからといって、こんな本を出版し、自分だけの狭い趣味を、他人に押しつけるのは無作法なふるまいだと、おっしゃる方もあるでしょう。しかし、あえて答えます。このような話を聞き、このような場所をじかに見てきて、これを人に語りたがらない人など、はたしているでしょうか。(序より)『遠野物語』をすぐれた文学としてとりあげることに、他の民俗学者は嫌悪感をいだきます。その理由について、言及している著作があります。――民俗学は、事実を客観的に究明する学問である。従って、そこに主観的な文学が混入しているとなると、学問の客観性が疑われることになる。(百目鬼恭三郎『風の文庫談義』文藝春秋) 柳田国男の他の著作については、角川ソフィア文庫から「柳田国男コレクション」として出版されています。和紙のカバーのついた、しゃれた装いになっています。私のお薦めは『山の人生』と『日本の祭』です。 (山本藤光:2014.11.01初校、2015.03.24改稿)
2015年03月25日
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第一回ノーベル賞を受賞するはずだった男、北里柴三郎。その波瀾に満ちた生涯は、医学を志した時から始まった。「肥後もっこす」そのままに、医学に情熱を傾ける柴三郎は渡欧後、世界的細菌学者コッホの下で破傷風菌の発見・培養と血清療法の確立に成功する。日本が生んだ世界的医学者の生涯を描く。(「BOOK」データベースより)■山崎光夫『ドンネルと呼ばれた男・北里柴三郎』(上下巻、中公文庫)◎医療小説という下地 山崎光夫『ドンネルと呼ばれた男・北里柴三郎』(上下巻、中公文庫)をどのジャンルにするのか、迷ってしまいました。本書は、ビジネス雑誌である「週刊東洋経済」に連載されていました。だから、ビジネス書とも考えられます。ところが、単行本の帯には「著者渾身の長編小説」とあります。読んでみると、ノンフィクションそのものでした。迷った末に、私は「知・教養・古典」へとジャンル分けすることにしました。 2012年に日本医師会により「日本医療小説大賞」が新設されました。第1回の受賞作品は帚木蓬生の『蝿の帝国』と『蛍の航跡』(ともに新潮文庫)でした。ちなみに第2回は該当なしで、第3回は久坂部羊『悪医』(朝日新聞社)が受賞しています。この賞の創設が早ければ、『ドンネルの男・北里柴三郎』は間違いなく受賞していたと思います。 山崎光夫は、医学薬学関係の作品を中心にして書いています。処女作『ジェンナーの遺言』(初出1986年文藝春秋、祥伝社文庫)は、根絶された天然痘が東京を襲う話でした。私はこの作品で、山崎光夫ファンになりました。 第2作『安楽処方箋』(初出1986年講談社)は、デビュー作の2日後に発売されています。私はほぼ同時に、2冊の山崎光夫作品集を読んだことになります。表題作「安楽処方箋」は、医師に見破られずに自殺する方法をあつかった秀作です。本書には直木賞候補になった「詐病」と、「サイレント・サウスポー」が収載されています。残念ながら小説家としての山崎光夫初期作品は、ほとんど文庫化されていません。山崎光夫は3度直木賞候補になっています。しかし受賞には至らず、次第に影が薄くなってしまいました。 そんなときに書店で、山崎光夫『ドンネルの男・北里柴三郎』を発見しました。本書にふれたときの喜びを、当時の「読書ノート」から引用してみます。(引用はじめ) 『ドンネルの男・北里柴三郎』(単行本のタイトル)は、医学小説という下地のある著者だから書きえたテーマです。タイトルのドンネルは、ドイツ語で雷の意味。北里柴三郎は頑固一徹な人でした。それゆえ、組織内では浮き上がっていました。しかし、弟子からの信頼は絶大であったようです。 本書には、さまざまな歴史上の人物が登場します。この時代に海外留学を果たすのは、ほんの一握りの人だったでしょう。そういう人たちが作品を引っ張ります。福沢諭吉は北里の恩師であり、北里柴三郎はその教えを守って、慶應義塾大に医学部を創設することになります。森鴎外(林太郎)は、北里のライバル。赤痢菌を発見した志賀潔は、北里の弟子にあたります。 いまから150年前に生を受け、ドイツ留学を経て日本の公衆衛生をリードした北里柴三郎。その生きざまにふれて、人を動かすことの本質を知らされました。自分に正直であること。部下の成長に熱心であること。受けた恩義を忘れないこと。久しぶりに読んだ、山崎作品に拍手。(「読書ノート」2003年11月6日より)◎日本ではじめてのノーベル賞候補 北里柴三郎に関する著作は、意外に多くはありません。野口英世の伝記は、少年文庫にもなっています。北里柴三郎は、本来なら第1回ノーベル賞を受賞しているはずでした。破傷風、コレラ、ペストなど、未知の病に挑んだ人なのに、あまりスポットがあてられていないのが現状です。『ドンネルの男・北里柴三郎』の詳細説明は、山崎光夫の「あとがき」ですべてを網羅しています。単行本の初版本の帯コピーを紹介させていただきます。――2003年(平成15年)は北里柴三郎・生誕150周年にあたる。この節目に、幕末から明治、大正、昭和と生き抜いた〈気骨一貫〉の人生を振り返るのは格好といえるだろう。(中略)わたしは医学・薬学の世界を執筆の分野と決めてから、明治期の医人像をいずれ描いてみたいと考えてきた。日本ではじめてのノーベル賞候補にのぼった北里柴三郎については、特に興味を覚えていた。(「上巻」より)――北里は象牙の塔に安住した単なる細菌学者ではない、というのがわたしの抱いている北里像である。わが国の公衆衛生をリードした指導者であり、多くの研究者を育てた教育者でもある。日本に近代簿記を紹介したのは福沢諭吉だが、北里はその福沢の〈弟子〉でもあり、遺志をついで慶應義塾大学・医学部を創設した。また、日本医師会の初代会長も務め、オーガナイザーとしての才も発揮している。幅広い視野を持った桁外れの人物である。(「下巻」より) 山崎光夫には、文庫書き下ろし『名人伝・長く強く生きる』(講談社+α文庫)という著作があります。そこには北里柴三郎ほか80余名の名人たちが登場します。山崎光夫は、彼らの共通点を「健康力」「没頭力」「楽天力」だとしています。 直木賞に縁のなかった山崎光夫が、ノーベル賞に縁のなかった北里柴三郎を描いた作品。そんな単純な図式ではなく、本書は傑作です。医療従事者はもちろん、企業のトップにはぜひ読んでもらいたいと思います。 山崎光夫にはほかに、芥川龍之介自殺の謎を解く『藪の中の家』(中公文庫)があります。ノンフィクション的小説として新境地をひらいた、山崎光夫の奮起を喜んでいます。山崎光夫は、あと80名ほどの「名人伝」を書かなければなりません。(山本藤光:2010.05.29初稿、2014.08.26改稿)
2015年01月21日
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うらぶれた漁師町浦粕に住みついた<私>の眼を通して、独特の狡猾さ、愉快さ、質朴さをもつ住人たちの生活ぶりを巧みな筆で捉える。(文庫内容紹介より)■山本周五郎『青べか物語』(新潮文庫)◎「青べか」ってなんだ? 山本周五郎作品は、『樅の木は残った』(上中下巻)と『赤ひげ診療譚』(ともに新潮文庫)しか読んでいませんでした。社会人になって間もないころ、出張のお供をさがすために本屋へ寄りました。『さぶ』(新潮文庫)を買い求めるつもりだったのですが、あいにく棚にはありませんでした。『青べか物語』(新潮文庫)が目にとまりました。ノーマークの作品でした。「青べか」の意味すらわかりません。『青べか物語』には、30ほどの掌編が収載されていました。「はじめに」と「青べかを買った話」までを、立ち読みしました。あっという間に、むかしの浦安の広大な光景と、そこに暮らす庶民の息吹が迫ってきました。作品は昭和初期の、浦安に住む庶民を描いたものでした。迷わずに買い求めました。 底抜けに明るい大人たち。ちょっと小生意気なこどもたち。釣船屋が軒を連ね、洋食屋やごったくやと呼ばれる小料理屋があり、駐在所や銀行の出張所もあります。缶詰工場や石灰工場があります。風景に溶けこんだような人たちは、だれもが貧しい生活をしています。タイトルの「青べか」は、青く塗ってある貝や海苔とりの平底船のことでした。 作中に登場する「千本」という船宿のモデルは、吉野家として現在も営業しているようです。ホームページを見ると、堂々と「作中たびたび登場する千本は吉野家をモデルにしたものです」と書かれていました。まだ行ったことがないのですけれど。◎主人公が愛読している本 作品のなかで主人公が3度、愛読書にふれる場面が登場します。はじめのうちは、単に「青巻」と書かれていましたが、最後に「ストリンドベリの青巻」と表記されています。こんな一節をそえて。――苦しみつつ/なおはたらけ/安住を求めるな/この世は巡礼である。(本文より) 文庫本の解説で平野謙も書いていますが、この作者の本は現在流通していません。読んでみたいと思いますが、調べたかぎりでは入手不能なようです。現在新潮社から、「山本周五郎長篇小説全集」(全26巻)が刊行中です。まだ第17巻までしか手にしていません。その最後を飾るのは『青べか物語』です。脚注が豊富な新しい全集なので、「青巻」のことなどに触れられていることでしょう。届くのが待ち遠しいほどです。※2014.02.23追記『山本周五郎長篇小説全集』(全26巻、新潮社)が完結しました。最終巻が『青べか物語』でした。ずっとたのしみにしていました。さっそく「青巻」にかんする服部康喜の解説を読みました。ずっと気になっていた「青巻」の謎がとけました。長いので全部は紹介できませんが、ポイントのみ引用させていただきます。――周五郎が愛読した『青巻』だが、それはキリスト教擁護を中心に据えながら、師(先生)と弟子(学生)との対話形式で、この世(人世)の多くの問題について考察を深めていく体裁を取った随筆的な作品である。そこには若さと老い、善と悪、富と名誉、愛と赦し、世俗と聖、理性と獣性、現実と本質、自由思想とキリスト教などの問題が縦横に展開している。文字通り人生の指針を探る格好の書といってもいいものである。(服部康喜の解説、『山本周五郎長篇小説全集26青べか物語』より)――『青べか物語』は『青巻』の助力を得て成立したとさえ言えるのである。(中略)『青べか物語』は、豊かな情報を提供してくれた浦安の住人たちと『青巻』という二つの推進力を得て、漕ぎ出した作品なのである。(服部康喜の解説、『山本周五郎長篇小説全集26青べか物語』より) 解説を読んで、ますますストリンドベリにふれてみたくなりました。解説で服部康喜は、「運命の軽減」というストリンドベリの著作を引用しています。検索してみてもヒットしませんでした。 ◎浦安の風景に魅せられ『青べか物語』に感銘を受けた私は、いつものように「まつわり本」を読みあさりました。尾崎秀樹『評論・山本周五郎』(白川書院1977年)のなかに、興味深い記述がありました。1961(昭和36)年5月に、山本周五郎が中央大学で文芸講演会をおこなったときの話です。――文学の場合は、慶長五年の何月何日に、大阪城で、どういうことがあったか、ということではなく、そのときに、道修町の、ある商家の丁稚が、どういう悲しい思いをしたか、であって、その悲しい思いの中から、彼がどういうことを、しようとしたかということを探求するのが文学の仕事だと私は思います。(尾崎秀樹『評論・山本周五郎』本文より) 講演の言葉どおりに山本周五郎は、庶民の日常をみごとに切りとってみせてくれました。古い浦安の風景を活写し、そこで暮らす人々の心象風景まで、掘りさげてみせてくれました。『日本文学小辞典』(新潮社)の『青べか物語』の解説に執筆動機が詳しく掲載されています。まとめてみましょう。 1928年(昭和3年)夏、スケッチブックを携えた山本周五郎(当時25歳)は、ぶらりと浦安(作品のなかでは浦粕と書かれています)を訪れます。彼は浦安の風景に魅せられ、そこに住みついてしまいます。下宿を何度か替えながら、最終的に「土手の家」と呼ばれる一軒家に落ち着くことになります。彼は翌年秋まで、浦安で暮らしました。 地元の人から、彼は「蒸気河岸の先生」と呼ばれ、たくさんの人とふれあいました。蒸気河岸とは、蒸気船の発着所があるところのことです。 わずかな原稿料をやっと手にできるくらいに、貧しかったころのことです。ぶらりとスケッチに出かけた山本周五郎は、浦安の光景のとりこになり、数多くのメモを残していました。それらを集大成したのが『青べか物語』で、発表したのはノートの記録から何と30年後のこととなります。「まつわり本」を読んで、『青べか物語』にたいする評価がさらに高まりました。真実と虚構がないまぜになった本作は、もっと多くの人に読まれるべきでしょう。少しの迷いもなく、『青べか物語』を日本近代文学の高い位置に、すえおきたいと思います。(山本藤光:2012.12.04初稿、2014.05.28改稿)
2014年11月10日
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