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渡辺容子『左手に告げるなかれ』(講談社文庫)

◎実力派の新生が出現(2009年「日刊ゲンダイ」掲載時の見出し)
渡辺容子は『左手に告げるなかれ』(講談社文庫)で、江戸川乱歩賞を受賞しました。これまで同賞に2度落選しており、『左手に告げるなかれ』は3度目の正直となったのです。この作品の主人公・八木薔子(ショウコ)は33歳の保安士。保安士といってもなじみがないと思いますが、著者自身がその職業についてつぎのように書いています。
――スーパー、百貨店などの売り場を、買い物客を装った姿で巡回して万引の警戒にあたる私服保安士の方々を取材させていただき、万引犯罪が増加の一途を辿っていることを実感させられた。(「本」1996年10月号より)
渡辺容子は入念な取材をおこない、保安士の仕事や心がけを作品のなかに結実させました。まるで保安士マニュアルを読んているような、記述もたくさんあります。しかしそれが作品を平坦にはしていません。一人称で書かれているために、視野が限定され単調になりがちなのですが、会話を多く取り入れることで作品に広がりをもたせています。万事が計算されてのことでしょう。マニュアルの部分はこんな具合です。
――スーパー、百貨店といった小売業では売上に対して、一・五パーセント前後の棚卸しロスが生じるといわれている。百億の売上があれば、帳簿在庫とを突き合わせると一億五千万円前後の差が生じるのだ。このうちの六割、つまり九千万円分は万引、もしくは内部不正によって生じたロスであるというのが、この世界の定説となっている。(本文より)
ある日、主人公を訪ねて刑事がやってきます。薔子は3年前に勤めていた証券会社を退職しています。当時不倫関係にあった木島とのことが発覚して、会社にいられなくなったのです。
薔子は木島の奥さんへ慰謝料400万円を支払うために、車やマンションを売却しました。木島の奥さんが何者かに殺害されます。刑事はその辺の経緯から、主人公に対して殺人の嫌疑をかけたのでした。帰り際に刑事がこんなことをいいます。この言葉の意味を後に知ることなりますが、このセリフがストーリーを引っぱっています。
――捜査に協力すると思って、ひとつセーターをまくって右手を見せてもらえませんか。(本文より)
被害者は、ダイイング・メッセージを残していました。それが「……みぎ手」であったのです。そして主人公の右手には傷がありました。薔子は右手にかけられた疑惑を晴らすべく、自ら真犯人をさがします。
いっぽう薔子以外にも、この事件を追っている探偵が現れます。探偵は不倫写真を撮ったために、薔子の人生を狂わせた責任をとりたいといいます。探偵の出現で作品は、さらに厚みを増します。素人探偵・薔子の視点のみでのなぞ解きでは、深みが生まれません。渡辺容子は探偵を登場させることで、ストーリーに新しい展開を生み出しました。
これ以上書くと、タイトルの意味も含めて、ルール違反になってしまいます。この作品のよさは、前述のとおり周到な準備と人物造形の巧みさにあります。会話は厚みに乏しいものの、一人称小説をカバーするには、十分な流れになっていました。
注目すべき新人の誕生です。今回渡辺容子に賞をさらわれた候補者の中に、高嶋哲夫、野沢尚がいました。この2人にも注目しています。
(山本藤光:2009.09.26、「日刊ゲンダイ・My Review」1996年10月20日号に藤光伸のペンネームで掲載したものを加筆修正しました)
◎『流さるる石のごとく』もお薦め
主人公の八木薔子は、その後の作品にも登場します。文庫化されている著作でお薦めなのは、『ターニング・ポイント ボディーガード八木薔子』(講談社文庫)、『要人警護』(講談社文庫)そして八木薔子シリーズ最後の作品『罪なき者よ、我を撃て』(2013年講談社)の文庫化を待っている状況です。
八木薔子シリーズ以外の作品では、『流さるる石のごとく』(講談社文庫)がお薦めです。『流さるる石のごとく』の主人公・速水圓(まどか)は万引き癖があり、アルコール依存症です。そして脇役として、万引き防止システムの設計・施工会社社長の稲葉が登場します。
速水圓は、日本屈指の大富豪のひとり娘です。夫・速水道之は大学病院の助教授。父親に猛烈に反対されながら結婚しました。結婚して7年になりますが、子供はいません。夫婦仲には亀裂がはいっており、いつしか圓は夫に殺されるかもしれないと思いはじめています。それが万引きとアルコール摂取に拍車をかけています。
渡辺容子は、好んでめちゃくちゃな(ファニーな)ヒロインを描いています。その理由について、著者自身がつぎのように語っています。
――私の中では、ファニーという言葉がぴったりのヒロインというと、『ティファニーで朝食を』のホリー・ゴライトリなんです。いわゆるアウトサイダーですが、あのホリーの物語は何度読み返しても切なくなります。(「青春と読書」1999年10月号)
――アルコール依存症者をヒロインにしたのは、酔った彼女の目を通して見えてくる社会の歪みのようなものを描きたかったから。(同)
事件が起きます。圓のもとに「速水道之氏を誘拐した」と脅迫電話がはいります。夫が勤める病院へ電話をいれます。「奥さんが大怪我をした」という電話があり、そっちへ向かったという返事でした。
圓はジュエリー全品をボストンバックに詰めて、犯人の要求にしたがいます。犯人は徹底的に圓を振りまわします。東京自由が丘駅、東京駅、新神戸駅、宇治山田駅、猿田彦神社、賢島と犯人の指示が変わります。
そして、もう一つの事件が起きます。家へ戻った道之のもとへ、「圓を誘拐している」と脅迫電話が入るのです。犯人の要求で十億円を抱えて、指定の場所へ向かう道之。その間、圓はころころ変わる犯人の指示に振り回されています。だれひとり監禁されることのない誘拐事件。やがて道之の死体が発見されます。現金は消えていました。
この作品には、いたるところに「伏線」がはられています。読み進めるうちに、思わず前のページをくくりたくなるほどです。そしてさまざまな「依存症」が登場します。万引き防止の装置に依存する店舗。心臓のペースメーカーに依存する夫・道之。アルコールに依存する圓。お手伝いさんや速水の義母に依存する速水家の日常。病める社会の象徴として描かれているのが、「依存」なのです。
渡辺容子は「依存」を通じて、そんな現象にスポットをあててみせました。『流さるる石のごとく』は、「伏線の妙」と「依存」に着目して読んでいただきたいと思います。
(山本藤光:2009.10.16初稿、2015.05.06改稿)
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