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2015年05月12日
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研ぎ澄まされた理知ゆえに、青春の途上でめぐりあった藤木忍との純粋な愛に破れ、藤木の妹千枝子との恋にも挫折した汐見茂思。彼は、そのはかなく崩れ易い青春の墓標を、二冊のノートに記したまま、純白の雪が地上をおおった冬の日に、自殺行為にも似た手術を受けて、帰らぬ人となった。まだ熟れきらぬ孤独な魂の愛と死を、透明な時間の中に昇華させた、青春の鎮魂歌である。(「BOOK」データベースより)

福永武彦『草の花』(新潮文庫)
ふく福永武彦・草の花.jpg

◎託された2冊のノート



 文芸用語としてのロマネスクは、スタンダールが好んで用いています。仏語のロマンから派生し、現実の論理・事象の枠を飛びこえた空想的、神秘的、幻想的な性質の小説のことです。

 福永武彦の作品は、とぎすまされた文章と構成でなりたっています。中村真一郎は福永武彦を「完璧主義」といっています。福永武彦の小説について、小久保実はつぎのように書いています。

――「風土」も「草の花」も「忘却の河」も「海市」も、保守的な物語ではなく、内面の暗い意識を明晰なイメージでとらえ、描写が象徴にたかまるだけでなく、ひとつの世界を構築するといった小説である。(『国文学』昭和50年11月号より)

 新潮文庫の扉には、新約聖書からの引用が掲載されています。
――人はみな草のごとく、その光栄はみな草の花の如し(ペテロ前書、第一章、二四)

 タイトルの「草の花」は、この引用によるものです。本書のなかでは、つぎのように書かれています。
――時間は絶えず流れ、浅間の煙は何ごともなく麓の村に灰を降らしていたのだ、草の花は咲き草の実はこぼれ、そして旅人は、煙のような感傷を心に感じていたでもあろう。(本文P215より)

『草の花』は「冬」と「春」の章のあいだに、「第一の手帳」と「第二の手帳」をはさみこんだ構造になっています。冬と春の章は語り手「私」がサナトリウムに入院している、戦時中の現在を描いています。

 死と隣り合わせの今を生きる「私」たちの病室に、汐見茂思30歳という男が入院してきます。病室で平気で煙草を吸う汐見に、長期療養中の同室の患者たちは、辟易とさせられます。毎日の検査結果に一喜一憂する患者のなかで、汐見は危険な肺の手術の道を選択します。

 汐見は手術にのぞむ前に、自分が死んだら読んでもらいたいと、2冊のノートを「私」にたくします。手術は非常に危険なものでした。手術の結果、汐見は還らぬ人となります。私は汐見のノートをひらきます。2冊のノートには、汐見の青春がつづられていました。

◎同性・藤木忍への愛「第一の手帳」

 18歳の春、汐見は旧制高校生で、弓術部(補:弓道部のこと)に所属しています。彼は同じ部の後輩男性・藤木忍を愛しています。同性愛なのですが、汐見には肉欲がありません。ひたすら藤木からの愛をもとめています。

――藤木の眼、――いつも僕の心を捉えて離さなかったのは、この黒い両(ふた)つの眼だ。あまりに澄み切って、冷たい水晶のように耀く、それがいつも僕の全身を一息に貫くのだ。そして僕はその度に、僕の心が死んで行くように感じ、そしてまたより美しくなって甦るように感じるのだ、その眼は何かを語っている。しかし僕には、もどかしくも、それが何であるのか、語られているのが何であるのか、暁(さと)ることが出来ないのだった。(本文P60より)

 なんと一途な気持ちなのでしょう。さらに愛についての、2人の会話に注目したいと思います。

(引用はじめ)
 藤木はそこで少したじろいだ。僕は藤木が顔を赧(あか)らめているような気がした。
――言いたまえ、何だい?
――愛するというのは、つまり愛されることを求めるということじゃないんですか? 汐見さんが僕を愛してくれるのも、僕が汐見さんを好きになるのを待っているからなんでしょう?
――僕はただ愛してさえいればいいんだ。
――違うと思う。それだったら汐見さんはなにもそう苦しむことはない筈じゃありませんか?
(引用おわり、「第一の手帳」P114-115より)

「第一の手帳」は、藤木との別離でむすばれます。そして、こんな文章でおわります。藤木は若くして病死してしまうのです。

――明日の晩、しかしその晩に椿事(ちんじ)が出来した。(本文P121より)
 私は「椿事」という単語に、目をうばわれました。以前に書いたことがあるのですが、三島由紀夫に「15歳の詩」という作品があります。引用させてもらいます。

――わたくしは 夕な 夕な/窓に立ち 椿事を 待った

 くわしくは「山本藤光の文庫で読む500+α」の三島由紀夫『潮騒』(新潮文庫)でふれています。興味があればそちらをごらんください。ただし磯田光一のつぎの一文は再掲させてもらいます。
 まさにこの解説は、福永武彦『草の花』にも合致するからです。

――「椿事」とは、彼(補:三島由紀夫のこと)のエッセイ『魔・現代的状況の象徴的構図』(「新潮」36年7月)の言葉をかりれば、「死が一つの狂ほしい祝福であり祭典であるような事態」にほかならず、「かっては戦争がそれを可能にしたが、今(戦後)の身のまはりにはこのやうな死の可能性は片鱗だに見当たらぬ」という種類の、苦悩にみちた、しかし光栄である、充足した「死」にほかならなかった。(磯田光一『殉教の美学』冬樹社より引用)

◎異性・千枝子への愛「第二の手帳」

 24歳の秋、汐見は召集令状の到着をおそれながら、藤木忍の妹・千枝子を愛しています。千枝子は熱心なキリスト教の信者で、汐見の愛を容易にうけようとはしません。2人のまじわらない会話を引用させていただきます。

(引用はじめ)
――あたしは汐見さんが御自分のことを孤独だとおっしゃるのを聞くたびに、身を切られる思いがするの。あなたがどんなに孤独でもあたしにしてあげられることは何もないんじゃないの。
――君が愛してさえくれればいいんだ。
――愛するといったって、……ねえ汐見さん、本当の愛というものは、神の愛を通してしかないのよ、
(引用おわり、本文P227より)

 千枝子は兄の忍と同じように、汐見の一方的な愛の押しつけが、わずらわしくなります。千枝子は汐見のともだち・石井と結婚してしまいます。そんなときに、汐見に召集令状がきます。

◎一読者として殆んど藤木に恋着した

 そして『草の花』は終章「春」となります。語り手「私」は、汐見の2冊のノートを、石井千枝子に送ろうかどうかを迷っています。汐見の形見であるノートの存在を手紙で、千枝子に知らせます。しかし返事は長文ですが、やんわりと拒絶の意志をしめしたものでした。

 汐見の孤独と愛の青春ノートは、宙ぶらりんのままに、「私」の手元にのこされてしまいます。

『草の花』において、語り手「私」が汐見と出会ったのは、「第二の手帳」に書かれているように、彼が出征してからのことです。2つの愛に破れたあとのことです。冒頭の同室患者にしめすふてぶてしい態度は、2冊のノートからは想像できません。

 そのあたりについて、三島由紀夫は著作のなかでつぎのように書いています。

――よみおわったあとでの主人公汐見の像は、プロロオグで自殺的手術を進んでうける汐見の、生の奥底を見透かしたような剛毅な像と喰いちがってくる。それを作者はわずか数行で、戦地へ行った汐見に何か重大な転機があったにちがいないと暗示するにとどめている。むしろこの間の飛躍が小説的に重要なのだ。(三島由紀夫『文學的人生論』知恵の森文庫P124より)

 三島由紀夫は最後に、「近代日本文学で、かほど美しく描かれた『美少年録』を私は知らない。一読者として殆んど藤木に恋着したのであった」と結んでいます。

『草の花』はページをくくるたびに、汐見の孤独と愛の色彩が増してゆきます。
(山本藤光:2012.07.15初稿、2015.05.11改稿)





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最終更新日  2017年11月25日 08時09分36秒
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