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2022.10.01
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カテゴリ: 中城村



「津覇集落」の南西側でケンドー(旧県道)の近くに「トゥングヮー」と呼ばれる祠があります。旧暦1月2日に行われる「ハチウクシー/初興し」と呼ばれる行事は、1年間を通じて集落の各拝所への拝みを始める最初の日で「トゥングヮー」はこの行事の最後を締め括る拝所として拝まれていました。旧7月16日に行われていた「念仏エイサー 」の踊りは旧盆の最終日に「トゥングヮー」で行われ、旧盆翌日の旧7月17日には「ジュウルクニチー/十六日」と呼ばれる厄除け祈願の行事が行われていました。また、旧8月15日の「十五夜」の行事では集落の豊年と厄祓いの祈願で「トゥングヮー」が拝され、その後「アシビナー」に移動して「ムラアシビ/村遊び」が行われていたと伝わります。


(トゥングヮーの火の神)

(トゥングヮーのウコール)

(トゥングヮーの手水鉢)

「トゥングヮー」はかつて「旧津覇公民館」があった場所で、戦前は鬱蒼とした木々で覆われている中に小さな瓦葺きの祠があったと言われています。当時、現在の位置よりも少々北側にあり、祠の内部には火の神(ヒヌカン)の霊石が祀られていました。現在の「トゥングヮー」はコンクリート製の祠で向かって左側には「奉納 昭和四十五年六月吉日 糸満家親族一同」と記され、右側には「


(ムラヤーのシーサー)

(メーガーラー)

「トゥングヮー」がある場所はかつて「ムラヤー/村屋」または「倶楽部」と呼ばれた集落の中心地でした。現在、この敷地の南西側にある掲示板の上に「シーサー」が2体設置されています。以前は「メーミチ」と呼ばれる隣接する道の入り口に鎮座していたと言われています。戦前は西側丘陵の「富里ノ嶽」がある「フサトゥヤマ/富里山」に向かって3〜4体のシーサーが置かれ「ヒーゲーシ/火伏せ・厄除け」の役割があったと伝わります。「津覇集落」の南側には「メーガーラー」という河川があり、源流は小字「仲棚原/ナカタナバル」で津覇小学校南側を通り、小字「寺原/テラバル・浜原/ハマバル」を経て東側の中城湾へと流れつきます。因みに、現在の「メーガーラー」の川幅は戦前とほぼ変わらないと言われています。


(糸満門中のシーシヤー/獅子屋)

(シーシヤーの神棚)

「ムラヤー/倶楽部」の北側にある「糸満家」に「シーシヤー/獅子屋」と呼ばれる獅子舞を保管する小屋があります。「糸満門中」の本家は屋号「糸満」で「津覇集落」の創始家である「ニーヤー/根屋」の一つと言われています。戦前は集落の祭祀を行う「カミンチュ/神人」を出した家であり姓は「新垣」でした。また、同系統の家として「糸満小」や「湧田」があります。「糸満門中」の「カミンチュ」は集落の火の神である「トゥングヮー」で白衣装を着用して祭祀を行いました。屋号「糸満」の屋敷裏側には、この白衣装を干す専用の場所があったと伝わります。「シーシヤー」の小屋内部には神棚があり、4基のウコール(香炉)、4組の花立・酒・水、2組の茶碗が供えられ、花立にはチャーギ(イヌマキ)が供え葉として捧げられています。


(津覇のシーシ/獅子)

(エイサー大太鼓)

「シーシヤー」の小屋内部には「津覇の獅子」が安置され、火の神の前にエイサーに使われる大太鼓が置かれています。「津覇の獅子舞」の由来は、その昔に丘陵で生活していた「糸満家」と「呉屋家」が平地へ移動して現在の「津覇集落」を形成し、その際に厄除けと五穀豊穣を祈願したのが始まりであると伝わります。「津覇の獅子舞」の大きな特徴は、一頭の獅子で雌と雄の演舞を踊り分けする事です。雌の舞は柔らかい所作が主体となり「シランカチ」という虱(シラミ)をかく動作を座りながら行います。一方、雄の舞は力強い所作が主体で「マース高」や「見シジ」と呼ばれる踊りを行います。約400年余りの歴史を持つ「津覇の獅子舞」は1997年(平成9年)3月7日に「中城村指定無形民俗文化財」に登録されました。


(ナカミチ)

(ヤマグヮー)

(ヤマグヮーの拝所)

「糸満門中」の「シーシヤー」の北側沿いを通る「ナカミチ」は「津覇小学校」側から国道329号線に架かる陸橋近くが入り口になっています。「津覇集落」の中央を東西に横断し、集落の東側にある「スガチミチ/潮垣道」に至る「ナカミチ」は集落内で最も道幅が広く、エイサー の「道ジュネー」の順路となっています。この「ナカミチ」沿いには「ヤマグヮー」と呼ばれる場所があります。その昔「ヤマグヮー」にはヤシ科の植物である「マーニ/クロツグ」の低木が沢山生えており、その深い茂みの中に墓があったと言われています。この墓は「英祖王」の父である「伊祖グスク」の「恵祖世主」を先祖に持つ「大湾按司」に仕えていた家来や、奉公していた人の中で身寄りがない人を葬った墓であると伝わっています。現在は竹林の根元に霊石とウコール(香炉)が祀られています。


(呉屋門中の御神屋/ウカミヤー)

(呉屋門中の神棚と火の神)

(津覇の旗頭)

「ヤマグヮー」から南側に「ナカミチ」を挟んだ場所に「呉屋門中」の「御神屋/ウカミヤー」があります。本家は屋号「呉屋」で集落の根屋の一つと言われており「津覇集落」で所有する「旗頭」を保管しています。「呉屋門中」は「恵祖世主」を初代とする10代目「大湾按司」の三男「大湾子」を元祖とする門中です。「呉屋門中」の神人は集落内では「ヌール」と呼ばれており、ウマチーの行事の際には「伊集集落」のノロ殿内に貢物を運んでいたと言われています。この門中は「伊集ノロ」を乗せる馬を管理しており、同門中の男性は馬の手綱役を務めていました。1713年に琉球王府により編纂された『琉球国由来記』に記されている『里主根屋 津覇村 毎年六月、為米初、神酒三同村百姓中供之。伊集巫ニテ祭祀也。』という記述は「呉屋門中」の「御神屋」であると考えられます。


(ウシクルシドゥクマー)

(クバニー門中の拝所)

(クバニー門中の拝所/祠内部)

「呉屋門中」の「御神屋」から南東側に「ウシクルシドゥクマー」と呼ばれる場所があり「シマクサラシー」という集落の厄祓い行事の際に牛を解体した場所であると伝わっています。行事の後には集落の人々が集合して貴重な牛肉が振る舞われました。また、この場所から更に南西側には「クバニー門中」の拝所があります。「クバニー門中」の祖先は「勝連グスク・座喜味グスク・中城グスク」構築の際に石細工の職人をしており「津覇集落」に移住したと言われます。「クバニー」の名称は先祖が住んでいた土地にクバの木が沢山生えていた事に由来しています。この拝所の祠内部には「久場 勝連」と彫られた石碑と霊石が祀られており、近隣の屋号「勝連」の屋敷には現在も「クバニーガー」と呼ばれる井戸があり拝されています。


(1〜4号サーターヤー/製糖場跡)

(1〜4号サーターヤー/製糖場跡)

「津覇集落」の南側に「津覇構造改善センター」と呼ばれる旧公民館があり、この土地は戦前まで集落で共有する1号〜4号の「サーターヤー/製糖場」がありました。「サーターヤー」での作業は収穫したサトウキビを持ち込み、順番を決めて1家分ずつ製糖作業が行われました。サトウキビの汁を絞る「サーターグルマ」を引くのは馬の役目で、同じサーターヤーを利用する人同士で馬を出し合い交代で引かせました。このサーターヤーやサトウキビの生産量が少ない人達が利用していた為、利用者を"借りた車"という意味の「カイグルマー」と呼んでいたそうです。また、利用者は「サーターグルマ」の扱いに不慣れな人が多く、度々「サーターグルマ」を壊していたので「カイグルマー ヤ 道具ヤンジャー(道具を痛める)」と言われていたと伝わります。








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最終更新日  2023.06.24 17:10:22
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