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2023.02.17
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カテゴリ: 恩納村



沖縄本島北部「恩納村/おんなそん」の西海岸沿いを通る国道58号線に道の駅「おんなの駅/なかゆくい市場」と「恩納村博物館/恩納村文化情報センター」があります。この敷地の西側に沖縄県において最大級の規模で「仲泊遺跡」が残されており、第一洞穴と第二〜五貝塚で構成されています。この遺跡には貝塚と岩陰を利用した住居跡が遺り、沖縄先史時代(紀元前約1500年前)頃に利用されていたものと言われています。1954年に「第一洞穴」1959年に「第二貝塚」を戦後の沖縄考古学の草分けとして知られる「多和田淳」氏により発見されました。更に1973年に沖縄開発庁(現内閣府)による国道58号線の拡張工事の際、当時の沖縄県文化課職員により「第三貝塚/岩陰住居址」が発見されました。この「仲泊遺跡」は1975年4月7日に国に史跡に指定されています。


(第一洞穴)

(第一洞穴/入り口)

(第一洞穴/内部)

「仲泊遺跡」丘陵の東側麓に「第一洞穴」があり沖縄の先史時代後期の住居跡とされています。この小洞の床面は石敷で入り口付近に炉跡があり、奥には2〜3人が生活できる空間となっています。この洞穴の中央にある土層断面からは時代と共に地層が重なる構成を示す層序が確認する事ができます。層序は大きく分けて2層から成っており、第一層は風葬墓(約200〜300年前)として利用されていた時代の層で、第二層はそれよりも後期の生活に使われた層となっています。古琉球では風葬において遺体をまず洞穴や洞窟(ガマ)に置き自然の腐敗を待ち、3・5・7年などの時期を見て洗骨し納骨していました。洞穴や洞窟は前世の後世(グソー)の境界の世界とされ、聖域として祖霊を崇めていました。なお、現在の石敷と土層断面は保存のため合成樹脂で固めてあり、発掘当時と比べて色が変わっています。


(第二貝塚)

(第二貝塚の巨岩)

(第二貝塚上部の洞穴)



「第一洞穴」の西側にある丘陵中腹に「第二貝塚」があり、琉球石灰岩の巨岩上部とその周辺に形成された貝塚となっています。巨岩上部は沖縄先史時代中期の貝塚で、巨岩の南側傾斜地は前期の貝塚、北側の巨岩下は前期・中期・後期の遺物が混入する貝塚です。また、巨岩上部と北側の巨岩下からは佐賀県腰岳産の黒曜石の剥離片が3個発掘されました。これは約2500年前に石器を造る良質の材料を遠く佐賀県から取り入れた証拠となっています。「第二貝塚」の丘陵を更に上部に登ると洞穴があり、向かって右側には石積みの中に2基の石厨子が納められている風葬墓があります。沖縄における石厨子は第二尚氏第3代「尚真王」から第12代「尚益王」までの約200年間に集中して利用されていました。この「第二貝塚」の丘陵上部に安置されている石厨子は歴史の古い石棺であると考えられます。


(高麗人墓/高麗神)

(高麗人墓の墓門)

(高麗神の祠)

その昔、那覇市「壺屋」に朝鮮出身の陶工がいて度々「ヤンバル/山原」を往来しており、その際「仲泊」に数日宿泊するうちに集落の旧家「シチャグイ/下庫裡」の娘と相思の仲となりました。ある日、その陶工が「ヤンバル」からの帰りに「仲泊」で病死してしまいました。集落の人々は「仲泊遺跡」の崖に「高麗人墓」を設けて葬り「高麗神」として崇め、毎年「高麗神」の「シーミー/晴明祭」を行うようになりました。長い年月を経て「壺屋」在住の子孫が御骨迎えに「仲泊」に来ましたが集落の反対に遭ったと言われています。集落の旧家により行われていた「高麗神」の「シーミー」は明治30年頃から集落の一般住民に広がっていったと伝わります。現在も「高麗人墓」は「第二貝塚」の崖にあり、墓門の前にはウコール(香炉)が設置されて人々に拝されています。更に、この墓に隣接して「高麗神」を祀ったと考えられる小型の祠が鎮座しています。


(第三貝塚/岩陰住居址)

(第三貝塚/岩陰住居址)

(第三貝塚の石畳道)

「第二貝塚」の北側にある丘陵中腹に「第三貝塚/岩陰住居址」があります。岩陰の内部は沖縄先史時代後期の住居址で岩陰全面部は中期の貝塚で、発掘前の岩陰は風葬墓として利用されていました。この風葬墓には人骨・石厨子・厨子甕などが安置されており、それらを移動して調査した結果住居址が発見されました。この岩陰の奥部は地山を切り取って土面が平坦にされており、中央に炉跡があり全面部に住穴が並んでいました。発掘調査により岩陰の前面部に柱を立て壁を造り、炉を中心に生活していたと考えられるようになりました。更に住居址の一部と中期の貝塚の上部は石畳道を造る時に壊され、その下部は石畳道の下に現在も残されています。なお「第三貝塚/岩陰住居址」は国道58号線の拡張工事の際に取り壊されそうになりましたが、保存運動が起こり遺跡が保護される事になりました。


(第四貝塚)

(第四貝塚/石敷住居址)



(第五貝塚)

「第四貝塚」は「第一洞穴」の東側に隣接しており、巨岩の前面部に形成されています。沖縄先史時代の前期・中期・後期の遺跡が複合されており、後期の遺跡は2つの小岩陰に形成されたもので「第三貝塚/岩陰住居址」とほぼ同じであると考えられます。中期の貝塚は岩陰より北側で辺戸岬周辺に栄えた縄文遺跡の「宇佐浜式土器」や「カヤウチバンタ式土器」などが多く発掘されています。前期の遺跡はこの石敷住居址のある場所で、奄美系の前期土器を中心とする遺跡となっています。石敷の中に炉跡があり岩陰を利用した石敷住居址で、遺跡を囲う覆屋(おおいや)は当時の建物の復元ではなく石敷遺跡を保護するために設置されました。さらに「第四貝塚」の北東側広場には「第五貝塚」の塚があります。






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最終更新日  2023.02.17 16:15:11
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