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2023.08.31
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カテゴリ: 南風原町



沖縄本島南部の中央に位置する「南風原町/はえばるちょう」は周りを6つの市町に囲まれ、沖縄県で唯一の海に面していない町として知られています。「喜屋武/きゃん集落」は「南風原町」の南東部に位置し「本部•照屋」の2つの集落に隣接しています。かつて「喜屋武」と「本部」の間に「本部ンマイー」という馬追い(馬場)があり「照屋」との間には「メーヌシジ/前のシジ」と呼ばれる丘陵が以前あり、集落間の境界線として用をなしていました。この「喜屋武•本部•照屋」の3集落は「サンカ/三箇」と呼ばれ「本部ノロ」が管轄して祭祀が執り行われていました。さらに、この3集落は戦前から「琉球絣/かすり」の生産が盛んである共通点があります。「南風原中央公民館」の東側に隣接する「黄金森/クガニムイ」の丘陵は「イシジャー」と呼ばれる御嶽の森となっており、戦前までノロが祭祀を行った「カー/井泉」が数多く点在していました。


(イシジャー/上の御嶽)

(イシジャー/上の御嶽のウコール)

(イシジャー/喜屋武ノロの墓)

(イシジャー/喜屋武ノロの墓)

「黄金森」の西側丘陵は「イシジャー」と呼ばれる一帯で、山手から「上の御嶽・中の御嶽・下の御嶽」で構成されています。「上の御嶽」は1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」に『喜屋武之嶽 神名 イシガワノ御イベ 喜屋武村 本部巫崇所。』と記されています。「上の御嶽」の中心部には巨大な岩があり「イシジャー」及び「イシガワノ御イベ」の「イシ」はこの岩に因んでいると考えられています。また、この岩の上には厨子甕が2基あり「タカシップ」という人物のものである説があります。「ボージウシュ/坊主御主」と呼ばれた「尚 王/しょうこうおう(1787-1834年)」に遠慮せず相撲で勝ってしまった「タカシップ」が王様の家来に北谷の「ムルチグムイ」で殺されたと言われています。また「上の御嶽」の岩の背後には「喜屋武ノロ」の墓があり「喜屋武集落」がまだ「本部ノロ」の管轄になる以前に存在したノロが眠る墓であると伝わっています。


(イシジャー/中の御嶽)



(イシジャー/中の御嶽の石柱)

(イシジャー/中の御嶽のウコール)

「サチガユーヌウタキ/先の世の御嶽」とも呼ばれる「上の御嶽」の下方には「中の御嶽」があります。祠のウコール(香炉)には「上の御嶽」のと同様に『文政二年巳卯九月十三日 奉寄進 野原仁屋・仲里仁屋』という文字が刻まれています。因みに文政二年は1819年で、伝承によると「野原仁屋」は「喜屋武集落」の旧家である「前門」家の祖先、さらに「仲里仁屋」は「仲里」家の祖先で、御嶽のウコール石は2人が唐旅をした際に土産で持ち帰った石を寄進したものだと言われています。2人が旅に出る前に「イシジャー」の神に旅の安全の願掛けをし、その後無事に集落に戻って来られた事への感謝として石を奉納したと伝わったています。ウコールに刻まれた年号が日本式の年号であることから、唐への旅ではなく大和(薩摩)への旅であった可能性が高いとも言われています。また、奉納された石は船を安定させるために船底に積まれた石であったとも言われています。


(フトゥキヌメー/仏の前)

(フトゥキヌメー/仏の前)

(フトゥキヌメー/仏の前の祠)

(フトゥキヌメー/仏の前の祠内部)

「イシジャー」の南側丘陵に「フトゥキヌメー/仏の前」と呼ばれる祠があり、内部には丸型の石とウコールが祀られています。この拝所は旧暦9月9日の菊の節句で健康を祈願し、お祝い行事や無病息災を祈る場所となっています。以前は丸い石の周りに小石が7〜8個あり「フトゥキーグヮー/仏小」と言われていました。かつて「山川集落」を除く「南風原」の全ての集落の人々や南風原村役所からも代表者が参拝していました。さらに昔は「糸満」からも「フトゥキヌメー」を拝みに来ていましたが、神体の石を分けてからは来なくなったと伝わっています。戦時中においては戦争に関する祈願を行う場所になり、日本軍が南京やシンガポールに侵攻攻略した際に戦勝祝いが行われ「喜屋武集落」の青年会が軍歌を歌いながら「フトゥキヌメー」を廻ったと言われています。しかし、沖縄戦が始まると戦争に関する祈願は全て行われなくなったそうです。


(喜屋武シジの入り口)

(喜屋武シジ/日本軍兵士埋葬地点)

(喜屋武シジの頂上)



「フトゥキヌメー」の南側に「喜屋武シジ」と呼ばれる「黄金森」で1番標高が高い場所があり「シジ」とは地元の方言で「高い場所」を意味しています。「喜屋武シジ」は琉球王国時代「南風原間切」の納税完納祝いが行われ、さらに「フトゥキヌメー」を拝んだ後に「喜屋武シジ」の広場で宴会をする「喜屋武シジ拝み」も行われていました。「喜屋武シジ」の頂上は戦時中には見張り場所として利用され、周辺には米軍による激しい砲弾や爆弾の攻撃で出来たと思われる大小多数の穴や、日本軍が造った交通壕が残されています。戦後間もない頃「喜屋武シジ」一帯は「ガイコツ山」と呼ばれるほど人骨が散乱していたと伝わり、現在も戦没者の遺骨が眠っていると言われています。「フトゥキヌメー」と「喜屋武シジ」の間には「飯上げの道」が残されており「黄金森」西側の「喜屋武集落」にあった炊事場から各壕に食糧を運ぶ道として使用されていました。






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最終更新日  2023.09.01 11:57:55
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