はんぺん

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2018.04.03
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カテゴリ: 北朝鮮

北朝鮮による日本人拉致問題(ウイキペディアから)

(抜粋)

政府認定拉致被害者

日本政府が認定した拉致被害者は次の 17 久米裕、横田めぐみ、田口八重子、濱本富貴惠、地村保志、蓮池薫、奥土祐木子、市川修一、増元るみ子、曽我ひとみ、曽我ミヨシ、松木薫、石岡亨、有本恵子、原敕晁、田中実、松本京子 (肩書・年齢は当時、敬称略、被害者家族の決断により実名報道されている) 。

この内 5 名は日本に帰国。 2007 年(平成 19 年) 4 12 日、警察庁はこれに加え北朝鮮工作員と結婚した日本人女性の子供 2 人(当時長女が 6 歳と長男が 3 歳)が 1974 年(昭和 49 年) 6 月中旬に行方不明になった事案について、複数の工作員関係者からの証言などから「北朝鮮による拉致被害者と断定した」と正式発表した( 2 児拉致事件)。よって同事案は政府認定拉致被害者にかかる拉致事件と同様に政府認定の拉致事件であるが、被害者たる子供 2 人が朝鮮籍であり、日本国民であることを要件とする拉致被害者支援法の認定基準には該当しないため、子供 2 人は拉致被害者としては認定されていない [11][7][12] 2007 10 30 日現在)。



宇出津(うしつ)事件

1977 年(昭和 52 年) 9 19 日拉致東京都三鷹市役所勤務警備員男性、久米裕( 1925 ( 大正 14 )2 17 - 当時 52 歳)石川県宇出津海岸付近にて失踪北朝鮮側は久米の入国を完全否認しているが、北朝鮮工作員に包摂され土台人にされた在日朝鮮人・李秋吉が「 45 歳から 50 歳位の日本人独身男性を探せ」との指示を受け、かねてから知り合いであった久米を海岸に連れ出し、不審船(工作船)で迎えに来た別の北朝鮮工作員に同人を引き渡した事実が判明している [13] 。この 1 件だけで、「拉致したのは 13 人だけ」との北朝鮮の主張は嘘であることが分かると指摘されている。警視庁公安部と石川県警察は主犯格の金世鎬(キム・セホ)を国際手配し、北朝鮮に対し所在の確認と身柄の引き渡しを要求している。なおこの事件で石川県警察警備部は押収した乱数表から暗号の解読に成功した [13] ことが評価され、 1979 年に警察庁長官賞を受賞している。この事実は長年秘匿事項とされ、単に朝鮮半島に向けて不法に出国をした日本人がいたという小さな話題として報道された。このことが、日本海沿岸部に居住する国民の防犯意識を弛緩させ、後述の拉致事件を招いたとする論調も一部にある。ただし、乱数表およびその解読の事実を公開した場合は、工作員による事件関係者の抹殺や、新たな情報の収集困難を招き、ひいては事件解決が困難になるリスクも伴い、警察庁の立場からは安易に公開に踏み切るわけにはいかない事情があったことも考慮する必要がある。なお、李は起訴猶予処分となり日本への帰化を許され、日本国民・大山秋吉として現在も都内で自営業を営んでいる。

少女拉致事案

1977 年(昭和 52 年) 11 15 日拉致新潟の女子中学生、 横田めぐみ 1964 ( 昭和 39 )10 5 - 当時 13 歳)新潟県新潟市において新潟市立寄居中学校からの下校途中に自宅付近(現中央区西大畑町、新潟大学付属新潟小学校前)にて失踪。新潟県警察は、失踪直後から誘拐事件として捜査を行ったが、何の手がかりも得られなかった。

北朝鮮側の説明によれば、横田めぐみは 1986 年に結婚し、 1987 年に一児(キム・ウンギョン)を出産するも、 1994 4 月( 2002 10 月の報告では「 1993 3 月」としていたが後に訂正)に入院先の病院で自殺、 1997 年に火葬したとしている。 2004 11 月の日朝実務者協議を通じ、横田めぐみ本人の「遺骨」として提供された骨の一部からは、 DNA 鑑定の結果、別人の DNA が検出された(「ニセ遺骨問題」も参照) 遺体は未確認。 2006 6 29 日に行なわれた会見で、横田めぐみの夫とされる金英男は、「めぐみは 1994 年に自殺した」と述べた。

この発言について、彼女の両親である横田滋・横田早紀江夫妻は「予想通りの証言。こういうことを平気で言わせる国(北朝鮮)にはらわたが煮えくり返るばかりだ」とした。また、安倍晋三内閣官房長官(当時)も「発言内容は信憑性がない」とした。帰国した拉致被害者たちの証言によると、 1978 年(昭和 53 年) 8 18 日から 1980 年(昭和 55 年)頃まで平壌市内で曽我ひとみと同居し、 1984 年(昭和 59 年)頃には平壌郊外の中和郡忠龍里にある日本人居住地で拉致被害者田口八重子および工作員女性 1 名と同居していたとされている [14] 1986 年(昭和 61 年)に平壌へ転居した後、 1994 年(平成 6 年)頃までは地村夫妻や蓮池夫妻と同じ地区で暮らしていたとされている [14] 1997 年には、朝鮮労働党書記の一人が朝鮮総連を通さずに直接当時の橋本龍太郎政権に対し非公式に横田めぐみの生存を伝えたという報道 [15] がなされたことがあり(通知が事実であれば当然のことながら 1994 年死亡という自らの説明と矛盾する)、横田めぐみの火葬をしたとされる「オボンサン火葬場」も、火葬をした 1997 年当時には無く 1999 年に建設されたものだと複数の脱北者が証言している [16] 。また、帰国した地村富貴恵が「(自殺より後の) 1994 6 月にめぐみさんが隣に引っ越してきた」と証言している [17] 。また 2011 年には、韓国自由先進党議員の朴宣映が脱北者から得た北朝鮮高官の話として「横田めぐみは生存しており、知ってはいけないことを知りすぎたため日本に帰すことができず、他人の遺骨を日本側に渡した」とする証言を日本政府に伝えている [18][19] 。さらに週刊朝鮮の報道によって 2005 年に作成された北朝鮮平壌市民名簿に横田めぐみとみられる記載があったことも確認されている [20] 。なお、失踪直後に自宅近くの日本海の方から暴走族の爆音に似た音を近隣住民の多くが聞いていることがわかっており、ジャーナリストの石高健次は、 1971 年の加賀市沖不審船事件同様に不審船から発せられた船舶用ディーゼルエンジンの音ではないかと推測している。横田めぐみに関して中国では、彼女は病死したのでもなく事故死でもなく自殺でもなく、処刑され、骨は他の処刑者と一緒に火葬したため行方が知れず、故に偽物の骨を提出したという見方もある [21] 。横田めぐみは北朝鮮で金賢姫の同僚工作員金淑姫に日本語の指導を行っていたとされる [22] 。また、金正恩の母が早くに亡くなったため、彼を育て上げたのは横田めぐみとの説がある [23]

李恩恵(リ・ウネ)拉致事案

1978 年(昭和 53 年) 6 29 日頃拉致東京の飲食店員、 田口八重子 1955 ( 昭和 30 )8 10 - 当時 22 歳)帰国した拉致被害者たちの証言によると、 1984 年(昭和 59 年)頃には平壌郊外の中和郡忠龍里にある日本人居住地で横田めぐみおよび工作員女性 1 名と同居していた 1986 年(昭和 61 年)に平壌へ転居し、 10 月には地村富貴恵と平壌市内の百貨店で会っている。蓮池薫の証言によると、その後田口八重子は敵工地と呼ばれるところに行ったとされている [14] 1987 11 月の大韓航空機爆破事件で有罪判決を受けた 北朝鮮のスパイ(諜報員)金賢姫(キム・ヒョンヒ)は、「李恩恵(リ・ウネ)」という女性から日本人の立ち居振る舞いを学んだと主張している 。この李恩恵については金賢姫の供述を基に似顔絵が作られ、 1988 年(昭和 63 年)頃全国各地に「昭和 55 年以前に行方不明になったこの女性を知りませんか」というポスターが貼られている。その後埼玉県警察警備部の調べで 1991 年(平成 3 年)に、「李恩恵」が行方不明となった田口八重子と同一人物であると推定されている。しかし彼女の家庭が複雑な事情を抱えており、まだ幼い子供のことを考えた家族からの要請で実名での報道を控えてほしいとの要請があり、特定には時間を要した。日本の警察庁から 2 人の担当官がソウルへ行き、ソウル大使館政治部の警察庁出身の者を同行させ金賢姫と面会した。教育に当たった李恩恵という女性は拉致された田口八重子ではないかということで、同年輩の女性の顔写真 10 枚ほどが準備された。田口八重子の写真をこの中に混入し、「このなかに教育に当たった女性がいるか」と金賢姫に示した。 1 1 枚写真を見ていた彼女は田口八重子の顔写真を見て、「この人です」と言ったという。李恩恵は拉致された田口八重子であることが確認された。 2009 3 月、金賢姫は田口八重子の親族と釜山で面会した [24] 。地村富貴恵の証言によると、北朝鮮に上陸した際、子供が日本にいるから帰してほしいと訴えたとされている [14] 。また、工作員となって海外に渡り、日本大使館に駆け込もうと計画していたが、北朝鮮側に工作員になれないと言われ断念したとされている [14] 。北朝鮮側の説明によれば、田口八重子は 1984 年に日本人拉致被害者(原敕晁 下記 9 参照)と結婚、 1986 年(昭和 61 年)の同男性の病死後、 1986 年(昭和 61 年) 7 月に自動車事故で死亡したとしている。しかし、北朝鮮側は遺体が洪水で流失したとしており、遺体の確認はされていない。また、李恩恵なる人物の存在を否定している。

アベック拉致事案(福井県)

1978 年(昭和 53 年) 7 7 - 8 日拉致小浜の大工見習い、 地村保志 1955 ( 昭和 30 )6 4 - 当時 23 歳)、被服店(ブティック)店員、 濱本富貴惠 1955 ( 昭和 30 )6 8 - 当時 23 歳)福井県小浜市で拉致。実行犯は北朝鮮工作員、辛光洙(シン・グァンス)である [25] 2 人は 1979 年(昭和 54 年)に結婚。 1984 年(昭和 59 年)から 1986 年(昭和 61 年)まで平壌郊外の中和郡忠龍里にある日本人居住地で暮らした後、平壌市内に転居している [14] 2002 年(平成 14 年) 10 月に日本に「一時帰国」として返されたが、本人の意思を確認した上で、日本政府が強く保護し北朝鮮に返さなかった。 2004 年(平成 16 年) 5 22 日、日朝首脳会談の結果を受け、娘 1 人と息子 2 人も日本に帰国を果たした。

アベック拉致事案(新潟県)

1978 年(昭和 53 年) 7 31 日拉致中央大学法学部生、 蓮池薫 1957 ( 昭和 32 )9 29 - 当時 20 歳)、化粧品会社社員、 奥土祐木子 1956 ( 昭和 31 )4 15 - 当時 22 歳)新潟県柏崎市で拉致。「ちょっと出かける。すぐ帰る。」と言って外出したまま消息を絶つ。同様に奥土も外出したまま両名が拉致される。実行犯は北朝鮮工作員、チェ・スンチョルである [25] 2 人は 1980 年(昭和 55 年) 5 月に結婚、 1984 年(昭和 59 年)から 1986 年(昭和 61 年)まで平壌郊外の中和郡忠龍里にある日本人居住地で暮らした後、平壌市内に転居している [14] 2002 年(平成 14 年) 10 月に地村らと共に日本に帰国。 2004 年(平成 16 年) 5 月、残された子供( 1 1 女)も日本に帰国を果たした。

アベック拉致事案(鹿児島県)

1978 年(昭和 53 年) 8 12 日拉致電電公社職員、 市川修一 1954 ( 昭和 29 )10 27 - 当時 23 歳)、鹿児島の事務員、 増元るみ子 1953 ( 昭和 28 )11 1 - 失踪時 24 歳)鹿児島県日置郡、吹上浜キャンプ場で拉致。北朝鮮側の説明によれば、 2 人は 1979 7 月( 2002 10 月の報告では「 1979 4 月」としていたが後に訂正)に結婚したが、市川は 1979 9 月に海水浴場で心臓麻痺により死亡。増元も 1981 年に心臓麻痺のため死亡したとしている。しかし、北朝鮮側は、両人とも遺体が洪水で流失したとしており、遺体の確認はなされていない。一方、北朝鮮元工作員・安明進は、北朝鮮が死亡したとした日時の後、 1988 年から 1991 年にかけて「何回も二人を見た」と証言している。

母娘拉致事案(新潟県)(娘)

1978 年(昭和 53 年) 8 12 日拉致佐渡の准看護婦、 曽我ひとみ 1959 ( 昭和 34 )5 17 - 当時 19 歳)新潟県真野町(現:佐渡市)において母親と 2 人で買い物に出かけた帰り道、佐渡で拉致。 1978 年(昭和 53 年) 8 18 日から 1980 年(昭和 55 年)頃まで平壌市内で横田めぐみと同居した [14] 後、 1980 年(昭和 55 年) 8 月に 元アメリカ兵 チャールズ・ジェンキンス と結婚。 1983 年(昭和 58 年) 6 月に長女出産、 1985 年(昭和 60 年) 7 月に次女出産。 2002 年(平成 14 年) 10 月に日本に帰国。夫および 2 人の娘については、 2004 ( 平成 16 )5 月の日朝首脳会談の結果を踏まえ、夫と子ども( 2 女)は北朝鮮政府の与えた虚偽情報に基づき日本行きを拒否していたが、同年 7 9 日、インドネシアのジャカルタにて再会し、 7 18 日一家 4 人で日本に帰国。北朝鮮は、曽我ミヨシ( 46 歳)については、「日本国内の請負業者が拉致し曽我ひとみ一人を受け取った」と主張しているが、日本政府は、曽我ミヨシを拉致認定している。

母娘拉致事案(新潟県)(母) [ 編集 ]

1978 年(昭和 53 年) 8 12 日拉致佐渡の准看護師の母、 曽我ミヨシ 1931 ( 昭和 6 )12 28 - 当時 46 歳)曽我ひとみは佐渡で上記の准看護婦と買い物帰りに同時に失踪。北朝鮮拉致認定。北朝鮮側は、佐渡の准看護婦の母(失踪時 46 歳)は北朝鮮に入国していない旨を主張し関与を否定。曽我ミヨシの消息は全く不明。

欧州における日本人男性拉致容疑事案

1980 年(昭和 55 年)拉致京都外国語大学大学院生、 松木薫 1953 ( 昭和 28 )6 13 - 当時 26 歳) 1980 年(昭和 55 年) 5 月頃、欧州にて失踪。北朝鮮側情報では、本人が北朝鮮行きの勧めに応じたとしている。同年 6 月にスペインのマドリードにて拉致。松木は、 石岡亨 と共に 「よど号ハイジャック事件」 の犯人グループの妻 2 (森順子・若林佐喜子) により拉致されたことが警察の調べで判明している。北朝鮮側情報では、 1996 8 23 日に自動車事故で死亡したとしている。 2002 年(平成 14 年) 9 月に派遣された日本政府調査チームは、北朝鮮側より「松木のもの」とする遺骨の提供を受けたが、法医学的鑑定の結果、別人のものであることが確認されている。また、 2004 年(平成 16 年) 11 月の日朝実務者協議の際に先方から提供された松木の「遺骨」である可能性があるとされた骨の一部からも、 DNA 鑑定の結果、別人の DNA が検出された。② 1980 年(昭和 55 年) 5 月頃拉致日本大学学生、石岡亨( 1957 ( 昭和 32 )6 29 - 当時 22 歳) 1980 5 月頃、欧州にて失踪。北朝鮮側情報では、本人が北朝鮮行きの勧めに応じたとされ 1980 6 月スペインにて拉致。 1980 4 月にスペインの動物園でよど号メンバーの妻 2 (森順子・若林佐喜子) と一緒に撮影された写真が存在する。また、石岡亨のパスポートが北朝鮮によって偽造パスポートの原本に利用され、発効日が同じで旅券番号が異なる偽造パスポートが北朝鮮工作員やよど号グループの柴田泰弘や日本赤軍の戸平和夫が使用していたことが確認されている。北朝鮮側によれば、 1985 12 月に拉致被害者(下記 8-3. 有本恵子)と結婚、 1986 年に長女が誕生するが、 1988 11 4 日ガス中毒で一家全員死亡したとしている。 1995 8 月に北朝鮮側は遺体が洪水で流失したと説明しており、遺体の確認はされていない。

※ 警視庁公安部は「よど号」犯人の妻の森順子・若林佐喜子を国際手配し、北朝鮮に対し所在の確認と身柄の引き渡しを求めている。






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最終更新日  2018.04.03 00:00:12
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