現実から、目を逸らす人たちの事・・・彼らに政治を語る資格は無い 2026-4-10 はんぺん
誰が 「平和憲法」 と名付けたのだろうか? 戦後の日本では、この言葉が、一人歩きしていった。
そう、 この憲法が、日本の平和を守ってくれるハズ・・・という「過ち=幻想」を拡散 していく。
いまだに、 日本共産党 や 社民党の福島瑞穂 は、 「平和憲法を守ろう」 と叫び続けている・・・
戦後の日本では、惨禍を経験した多くの国民は、戦争の記憶を引き継ぐ中で、リベラルたちの主張する (非武装)(戦争放棄) が、恒久平和の保証と思えたのだ。
しかし、 この「憲法」は(平和)を守ってくれる代物では、決して無い 事が、次第に明らかになっていく・・・それには、本当に長い時間が、掛かった・・・・・・
現実を見る事の大切さ・・・戦後に生じた多くの紛争などは、それを示して余りある。直近で言えば、 ウクライナ侵略戦争 だ。 大国ロシアが、主権国家ウクライナに、軍事力を行使して、攻め込んだ 。ウクライナが (非武装国家)(戦争放棄国家) だったら、どうなっていただろうか?? 答えは、明らかだ。
「平和憲法を守れ」 の 日本共産党・社民党・新社会党・MDS などのリベラルは、すでに 「破産」 している!!! なぜ 現実 を見ないのか? 真実 を見ないのか? 歴史 から学ぼうとしないのか?
・・・・・僕には、理解不能なのだ!!
皆さんは、どう思われるか? はんぺん
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(朝日新聞:声)平和のバトン 身重の母気遣った父の軍事郵便 2025 年 11 月 22 日 無職 Y さん(秋田県80歳) 朝日新聞
「憲法9条を守ることと、『愛』という言葉を大事にすること。『愛』とは他者を思いやる優しい心です」。高校2年の孫との手紙の最後には毎回こう書きます。平和の実現のために大切だと思うからです。
父は1945年2月28日、フィリピン・ルソン島で戦死しました。26歳の誕生日からわずか6日後。私を抱くことはかないませんでした。
3年前、100歳で父の元に旅立った母は、父のことはあまり話してくれませんでした。唯一残る形見は1通ずつの手紙とはがき。手紙は駐屯地と思われる広島から、はがきはフィリピンからの軍事郵便です。身重の母を気遣い、子の名前を提案するなどの内容で、日付はなく、当時の検閲の厳しさを思わせます。
高市政権発足後、急速に軍拡路線に入ったようで、戦前に逆戻りするのではと気が気ではありません 。孫がいつまでも「戦争を知らない世代」であることを願っています。
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(注:はんぺん)
この「声」は、残念の一言だ。 「急速に軍拡路線に入ったようで、戦前に逆戻りするのでは」(本文) は、リベラル派が繰り返してきた (過ち) そのものだから。
ここには (極東アジアにおける、全体主義の脅威) などの認識は、皆無だ。
中国や北朝鮮などの独裁政権=全体主義による威嚇と挑発が繰り返されている時に、 「戦前に逆戻り???」 はぁ?? それでは、どうしたら全体主義(独裁国家)による侵略から、日本を守るのだろうか?
(戦後リベラル派の無責任) を地で行くような、この「声」には、ガッカリ・・・と言うほかない!!
朝日新聞は、この手の無責任さをベースにした報道を繰り返してきた。そう 「戦前に逆戻り」 とか 「憲法9条を守る」 などで、目の前の危機には、知らぬ顔で、スルーしてきた。これは、 (報道) という使命を放棄したと言っても過言ではないように思う。
朝日新聞は、 「護憲」「9条守れ」 で、どうやって、「守る」事が出来るのか? 真剣に答えるべきだろう!!!!!!(はんぺん)
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(朝日新聞:声)平和のバトン 引き揚げ、腕1本が分けた運命 2025 年 11 月 22 日 パート I さん(神奈川県 76 歳) 朝日新聞
これは、戦時中、樺太にいた母から何度となく聞いた話である。
終戦間際の1945年8月、ソ連が樺太に侵攻。母が畑仕事をしていると、ソ連兵を指す「ロンペイ」が来るぞ!と触れ回る声が。母は大急ぎで15歳と8歳の姉、4歳の兄を連れ、避難船の乗り場へ向かった。
並んで待つ間、母が後ろの人と話していると、長姉が母の腕を強く引いた。母と後ろの人との間にできたすき間に係員の腕が入り、「ここまでです!」。母たちが最後に乗った船は無事、稚内へ着いた。後の横綱大鵬も同じ船だったそうだ。だがソ連の魚雷に沈められた船もあった。
帰国後、引き揚げ者に対する周りの態度は冷たかった。親族は家にも上げてくれず、住まいは水車小屋の米つき場だった 。寒い日はすきま風が容赦なく吹き込み、ひもじさの極致だったという。父は終戦の2年後に樺太での抑留が解かれて帰国。家族と再会した後、私が生まれた。
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(注:はんぺん)
「帰国後、 引き揚げ者に対する周りの態度は冷たかった 。親族は家にも上げてくれず、住まいは水車小屋の米つき場だった。寒い日はすきま風が容赦なく吹き込み、ひもじさの極致だったという。」(本文) ・・・・この戦争では、多くの国民が、犠牲になった。生き残った人々も、困窮を極めたのが この戦争だ。
この原因を作ったのが、 ヒロヒト(裕仁)だった ことを、忘れるな!!!!
日本のマスコミは (菊タブー) で、皇室の関する報道には、自主規制を行ってきた。しかし、これは(報道)の建て前からして、おかしいだろう。
ヒロヒト(裕仁)の戦争 で、多くの不幸・・・というか、筆舌に尽くしがたい惨禍をもたらしたのだ。 ヒロヒト(裕仁)たちの(戦争責任) を日本人は、忘れてはならない!! 決して・・・だ!!! (はんぺん)
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